村上 先(むらかみ すすむ、文久3年1月8日(1863年2月… 村上 先(むらかみ すすむ、文久3年1月8日(1863年2月25日) - 1925年(大正14年))は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。実業家。号は李門。 陸奥国気仙郡矢作村(現在の岩手県陸前高田市)出身。仙台藩士伊藤武左衛門の二男として生まれ、村上大蔵の養子となった。漢学・英学を学び、鳥取県東伯郡長、札幌支庁長を務めた後、台湾総督府に移り、台北県滬尾弁務署長、臨時土地調査局事務官、塩水港庁長、台南庁長を歴任した。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後、台湾証券交換所社長、日鮮鉱業社長、大正活映社長、帝国殖産興業社長、東洋美術興業社長、旭製炭顧問などを務めた。
河口 善之助(かわぐち ぜんのすけ、1863年2月24日(文… 河口 善之助(かわぐち ぜんのすけ、1863年2月24日(文久3年1月7日)- 1933年(昭和8年)11月13日)は、明治期から昭和初期の農業経営者・実業家・政治家。衆議院議員、山梨県南都留郡谷村長、同谷村町長。 甲斐国都留郡、のちの谷村(山梨県南都留郡谷村、谷村町を経て現都留市)で、豪農・河口善兵衛の長男として生まれる。和漢学、数学を修めた。1877年(明治10年)1月、家督を相続し農業を営む。 1882年(明治15年)7月、巌村(現上野原市)の古家広泰らの鶴北自由党(のち峡中立憲党)に入党し自由民権運動に加わった。谷村長、谷村町長、南都留郡会議員、同参事会員、所得税調査員を務めた。1888年(明治21年)山梨県会議員に選出された。
坪井 正五郎(つぼい しょうごろう、文久3年1月5日(186… 坪井 正五郎(つぼい しょうごろう、文久3年1月5日(1863年2月22日) - 大正2年(1913年)5月26日)は、日本の自然人類学者。日本初の人類学者として、日本における考古学・人類学の普及と確立に尽力した。坪井信道の孫で、坪井信良の子。 蘭方医・坪井信道の孫として江戸の両国矢之倉(現・東日本橋)に生まれた(父は信道の女婿、幕府奥医師坪井信良である)。1877年大学予備門に入り、1886年帝国大学理科大学動物学科卒業。同年、東京人類学会を結成。帝国大学大学院に進学し人類学を専攻、修了後の1888年帝国大学理科大学助手。翌年より3年間イギリスに留学し、1892年10月帰国し帝国大学理科大学教授。
武島 務(たけしま つとむ、1863年2月20日(文久3年1… 武島 務(たけしま つとむ、1863年2月20日(文久3年1月3日) - 1890年(明治23年)5月17日)は、日本の明治期の陸軍軍医。森鷗外の短編小説『舞姫』に登場する主人公・太田豊太郎のモデルとされる。 1863年2月20日(文久3年1月3日)、武蔵国秩父郡太田村(現・埼玉県秩父市)に漢方医であった武島家三代目の父・有慶と母・きよの長男に生まれた。済生学舎(現日本医科大学)と東亜医学校にて医学を学ぶ。東亜医学校では森鴎外から生理学の講義を受ける。1882年(明治15年)に東京府医術開業試験に合格。内外科医術開業免許を受ける。 1884年(明治17年)3月、軍医学講習所(陸軍軍医学校の前身)に入所。
関根 萬司(せきね まんじ 、1863年2月17日(文久2年… 関根 萬司(せきね まんじ 、1863年2月17日(文久2年12月29日) - 1924年(大正13年)4月27日)は、日本の教育者。越後国刈羽郡北条村小島(現:新潟県柏崎市大字小島)出身。
飯田 壽作(いいだ じゅさく、1863年2月17日〈文久2年… 飯田 壽作(いいだ じゅさく、1863年2月17日〈文久2年12月29日〉 - 1930年〈昭和5年〉1月14日)は、日本の実業家。西宮銀行常務取締役。西宮酒造取締役・同監査役。西宮開運取締役。族籍は兵庫県平民。 兵庫県平民・飯田與作の長男。1874年、分かれて一家を創立する。住所は兵庫県武庫郡西宮町松原(現・西宮市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
鄭 永邦(てい えいほう、1863年2月16日〈文久2年12… 鄭 永邦(てい えいほう、1863年2月16日〈文久2年12月28日〉 - 1916年〈大正5年〉8月20日)は、明治時代の日本の外交官。 肥前国長崎生まれ。鄭家は鄭成功の末裔と称し、明朝滅亡後、その遺臣として日本に亡命し定着した。長崎では代々、唐人屋敷の清朝の役人の通訳を稼業とした(幕末の時期は勝海舟をはじめとした長崎海軍伝習所教習生とも交流)。父の鄭永寧、兄の鄭永昌も外交官である。義兄(父・永寧の養父・鄭幹輔の庶子で、永寧の長男として養子縁組した)鄭永慶は日本で初めて本格的なコーヒー店「可否茶館」を開いたことで知られる。 東京外国語学校(現在の東京外国語大学)卒業後、北京公使館員として北京に赴任。
岡倉 天心(おかくら てんしん、文久2年12月26日〈186… 岡倉 天心(おかくら てんしん、文久2年12月26日〈1863年2月14日〉 - 大正2年〈1913年〉9月2日)は、日本の思想家、文人。本名は岡倉 覚三(おかくら かくぞう)。幼名は岡倉 角蔵(読み同じ)。 横浜の本町5丁目(現在の同市中区本町1丁目、横浜開港記念会館付近)で生まれる。福井藩出身の武家で、1871年に家族で東京に移転。東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)の設立に大きく貢献し、後年に日本美術院を創設した。近代日本における美術史学研究の開拓者で、英文による著作での美術史家、美術評論家としての活動、美術家の養成、ボストン美術館中国・日本美術部長といった多岐に亘る啓発活動を行い、明治以降における日本美術概念の成立に寄与した。
池田 藤八郎(いけだ とうはちろう、1863年2月11日(文… 池田 藤八郎(いけだ とうはちろう、1863年2月11日(文久2年12月23日) - 1911年(明治44年)7月7日)は、明治時代の政治家、銀行家。衆議院議員(1期)。山形県飽海郡酒田町長。幼名は辰三郎、別名に光礼。 本間光貞の二男として出羽鶴岡藩領飽海郡、のちの酒井新田村天王下(山形県飽海郡西荒瀬村を経て現酒田市)に生まれる。1879年(明治12年)上京し同人社に入り碩学中村敬宇のもとで漢学や英学を修めたのち帰郷する。1882年(明治15年)飽海郡の中学校教員となり、1885年(明治18年)24歳の時、酒田本町の池田家の養子に入り名を藤八郎に改めた。1889年(明治22年)酒田町会議員に当選し、酒田町長、飽海郡会議員、同議長を経て、1902年(明治35年)山形県会議員に当選する。
押川 則吉(おしかわ のりきち、1863年2月7日〈文久2年… 押川 則吉(おしかわ のりきち、1863年2月7日〈文久2年12月19日〉 - 1918年〈大正7年〉2月18日)は、日本の農商務・内務官僚、政治家。官選県知事、製鉄所長官、貴族院議員。林野整理審査会長、日本大博覧会評議員、大礼準備委員なども務めた。位階および勲等は従三位・勲一等。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下加治屋町(現鹿児島県鹿児島市加治屋町)で、薩摩藩士・押川乙五郎の長男・千代太郎として生まれる。1880年6月、東京農林学校を卒業。1883年3月、農商務省御用掛として出仕。同年6月、農学士・農芸化学士の学位を取得。 1885年7月、新潟県御用掛に就任。1887年4月、農商務属として本省に復帰。
柴田 家門(しばた かもん、1863年2月6日〈文久2年12… 柴田 家門(しばた かもん、1863年2月6日〈文久2年12月18日〉- 1919年〈大正8年〉8月25日)は、文部大臣、貴族院議員などを務めた政治家。 萩城下平安古(現在の山口県萩市平安古東区)に柴田英佐(えいすけ)の長男として出生。同郷に田中義一、藤井幸槌がいる。 1882年(明治15年)に上京し、大学予備門(第一高等中学校、現在の東京大学教養学部)を経て、東京帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)に進学。1890年(明治23年)に同大学卒業後、内閣書記官、法制局参事官、行政裁判所評定官等を務める。 1898年(明治31年)、第2次山縣内閣の内務省地方局長を務める。1901年(明治34年)、第1次桂内閣の内閣書記官長に就任。
白勢 春三(しろせ しゅんぞう、1863年2月6日〈文久2年… 白勢 春三(しろせ しゅんぞう、1863年2月6日〈文久2年12月18日〉 - 1941年〈昭和16年〉5月25日)は、日本の政治家、新潟県多額納税者、資産家、地主、実業家。衆議院議員(新潟県新潟市選出、当選1回)、貴族院議員。新潟商工会議所顧問。族籍は新潟県平民。 越後国蒲原郡(のち新潟県北蒲原郡金塚村、現在の新発田市金塚)生まれ。白勢彦次郎の長男、白勢二朔の養兄である。新潟英語学校に学んだ。1888年、家督を相続した。 新潟市に於ける名望家であり、諸種の実業団体幹部役員及び新潟市会議員同参事会員、同市会議長、同商業会議所議員、同会頭、同特別議員等に挙げられ、衆議院議員に当選し、1905年、日露戦争の功により勲四等に叙せらる。
竹内 平太郎(たけのうち へいたろう、1863年2月6日(文… 竹内 平太郎(たけのうち へいたろう、1863年2月6日(文久2年12月18日) - 1933年(昭和8年)12月21日)は、島根県松江出身の海軍軍人。最終位階勲等は海軍少将。従四位勲三等功三級に至る。 竹内家初代は松江城天守の修復や、法華宗大雄寺の八角堂や堂宇を作った竹内有兵衛で、松江松平藩の初代藩主松平直政の大工頭であった名工竹内有兵衛(右兵衛、宇兵衛、たけのうち うへえ)の十代目の子孫。長男竹内和信は帝国陸軍航空総軍第53航空師団・第7航空通信連隊連隊長(終戦時大佐)。 1900年に主席駐在武官として駐仏公使館に着任した竹内大佐の主要な任務は、露仏同盟によりロシアと軍事的な関係を強化していたフランスにおいて、ロシアの軍事情報を収集することであったとされている。
横山 雅男(よこやま まさお、文久2年12月16日(1863… 横山 雅男(よこやま まさお、文久2年12月16日(1863年2月4日) - 1943年(昭和18年)2月12日)は、日本の統計学者。安芸国賀茂郡吉土実村(現・広島県東広島市)出身。 広島県師範学校(広島大学教育学部の前身)卒業。広島県内で小学校教員を務めた後上京。当時はまだ新奇な学問であった統計学の存在を知り、表記学社(1878年スタチスチック社、1892年統計学社と改名、1944年東京統計協会と合併し日本統計協会と改称)が1883年、杉亨二や岩崎弥太郎、渋沢栄一、世良太一らの尽力で設立した日本で最初で最後の統計専門学校「共立統計学校」の第一期生として入学。3年間、杉亨二の弟子として本格的に統計学を学ぶ。
17代 木村 庄之助(じゅうしちだい きむら しょうのすけ、… 17代 木村 庄之助(じゅうしちだい きむら しょうのすけ、文久2年12月11日〈1863年1月30日〉 - 1924年〈大正13年〉7月18日)は、大相撲の立行司。本名は浪花→酒井兵吉。出身地は徳島県徳島市。 徳島市に浪花徳丸の六男として生まれる。幼少時より行司好きで子供相撲で行司を務めていた。大阪相撲の藤見崎という力士が巡業中にこの様子を見て勧誘し、1869年大阪相撲の竹縄部屋に入門。最初は木村兵丸を名乗った。 1885年に東京相撲に移籍、15代庄之助に師事。1886年1月初代木村玉治郎から、1895年1月6代木村庄三郎を経て、1911年5月10代式守伊之助を襲名、翌1912年5月に17代木村庄之助を襲名した。
服部 綾雄(はっとり あやお、1863年1月30日(文久2年… 服部 綾雄(はっとり あやお、1863年1月30日(文久2年12月11日) - 1914年(大正3年)4月1日)は、日本の牧師、教育者、政治家である。 1863年(文久2年)駿河国沼津城下に生まれた。明治維新により、1868年(明治元年)沼津藩が上総国市原郡菊間に移封されたので、菊間に移住する。1873年(明治6年)、10歳の時に横浜で遊学し、J・C・ヘボンに書生として住み込み、ヘボン塾で英語を学んだ。 ヘボンより薫陶を受け、キリスト教信仰を持つ。1874年(明治7年)にヘンリー・ルーミス宣教師より洗礼を受ける。1880年(明治13年)築地大学校の創立時に転入する。1882年(明治19年)築地大学校卒業後に大学校の幹事になる。
足羽 章兮(あしわ しょうけい、1863年1月27日〈文久2… 足羽 章兮(あしわ しょうけい、1863年1月27日〈文久2年12月8日〉 - 1934年〈昭和9年〉9月4日)は、日本の医師、政治家。鳥取県医師会長。鳥取県会議長。日野郡是製糸取締役。足羽家8代目。族籍は鳥取県士族。 伯耆国日野郡二部村(のち鳥取県日野郡溝口町二部、現・伯耆町)出身。足羽家は代々医を業とする。足羽純亭の五男。教を郷校に受け、小学の課程を卒え、毛利八弥に就き漢籍を修める。 1884年、松江医学校を卒業。東京に出て済生学舎に入り、医術を修める。帰郷し、二部宿で父祖の医業を継ぐ。1890年に日野郡医師会創設。日野郡医師会長となる。 1904年から1917年村会議員。1908年から1910年鳥取県医師会長。
頭本 元貞(ずもと もとさだ、1863年1月23日〈文久2年… 頭本 元貞(ずもと もとさだ、1863年1月23日〈文久2年12月4日〉- 1943年〈昭和18年〉2月15日)は、日本のジャーナリスト、衆議院議員(1期)。英語力に秀で、伊藤博文や渋沢栄一といった実力者に重用され、長年にわたって国際的舞台で活躍するジャーナリストとなったほか、英語教育教材の開発者、代議士としても活動した。右翼的国家主義者と評されることが多い。 伯耆国(後の鳥取県日野郡黒坂村、黒坂町を経て現日野町)出身。鳥取県と愛知県の中学校に在籍した後、東京大学予備門を経て、1880年に札幌農学校に入学し、武信由太郎や志賀重昂らとともに4期生として学んだ。在学中にジュゼッペ・マッツィーニの文章に触れ、日本の国情を海外へ紹介することを自らの使命と決意したとされる。
牧野 謙次郎(まきの けんじろう、文久2年11月30日〈18… 牧野 謙次郎(まきの けんじろう、文久2年11月30日〈1863年1月19日〉 - 昭和12年〈1937年〉3月24日)は、日本の漢学者。早稲田大学教授、東洋文化学会理事、斯文会常議員、大東文化学院(現・大東文化大学)教務管理。字は君益。号は藻洲、寧静斎、愛古田舎主人。香川県出身。 牧野松村の第2子として、讃岐国高松に生まれた。祖父牧野黙庵(高松藩江戸邸の教授)、父松村(藩校教授)の家学を受け、明治15年(1882年)には藤沢南岳の泊園書院(現・ 関西大学)に学んだ。 明治26年に国華社で筆をとってより、雑誌『曙』を創刊し(明治30年)、『日本新聞』の週報に筆をとり(明治34年)、藻洲の名を高くした。
堀 鉞之丞(ほり えつのじょう、1863年1月17日(文久2… 堀 鉞之丞(ほり えつのじょう、1863年1月17日(文久2年11月28日) - 没年不明)は、愛知英語学校出身の理学士。儒学者・堀杏庵の子孫にあたる。 1885年(明治18年)東京大学理学部卒業。1891年(明治24年)、衛生試験所技師。第一高等学校教授。1908年10月30日から1914年4月30日まで尾張徳川家の御相談人、1914年9月から同家の家令を務め、1917年に明倫中学校と附属博物館を愛知県に譲渡し、名古屋の同家所有地の整理・処分を進めるなど、家政改革を推し進めた。 1914年(大正3年)5月に尾張徳川家の家令となると、前年に東京麻布区富士見町に新居を構えていた同家第19代当主・徳川義親の意を受けて、名古屋市大曽根から東京への拠点移転に向けて、家政改革を進めた。
河野 常吉(こうの つねきち、1863年1月11日(文久2年… 河野 常吉(こうの つねきち、1863年1月11日(文久2年11月22日) - 1930年(昭和5年)9月3日)は、明治大正期の北海道史研究者。河野齢蔵は実弟、アイヌ研究者として名高い河野広道は子、また二女の道子は動物学者犬飼哲夫に嫁ぎ、河野本道は孫に当たる。 信濃国安曇郡犬飼新田村(現・長野県松本市)に河野通重の次男として生まれる。長野県師範学校松本支校を卒業後、1881年に上京し慶應義塾(現・慶應義塾大学)で2年間学んだ後、秋田県の小真木鉱山の分析主任となる。 郷里へもどって養蚕業に従事、『信陽日報』客員として活動、またこのころ自由民権運動にも関係していたといわれる。その後、長野県庁や東京中央気象台に勤務、この間の学歴・職歴のなかで、人文・自然科学の広範な教養を身につけている。
愛甲 兼達(あいこう かねさと、1863年1月8日(文久2年… 愛甲 兼達(あいこう かねさと、1863年1月8日(文久2年11月19日) - 1928年(昭和3年)10月17日)は、明治から大正の実業家。 薩摩藩士津曲伝助の長男として鹿児島加治屋町に生まれ、のち愛甲家の養子となる。鹿児島銀行の前身である勤倹貯蓄銀行や鹿児島電気軌道、日本水電などの取締役のほかに十五銀行の頭取を歴任した。
イザベラ・ブラックモーア(またはブラックモア)(Isabel… イザベラ・ブラックモーア(またはブラックモア)(Isabella S Blackmore,1863年1月7日 - 1942年1月2日)は、カナダ・メソジスト教会婦人伝道会の宣教師である。 東洋英和女学校校長、山梨英和女学校校長、静岡英和女学校理事、東京女子大学理事長等を歴任した教育者。それらの功績により文部大臣から表彰を受けている。 カナダ・メソジスト婦人伝道会日本総理を務める。また、多くの社会事業に携わり、永坂孤女院を設立して運営したり、日本基督婦人矯風会理事を務めたりした。 1863年(文久2年)1月7日 カナダのノバスコシア州のオンズロー(Onslow)で父リチャード・ブラックモーア(Richard)、母マリンダ・ブラックモーア(Malinda)の娘として生まれる。
山本 忠秀(やまもと ただひで、1863年1月6日(文久2年… 山本 忠秀(やまもと ただひで、1863年1月6日(文久2年11月17日)– 1936年(昭和11年)10月9日)は、明治から昭和初期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。板垣伯銅像記念碑建設同志会理事。 土佐国香美郡岩村郷金地村(高知県香美郡金地村、岩村を経て現・南国市金地)で、豪農、譲受郷士の賢一郎の長男として生まれた。漢学を修め、明治法律学校(現明治大学)法律科で学んだが中退した。 帰郷して政治運動に身を投じ、自由民権運動を推進した。1890年(明治23年)1月、第1回衆議院議員総選挙に対応するため岩村倶楽部を結成し部長に就任。1893年(明治26年)3月、楠目玄の失格に伴う高知県会議員補欠選挙で当選し、同年8月の半数改選でも再選された。
武田 秀雄(たけだ ひでお、1863年1月5日(文久2年11… 武田 秀雄(たけだ ひでお、1863年1月5日(文久2年11月16日) - 1942年(昭和17年)2月16日)は、日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍機関中将。 文久2年(1863年)11月、土佐国香美郡野市村(現:香南市)に生まれる。土佐藩家老の武田秀友の長男。 大阪英語学校を経て上京。当時満15歳であったが、同郷の海軍中秘史楠目正幹の斡旋により辛うじて証明を得て1878年(明治11年)8月、海軍兵学校機関科に入校 。1883年(明治16年)10月、海軍機関学校(旧2)を卒業。1886年(明治19年)4月、海軍少機関士(少尉相当官)に任官した。 1890年(明治23年)7月から1894年(明治27年)6月までフランスに留学。
棚橋 一郎(たなはし いちろう、文久2年11月12日(186… 棚橋 一郎(たなはし いちろう、文久2年11月12日(1863年1月1日) - 昭和17年(1942年)2月7日)は、岐阜県出身の教育者、漢学者(今でいう倫理学者)。衆議院議員、東京市会議員。
大蛇潟 大五郎(おろちがた だいごろう、1863年1月(文久… 大蛇潟 大五郎(おろちがた だいごろう、1863年1月(文久2年12月) - 1916年1月9日)は、現在の千葉県市川市鬼越出身で宮城野部屋、錦戸部屋、錦島部屋に所属した力士。本名は錦嶋 七太郎(旧姓岡田)。7代錦島。身長178cm、体重101kg。最高位は西前頭筆頭。 1885年5月に二枚目格付出で初土俵。1889年5月十両昇進した。1892年6月に新入幕、以後1907年1月に44歳で引退するまで連続で幕内に在位。また錦島部屋では二枚鑑札。引退後は親方業に専念したが、1916年に没した。享年55。 上の名前は番付上の表記揺れを考えなければ改名歴なし。下の名前は1890年5月場所まで「七五郎」、1891年1月場所から「大五郎」。
山口 俊太郎(やまぐち しゅんたろう、1863年〈文久3年〉… 山口 俊太郎(やまぐち しゅんたろう、1863年〈文久3年〉- 1923年〈大正12年〉)は、明治・大正期の鉄道技術者。岩倉使節団の副使であった山口尚芳の長男であり、使節団に尚芳の従者として同行した。使節団帰国後も引き続きイギリスに滞在する。1887年に帝国大学工科大学を卒業し、アメリカ合衆国に再留学の後、鉄道作業局に入局する。その後九州鉄道、三井鉱山、三井物産で鉄道関係の業務を担当した。
木内 信(きうち しん、文久3年(1863年) - 大正15… 木内 信(きうち しん、文久3年(1863年) - 大正15年(1926年)8月18日)は、日本の政治家。衆議院議員。号は澄堂、晩翠。 信濃国佐久郡岸野村(現長野県佐久市)生まれ。長野県師範学校卒業後、明治10年(1877年)同郡八幡村の彰蔵学校教員となり、自由民権運動家として活動する。同18年(1885年)には早川権弥、立川雲平らと東信友誼会を結成し、同20年(1887年)に上京して条約改正反対、地租軽減、言論集会の自由を求めた三大建白書を元老院に提出した。 同22年(1889年)に岸野村会議員から長野県会議員に当選、同26年(1893年)には岸野村長に就任。翌年(1874年)第3回衆議院議員総選挙に初当選し、予算委員を務める。
神楽江 熏(かぐらえ かおる、1863年〈文久3年〉 - 1… 神楽江 熏(かぐらえ かおる、1863年〈文久3年〉 - 1934年〈昭和9年〉)は、現在の兵庫県姫路市網干区生まれの文人。幼名は巳之吉、名は熏、字は万春、号は巻石(けんせき)別号に下学迂士。 文人墨客として各地を歴遊後に札幌東京京都で私塾を開く。明治42年から大正6年まで枢密院に雇として勤務。 絵筆も巧みで多くの作品を残している。 本人の自署は神楽江熏としており艸冠を付けた神楽江薫は誤りである。 文久3年(1863年)8月14日(旧暦)播磨国揖東郡網干で網野姓の母から生まれる。実父に付いての資料は未見(網干町史記載) 神楽江の姓は河野東馬より播磨風土記にある生地網干の神功皇后伝承から付けられる。
千坂 光子(ちさか みつこ、1863年 - ?)は、貴族院議… 千坂 光子(ちさか みつこ、1863年 - ?)は、貴族院議員千坂高雅の長女。大物政治家の名を騙って金品を騙し取った詐欺で1896年に逮捕され、裁判で有罪となり刑に服した。名家の令嬢が起こした犯罪であったことから、世間を大いに騒がせた。本名テルから光子に改名した。 文久3年(1863年)、米沢藩家老の父・千坂高雅と母・たき子の長女(7人兄弟の一人娘)として米沢で生まれる。父は明治3年(1870年)から6年(1873年)まで洋行ののち、内務省書記官となった。光子は米沢の小学校を卒業後、母とともに上京し、東京市麻布区市兵衛町2丁目(現・東京都港区六本木)の本邸から女学校に通い始める。13、14歳ごろから、本郷の母方の親戚宅訪問を口実にしては上野・浅草を遊び回り、女中や車夫に口止め料を支払うような早熟な子供だった。
淺野 三彌(あさの さんや、新字体:浅野 三弥、1863年〈… 淺野 三彌(あさの さんや、新字体:浅野 三弥、1863年〈文久3年〉 - 1905年〈明治38年〉12月11日)は、明治時代の医師。号は烏城。群馬県高崎市の医師・淺野誠伯の子として生まれ、医科大学別課を卒業後、アメリカ合衆国・カリフォルニア州のクーパー医科大学で学んだ。のちにハワイおよび高崎で医業に従事した。 文久3年、高崎の医家に生まれる。父は医師の淺野誠伯である。号として「烏城」を用いた。 明治19年6月、医科大学(現在の東京大学医学部の前身)別課を卒業した。卒業後は、東京神田駿河台の佐々木病院にて名医・佐々木東洋に師事し、明治21年5月頃まで実地研修を積んだ。 その後、医学の奥義を究めるため渡米し、カリフォルニア州のクーパー医科大学(後のスタンフォード大学医学部)で学んだ。
横山 富次郎(よこやま とみじろう、1863年(文久3年2月… 横山 富次郎(よこやま とみじろう、1863年(文久3年2月) - 1936年(昭和11年)3月21日)は日本の政治家、実業家。衆議院議員(政友会)。 1863年(文久3年2月)、江戸日本橋に呉服木綿問屋横山五兵衛の第三子として生まれる。中江篤介の仏学塾などで学んだ後、1888年(明治21年)に東京仏学校(現・法政大学)を卒業する。家業に従事しながら、1897年(明治30年)に貿易会社大和商会を興し、経営する。 1891年(明治24年)に日本橋区会議員、1892年(明治25年)に東京府会議員、1893年(明治26年)に東京市会議員、1898年(明治31年)に第6回衆議院議員総選挙(東京府第4区)に当選する。
萩原 正夫(はぎわら まさお、1863年(文久3年8月) -… 萩原 正夫(はぎわら まさお、1863年(文久3年8月) - 1917年(大正6年)2月14日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。 伊豆国君沢郡小坂村(静岡県君沢郡小坂村、川西村、田方郡川西村、伊豆長岡町を経て現伊豆の国市)出身。静岡皇学舎に学んだのち漢学を修める。学務委員、町村組合会議員、伊豆四郡組合会議員、田方郡会議員、静岡県会議員を歴任した。 1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙では静岡県第7区から立憲自由党所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
林 彦一(はやし ひこいち、1863年(文久3年9月) - … 林 彦一(はやし ひこいち、1863年(文久3年9月) - 1923年(大正12年)12月22日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 越前国大野郡田野村(のち福井県大野郡富田村、現・大野市)出身。漢学を学ぶ。訓導、連合町村会議員、富田村戸長、学務委員、県勧業諮問会員、富田村会議員、同村長、大野郡会議員、同参事会員、福井県会議員、福井県蚕糸業組合評議員、同議長、大野郡蚕糸業組合評議員、大野郡農会長となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において福井1区から自由党公認で立候補して当選する。同年8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政党公認で立候補して当選した。衆議院議員を2期務め、1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。
石井 鼎(いしい かなえ、1863年(文久3年3月) - 1… 石井 鼎(いしい かなえ、1863年(文久3年3月) - 1916年(大正5年)5月22日)は、明治時代の政治家。衆議院議員。岐阜県会議長。岐阜県山県郡厳美村長。 美濃国山県郡、のちの岐阜県山県郡厳美村(芥見村・三輪村を経て現岐阜市)に生まれる。 1888年(明治21年)9月、臨時選挙で県会議員に当選。同常置委員、参事会員、県会議長を歴任した。ほか、小学校監事、厳美村長を務めた。 1898年(明治31年)8月の第6回衆議院議員総選挙では岐阜県第5区から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
堀之内 庄右衛門(ほりのうち しょううえもん、1863年1-… 堀之内 庄右衛門(ほりのうち しょううえもん、1863年1-2月(文久2年12月) - 1909年(明治42年)1月30日)は、明治時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 薩摩国薩摩郡隈之城郷勝目(鹿児島県薩摩郡隈之城村、川内町、川内市を経て現薩摩川内市勝目町)出身。1900年(明治33年)より大洋商船、曽木電気などの重役を務めたのち、1906年(明治39年)12月、鹿児島県多額納税者として貴族院議員に互選され、同月13日、議員に就任し、在任中に脳溢血により死去した。
平野川 善右エ門(ひらのがわ ぜんえもん、1863年(文久3… 平野川 善右エ門(ひらのがわ ぜんえもん、1863年(文久3年) - 1912年(明治45年)4月19日)は讃岐国大内郡引田村(現・香川県東かがわ市引田)出身の大相撲力士。本名は今出善藏。大阪相撲で活躍し最高位は大関。 10代小野川に入門。1886年(明治19年)11月平野川 鹿藏(1894年(明治27年)4月まで番付では平の川または平ノ川と表記された)で四段目に初見。1890年(明治23年)8月には早くも入幕した。 167cm、103kg。突っ張りを得意とし、闘志に満ちた取り口は調子に乗ると実力以上の活躍を見せた。また立合いの汚い力士が多かった大阪相撲において立合いがきれいなことで知られた。1893年(明治26年)10月には8戦全勝を記録。
大纒 千代吉(おおまとい ちよきち、1863年(文久3年) … 大纒 千代吉(おおまとい ちよきち、1863年(文久3年) - 1934年(昭和9年)10月14日)は、現在の千葉県船橋市馬込町出身で出来山部屋に所属した大相撲力士。本名は鈴木 千代吉→松枝 忠三。最高位は前頭筆頭。8代出来山。 先代大纒の出来山部屋に入門し、1885年5月場所で序ノ口に就く。四股名は初めは「當り島」を名乗り、後に師匠の四股名の「大纒」を名乗った。1889年1月に十両に上がり、1891年5月に新入幕を果たした。1894年1月、西前頭4枚目で大関小錦(のち横綱)に勝ち、6勝2敗1分の成績を収めた。攻めや守りに技を使いこなす取り口を見せた。最高位の前頭筆頭まで進んだ1899年1月に「出来山」と改名した。
直原 守次郎(ちょくはら もりじろう、1863年(文久3年9… 直原 守次郎(ちょくはら もりじろう、1863年(文久3年9月) - 1921年(大正10年)7月25日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 美作国久米南条郡(のち岡山県久米郡吉岡村→柵原町、現・美咲町)生まれ。閑谷学校で学び、農業を営む。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において岡山7区から無所属で立候補したが落選した。同年9月の第4回衆議院議員総選挙では自由党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1898年3月の第5回衆議院議員総選挙は不出馬。1902年の第7回衆議院議員総選挙では岡山県郡部から立憲政友会公認で立候補したが落選した。1921年に死去した。
山辺 丈夫(やまのべ たけお、1851年12月30日〈嘉永4… 山辺 丈夫(やまのべ たけお、1851年12月30日〈嘉永4年12月8日〉 - 1920年〈大正9年〉5月14日)は、日本の武士(津和野藩士)、明治期の紡績技師・実業家。従五位。 東洋紡(東証プライム)の創業者である。 嘉永4年(1851年)、石見国津和野城下の森町堀内にて津和野藩重臣・清水格亮(大目付、側用人を歴任し、明治維新後は権大参事を務めた)の二男として生まれる。幼名は虎槌または善蔵で、後に丈夫と改めた。4歳の時に同藩士の山辺正義の養子となる。 津和野潘の藩校であった養老館に学んだ後、1870年(明治3年)に藩の奨学制度によって文学修行の命を受け上京。当初は同藩出身の福羽美静の培達塾で学んでいたが、元来洋学を志していたため、西周の育英舎や中村敬宇の英学同人舎に移り英語や洋学を学んだ。
9代 吉野 周太郎(よしの しゅうたろう、1851年12月2… 9代 吉野 周太郎(よしの しゅうたろう、1851年12月24日(嘉永4年12月2日)- 1911年(明治44年)8月2日)は、明治期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・九八郎。 陸奥国信夫郡八島田村(福島県信夫郡野田村、吾妻町を経て現:福島市八島田。当時は越後新発田藩の領地。)に於いて名主吉野安兵衛の四男として生まれる。兄・周太郎の死後に9代周太郎を襲名し、1898年(明治31年)4月に家督を相続した。 1897年(明治30年)以降、第百七国立銀行取締役、同頭取などを務めた。1904年(明治37年)9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられ、 1911年8月、在任中に死去した。
瀧川 辨三(たきがわ べんぞう、嘉永4年11月21日(185… 瀧川 辨三(たきがわ べんぞう、嘉永4年11月21日(1851年12月13日) - 大正14年(1925年)1月12日)は、日本の実業家、政治家。 1884年、神戸で興したマッチ製造会社(精燧社)が成功、精燧社は数々の会社を吸収して東洋燐寸株式会社と改名し、辨三は「日本のマッチ王」と呼ばれるようになる。神戸のガス・水道・電気・築港などの公共事業にも参画した。神戸商工会議所会頭、貴族院多額納税者議員(1915年1月21日 - 1918年9月28日)などを歴任し1925年没。享年75。 嘉永4年(1851年)11月21日長府藩士瀧川清の二男として生まれた(戸籍では兵庫県平民)。幼名は百十郎、通称は武熊。
尾形 兵太郎(おがた ひょうたろう、嘉永4年11月14日(1… 尾形 兵太郎(おがた ひょうたろう、嘉永4年11月14日(1851年12月6日)- 昭和9年(1934年)1月4日)は、衆議院議員(憲政本党)、弁護士。 岡山藩士尾形徳蔵の長男として岡山城下上内田町(現在の岡山市北区)に生まれる。岡山藩藩学で漢学を学んだ後、1865年(元治2年)に岡山兵学館に入り、洋式兵学を学んだ。1870年(明治3年)、兵学三等教授に就任するが、翌年の廃藩置県で藩兵が廃止されるとともに、兵学館も閉鎖となった。1876年(明治9年)、代言人制度の発足とともに代言人の免許を取得し、岡山で開業した。翌年、神戸に移り、さらに1881年(明治14年)に大阪に移った。 憲政本党に入党し、機関紙『関西週報』の発行にあたった。
能川 登(のがわ のぼる、1851年12月5日(嘉永4年11… 能川 登(のがわ のぼる、1851年12月5日(嘉永4年11月13日)- 1910年(明治43年)4月7日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・辰太郎。号・西京農夫。 加賀国石川郡本吉町(金沢県石川郡美川町、石川県石川郡美川町を経て現白山市美川本吉町)で、船主・能川太平治の長男として生まれる。金沢の叔父・畑春斎宅に寄寓し漢学を修めた。13歳で帰郷し、郷校開道館・素読教師、加賀藩銃卒取締、駅逓取締を務めた。1879年(明治12年)家督を相続。 1874年(明治7年)大阪に出て法学を研究し、1877年(明治8年)京都に移り、草場船山に師事し漢学を修めた。1878年(明治9年)9月、京都米商会所の創立委員として上京し、政府に出願をしたが許可を得られなかったため、内務卿大久保利通に面会して允許の内諭を得て帰京した。
奥宮 正治(おくみや まさはる、嘉永4年11月12日(185… 奥宮 正治(おくみや まさはる、嘉永4年11月12日(1851年12月4日) - 1927年(昭和2年)7月20日)は、明治時代の司法官僚。大審院検事。宮城控訴院検事長。幼名は猪左馬。 奥宮慥斎の長男として土佐高知藩領土佐郡布師田村(現高知市布師田)に生まれる。1873年(明治6年)司法省に出仕する。1881年(明治14年)検事に進み、1890年(明治23年)広島地方裁判所検事正となり、神戸地方裁判所検事正、横浜地方裁判所検事正を歴任し、1896年(明治29年)司法書記官に任じた。1899年(明治32年)大審院検事となり、のち宮城控訴院検事長に就任した。
栗野 慎一郎(くりの しんいちろう、嘉永4年11月7日(18… 栗野 慎一郎(くりの しんいちろう、嘉永4年11月7日(1851年11月29日) - 昭和12年(1937年)11月15日)は、明治・大正期の日本の外交官。初代駐フランス特命全権大使。
二代目 中村 翫右衛門(なかむら かんえもん、嘉永4年10月… 二代目 中村 翫右衛門(なかむら かんえもん、嘉永4年10月14日〈1851年11月7日〉 - 1919年〈大正8年〉4月27日)は歌舞伎俳優。本名、三井 梅之助。初名、初代中村梅之助、梅雀から1913年中村翫右衛門と改名。4代目市川門之助、4代目中村芝翫の門弟。三代目中村翫右衛門は次男金次郎。屋号、駒村屋。 故郷は本庄で、長兄の中村芝三郎、次兄の梅三郎とともに深谷で地方歌舞伎の劇団「児桜座」を組み、旅回りなどをしていた。明治初期に20代で一座を離れて上京し、浅草の小芝居小屋「柳盛座」の役者となり、中村梅雀を名乗る。人気役者として柳盛座座長を務め、39歳のときに、東京市下谷区竹町で小間物の行商していた三井鋳三郎の娘婿となった。
井田 武雄(いだ たけお、嘉永4年10月8日(1851年11… 井田 武雄(いだ たけお、嘉永4年10月8日(1851年11月1日) - 昭和8年(1933年)5月22日)は、日本の医師、実業家、政治運動家。号は陸舟。鳥取県西伯郡中浜村(現在の境港市)出身。四谷病院、後楽堂医院長。東京府平民。 井田義枝の次男として生まれた。 慶応元年(1865年)長崎に出て長崎養生所(現・長崎大学医学部)に学び、蘭方医学を修めた。 明治7年(1874年)長崎養生所を出た。明治10年(1877年)の西南戦争に警視庁医員として従軍し功をたてる。明治11年(1878年)海軍軍医に転じ、軍艦「鳳翔号」軍医として朝鮮に派遣され、朝鮮人の診療に活躍した。 帰国後海軍を辞し、養神病院長となり、明教生命保険の設立計画をした。
根本 正(ねもと しょう、1851年10月25日(嘉永4年1… 根本 正(ねもと しょう、1851年10月25日(嘉永4年10月1日) - 1933年(昭和8年)1月5日)は、幕末の水戸藩士、明治・大正時代の衆議院議員。帝国教育会東京府会員、殖民協会幹事などを歴任し、1898年(明治31年)第5回総選挙以降、連続当選10回。未成年者喫煙禁止法・未成年者飲酒禁止法を提唱し、国民教育授業料全廃の建議、水郡線鉄道建設に関する建議等と共に成立させた。 常陸国那珂郡東木倉村(現・茨城県那珂市)の村役人の家に生まれ、祖父・半次衛門に読み書きを習い、1860年(万延元年)には神職・佐川伊予之介の塾に入って漢籍を学ぶ。1863年(文久3年)、親族の彰考館総裁・豊田天功の門人となって水戸学を学び、翌1864年(元治元年)の天功死後にはその息子・小太郎に仕えた。