スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
大石 良(おおいし りょう、1973年7月20日 - )は、… 大石 良(おおいし りょう、1973年7月20日 - )は、日本の実業家。株式会社サーバーワークス創業者・代表取締役社長。 新潟県新潟市の経営者一族の家に生まれる。小学校時代にX1でプログラミングを始める。1992年新潟県立新潟高等学校卒業。高校ではフェンシング部に所属。1996年東北大学経済学部卒業。ピアノが弾けたので大学では軽音学部に入部し、冬はスキーサークルの活動にも参加した。 大学卒業後は丸紅に入社し、インターネットサービスプロバイダ事業に従事。その後インターネット・バブルが崩壊し事業から撤退することとなり、起業するために2000年に退社し、同年ウェブ専科(現サーバーワークス)設立、代表取締役就任。
神保 吉寿(じんぼ よしひさ、1970年6月17日 - )は… 神保 吉寿(じんぼ よしひさ、1970年6月17日 - )は、日本の実業家。株式会社チェンジホールディングス創業者。 岡山県倉敷市生まれ。愛媛県松山市など中国・四国地方各地を転々としたのち、中学校2年から新潟に移り、新潟県立新潟高等学校を経て、1994年岡山大学法学部卒業、アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)入社。システム開発やコンサルティングに従事したのち、インターネット・バブル期の勢いで1999年に退社し、アンダーセンコンサルティングの先輩が設立してホームページ事業を手掛けていたジェイワールドに入社。2001年京都で独立し、神保コンサルティングオフィス設立、代表。2003年アクセンチュア出身の福留大士、伊藤彰、金田憲治、石原徹哉の参画を得て、中小企業支援法に基づきチェンジを設立、代表取締役CEO。
近 健太(こん けんた、1968年〈昭和43年〉8月2日 -… 近 健太(こん けんた、1968年〈昭和43年〉8月2日 - )は、日本の実業家。トヨタ自動車12代目代表取締役社長・Chief Executive Officer兼Mobility 3.0 Office担当、トヨタ不動産取締役、トヨタファイナンシャルサービス監査役。 ウーブン・バイ・トヨタ代表取締役、日野自動車取締役などを歴任。 新潟県出身。1987年新潟県立新潟高等学校卒業。1991年に東北大学経済学部を卒業後、トヨタ自動車入社。秘書部主査を経て、2017年に経理部長。2018年に常務役員総務・人事副本部長、経理副本部長。2019年に先進技術開発カンパニーExecutive Vice President。
南場 智子(なんば ともこ、1962年〈昭和37年〉4月21… 南場 智子(なんば ともこ、1962年〈昭和37年〉4月21日 - )は、日本の実業家、経営者。株式会社ディー・エヌ・エー創業者、代表取締役会長。NPB・横浜DeNAベイスターズオーナー。 女性初の日本プロ野球オーナー会議議長。 石油卸売業経営者だった厳格な父の下に育てられる。新潟市立南万代小学校、新潟市立宮浦中学校、父が指定した新潟県立新潟高等学校へ進学し卒業。大学進学を期に上京を希望するも新潟大学へ行けと父に反対され、最終的に「新潟大は男子が多い」との母の刷り込みが功を奏してか、父が指定した津田塾大学学芸学部英文学科へ進学し卒業。大学4年次には成績1位の学生に与えられる奨学金で、姉妹校のブリンマー大学に1年間留学
白川 直樹(しらかわ なおき、1957年7月24日 - )は… 白川 直樹(しらかわ なおき、1957年7月24日 - )は、日本の実業家。武蔵大学経済学部卒。ニッコウトラベル代表取締役社長。
吉田至夫(よしだ のりお、1952年6月22日 - )は、日… 吉田至夫(よしだ のりお、1952年6月22日 - )は、日本の実業家。新潟クボタ代表取締役社長、全国クボタ農機連合会会長。
倉井 敏磨(くらい としきよ、1952年1月9日 - )は、… 倉井 敏磨(くらい としきよ、1952年1月9日 - )は、日本の実業家。三菱ガス化学代表取締役社長を経て、同社代表取締役会長、日本無機薬品協会副会長。 新潟県新潟市出身。新潟県立新潟高等学校を経て、1975年東北大学工学部卒業、三菱瓦斯化学(現三菱ガス化学)入社。2003年機能化学品カンパニー無機化学品事業部長。2006年執行役員機能化学品カンパニー無機化学品事業部長。2008年執行役員機能化学品カンパニープレジデント。2009年取締役常務執行役員に昇格。2012年代表取締役専務執行役員。2013年から代表取締役社長を務め、M&Aやトリニダード・トバゴでの生産体制整備などを進めた。2016年度市村産業賞本賞受賞。
堤 芳夫(つつみ よしお、1947年9月 - )は、日本の実… 堤 芳夫(つつみ よしお、1947年9月 - )は、日本の実業家。元独立行政法人農林漁業信用基金理事長。 新潟県生まれ。新潟県立新潟高等学校を経て、1970年東北大学法学部卒業、農林中央金庫入庫。1995年農林中央金庫金沢支店長。1997年農林中央金庫秘書役。1998年農林中央金庫総合企画部長。2000年農林中央金庫常務理事大阪支店長。2003年農中情報システム代表取締役社長。2005年農林漁業信用基金理事長。2011年責任あるまぐろ漁業推進機構会長。
植村 鞆音(うえむら ともね、1938年3月10日 - )は… 植村 鞆音(うえむら ともね、1938年3月10日 - )は、日本のテレビプロデューサー・会社役員、伝記作家。 愛媛県松山市に生まれる。父植村清二は東洋史学者で、作家直木三十五の実弟。新潟県立新潟高等学校を経て1962年早稲田大学第一文学部史学科卒業、東映入社。 1964年テレビ東京入社。1994年同局常務取締役。1999年テレビ東京制作代表取締役社長を経て、DACグループ顧問、一般社団法人STEP理事。 2005年『直木三十五伝』で第19回尾崎秀樹記念・大衆文学研究賞受賞、2007年『歴史の教師植村清二』で第55回日本エッセイスト・クラブ賞受賞。
中山 輝也(なかやま てるや、1937年6月9日 - )は、… 中山 輝也(なかやま てるや、1937年6月9日 - )は、日本の実業家、地質学の専門家。 新潟県新発田市出身。1952年に新潟市立関屋中学校、1956年に新潟県立新潟高等学校、1960年に新潟大学理学部を卒業した。技術士(応用理学部門)の資格を持つ。 1960年の応用地質株式会社、1961年からの新潟県企業局の土木部を経て、1973年(昭和48年)に北日本技術コンサルタント株式会社(現、株式会社キタック)を設立。 1979年、大湿地帯で食物生産がまともにできなかった中華人民共和国の三江平原を農業地帯として開発するプロジェクトに参加、当時42歳で最年少だったが、専門知識があっただけでなく過去に訪中経験があったことからプロジェクトチームの亀田郷土地改良区の理事長であった佐野藤三郎に声をかけられ、対中国初の政府開発援助である竜頭橋ダム建設事業に貢献した。
田中 敏夫(たなか としお、1923年〈大正12年〉12月1… 田中 敏夫(たなか としお、1923年〈大正12年〉12月14日 - 2003年〈平成15年〉3月12日)は、日本の実業家。北越製紙第13代社長。 新潟県中蒲原郡横越村(現 新潟市江南区)出身。1941年(昭和16年)3月に新潟中学校を卒業、1943年(昭和18年)9月に新潟高等学校を半年繰り上げ卒業、1944年(昭和19年)9月30日に海軍経理学校(第12期)に補修学生として入校、1945年(昭和20年)3月または4月に卒業、6月1日に海軍主計少尉に任官、8月15日に太平洋戦争が終戦、1947年(昭和22年)3月に東京帝国大学法学部法律学科を卒業。 1947年(昭和22年)7月に北越製紙に入社、新潟工場勤労課長を経て、1970年(昭和45年)8月に本社勤労部長に就任、1973年(昭和48年)7月に長岡工場長に就任、同年12月に取締役 長岡工場長に就任、1977年(昭和52年)1月に取締役 勤労部長に就任、1978年(昭和53年)5月に取締役 営業本部副本部長に就任、1981年(昭和56年)7月に常務取締役に就任、1983年(昭和58年)7月に専務取締役に就任、1985年(昭和60年)7月に取締役副社長に就任、1987年(昭和62年)7月に北越製紙第13代代表取締役社長に就任、1995年(平成7年)6月に代表取締役会長に就任、1997年(平成9年)6月に相談役に就任、1999年(平成11年)1月に相談役を退任、以後、社賓。
中山 真(なかやま まこと、1922年11月1日 - 200… 中山 真(なかやま まこと、1922年11月1日 - 2008年5月3日)は、日本の経営者、銀行家。北越銀行頭取を務めた。 新潟県出身。1947年に東京大学経済学部商業学科を卒業し、同年10月に三洋商会に入社。新潟アスファルト工業での勤務を経て、1951年12月に北越銀行に転じ、1972年5月に取締役に就任し、1975年12月に常務、1981年6月に専務を経て、1986年6月に副頭取に就任し、1987年6月には頭取に昇格。1993年6月に会長に就任。 1993年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 2008年5月3日多臓器不全のために死去。85歳没。
新津 義雄(にいつ よしお、旧姓:数間、1922年〈大正11… 新津 義雄(にいつ よしお、旧姓:数間、1922年〈大正11年〉6月22日 - 2011年〈平成23年〉12月27日)は、日本の実業家。丸新グループ創立者・初代代表、テレビ新潟放送網第2代社長・最高顧問、新津記念館初代館長・理事長。 新潟県新潟市(現 新潟市中央区)に生まれ、新潟市旭町通1番町(現 新潟市中央区旭町通1番町)の新津石油創業者・新津恒吉の養子になった。 新潟師範学校附属小学校を経て、1940年(昭和15年)3月に新潟中学校を卒業、1942年(昭和17年)9月に新潟高等学校を半年繰り上げ卒業、1946年(昭和21年)9月に東北帝国大学法文学部法科を卒業。 1946年(昭和21年)10月に石油販売会社・丸新産業を創立し副社長に就任、1949年(昭和24年)5月に丸新石油を創立し社長に就任、同月に昭和石油監査役に就任、1972年(昭和47年)9月に新津石油を創立し社長に就任、1984年(昭和59年)5月に全国石油協会副会長に就任、1988年(昭和63年)6月にテレビ新潟放送網第2代社長に就任、1992年(平成4年)8月に父の新津恒吉が建てた迎賓館を新津記念館として開館し初代館長に就任。
三鬼 彰(みき あきら、1921年2月16日 - 2000年… 三鬼 彰(みき あきら、1921年2月16日 - 2000年6月22日)は、日本の実業家。八幡製鐵の初代社長を務めた三鬼隆の長男で、後身会社である新日本製鐵の会長や、日本経済団体連合会副会長を務めた。また、タレントの出川哲朗の外従父に当たる。 岩手県釜石市出身。官立新潟高等学校、京都帝国大学法学部を経て、戦時中の1943年に日本製鐵へ入社。過度経済力集中排除法による日本製鐵解体後は富士製鐵で秘書室長、総務部長など主に管理畑を経験した。 新日本製鐵発足後は、父・隆が八幡製鐵社長だった人脈を通じて社内融和に尽力。専務、副社長就任以降はプラザ合意による円高不況対策などに努め、高炉休止など合理化を推進した。
斎藤 伸雄(さいとう のぶお、1919年〈大正8年〉12月1… 斎藤 伸雄(さいとう のぶお、1919年〈大正8年〉12月11日 - 2011年〈平成23年〉9月24日)は、日本の銀行家、実業家。和光証券(現 みずほ証券)第4代社長、元日本興業銀行常務取締役。柔道六段。 新潟県新潟市上大川前通8番町(現 新潟市中央区上大川前通8番町)出身。1937年(昭和12年)3月に新潟中学校を卒業、1940年(昭和15年)3月に新潟高等学校を卒業、1942年(昭和17年)9月に東京帝国大学法学部法律学科を卒業。 日本興業銀行に入行、1942年(昭和17年)9月30日に海軍経理学校(第9期)に二年現役補修学生として入校、1943年(昭和18年)1月15日に海軍主計中尉に任官、1月30日に卒業、横須賀海軍航空隊に配属、1カ月後に父島海軍航空隊に転属、硫黄島の飛行場使用規定を作成したり、地元農業に価格政策を導入し、作物の種類を豊富にしたりして、半年後に相模野海軍航空隊に転属、間もなく軍事参議官副官(塚原二四三海軍大将付)として海軍省に勤務、1944年(昭和19年)5月1日に海軍主計大尉に任官、1945年(昭和20年)8月15日に太平洋戦争が終戦。
錦織 登美夫(にしきおり とみお、1919年〈大正8年〉11… 錦織 登美夫(にしきおり とみお、1919年〈大正8年〉11月3日 - 2008年〈平成20年〉1月22日)は、日本の出版人、実業家。東洋館出版社創業者・初代社長。 新潟県中蒲原郡新津町大字新津字三之町(現 新潟市秋葉区新津本町3丁目)の東洋館書店・東洋館印刷所の錦織豊松の長男として出生。 1937年(昭和12年)3月に新潟中学校を卒業、1940年(昭和15年)3月に慶應義塾大学予科経済学部を修了、1942年(昭和17年)9月に慶應義塾大学経済学部を半年繰り上げ卒業。 第二次世界大戦で兵役に服し、1948年(昭和23年)にシベリア抑留から帰還、同年6月に東洋館出版社を設立して社長に就任、のちに会長に就任。
斎藤 英四郎(さいとう えいしろう、1911年11月22日 … 斎藤 英四郎(さいとう えいしろう、1911年11月22日 - 2002年4月22日)は、日本の実業家。新日本製鐵(新日鉄、現・日本製鉄)の元社長。経済団体連合会(経団連)第6代会長。 新潟県北蒲原郡安田町(現・阿賀野市)出身。新潟中学校、旧制新潟高等学校を卒業。東京帝国大学法学部(東京大学)の入試に失敗、神戸商業大学に入学するも、翌年、東京帝大経済学部に入学。 経済学部を卒業後、三菱鉱業(現・三菱マテリアル)入社。のち、日本製鐵に移り、八幡製鐵専務、新日鉄専務、副社長などを経て社長。2002年4月22日、心不全のため死去。90歳没。 2002年の死去に伴う遺産相続において、長男(当時、新日本製鉄常務)が相続財産の一部である約16億3000万円を申告せず、相続税約9億8000万円を脱税したとして、2005年8月に相続税法違反の罪で在宅起訴された。
早山 洪二郎(はやま こうじろう、1903年〈明治36年〉5… 早山 洪二郎(はやま こうじろう、1903年〈明治36年〉5月14日 - 1990年〈平成2年〉6月16日)は、日本の実業家。昭和石油第3代社長。 新潟県新潟市寄居町(現 新潟市中央区寄居町)の石油精製業・早山与三郎の長男として出生、新潟県新潟市白山浦2丁目(現 新潟市中央区白山浦2丁目)に転居。 1920年(大正9年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1923年(大正12年)3月に新潟高等学校を卒業、1926年(大正15年)3月に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業。 父の早山与三郎が新潟市関屋大川前で営む早山製油所で石油精製業に従事、日米礦油新潟製油工場や早山製油所川崎工場を経て、1932年(昭和7年)6月に日米礦油取締役に就任、1933年(昭和8年)2月から不二商事監査役を兼任。
西枝 一江(にしえだ いちえ、1901年〈明治34年〉12月… 西枝 一江(にしえだ いちえ、1901年〈明治34年〉12月20日 - 1973年〈昭和48年〉3月15日)は、日本の弁理士、実業家。宮木電機製作所第2代社長、元京セラ取締役。 新潟県西蒲原郡味方村大字西白根(現 新潟市南区西白根)の浄土真宗大谷派・願信寺の西枝正観の四男として出生。 1920年(大正9年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1923年(大正12年)3月に新潟高等学校を卒業、1927年(昭和2年)3月に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業。 1927年(昭和2年)に京都府京都市下京区福稲岸ノ上町(現 京都市東山区)の碍子製造会社・松風工業に入社したが、社長と何度も衝突し、昭和恐慌の影響で人員整理の対象となり、1930年(昭和5年)に退社。
田代 正治(たしろ しょうじ、1892年(明治25年)9月1… 田代 正治(たしろ しょうじ、1892年(明治25年)9月11日 - 1983年(昭和58年)11月11日)は、日本の実業家、漁業家、政治家。衆議院議員。 新潟県中蒲原郡村松町(現五泉市)で素封家・田代兼次の三男として生まれる。新潟県立新潟中学校を経て、1915年、農林省水産講習所(現東京海洋大学)漁撈科を卒業した。 その後、佐渡島で漁業に従事。1916年、青森県技手に就任。1919年、日魯漁業の平塚常次郎に見いだされ同社に入社。函館製網船具 (株) に転じて新川工場長に就任し漁網の改良に従事。1931年に独立して漁網漁具製造販売業を営んだ。また、函館産業社長、函館青果卸売市場社長、北海道方面委員、函館地方裁判所調停委員、函館調停協会理事などを務めた。
田村 廿三郎(たむら はたさぶろう、1890年〈明治23年〉… 田村 廿三郎(たむら はたさぶろう、1890年〈明治23年〉6月13日 - 1961年〈昭和36年〉1月6日)は、日本の内科医、実業家、政治家。イチジク製薬創業者・初代社長。「イチジク浣腸」の考案者。 新潟県中蒲原郡鷲巻村大字西笠巻(現 新潟県新潟市南区西笠巻)の医師・田村篤司の三男として出生。 1909年(明治42年)3月に新潟中学校を卒業、1914年(大正3年)9月に千葉医学専門学校医学科に入学、1918年(大正7年)5月に同校を卒業。 千葉県東葛飾郡市川町大字市川字上出口(現 千葉県市川市市川)の吉岡医院に勤務したのち、1920年(大正9年)に東京府南葛飾郡瑞江村大字上今井(現 東京都江戸川区江戸川)に田村医院を開業。
小出 源吉(こいで げんきち、旧姓:酒井、1888年〈明治2… 小出 源吉(こいで げんきち、旧姓:酒井、1888年〈明治21年〉11月8日 - 1977年〈昭和52年〉5月31日)は、日本の耳鼻咽喉科学者、耳鼻咽喉科医、実業家、政治家。医学博士。長崎医学専門学校耳鼻咽喉科学教室教授、新潟県医師会副会長、越後天然ガス取締役、新津市議会第5代議長。趣味は楽焼の制作。 新潟県中蒲原郡吉沢村(現 五泉市吉沢)の機業家・酒井準治郎の次男として出生。 1907年(明治40年)3月に新潟中学校を卒業、1910年(明治43年)7月に第四高等学校を卒業、1914年(大正3年)11月に京都帝国大学医科大学医学科を卒業。 1914年(大正3年)12月に京都帝国大学医科大学外科学教室助手に就任、1915年(大正4年)2月に退職、6月に京都帝国大学医科大学耳鼻咽喉科学教室副手に就任、8月に助手に就任、1916年(大正5年)6月に退職、同月に小倉記念病院耳鼻咽喉科部長に就任、1917年(大正6年)12月に退職、1918年(大正7年)1月から京都帝国大学医科大学耳鼻咽喉科学教室および解剖学教室で研究、9月に京都帝国大学医科大学耳鼻咽喉科学教室助手に就任、11月に助教授に就任、1919年(大正8年)6月から新潟医学専門学校耳鼻咽喉科学教室講師を兼任したが翌7月に辞任、12月に長崎医学専門学校耳鼻咽喉科学教室教授に就任、1922年(大正11年)4月に依願退官。
小山 九一(こやま くいち、1885年〈明治18年〉1月10… 小山 九一(こやま くいち、1885年〈明治18年〉1月10日 - 1961年〈昭和36年〉8月18日)は、日本の実業家。昭和石油第2代社長、元住友海上火災保険専務取締役。 新潟県新潟区古町通5番町(現 新潟市中央区古町通5番町)出身。 1898年(明治31年)3月に新潟高等小学校を卒業、1903年(明治36年)3月に新潟中学校を卒業、1904年(明治37年)7月に東京高等商業学校予科を卒業、1907年(明治40年)7月に東京高等商業学校本科を卒業。 1907年(明治40年)8月に住友本店に入社、主計課に勤務、1916年(大正5年)3月に住友東京販売店支配人に就任、1919年(大正8年)3月に住友伸銅所副支配人に就任、1925年(大正14年)2月に住友合資会社伸銅所支配人に就任、1927年(昭和2年)4月に住友合資会社製銅販売店支配人に就任、1928年(昭和3年)7月に住友別子鉱山支配人兼大阪支店長に就任。
白勢 量作(しろせ りょうさく、1883年〈明治16年〉12… 白勢 量作(しろせ りょうさく、1883年〈明治16年〉12月 - 1944年〈昭和19年〉10月3日)は、日本の実業家。第四銀行、新潟貯蓄銀行各頭取。新潟商工会議所会頭。白勢合名代表。満州帝国名誉領事。 新潟県の素封家・白勢春三の長男、白勢二朔の養甥である。新潟市の自邸に生まれ、県立中学、高等学校を経て、1909年、東京帝国大学法科大学政治学科卒業。1928年(昭和3年)に発足した東信電気と東京電燈による共同出資会社昭和肥料の取締役に就任。1936年(昭和11年)、新潟電力社長に就任。1938年、新潟駐在満州帝国領事を嘱託された。 第四銀行、新潟貯蓄銀行各頭取、新潟電力、新潟電鉄、東北配電、二葉社各社長、会津電力、昭和肥料、北越パルプ、日本火災海上保険、佐渡汽船、東亜電力興業各取締役、新潟鐵工所、帝国火災保険、北越製紙各監査役、庄内電気鉄道相談役などをつとめた。
田巻 堅太郎(たまき けんたろう、1883年〈明治16年〉1… 田巻 堅太郎(たまき けんたろう、1883年〈明治16年〉1月2日 - 没年不明)は、日本の実業家、新潟県多額納税者、地主、篤農家、資産家。族籍は新潟県平民。 新潟県南蒲原郡田上村(現・田上町)出身。田巻七郎兵衛の二男。新潟中学校を卒業する。1902年に一年志願兵として近衛歩兵第1連隊に入営、1904年に陸軍歩兵少尉に任ぜられ、1910年に陸軍歩兵中尉に進み、正七位に叙せられ除隊となる。農業、金銭貸付業を営む。 新潟貯蓄銀行、新潟信託、愛隣社各取締役を歴任。1933年7月に第四銀行取締役に選任され以来20年間その職を続ける。1944年10月に第5代の頭取に推され、1953年に退任する。ラジオ新潟監査役をつとめる。
永瀧 久吉(えいたき ひさきち、1867年1月17日(慶應2… 永瀧 久吉(えいたき ひさきち、1867年1月17日(慶應2年12月12日) - 1942年(昭和17年)10月20日)は、日本の外交官、実業家。上海総領事、ホノルル総領事を経て退官後、安田保善社参事や、東京建物常務取締役、満州興業社長等を歴任した。 越後国刈羽郡野田村(現柏崎市)生まれ。元野田村戸長の永瀧治助は祖父。新潟県立新潟中学校(現新潟県立新潟高等学校)を経て、1889年英吉利法律学校(現中央大学)及び専修学校(現専修大学)法律科卒業。専修学校創設者田尻稲次郎などに師事。1890年代言人試験及文官高等試験合格。1891年司法省入省、東京地方裁判所司法官試補。同年外務省入省、取調局配属。 1893年釜山領事官補。
山添 直 は、日本の実業家。小田急不動産第2代社長、元小田急… 山添 直 は、日本の実業家。小田急不動産第2代社長、元小田急電鉄専務取締役。