寺内 寿太郎(てらうち じゅたろう 1900年? - 没年不… 寺内 寿太郎(てらうち じゅたろう 1900年? - 没年不明)は、昭和初期の詩人。川柳にも才能を発揮し、当時流行の探偵小説にも凝ったことがある。慶應義塾大学初の箱根駅伝ランナーでもある。 評論家山岸外史のいとこ。幼時に父を日露戦争で亡くし、親戚の間を転々として育つ。伯父の世話で慶應義塾大学部理財科(現在の経済学部)を卒業して会社勤めをしていたが、不遇を託ち、家出すること数回。伊豆の天城山の奥深く分け入り、自殺を企てたこともあるが、10日間消息を絶った後、親戚に発見されて連れ戻された。なお、慶大時代は競走部(陸上部に相当)に所属し、箱根駅伝にも3回(1920年〈第1回大会でもある。区間4位〔最下位〕〉,1921年〈10区。
金 文輔(キム・ムンボ、日本語読み: きん ぶんすけ、朝鮮語… 金 文輔(キム・ムンボ、日本語読み: きん ぶんすけ、朝鮮語: 김문보、1900年〈光武3年〉 - 没年不明)は大韓帝国出身のバリトン歌手、作曲家。 大韓帝国大邱郡出身。1918年、京城の徽文義塾(朝鮮語版)卒業後に日本に渡航。1919年、東京音楽学校予科に特別入学。1924年3月、同校本科声楽部を修了。東京音楽学校在学中に船橋榮吉とハンカ・ペツォルトに、修了後にマルガレーテ・ネトケ=レーヴェに師事。関東学院の音楽教員となった。作曲家としての作品に『朝鮮樵夫の哀調歌』がある。 ソプラノ歌手であった先妻の吉澤なを(金直子)と結婚。移住の直前に文輔の弟子であった長野県出身の宇田豊子(朝鮮名:金朝美、キム・チョミ)と再婚。
西川 浩(にしかわ ひろし、1900年 - 1951年)は、… 西川 浩(にしかわ ひろし、1900年 - 1951年)は、日本の造園家。東京美術学校(美校)出身。美校では建築家の吉田五十八と同期。卒業後は1924年に開校した東京高等造園学校に第一期生として入学するが、自分の興味のある授業しか受講しないので、落第する。その後、造園家として独立。 その他、鎌倉山松本氏別邸庭園などがある。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
深谷伊三郎(ふかや いさぶろう、1900年 - 1974年)… 深谷伊三郎(ふかや いさぶろう、1900年 - 1974年)は、日本のきゅう師、灸関連書籍著者、一般社団法人日本鍼灸師会学術部長、第20回日本鍼灸治療学会会長、東京高等鍼灸学校(現・東京呉竹医療専門学校)講師、鍼灸之世界社主宰。 東京府東京市麹町区中六番町(現在の千代田区四番町)生まれ、番町尋常高等小学校(現:千代田区立番町小学校)卒業。早稲田大学入学、日本大学法学科卒業。 小学校卒業後、奉公に出て箱を作る仕事に従事した。小学校しか出でいなかったが、ある日日本大学法制学会発行の普通文官養成講義録と言う通信講座の新聞広告を目にする。その通信講座を一年間受講して卒業試験に合格すれば日本大学専門部に無試験で入学出来た。
渡辺 輝一(わたなべ きいち、1900年 - 1988年)は… 渡辺 輝一(わたなべ きいち、1900年 - 1988年)は、日本の経済学者。専門は経済政策。太平洋戦争中南洋学院教授を務め、日本の降伏後、横浜国立大学経済学部学部長などを経て、横浜国立大学名誉教授。 愛媛県出身。1923年に東京商科大学(現一橋大学)卒業。町田實秀(のちに法制史学者、一橋大学名誉教授)とは三浦新七ゼミの同期。1924年に横浜高等商業学校が開校されると同校教授に着任し、商業政策、交通論、商業英語を担当した。また、同校と横浜市立横浜商業専門学校の教授の懇談会をイスペ会と命名した。ゼミの指導学生に上野豊(のちに横浜商工会議所会頭等)などがいた。 1941年に太平洋戦争が始まると、横浜高等商業学校内に、田尻常雄校長が自らが所長となり設立された太平洋貿易研究所において、各務財団から助成を受けて調査研究に従事し、さらに仏印進駐後には、1942年に新設された南洋学院の教授に就任し、フランス領インドシナでの現地調査も行った。
大野 信三(おおの しんぞう、1900年 - 1997年)は… 大野 信三(おおの しんぞう、1900年 - 1997年)は、大正から昭和の日本の経済学者、教育者。明治大学商学部教授・商学部部長、創価大学経済学部教授・経済学部長、中央大学教授、立教大学教授。理論経済学の泰斗として知られる。 1900年、北海道生まれ。 1921年(大正10年)、立教大学商科を卒業後、立教大学教授に就任。同年、留学生として渡欧し、ベルリン大学において経済学の研究に従事する。 熱心に研究活動を行っていたところ、立教大学より帰国するよう命じられ、1926年(大正15年)にシベリア鉄道経由で帰国するものの、なぜか大学教授の職を解かれてしまう。大野は当時病気のため、仕方なく郷里の北海道へ帰り、静養のかたわらで専攻科目の研究に没頭した。
左本 政治(さもと まさじ、1900年 - 没年不詳)は、日… 左本 政治(さもと まさじ、1900年 - 没年不詳)は、日本の新聞記者、演劇・舞踊評論家。「女剣劇」の命名者とされる。 1900年(明治33年)、北海道に生まれる。大正時代に上京し早稲田大学に入学。卒業後、1928年(昭和3年)に都新聞社(1942年より東京新聞)に入社、演劇記者となる。1936年(昭和11年)、浅草で観劇した不二洋子の剣劇芝居を「女剣劇」と記事で紹介したことから、「女剣劇」の名付け親とされる。第二次世界大戦中に空襲で家を焼かれ、東京新聞を退社し妻と娘を連れて北海道へ疎開、北海タイムスで働く。1951年(昭和26年)に再び上京し報知新聞社に入社する。1960年(昭和35年)に定年退職後は、演劇・舞踊の評論家として活躍。
末光 賢吉(すえみつ けんきち、前名・一郎、1900年(明治… 末光 賢吉(すえみつ けんきち、前名・一郎、1900年(明治33年) - 没年不明)は、日本の実業家。関門日報社会長。 山口県下関市出身。末光鉄之助の長男。前名・一郎を改める。1926年、早稲田大学専門部法科を卒業する。父経営の関門日日新聞に入り社長秘書兼会計課長を経て、1942年1月合併と共に関門日報社監査役。住所は山口県下関市阿弥陀寺町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
下山 重丸(しもやま しげまる、1900年(明治33年) -… 下山 重丸(しもやま しげまる、1900年(明治33年) - 1998年(平成10年))は、国際的庭園家。 群馬県太田市出身。趣味に篆刻。 1918年(大正7年)に渡米。1919年カリフォルニア大学に入学。建築学科に学び、1924年に卒業し建築学士の称号を得る。その後マサチューセッツ工科大学に進もうとしたが、建築は肌に合わず、ランドスケープ学専攻もあるハーバード大学デザイン大学院に進学。Master oflandscpe architecture in city planningに籍を置き、そこの院生として、都市計画の中に位置づけされた造園を専攻することにした。1930年に修了。なお修士称号のM.LACPはこれっきりで、自身を含めわずか8人しかもっていない。
濱野 重郎(はまの じゅうろう、1900年〈明治33年〉- … 濱野 重郎(はまの じゅうろう、1900年〈明治33年〉- 1975年《昭和50年〉10月1日)は、日本の教育者。学校法人清明学園(清明幼稚園・清明学園初等学校・清明学園中学校)の創立者である。 大正自由教育の拠点であった成城小学校にて教鞭を執った後、その理想を追求するために独立し、1930年に清明学園を創設した。 徹底した児童中心主義を基盤とし、机上の空論よりも独自の「遊び」や「体験」を重視する教育を確立。 戦後は日本私立小学校連合会の初代会長として私学教育を牽引する一方、小中一貫教育の実践など、常に子どもの成長を見据えた先駆的な取り組みを行った人物である。 長崎県佐世保市出身。長崎県師範学校(現・長崎大学教育学部)を卒業後、教職に就く。
吉田 五郎(よしだ ごろう、1900年 - 1993年)は、… 吉田 五郎(よしだ ごろう、1900年 - 1993年)は、日本の技術者で、キヤノンのルーツである精機光学研究所の創業者。 広島県福山市出身。小学生からカメラを分解し組み立てるというカメラ少年で、これが病みつきになり福山中学(現・福山誠之館高校)を学業半ばにして1917年上京。機械知識を生かして光学精密機械の輸入商社に出入りしたのが切っ掛けで映画の世界に入り、映写機関係の仕事に身を託した。この期の技術習得が実を結び、昭和の初めには映写機の修理、改良の域を脱し、製作にも手を伸ばしていた。日本初の本格的なトーキー映画といわれる『マダムと女房』(1931年)で使われた土橋式の録音機は土橋武夫・土橋晴夫兄弟の製作した物であるが、再生機は吉田が中国の上海で買って来た物が使われたという。
アンドウ ゼンパチ(本名 安藤潔、1900年(明治33年) … アンドウ ゼンパチ(本名 安藤潔、1900年(明治33年) - 1983年(昭和58年))は、広島県出身の著述家、啓蒙活動家。ブラジル日系社会の文化的発展に貢献。
額田 長(ぬかた ひさし、1900年(明治33年)- 198… 額田 長(ぬかた ひさし、1900年(明治33年)- 1984年(昭和59年)5月31日)は、日本の著名な剣道家および居合道家である。その段位称号は剣道範士八段、居合道範士九段に達している。 額田長は1900年、香川県高松市の銀行家の家庭に生まれた。1914年(大正3年)、県立高松中学校に入学し、体育祭の剣道行事で突如10人を勝ち抜き、これが剣道を始めるきっかけとなる。同校剣道部の師範であった植田平太郎(天真正伝神道流)に師事し、その才能を開花させた。 1918年(大正7年)、東京高等商業学校(現・一橋大学)への入学を目指し上京するが、受験には失敗した。この時、九段坂で高野佐三郎(中西派一刀流)が主宰する道場「明信館」を見つけ、そこに入門した。
梅本 貞雄(うめもと さだお、1900年 - 1961年9月… 梅本 貞雄(うめもと さだお、1900年 - 1961年9月22日)は、長崎市生まれの写真史家。1920年代から日本の写真の歴史の研究を行い、日本初の写真史家といわれる。 1900年に長崎の写真師上野彦馬撮影局があった伊勢町中島川畔で産まれる。祖父梅本栄太郎、祖母ことの手で養育されたが、祖父は上野の友人で、幼い梅本によく上野の話をしていたという。梅本は長崎市立勝山小学校をへて、市立長崎小学校に入学後、郷土史家古賀十二郎に私淑して「我国の文明史料の研究」「開港場長崎の歴史」の研究を開始。古賀の薫陶をうけ、長崎が写真発祥の地と知り、上野彦馬と門下生の研究を始める。長崎商業学校時代には、写真術も修業した。
田中 隆三(たなか りゅうぞう、1900年 - 1991年2… 田中 隆三(たなか りゅうぞう、1900年 - 1991年2月22日)は日本の編集者。『鉄道ピクトリアル』を発行する電気車研究会の初代社長であり、元鉄道省職員である。
赤木 志津子(あかぎ しづこ、1900年 - 1990年12… 赤木 志津子(あかぎ しづこ、1900年 - 1990年12月8日)は、日本の歴史学者。日本史、特に平安時代の文化史を専門とし、日本文学研究との学際的な研究を行い、お茶の水女子大学、都留文科大学などの教員を務めた。 大学を卒業した女性の歴史学者としては、最初期の先駆的存在であった。 福井県今立郡神明村(後の鯖江市)に生まれた。父は陸軍主計将校、母は御家人の家の娘で、志津子は、夭折した長男に続いて生まれた三姉妹の次女であった。父の転任にともない石川県金沢市へ移り、次いで父の台湾への派遣にともない、母の実家のあった静岡県静岡市へ移った後、1905年以降は父の転任に従って広島県広島市に定住した。このため、出身地は広島市とされることもある。
曹 承宗(そう しょうそう、1900年 – 1945年)は中… 曹 承宗(そう しょうそう、1900年 – 1945年)は中華民国・満洲国の官僚。 日本へ留学し、慶應義塾大学理財科と鉄道省立鉄道行政専科を卒業した。帰国後は奉海鉄路車務処運転科長、奉天交渉署第二科長、東北憲兵司令部秘書、遼寧省政府諮議を歴任した。 満洲国建国に際しては奉天省政府諮議となり、1934年(康徳元年)に同省実業庁長となる。1940年(康徳7年)1月に地籍整理局長となり、翌月、地政総局長に改任された。1942年(康徳9年)9月28日、安東省長に起用され、満洲国崩壊までこの地位にあった。 1945年8月に満洲国崩壊した後は、国務総理大臣だった張景恵の呼びかけに応じ、「安東省地区治安維持会」を創設して蔣介石国民政府(中国国民党)との連携を図った。
手塚 粲(てづか ゆたか、1900年(明治33年) - 19… 手塚 粲(てづか ゆたか、1900年(明治33年) - 1986年(昭和61年)5月14日)は、日本の会社員、アマチュア写真家。丹平写真倶楽部のメンバー。手塚治虫の父としても知られる。 司法官・手塚太郎の子として東京に生まれる。 1921年(大正10年)、中央大学法学部を卒業後、大阪の住友倉庫に入社する。後に、住友伸銅鋼管(1935年〔昭和10年〕、住友金属工業となる)に異動となる。同社にて勤務する一方、当初は東京写真研究会関西支部に所属、その後、丹平写真倶楽部へと参加した。前衛的な写真家であったとされ、丹平写真倶楽部においては、その実験的作風によって台頭し、丹平十傑の一人とされた。 「写真家四十八宜(しゃしんをうつすひとよんじうはちよろし)」は、48ヶ条にわたって写真家の心得をまとめたもので、丹平写真倶楽部の会員であった安井仲治によって光芒亭主人の名で発表されたが、これは同じく同倶楽部の会員であった手塚とともに考え出したものとされる。
赤尾 晃(あかお あきら、1900年 - 没年不明)は、日本… 赤尾 晃(あかお あきら、1900年 - 没年不明)は、日本の医化学者。専門は、家蚕の成長、吐糸、体液成分、また絹糸の縫合糸材料への応用など。カイコの卵巣を用いた先駆的な実験により生体における亜鉛の必須性に言及したことでも知られる。 1900年大阪府生まれ。1925年東京帝国大学(現在の東京大学)医学部卒業。1926年7月19日京城帝国大学医学部医化学教室助教授、1938年3月31年免官。以降、農林省(現在の農林水産省)蚕糸試験場嘱託として活動。
長谷 秀雄(はせ ひでお、1900-1986年)日本の彫刻家… 長谷 秀雄(はせ ひでお、1900-1986年)日本の彫刻家。大分県別府市生まれ。 彫刻家 朝倉文夫に師従し、現在の東京藝術大学の前身である東京美術学校(旧制)を修了。 京都西本願寺 大谷尊由の支援を受け、埼玉県蕨市中央三丁目にアトリエを開設。終戦の2年後(昭和22年)には蕨画塾(わらびがじゅく)を開塾、翌年(昭和23年)には埼玉県から各種学校の認可を受けている。芸術家を志す人だけでなく広く一般人を受け入れ、戦後美術の発展に寄与した。 閉校するまでの受講生は約1300名、現在の東京藝術大学にも200名以上の塾生が入学した。東京芸術藝術大学教授の安井 曾太郎は画塾を「芸大分校」と形容している。 随筆集『随筆画窓漫談』には熊本の「とのさん」こと細川護立侯と当時の美術界の面々の日常が記され、歌集『浩然居歌集』の題字も細川侯より寄稿されている。
小山悌(こやま やすし、1900年(明治33年) - 198… 小山悌(こやま やすし、1900年(明治33年) - 1982年(昭和57年)8月25日)は、日本の航空機・林業機器技術者、実業家。第二次世界大戦中は中島飛行機技師長・取締役、中島飛行機三鷹研究所長・黒沢尻製作所長(第1軍需工廠第21製造廠長)、戦後は岩手富士産業(中島の後身富士重工業系、現・イワフジ工業)取締役。 大日本帝国陸軍(陸軍航空部隊)の九七式戦闘機・一〇〇式重爆「呑龍」・一式戦闘機「隼」・二式戦闘機「鍾馗」・四式戦闘機「疾風」の設計主務者であり、戦前日本を代表する航空機技術者であった。 第二高等学校を経て、1922年(大正11年)4月に東北帝国大学工学部機械科進学。卒業後は理学部助手を務め、1925年(大正14年)12月に一年志願兵(学歴と財力を持つ者を対象に短期間の現役期間の後に予備役幹部に登用する制度、のちの幹部候補生制度)として帝国陸軍の電信部隊(在中野)に入営する。
兼島 信栄(かねしま しんえい、1900年 - 没年不明)は… 兼島 信栄(かねしま しんえい、1900年 - 没年不明)は、日本の政治家、空手家、弁護士、画家。沖縄県那覇市首里寒川町出身。 東京都北区に疎開し、警察官として勤務した。 日本大学法学部を卒業して弁護士となる。 1947年9月10日、美里村で琉球社会党を結成し、10月20日には兼島信栄の第一次沖縄社会党に合併。沖縄社会党は沖縄民主同盟や沖縄人民党とともに知事・議会議員の公選を訴え、アメリカ合衆国による沖縄統治の下での琉球独立を模索した。 山城善光によれば、1949年5月1日以後、社会党・民主同盟・人民党の3党からなる「民族戦線演舌会」が開催されると、那覇市を皮切りに、糸満、石川、名護、本部、今帰仁、大宜味で盛況を収めたという。
朴 祺培(パク・キベ、朝鮮語: 박기배、1900年または19… 朴 祺培(パク・キベ、朝鮮語: 박기배、1900年または1913年ごろ - 1977年1月5日)は、大韓民国の農家、政治家。第2代韓国国会議員。 全羅南道海南郡出身。明治大学法科卒。瑞山郡で農場を経営した後、無所属・自由党所属の国会議員を務めた。国会議員在任中も政治活動より農場の経営に熱心で、国会への欠席が多かった。 1977年1月5日、ソウル市冠岳区の自宅で持病のため死去。64歳没。 この項目は、政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。 この項目は、朝鮮に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:朝鮮)。
趙 憲泳(チョ・ホニョン、朝鮮語: 조헌영、1900年または… 趙 憲泳(チョ・ホニョン、朝鮮語: 조헌영、1900年または1901年1月8日 - 1988年5月23日)は、日本統治時代の朝鮮、大韓民国および朝鮮民主主義人民共和国の韓医学者、韓医師、政治家、独立運動家。制憲・第2代韓国国会議員、元在北平和統一促進協議会書記長。 本貫は漢陽趙氏(朝鮮語版)。字は応文、号は海山。趙光祖の子孫で、元義兵隊長の趙承基は祖父、教育者の趙寅錫は父。元国立図書館長の趙銀泳は兄、元大邱市長・慶尚北道知事の趙俊泳は弟、時調詩人の趙愛泳は妹。詩人の趙芝薫(趙東卓)と趙東振(朝鮮語版)は息子、外交官・外交部長官の趙兌烈は孫。 慶尚北道英陽郡日月面出身。祖父と父から四書三経や漢文を学んだ後、大邱公立高等普通学校卒。
金 鍾烈(キム・ジョンヨル、朝鮮語: 김종열、1900年また… 金 鍾烈(キム・ジョンヨル、朝鮮語: 김종열、1900年または1901年2月28日 - 1985年5月29日)は、大韓民国の裁判官、政治家、弁護士。第2代韓国国会議員。 キム・ジョンニョル(김종렬)とも表記される。キリスト教徒。 忠南大田(現・大田広域市)出身。京城帝国大学(現・ソウル大学校)法文学部法科卒。清州地方法院判事、大田地方法院判事、第2代国会民議院法制司法委員会委員、大韓労総法律顧問、法務部秘書官を務めた。 1985年5月29日、ソウル市江南区の自宅で老衰により死去。享年84。 1950年の第2代国会第8回第51次本会議において、日程が急であるため、緊急議案を議事日程への掲載ができなかったことや印刷物を配布できなかったことについて、壇上で謝罪し弁解した。
片山牧羊(かたやま ぼくよう、1900年(明治33年) - … 片山牧羊(かたやま ぼくよう、1900年(明治33年) - 1937年(昭和12年)8月26日)は、大正、昭和初期の日本画家。庄田鶴友、蔦谷龍岬、荒木十畝に師事し、旧帝展特選1回入選3回に及んでいた。 1900年、尾道市長江町に生まれる。本名健三。父は漢学者の片山辰之助。1915年、大阪で南画を学ぶ。また、合川澄水に書道を学ぶ。1917年、京都で、庄田鶴友に師事し日本画を学ぶ。また、山本竟山に書道を学ぶ。この頃、短歌集『曼珠華沙』を作る。1921年上京し、蔦谷龍岬塾・鐸鈴社に入門、本格的に日本画を学びはじめる。1927年、第8回帝展に「おぼろ」(広島県立美術館所蔵)を出品、初入選で特選を受賞する。