スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
西村 修(にしむら おさむ、1971年9月23日 - 202… 西村 修(にしむら おさむ、1971年9月23日 - 2025年2月28日)は、日本の政治家、プロレスラー。血液型A型。東京都文京区出身、文京区議会議員。 錦城学園高校在学中に新日本プロレス学校に入り、卒業後の1990年4月、新日本プロレスに入門。 4月21日、沖縄県糸満市西崎総合体育館の飯塚孝之戦でデビュー。7月17日、留萌市スポーツセンター大会でデビュー2戦目の小島聡と対戦。6分、逆エビ固めで勝利。初勝利を挙げる。 3月の第4回ヤングライオン杯で準優勝後、同年8月に米国武者修行に出発。渡米後、フロリダに移動しヒロ・マツダのもとでトレーニングを受ける。ブライアン・ブレアーのゴールドジムでウェイトトレーニングを行う。
田中 角栄(たなか かくえい、旧字体: 田中 角榮、1918… 田中 角栄(たなか かくえい、旧字体: 田中 角榮、1918年〈大正7年〉5月4日 - 1993年〈平成5年〉12月16日)は、日本の政治家、実業家、建築士。号は越山。 衆議院議員(16期)、郵政大臣(第12代)、大蔵大臣(第67・68・69代)、通商産業大臣(第31代)、自由民主党総裁(第6代)、内閣総理大臣(第64・65代)を歴任した。 自民党内最大派閥である田中派を率い、日本列島改造論を計画・実行し、他にも様々な政策を成し遂げたことでも有名であり、今太閤や影の総理などと呼ばれ、多大な影響力をもった政治家として知られる。 自民党最大派閥の田中派(木曜クラブ)を率い、巧みな官僚操縦術を見せる田中は、党人政治家でありながら官僚政治家の特長も併せ持った稀な存在だった。
原 茂(はら しげる、1913年1月26日 - 1997年1… 原 茂(はら しげる、1913年1月26日 - 1997年12月1日)は、日本の政治家。位階は従三位。日本社会党衆議院議員(10期)。 なお、元日本炭鉱労働組合(炭労)委員長の同名人物は別人である。 長野県諏訪郡玉川村(現茅野市)出身。旧制錦城中学(錦城学園高等学校)卒業、東京外国語学校特別研修講座修了。1946年に社会党に入党。1952年の総選挙で旧長野3区から左派社会党公認で立候補して当選。以来連続10回当選、1962年から社会党長野県本部委員長、1966年社会党本部中央執行委員、財務委員長、1976年代議士会長などを務めた。1967年には日ソ文化交流調印式に社会党代表として調印した。1979年の総選挙では同じ選挙区から元長野県議の串原義直も立候補したため両者で票を食う形になりともに落選した。
大河原 一次(おおかわら いちじ、1903年(明治36年)9… 大河原 一次(おおかわら いちじ、1903年(明治36年)9月20日 - 1988年(昭和63年)3月7日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員。 福島県岩瀬郡長沼町(現須賀川市)で生まれる。1921年(大正10年)錦城中学校(現錦城学園高等学校)卒を経て、早稲田大学高等師範英文科を修了した。 1927年(昭和2年)古河鉱業(現古河機械金属)に入社し好間鉱業所に配属された。1930年(昭和5年)に退社し労働運動、農民運動に加わる。1945年(昭和20年)の終戦を迎えて常磐地方で日本社会党の支部と労働組合の結成に尽力し、日本炭鉱労働組合常磐地方本部執行委員長に就任し8期在任した。その他、福島県労働対策審議会委員などを務めた。
砂間 一良(すなま いちろう、1903年2月8日 - 199… 砂間 一良(すなま いちろう、1903年2月8日 - 1992年12月12日)は、日本のジャーナリスト、政治家。元日本共産党衆議院議員。民医連運動発祥の地とされる、大崎無産者診療所で看護師を務めていた、社会運動家の秋子は配偶者。 静岡県田方郡土肥村(土肥町を経て現在は伊豆市)出身。錦城中学校、第一高等学校を経て、1928年東京帝国大学経済学部を卒業。一高在学中の1923年9月1日に発生した関東大震災では、新人会のメンバーと「一高震災防護団」を立ち上げ、被災者救援活動を行った。また、帝大入学後は新人会へ加入、1927年には無産者新聞へ無給社員として入る。翌年の三・一五事件以後責任者に就くと共に、日本共産党へ入党する。
竹内 俊吉(たけうち しゅんきち、1900年2月5日 - 1… 竹内 俊吉(たけうち しゅんきち、1900年2月5日 - 1986年11月8日)は日本の政治家、文人。青森県知事、青森放送会長などを務めた。長男の竹内黎一も政治家で、科学技術庁長官などを務めた。 1900年、青森県西津軽郡出精村(後の木造町、現在のつがる市)の農家に生まれる。尋常小学校卒業後、三田英学校を中退し、1925年に東奥日報に入社。『サンデー東奥』編集責任者、社会部長、整理部長、取締役を歴任。1940年に退社(後に顧問)。青森県議会議員を経て、1942年の第21回衆議院議員総選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受け、初当選。 第二次世界大戦後は公職追放されたが、追放解除後に民主党公認で立候補した1955年より衆議院青森県第2区で3期連続で当選。
椎名 悦三郎(しいな えつさぶろう、1898年〈明治31年〉… 椎名 悦三郎(しいな えつさぶろう、1898年〈明治31年〉1月16日 - 1979年〈昭和54年〉9月30日)は、日本の官僚、政治家。岸信介の腹心 として満洲国の運営に関わり、また商工次官として統制経済を推進、軍需次官も務めた。戦後は政界入りし、内閣官房長官(岸内閣)、通商産業大臣(19代・28代)、外務大臣(94-95代)、自由民主党において政調会長、総務会長、副総裁を歴任した。田中角栄の後継の総裁として三木武夫を指名した「椎名裁定」を下した人物として知られている。椎名素夫は次男、血縁のない叔父に後藤新平がいる。 1898年(明治31年)に岩手県胆沢郡水沢町(水沢市を経て、現在の奥州市)に生まれる。
上原 正吉(うえはら しょうきち、1897年(明治30年)1… 上原 正吉(うえはら しょうきち、1897年(明治30年)12月26日 - 1983年(昭和58年)3月12日)は、日本の実業家、政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。参議院議員(5期、自由民主党)。科学技術庁長官(第16代)。 若き頃、大正製薬創業者の石井絹治郎に見出され、以後、懐刀として活動、後に第3代目社長に就任した。また高額納税者番付の常連としても知られ、1964年-1966年、1976年、1977年、1979年の計6回トップを占めた。甥は参議院議長、埼玉県知事を務めた土屋義彦。 埼玉県北葛飾郡田宮村(現在の杉戸町)に、中学校教師の六男として生まれる。幼くして両親と死別し、高等小学校卒業後兄を頼って上京。
千葉 三郎(ちば さぶろう、1894年(明治27年)1月25… 千葉 三郎(ちば さぶろう、1894年(明治27年)1月25日 - 1979年(昭和54年)11月29日)は、大正-昭和期の政治家。位階は正三位。 宮城県知事、労働大臣のほか、東京農業大学学長も務めた。 1894年(明治27年)、千葉県茂原市に生まれた。錦城中学、一高を経て、1919年(大正8年)東京帝国大学仏法科を卒業後、三菱鉱業(現・三菱マテリアル)に入社するも、ほどなくして退職し、米国プリンストン大学に留学、石油業を学んだ。同大大学院を修了し、1922年(大正11年)に帰国。 帰国後は当時の鐘紡社長・武藤山治の片腕となり、大日本実業組合連合会理事に就任した。1925年(大正14年)、旧千葉2区における衆議院補欠選挙に、武藤が会長を務める実業同志会から立候補、初当選した。
松本 真一(眞一、まつもと しんいち、1892年(明治25年… 松本 真一(眞一、まつもと しんいち、1892年(明治25年)11月20日 – 1977年(昭和52年)8月8日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 静岡県で松本鋭市郎の長男として生まれる。4歳となり父の郷里和歌山県日高郡龍神村(現田辺市)に転居した。苦学し錦城中学校(現錦城学園高等学校)、第七高等学校造士館を経て、1920年(大正9年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。 1920年7月、台湾銀行に入行した。1926年(大正15年)7月、和歌山商工会議所書記長に転じ、1931年(昭和6年)5月まで在任した。その後、紀南新聞社長、熊野太陽社長に就任した。 1932年(昭和7年)8月、補欠選挙で和歌山県会議員に当選し、1935年(昭和10年)10月に再選され1939年(昭和14年)10月に任期満了となった。
伊藤 清(いとう きよし、1890年(明治23年)12月7日… 伊藤 清(いとう きよし、1890年(明治23年)12月7日 - 1981年(昭和56年)6月12日)は、大正から昭和期の弁護士、裁判官、政治家。衆議院議員。 千葉県匝瑳郡福岡町(八日市場町、八日市場市を経て現匝瑳市)で、伊藤啓三郎の二男として生まれる。錦城中学校(現錦城学園高等学校)、第三高等学校を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業した。 1918年8月、司法官試補に任官し、東京地方裁判所予備判事、長崎地方裁判所判事を歴任し、1921年(大正10年)7月に退官した。留学してロンドン大学、ベルリン大学で学び、在学中に司法省から英独の労働法研究の委嘱を受けた。1925年(大正14年)に帰国し弁護士を開業した。
宋 鎮禹(そう ちんう、ソン・ジヌ、1890年5月8日 - … 宋 鎮禹(そう ちんう、ソン・ジヌ、1890年5月8日 - 1945年12月30日)は、朝鮮の独立運動家、政治家。本貫は新平宋氏。号は「古下」(コハ、고하)。 全羅南道潭陽郡に生まれる。1907年に金性洙とともに日本に留学し、1915年に明治大学を卒業後、帰国して私立中央学校校長に就任する。1919年の三・一独立運動に参加した容疑で、1年間投獄される。1921年から1924年まで東亜日報第3代社長、1927年から1937年まで第6代社長を務め、民族主義右派の立場で論陣を張った。1945年12月1日に第8代社長に就任した。 日本の敗戦を控えた1945年8月11日に、朝鮮総督府は京畿道知事を通じて、朝鮮における資本家及び地主勢力を代弁することができる宋鎮禹と接触し、「行政委員会」を構成してくれる事を要請した。
2代 本間 千代吉(ほんま ちよきち、1888年〈明治21年… 2代 本間 千代吉(ほんま ちよきち、1888年〈明治21年〉6月25日 - 1959年〈昭和34年〉7月6日 / 7月16日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家、武道家。貴族院多額納税者議員。幼名・仙八 / 千八、名は応義(まさよし)。 群馬県佐位郡市場村(赤堀村、赤堀町を経て現伊勢崎市)で、剣道範士本間三郎の二男として生まれる。1907年(明治40年)東京府の錦城中学校を卒業、中央大学を中退。 伯父の初代千代吉の養子となり、1917年(大正6年)家督を相続し2代千代吉を襲名した。1917年以降、上毛貯蓄銀行、群馬県農工銀行、伊勢崎銀行、群馬銀行、粕川水電などの重役を歴任したほか、赤堀村農会長、同村会議員などを務めた。
長内 健栄(おさない けんえい、1886年〈明治19年〉8月… 長内 健栄(おさない けんえい、1886年〈明治19年〉8月18日 - 1961年〈昭和36年〉12月10日)は、日本の政治家、農業経営者。衆議院議員、大光寺村長。 青森県南津軽郡大光寺村(現平川市)で、初代大光寺村長・長内建美の長男として生まれる。東奥義塾3年時に東京の錦城中学校に転じ、1909年(明治42年)、早稲田大学政治経済科を卒業した。 その後帰郷して、1914年(大正3年)、大光寺村会議員に当選。その後、大光寺村長、消防組頭、青森県会議員を歴任。立憲政友会支持一色であった大光寺村において、立憲民政党に入党し、同党南津軽郡分所幹事、同青森県支部幹事を務めた。 1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙に青森県第2区から翼賛政治体制協議会(翼協)の推薦を受けずに出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。
秋田 清(あきた きよし、1881年〈明治14年〉8月29日… 秋田 清(あきた きよし、1881年〈明治14年〉8月29日 - 1944年〈昭和19年〉12月3日)は、日本の政治家。第30代衆議院議長、厚生大臣、拓務大臣を務めた。 徳島県出身。旧制徳島中学(現:徳島県立城南高等学校)、日本法律学校(現:日本大学)、東京法学院(現:中央大学)卒業。高知地方裁判所の判事、二六新報の編集および社長職を経て政界入り。1932年(昭和7年)、衆議院議長に就任。1937年(昭和14年)、内閣参議に就任。1939年(昭和14年)、阿部内閣で厚生大臣に就任。1940年(昭和15年)、第2次近衛内閣で拓務大臣に就任。1944年(昭和19年)12月3日死去。
島津 久賢(しまづ ひさよし / ひさたか、1881年(明治… 島津 久賢(しまづ ひさよし / ひさたか、1881年(明治14年)4月20日 - 1926年(大正15年)11月10日)は、明治から大正期の政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・相良、旧名・基直。 旧人吉藩主・相良頼基の六男として生まれる。1896年(明治29年)加治木島津家当主・島津健(とし、前当主・故島津久宝夫人、島津久徴六女)の養子となり、同年8月14日に家督を継承。1897年(明治30年)10月27日、久宝の戊辰戦争の功により特旨をもって男爵を叙爵した。 錦城中学校を経て、1906年(明治39年)早稲田大学政治経済科を卒業。1909年(明治42年)イギリスに留学し、政治学・法律学を学び、1910年(明治43年)10月に帰国した。
青木 才次郎(あおき さいじろう、1880年(明治13年)1… 青木 才次郎(あおき さいじろう、1880年(明治13年)12月21日 - 1954年(昭和29年)12月6日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・龍間。 茨城県西葛飾郡、のちの猿島郡五霞村(現五霞町)で、先代・青木才次郎の長男として生まれる。私立錦城中学校(現錦城学園高等学校)を経て、明治法律学校を修了した。1919年(大正8年)家督を相続し才次郎を襲名した。 青木組を組織して土木建築請負業を営み、茨城土木工業社長、水戸商工会議所議員などを務めた。 また、水戸市会議員、同参事会員、茨城県小作調停委員、同治水委員会委員、同耕地整理組合長などを歴任した。 1924年(大正13年)補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同年5月3日に就任し1925年(大正14年)9月28日まで在任。
浮谷 権兵衛(うきや ごんべえ、1878年(明治11年)2月… 浮谷 権兵衛(うきや ごんべえ、1878年(明治11年)2月18日 - 1950年(昭和25年)12月31日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、治水家、実業家。千葉県多額納税者。市川町名誉町長、葛飾瓦斯専務取締役、耕地整理組合長、東葛飾郡農会長、市川市農会長などを務めた。 先代・浮谷権兵衛(本楽)とヨシの長男善次郎として千葉県葛飾郡市川新田(現・市川市)に生まれ、17代権兵衛を襲名する。浮谷家は農業を営み、当主は権兵衛を名乗り、父は市川町長を務めたことがあった。錦城中学校、明治法律学校を卒業後、東葛飾郡市川町会議員、同郡会議員を歴任。1905年(明治38年)千葉県真間川周辺の水害を防ぐため土地改良事業を提唱する。
三枝 彦太郎(さいぐさ ひこたろう、1873年(明治6年)1… 三枝 彦太郎(さいぐさ ひこたろう、1873年(明治6年)10月22日 - 1929年(昭和4年)4月17日)は、明治後期から昭和初期の実業家・政治家。衆議院議員。 山梨県都留郡鹿留村(南都留郡桂村、東桂村鹿留を経て現都留市鹿留)で、三枝彦兵衛の長男として生まれる。東京錦城学校(現錦城学園高等学校)で学んだ。1898年(明治31年)家督を相続。 1902年(明治35年)合名会社電灯広告社を創立し代表社員に就任。その他、日本化工取締役、日本乳酸取締役、桂電燈取締役などを務めた。 1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙で山梨県第5区から立憲政友会公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
田所 美治(たどころ よしはる、明治4年4月13日(1871… 田所 美治(たどころ よしはる、明治4年4月13日(1871年5月31日) - 昭和25年(1950年)5月6日)は、日本の文部官僚・内務官僚・貴族院勅選議員。文部次官、錦鶏間祗候。 土佐藩士田所美之の長男として生まれる。第二高等中学校を首席で卒業。1895年(明治28年)7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。内務省に入り内務属となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。以後、愛媛県、宮城県、東京府の参事官を歴任した。その後、文部省に転じ、参事官、書記官、文部大臣秘書官、普通学務局長、文部次官を歴任した。また学習院御用掛、宮内省御用掛、学習院評議会会員を兼ねた。 1918年(大正7年)9月21日、貴族院議員に勅選され、退官した。
井上 準之助(いのうえ じゅんのすけ、1869年5月6日〈明… 井上 準之助(いのうえ じゅんのすけ、1869年5月6日〈明治2年3月25日〉- 1932年〈昭和7年〉2月9日)は、日本の政治家、財政家。日本銀行第9・11代総裁。山本、濱口、第2次若槻内閣で大蔵大臣に就任。貴族院議員。位階は従二位。 帝大卒業後に山本達雄の勧めで日本銀行に入行。日銀では高橋是清の知遇を受け営業局長にまで昇進。ニューヨークへの転勤を経て横浜正金銀行に招かれ、のちに高橋の計らいで古巣の日銀の総裁に任命される。日銀総裁時代に起きた昭和金融恐慌の際には高橋と共に混乱の収拾にあたった。 第2次山本内閣で大蔵大臣を務めた際は関東大震災の混乱の中でモラトリアムを断行する。経済界でも辣腕を振るい、第二の「渋沢」と称される存在となった。
山之内 一次(やまのうち かずじ、1866年12月12日〈慶… 山之内 一次(やまのうち かずじ、1866年12月12日〈慶応2年11月6日〉- 1932年〈昭和7年〉12月21日)は、日本の内務・鉄道官僚、政治家。第1次山本内閣の内閣書記官長、第2次山本内閣の鉄道大臣、貴族院勅選議員。 後の鹿児島県鹿児島市上之園町出身。鹿児島藩士・山之内時習の長男として生まれる。錦城学校を経て旧制第一高等学校卒業。1890年(明治23年)7月、東京帝国大学卒業後、内務省に入省。1899年(明治32年)3月、警保局保安課長となる。 1901年(明治34年)4月、官選青森県知事に任命。1904年(明治37年)4月、逓信省鉄道局長。1907年(明治40年)1月、南満州鉄道株式会社監理官となり、同年4月には帝国鉄道庁副総裁を兼任。
大久保 利武(おおくぼ としたけ、1865年5月7日〈慶応元… 大久保 利武(おおくぼ としたけ、1865年5月7日〈慶応元年4月13日〉- 1943年〈昭和18年〉7月13日)は、日本の内務官僚、政治家。日本赤十字社理事。位階・勲等・爵位は正二位勲一等侯爵。 1865年(慶応元年)4月13日、薩摩国鹿児島城下新照院通町に大久保一蔵(利通)と満寿子の三男として生まれる。幼名は三熊。1887年(明治20年)、第一高等中学校を卒業後、アメリカ合衆国に留学し、イェール大学を卒業。さらにドイツに留学し、ハレ大学、ハイデルベルク大学、ベルリン大学で学ぶ。 1894年(明治27年)に帰国。日清戦争で大本営付通訳官を務め、その後、台湾総督秘書官に就任。1896年(明治29年)9月、内務省に入省し、内務大臣秘書官に就任。
小松 謙次郎(こまつ けんじろう、1864年1月2日〈文久3… 小松 謙次郎(こまつ けんじろう、1864年1月2日〈文久3年11月23日〉- 1932年〈昭和7年〉10月15日)は、明治・大正期の官僚、政治家、貴族院議員。正三位勲一等。 信濃国埴科郡松代(現:長野県長野市松代町松代)に松代藩士横田数馬の次男として生まれる。和田英・横田秀雄の実弟。同藩士小松政昭の養子となる。藩校文武学校を経て、上京後、慶應義塾から帝国大学法科大学に転じ1888年(明治21年)に卒業。 司法省参事官、試験委員から逓信省に入り書記官となる。日露戦争中には韓国へ派遣され電信電話の普及に努める。逓信局長を経て次官で退官。同じくして1912年(大正元年)12月28日に貴族院議員に勅選された。