スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
小池 恒(こいけ こう、1965年(昭和40年)6月28日 … 小池 恒(こいけ こう、1965年(昭和40年)6月28日 - )は、日本の実業家。 小池聰行(株式会社オリジナルコンフィデンス創業者)の長男として東京都に生まれた。東京大学教育学部附属高校卒業後、明治大学法学部法律学科卒業。セイコー勤務を経て1991年、オリジナルコンフィデンスに入社。1999年10月、㈱おりこんダイレクトデジタルを設立し、2001年6月、㈱オリコン(旧オリジナルコンフィデンス)を株式取得により子会社化。オリコン・グループCEOに就任する。同社が発表するオリコンチャートは日本で最も知名度のある音楽ヒットチャートとなっている。また、2012年には岡本翔太郎のペンネームでサスペンス小説『正義と悪魔』を上梓した。
小島 又雄(こじま またお、1935年6月28日 - 201… 小島 又雄(こじま またお、1935年6月28日 - 2015年6月4日)は、日本の実業家。住友金属工業社長を務めた。 東京都出身。1954年 東京大学教育学部附属高等学校(現在の東京大学教育学部附属中等教育学校)卒業。1958年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に住友金属工業に入社。 経理部長、支配人、取締役、常務を経て、1992年6月に副社長に就任し、1996年6月から2000年6月までに社長を務め、2000年6月から2001年6月までに会長を務めた。社長在任時には、住友シチックスとの合併やシームレスパイプの設備更新などの事業拡大に取り組んだ。 1999年5月から2001年5月までに関西経済連合会副会長を務め、住友特殊金属取締役も務めた。
田中 健五(たなか けんご、1928年(昭和3年)6月4日 … 田中 健五(たなか けんご、1928年(昭和3年)6月4日 - 2022年(令和4年)5月7日)は、日本のジャーナリスト、編集者、実業家。『諸君!』、『文藝春秋』、『週刊文春』編集長を経て、文藝春秋社長(第7代)。 広島県広島市出身。海軍兵学校教授であり、高松宮宣仁親王に英語を指導したことでも知られる田中酉熊の五男として生まれる。 都立一中から1945年(昭和20年)4月、海軍兵学校に第77期生として入学するも敗戦により退校、旧制東京高校を経て、1953年東京大学文学部独文科を卒業。就職難の時代、たまたま文藝春秋新社(現・文藝春秋)の試験を受け入社。半藤一利は同期生。当時の文藝春秋は社員数100人にも満たない小さな会社だった。
渡邉 恒雄(わたなべ つねお、1926年〈大正15年〉5月3… 渡邉 恒雄(わたなべ つねお、1926年〈大正15年〉5月30日 - 2024年〈令和6年〉12月19日)は、日本の新聞記者・実業家。株式会社読売新聞グループ本社代表取締役主筆。位階は正三位、勲等は旭日大綬章。「ナベツネ」の通称で知られ、読売関係者の間では「ワタツネ」と呼ばれていた。株式会社読売新聞社社長、読売ジャイアンツの球団オーナー、株式会社読売ジャイアンツ取締役最高顧問、社団法人日本新聞協会会長を歴任した。日本のプロ野球界に関連する渡邉の伝説は数知れず、自ら「俺は最後の独裁者だ」と語ったとされ、マスメディアにおいて「野球界の独裁者」または単に「独裁者」と呼ばれていることについては渡邉自身が認めていた。
氏家 齊一郎(うじいえ せいいちろう、1926年(大正15年… 氏家 齊一郎(うじいえ せいいちろう、1926年(大正15年)5月17日 - 2011年(平成23年)3月28日)は、日本のジャーナリスト、実業家。位階は正三位。 日本テレビ放送網代表取締役会長、日本民間放送連盟会長、読売新聞グループ本社取締役相談役を歴任。位階は正三位。読売新聞グループの総帥である渡邉恒雄の盟友として、同グループ内、特に日本テレビにおいて強大な発言力を有していた。趣味はパソコン。 また、東京都歴史文化財団理事長、東京都現代美術館館長も務めた。 古河合名理事を務めた氏家貞一郎の長男として東京に生まれる。 旧制東京高等学校(現:東京大学教育学部附属中等教育学校)で同級生の網野善彦、1年先輩の渡邉恒雄と知り合う。
小倉 昌男(おぐら まさお、1924年12月13日 - 20… 小倉 昌男(おぐら まさお、1924年12月13日 - 2005年6月30日)は、日本の実業家、ヤマト福祉財団元理事長。ヤマト運輸の『クロネコヤマトの宅急便』の生みの親である。東京都出身。 小倉康臣の次男として代々木に生まれた(長男は早世)。1937年幡代小学校卒業。同年、当時府立一中を上回る最難関の官立東京高等学校尋常科(現・東京大学教育学部附属中等教育学校)に入学。1942年秋、東京高等学校高等科卒業。1943年秋、東京帝国大学経済学部入学。1947年、東京大学経済学部(旧制)卒業。1948年9月1日、父・小倉康臣が経営する大和運輸(現・ヤマトホールディングス)に入社。 入社から半年後の1949年2月2日に肺結核を患い4年間の入院生活を送るが、大和運輸がGHQ関連の輸送業務を担当していた為、日本国内ではほとんど入手困難だったストレプトマイシンを米軍ルートで入手できた事もあり、当時としては奇跡的に回復し、1953年7月9日に退院し復職した。
住吉 弘人(すみよし ひろと、1922年(大正11年)12月… 住吉 弘人(すみよし ひろと、1922年(大正11年)12月7日 - 2008年(平成20年)1月9日)は、日本の経営者。コスモ石油社長を務めた。三井物産元社員で田中代表取締役社長の住吉望は三男。 東京都出身。神戸銀行元会長や石原産業社長を歴任した住吉四郎の長男として生まれる。 旧制東京高等学校卒業。1944年(昭和19年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に日本興業銀行に入行。1971年(昭和46年)1月に取締役、1973年(昭和48年)12月に常務取締役に就任。1974年(昭和49年)に大協石油に転じ、常務、専務を経て、1978年(昭和53年)8月に副社長に就任。 1986年(昭和61年)4月に大協石油と丸善石油の合併しコスモ石油設立に伴い、同社副社長に就任し、1987年(昭和62年)6月には社長に昇格。
舘 豊夫(たて とよお、1920年(大正9年)1月3日 - … 舘 豊夫(たて とよお、1920年(大正9年)1月3日 - 1998年(平成10年)4月9日)は、日本の実業家。三菱自動車工業社長。 大日本炭鉱の専務を務めた舘香緑・すえ夫妻の四男として、東京府東京市麹町区(現・東京都千代田区平河町)に生まれる。舘家は、旧伊勢国桑名藩士の家柄で、陸地測量師の館潔彦は祖父。 旧制東京高校、東京帝国大学経済学部を卒業後、1942年に三菱重工業に入社。三菱商事への出向時代には造船の営業を担当。 1970年6月、三菱重工と米・クライスラーとの合弁で発足する三菱自動車工業に移籍。1977年、取締役に選任され、常務を歴任後、1983年に社長となる。トップ時代には1988年に三菱自動車を東証1部に上場させ、「三菱自動車中興の祖」と呼ばれる。
吉國 二郎(よしくに じろう、1919年6月11日 - 19… 吉國 二郎(よしくに じろう、1919年6月11日 - 1997年9月5日)は、日本の大蔵官僚、実業家。位階は従三位。国税庁長官(第11代)、大蔵事務次官、横浜銀行頭取を務めた。 神奈川県出身。旧制東京高等学校を経て1941年11月、東京帝国大学法学部法律学科卒業後、大蔵省に入省(預金部兼大臣官房文書課)。短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。1943年6月、海軍省調査課勤務となる。同年11月、海軍主計大尉に昇進。1945年9月に予備役に編入された。 1945年10月に下京税務署長。主税局税制第二課長、理財局証券第二課長、理財局証券第一課長、主税局総務課長、主税局総務課長兼主税局国際租税課長、主税局総務課長、大臣官房文書課長、大臣官房財務調査官(主税局担当)、東京国税局長などを経て、1967年8月に証券局長、同年11月に主税局長、1969年より国税庁長官に就任。
松井 武(まつい たけし、男性、1918年5月10日 - 2… 松井 武(まつい たけし、男性、1918年5月10日 - 2002年9月22日)は、日本の実業家、第2代松井証券社長。 松井房吉商店(現在の松井証券)創業の日(1918年5月10日)に創業者・松井房吉の長男として生まれる。旧制府立一中(現在の東京都立日比谷高等学校)、東京高等学校 (旧制)、東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業した。1949年、松井證券の代表取締役社長に就任した。第二次世界大戦で房吉がほとんどすべての財産を失っていたが、戦後約40年間堅実な経営を続け、資本的に完全に独立した証券会社として会社を存続させる。1987年に三菱銀行出身の弟の松井正俊に社長を譲り、会長に就任した。1990年以降、娘婿で日本郵船出身の松井道夫(当時常務取締役営業本部長)が社内改革を始めると、これに口を挟まず陰で改革を支えた。
松岡 謙一郎(まつおか けんいちろう、1914年(大正3年)… 松岡 謙一郎(まつおか けんいちろう、1914年(大正3年)6月13日 - 1994年(平成6年)12月23日)は、日本の実業家。日本教育テレビ(NET、現:テレビ朝日)副社長、日本ケーブルテレビジョン社長を務めた。 松岡洋右の長男としてワシントンで生まれる。東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同盟通信に入社。短期現役海軍主計科士官(7期)を志願し、1941年8月、海軍経理学校に入校し海軍主計中尉に任官。同年12月、経理学校を卒業。第一南遣艦隊司令部付となりカムラン湾に赴任。第11根拠地隊付(サイゴン)、第2海軍航空工廠会計部勤務(木更津)を歴任。1943年(昭和18年)6月、主計大尉に進む。同年、海軍省軍務局第4課(大本営報道部)に転じ終戦を迎えた。
鈴木 治雄(すずき はるお、1913年(大正2年)3月31日… 鈴木 治雄(すずき はるお、1913年(大正2年)3月31日 - 2004年(平成16年)7月3日)は、日本の実業家。昭和電工社長・会長や企業メセナ協議会初代会長、経団連常任理事、東京商工会議所監事などを歴任。経済同友会設立や湘南国際村発起にも関わった。フンボルト大学ベルリン名誉博士。 神奈川県葉山村生まれ。東京に転居後、麹町の永田町小学校(現・麹町小学校)に入学するも、一家の転居に伴い、3年時に白金小学校に転入し卒業。卒業後は旧制東京高等学校に入学。1936年、東京大学法学部を卒業し野村合名会社(現・野村証券)へ入社するが、1939年に昭和電工創立に伴い同社へ入社した。軍需産業を推進した理由で戦後公職追放されたものの、1951年に同社に復帰し、1971年に社長、1981年には会長に就任。
松下 正治(まつした まさはる、英語:Masaharu Ma… 松下 正治(まつした まさはる、英語:Masaharu Matsushita, 1912年9月17日 - 2012年7月16日)は、日本の実業家。パナソニック(旧・松下電器産業)の代表取締役社長、代表取締役会長、取締役相談役名誉会長を歴任した。位階は従三位。松下幸之助の娘婿。東京府出身。2018年現在、同社の歴代社長8人の中で唯一、関西以外の出身者(他は全て最終学歴まで関西育ち)である。
村井 順(むらい じゅん、1909年〈明治42年〉2月5日 … 村井 順(むらい じゅん、1909年〈明治42年〉2月5日 - 1988年〈昭和63年〉1月12日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。初代京都府警本部長、初代内閣総理大臣官房調査室長(現・内閣情報調査室)、綜合警備保障の創業者で、社長・会長。 東京出身。東京高等学校 (旧制)を経て東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1935年(昭和10年)内務省に入省し、1939年(昭和14年)に福岡県警防課長から、汪兆銘の南京政府を実質的に支配していた上海の興亜院に転出し、中国大陸における特高警察活動や、思想文化統制に従事。 敗戦後は、青森県警察部長を務めている最中に吉田茂に才気を見出され、第1次吉田内閣で内閣総理大臣秘書官に抜擢されるも、のちに内務省に戻り、廃止された特高警察の代わりとして設立された、内務省警保局公安一課(公安警察)の課長として、情報関係業務に従事。
伊部 恭之助(いべ きょうのすけ、1908年7月28日 - … 伊部 恭之助(いべ きょうのすけ、1908年7月28日 - 2001年4月16日)は、日本の実業家。住友銀行頭取・会長。関西経済同友会代表幹事、日仏クラブ世話人。 現在の東京都新宿区出身。東京開成中学(旧制)、東京高校(旧制)を経て、1933年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年住友合資会社入社。のちに住友銀行に移り有楽町支店長、東京事務所長などを経て、1957年取締役。常務、専務、副頭取等を歴任し、浅井孝二の後を受けて、1973年頭取に就任した。 頭取在任中、磯田一郎副頭取と共に経営危機に陥った安宅産業を伊藤忠商事に救済合併させたり、マツダやアサヒビールの再建に取り組んだ。1977年会長、のち相談役、1983年最高顧問。
日向 方齊(新字: 日向 方斉、ひゅうが ほうさい、明治39… 日向 方齊(新字: 日向 方斉、ひゅうが ほうさい、明治39年〈1906年〉2月24日 - 平成5年〈1993年〉2月16日)は、日本の実業家。住友金属工業名誉会長、第8代関西経済連合会会長(1977年 - 1987年)。山梨県出身。 新日鐵会長、経団連会長の稲山嘉寛が「ミスター・カルテル」と呼ばれ、企業経営にもつねに「協調哲学」を打ち出したのに対し、日向は、市場経済思想に基づく「競争哲学」の信奉者として知られ、政府との対決も辞さなかった。勲一等旭日大綬章受章。 山梨県西八代郡下部町(現・南巨摩郡身延町)出身。生家は極貧であったが、篤志家の森家(日向の妻は森家の長女である)の援助と奨学金により、旧制東京高等学校を経て、1931年東京帝国大学法学部卒業。