スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
児玉 九十(こだま くじゅう、1888年(明治21年)11月… 児玉 九十(こだま くじゅう、1888年(明治21年)11月15日 - 1989年(平成元年)12月15日)は、日本の教育者。学校法人明星学苑創立者。 静岡県田方郡中郷村(現・三島市)出身。1911年第四高等学校卒業。1914年東京帝国大学文科大学卒業。1915年同大学大学院修了。 その後、名教中学校教諭 成蹊実務学校教諭、1917年同主事となる。1920年から1925年まで成蹊中学校校長を務める傍ら、1922年に明星実務学校創立に参画し、1923年同理事に就任する。1924年から翌年まで成蹊小学校校長も兼任した。1925年欧米教育視察のため学校法人成蹊学園を退職し、1926年明星実務学校校長となる。
関屋 延之助(せきや えんのすけ / のぶのすけ、1888年… 関屋 延之助(せきや えんのすけ / のぶのすけ、1888年(明治21年)6月22日 - 1975年(昭和50年)7月21日)は、日本の内務官僚。官選県知事、弁護士。 石川県鹿島郡崎山村三室(現在・七尾市)出身。関屋助右衛門の四男として生まれる。第四高等学校を経て、1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1913年(大正2年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。大学卒業後、内務省に入り和歌山県地方課に勤務、その後、同県那賀郡長となる。 以後、和歌山県警視、滋賀県理事官、京都府理事官、岐阜県警察部長、北海道庁拓殖部長、1931年(昭和6年)12月に新潟県書記官・内務部長などを歴任。
鳥山 喜一(とりやま きいち、1887年7月17日 - 19… 鳥山 喜一(とりやま きいち、1887年7月17日 - 1959年2月19日)は、日本の歴史学者。 1887年、東京府本郷区に生まれた。東京帝国大学を卒業。東洋史を専攻した。 1928年から1945年まで京城帝国大学教授を務め、渤海国の遺跡を求めて満洲(中国東北部)を精力的に踏査した。 戦後、日本に引揚げてからは第四高等学校校長(第13代)、金沢大学教授、富山大学学長などを務めた。 専門は満鮮史で、渤海史研究では日本のパイオニアとされる。1926年に初版が出た中国通史『黄河の水』は少年少女のためと銘打って書かれたものだが、中国史の好個の入門書として版を重ね、現在まで読み継がれるロングセラーとなっている。
井上 英(いのうえ えい / ひで、1886年(明治19年)… 井上 英(いのうえ えい / ひで、1886年(明治19年)12月 - 1975年(昭和50年)4月2日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。官選佐賀県知事、旭川市長、新潟市長。旧姓・村田。 埼玉県出身。村田謙吉の二男として生まれ、井上家の養子となる。第四高等学校を卒業。1912年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1913年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入省し福井県属となる。 以後、福井県警視、同理事官、長野県理事官、大阪府理事官、茨城県警察部長、熊本県書記官・警察部長、新潟県書記官・警察部長、京都府書記官・警察部長などを歴任。 1930年7月、佐賀県知事に就任。風水害からの復旧、教育調査会の設置などに尽力。
新井 尭爾(新井堯爾、あらい たかじ / ぎょうじ、1886… 新井 尭爾(新井堯爾、あらい たかじ / ぎょうじ、1886年(明治19年)5月15日 – 1966年(昭和41年)5月9日)は、日本の政治家、鉄道官僚。衆議院議員(2期) 埼玉県南埼玉郡篠津村(現在の白岡市)に衆議院議員新井啓一郎の三男として生まれる。旧制第四高等学校を経て、1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。高等文官試験に合格し、鉄道院書記、沼津駅助役、程ヶ谷駅駅長、鉄道院参事補、同副参事、同参事、鉄道書記官、監督局業務課長、門司鉄道局運輸課長、東京鉄道局運輸課長、運輸局国際課長、同局配車課長などを歴任した。 1930年(昭和5年)、国際観光局が新設されると局長に就任し、観光基盤作りに尽力した。
丸井 清泰(まるい きよやす、1886年(明治19年)3月1… 丸井 清泰(まるい きよやす、1886年(明治19年)3月10日 - 1953年(昭和28年)8月19日)は、日本の医学者、精神科学者。専門は精神分析学。元東北帝国大学医学部精神病学講座教授。弘前大学初代学長。医学博士。理学博士。東北大学名誉教授。 日本における精神分析学黎明期に活躍した人物である。アメリカでアドルフ・マイヤー教授に師事し、日本にひろく精神分析を紹介した。帰国後東北帝国大学にて精神分析学講義を始めた。またその精神分析的研究発表を巡っては森田正馬、下田光造らと激しい論争を繰り広げた。弟子に古沢平作、山村道雄、懸田克躬らがいる。 兵庫県人・丸井清太郎の7男として神戸市に生まれる。第四高等学校を経て、1913年、東京帝国大学医科大学を卒業し、青山胤通の東大青山内科に入った。
富田 愛次郎(とみた あいじろう、1885年(明治18年)1… 富田 愛次郎(とみた あいじろう、1885年(明治18年)12月5日 - 1954年(昭和29年)11月3日)は、日本の内務官僚、政治家。県知事、衆議院議員。 愛知県出身。富田治郎右衛門の三男として生まれる。第四高等学校を経て、1913年、京都帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1912年11月、文官高等試験行政科試験に合格。大学卒業後、内務省に入り京都府属となる。 以後、京都府警視、埼玉県理事官、同視学官、内務省警保局事務官兼内務書記官、社会局第一課長、同書記官、同労働部長、同社会部長、中央職業紹介事務局長などを歴任。 1935年1月、三重県知事に就任。1937年1月、広島県知事に転じた。
有村 慎之助(ありむら しんのすけ、1885年〈明治18年〉… 有村 慎之助(ありむら しんのすけ、1885年〈明治18年〉12月 - 1960年以降没)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の電気技術者、実業家。大同電力取締役兼営業部長・工務部長などを務めた。福井県出身。 有村慎之助は、1885年(明治18年)12月、福井県人・有村静江の次男として生まれた。1906年(明治39年)7月金沢の第四高等学校第二部工科を卒業、次いで1909年(明治42年)7月東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。 大学在学中の実習で、富士水電という静岡県東部の電力会社が行っていた発電所建設工事に関わったことから、富士水電に懇望されて卒業後はそのまま同社に技師として入社した。
河野 暁(こうの さとる、1885年(明治18年)11月1日… 河野 暁(こうの さとる、1885年(明治18年)11月1日 - 1927年(昭和2年)10月21日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)。 広島県佐伯郡水内村(現在の広島市佐伯区)出身。第四高等学校を経て、1909年(明治42年)、京都帝国大学法科大学を卒業した。大韓帝国司法部検事、統監府判事、公州地方裁判所判事、大邱地方裁判所判事を歴任した。1911年(明治44年)、退官して広島市に弁護士事務所を開業した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
藤岡 兵一(ふじおか ひょういち、1885年〈明治18年〉4… 藤岡 兵一(ふじおか ひょういち、1885年〈明治18年〉4月2日 - 1957年〈昭和32年〉1月5日)は、日本の内務・警察官僚。政友会系官選県知事、浜松市長。 石川県出身。藤岡明郷の長男として生まれる。第四高等学校を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し岐阜県属となる。 以後、岐阜県事務官、山口県事務官、同理事官、静岡県理事官、鳥取県警察部長、群馬県警察部長、宮城県警察部長、広島県警察部長、内務事務官兼内務書記官などを歴任。 大正12年(1923年)9月、高知県知事に就任。在任中の同年12月5日、高知城公園内の板垣退助銅像が建立され、退助令孫・板垣守正の手により除幕されている。
曄道 文芸(てるみち ぶんげい、1884年(明治17年)12… 曄道 文芸(てるみち ぶんげい、1884年(明治17年)12月20日 - 1966年(昭和41年)8月11日)は、日本の法学者。専門は民法。実業家。学位は、法学博士。元京都帝国大学教授。 明治17年(1884年)、石川県能美郡川北町で、静泉寺住職・曄道大圓の長男として生まれる。第四高等学校を経て、明治42年(1909年)、京都帝国大学法学部を首席で卒業。曄道の卒業と同年に東京帝国大学を卒業した鳩山秀夫が、曄道が高等文官試験を受けると聞き付け、首席を取られることを恐れて、自身の高等文官試験受験を取り止めたとの逸話がある。 後に、京都帝国大学助教授、次いで教授を務め、京大民法学の基礎を固めたが、大正9年(1920年)、京大教授を退官、実業界に入った。
白上 佑吉(しらかみ ゆうきち、1884年(明治17年)12… 白上 佑吉(しらかみ ゆうきち、1884年(明治17年)12月19日 - 1965年(昭和40年)1月24日)は、日本の内務及び警察官僚。官選県知事。旧姓は林。陸軍大臣や首相を務めた林銑十郎は実兄。 石川県出身。父、石川県士族・林孜々郎が富山県礪波郡首席書記の時に、同郡出町(現砺波市)で三男として生まれる。その後、父の上司(郡長)で後に山口県警部長となった白上俊一の養子となる。第四高等学校を卒業。1910年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し警視庁警部・第一部警務課勤務となる。 1910年12月、警視総監官房文書課審査係長兼高等課外事係長に就任。
畑山 四男美(はたやま しおみ、1884年〈明治17年〉7月… 畑山 四男美(はたやま しおみ、1884年〈明治17年〉7月13日 - 1971年〈昭和46年〉8月8日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士。県知事、福岡市長。位階は正四位。勲等は勲三等。 高知県安芸郡羽根村(現室戸市羽根町)で、畑山亀喜代、岩の四男として生まれる。第四高等学校を経て、1915年(大正4年)、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1916年(大正5年)、内務省に入り宮城県属となる。 以後、宮城県亘理郡長、佐賀県・岩手県・長野県の各理事官、岐阜県書記官、熊本県書記官・学務部長、鹿児島県書記官・警察部長、同内務部長、大分県書記官・内務部長、北海道庁部長・土木部長などを歴任。
飯田 直次郎(いいだ なおじろう、1884年(明治17年)6… 飯田 直次郎(いいだ なおじろう、1884年(明治17年)6月26日 - 1952年(昭和27年)1月23日)は、日本の実業家。髙島屋社長を務めた。 3代飯田新七の長男として京都府に生まれる。 京一中、第四高等学校、東京帝国大学法科経済学科卒業後、1909年12月、髙島屋飯田合名会社に入社。 1919年8月、髙島屋呉服店(髙島屋の前身)が創設されると取締役に就任し、海外貿易事業に従事。1926年に専務に就任してからは、大阪・なんば、東京・日本橋の両店を開店して、百貨店の基礎を築き、髙島屋を百貨店として成長させた。1942年3月、4代飯田新七が健康上の理由から社長を辞任したため、第3代社長に就任した。
羽志 主水(はし もんど、1884年〈明治17年〉6月3日 … 羽志 主水(はし もんど、1884年〈明治17年〉6月3日 - 1957年〈昭和32年〉2月26日)は、日本の小説家、外科医。 本名は松橋 紋三(まつはし もんぞう)で、「羽志主水」の名は本名から「松」を除いた「橋紋三」をもじった筆名である。 小説家としての活動期間は短いが、雑誌「新青年」に掲載した、戦前の北海道の過酷な労働環境を題材とした作品『監獄部屋』で、高い評価を得た。 長野県長野町(後の長野市)出身。旧制第四高等学校(後の金沢大学)を経て、東京帝国大学(後の東京大学)医学部へ進学し、1908年(明治45年)に卒業した。医師として山形の済生病院を経て、妻の父が東京の日本橋に土地を持っていた縁で、1916年(大正4年)か1917年(大正6年)頃に、日本橋本石町で開業した。
得能 佳吉(とくのう かきち、1884年(明治17年)4月3… 得能 佳吉(とくのう かきち、1884年(明治17年)4月3日 - 1964年(昭和39年)6月19日)は、日本の内務官僚、実業家。官選岩手県知事。 富山県出身。得能通孝の六男として生まれる。第四高等学校を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し警視庁警部となる。 以後、岡山県試補、警視庁警視、山形県警察部長、滋賀県警察部長、台湾総督府警視兼同府警察官及び司獄官練習所長、拓殖局書記官、内務書記官、北海道庁書記官・内務部長などを歴任。 1925年9月、岩手県知事に就任。公平無私な県政運営を行う。和賀妻堰・中央耕地の整備、公会堂建築、農学校移転などに尽力。
山崎 麓(やまざき ふもと、1883年12月17日 - 19… 山崎 麓(やまざき ふもと、1883年12月17日 - 1943年9月11日)は、日本の国文学者。 神奈川県横浜生まれ。本籍・兵庫県出石郡。第四高等学校卒、1909年東京帝国大学文科大学国文科卒。1910年逓信省機関逓信協会主幹嘱託(-1914年)、英字新聞『ジャパンマガジン』編集嘱託(-1918年)、1916-1919年駿台英和女学校教員嘱託、1919年山口高等学校教授、1922年國學院大學教授。1932年同辞職、死去時には日本文学報国会所属。別名・目黒麦男。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
宮長 平作(みやなが へいさく、1883年〈明治16年〉12… 宮長 平作(みやなが へいさく、1883年〈明治16年〉12月 - 1956年〈昭和31年〉4月24日)は、日本の土木技術者、実業家である。 1883年(明治13年)12月、富山県射水郡水口村の豪農として名を馳せた父・宮長平六の次男として誕生。第四高等学校(後の金沢大学)を経て、1908年(明治41年)7月、東京帝国大学土木工学科を卒業。同月、久原鉱業所に入社し日立鉱山にて技師として従事、当時高さ世界一を誇る煙突の建設に関わるなどした。 1924年(大正13年)2月24日、個人名義で屋号を久原工事部となし土木建築請負業を開設。同社が1930年(昭和5年)9月に日本産業株式会社の直系子会社、中央土木(後の日産土木、日産建設、現・RN建設)株式会社として改組・発足の運びとなってはその専務取締役に就任、1939年(昭和14年)6月より同社取締役社長。
神鞭 常孝(こうむち つねたか、1883年(明治16年)2月… 神鞭 常孝(こうむち つねたか、1883年(明治16年)2月24日 – 1956年(昭和31年)6月27日)は、日本の大蔵官僚。南満州鉄道理事、北支那開発副総裁。 京都府出身。衆議院議員・法制局長官神鞭知常の長男として生まれる。第四高等学校を経て、1907年(明治40年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。大蔵省に入って、ロンドン駐在財務官附となり、1911年(明治44年)に帰国。税関事務官として横浜税関に勤務し、大蔵省関税課長、横浜税関長を歴任した。 1927年(昭和2年)、南満州鉄道株式会社の理事に就任し、経理部長・販売部長・用度部長を務めた。さらに昭和製鋼所常務取締役となり、1938年(昭和13年)からは北支那開発株式会社の副総裁を務めた。
鳥居 信平(とりい のぶへい、明治16年(1883年) - … 鳥居 信平(とりい のぶへい、明治16年(1883年) - 昭和21年(1946年))は、台湾で活動した農業土木技術者。 1883年、静岡県周智郡上山梨村(現・袋井市)に生まれる。1900年静岡県静岡中学校卒業。第四高等学校(四高)、東京帝国大学農科大学を卒業後、農商務省などを経て、1914年に農業土木の専門家として台湾製糖へ入社する。四高では八田與一の3年先輩にあたる。台湾南部一帯でサトウキビなど農業生産を高めるための工事を指揮した。現在も屏東県には鳥居が工事に携わった二峰圳などの地下ダムや農業用水路が現存している。
山田 正三(やまだ しょうぞう、1882年〈明治15年〉12… 山田 正三(やまだ しょうぞう、1882年〈明治15年〉12月20日 - 1949年〈昭和24年〉1月6日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。法学博士。京都帝国大学名誉教授。京都帝国大学法学部長。衆議院議員山田喜之助の異母弟。雉本朗造門下。弟子に中田淳一、小野木常など。 大阪府大阪市生まれ。山田八郎兵衛の四男。幼い頃東京市に転住、同地に於て初等教育及び中等教育を終えた。1906年、金沢の第四高等学校を卒業した。1909年、京都帝国大学法科大学独法科を卒業した。大学院に進んだが司法官試補となって1910年7月14日、大学院を退学した。 1911年、兄・喜之助方より分家して一家を創立した。1911年11月10日、京都帝国大学法科大学の講師を嘱託された。
久保 豊四郎(くぼ とよしろう、1882年(明治15年)2月… 久保 豊四郎(くぼ とよしろう、1882年(明治15年)2月6日 - 没年不詳)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 富山県出身。久保理平の息子として生まれる。第四高等学校を卒業。1908年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内閣属となり統計局に配属。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1911年、内務省に転じ長崎県属となる。 以後、長崎県事務官補、静岡県理事官・視学官、福岡県理事官・視学官、愛知県事務官、茨城県警察部長、関東庁参事官などを歴任。1922年、欧米各国に出張。1923年に帰国し関東庁事務官を兼任。さらに同庁警務局長を務めた。 1928年5月11日、鳥取県知事に就任。
武部 欽一(たけべ きんいち、1881年(明治14年)4月2… 武部 欽一(たけべ きんいち、1881年(明治14年)4月25日 - 1955年(昭和30年)8月2日)は、日本の文部官僚。教育者。 金沢市出身。旧制第四高等学校を経て、1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、翌年に山口県事務官に任官した。1911年(明治44年)、文部省参事官に転じ、宗教局長、実業学務局長、普通学務局長、資源局参与を歴任した。1929年(昭和4年)、朝鮮総督府学務局長に就任。再び文部省普通学務局長を務めた後、1934年(昭和9年)に広島文理科大学学長・教授に就任するが、数日で辞任を余儀なくされた。 その後、日本青年館理事、帝国教育会専務理事、社会教育協会理事、共立女子学園理事、東京帝国大学講師、慶應義塾大学講師を務めた。
杉山 栄(杉山 榮、すぎやま さかえ、1881年〈明治14年… 杉山 栄(杉山 榮、すぎやま さかえ、1881年〈明治14年〉3月6日 - 1938年〈昭和13年〉10月7日)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の土木技術者、実業家。主に電気事業に関与し、矢作水力副社長・大同電力取締役などを務めた。岐阜県出身。 杉山栄は1881年(明治14年)3月6日、岐阜県士族杉山斧吉の長男として生まれた。本籍地は岐阜県稲葉郡加納町(現・岐阜市)。1901年(明治34年)7月金沢の第四高等学校第二部工科を卒業、次いで1905年(明治38年)7月東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業する。その後は電力界に入り、まず箱根水力電気に入社して同社の土木課長となる。箱根水力電気は箱根早川の開発と横浜市への電力供給を目的に1906年(明治39年)12月に設立された電力会社で、1909年(明治42年)5月に塔之沢発電所を完成させた。
野口 淳吉(のぐち じゅんきち、1880年(明治13年)11… 野口 淳吉(のぐち じゅんきち、1880年(明治13年)11月14日 - 1919年(大正8年)9月5日)は、明治から大正にかけての内務官僚。 従兄は実業家の野口遵。義妹(弟の妻)は女性運動家の堀田くに。甥は作家の堀田善衛。大甥は経済学者の堀田一善。 富山県士族野口忠五郎の次男として生まれる。旧制第四高等学校を経て、1906年に東京帝国大学法科大学を卒業し、翌年11月高等文官試験に合格。12月16日栃木県警視に任じられ、1908年2月に福井県事務官に転じたのち、1910年7月14日秋田県事務官・秋田県警察部長、北海道庁事務官・北海道庁拓殖部長、1913年6月13日新潟県警察部長、1914年6月9日山口県内務部長に任じられた。
河野 喜蔵(こうの きぞう、1880年(明治13年)3月26… 河野 喜蔵(こうの きぞう、1880年(明治13年)3月26日 - 1942年(昭和17年)4月20日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 岩手県西閉伊郡宮守村(現在の遠野市)出身。第四高等学校を経て、1913年(大正2年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、翌年に弁護士試験に合格した。盛岡市に弁護士事務所を開業し、盛岡弁護士会副会長を務めた。1919年(大正8年)からは岩手県会議員に選出され、さらに同参事会員にも選出された。 1922年(大正11年)、衆議院補欠選挙で当選を果たした。
秋月 種英(あきづき たねひで、1880年(明治13年)3月… 秋月 種英(あきづき たねひで、1880年(明治13年)3月9日 - 1961年(昭和36年)10月29日)は、明治から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。 旧高鍋藩主家当主、子爵・秋月種樹の二男として生まれる。兄秋月種繁の死去に伴い家督を相続し、1890年(明治23年)10月2日、子爵を襲爵した。 第四高等学校を経て、1910年(明治43年)7月、京都帝国大学法科大学を卒業。同年、司法省に入省し司法属となる。以後、輸出水産取締役、明治漁業監査役、カルピス製造監査役などを務めた。 1914年(大正3年)7月11日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで5期在任した。
山田博愛(やまだ ひろよし(はくあい)、1880年 - 19… 山田博愛(やまだ ひろよし(はくあい)、1880年 - 1958年)は、日本の内務官僚・都市計画家・土木技術者。旧都市計画法、関東大震災後の帝都復興計画を立案した。新潟県出身。 新潟県高田で長男として生まれる。高田中から第四高等学校 (旧制)を経て、1905年、東京帝国大学工科大学土木工学科を7月卒業。同年9月、東京市に入る。1906年12月に技師、1908年には土木局道路課長となる。 1908年7月からの埼玉県の、1915年3月からの滋賀県の土木課長を経て、1918年に内務省大臣官房局に都市計画課が創設されると、土木分野の主任技師に抜擢され、都市計画課長池田宏や建築主任技師の笠原敏郎らと協力して都市計画法と市街地建築物法の立案と制定に関し中心的役割を果たす。
太宰 孫九(だざい まごく、1879年10月8日 - 194… 太宰 孫九(だざい まごく、1879年10月8日 - 1942年11月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。伊予鉄道電気(現伊予鉄グループ)6代社長。 愛媛県北宇和郡二名村(三間町を経て現宇和島市)生まれ。第四高等学校で学ぶ。1905年1月に二名村会議員となる。以後、北宇和郡会議員(1911年9月から1915年9月まで)、二名村長(1912年11月から1913年7月まで)を歴任する。 1915年9月の愛媛県会議員選挙に北宇和郡選挙区から、立憲政友会所属で立候補したが次点で落選した。その後、1917年7月の補欠選挙に当選して、同月17日に県会議員となる。1919年の県会議員選挙で再選を果たした。
石田 収蔵(いしだ しゅうぞう、1879年〈明治12年〉3月… 石田 収蔵(いしだ しゅうぞう、1879年〈明治12年〉3月6日 - 1940年〈昭和15年〉1月31日)は、日本の人類学者。樺太(サハリン)のアイヌ、ウィルタ、ニヴフなど北方諸民族の先駆的研究者。東京農業大学教授。 秋田県鹿角郡柴平村柴内(現在の鹿角市花輪)に生まれる。1890年、父の死に伴って青森県八戸市へ移る。1902年、第四高等学校を卒業し、東京帝国大学理科大学動物学科入学。1905年7月卒業。人類学の研究のため、東京帝国大学大学院進学。この頃、東京人類学会に入会し、以後、同会の幹事、編集員、編集主任、評議員・庶務幹事、発行兼編集者を務める。1907年から1939年までの5次にわたり、樺太において民族調査を行った。
芝田 徹心(しばた てっしん、1879年〈明治12年〉2月2… 芝田 徹心(しばた てっしん、1879年〈明治12年〉2月25日 - 1950年〈昭和25年〉2月6日)は、日本の文部官僚。女子学習院長。宮中顧問官。 三重県三重郡四郷村(現在の四日市市)出身。三重県尋常中学校、第四高等学校を経て1903年(明治36年)に東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、大学院で宗教哲学・倫理学を専攻した。高輪中学校教諭、順天中学校教諭、高輪仏教大学教授、日蓮宗大学教授、曹洞宗大学教授、第八高等学校講師、同教授・教務課長、愛知医学専門学校講師を務めた。さらに文部省督学官、第八高等学校校長、文部省図書局長を歴任。1936年(昭和11年)、東京美術学校校長に就任し、1940年(昭和15年)に女子学習院長に転じた。
沢永 彦四郎(さわなが ひこしろう、1879年(明治12年)… 沢永 彦四郎(さわなが ひこしろう、1879年(明治12年)2月15日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚・台湾総督府官僚。旧名太吉。 富山県西礪波郡福岡町(現在の高岡市)出身。第四高等学校を経て、1901年(明治34年)、京都帝国大学法科大学政治科、同経済科を卒業し、統監府属となった。1910年(明治43年)、朝鮮総督府属となり、同年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。その後、朝鮮総督府営林廠事務官、鎮南浦府尹、逓信局事務官・海事課長などを歴任した。 いったん退官するが、1929年(昭和4年)に台湾総督府総督官房会計課長として復帰した。1931年(昭和6年)、台湾総督府専売局参事となり、神戸支局長を務めた。
谷 欽太郎(たに きんたろう、1878年(明治11年)12月… 谷 欽太郎(たに きんたろう、1878年(明治11年)12月9日 - 1951年(昭和26年)9月16日)は、日本の台湾総督府官僚、政治家、実業家。衆議院議員。 富山県下新川郡仏田村(現富山県魚津市)で、谷平吉の長男として生まれ、1897年4月、谷順平の長女・寿意と結婚し婿養子となる。第四高等学校を経て、1904年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1905年8月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1906年2月、台湾総督府に入り、同属、同専売局書記、同事務官、同脳務課長などを歴任した。1913年に退官。 1915年3月、第12回衆議院議員総選挙に富山県郡部から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
高橋 亨(たかはし とおる、1878年12月3日 - 196… 高橋 亨(たかはし とおる、1878年12月3日 - 1967年9月4日)は、日本の朝鮮学者。 1878年、新潟県中魚沼郡川治村の大字高山一番地に、父・高橋茂一郎、母・きいの長男として生まれた。1898年、第四高等学校を卒業すると東京帝国大学文科に入学し、漢文科で学んだ。1902年、同大学を卒業。卒業論文は『漢易を難して根本博士の易説に及ぶ』であった。 卒業後の同1902年、九州日報の主筆となり、博多に移った。しかし、1903年に大韓帝国政府の招聘を受けて、幣原坦の後任として官立中学校の教師となった。1909年、『韓語文典』を、1910年、『朝鮮の物語集附俚諺』を刊行。この頃より、朝鮮の風俗調査に着手し、寺内正毅に朝鮮文献の収集を進言し、採用された。
齋藤 賢道(さいとう けんどう、1878年6月28日 - 1… 齋藤 賢道(さいとう けんどう、1878年6月28日 - 1960年4月14日)は、日本における発酵微生物学の基盤を作った細菌学者。大阪帝国大学名誉教授、大阪醸造学会会長、理学博士。 戦前、国内や中国、朝鮮、満州に生息する微生物の分類同定を行ない、黴類で28種、酵母菌で37種、細菌で27種もの新種を発見し報告した。菌類による発酵過程での生理機構やその生殖現象についても研究を行なった。また微生物に関する多数の専門書や啓蒙書を著した。 金沢市に生まれる。父親は斎藤深了。1897年、第四高等学校第2部を卒業し、東京帝国大学理科大学植物学科進学。1900年、東京帝国大学大学院植物学研究科植物生理学専攻進学。
森 巻吉(もり けんきち、1877年(明治10年)5月3日 … 森 巻吉(もり けんきち、1877年(明治10年)5月3日 - 1939年(昭和14年)7月12日)は、日本の教育者。 石川県金沢市に岐阜訓盲院創設者森巻耳の長男として生まれた。第四高等学校を経て、1904年(明治37年)、東京帝国大学文科大学英文学科を卒業。第一高等学校嘱託として、清国留学生の英語授業を担当した。1909年(明治42年)、第一高等学校教授に就任し、1922年(大正11年)から翌年にかけて欧米に在留した。1927年(昭和2年)、松本高等学校校長となり、1929年(昭和4年)には第一高等学校校長に転じた。 1937年(昭和12年)に退官した後は、法政大学文学部長・同高等師範部長を務めた。
横山 隆俊(よこやま たかとし、1876年(明治9年)9月2… 横山 隆俊(よこやま たかとし、1876年(明治9年)9月25日 - 1933年(昭和8年)12月19日)は、明治から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。従三位勲四等。加賀八家横山家第14代当主。 石川県石川郡金沢で加賀八家横山家当主・横山隆平の長男として生まれる。父の死去に伴い、1903年(明治36年)8月14日に男爵を襲爵した。 第四高等学校補充科で学び、その後、東京に出て専修学校に入学し、田尻稲次郎、阪谷芳郎などから理財学を学び、1897年(明治30年)に卒業し帰郷した。父が経営していた尾小屋鉱山に入り事業の拡大を図った。また親族横山隆興が経営していた平金鉱山(岐阜県)と合併して横山鉱業部を設立し、さらに大蔵鉱山(山形県)、宮田又鉱山(秋田県)などを買収して経営を拡大した。
茨木 清次郎(いばらき せいじろう、1876年(明治9年)8… 茨木 清次郎(いばらき せいじろう、1876年(明治9年)8月19日 - 1955年(昭和30年)3月15日)は、日本の文部官僚。教育者。 石川県出身。旧制第四高等学校を経て、1899年(明治32年)に東京帝国大学文科大学英文科を卒業。翌年四高教授となり、イギリス留学の後、1908年(明治41年)から文部省視学官・図書審査官となり、1913年(大正2年)からは督学官を務めた。1917年(大正6年)、東京音楽学校校長となり、東京外国語学校校長、旧制松本高等学校校長、東京女子高等師範学校校長、旧制浦和高等学校校長を歴任した。 1935年(昭和10年)に退官し、1937年(昭和12年)からは竹田宮附別当を務めた。
中川 銓吉(なかがわ せんきち、1876年7月18日 - 1… 中川 銓吉(なかがわ せんきち、1876年7月18日 - 1942年9月4日)は、日本の数学者、学校教授。 1876年7月、石川県で士族の中川富三と、きくの間に生まれ、1895年7月3日に第四高等学校第二部理科を卒業。1897年7月10日東京帝国大学理科大学数学科で特待生を勝ち得て、1898年に卒業した。 1898年(明治31年)8月13日、第二高等学校教授を任ぜられた。1899年9月5日、高等官七等で高等師範学校教授に任命された。 1901年11月16日、文部科学省外国留学生として、日本を発ち、ドイツに留学した。1905年2月27日に帰国した。 1904年11月25日、東京帝国大学理科大学助教授に任命された。
烏賀陽 然良(うがや しかよし、1876年(明治9年)6月1… 烏賀陽 然良(うがや しかよし、1876年(明治9年)6月18日 - 1946年(昭和21年)3月11日)は、日本の法学者。 専門は民法および商法(特に海商法)。学位は法学博士。京都帝国大学名誉教授。第16代京都帝国大学法学部長。族籍は京都府平民。正三位勲二等受賞者。雅号は旭山人又は都水。 京都府京都市出身(本籍地は京都府京都市上京区)。烏賀陽然冏(または恒正)の長男として生まれる。 1884年(明治17年)家督を相続する。京都市立小川小学校、1899年(明治32年)第四高等学校(旧制)卒業を経て、1903年(明治36年)京都帝国大学法科大学法律科を卒業。 1904年(明治37年)に神戸高等商業学校講師となり、1906年(明治39年)から1920年(大正9年)まで同教授を務める。
中山 佐之助(なかやま さのすけ、1876年(明治9年)2月… 中山 佐之助(なかやま さのすけ、1876年(明治9年)2月29日 - 1940年(昭和15年)12月10日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 香川県出身。中山小平次の二男として生まれる。第四高等学校を卒業。1903年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1904年、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。台湾総督府に入り同府警部となる。 以後、台湾総督府警視兼同参事官を経て内務省に転じ、茨城県警察部長、熊本県内務部長などを歴任。 1921年5月、熊本県知事に昇格。1922年10月、関東庁警務局長に転任。1927年5月、茨城県知事に就任。同年7月、石川県知事に転任。1929年7月、休職となる。
北 豊吉(きた とよきち、1875年(明治8年)10月30日… 北 豊吉(きた とよきち、1875年(明治8年)10月30日 - 1940年(昭和15年)8月31日)は、日本の衛生学者。医学博士。 石川県石川郡旭村(現在の白山市)出身。1897年(明治30年)、第四高等学校医学部を卒業し、一年志願兵として入隊。1898年(明治31年)、東京帝国大学医科大学衛生学選科に入学した。1900年(明治33年)、陸軍三等軍医となり、翌年に東京帝国大学医科大学助手となった。1902年(明治35年)、ドイツに留学し、ライプツィヒ大学で衛生学・細菌学を学んだ。1904年(明治37年)に帰国後、日露戦争に召集され、陸軍二等軍医に昇進した。1906年(明治39年)、大阪市技師となり衛生試験所長に就任した。
小倉 正恒(おぐら まさつね、1875年(明治8年)3月22… 小倉 正恒(おぐら まさつね、1875年(明治8年)3月22日 - 1961年(昭和36年)11月20日)は、第六代住友総理事である。 第2次近衛内閣(昭和15年 - 昭和16年(1940年 - 1941年))の国務大臣、第3次近衛内閣(昭和16年(1941年))の大蔵大臣を務める。 著書に『日本国憲法』『行政法』『現代家族関係論』『私の生活信条』『小倉正恆談叢』等。 明治8年(1875年)、前田利家の家老の家系であった旧金沢藩士・裁判官の小倉正路の長男として石川県金沢市に生まれる。 第四高等学校を経て、明治30年(1897年)東京帝国大学英法律学科を卒業後、内務省(現総務省)に入省。土木監督署事務官となる。
中目 覚(なかのめ あきら、1874年5月23日 - 195… 中目 覚(なかのめ あきら、1874年5月23日 - 1959年3月27日)は、宮城県仙台市出身の地理学者、言語学者、教育行政官、エスペランティスト。 1874年、仙台藩一家 十七家の一つ中目氏の一族として宮城県仙台市に生まれる。9歳で宮城師範学校付属小学校に入学し、14歳で退学、宮城県尋常中学校に入学する。翌年同校を退学し、第二高等中学校に入学する。23歳で同校を卒業し、帝国大学文科大学独逸文学科に入学する。 1899年(明治32年)、東京帝国大学を首席卒業。恩賜の銀時計を授与。第四高等学校(後の金沢大学)でドイツ語教授をしていたが、1903年(明治36年)、30歳の時に創立された広島高等師範学校(後の広島大学)でドイツ語と地理学を三ヶ月ほど教えたのち、3年間オーストリア・ハンガリーへの留学を文部省から命じられる。
藤田 外次郎(ふじた がいじろう、1874年(明治7年)5月… 藤田 外次郎(ふじた がいじろう、1874年(明治7年)5月15日 - 没年不明)は日本の陸軍教授、教育者、数学者。 石川県士族の家に生まれる。1891年(明治25年)7月に予科を卒業し、9月に第四高等中学校の特待生を勝ち取った。1894年、(明治28年)7月、第四高等学校第二部理科を卒業。1898年(明治31年)7月、東京帝国大学を卒業。8月12日、高等官八等を以て陸軍教授に就任し、8月13日に陸軍砲工学校附を命じられた。8月19日、東京帝国大学大学院に入学し、帰納幾何学を専攻。学士会にも参加している。1903年(明治36年)12月1日より砲工学校に復職。1904年(明治37年)10月28日、歩兵少尉に任命され従軍、翌1905年(明治38年)12月30日に退役した。
紀平 正美(きひら ただよし、1874年4月30日 - 19… 紀平 正美(きひら ただよし、1874年4月30日 - 1949年9月19日)は、日本の哲学者。文学博士。学習院教授、国民精神文化研究所哲学科所員。帝大七生社代表。 日本におけるヘーゲル哲学研究の先駆者。主著に『行の哲学』、『日本精神』など。三重県出身。 1874年、三重県で生まれた。第四高等学校を経て、東京帝国大学文科大学哲学科に進学。1900年に卒業。 1905年より小田切良太郎と共にゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル『哲学体系』を翻訳して掲載し、日本への紹介を始めた。ヘーゲルの『哲學大辭書』(1912年)の編纂においては論理学・認識論に関する記事の執筆を担当した。國學院大學・東洋大学などでの講師を経て、1919年に学習院教授に就任。
坂本 健一(さかもと けんいち、1874年3月 - 1930… 坂本 健一(さかもと けんいち、1874年3月 - 1930年?月)は、日本の歴史家、著述家。号は蠡舟(れいしゅう・いしゅう)。坂本 健名義の著書もあるらしい。 兵庫県淡路島平民出身。1895年7月3日に旧制第四高等学校大学予科第一部を卒業、1898年7月10日に東京帝国大学文学部史学科を卒業。1900年北京京師大学堂(現・北京大学)の招聘を受け、7年間の出向を経て著述業に従事。 大正期には「コーラン経」(1920年、セイルらのクルアーン英訳本からの重訳)や「ムハメッド伝」(1923年)を著した。 以下は北京京師大学堂での同僚。
長屋 順耳(ながや じゅんじ、1874年(明治7年)2月3日… 長屋 順耳(ながや じゅんじ、1874年(明治7年)2月3日 - 1951年(昭和26年)8月19日)は、東京外国語学校校長。女子学習院長。宮中顧問官。 岐阜県出身。1897年(明治30年)に東京帝国大学文科大学英文科を卒業し、大学院に進学した。1898年(明治31年)に第四高等学校教授となり、1904年(明治37年)から広島高等師範学校教授、1917年(大正6年)から文部省督学官を務めた。1919年(大正8年)、東京外国語学校校長となり、1932年(昭和7年)に女子学習院長に転じた。1940年(昭和15年)に退官して、宮中顧問官となった。
河原 直孝(かわはら なおたか、1873年(明治6年)11月… 河原 直孝(かわはら なおたか、1873年(明治6年)11月5日 - 1945年(昭和20年)7月2日)は、大正から昭和時代前期の政治家・実業家。北海道小樽市長。 河原一郎の長男として石川県金沢城下に生まれ、1922年(大正11年)家督を相続する。1897年(明治30年)7月、第四高等学校大学予科第一部を修了後、1903年(明治36年)東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、1905年(明治38年)4月に北海道庁立小樽中学校(現・北海道小樽潮陵高等学校)の嘱託教員となる。 実業界に転じ、小樽電気・北海道精米・小樽電燈などの取締役を務め、さらに、小樽商業会議所議員、小樽区会議員などを歴任する。市制施行すると、1922年(大正11年)10月、小樽市会議員に就任し、同議長を兼任した。
堀内 秀太郎(ほりうち ひでたろう / しゅうたろう、187… 堀内 秀太郎(ほりうち ひでたろう / しゅうたろう、1873年(明治6年)10月11日 - 1941年(昭和16年)6月1日)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事。 石川県金沢市出身。旧加賀藩士・堀内茂成の長男として生まれる。第四高等学校を首席で卒業。1898年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。内務省に入省し社寺局属となる。1899年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、内務属臨時検疫局事務官、警察監獄学校教授、内務省参事官、神奈川県参事官、同事務官、徳島県事務官・第一部長兼第三部長、同内務部長、大阪府事務官・内務部長、北海道庁内務部長などを歴任。 1915年8月、宮崎県知事に就任。