徳光 寿雄(とくみつ としお、旧字体:德光 壽雄、1910年… 徳光 寿雄(とくみつ としお、旧字体:德光 壽雄、1910年〈明治43年〉10月11日 – 2014年〈平成26年〉9月12日)は、日本の映画監督、実業家。 徳光和夫(フリーアナウンサー)、徳光次郎(英国伊勢丹初代社長)兄弟の父。徳光正行(キャスター)・ミッツ・マングローブ(女装家)の祖父。 徳光賢五郎の長男として生まれる。1907年、父は北海道から神戸市に移住。神戸でつねと結婚し、1910年に寿雄が誕生した。ほどなく両親が離婚し、寿雄は父に引き取られた。 賢五郎は再婚し、東京電燈へ転職。1930年、徳光家は東京市西巣鴨で暮らし始めた。寿雄は度重なる引っ越しであまり友達をつくる事もできずよく一人で過ごしていた。
本山 政雄(もとやま まさお、1910年(明治43年)10月… 本山 政雄(もとやま まさお、1910年(明治43年)10月10日 - 2009年(平成21年)5月11日)は、日本の教育学者、政治家。元名古屋市長(3期)。名古屋大学名誉教授。 東京都出身。東京府立第二中学校(現・東京都立立川高等学校)、府立高等学校(東京都立大学 (1949-2011)の前身)卒業。東京帝国大学文学部に入学。読書や勉学ではヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチやジャン=ジャック・ルソーに親しんだが、教育学を学ぼうという意思は特別なかったという。友人のすすめで教育学科を専攻することとなり、教育学者の阿部重孝から直接指導を受けた。1935年に大学を卒業し、大学院に進んだ。 1937年に召集。
奥田 教朝(おくだ のりとも、1910年10月10日 - 1… 奥田 教朝(おくだ のりとも、1910年10月10日 - 1994年8月7日)は、日本の都市計画家。都市計画官僚、土木技師。日本都市計画学会会長(1973年-1974年)等を歴任。 父の奥田武二郎、母の愛子(男爵関義臣の庶子)の長男として東京で生まれる。弟は4人おり、二男教広はのち、奥田秀三郎の養子、教幸(1915年生)は東大医科卒の医師。教久(1919年生)は東大工科卒の技師、他に教望(1921年生)がいる。 父親の武二郎(1883年生)は農商務省の鉱山監督局技師、仙台鉱山監督局鉱業課長を歴任し、のち日鉄鉱業顧問。正四位勲四等。叔父広瀬孝六郎は、広瀬次郎の養子、東京帝大助教授兼厚生技師。祖父奥田教佶は、旧越後村松藩士で西蒲原郡立実科高等女学校初代校長、大分や兵庫、秋田師範学校校長を歴任し、伯父には旧村松藩主・奥田直賀(堀直賀)がいる。
双葉 十三郎(ふたば じゅうざぶろう、1910年10月9日 … 双葉 十三郎(ふたば じゅうざぶろう、1910年10月9日 - 2009年12月12日)は、日本の映画評論家、翻訳家である。本名は小川 一彦(おがわ かずひこ)。ペンネームはトム・ソーヤーに由来する(双葉は「Sauyer」、十三は「Tom」をもじったもの)。 東京府東京市出身。父は化学者の小川若三郎。幼少時から映画に熱中、映画館に入り浸り、映画三昧の日々を送っていた。 東京府立第八中学校(現在の東京都立小山台高等学校)時代から埼玉県立浦和中学校(現在の埼玉県立浦和高等学校)、東京帝国大学(現在の東京大学)に至る学生生活のあいだ書き留めた「映画ノオト」は数十冊に及んだ。 自身は辰野隆に傾倒し、仏文科へ進みたかったのだが、父・若三郎から「仏文に行ったら勘当する」と強硬に申し渡されたため、泣く泣く経済学部に入学した。
天利長三(あまり ちょうぞう、1910年(明治43年)10月… 天利長三(あまり ちょうぞう、1910年(明治43年)10月9日 - 2000年(平成12年)7月10日)は、日本の経済学者。専門は金融論。 滋賀県長浜市出身。1936年東京商科大学卒、1961年「貨幣経済と実物経済」で一橋大学より経済学博士の学位を取得。彦根高等商業学校教授、東京商科大学経済研究所参事、小樽商科大学教授、東京女子大学教授、東京都立大学教授、青山学院大学経済学部教授を務め、1980年定年、名誉教授となり、東海大学教授を務めた。
森 昌也(もり まさや、1910年〈明治43年〉10月8日 … 森 昌也(もり まさや、1910年〈明治43年〉10月8日 - 2013年〈平成25年〉5月7日)は、日本の政治家。島田市名誉市民。 静岡県議会議員(3期)、静岡県島田市長(5期)、島田市議会議員(2期)などを歴任した。 1910年(明治43年)10月8日、静岡県志太郡島田町大津小路で出生。1937年(昭和12年)、東京帝国大学文学部社会学科卒業。国民精神文化研究所研究生指導科修了。 1947年(昭和22年)、島田町議会議員に初当選。在任中、議長を務めた他、近代的な市議会運営の視察のために渡米し、リッチモンド市を訪れた。島田町議会議員・島田市議会議員を2期6年務めた後、1953年(昭和28年)、島田市長に初当選し、5期20年務めた。
安村 和雄(やすむら かずお、1910年 <明治43年> 1… 安村 和雄(やすむら かずお、1910年 <明治43年> 10月7日 - 1995年 <平成7年> 9月15日)は、日本の裁判官。位階は正三位。 神奈川県立横浜第三中学校、東京帝国大学法学部卒業。1935年に司法官試補となり、東京地裁判事、宇都宮地・家裁所長、最高裁首席調査官を経て、1971年10月から東京地裁所長、1973年2月に最高裁事務総長、1974年12月に東京高裁長官に就任。1975年10月に定年退官。 1976年4月に法制審議会監獄法改正部会部会長を務め、代用監獄制度について1979年11月に運用を改善する事で存続するという結論を出した。1979年3月に日本プロ野球選手会初代理事長に就任。
牧野 直隆(まきの なおたか、1910年10月6日 - 20… 牧野 直隆(まきの なおたか、1910年10月6日 - 2006年7月18日)は、鹿児島県出身の野球選手、指導者、日本高等学校野球連盟会長。 慶應義塾商工学校から慶應義塾大学経済学部卒業。慶大野球部では主将・遊撃手として活躍。水原茂と三遊間コンビを組んだ。水原リンゴ事件の際には主将として混乱の収拾にあたり、早慶戦、大学野球の灯りを死守した。 1934年に鐘淵紡績に入社した後もアマチュア野球選手としてプレーを続け、同年の第8回全日本都市対抗野球大会では三原脩と共に全大阪チームのメンバーとして出場して優勝したほか、アメリカ・大リーグ選抜が2度目の来日をした際には全日本チームのメンバーに選ばれた経験も持つ。
土屋 清(つちや きよし、1910年10月5日 - 1987… 土屋 清(つちや きよし、1910年10月5日 - 1987年3月22日)は、日本のジャーナリスト、経済評論家。
平木 信二(ひらき しんじ、1910年10月5日 - 197… 平木 信二(ひらき しんじ、1910年10月5日 - 1971年12月30日)は、日本の実業家。元リッカーミシン社長。 現在の京都府長岡京市出身。 高等小学校卒業後、故郷を離れて日本紡績(後のユニチカ)に就職し、関西大学商学部夜間部を卒業。 1929年、8ヶ月間で祖父母、母を続けざまに喪った。あまりに短期間過ぎて平木家は墓地に埋葬する場所が無くて困ったと伝わる。 1934年に京都帝国大学経済学部を卒業後、計理士事務所を開設した。当時日中戦争の軍需景気でインフレが発生し、税法も新しくなったため税金の取り立てが厳しく、計理士の需要は非常に高かった。おかげで29歳の頃に平木はすでに結婚していたが、一家が一生生活に困らないほどの財産を築き上げた。
鈴木 義雄(すずき よしお、1910年(明治43年)10月3… 鈴木 義雄(すずき よしお、1910年(明治43年)10月3日 - 1999年(平成11年)7月23日)は、日本の実業家、通産省官僚。通産省重工業局長、日揮社長・会長、日本輸出入銀行理事などを歴任した。
小川 環樹(おがわ たまき、1910年(明治43年)10月3… 小川 環樹(おがわ たまき、1910年(明治43年)10月3日 - 1993年(平成5年)8月31日)は、日本の中国文学者。京都大学名誉教授。字は「士解」。主著に「唐詩概説」「蘇軾」など初学者向けの啓蒙書や訳書も多数著している。角川書店『新字源』編者の一人。 1910年、京都府京都市で地質学者・小川琢治の子として生まれた。 第三高等学校で学び、1928年に卒業。京都帝国大学文学部に入学し、1932年年に卒業。その後は同大学大学院に進学した。1934年から1936年にかけて中国に留学。魯迅と周作人兄弟、章太炎、劉半農、郁達夫、銭鍾書ら同時代の文学者らと面識を得た。1938年に大学院を退学した。 1938年、東北帝国大学文学部講師に就いた。
鈴木 義雄(すずき よしお、1910年(明治43年)10月3… 鈴木 義雄(すずき よしお、1910年(明治43年)10月3日 - 1999年(平成11年)7月23日)は、日本の実業家、通産省官僚。通産省重工業局長、日揮社長・会長、日本輸出入銀行理事などを歴任した。位階は正四位。 神奈川県三浦郡葉山町生まれ。昭和8年(1933年)に東京帝国大学法学部を卒業し、同年商工省に入省。大阪通産局総務部長や横浜通商事務所所長、在英国日本国大使館商務参事官、札幌鉱山監督局局長を経て、昭和29年(1954年)通商産業省重工業局長に就任した。通産省を退官後は、昭和32年(1957年)に日本輸出入銀行理事、昭和41年(1966年)に日本揮発油(現・日揮)社長に就任。昭和55年(1980年)からは日揮会長を務めた。
立石 芳枝(たていし よしえ 1910年(明治43年)10月… 立石 芳枝(たていし よしえ 1910年(明治43年)10月3日 – 1983年(昭和58年)12月21日)は、日本の法学者。専門は、親族法・相続法。女性として日本で最初に法学博士の学位を取得した。学位論文は、「イギリスの無遺言者遺産の管理」。 1910年 東京都にて出生。父は京都地方裁判所所長。 1932年 明治大学専門部女子部法科を卒業し、明治大学法学部(旧制)に進学、1935年に卒業。 1935年 女性ではじめて 東京帝国大学大学院(法学)に進学する。 1944年 明大女子部教授となり、民法を担当。後に明治大学短期大学長に就任。 1962年 「イギリスの無遺言者遺産の管理」で 女性初の法学博士 となる。
塚原 俊郎(つかはら としお、1910年10月2日 - 19… 塚原 俊郎(つかはら としお、1910年10月2日 - 1975年12月7日)は、日本の政治家。総理府総務長官・労働大臣。正三位勲一等。通商産業大臣を務めた塚原俊平は長男。 現在の茨城県常陸太田市に、下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)や太田中学校(現在の茨城県立太田第一高等学校)などの校長を歴任し、茨城教育界で名校長として知られた教育者・塚原末吉の二男として生まれる。水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)、水戸高等学校を経て、1935年東京帝国大学文学部社会学科を卒業後、同盟通信社に入社し10年間の記者生活を送る。 戦後は官界に転じ、情報局情報官、内務省地方局世論調査課長を務めた後、1947年増田甲子七運輸大臣秘書官となる。
小倉 武一(おぐら たけかず、1910年〈明治43年〉10月… 小倉 武一(おぐら たけかず、1910年〈明治43年〉10月2日 - 2002年〈平成14年〉2月14日)は、日本の農林官僚、経済学者。 農林事務次官、政府税制調査会会長などを歴任した。特に、政府税制調査会会長は16年間を務め,「ミスター税調」と呼ばれた。旧姓は大井。著作に『土地立法の史的考察』など。 長男は元国際交流基金理事長で外交官の小倉和夫。三男は社会学者で津田塾大学名誉教授の小倉充夫。
竹内 好(たけうち よしみ、1910年(明治43年)10月2… 竹内 好(たけうち よしみ、1910年(明治43年)10月2日 - 1977年(昭和52年)3月3日)は、日本の中国文学者。文芸評論家。魯迅の研究・翻訳や、日中関係論、日本文化などの問題をめぐり言論界で、多くの評論発言を行った。
広津 雲仙(ひろつ うんせん、1910年〈明治43年〉10月… 広津 雲仙(ひろつ うんせん、1910年〈明治43年〉10月1日 - 1989年〈平成元年〉9月19日)は、昭和期に活躍し、日展内閣総理大臣賞や日本芸術院賞を受賞した書家。日展の要職を歴任し常務理事を務めたほか、日本書芸院の設立、読売書法会の創立に尽力した。また、書道雑誌『墨滴』を刊行すると同時に、墨滴会を主宰し、後進の育成に力を注いだ。長崎県北高来郡高来町出身(現、諫早市高来町)で、本名は廣津 四郎(ひろつ しろう)。雅号の「雲仙」は、長崎県の雲仙岳に由来する。 雲仙の作品は、堅実な古典的基礎の骨格を、穏和な肉付きで包んでいて、厳しい格調の高さや内的精神の強さが、気取りや誇張のない、やさしい品の良さで仕上げられている。
横川 義雄(よこかわ よしお、1910年10月~1995年6… 横川 義雄(よこかわ よしお、1910年10月~1995年6月12日)は、日本の経営学者・教育者・地方公務員だった人物。札幌大学名誉教授。北海道函館市出身 1928年北海道庁立小樽中学校卒業。1931年小樽高等商業学校卒業。北海道庁立小樽商業学校(現北海道小樽商業高等学校)教諭。1940年北海道函館商業学校(現北海道函館商業高等学校)教諭。1953年函館短期大学商科助教授(経営管理論・教職担当)。1958年北海道教育委員会指導主事。1959年札幌短期大学商業科客員助教授(経営管理論担当、~1968年)。1963年北海道札幌東商業高等学校校長。1968年北海道旭川商業高等学校校長。1970年北海道立の高等学校の教員として定年退職。
畑 和(はた やわら、1910年〈明治43年〉9月29日 -… 畑 和(はた やわら、1910年〈明治43年〉9月29日 - 1996年〈平成8年〉1月26日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(4期)、埼玉県知事(5期)を歴任。 埼玉県北埼玉郡礼羽村(現・加須市)出身。礼羽村立礼羽尋常小学校、旧制不動岡中学校(現・埼玉県立不動岡高等学校)、旧制浦和高等学校(現・埼玉大学教養学部)、東京帝国大学法学部卒業。 弁護士を経て、埼玉県議会議員を2期務めた後、1960年の第29回衆議院議員総選挙に旧埼玉1区から日本社会党公認で立候補し当選(4期連続当選)。社会党右派の有力議員として活動した。 1972年(昭和47年)の埼玉県知事選挙で自由民主党公認の前川口市長・大野元美と反共全国遊説隊公認の高田がんの両候補を破って初当選、以後連続5期。
秋沢 修二(あきざわ しゅうじ、1910年9月29日 - 1… 秋沢 修二(あきざわ しゅうじ、1910年9月29日 - 1991年8月27日)は、評論家、哲学者。本名は秋津賢一(あきつ けんいち)。 静岡県沼津市の鼈甲商の長男に生まれた。沼津市立沼津尋常高等小学校(現・沼津市立第一小学校)卒。静岡県立沼津中学校(第24期、現・静岡県立沼津東高等学校)を4年生で中退。中学卒業検定試験に合格し、専門学校入学資格(専検)を取得。1928年早稲田大学高等学院文科に入学。早稲田では新稲会に所属。1930年早稲田大学文学部哲学科に進んだが、同年8月学資納入が困難なため中退。 1930年2月頃にプロレタリア科学研究所(プロ科)所員となり、哲学部門の唯物弁証法研究会に所属。
井上 ふみ(いのうえ ふみ、1910年9月28日 - 200… 井上 ふみ(いのうえ ふみ、1910年9月28日 - 2008年10月12日)は、日本のエッセイスト。作家井上靖の妻。 京都市の吉田山に生まれる。父・足立文太郎は京都帝国大学教授、解剖学者。同志社女学部から専門部英文科に進むが、病気のため中退。1935年、当時京大の学生だった井上靖と結婚。1991年、夫の没後は、井上靖文化財団理事長を創設。5冊の回想エッセイを刊行した。 長男の井上修一は、ドイツ文学者。次兄の娘婿である福田宏年もドイツ文学者で井上の評伝・作品編さんに当たった。
山田 利雄(やまだ としお、1910年9月28日 - 200… 山田 利雄(やまだ としお、1910年9月28日 - 2001年10月)は、日本の政治家・元地方公務員。北海道江別市長(1971年 - 1983年)。北海道網走郡美幌町出身。明治大学専門部商科(後の明治大学商学部)卒業。 美幌町の造材屋に生まれるが、早くに父を亡くす。小学校は網走で終えた。 自治講習所で学んだあと、小清水村役場にて4年間勤務する。 それから、東京で新聞販売店を経営していた兄を頼って上京し、1938年(昭和13年)に明治大学商科専門部を卒業した。 芝浦マツダ製作所(後の東芝)の経理として就職し、神戸の子会社に出向するなどしたが、1945年(昭和20年)に故郷近くの湧別町に疎開。太平洋戦争終結後は、湧別定温倉庫の支配人を務めた。
岡元 義人(おかもと よしと、1910年(明治43年)9月2… 岡元 義人(おかもと よしと、1910年(明治43年)9月27日 - 1958年(昭和33年)11月17日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員。 鹿児島県姶良郡、のちの隼人町(現霧島市)で岡元常助の長男として生まれる。1923年(大正12年)宮崎県立小林中学校(宮崎県立小林高等学校)を卒業。さらに市立大阪工業学校(現大阪府立都島工業高等学校)機械科を卒業した。 1929年(昭和4年)大阪川西内燃機関研究所員となる。1931年(昭和6年)朝鮮西松組に転じた。以後、朝鮮水力電気機関庫主任、国際運輸自動車部主任を経て、承徳と天津市で華北運輸公司を経営し、さらに北京市で北支工廠を経営して終戦を迎えた。
相良 惟一(さがら いいち、1910年9月27日 - 198… 相良 惟一(さがら いいち、1910年9月27日 - 1987年5月15日)は、日本の教育学者。専門は教育行政学。 東京帝国大学卒業。文部省総務課長、ユネスコ本部学校教育振興部長を経て、1955年京都大学教育学部教授、退官後国際大学都市日本館長、聖心女子大学学長などを歴任した。 1910年(明治43年)9月27日、東京に生まれる(本籍地は福岡県)。 1934年(昭和9年)3月、東京帝国大学法学部法律学科卒業。大学では美濃部達吉・田中耕太郎の指導を受ける。同年7月、文部省専門学務局雇員となり、翌1936年(昭和11年)4月、文部省嘱託、外務省文化事業部第二課勤務。 1937年(昭和12年)9月から1938年(昭和13年)12月まで応召、中支派遣部隊に従軍。
波岡 惣一郎(なみおか そういちろう、1910年(明治43年… 波岡 惣一郎(なみおか そういちろう、1910年(明治43年)9月27日 - 1951年(昭和26年)12月10日)は、青森県八戸市出身の歌手。 青森県八戸市の大地主の息子として生まれるが、歌手になるために親の反対を押しきって東洋音楽学校に入学する。1936年(昭和11年)同校卒業後、日本劇場に出演などを経て、1937年(昭和12年)ビクターよりデビュー。「皇軍大捷の歌」、「かちどきの歌」、「大陸行進曲」、「日の丸行進曲」、「興亜行進曲」、「空の勇士」、「国民進軍歌」など、戦時歌謡を多く吹き込む。 1942年(昭和17年)にビクターのトップ歌手だった徳山璉が亡くなった事から、その後ビクターの戦時歌謡は波岡に回って来ることが多かった。
前島 康彦(まえじま やすひこ、1910年9月26日 - 1… 前島 康彦(まえじま やすひこ、1910年9月26日 - 1988年12月10日)は日本の造園家。造園史家。農学博士。 東京に野尻爻六・すね夫妻のもとに生まれる。豊山中学校を卒業し、國學院高等師範部に進学し、渡辺世祐、高柳光寿の指導を受け、1931年に卒業。博文館に勤めた後、東京市に任用になり、井下清課長のもとで公園行政ともっぱら公園機関紙の編集に関わる。 1970年、第1回日本公園緑地協会北村賞受賞。1983年に「宗教緑地論 : 社寺境内地の歴史的評価と公園緑地政策におけるその役割」により、東京農業大学から農学博士の学位を授与される。おもな著書に東京公園文庫シリーズがある。
中村 順造(なかむら じゅんぞう、1910年(明治43年)9… 中村 順造(なかむら じゅんぞう、1910年(明治43年)9月26日 - 1969年(昭和44年)2月1日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員。 山口県、現在の美祢市出身。小学校卒業後、中央鉄道教習所運転高等科を卒業し日本国有鉄道に就職。国鉄機関士、華中鉄道機関士、運輸省技官、教官などを歴任。 労働運動に加わり、日本国有鉄道機関車労働組合(のち国鉄動力車労働組合)副委員長、同委員長、機労政治連盟議長、全交通運輸労組協議会副議長などを歴任。 1959年(昭和34年)6月の第5回参議院議員通常選挙で全国区に日本社会党公認で出馬して初当選(補欠、任期3年)し、1962年(昭和37年)7月の第6回通常選挙で全国区から出馬して再選され、参議院議員に連続2期在任した。
中山 恒明(なかやま こうめい、1910年9月25日 - 2… 中山 恒明(なかやま こうめい、1910年9月25日 - 2005年6月20日)は、日本の外科医、外科医学者。 山梨県白州町に医師中村進の長男として生まれる。東京出身。旧制新潟高等学校卒。1934年、千葉医科大学卒。瀬尾貞信の元で学ぶ。1936年、同助手。1938年、医学博士。1947年、千葉医科大学教授、のち組織改編により千葉大学医学部教授。1964年、国際外科学会の「世紀の外科医賞」を受賞。1965年、東京女子医科大学客員教授。同大に消化器病センターを設立。同年中山癌研究所を創設。1966年ベルツ賞1等賞を受賞。日本消化器外科学会会長、国際外科学会会長。1991年、がん医学の中山恒明賞を創設。
杉谷 雅文(すぎたに まさふみ、1910年9月25日 - 1… 杉谷 雅文(すぎたに まさふみ、1910年9月25日 - 1991年5月7日)は、日本の教育学者。広島大学名誉教授。 兵庫県美方郡浜坂町(現・新温泉町)出身。姫路師範学校卒、広島高等師範学校卒、1937年広島文理科大学教育学科卒、福井師範学校教授、鹿児島師範学校教授、鳥取師範学校教授、1947年広島文理科大学講師、1949年助教授、1952年「生命哲学と教育学」で広島文理科大学文学博士。1953年教授、広島大学教育学部教授、1961-1964年広島大学教育学部附属小学校校長、1974年広島大を定年退官、名誉教授、親和女子大学教授。1983年勲三等旭日中綬章を受章。
久保 勘一(くぼ かんいち、1910年9月25日 - 199… 久保 勘一(くぼ かんいち、1910年9月25日 - 1993年11月23日)は、日本の政治家。長崎県知事(公選第7-9代)、参議院議員(2期)。愛称は「クボカン」。元五島市長の中尾郁子は娘。 長崎県五島列島の三井楽町(現五島市)で生まれる。長崎県師範学校(現長崎大学)を卒業後、五島の農協組合長を経て長崎県議会議員に当選。1961年から1962年に同議会議長。 1962年の第6回参議院議員通常選挙に出馬し、長崎地方区で初当選。参議院文教委員長などを務め、2期目途中の1970年に長崎県知事選挙に出馬。4選をめざす佐藤勝也に挑戦し、地元生え抜きの久保と官僚出身の佐藤という構図の対決となり、自民党県連が2つに割れた。
中倉 清(なかくら きよし、1910年〈明治43年〉9月24… 中倉 清(なかくら きよし、1910年〈明治43年〉9月24日 - 2000年〈平成12年〉2月9日)は、日本の剣道家。段位は剣道範士九段、居合道範士九段(全日本剣道連盟)。流派は神道無念流剣術、夢想神伝流居合。職業は警察官(宮内省皇宮警察、鹿児島県警察)。 鹿児島県出身。大道館武道専修学校を第一期生として卒業後、上京して中山博道の道場・有信館に入門する。剣道の公式戦で69連勝を打ち立て、「昭和の武蔵」、「戦うに敵なし」と謳われた。第二次大戦後は全日本東西対抗剣道大会で9人を勝ち抜く記録を打ち立て、「東西対抗の鬼」の異名をとった。 関東管区警察学校教授、一橋大学、中央大学、防衛医科大学校剣道部師範、鹿児島県剣道連盟理事長、全日本剣道連盟審議員などを歴任した。
中根 之(なかね すすむ、1910年9月21日 - 没年不明… 中根 之(なかね すすむ、1910年9月21日 - 没年不明)は、兵庫県出身の元プロ野球選手(外野手)、プロ野球審判員。
山本 日子士良(やまもと ひこしろう、1910年9月21日 … 山本 日子士良(やまもと ひこしろう、1910年9月21日 - 1993年9月15日)は、日本の洋画家。 1910年(明治43年)9月21日、奈良県磯城郡に生まれる。東京美術学校卒業後兵役に就き、戦災でアトリエを焼失。戦後は東京都・板橋区に居を構え、創作を再開。日展出品を重ね、1992年(平成4年)日展参与となる。1993年(平成5年)9月15日に死去した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
田中 龍夫(たなか たつお、1910年〈明治43年〉9月20… 田中 龍夫(たなか たつお、1910年〈明治43年〉9月20日 - 1998年〈平成10年〉3月30日)は、日本の政治家、華族(男爵)。正三位勲一等。首相を務めた田中義一の長男。 戦後間もなく貴族院議員、山口県知事を務め、のち自由民主党に所属し衆議院議員、通商産業大臣、文部大臣を歴任した。福田派の幹部として重きをなし、岸派以来の福田赳夫側近として行動を共にした。また長らく「日本海外移住家族会連合会」の会長を務め、世界各地の日系移民とその家族の支援に尽力した。 1910年(明治43年)9月20日 、陸軍軍人・田中義一の長男として山口県萩市に生まれる。暁星中学校から一浪を経て浦和高等学校(現・埼玉大学)に進学し、東京帝国大学法学部政治学科に入学。
天池 真佐雄(あまち まさお、1910年9月18日 - 19… 天池 真佐雄(あまち まさお、1910年9月18日 - 1992年11月22日 本名・中野政雄)は、東京都出身の音楽家、作曲家、ピアニスト。 東京高等音楽学院(現・国立音楽大学)本科卒。その後東京中央放送局(のちのNHK)の専属ピアニストに就任。特に、戦後の『のど自慢素人演芸会』や、音楽ゲーム番組『三つの歌』では出場者の伴奏を展開した。 歌手・タレントの天地総子は実の娘である。 この項目は、音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 音楽/ウィキプロジェクト 音楽)。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。
浦野 匡彦(うらの まさひこ、1910年〈明治43年〉9月1… 浦野 匡彦(うらの まさひこ、1910年〈明治43年〉9月16日 - 1986年〈昭和61年〉12月2日)は、元二松學舍大学理事長・学長、日本遺族会副会長、全国社会福祉協議会評議員・理事。故郷・群馬県では「上毛かるた」の生みの親として知られている。 群馬県吾妻郡長野原町林に、浦野安・倶子の六男として生まれる。浦野家の先祖は、大戸城主・浦野真楽斎の次男・浦野左衛門尉村信であるという。浦野家は代々大乗院住職・王城山(みこしろやま)神社別当を世襲し、その墓所には初代村信の墓という「御塚」(長野原町指定文化財)が所在する。 父・安は地元の小学校校長を務めたのち東京法学院(現・中央大学)を卒業して大蔵省主計局に勤務し、帰郷後は長野原町長などの公職に就任、神職としても群馬県皇典講究所理事、全国神職会群馬県代表などを務めた。
伊藤 祐太郎(いとう ゆうたろう、1910年9月16日 - … 伊藤 祐太郎(いとう ゆうたろう、1910年9月16日 - 1983年2月5日)は、日本の経営者。千代田火災海上保険社長を務めた。東京都出身。 1933年に明治大学法学部政治学科を卒業し、1935年4月に千代田火災海上保険に入社。1960年6月に取締役に就任し、1963年6月に常務、1965年6月に専務、1969年6月に副社長を経て、1977年7月から1980年7月までに社長を務めた。 1980年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1983年2月5日に急性心不全のために死去。72歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
植松 又次(うえまつ またじ、1910年(明治43年)9月1… 植松 又次(うえまつ またじ、1910年(明治43年)9月15日 - 2006年(平成19年)6月22日)は、日本の郷土史家。山梨県の郷土研究を行う。位階は従六位。 山梨県北巨摩郡津金村(現在の北杜市須玉町)に生まれる。山梨県師範学校本科一部・同校専攻科を卒業後、西八代郡高田村(現・市川三郷町)の高田小学校、山梨県女子師範学校附属小学校に勤務し初等教育に携わり、1948年(昭和23年)には東山梨郡後屋敷村(現・山梨市)の後屋敷小学校、塩山市立北小学校、山梨市立八幡小学校において教頭職を務め、1966年(昭和41年)に東山梨郡牧丘町の牧丘町立牧丘第二中学校(現在・山梨市立牧丘第二中学校)校長で退職。
阿部 合成(あべ ごうせい / まさなり、1910年(明治4… 阿部 合成(あべ ごうせい / まさなり、1910年(明治43年)9月14日 - 1972年(昭和47年)6月18日)は、昭和に活躍した洋画家。 青森県南津軽郡浪岡村(現在の青森市浪岡)に、父阿部政太郎、母由みの5男6女の末っ子として生まれる。阿部家は北畠顕家の末裔と言われ、代々浪岡八幡宮の宮司をしていた。合成の名は、同年の韓国併合に因んでいるが、後年合成はこの名を嫌ったという。父は当時衆議院議員だったが、1917年(大正6年)青森市長に就任したことで、一家は青森に移転。4月青森市橋本尋常小学校に入学。1922年(大正11年)1月に母を亡くし、墓前で一人泣きじゃくったという。翌年、青森県立青森中学校(現在の青森県立青森高等学校)に入学。
山元 一郎(やまもと いちろう、1910年9月14日 - 1… 山元 一郎(やまもと いちろう、1910年9月14日 - 1972年7月7日)は日本の哲学者、言語哲学者。立命館大学教授。 鹿児島県国分市(霧島市)出身。鹿児島県立第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1927年4月に第三高等学校文科へ入学し、6月に退学。1928年4月に第七高等学校造士館理科へ入学、1931年3月に卒業。1931年4月に京都大学文学部哲学科へ入学し、田邊元に師事。1934年3月に京都大学文学部哲学科を卒業して、同年4月から1936年3月まで大学院在学。 1936年4月~1938年3月、立命館大学専門部講師。1938年4月~1940年3月、京都帝国大学附属図書館嘱託。
林信行(はやし のぶゆき、1910年9月12日-1998年8… 林信行(はやし のぶゆき、1910年9月12日-1998年8月6日)は、日本のアメリカ文学者。 千葉県出身。1935年東北帝国大学文学部英文科卒。旧・東京都立大学助教授、教授、74年定年退官、名誉教授、創価大学文学部教授。92年定年、名誉教授。
真鍋 元之(まなべ もとゆき、1910年9月12日 -198… 真鍋 元之(まなべ もとゆき、1910年9月12日 -1987年10月30日)は、日本の小説家、文芸評論家。大衆文学研究会会員。 愛媛県宇摩郡関川村(現・四国中央市)出身。1931年、広島高等師範学校(現・広島大学)国文科中退。上京して日本プロレタリア作家同盟に加入するが、後に脱退。1939年博文館に入社し、勤務の傍ら時代小説を執筆。戦後は数年間、新小説社の『大衆文芸』の編集をし、自ら「炎風」を連載。1958年『炎風』で新鷹会賞特別奨励賞を受賞。その後は実作及び評論を手がける。
花岡 菊子(はなおか きくこ、1910年9月11日 - 19… 花岡 菊子(はなおか きくこ、1910年9月11日 - 1984年6月12日)は、日本の女優である。出生名は瀧川 幾代(たきがわ いくよ)、結婚後本名は松崎 幾代(まつざき いくよ)。1920年代末の松竹蒲田撮影所の喜劇女優として知られ、戦後は新東宝に所属、脇役俳優として映画に多く出演した。 1910年(明治43年)9月11日、静岡県静岡市寺町(現在の同県同市葵区駿河町)に生まれる。『一九三三年版 オール松竹俳優名鑑』(蒲田雑誌社)には「1911年9月1日出生」との旨の記述がみられる。 旧制小学校卒業後、旧制・静岡精華高等女学校(現在の静岡大成高等学校)に進学、1928年(昭和3年)3月、同校を卒業する。
湧永 満之(わくなが まんじ、1910年9月10日 - 19… 湧永 満之(わくなが まんじ、1910年9月10日 - 1992年8月9日)は、実業家。 湧永製薬創業者。 広島県高田郡甲田町(現安芸高田市)出身。1929年、旧制崇徳中学(現崇徳高校)卒業。野村信託勤務後、共同で大阪に商社を設立、薬品担当の役員だった1950年代前半、人を介して紹介された元ベルリン大学教授・シュネル博士のニンニク研究のすすめを受け独立。1955年6月、湧永薬品を設立した。当初はシュネル博士の研究室で作った薬品を販売する会社であった。このため製品の遅れや営業の不慣れがあって経営は苦難があった。湧永は専門家でも研究者でもないが、こうした販売業と並行し素人の強みで体当たりでニンニク研究にも没頭。
平井 康三郎(ひらい こうざぶろう、1910年〈明治43年〉… 平井 康三郎(ひらい こうざぶろう、1910年〈明治43年〉9月10日 - 2002年〈平成14年〉11月30日)は、日本の作曲家。本名、平井 保喜(ひらい やすき)。 高知県吾川郡伊野町(現:いの町)出身。父親・惣太郎の影響で、家にはオルガンや蓄音器がある等、音楽的に恵まれた環境で育った。伊野小学校から、1923年(大正12年)に旧制土佐中学校(現:土佐中学校・高等学校)入学。土佐中学校在学中に当時の校長:三根円次郎(ディック・ミネの父)が生徒向けに用意していた蓄音機で音楽を聴き、独学でヴァイオリンを練習したことがNHKのラジオ番組で息子の平井丈一朗によって語られた。1929年(昭和4年)に東京音楽学校(現:東京藝術大学音楽学部)ヴァイオリン科に進学し、ローベルト・ポラックに師事して1934年(昭和9年)に卒業。
小林 進(こばやし すすむ、1910年(明治43年)9月9日… 小林 進(こばやし すすむ、1910年(明治43年)9月9日 - 1997年(平成9年)8月6日)は、昭和期の農民運動家、政治家。衆議院議員。 新潟県三島郡寺泊町(現・長岡市)に生まれる。1928年(昭和3年)北海中学校卒業。1935年(昭和10年)中央大学法学部卒業。 中央大学卒業後、東京倉庫運輸株式会社入社。その後、幹部候補生の教育を受けて、陸軍主計大尉として終戦を迎えた。 第二次世界大戦敗戦のショックを経て「これからは余生だ」「人の役に立ちたい」と立候補を決意。1946年(昭和21年)平野力三の自宅を訪れ政治への熱意を語るが、当時新潟には戦前からの有力社会党派閥が既存しており、実績のない小林の入党は断わられる。
近藤 宏二(こんどう こうじ 1910年〈明治43年〉9月9… 近藤 宏二(こんどう こうじ 1910年〈明治43年〉9月9日 - 1990年〈平成2年〉3月19日)は、日本の医師。群馬県吾妻郡原町(吾妻町を経て現・東吾妻町)出身。 群馬県立高崎中学校に入学後、東京府立第四中学校に転入し4年修了。第一高等学校を経て、1936年に東京帝国大学医学部を卒業。1937年内務省衛生局に入り、1938年厚生省(現・厚生労働省)が設立されると技官として結核予防施策に取り組んだ。戦後母子衛生課長を務め、その後退官。 1947年に東京大学より医学博士の学位を取得。学位論文の題は「本邦における潜在結核死亡推計に関する統計的研究」。 1952年よりNHKのラジオドクター・テレビドクターを務め、「皆さんの健康」「療養の時間」を担当する。
森永 貞一郎(もりなが ていいちろう、1910年9月9日 -… 森永 貞一郎(もりなが ていいちろう、1910年9月9日 - 1986年5月30日)は日本の大蔵官僚、銀行家。元大蔵事務次官、第5代東京証券取引所理事長、第23代日本銀行総裁。 妻は南洋庁長官・田原和男の長女で若槻禮次郎元首相の孫娘に当たる。 宮崎県小林市出身。父・貞右衛門は町会議員・商工会長などを務めた。宮崎・小林中学、第五高等学校を経て、1932年に東京帝国大学法学部を卒業。同年、大蔵省に入省。主税局属。戦時中は理財局金融課長や理財局証券課長、総合計画局参事官、大臣官房文書課長等を歴任し、戦後は経済安定本部総裁官房次長、長沼弘毅次官の下で大臣官房長を務め、1953年8月に主計局長、1957年5月に大蔵事務次官に就任。
児嶋 恒吉(こじま つねきち、明治43年(1910年)9月9… 児嶋 恒吉(こじま つねきち、明治43年(1910年)9月9日 - 平成3年(1991年)7月15日)は鳥取ガス株式会社の第3代社長。昭和52年(1977年)に黄綬褒章受章。 鳥取県の文化活動の中心として活躍した実業家。文化人。著書『黙堂閑話』。鳥取市出身。 昭和7年(1932)合名会社児嶋商店を継ぐ。昭和28年(1953)に鳥取ガス株式会社代表取締役社長、同年鳥取ガス産業株式会社代表取締役社長に就任し、ガス供給事業に尽力。昭和49年(1974)に日本ガス協会理事に就任し、ガス業界の発展に寄与した。昭和50年(1975)に君司酒造株式会社、昭和62年(1987)に鳥取ガス株式会社、昭和63年(1988)に鳥取ガス産業株式会社のそれぞれ代表取締役会長に就任。