雲仙嶽 光徳(うんぜんだけ みつのり、1913年2月15日 … 雲仙嶽 光徳(うんぜんだけ みつのり、1913年2月15日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。出羽海部屋所属。本名は福本 光徳。最高位は十両3枚目。 長崎県佐世保市出身。出羽海部屋に入門し、1930年10月に本名の「福本」で初土俵を踏む。1938年1月十両に昇進。1939年1月から2年間応召され、1941年1月に復帰した。1942年5月自己最高位となる東十両3枚目まで上がるが、この場所3勝12敗と大きく負け越し廃業した。身長184cmと当時としては長身だったが、兵役に取られていたのと、腰を痛めたため大成できなかった。
長田 陸夫(おさだ むつお、1913年2月13日 - 199… 長田 陸夫(おさだ むつお、1913年2月13日 - 1992年1月4日)は、プロ野球球団阪神タイガースの元球団社長。大阪府出身。 1936年に早稲田大学商学部を卒業し、同年に阪神電気鉄道に入社した。 球団取締役を経て、1974年から球団社長を務めた。在任中は球団OBの吉田義男を監督に招聘、また1976年にはエース江夏豊について「チームに溶け込もうという姿勢が見られない」としてトレードを決断。南海ホークスとの間で江本孟紀・島野育夫を含む2対4の大型トレードを成立させた。 1978年、球団史上初の最下位に終わり、成績不振により、後藤次男監督の辞任とともに、球団代表を辞任した。 1992年1月4日に急性心不全のために死去。
神田 大作(かんだ だいさく、1913年2月12日 - 19… 神田 大作(かんだ だいさく、1913年2月12日 - 1983年5月28日)は、日本の農民運動家、政治家。衆議院議員(4期)。 栃木県芳賀郡益子町に生まれる。栃木県立真岡中学校を卒業。農民運動に携わり、1947年(昭和22年)から栃木県議会議員を2期務める。1955年(昭和30年)の第27回衆議院議員総選挙で旧栃木県第2区から立候補し当選。日本社会党栃木県連会長を務めた後、1960年(昭和35年)、同党を離党し民主社会党に参加。民社党では県連書記長を務めた。衆議院議員は通算4期当選、1976年(昭和51年)の第34回衆議院議員総選挙に立候補せず引退。1983年(昭和58年)春の叙勲で勲二等瑞宝章受章。
飯田 房太(いいだ ふさた、1913年(大正2年)2月12日… 飯田 房太(いいだ ふさた、1913年(大正2年)2月12日 - 1941年(昭和16年)12月8日)は、日本の海軍軍人。海兵62期。空母「蒼龍」戦闘機搭乗員として真珠湾攻撃に参加。戦死による二階級特進で最終階級は海軍中佐。 1913年(大正2年)2月12日、山口県都濃郡富田村 (現周南市)で旧家の一人息子として生まれた。1925年(大正14年)4月、徳山中学校 (現山口県立徳山高等学校)に進学、1931年(昭和6年)4月、海軍兵学校に入学し、1934年(昭和9年)11月17日、同校(62期)を125名中5番の成績で卒業した。少尉候補生として艦隊勤務や遠洋航海など実務練習を経て、1936年(昭和11年)4月、海軍少尉に任官、軽巡洋艦「那珂」に配属された。
高谷 昌二(たかたに しょうじ、1913年2月11日 - 没… 高谷 昌二(たかたに しょうじ、1913年2月11日 - 没年不明)は、青森県出身のプロ野球選手。 青森商業から全青森を経て1936年に名古屋金鯱軍へ入団。同年秋季リーグ後に退団。
清川 正二(きよかわ まさじ、1913年〈大正2年〉2月11… 清川 正二(きよかわ まさじ、1913年〈大正2年〉2月11日 - 1999年〈平成11年〉4月13日)は、日本の水泳選手、実業家。愛知県豊橋市出身。オリンピックに2度出場し、1932年ロサンゼルス五輪で100m背泳ぎ金メダリスト、1936年ベルリン五輪でも銅メダルを獲得。第二次世界大戦後は総合商社兼松江商の社長・会長を務める。アマチュアスポーツの振興にも尽力し、日本人として初めて国際オリンピック委員会(IOC)副会長となった。位階は従四位。 豊橋市関屋町出身。旧制愛知第四中学校(現・愛知県立時習館高等学校)、名古屋高等商業学校(現・名古屋大学)を経て、1936年(昭和11年)東京商科大学(現・一橋大学)卒業。
渡辺 敏夫(わたなべ としお、1913年2月11日 - 戦死… 渡辺 敏夫(わたなべ としお、1913年2月11日 - 戦死)は、兵庫県出身のプロ野球選手(二塁手)。
国定 謙男(くにさだ かねお、1913年(大正2年)2月10… 国定 謙男(くにさだ かねお、1913年(大正2年)2月10日 - 1945年(昭和20年)8月22日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争の敗戦を受けて、一家四人で自決した海軍少佐である。 岡山県出身。幼少期に北海道へ移り、室蘭中学4年修了で海軍兵学校入校。1932年(昭和7年)11月卒業。国定は海兵60期で、席次4番の恩賜組である。 国定は第26期飛行学生を修了した搭乗員であった。1937年(昭和12年)、海軍中尉で空母「龍驤」乗組であった国定は、第二次上海事変に出征し、日本国内で度々報じられる奮戦振りであった。岩国海軍航空隊飛行長として太平洋戦争の開戦を迎え、第12連合航空隊参謀、三重海軍航空隊教官、練習連合航空隊参謀などを歴任した。
藤田 進(ふじた すすむ、1913年2月10日 - 2003… 藤田 進(ふじた すすむ、1913年2月10日 - 2003年3月1日)は、昭和期の政治家、参議院議員(5期)。労働運動家、第2代総評議長。教育者、大阪工大摂南大学(現学校法人常翔学園)総長・理事長。経済学博士(法政大学)。 広島県賀茂郡黒瀬町(現:東広島市)生まれ。1932年、関西工学校(現大阪工業大学)土木科卒業。ウェイン州立大学留学。広島県庁を経て、中国電力に勤務し、戦後、労働運動に明け暮れ1952年総評議長就任。炭労(日本炭鉱労働組合)、電産(日本電気産業労働組合)の二大争議を指導した。 1953年参院選全国区に日本社会党から出馬し初当選(連続5期)。1960年、法政大学から経済学博士の学位を授与される。
久保田 きぬ子(くぼた きぬこ、1913年2月10日 - 1… 久保田 きぬ子(くぼた きぬこ、1913年2月10日 - 1985年12月24日)は、日本の憲法学者。元立教大学法学部教授、元成蹊大学法学部教授、元東北学院大学法学部教授。比較憲法とプライバシーの権威として知られるほか、1961年(昭和36年)から3回にわたり国連総会の日本政府代表代理を務めた。東京大学初の女性学生の一人。中央教育審議会委員や文部省教育職員養成審議会委員などを歴任。勲三等宝冠章受賞。専門はアメリカ憲法、プライバシー権など。 旧相川町(現新潟県佐渡市)出身。国連総会の政府代表代理、中央教育審議会や被爆者対策基本問題懇談会の委員、東京都知事顧問などを歴任。父は元相川町長の久保田金五郎 (8代目)、祖父は新潟県第27大区副大区長を務めた久保田金五郎 (7代目)。
小泉 明(こいずみ あきら、1913年2月10日 - 197… 小泉 明(こいずみ あきら、1913年2月10日 - 1977年2月8日)は、日本の経済学者。ケインズ経済学を専攻、国際金融論。第7代一橋大学学長。経済学博士。正三位勲二等旭日重光章。 神奈川県横浜市出身。1938年東京商科大学(現一橋大学)を卒業。山口茂ゼミ出身。三洋証券社長の土屋陽三郎、新日本証券社長の鷹尾寛、東京銀行頭取の横山宗一、鹿島建設副会長の原明太郎、マツダ会長の岩沢正二、丸井今井社長の今井道雄、日東製網社長の小林政夫、三井不動産社長の坪井東らとともに大学の同期会を結成。 大学卒業後第一生命保険に入社するが、1940年に同社を退職し東京商科大学助手に就任。同助教授を経て、戦後一橋大学商学部助教授、58年教授に昇格。
牧山 公郎(まきやま きみお、1913年2月9日 - 199… 牧山 公郎(まきやま きみお、1913年2月9日 - 1993年11月11日)は、日本の経営者。元第一生命保険社長。東京都出身。 府立一中、旧制府立高等学校を経て、1937年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に第一生命保険に入社。1967年5月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1975年4月に副社長に就任し、1977年4月には社長に昇格した。1981年4月からは取締役、常任監査役、顧問を歴任。 1978年11月に藍綬褒章を受章した。 1993年11月11日呼吸不全のために死去。80歳没。
山本 秀(やまもと みのる、1913年2月9日 - 1996… 山本 秀(やまもと みのる、1913年2月9日 - 1996年10月5日)は、日本の作曲家。おもに「ひろしま平和の歌」の作曲者として知られる。 広島県出身。1936年、東京音楽学校 (旧制)(東京芸術大学音楽学部の前身)甲種師範科を卒業し、前橋市高等家政女学校(前橋市立前橋高等学校の前身)の教師となり、その後、広島県師範学校に勤め、学制改革を経て1951年からは広島大学教育学部東雲分校勤務となって、停年退官まで在職した。 山本は、地域の音楽教育関係組織である広島教育音楽連盟や広島中等教育音楽協会でも活動していた。 山本の専門は音楽教育で、音楽科の教員養成課程の学生のために多数の教科書類やピアノ教本の編集にあたり、他方では「音痴」の子どもへの歌唱指導法などについて、研究論文を発表した。
加賀 邦男(かが くにお、1913年2月9日 - 2002年… 加賀 邦男(かが くにお、1913年2月9日 - 2002年1月7日)は、日本の俳優。本名は亀山 邦雄(かめやま くにお)。 次男の亀山達也、三男の志賀勝も俳優として活動した。 東京府東京市日本橋区人形町(東京都中央区日本橋人形町)出身。慶應義塾普通部中退後、浅草の劇場・昭和座での役者修業を経て、1930年にスカウトで映画界入り。「舟波 邦之介」の芸名で新興キネマ京都撮影所『仇討太夫桜』でデビュー。時代劇の二枚目として活動した。「舟波 邦之佑」への改名を経て、1939年に「加賀 邦男」に改名。1940年に新興の東京撮影所に転籍し、現代劇を演じるようになる。後身の大映に所属したのち、終戦直前に退社。
市川 春代(いちかわ はるよ、1913年2月9日 - 200… 市川 春代(いちかわ はるよ、1913年2月9日 - 2004年11月18日)は、日本の映画女優、歌手。出生時本名は同じ、結婚後の本名は加々良 春代(かがら はるよ)。戦前のサイレント映画時代から始まり、トーキー期に実力を発揮し、戦後も長く現役の女優だった。 1913年(大正2年)2月9日、長野県長野市の善光寺門前の西後町に、弁護士の父・喜一、母・きんの二男二女の次女として生まれる。県庁や裁判所の至近の地だった。 1919年(大正8年)、長野県師範学校附属小学校(現在の信州大学教育学部附属長野小学校)に入学。1924年(大正13年)8月3日に父が死去、同校を高等科2年で中退して、叔父が懇意にしていた日活の取締役根岸耕一の紹介状を持ち、13歳になった1926年(大正14年)6月16日に日活大将軍撮影所に入社した。
孫 文璟(ソン・ムンギョン、朝鮮語: 손문경、1913年2月… 孫 文璟(ソン・ムンギョン、朝鮮語: 손문경、1913年2月8日 - 1962年12月または1972年1月1日)は、大韓民国の教育者、社会運動家、政治家。第3・4代韓国国会議員。 日本統治時代の全羅南道高興郡道徳面出身。漢学勉強を経て裡里公立農林学校(現・全北大学校特性化キャンパス)、横浜専門学校法科、明治大学法学部卒。1950年の第2代総選挙では高興甲選挙区から出馬したが、8,355票を獲得しても朴八峰に19票差で敗れて落選した。その後の朝鮮戦争中は釜山で避難しながら地方出身の学生の支援を行う社会事業を展開した。1954年の第3代総選挙では候補者の公選を経て、自由党の候補として、高興甲選挙区から国会議員に初当選した。
矢口 新(やぐち はじめ、1913年2月7日 - 1990年… 矢口 新(やぐち はじめ、1913年2月7日 - 1990年3月13日)は日本の教育研究者。 東京帝国大学文学部教育学科卒。中央教育研究所、国立教育研究所研究調査部第二研究室長を経て、1968年に財団法人能力開発工学センター設立。以後20数年に渡り、行動を通して行動能力を育てる独自の行動形成システムを実践的に研究。学校教育、産業教育の現場で、学習プログラム、構案教材、訓練シミュレータの開発とその教育実践を指導した。1990年現職(常務理事・所長)で、77歳にて逝去。 1913年、父の任地である朝鮮咸鏡北道新阿山にて出生。 1921年、父の死去により帰国し愛知県名古屋市に住む。東海中学校、第八高等学校を経て、東京帝国大学文学部教育学科で学び、海後宗臣(当時、教育学科助教授)に師事する。
織田 隆弘(おだ りゅうこう、1913年2月7日 - 199… 織田 隆弘(おだ りゅうこう、1913年2月7日 - 1993年12月31日)は、青森県弘前市出身の宗教家。「密門会」の開祖。高野山真言宗の僧侶。 1975年に「即身成仏を目的とした正純密教を実践する」という真言宗易行派密門会(略称:密門会)を創立。1984年には青森市にキリスト教等を含む、宗派を超えた昭和大仏(日本最大の青銅製大日如来像)を建立。平成五年に遷化。 織田は「(自身を)高野山真言宗の大僧正で、説く真言密教は、弘法大師空海の教えを正しく引き継ぐ、正統で、他の密教まがいの新宗教と区別し“正純密教”」と主張している。 また、「正純密教は、宇宙の真理を人格化した大日如来を本尊とする、自然科学をも包含するスケールの大きい教義であったため、その難解さから長らく塵に埋もれていたが、科学技術の進歩・発展により物理理論が身近になった現代において、ようやく人々にとって理解され易い仏教となったといえる。
中野 千代人(なかの ちよと、男性、1913年2月7日 - … 中野 千代人(なかの ちよと、男性、1913年2月7日 - 没年不詳)は、日本の元アマチュアボクシング選手。ベルリンオリンピックフライ級日本代表。専修大学卒業。 1934年と1936年、全日本選手権にいずれもフライ級で優勝を収めた。 1936年、ベルリンオリンピックにフライ級の日本代表として出場し、1回戦にポイント勝ちを収め、2回戦でポイント負けとなった。 この項目は、ボクシング関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJボクシング/PJキックボクシング)。
德川 慶光(とくがわ よしみつ、1913年(大正2年)2月6… 德川 慶光(とくがわ よしみつ、1913年(大正2年)2月6日 - 1993年(平成5年)2月6日)は、日本の官僚、政治家、陸軍軍人、華族(公爵)。江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜の孫。通称は「けいこう」。新字体で徳川 慶光とも表記される。 1913年(大正2年)2月6日、公爵徳川慶久と有栖川宮威仁親王の第二王女・實枝子の長男として東京府東京市小石川区第六天町(現:東京都文京区小日向)の屋敷で生まれた。お印は雁。赤ん坊の頃、祖父・慶喜の膝に抱かれ、おもらしをしたことがある。 1922年(大正11年)に父が急死したため、10歳で襲爵。伯父の侯爵・池田仲博が後見人となった。学習院から東京帝国大学文学部支那哲学科に進んで中国哲学を専攻し、卒業後は宮内省図書寮に勤務した。
沢村 貴義(さわむら たかよし、1913年2月6日 - 19… 沢村 貴義(さわむら たかよし、1913年2月6日 - 1977年1月28日)は、日本の経営者。日本通運社長を務めた。 香川県坂出市出身。1937年に神戸商業大学を卒業し、同年に日本通運に入社。 1946年に取締役に就任し、常務、海運事業部長を経て、1966年11月に専務に就任。1968年1月には社長に昇格した。 日野自動車工業取締役、東京商工会議所議員、日本経営者団体連盟常任理事なども歴任した。 1977年1月28日、肝硬変のために死去。63歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
近藤 英一郎(こんどう えいいちろう、1913年(大正2年)… 近藤 英一郎(こんどう えいいちろう、1913年(大正2年)2月4日 - 2014年(平成26年)4月15日)は、日本の政治家。元参議院議員(1期)。元群馬県議会議員(5期)。元大間々町長。
小野 市兵衛(おの いちべえ、1913年2月4日 - 198… 小野 市兵衛(おの いちべえ、1913年2月4日 - 1989年2月12日)は、日本の経営者。大阪府大阪市出身。 1936年に大阪商科大学を卒業し、同年に小野市兵衛商店(現在の小野薬品工業)に入社。 1947年4月に専務に就任し、1956年5月には社長に昇格。1977年2月から会長を務めた。 1989年2月12日肺炎のために死去。76歳没。
青葉山 徳雄(あおばやま のりお、1913年2月4日 - 1… 青葉山 徳雄(あおばやま のりお、1913年2月4日 - 1972年3月1日)は、宮城県仙台市青葉区出身で陣幕部屋に所属した大相撲力士。本名は阿部 徳雄(あべ のりお)。最高位は西前頭4枚目。得意手は右四つ、寄り。現役時代の体格は173cm、112kg。 大坂相撲で大関だった12代陣幕に弟子入りし、1929年1月場所に初土俵を踏んだ。がっぷり四つに組まないと力が出ないタイプで、勝ち身も遅く、じっくりした相撲ぶりだったという。そのため水入りも多く、「バケツ」とあだ名された。それでも1934年5月場所に幕下で11戦全勝優勝を遂げて、翌1935年1月場所に十両昇進してからは注目も浴び、1937年5月場所に新入幕を果たした。
米川 敏子(よねかわ としこ、1913年〈大正2年〉2月2日… 米川 敏子(よねかわ としこ、1913年〈大正2年〉2月2日 - 2005年〈平成17年〉12月13日)は、生田流箏曲家。二代を数える。 1913年、箏曲家・米川琴翁の娘として兵庫県姫路市に生まれる。牛込高等女学校(現・豊島岡女子学園中学校・高等学校)卒業。1942年日本文化連盟コンクール1位となるなど、若い頃から高い評価を受けた。芸術祭では奨励賞、優秀賞などを受賞。数多くの作曲も行った。父の死後家元となる。1996年、人間国宝。2002年、日本芸術院賞。2003年、文化功労者。2005年12月13日午前5時44分、急性肺炎のため東京都港区の病院で死去。92歳没。 米川の死後、2007年に次女で箏曲家の後藤裕枝が「米川敏子」を襲名した。
小尾 郊一(おび こういち、1913年2月2日 - 2004… 小尾 郊一(おび こういち、1913年2月2日 - 2004年2月4日)は、日本の中国文学者。広島大学名誉教授。 1913年、長野県諏訪郡豊平村(現・茅野市)生まれ。1930年、長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を卒業。長野師範学校専攻科に進み、1932年に卒業。1938年、大東文化学院(現・大東文化大学)本科を卒業。1941年、広島文理科大学(現・広島大学)文理学部文学科漢文学専攻を卒業した。 卒業後は、同1941年より東方文化学院京都研究所(現・京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター)助手となった。太平洋戦争をはさみ、1946年に広島文理科大学講師に着任。
白澤 正二(しらさわ しょうじ、1913年2月2日 - 19… 白澤 正二(しらさわ しょうじ、1913年2月2日 - 1995年1月23日)は、日本の実業家。茨城放送(現在のLuckyFM茨城放送)社長・会長、朝日新聞編集委員などを務めた。 長野県南安曇郡明盛村(三郷村を経て、現在の安曇野市)生まれ。1930年(昭和5年)旧制松本第二中学校(現在の長野県松本県ヶ丘高等学校)を卒業した。1936年(昭和11年)旧制松本高校を経て、京都帝国大学法学部を卒業した。 1937年、朝日新聞社に入社した。東京本社整理部次長、同学芸部次長、西部本社運動部長、東京本社編集委員を経て、1965年に茨城放送代表取締役社長に就任し、その後は会長を務めた。 また、1972年に日本記者クラブ会員、1978年(昭和53年)7月から1979年(昭和54年)6月まで、水戸ロータリークラブ会長(第29期)を務めた。
福岡 正信(ふくおか まさのぶ、1913年2月2日 - 20… 福岡 正信(ふくおか まさのぶ、1913年2月2日 - 2008年8月16日)は愛媛県出身の農学者。自然農法を提唱した。世界各地で粘土団子による砂漠緑化にも取り組んだ。 愛媛県伊予郡南山崎村(現・伊予市大平)に生まれる。旧制松山中学校、岐阜高等農林学校(現・岐阜大学応用生物科学部)卒。 若い頃は横浜税関の植物検査課に所属していたが、急性肺炎にかかり死に直面すると、「この世には何もない」と悟り、仕事をやめて地元に戻り農業を始めた。「やらなくてもいい」ことを探しながら、自然農法を確立した。 著作『無Ⅲ 自然農法』の口絵の説明では、不耕起(耕さない)、無肥料、無農薬、無除草を四大原則とする自然農法を行うとしているが、著作中には肥料と農薬(除草剤、除虫剤)の使用について記述がある。
星田 三平(ほしだ さんぺい、1913年2月2日 - 196… 星田 三平(ほしだ さんぺい、1913年2月2日 - 1963年5月31日)は日本の探偵小説家。『新青年』などの雑誌に短編を発表した。代表作に「せんとらる地球市建設記録」「エル・ベチョオ」など。本名は飯尾 傳(いいお つとう)。 1930年(昭和5年)に『新青年』の懸賞小説に3等入選した「せんとらる地球市建設記録」を、改稿の後に『新青年』夏期増刊号で発表しデビュー。以後、短編を散発的に発表するが、1933年(昭和8年)発表の「もだん・しんごう」を最後に沈黙。その後、太平洋戦争時の空襲で蔵書や草稿を失ったこともあり、小説界からは完全に離れた生活を送った。 1963年(昭和38年)5月31日に死去。
武内 義範(たけうち よしのり、1913年2月2日 - 20… 武内 義範(たけうち よしのり、1913年2月2日 - 2002年4月12日)は、日本の宗教学者、浄土真宗僧侶、京都大学名誉教授。 1913年、三重県四日市市で東洋史研究者・武内義雄の子として生まれた。京都帝国大学文学部哲学科に進学し、在学中は田辺元に師事してヘーゲルの哲学等を学んだ。1936年に卒業。京都帝国大学大学院文学研究科に進み、1946年に修了。 1948年、同大文学部宗教学科助教授に就いた。1959年、同教授に昇格し、宗教学講座を担当。1976年に京都大学を退官し、名誉教授となった。同年4月からは愛知学院大学文学部宗教学科教授。1988年、愛知学院大学を退職。1995年、日本学士院会員に選出された。
城福 勇(じょうふく いさむ、1913年2月1日 - 198… 城福 勇(じょうふく いさむ、1913年2月1日 - 1986年1月22日)は、日本史学者。 徳島県出身。九州帝国大学法文学部卒。香川大学学芸学部助教授、教育学部教授。77年定年退官、名誉教授。徳川時代の文人、特に平賀源内の研究で知られる。
三田 彰久(みた しょうきゅう、1913年2月1日 - 19… 三田 彰久(みた しょうきゅう、1913年2月1日 - 1988年3月18日)は、日本の経営者。参天製薬社長を務めた。兵庫県出身。 1934年に千葉医科大学薬学専門部を卒業し、1943年に参天製薬に入社し、監査役に就任。1945年に常務に就任し、1969年には社長に昇格。1983年には会長に就任。 1988年3月18日、脳梗塞のために死去。75歳没。 趣味はゴルフ、刀剣収集。
佐久間 英(さくま えい、1913年2月1日 - 1975年… 佐久間 英(さくま えい、1913年2月1日 - 1975年12月16日)は、新潟県出身の人名研究家、歯学博士。日本歯科大学講師。 当時の高田市(後の上越市の一部)に生まれる。日本歯科大学卒業。日本医大で歯学博士号を取得。論文の題は 「成人口腔粘膜の組織学的研究、特に上皮の厚さ及び乳頭の高さについて」。 歯学研究の傍ら、1935年ごろ長野県における歯科検診がきっかけで姓名に興味を持ち始め、家族揃って姓名研究に打ち込む。日本橋三越本店「名前相談室」担当者として活動し、「お名前博士」と呼ばれた。 その後、日本人の名字を多い順に並べるランキングを日本国内で初めて発表し、佐久間の名は知られるようになった。
慶光院 利彰(けいこういん よしあき、1913年〈大正2年〉… 慶光院 利彰(けいこういん よしあき、1913年〈大正2年〉2月 - 没年不詳)は、日本の資産家。慶光院家第3代当主。 神宮式年遷宮復興に尽力した慶光院の遺跡を継承した三重県士族・慶光院家の出身。利彰は伊勢神宮少宮司の慶光院利敬の嫡男として大正2年(1913年)2月に誕生する。父の利敬が二条斉敬の実子であるため、藤原鎌足の直男系男子孫にあたる。生母の増子は、利彰を出産した同年11月18日に死去した。 昭和9年(1934年)3月30日、学習院文科(甲類)を卒業。同年4月、京都帝国大学法学部に入学し、昭和12年(1937年)3月30日、卒業した。同年4月、京都帝国大学経済学部に入学し、昭和15年(1940年)3月30日、卒業した。
畑福 俊英(はたふく としひで、1913年1月31日 - 1… 畑福 俊英(はたふく としひで、1913年1月31日 - 1981年5月23日)は、秋田県出身のプロ野球選手(投手。右投右打)、野球指導者。 横手中学から専修大学を経て、1934年に大日本東京野球倶楽部(翌1935年より東京巨人軍)結成へ参加しプロ入り。日本プロ野球最初のリーグ戦(日本職業野球連盟)を開始した1936年7月3日の対大東京戦に先発登板し6イニングを1失点に押さえて巨人球団史上初の公式戦勝利投手となった。1937年以降は新設したイーグルス(1940年途中より黒鷲軍、1942年より大和軍)へ移籍。1937年に春季・秋季シーズン合わせて32敗を喫しているが、これはプロ野球記録とされている中山正嘉の29敗(1940年。
柳 志元(ユ・ジウォン、リュ・ジウォン、朝鮮語: 유지원/류… 柳 志元(ユ・ジウォン、リュ・ジウォン、朝鮮語: 유지원/류지원、1913年1月30日 - 1981年12月31日)は、大韓民国の実業家、政治家。第3・4代韓国国会議員。本貫は文化柳氏(朝鮮語版)。 日本統治時代の忠清南道燕岐郡出身。関西大学法科3年中退または卒業。三益社専務理事、全国青年総連盟中央委員、大同青年団(のちの大韓青年団(朝鮮語版))中央執行委員・外交部長、青年新聞社長、大韓青年団総本部団長、失踪軍人遺族会長、自由党燕岐郡党委員長・中央執行委員・企画委員(1967年時点)、第3代国会米軍撤退反対国民運動展開対策委員会委員長、第3・4代国会国防委員会委員長(1954年6月23日~1955年2月19日、1955年3月2日~1956年2月19日、1958年6月17日~8月31日)を務めた。
神東山 忠也(じんとうざん ちゅうや、1913年1月28日 … 神東山 忠也(じんとうざん ちゅうや、1913年1月28日 - 1983年6月23日)は、現在の東京都中央区出身で春日野部屋に所属した大相撲力士。本名は神谷 信義(かみや のぶよし)。現役時代の体格は170cm、135kg。最高位は東前頭4枚目(1941年5月場所)。得意手は右四つ、寄り。 中央商業学校(現・中央学院大学中央高等学校)卒業後、春日野部屋に入門し、1932年5月場所、「神武山」の四股名で初土俵を踏む。1937年5月場所で十両に昇進。1939年1月場所、新入幕。入幕2場所目の5月場所、四股名が初代天皇の神武天皇からきているため、「神東山」に改名。幕内の中位から下位で取り、1946年11月場所で十両に落ち、この場所13戦全敗を記録した。
竹本 常松(たけもと つねまつ、1913年1月28日 - 1… 竹本 常松(たけもと つねまつ、1913年1月28日 - 1989年1月23日)は、日本の化学者。 生物活性アミノ酸並びに昆虫変態ホルモンの権威。日本薬用植物友の会名誉会長。 1913年(大正2年)大阪府岸和田市に生まれる。1933年(昭和8年)大阪薬学専門学校 (旧制)を卒業後、東京帝国大学医学部に勤務し生薬を研究。1949年(昭和24年)大阪大学教授、1960年(昭和35年)東北大学医学部薬学科教授。後に徳島文理大学に移って薬学部長を務めた。
由利 あけみ(ゆり あけみ、1913年(大正2年)1月28日… 由利 あけみ(ゆり あけみ、1913年(大正2年)1月28日 - 2010年(平成22年)1月25日)は、昭和期の歌手、声楽家(メゾソプラノ、アルト歌手)。本名・窪谷梅子(旧姓・加藤)。 広島県出身。高等女学校卒業後、建築家を目指して日本女子大学に進むが、兄の勧めで東京音楽学校を受験して合格、同校卒業。卒業後は女学校の教師になるが、歌手に転向する。 1936年(昭和11年)デビュー。1937年(昭和12年)コロムビアレコードに入り「夜のセレナーデ」で歌謡界にデビュー。間もなく移籍したテイチク時代のヒット曲としては、「歌の慰問袋」、「黒いパイプ」などがある。 1939年(昭和14年)ビクターレコードに移籍。
森下 正明(もりした まさあき、1913年〈大正2年〉1月2… 森下 正明(もりした まさあき、1913年〈大正2年〉1月27日 - 1997年〈平成9年〉2月25日)は、日本の生態学者。京都大学名誉教授。日本における個体群生態学の建設者。理学博士(京都大学、1950年)。正四位。大阪市東区東雲町59番地(旧住所表示)生まれ。 今西錦司とともに京都学派を代表する動物生態学者であり、内田俊郎と共に個体群生態学の発展期に日本の動物個体群生態学を牽引した。ただし内田が室内実験的研究を得意としたのに対して、森下は主として統計学を駆使して野外研究のデータを数理解析する手法によっており、この分野で独創的な貢献をした。 教育者としても大きな足跡を残しており、教諭を務めた京都府立鴨沂高等学校で生物研究会の顧問として指導にあたった。
長谷川 正治(はせがわ まさはる、1913年〈大正2年〉1月… 長谷川 正治(はせがわ まさはる、1913年〈大正2年〉1月27日 - 1993年〈平成5年〉2月23日)は、日本の政治家。室蘭市長(2期)。書家。号は遅牛。位階は正六位。 北海道出身。小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)卒。卒業後は室蘭の栗林商会に入る。その後、日鉄港運に転職する。 戦後は貿易会社や水産加工会社を創立し、社長に就任する。室蘭水産加工協同組合組合長、北海道水産加工協同組合監事などを務める。1971年の市長選挙に革新系無所属で立候補し、現職の高薄豊次郎を90票差で破った。市長に当選後は市民との対話集会の開催や、室蘭市が基幹産業の造船不況に陥った中、小中学校の校舎の不燃化や、白鳥大橋の調査着手などを始めた。
横沢 七郎(よこざわ しちろう、1913年1月27日 - 2… 横沢 七郎(よこざわ しちろう、1913年1月27日 - 2002年10月10日)は、台湾生まれの日本のプロ野球選手・プロ野球審判員。 兄・横沢三郎は、戦前の東京セネタース、戦後のセネタースを率いたプロ野球監督(のち国民野球連盟理事長を経てパシフィック・リーグの審判部長を務めた)。もう一人の兄・横沢四郎も東京セネタースで活躍したプロ野球選手。 慶應商工、慶應義塾大学を卒業。マキノキネマ、コロムビア野球部を経て1936年から東京セネタースで四郎とともに活躍。戦時色の濃くなる中1940年にチーム名も「翼軍」に改名。その年で一時引退。戦後は新たに創設されたセネタースに入団し、翌1947年に引退した。通算1770打席で本塁打を一本も打っていない。
原 茂(はら しげる、1913年1月26日 - 1997年1… 原 茂(はら しげる、1913年1月26日 - 1997年12月1日)は、日本の政治家。位階は従三位。日本社会党衆議院議員(10期)。 なお、元日本炭鉱労働組合(炭労)委員長の同名人物は別人である。 長野県諏訪郡玉川村(現茅野市)出身。旧制錦城中学(錦城学園高等学校)卒業、東京外国語学校特別研修講座修了。1946年に社会党に入党。1952年の総選挙で旧長野3区から左派社会党公認で立候補して当選。以来連続10回当選、1962年から社会党長野県本部委員長、1966年社会党本部中央執行委員、財務委員長、1976年代議士会長などを務めた。1967年には日ソ文化交流調印式に社会党代表として調印した。1979年の総選挙では同じ選挙区から元長野県議の串原義直も立候補したため両者で票を食う形になりともに落選した。
公文 茂治(くもん しげはる、1913年〈大正2年〉1月26… 公文 茂治(くもん しげはる、1913年〈大正2年〉1月26日 - 2014年〈平成26年〉5月23日)は日本の実業家、元日本油脂取締役。 1913年高知県生まれ。1936年東京大学法学部卒業。同年、日本油脂に入社。1967年日本油脂取締役に就任した。 2014年5月23日に誤嚥性肺炎のため101歳で死去。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
下西 文雄(しもにし ふみお、大正2年(1913年)1月26… 下西 文雄(しもにし ふみお、大正2年(1913年)1月26日 - 平成5年(1993年)4月24日)は日本の政治家。元境港市議会議員。元境港市日朝友好協会会長。元山市との友好都市協定締結に尽力。 鳥取県境港市に生まれる。 早大政経学部中退。1935年満州国産業指導官。 帰国後、中学校教諭となる。1951年境町助役、1955年から境港市議会議員。正副議長など歴任。 1990年10月第6次訪朝にあたって、金日成主席は、多年にわたる日朝親善につとめる下西文雄団長に「人民親善勲章(第2級)」を贈ってその功労をたたえた。
広瀬 真一(ひろせ しんいち、1913年1月25日 - 19… 広瀬 真一(ひろせ しんいち、1913年1月25日 - 1986年1月20日)は、日本の官僚、経営者。運輸事務次官や、日本通運社長、会長を務めた。「日通中興の祖」と呼ばれた。 新潟県柏崎市出身。1938年に東京帝国大学法科を卒業し、同年に鉄道省に入省し、同期に若狭得治がいた。運輸省鉄道管理局国有鉄道部長、鉄道管理局長などを経て、1964年6月に運輸事務次官に就任した。1968年をもって退官し、地元新潟県選挙区で参議院選挙に自由民主党公認で出馬したが、落選した。1968年11月に日本通運専務に就任し、日通事件で揺れていていた会社の立て直しに尽力していた。1972年に副社長に就任し、1976年に社長に就任した。
北小路 健(きたこうじ けん、1913年1月25日 - 19… 北小路 健(きたこうじ けん、1913年1月25日 - 1991年10月22日)は、国文学者、古文書学者。本名は渡部 栄(わたなべ さかえ)。 1913年、福島県会津若松市生まれ。両親ともに教師。父親の転勤に従い渡満し、大連春日小学校、 大連一中を経て1931年に東京高等師範学校文科第二部国漢科(1934年東京文理科大学国文科に転入)に入学。能勢朝次、山岸徳平らに師事して「源氏物語」研究を志す。父の死後、父に世話になったという人から家宝だという古書の『源氏物語』54冊を贈呈され、それが従一位麗子本源氏物語であることを発見し、これを論文にした。 1937年、東京文理科大学国文科を卒業。召集されたものの、病のため除隊となり、満州で中学教師として勤める傍ら研究を続けた。
谷山 兵三(たにやま ひょうぞう、1913年1月25日 - … 谷山 兵三(たにやま ひょうぞう、1913年1月25日 - 1990年7月4日)は、日本の薬学者。長崎大学名誉教授。日本薬学会有功会員。徳島文化女子短期大学元学長。 大阪府吹田市出身。1938年に長崎医科大学附属薬学専門部卒業。大日本製薬、大阪帝国大学、京都帝国大学での研究を経て、1944年に大阪薬学専門学校(現大阪大学)講師に就任しその後、同校教授を経て大阪大学医学部助教授、近畿大学薬学部教授を歴任。1961年に長崎大学教授、1963年に同大学薬学部長に就任し1965年まで務めた。1970年に再び同大学薬学部長に就任し1972年まで務めた。 長崎大学退官後は徳島文化女子短期大学学長、大阪医療技術学園専門学校理事長、大阪生物工学専門学校(現大阪動植物海洋専門学校)名誉学長を歴任。
三田 国夫(みた くにお、1913年1月25日 - 没年不詳… 三田 国夫(みた くにお、1913年1月25日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。三田 國夫と表記されることもある。 1913年(大正2年)1月25日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる。出生後まもなく福島県福島市に移住し、幼少期を過ごした。 1932年(昭和7年)、旧制目白中学校(現在の中央大学附属中学校・高等学校)を卒業後、満19歳の時に新劇俳優丸山定夫の門をたたき、新築地劇団に加入する。同年頃に上演された貴司山治の戯作『洋学年代記』などに出演。その後、1935年(昭和10年)に東宝の前身であるJ.O.スタヂオの研究生募集に合格し、三田は6ヶ月の課程を経て、東宝映画の専属俳優となる。以後、1940年(昭和15年)2月28日に公開された矢倉茂雄監督映画『遥かなる弟』や、1943年(昭和18年)3月25日に公開された黒澤明監督映画『姿三四郎』などに出演し、同所の脇役・端役俳優として活動した。
藤吉 次英(ふじよし つぐひで、1913年1月24日 - 1… 藤吉 次英(ふじよし つぐひで、1913年1月24日 - 1985年5月20日)は、日本の経営者。福岡県出身。 旧制姫路高校を経て1935年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に東洋レーヨン(のちの東レ)に入社。1962年1に取締役に就任し、常務、専務を経て、1971年に社長に就任し、1980年6月には会長に就任した。 日本経営者団体連合会常任理事、経済団体連合会常任理事も務めた。 1978年4月に藍綬褒章を受章し、1983年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1985年5月20日心不全のために死去。72歳没。