児島 正一郎(こじま しょういちろう、1875年1月1日 -… 児島 正一郎(こじま しょういちろう、1875年1月1日 - 1900年7月4日)は、日本の明治時代の外交官。父は大審院長を務めた児島惟謙。 1875年(明治8年)1月1日に児島惟謙の長男として東京府神田に生まれる。1881年(明治14年)に錦華小学校(現千代田区立お茶の水小学校)に入学するが、1883年(明治16年)に父が大阪控訴院長となったことから、大阪師範学校(現大阪教育大学)附属小学校に転じる。 同志社普通学校(現同志社中学校・高等学校)を経て、1891年(明治24年)に東京に戻り、商工中学校(現日本大学第三中学校・高等学校)を経て、高等商業学校(現一橋大学)に進学し、1894年(明治27年)に卒業。
千坂洋三郎(ちさか ようざぶろう、明治8年1月(1875年1… 千坂洋三郎(ちさか ようざぶろう、明治8年1月(1875年1月) - 昭和15年(1940年)12月14日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中佐。 米沢藩士・千坂高雅の三男として生まれる。 明治29年(1896年)11月26日陸軍士官学校(第8期)卒業、明治30年(1897年)6月28日陸軍少尉任官。 明治31年(1898年)歩兵第5連隊付、明治32年(1899年)11月17日陸軍中尉任官。明治36年(1903年)歩兵第31連隊中隊長、明治 37年(1904年)戦時大本営陸軍部管理部 副官歩兵大尉、明治42年(1909年)5月20日陸軍少佐任官。明治 45(1912年)第二師団副官、大正3年(1914年)歩兵第3連隊大隊長 、大正4年(1915年)12月23日陸軍中佐任官、同日予備役編入。
広瀬 直幹(ひろせ ちょくかん、1875年(明治8年)1月 … 広瀬 直幹(ひろせ ちょくかん、1875年(明治8年)1月 - 1936年(昭和11年)5月2日)は、日本の内務官僚。官選宮崎県知事。旧姓・豊田。 香川県出身。豊田官吾の二男として生まれ、広瀬トセの養子となる。第三高等学校を卒業。1904年、京都帝国大学法科大学を卒業。1905年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し栃木県属となる。 以後、栃木県警視、北海道庁事務官・第二部長、群馬県事務官、和歌山県事務官・警察部長、内務書記官、長野県内務部長、徳島県内務部長、長崎県内務部長などを歴任。 1919年8月、宮崎県知事に就任。新設の県立中学校について、前堀内秀太郎知事が飫肥町(現日南市)に設置の内定を出していたが、広瀬に引き継がれなかったのか下穂北村(現西都市)に設置を約束した(妻中学校)。
藤井 新八郎(ふじい しんぱちろう、1875年(明治8年) … 藤井 新八郎(ふじい しんぱちろう、1875年(明治8年) - 1948年(昭和23年))は、日本の医師。秋田県仙北郡六郷町(現・美郷町)六郷字本道町出身。六郷町長も務めた。 本道町の角に住み、「ゲンジ」さんと呼ばれていた町医者である藤井玄瑞の長男。六郷町における医者が3代続く家系だった。1891年(明治24年)、秋田中学(現・秋田県立秋田高等学校)を卒業し、第一高等学校へ進学。1896年(明治29年)には、帝国大学医科大学(大学名は1897年に東京帝国大学に改称)へ入学し、1901年(明治34年)に卒業した。卒業当初は同大学病院の副手、のち松江市の病院へ赴任する。 その後、郷里へ帰り、六郷町において、初めて開業した帝大卒の医学士となる。
土屋 純一(つちや じゅんいち、1875年 - 1946年)… 土屋 純一(つちや じゅんいち、1875年 - 1946年)は、建築史家。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
小川 關治郎(おがわ せきじろう、1875年〈明治8年〉 -… 小川 關治郎(おがわ せきじろう、1875年〈明治8年〉 - 1966年〈昭和41年〉)は、日本の陸軍法務官。甘粕事件や二・二六事件で軍法会議に携わった人物として知られる。 1875年(明治8年)、愛知県海東郡木折村(現在の愛知県あま市)に生まれた。20歳頃までは同地にて過ごしたものの幼少の頃より向学心が強く、中学卒業後は一度就職したが1898年(明治31年)に明治法律学校(現在の明治大学)に入学している。 大学では座布団がすり切れるほどに国史・法律の勉強を重ねたと言われている。卒業年次は不詳ながら、1904年(明治37年)12月には司法官試補を命ぜられて、当時の『官報』では、横浜地方裁判所及び同検事局並びに横浜区裁判所及び同検事局において「事務修習スヘシ」と記されている。
細木 之伴(ほそき ゆきとも、1875年〈明治8年〉 - 1… 細木 之伴(ほそき ゆきとも、1875年〈明治8年〉 - 1945年〈昭和20年〉2月)は、日本の実業家、政治運動家、民政党院外団の壮士。占術家・細木数子の父。 高知県幡多郡八束村(現・四万十市)出身。実母は小野藤で、小野家は土佐国(現・高知県)で代々代官をしていた名家であった。父方の細木姓を名乗った。 十代の頃東京に出て、神田神保町にあった永易弁護士事務所というところに書生のような形で入り込んだ。1906年、明治大学卒業、明法学士である。身の上その他判断を行う(商号は月桂堂)。 民政党院外団の壮士として活動した。新聞沙汰になるような事件を起こして東京を離れ、富山へ逃げた。 落合の家では一時、高島易断支部の看板をかけ、本部から文句が出てやめてからは、生命保険会社の代理店を始めた。
三浦 修吾(みうら しゅうご、1875年〈明治8年〉 - 1… 三浦 修吾(みうら しゅうご、1875年〈明治8年〉 - 1920年〈大正9年〉)は、日本の教育者である。 福岡県浮羽郡吉井町若宮(現うきは市)出身。 福岡師範を卒業後、東京高等師範に進学し、その英語科を卒業。鹿児島師範を経て、姫路師範に転出。鹿児島師範当時の教え子に、玉川学園を創立した小原国芳がいる。同付属小学校主事となる。姫路師範在職2年で結核に罹り、1915年(大正4年)退職。療養生活の中でも執筆などの活動は継続、上京して成蹊学園の機関誌『新時代』の編集主任を務める。45歳で死去。クリスチャンであった。 『学校教師論』が名著の誉れが高い。戦前の東京府青山師範学校では、教育学の教科書に使われていたという。
田畑 染(たはた そめ、1875年 - 1952年)は、日本… 田畑 染(たはた そめ、1875年 - 1952年)は、日本の婦人運動家。旧姓:斎藤。 山形県八幡町(現在の酒田市)出身。1911年に草木尋常小学校の代用教員となり、1913年に夫の良吉とともに七滝尋常小学校に勤務した。1920年に良吉の転勤で秋田市に転居した。 1930年に婦選獲得同盟秋田支部を結成し、幹事を務めた(このときの幹部には和崎ハルなどがいた)。全日本婦選大会にも参加し、軍事予算反対などの発言を行った。 1952年、岩手県で死去した。
藤田 秀太郎(ふじた ひでたろう、1875年 - 1960年… 藤田 秀太郎(ふじた ひでたろう、1875年 - 1960年)は、日本の眼科学者。
葦津 洗造(あしづ せんぞう、1875年 - 1927年1月… 葦津 洗造(あしづ せんぞう、1875年 - 1927年1月3日)は、日本の神職。筥崎宮宮司。 福岡市出身。筥崎宮の社家に生まれる。筥崎宮宮司と香椎宮宮司を務めた葦津磯夫の長男、葦津耕次郎の兄、葦津珍彦の伯父。 1891年福岡県立尋常中学修猷館を経て、神宮皇學館を卒業。1904年高良神社宮司となり、1908年筥崎宮宮司に就任。その後終生同宮に奉じた。 1913年福岡県神職会(福岡県神社庁の前身)副会長に推され、没するまでその地位にあった。
久世 庸夫(くせ つねお、1875年 - 1945年7月31… 久世 庸夫(くせ つねお、1875年 - 1945年7月31日)は、日本の政治家、大蔵官僚。 第8,9,12,13代福岡市長。
阪田 貞明(坂田貞明、さかた さだあき、1875年 - 19… 阪田 貞明(坂田貞明、さかた さだあき、1875年 - 1923年9月5日)は、日本の都市計画家、官庁土木技術者。東京出身。1919年から、推されて横浜市市区改正局長に転任、1922年の職制改正により同市初代の都市計画局長就任。また水道課長、水道ガス局長まで兼務し、横浜市の都市計画事業に奉じる。1923年、関東大震災発生後復興の最中に病没。震災の際に都市計画の関連資料も焼失、成果は一部しか日の目をみていない。 京都帝国大学理工科大学土木工学科に第一期生として入学。大学在学時に建設中の八幡製鐵所で土木工事の嘱託。1900年卒業後、内務省入省。第一区(東京)土木監督署に配属、利根川改修工事に従事。1906年、本省土木局勤務。
上松 蓊(うえまつ しげる、 1875年 - 1958年)は… 上松 蓊(うえまつ しげる、 1875年 - 1958年)は、日本の実業家。古河鉱業門司支店長を務めたのち、製紙会社を興した。また、南方熊楠の門弟として熊楠を支援し、小畔四郎・平沼大三郎と共に熊楠門の三羽烏といわれた。 1875年生まれ。新潟県長岡出身。安部井磐根(衆議院副議長)の猶子となる。 東京英語専修学校(現・立教大学)を卒業後、古河鉱業に入社。 その後、同社門司支店長となるが、40歳になる前に退職し、東京で製紙会社を興して経営する。 同郷の友人である小畔四郎の紹介により南方熊楠と知り合い、南方の支援を行うようになる。現存する南方の上松に宛てた書簡は500通にも及ぶが、最初の書簡は、1914年(大正3年)12月9日付のもので、当時、上松は39歳であった。
佐田 弘治郎(さだ こうじろう、1875年 - 1952年7… 佐田 弘治郎(さだ こうじろう、1875年 - 1952年7月13日)は、日本のジャーナリスト、調査研究員(リサーチャー)。南満洲鉄道調査課長を務め、中国を始めとする東アジア地域に加え、ロシアやソ連、ドイツなどの欧州地域の調査活動を行った。 1875年(明治8年)生まれ。 1897年(明治30年)、立教専修学校(現・立教大学)卒業。 その後、南満洲鉄道に入社。満鉄調査課に所属し、調査課長を務める。 1927年(昭和2年)には、『東部内外蒙古調査報告』を取りまとめたが、これは満鉄調査団として、調査地域における「牧畜、農業、工業及地質等の経済事情並運有交通、行政財政、宗教教育、人情風俗、気象衛生等に関する諸事情を明らかにし以て日支の共存共栄、蒙古の開発、対蒙貿易促進其の他に資せんとする目的を以て」調査に臨むという意図で行われたものであった。
森 喜平(もり きへい、1875年〈明治8年〉- 1969年… 森 喜平(もり きへい、1875年〈明治8年〉- 1969年〈昭和44年〉2月22日)は、日本の政治家。息子は根上町長を務めた森茂喜。内閣総理大臣を務めた森喜朗の祖父である。 石川県能美郡根上村(のち根上町、現在の能美市)に江戸時代、庄屋を務めた旧家に生まれる。幼少時から俊才の誉れ高く、周囲から一目置かれる存在であった。 1917年、推挙されてに根上村長に就任。1934年には根上町の町制施行にともない町長に就任した。途中4ヶ月間を除き、28年間にわたって村政、町政を預かり、村民(町民)の生活水準向上に大きく貢献した。また、その影響力は村内(町内)にとどまらず、石川県政の重鎮として長く影響力を保持した。
大関 久五郎(旧字体: 大關 久五郞、おおせき きゅうごろう… 大関 久五郎(旧字体: 大關 久五郞、おおせき きゅうごろう、おおぜき ひさごろう、おおぜき きゅうごろう、1875年 - 1918年11月10日)は、日本の地理学者。 氷河地形研究のファイターと呼ばれ、その研究成果を『地学雑誌』『地質学雑誌』などに次々と発表した。 1875年、青森県三戸郡館村(八戸市)に生まれる。三戸郡売市小学校と、同校の初等科・高等科を経て、青森県師範学校(現・弘前大学)に入学し、22歳で卒業。青森県三戸郡湊尋常小学校訓導となる。翌年、高等師範学校(のち東京高等師範学校)に入学し、三宅米吉・矢津昌永らの指導を受け、1901年に本科地理歴史部を卒業する。高等師範学校助教諭兼訓導に任ぜられ、附属中学校の地理科の教官となった。
加藤 景雲(かとう けいうん、1875年 - 1943年)は… 加藤 景雲(かとう けいうん、1875年 - 1943年)は、明治時代から昭和時代初期に活躍した彫刻家である。高村光雲の弟子であり、木彫の鬼才と言われた。岡倉天心を会頭とした日本彫刻会を立ち上げた6人の初期メンバーの一人である。近代彫刻の発展に尽力した。 1875年(明治8年)5月9日、宮大工 加藤惣太郎の次男として、島根県安来市荒島町に生まれる。本名は喜次郎。小学校を卒業すると家業の宮大工を習い、建築彫刻、寺社彫刻を学ぶ。 18歳の時八幡町の欄間に龍を彫って評判を取る。 1895年(明治28年)米原雲海の勧めで上京し、高村光雲のもとで5年間修行する。光雲塾における木彫手本の模写は常に満点であったと伝えられる。
狩野 雄一(かのう ゆういち、文久3年11月21日(1863… 狩野 雄一(かのう ゆういち、文久3年11月21日(1863年12月31日) - 大正12年(1923年)4月29日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会)。 肥前国佐賀郡赤松(現在の佐賀県佐賀市)出身。狩野玄介、タキ夫妻の長男として生まれる。西肥日報社の経営にあたった。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙で当選を果たした。
長瀬 富郎(ながせ とみろう、文久3年11月21日(1863… 長瀬 富郎(ながせ とみろう、文久3年11月21日(1863年12月31日) - 明治44年(1911年)10月26日)は実業家。花王の創業者。 美濃国恵那郡福岡村(現在の岐阜県中津川市福岡)の造り酒屋に生まれる。12歳の時に、母親の実家である加茂郡神土村(後の加茂郡東白川村神土)へ奉公に出る。17歳のとき奉公先の店主の弟が独立したのに従い店を移る。 23歳の時に、店を辞め上京する。150円の資金で米相場を張っても失敗し、無一文になる。この時の挫折を教訓とし、「堅実に生きる」事を終生の誓いとする。 出直すべく日本橋馬喰町の小物問屋に入店、経営を任されるまでになる。その後1887年、23歳で独立を果たし「長瀬商店」(のちの花王)を馬喰町2丁目に創業する。
大槻 龍治(おおつき りゅうじ、1863年12月27日(文久… 大槻 龍治(おおつき りゅうじ、1863年12月27日(文久3年11月17日) - 1927年(昭和2年)6月25日)は、日本の官僚、鉄道実業家である。陸軍中将の白石通則は義理の兄弟。 宮城県出身。仙台藩士の大槻武治の次男だったが、兄の大槻栄行の養子となり家督を継ぐ。1890年に帝国大学法科を卒業した後に農商務省に入省し、1902年には参事官に任じられた。神奈川、京都、鳥取の各参事官、大蔵省主税官、長崎税関長などを歴任し、1905年に大阪税関長に就任し、1913年6月に熊本税務監督局長に就任した。 1915年から1927年までに大阪電気軌道社長を務め、債務の整理を行い、建設費の高騰で苦しんでいた大軌を再建した。
志賀 重昂(しが しげたか、文久3年11月15日(1863年… 志賀 重昂(しが しげたか、文久3年11月15日(1863年12月25日) - 昭和2年(1927年)4月6日)は、日本の地理学者、評論家、教育者、衆議院議員。誕生日は9月15日(1863年10月27日)ともいう。矧川(しんせん)・矧川漁長を号した。
黒田 定治(くろだ さだはる、文久3年11月12日(1863… 黒田 定治(くろだ さだはる、文久3年11月12日(1863年12月22日) - 大正3年(1914年)4月13日)は、日本の教育者。 越後国高田城下(現在の新潟県上越市)出身。1884年(明治17年)、東京師範学校(のち東京高等師範学校)中学師範学科を卒業し、附属小学校訓導、本校訓導、同助教諭を歴任した。1890年(明治23年)より3年間、イギリス・フランス・ドイツに留学した。帰国後、東京高等師範学校教授となり、1896年(明治29年)に附属小学校主事を兼ねた。1897年(明治30年)からは東京女子高等師範学校教授を兼ね、1900年(明治33年)から東京女子師範学校専任となった。1913年(大正2年)に東京府豊島師範学校校長に転じた。
3代 小林 万次郎(こばやし まんじろう、1863年12月1… 3代 小林 万次郎(こばやし まんじろう、1863年12月15日(文久3年11月5日)- 1919年(大正8年)9月27日)は、日本の地主、実業家、政治家。衆議院議員、長野県下高井郡中野町長。旧名・清水直。 信濃国水内郡温井村(長野県下水内郡岡山村を経て現飯山市)の清水家で生まれ、高井郡松川村(下高井郡中野町松川を経て現中野市)の素封家・2代小林万次郎の養子となる。3代小林万次郎を襲名した。生糸商を営んだ。 1901年(明治34年)中野町長に就任。1903年(明治36年)長野県会議員に選出され1期在任した。1904年(明治37年)3月、第9回衆議院議員総選挙で長野県郡部から選出された石塚重平の死去に伴い、1907年(明治40年)9月に行われた補欠選挙で当選し、立憲政友会所属で衆議院議員を1期務めた。
稲垣 乙丙(いながき いっぺい、文久3年11月4日(1863… 稲垣 乙丙(いながき いっぺい、文久3年11月4日(1863年12月14日) - 昭和3年(1928年)3月27日)は、日本の農学者。 信濃国諏訪郡上諏訪村(現長野県諏訪市)出身。諏訪藩士・柴田家に生まれ、1885年(明治18年)旧小諸藩士の稲垣重為の養子となった。 1878年(明治11年)、松本師範学校に入学。卒業後、小学校訓導となった。1883年(明治16年)、東京師範学校に入学し、1886年(明治19年)に卒業。長野県師範学校附属小学校訓導・助教試補となった。1887年(明治20年)、東京農林学校に入学し、さらに1891年(明治24年)に帝国大学農科大学に入学した。1894年(明治27年)に卒業後は、大学院に入った。
川島 純幹(かわしま すみもと / じゅんかん、1863年1… 川島 純幹(かわしま すみもと / じゅんかん、1863年12月12日(文久3年11月2日)- 1920年(大正9年)10月25日)は、日本の教育者、内務官僚。師範学校長、県知事。玄洋社社員。旧名・甚太郎。 筑前国出身。川島計の長男として生まれる。1886年(明治19年)、帝国大学法学部を卒業。1892年(明治25年)2月、鹿児島高等中学造士館教授に就任し、同年12月、同舎監を兼任。1893年8月、佐賀県尋常師範学校長となり、さらに奈良県尋常師範学校長を務めた。 1897年(明治30年)5月、内務省に転じ滋賀県参事官に就任。以後、三重県警察部長、佐賀県・大分県・千葉県・鳥取県の各書記官、和歌山県事務官・第一部長兼第三部長などを歴任。
森 直哉(もり なおや、文久3年11月1日(1863年12月… 森 直哉(もり なおや、文久3年11月1日(1863年12月11日) - ?)は戦前日本の医師。旧姓は姫野、後に赤星。東京大学医学部別課卒。宮城県古川病院初代院長。赤星研造養子だったが、離縁し故郷大在村竹下で森医院を営んだ。 文久3年(1863年)11月1日豊後国海部郡竹下村の農家姫野平治郎と綱子の三男として生まれた。14歳の時海部郡儒学者阿部一行に入門した。16歳の春、父不在のため、母の許しを得て豊前国中津に留学して白石照山に学び、同年暮大分県師範学校に入学した。 1881年(明治14年)5月師範学校を退学し、上京して東京大学医学部別課に入学したが、1年後実家が災難に遭い、学資の仕送りを受けられなくなった、群馬県、山梨県の医師等の家に身を寄せた後、再び上京して知人宅に滞在中、友人の紹介で元東京大学医学部教授赤星研造に学資を得られることとなり、養子となった。
堀谷 左治郎(ほりや / ほりたに さじろう、1863年12… 堀谷 左治郎(ほりや / ほりたに さじろう、1863年12月7日(文久3年10月27日) - 1925年(大正14年)8月30日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・岸田。左次郎と表記される場合がある。 松代藩士・岸田鉄治の二男として生まれる。1876年(明治9年)に上京し、1879年(明治12年)同人社を卒業。さらに、商業学校、早稲田中学校で学んだ。1880年(明治13年)ころ横浜の叔父・堀谷真治の養子となる。 養家の質商・米穀仲買業に従事。日本絹綿紡績社長に就任し、1892年(明治25年)東京移民会社を創設して数千人の移民を送り出した。その他、横浜実業銀行重役、横浜実業貯蓄銀行重役、安全石油監査役、横浜商業会議所議員などを務めた。
石田 真二(いしだ しんじ、旧姓:椎野、1863年12月7日… 石田 真二(いしだ しんじ、旧姓:椎野、1863年12月7日(文久3年10月27日) - 1927年(昭和2年)9月10日)は、日本の政治家、新聞記者。徳島県徳島市出身。 椎野家の息子として名東郡上八万村(現在の徳島市上八万町)で生まれる。園坡漁夫、晴耕雨読楼主人、侃々子と号した。後に石田家を継いだ。 1881年(明治14年)、徳島県立徳島中学校(現在の徳島県立城南高等学校)卒業。卒業後、普通新聞社(現在の徳島新聞社)の客員となった。後に名東郡会議員を経て徳島県会議員に当選した。 1898年(明治31年)、第5回衆議院議員総選挙に出馬し当選したが、間もなく同年内に解散となり、第6回総選挙に再出馬したが落選した。
武市 庫太(たけいち くらた、1863年12月5日(文久3年… 武市 庫太(たけいち くらた、1863年12月5日(文久3年10月25日) - 1924年(大正13年)10月20日) は、明治から大正期の農業指導者、政治家。衆議院議員。諱・英髦。号・蟠松、子明、雪燈。 伊予国伊予郡永田村(現愛媛県伊予郡北伊予村を経て現松前町永田) で、庄屋・武市元衛(英範)、ハルの長男として生まれた。叔父・武市英俊から学び、郡中の武智五友の私塾で漢学を修めた。上高柳の墨水小学校で村井俊明から教えを受け、松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)に進み、同志社英学校で学んだが、父の病のため帰郷し、1883年(明治16年)8月に家督を相続した。 北伊予村会議員、伊予郡勧業委員、同郡徴兵参事員、学務委員、北伊予村助役などを務めた。
白仁 武(しらに たけし、1863年12月1日(文久3年10… 白仁 武(しらに たけし、1863年12月1日(文久3年10月21日)- 1941年(昭和16年)4月20日)は、日本の内務官僚・実業家。官選栃木県知事、日本郵船社長、八幡製鉄所長官。 柳河藩主立花家家従・白仁成功の長男として生まれる。1883年(明治16年)家督を相続。柳河中学、共立学校、大学予備門を経て、1890年(明治23年)7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年7月、内務省に入り内務試補として会計局に配属された。 1890年11月、県治局勤務となる。以後、内務省参事官、北海道庁参事官・内務部郡治課長、同部地理課長、文部書記官、拓殖務書記官、内務事務官、内務書記官・大臣官房北海道課長、内務省神社局長兼総務局北海道課長などを歴任。
八木 亀三郎(やぎ かめさぶろう、1863年〈文久3年〉12… 八木 亀三郎(やぎ かめさぶろう、1863年〈文久3年〉12月- 1938年〈昭和13年〉7月)は、明治から昭和初期にかけての日本の実業家であり、1938年(昭和13年)まで存在した八木商店の経営者、北洋漁業の先駆者として知られる。愛媛県今治市に残る八木商店本店店舗は登録有形文化財に登録されている。 伊予松山藩(現在の愛媛県今治市)生まれ。1863年(文久3年)に波止浜塩田で製塩・塩廻船業を営む八木友蔵(升屋友蔵)の長男として生まれ、1877年(明治10年)に分家独立した後に水産業に進出、1893年(明治26年)にニコライエフスクに拠点を構え、当時の実業界からは日露貿易・北洋漁業の先駆者の一人と目されていた。
田中 秀治郎(たなか ひでじろう、1863年11月30日(文… 田中 秀治郎(たなか ひでじろう、1863年11月30日(文久3年10月20日)- 1922年(大正11年)8月30日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 筑前国怡土郡、後の長糸村(現福岡県糸島市)で、田中喜蔵の二男として生まれる。福岡の正木昌陽、豊前中津の大久保啓蔵から漢籍を学ぶ。1902年(明治35年)東京法学院を卒業した。 大阪で染色を学び福岡市東中洲で染色業を営んだ。その後帰郷して、長糸村役場に就職し兵事係となる。1892年(明治25年)長糸村会議員に選ばれ、さらに学務委員、福岡県会議員、糸島郡会議員、同参事会員、糸島銀行常務取締役などを務めた。1902年8月、第7回衆議院議員総選挙(福岡県郡部)で当選し、衆議院議員を1期務めた。
植村 俊平(うえむら しゅんぺい、1863年11月29日 (… 植村 俊平(うえむら しゅんぺい、1863年11月29日 (文久3年10月19日) - 1941年(昭和16年)11月19日)は、日本の政治家。大阪市長。 山口県士族・植村島之丞の二男として生まれる。成立学舎などを経て、大学予備門、1886年(明治19年)7月東京大学法学部首席卒業。翌年には助教授。イギリスに留学し、法廷弁護士の称号を得て帰国。1892年(明治25年)、代言人(弁護士)に。英吉利法律学校(のちの中央大学)などで講義する。その後、日本銀行文書局長時代には、日本銀行幹部ストライキ事件に連座して免職させられた。このストライキで中上川彦次郎も介入したため、中上川と対立して三井を辞めていた岩下清周(三井銀行大阪支店長、慶應・一橋中退、三菱商業学校出身)が、東大出身の日銀幹部らを住友本店に呼び寄せたとされ、植村もその斡旋で住友入りした。
江藤 新作(えとう しんさく、1863年11月27日(文久3… 江藤 新作(えとう しんさく、1863年11月27日(文久3年10月17日) - 1910年(明治43年)1月6日)は、明治時代の政治家、衆議院議員。幼名松次郎。号は節山。初代司法卿、江藤新平の次男。次男は江藤夏雄(衆議院議員)。 江藤新平の次男として佐賀に生まれる。1874年(明治7年)に父・新平が佐賀の乱に敗れ刑死すると、新平の弟の源作に引き取られた。新作の名は父と叔父から1字ずつ取ったものである。1878年(明治11年)に佐賀県参事や水戸裁判所長などを歴任した元佐賀藩士の家永恭種が開いた戊寅義学に入学。また1883年(明治16年)に4歳年上の兄・熊太郎が23歳で亡くなると江藤家の家督を継いでいる。
布施 甚七(ふせ じんしち、1863年11月27日(文久3年… 布施 甚七(ふせ じんしち、1863年11月27日(文久3年10月17日) - 1919年(大正8年)2月10日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 上総国山辺郡辺田方村(のち千葉県山武郡東金町、現・東金市)出身。生家は地主で、普通学を学ぶ。農業を営み、東金町会議員、連合町村会議員、郡所得税調査委員、東金町長、山武郡会議員、千葉県会議員となる。また、(株)東金銀行頭取、横芝銀行取締役等を務めた。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において千葉5区から自由党公認で立候補して初当選。同年8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政党公認で立候補して再選した。1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。
荒井 賢太郎(あらい けんたろう、1863年11月25日〈文… 荒井 賢太郎(あらい けんたろう、1863年11月25日〈文久3年10月15日〉- 1938年〈昭和13年〉1月29日)は、日本の官僚・政治家。新潟県士族。 農商務大臣、枢密院副議長などの要職を歴任した。 新潟県出身。高田藩士荒井直静の子。新潟師範学校(現在の新潟大学教育学部)を卒業し、一時小学校で教鞭を取った後、上京。帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)でフランス法を修める。同期には、若槻礼次郎(後の内閣総理大臣)、安達峰一郎らがおり首席を競う。 1892年(明治25年)に帝国大学を卒業した後、大蔵省に入省。大臣官房第二課に配属。主計局予算決算課長、主計局長などの要職を歴任した。大蔵省時代には、和仏法律学校(現在の法政大学)の講師も務めている。
北島 伝四郎(傳四郎、きたしま でんしろう、1863年11月… 北島 伝四郎(傳四郎、きたしま でんしろう、1863年11月22日(文久3年10月12日)- 1924年(大正13年)9月16日)は、明治から大正期の裁判官、弁護士、地主、政治家。衆議院議員。本姓・北嶋。 出羽国秋田郡浦大町村字里ケ久(秋田県秋田郡浦大町村、南秋田郡浦大町村、面潟村浦大町を経て現八郎潟町浦大町)で、地主、素封家・北島吉右衛門の二男として生まれた。宇野弥三郎、谷田部吉次に師事し和漢学、英語を修めた。1886年(明治19年)上京して英吉利法律学校(現中央大学)で学び、1889年(明治22年)9月に卒業。 1889年12月27日、判事試補に任官し弘前始審裁判所詰となる。以後、弘前区裁判所判事兼青森地方裁判所判事、秋田区裁判所監督、本荘区裁判所監督、大曲区裁判所監督、沼津区裁判所判事、横浜地方裁判所判事を歴任。
小室 縫之助(こむろ ぬいのすけ、1863年11月22日〈文… 小室 縫之助(こむろ ぬいのすけ、1863年11月22日〈文久3年10月12日〉 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家。日本工業常務取締役。旧姓・芦田。 京都府何鹿郡綾部町(現・綾部市)、芦田信治の次男。小室静三の養子となる。静三の長女べんと結婚する。後に本籍を宮津町字魚屋に移す。20歳の頃に京都日報に入り、編輯課に従事する。宮津町へ移転と同時に丹州汽船会社に入り支配人となり、1892年2月に辞職。 1887年3月、大阪控訴院で公証人登用試験に合格、また与謝郡郡会議員に当選、任期満了により退職する。1892年4月に司法省より公証人を命じられ、1904年4月に願いにより職を免ぜられる。 1904年、支那杭州で武林洋行を設立し、大阪店主任となる。
上郎 清助(こうろ / こうろう せいすけ、旧姓・吉田、18… 上郎 清助(こうろ / こうろう せいすけ、旧姓・吉田、1863年11月17日〈文久3年10月7日〉 - 1938年〈昭和13年〉2月18日)は、日本の実業家、政治家、資産家、神奈川県多額納税者。 貴族院議員、神奈川県会議長、横浜市会議員。横浜中央銀行、上信銀行各頭取。横浜信託社長。族籍は神奈川県平民。 武蔵国橘樹郡大豆戸村(現・横浜市港北区大豆戸町)出身。吉田三郎兵衛の弟で、磯野庸幸、上郎新二の兄。生家の吉田家は屋号を「堀上(ほりあげ)」といい、天保年間より醤油の醸造をしていた。1893年、上郎幸八の女婿となる。1905年、分家して一家を創立する。 東京大学予備門を経て、1890年、帝国大学法科大学政治学科を卒業した。
松尾 富功禄(まつお ほくろく、1863年11月16日(文久… 松尾 富功禄(まつお ほくろく、1863年11月16日(文久3年10月6日) - 1930年(昭和5年)3月10日)は、日本の政治家。高知市長。 土佐国香美郡山田野地村(のち山田町→土佐山田町、現在の香美市)に生まれる。寺子屋で学び、下等小学校を卒業。漢学塾で学ぶ。香美郡役所に入り、筆生となる。山田駅逓局四等郵便局取扱役、三等郵便局長、香美郡会議員、同議長となる。1893年(明治26年)山田野地村に就任し、1921年(大正10年)まで務めた。この間、山田野地村は1896年(明治29年)山田町となり、同町長となった。ほか、高知県会議員となり、のちに議長となった。 1921年高知市長に就任。在任中に高知市が都市計画法の適用を受け、都市計画地方委員会が結成された。
宮下 一清(みやした いっせい、文久3年10月4日〈1863… 宮下 一清(みやした いっせい、文久3年10月4日〈1863年11月14日〉 - 1945年〈昭和20年〉2月18日)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本の弁護士、政治家である。政界では長野県会議員・長野市会議員や衆議院議員(当選1回)を歴任し、他に実業界で長野新聞初代社長を務めた。 文久3年10月4日(新暦:1863年11月14日)、信濃国更級郡今里村(現在の長野県長野市)に生まれる。村の小学校を卒業したのち高井鴻山の高矣義塾で漢学を修める。1881年(明治14年)には長野県師範学校に入学するも年内に退学し、翌年より明治法律学校(明治大学の前身)法律学科に入学、1884年(明治17年)に卒業した。
山本 竟山(やまもと きょうざん、文久3年9月28日〈186… 山本 竟山(やまもと きょうざん、文久3年9月28日〈1863年11月9日〉 - 1934年〈昭和9年〉1月24日)は、近代日本の書家。名は由定。竟山、聾鳳と号した。美濃国厚見郡岐阜町(現在の岐阜県岐阜市)の出身。 書は日下部鳴鶴に師事した。明治35年(1902年)楊守敬を慕って清国(現在の中国)に渡り書法を学んだ。以後中国に遊学すること7回に及んだ。そこで楊守敬のほか呉昌碩、顧麟士らと交流して書学を研鑽し、多数の法帖碑版を日本へもたらした。明治時代の末には京都へ転居し多くの子弟を教育して関西の書壇に新風を吹き込んだ。学書の基本をいつも古典の臨書においていた人であり、個性を尊び、創造性と自主性のある書を書くことを心がけたという。
一力 健治郎(いちりき けんじろう、文久3年9月25日(18… 一力 健治郎(いちりき けんじろう、文久3年9月25日(1863年11月6日) - 昭和4年(1929年)11月5日)は、日本の実業家。河北新報社創業者(社主)。旧姓鈴木。宮城県平民。 河北新報元社長の一力次郎の父。元河北新報社社主の一力一夫の祖父。河北新報社社長の一力雅彦の曾祖父。囲碁棋士の一力遼の高祖父。 太町の唐物商の鈴木作兵衛の四男として生まれた。後に隣家の茶商である一力松治郎の養子となる。東華学校、第二高等中学校を卒業後、上京。国民英学会にて学ぶ。また、第二高等中学在学中には、くまじ夫人との間にすでに、一男一女をもうけていた。 仙台での書店経営で実業界入りし、植林会社(宮城植林株式会社)を興し創業。
飯島 保作(いいじま ほさく、文久3年9月21日(1863年… 飯島 保作(いいじま ほさく、文久3年9月21日(1863年11月2日) - 昭和6年(1931年)7月26日)は明治時代から昭和時代初期の日本の実業家。第十九国立銀行頭取。号は花月。 信濃国小県郡上田城下(現長野県上田市)の和泉家に生まれ、のち飯島家の養子となった。小学校を卒業して三等郵便局長となる。一時政治に関心を持ち、立憲改進党系の結社・己丑倶楽部に入って活躍。明治29年(1896年)小県郡上田町の収入役、明治32年(1899年)小県郡会議員となる。一方、諏訪倉庫や上田倉庫の取締役、上田商業会議所会頭などを歴任して経済界に腕を振るう。 大正8年(1919年)第十九国立銀行頭取に就任、昭和恐慌に際し、松代の第六十三国立銀行との合併による八十二銀行の創立に奔走したが、合併直前に腸チフスで急逝した。
後藤 猛太郎(ごとう たけたろう、1863年10月30日(文… 後藤 猛太郎(ごとう たけたろう、1863年10月30日(文久3年9月18日) - 1913年(大正2年)12月4日)は、明治時代、日本で初めて南洋群島を探検した人物。日本活動フィルム会社(日活の前身)の初代社長。後藤象二郎の二男。貴族院議員。伯爵。「天下のならず者」と自称していた。 1863年(文久3年)、土佐藩士(上士・馬廻格)後藤象二郎の二男として、高知城下に生まれる。母は寺田剛正(左右馬)の二女(磯子)。象二郎の長男の後藤貞馬が夭逝した為、猛太郎は、事実上の長男として育てられた。 1870年(明治3年)、8歳より外国人宅に出入りして外国語を学ぶ。オランダへ留学するが、放蕩して多額の借金を負ったことなどから、1888年(明治21年)6月、父・象二郎から廃嫡・分籍を受け、佐藤の姓を名乗らされた。
須藤 善一郎(すどう ぜんいちろう、1863年10月30日〈… 須藤 善一郎(すどう ぜんいちろう、1863年10月30日〈文久3年9月18日〉- 1937年〈昭和12年〉4月10日)は、明治から昭和初期の畜産家、実業家、政治家。衆議院議員、秋田県由利郡本荘町長。幼名・広太郎。雅号・寿堂、松園。生涯、馬産改良に尽力した。 出羽国由利郡本荘中町(秋田県由利郡本荘町、本荘市を経て現由利本荘市中町)で、大地主・須藤善太郎、ナオの長男として生まれた。長安寺の寺子屋、本荘藩藩校を経て、1877年(明治10年)小学校を卒業した。以後、自宅に招いた教師から歴史、漢学、英語を修めた。1879年(明治12年)9月、父が死去して家督を相続し善一郎に改名した。1880年(明治13年)ころに同志を募って夜学講習会を立上げ会長に就任した。
堀内 文次郎(ほりうち ぶんじろう、文久3年9月17日(18… 堀内 文次郎(ほりうち ぶんじろう、文久3年9月17日(1863年10月29日) - 1942年(昭和17年)3月14日)は、日本の陸軍軍人。陸士旧7期。栄典は従四位勲二等功二級。最終階級は陸軍中将。
久保 通猷(くぼ つうゆう、文久3年9月16日(1863年1… 久保 通猷(くぼ つうゆう、文久3年9月16日(1863年10月28日) – 昭和12年(1937年)5月2日)は、日本および同統治下台湾の官僚、政治家、実業家。衆議院議員(立憲政友会→中正会)。福岡県若松町長。 長門国厚狭郡厚西村(現在の山陽小野田市)出身。小学校卒業後、独学で文学、政治、経済、法律を学び1895年(明治28年)、高等文官試験に合格し、内務省、台湾総督府、地方官として勤務した。退官後は1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し当選、そのほか若松町長も務めた。その他に私立興風中学校理事長を務め、その後大連に渡り、大連大正米製造合資会社の代表を務めた。
黒田 重兵衛(くろだ じゅうべえ、1863年10月27日(文… 黒田 重兵衛(くろだ じゅうべえ、1863年10月27日(文久3年9月15日) - 1952年(昭和27年)3月1日)は、明治から昭和時代前期の政治家、銀行家。衆議院議員(1期)。前名は孝造。 伊豆国田方郡、のちの静岡県田方郡上狩野村(天城湯ケ島町を経て現伊豆市)に生まれ、のち静岡県賀茂郡下河津村(現河津町)に住む。足立清次郎の三男として生まれ、先代重兵衛の養子となり、1895年(明治28年)家督を相続し前名を改めた。下河津村農会長、同村会議員、賀茂郡会議員、静岡地方森林会議員、静岡県会議員を歴任したほか、静岡農工銀行監査役、下田銀行頭取、下田自動車会社取締役を務めた。 1924年(大正13年)5月の第15回衆議院議員総選挙では静岡県第10区から憲政会所属で出馬し当選。