岩橋 利男(いわはし としお、1921年3月6日 - 没年不… 岩橋 利男(いわはし としお、1921年3月6日 - 没年不明)は、福岡県出身のプロ野球選手。 明善中学校から門司鉄道管理局に入社。門司鉄道管理局時代は三塁手として活躍するも、戦後の国鉄の人員整理に掛かり、退社を余儀なくされた。 1950年に、この年創設された国鉄スワローズの結成に参加。3月10日の開幕戦(かつスワローズの緒戦)・大洋戦(下関球場)では「3番・一塁手」として先発出場。チーム事情から4番を打つ機会も多かった。球団初のサヨナラ安打を含む、サヨナラヒットを2本打っている。1952年に引退した。
槙枝 元文(まきえだ もとふみ、1921年3月4日 - 20… 槙枝 元文(まきえだ もとふみ、1921年3月4日 - 2010年12月4日)は、日本の教育者、労働運動家。日本教職員組合委員長、日本労働組合総評議会(総評)議長を務めた。計30年に渡って日教組の中央役員を務めて大きな影響力を持ったことからミスター日教組とも呼ばれた。子息の槙枝一臣は弁護士。 岡山県生まれ。1940年に岡山県立青年学校教員養成所(現・岡山大学教育学部)卒業し、都窪郡の早島青年学校に教師として赴任。1942年から終戦まで召集され、最終経歴は陸軍憲兵中尉。終戦後1946年同校に帰任し、翌年の新学制に伴い中学校の教師に。計5年、教壇に立った。地元の組合づくりに携わり、都窪郡教組の青年部長に就任や岡山県教組の役員を務める。
三枝 正裕(さいぐさ まさひろ、1921年〈大正10年〉3月… 三枝 正裕(さいぐさ まさひろ、1921年〈大正10年〉3月4日 - 2001年〈平成13年〉10月19日)は、日本の医学者、医師。専門は心臓血管外科学。東京大学胸部外科第二代教授。東京大学名誉教授。医学博士。 1921年(大正10年)、広島県呉市に生まれる。旧制静岡県立静岡中学校、旧制静岡高等学校を経て、1945年(昭和20年)9月、東京帝国大学医学部卒業。海軍軍医(4月見習士官、9月復員)。同年10月、第二外科(都築正男教授)に入局。当時木本誠二を中心に開発が進められていた心臓外科の研究に従事、その成果が「非チアノーゼ性先天性心疾患の血行動態に関する研究」としてまとめられ、1956年(昭和31年)、医学博士。
甲斐ノ山 福人(かいのやま ふくひと、1921年3月4日 -… 甲斐ノ山 福人(かいのやま ふくひと、1921年3月4日 - 没年不明)は、山梨県東山梨郡塩山町(現・同県甲州市)出身で錦嶋部屋に所属した大相撲力士。本名は田草川 次夫(たくさがわ つぎお)。現役時代の体格は170cm、113kg。得意手は右四つ、寄り。引退後は、およそ9年半の間、年寄として後進の指導に努めた。 14歳の時に錦嶋部屋へ入門し、1935年5月場所で初土俵を踏んだ。 「大蛇嶋」の名で初めて番付に載るまでに3年近くを要し、その後も出世は遅々として進まず、1944年1月場所で漸く新十両に昇進。そして、これを機に、四股名を故郷・山梨県の旧称に因んだ「甲斐ノ山」に改めた。 以降は、幕下と十両との往復を繰り返した。
安藤 英治(あんどう ひではる、1921年3月3日 - 19… 安藤 英治(あんどう ひではる、1921年3月3日 - 1998年12月17日)は、日本の社会学者。成蹊大学名誉教授。マックス・ヴェーバーの研究者であった。東京出身。 社会思想史面や人物としてのヴェーバー研究を行った。また剣道家で、成蹊大学剣道部の顧問を務めた。ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄訳、岩波文庫)精読を、竹刀の素振りにも喩えている(なお晩年接した弟子によると、読み潰し3冊目を買い直していた)[要出典]。ゼミの指導学生に杉原哲彦(元東亜大学教授)などがいる。
天野 公義(あまの きみよし、1921年3月2日 – 199… 天野 公義(あまの きみよし、1921年3月2日 – 1990年7月29日)は、日本の政治家。自治大臣(第24代)、国家公安委員会委員長(第33代)、北海道開発庁長官(第38代)、衆議院議員(11期)。戦前に東京府会議員を務めた天野頼義は父。 東京府北豊島郡日暮里町(現在の東京都荒川区)生まれ。旧制府立高校を経て、東京帝国大学文学部に入学。在学中はア式蹴球部(サッカー部)に入部。1941年には同部の主将を務めて、関東大学リーグで優勝も経験した。また、倫理学科では和辻哲郎の門下生であった。 卒業後に同盟通信社の記者となったが、戦後の1946年・1947年と総選挙に立候補して共に落選。吉田茂の首相秘書官の傍ら、東京大学法学部に在籍した。
辻野 知宜(つじの ともよし、1921年3月2日 - 200… 辻野 知宜(つじの ともよし、1921年3月2日 - 2000年4月17日)は、日本の経営者。同和火災海上保険社長、会長を務めた。広島県出身。 1943年に東京商科大学を卒業し、1949年8月に同和火災海上保険に入社。1973年6月に取締役に就任し、1977年7月に常務を経て、1979年3月に社長に就任。1985年7月荒1986年6月までに会長を務めた。 2000年4月17日呼吸不全のために死去。79歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
三隅 研次(みすみ けんじ、1921年(大正10年)3月2日… 三隅 研次(みすみ けんじ、1921年(大正10年)3月2日 - 1975年(昭和50年)9月24日)は、日本の映画監督。代表作は勝新太郎を主演に起用した「座頭市」シリーズや市川雷蔵主演の「剣」三部作(『斬る』『剣』『剣鬼』)に「眠狂四郎」シリーズ、若山富三郎を主役に据えた映画版『子連れ狼』シリーズなど。 神戸の海運業者の父親と、京都の芸妓の母親との間に、妾腹の子として京都市に生まれる。神戸市出生との説もあり、成人するまで母親に一度も会うことなく育った。旧制中学校卒業後、旧制高等学校には進学せず、立命館大学の専門部商学部を卒業。その後、日活京都撮影所に助監督として入社。1942年(昭和17年)に召集され、満州へ配属される。
崔 栄喜(チェ・ヨンヒ、1921年3月1日 - 2006年1… 崔 栄喜(チェ・ヨンヒ、1921年3月1日 - 2006年1月11日)は、大韓民国の軍人、外交官、政治家。朝鮮戦争の指揮官であり、陸軍中将で陸軍参謀総長(第12代)を務めた。退役後は国会議員(第7代・第8代・第9代・第10代)、国防長官(第16代)、維新政友会院内総務などを歴任した。太極武功勲章授与者。本貫は隋城崔氏(朝鮮語版)、仏教徒。 1921年、日本統治下の朝鮮京城府(現ソウル特別市)生まれ。1944年に日本の専修大学法学部卒業後、日本陸軍工兵学校に入校し、日本陸軍工兵少尉に任官される。 戦後、韓国に帰国した後、1946年2月18日付で軍事英語学校を卒業し、任少尉(軍番10051番)。1947年、第1旅団人事参謀。
江崎 誠三 (えさき せいぞう、1921年3月1日 - 20… 江崎 誠三 (えさき せいぞう、1921年3月1日 - 2002年5月27日)は、元豊田通商代表取締役社長、会長。他に、第7代東海日中貿易センター会長、中国青島市経済顧問等を務めた。 三重県津市出身。1941年名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業。 1982年に藍綬褒章、1992年に勲三等旭日中綬章を受章。2002年5月27日、すい臓がんのため81歳で逝去。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
金本 源之助(かねもと げんのすけ、1921年3月1日 - … 金本 源之助(かねもと げんのすけ、1921年3月1日 - 2013年7月7日)は、日本のロシア文学者。 広島県豊田郡西生口村字福田(現在の尾道市瀬戸田町福田)に生まれる。広島県立師範学校を経て1941年4月に東京高等師範学校文科第五部へ入学。1943年の冬、満洲開拓義勇団の教学勤労奉仕隊員としてハルピン近郊に赴任、滞在中にロシア文学の世界と出合ったことがのちの人生に大きく影響を与えた。1944年9月東京高等師範学校繰上卒業と同時に海軍予備学生として土浦海軍航空隊に入隊。1945年10月復員を経て、戦後、1946年4月に旧制の早稲田大学文学部(ロシア文学専攻)に入学し、1950年3月に卒業。早稲田大学第一文学部副手、助手に従事しながら1956年3月に大学院(旧制)を修了したのち、同年4月第一法学部本属専任講師、同年5月第二文学部専任講師などを経て(早稲田大学のほかに専修大学講師〈1951年 - 1965年〉なども)、1960年4月早稲田大学第一文学部、第二文学部助教授に就任したのち、1965年4月同教授に就任。
宗田 一(そうだ はじめ、1921年3月1日 - 1996年… 宗田 一(そうだ はじめ、1921年3月1日 - 1996年7月7日)は、新潟県寺泊(現長岡市)出身の医史学者。 1941年(旧制)官立金沢医科大学薬学専門部(現在の金沢大学医薬保健学域薬学類)を卒業。薬学史、医史学の硏究。日本医史学会常任理事、野間科学医学研究資料館理事。 国際日本文化研究センター所蔵の宗田文庫は、宗田一が収集した、医学史・薬学史に関する書籍、図版資料などを中心とする日本医療文化史の資料コレクションで、目録が作成されており、国際日本文化研究センターサイトでも検索できる。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
田澤 一二(たざわ かつじ、1921年〈大正10年〉3月 -… 田澤 一二(たざわ かつじ、1921年〈大正10年〉3月 - 2007年〈平成19年〉12月3日)は、日本の政治家、獣医師。第3代立川町長(4期) 1939年(昭和14年)に山形県立庄内農業学校を卒業。1942年(昭和17年)、麻布獣医専門学校(現:麻布大学) 卒業。狩川家畜診療所長を経て立川町議会議員を5期務めた。この間、同議会副議長を1期務めた。 町長選挙に立候補して、前収入役など新人3人を破って初当選を果たした。 ※当日有権者数:-人 最終投票率:94.57%(前回比:-pts) 前町議との争いとなったが、これを破って再選を果たした。 ※当日有権者数:6,298人 最終投票率:94.43%(前回比: 0.14pts) 1977年(昭和52年)は無投票で3選を果たした。
橋本利一(はしもと としかず、1921年3月 - )は日本の… 橋本利一(はしもと としかず、1921年3月 - )は日本の通商産業官僚。 資源エネルギー庁長官、通商産業審議官、三菱電機副社長、石油公団総裁、新エネルギー財団会長などを務めた。 大阪府出身。東京大学法学部卒業。高等試験行政科に合格し、1947年12月 商工省に入省。石炭局兼総務局に配属し、石炭局で石炭合理化事業法の立案作業に携わった。 通商産業省企業局企業第一課長、大臣官房秘書課長を経て、1972年7月 企業局次長。 1973年7月 生活産業局長。1974年11月 通商政策局長。1976年7月27日 資源エネルギー庁長官。1978年6月20日 通商産業審議官。1979年8月29日 退官。 1980年10月に三菱電機顧問。
氏平 競重(うじひら たかしげ、1921年2月28日 - 2… 氏平 競重(うじひら たかしげ、1921年2月28日 - 2012年4月6日) は、岡山県久米郡久米町出身の実業家。尼崎信用金庫元理事長、元会長。元尼崎商工会議所会頭。 1921年、岡山県久米郡久米町(現:津山市)で出生する。旧制閑谷中学(現:岡山県立和気閑谷高等学校)へ入学。1940年に卒業する。その後、法政大学へ進学し、1944年(昭和19年)法政大学経済学部を卒業する。しかしながら、第二次世界大戦で日本がアメリカと戦争を始めると、徐々に戦況が悪化し、大学卒業後、学徒動員で中国大陸へ出征する。そのまま、中国で敗戦を迎える。 終戦後、1947年(昭和22年)大蔵省(現:財務省)へ入省する。中国財務局金融検査官、金融課長補佐などを経て、1962年尼崎信用金庫へ転職する。
伊賀 定盛(いが さだもり、1921年(大正10年)2月28… 伊賀 定盛(いが さだもり、1921年(大正10年)2月28日 - 1990年(平成2年)9月1日)は、昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員(4期)、兵庫県城崎郡余部村長。 兵庫県城崎郡余部村(香住町を経て現香美町)出身。1944年(昭和19年)関西大学法文学部卒業。その後、中央大学でも学んだ。従軍し陸軍主計少尉で除隊した。 1947年(昭和22年)余部村長に初当選。兵庫県立豊岡高等学校教諭を務め兵庫県高等学校教職員組合但馬支部書記長に在任。1950年(昭和25年)兵庫県議会議員に初当選し、以後3期務める。兵庫県議会日本社会党議員団幹事長、兵庫県日本社会党県本部副委員長などを歴任した。 1967年(昭和42年)第31回衆議院議員総選挙で旧兵庫5区に日本社会党公認で立候補し初当選。
秋富 公正(あきとみ きみまさ、1921年〈大正10年〉2月… 秋富 公正(あきとみ きみまさ、1921年〈大正10年〉2月27日 - 2016年〈平成28年〉4月21日)は、日本の官僚、経営者。 山口県出身。秋田三一の次男として生まれ、秋富久太郎の養子となる。妻は阿南惟幾の長女・喜美子。 1944年に東京帝国大学経済学部を卒業。学徒出陣で大竹海兵団に入団し、短期現役海軍主計科士官(11期)を志願。同年2月、見習尉官となり海軍経理学校に入学。同年9月に卒業し、同年12月に海軍主計少尉に任官。第11海軍航空廠に配属され、1945年9月、主計中尉に進み終戦を迎えた。 1946年に運輸省に入省。1974年11月に総務府人事局長、1978年4月に総務府副長官を経て、1979年11月に日本鉄道建設公団副総裁に就任し、1983年5月には新東京国際空港公団総裁に就任し、1988年12月までに務めた。
角田 寛(すみた ひろし、1921年 <大正10年> 2月2… 角田 寛(すみた ひろし、1921年 <大正10年> 2月25日 - 2001年 <平成13年> 5月22日)は、日本の実業家。京阪電気鉄道社長、会長などを務めた。位階は正四位。 大阪府出身。1943年9月京都帝国大学工学部電気工学科を卒業。 第四陸軍航空技術研究所、鉄道省での勤務を経て、1947年10月、京阪神急行電鉄に入社。1949年の京阪神急行電鉄からの再分離で京阪電気鉄道に移籍。 1967年11月に取締役に就任し、1972年7月に常務、1977年6月に専務、1979年6月に副社長を経て、1985年3月には社長に就任。1989年6月に会長に就任し、1995年6月には取締役相談役に就任。 1981年11月に藍綬褒章を受章し、1993年11月に勲二等瑞宝章を受章。
内藤 一郎(ないとう いちろう、1921年2月24日 - )… 内藤 一郎(ないとう いちろう、1921年2月24日 - )は、日本の軍事航空評論家、翻訳家。筆名に嵯峨 浩一。 滋賀県伊香郡高月町(現長浜市)生まれ。1944年京都帝国大学工学部航空工学科卒。同年海軍技術中尉。 1951年事業用操縦士。1954年航空大学校教授。1959年防衛庁技術研究本部勤務、1981年定年退官。航空医学実験隊技術顧問、東海大学講師など。著述のほか翻訳も行う。
高木 貞男(たかぎ さだお、1921年2月24日 - 201… 高木 貞男(たかぎ さだお、1921年2月24日 - 2012年5月22日)は、日本の経営者。森永製菓会長を務めた。 東京都出身。1942年に早稲田大学文学部英文学科を卒業し、1946年5月に森永薬品に入社。 1955年4月に森永製菓に転じ、1974年5月に取締役に就任し、1980年12月に常務を経て、1981年6月に副社長に就任し、1985年6月には会長に昇格した。副社長在任時には、グリコ・森永脅迫事件の対応に当たった。1996年6月に相談役に就任し、1998年6月から参与を務めた。1991年6月から1998年6月までに森永乳業で監査役を務めた。 2012年5月22日、肺炎のために死去。91歳没。
田島 衛(たじま まもる、1921年(大正10年)2月23日… 田島 衛(たじま まもる、1921年(大正10年)2月23日 - 1988年(昭和63年)1月17日)は、日本の政治家。新自由クラブ衆議院議員(2期)。 東京府東京市(現東京都)江戸川区出身。府立三中(現都立両国高等学校)を経て早稲田大学法学部在学中、学徒出陣で海軍に入る。海軍特攻隊特殊潜航艇蛟龍艇長となり、海軍中尉で復員した。 その後、1951年(昭和26年)江戸川区議会議員に選出され4期在任。1969年(昭和44年)東京都議会議員となり2期務めた(自由民主党所属)。この間、都議会自民党副幹事長、同政調会長などを務めた。 1976年(昭和51年)第34回衆議院議員総選挙に東京都第10区から無所属で立候補して次点で落選。
後藤重郎(ごとう しげお、1921年2月23日 - 2006… 後藤重郎(ごとう しげお、1921年2月23日 - 2006年11月22日)は、日本の国文学者。文学博士(東京大学・論文博士・1967年)(学位論文「新古今和歌集成立史の基礎的研究」)。名古屋大学名誉教授。 愛知県出身。1943年東京帝国大学文学部国文学科卒業(半年繰上)。海軍第三期予備学生として応召。45年9月召集解除。50年東京大学大学院(旧制)国文学専攻課程入学。55年3月満期修了。1967年「新古今和歌集成立史の基礎的研究」で東京大学より文学博士の学位を取得。1956年7月名古屋大学文学部専任講師、助教授をへて教授。84年定年退官、名誉教授、中京大学文学部教授を務め、91年定年退職。中世和歌、特に『新古今和歌集』が専門。
小島 健司(こじま けんじ、1921年2月23日 - )は、… 小島 健司(こじま けんじ、1921年2月23日 - )は、日本の労働運動家、日本福祉大学名誉教授。 横浜市生まれ。1943年日本大学経済学部卒業。44年荏原製作所入社。労働組合活動に参加し、49年総評調査副部長、1953年書記。60年同調査部長。1968年日本福祉大学教授。2002年定年退任、名誉教授。専攻は賃金論、日本産業史。時計産業史に関心をよせた。
小林 晴夫(こばやしはるお、1921年2月23日 - 200… 小林 晴夫(こばやしはるお、1921年2月23日 - 2009年6月29日)は、日本の工学者・化学者。工学博士。元室蘭工業大学学長・同名誉教授。北海道大学名誉教授。東京都出身。 1944年(昭和19年)北海道帝国大学工学部卒業。北海道大学大学院工学研究科博士課程修了。1947年(昭和22年)北海道大学工学部講師。1948年(昭和23年)同工学部助教授。1960年(昭和35年)同工学部教授。1983年(昭和58年)北海道大学退官。同名誉教授。1983年(昭和58年)室蘭工業大学理事・室蘭工業大学8代学長に就任。1991年(平成3年)室蘭工業大学退官。北海道武蔵女子短期大学学長に就任。1998年(平成10年)同学長を退任し、終身理事。
三嶋 与四治(みしま よしはる、1921年2月23日 - 2… 三嶋 与四治(みしま よしはる、1921年2月23日 - 2002年5月18日)は、日本の映画プロデューサー。 福井県出身。1941年早稲田大学専門部政経学科卒業後、同年松竹に入社するが、1942年入営。終戦で南方より復員し、松竹に復職。演劇部、松竹歌劇団製作課長を経て松竹会館支配人、プロデューサー、映画宣伝部長、テレビ部長、映画製作本部次長兼企画部長などを歴任。1969年4月28日の松竹第97期定時株主総会で取締役に就任し、総会後の取締役会で映画製作のトップ・映画製作本部長兼企画部長に就任した。当時の松竹は映画部門が長年に渡り不振が続き、演劇など他部門の利益を食う状態。映画製作のトップに就任後、松本清張作品を次々映画化し、伝統的に強い喜劇、青春映画と合わせて松竹の映画部門を立て直した。
三宅 宅三(みやけ たくぞう、 1921年2月22日 - 2… 三宅 宅三(みやけ たくぞう、 1921年2月22日 - 2006年4月16日)は、岡山県倉敷市出身のプロ野球選手(一塁手、外野手)。 玉島中(現・玉島商)では砲丸投で全国優勝。明治大学を経て、倉敷工の監督となる。1949年にチームを甲子園大会出場に導いた。 1950年、毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)の創立と同時にテスト入団。開幕から一塁手、六番打者に抜擢される。同年の松竹ロビンスとの日本シリーズでは、一塁手、代打として2試合に出場。1951年は外野手も兼ね、5月から四番打者に起用されるなど打線の主軸として活躍、初の規定打席(16位、打率.281)に達する。1952年には自己最高の打率.294(12位)、18本塁打を記録。
山下 元利(やました がんり、1921年2月22日 - 19… 山下 元利(やました がんり、1921年2月22日 - 1994年3月14日)は、滋賀県出身の日本の政治家。衆議院議員、防衛庁長官を務めた。息子に元参議院議員の山下英利がいる。
川橋 猛(かわはし たけし、1921年(大正10年)2月21… 川橋 猛(かわはし たけし、1921年(大正10年)2月21日 - 2013年(平成25年)2月21日)は日本の実業家、元NEC副社長、元東洋通信機(現・宮崎エプソン)社長、元日本ロケット協会会長。長崎県出身。
本田 茂(ほんだ しげる、1921年2月20日 - 2009… 本田 茂(ほんだ しげる、1921年2月20日 - 2009年2月21日)は、日本の経営者。間組社長、会長を務めた。熊本県出身。 1941年に熊本高等工業学校土木工学科を卒業し、1946年に間組に入社。1975年11月に取締役に就任し、1977年12月に専務、1979年に副社長を経て、1981年8月に社長に就任。1989年12月に会長に就任し、1990年12月から1992年9月までには社長も兼任した。 2009年2月21日心不全のために死去。88歳没。
清水 成之(しみず しげゆき、1921年2月20日 - 20… 清水 成之(しみず しげゆき、1921年2月20日 - 2002年2月9日)は、日本の元文部省管理局長、国士舘大学・国士舘短期大学学長、学校法人国士舘理事長。 三重県出身。昭和19年(1944年)東京帝国大学法学部政治学科卒業。昭和22年(1947年)高等文官試験行政科合格。昭和63年(1988年)学校法人国士舘理事長就任。 1992年、勲三等旭日中綬章を受章。2002年2月9日、呼吸不全のため死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
大石 巌(おおいし いわお、1921年〈大正10年〉2月19… 大石 巌(おおいし いわお、1921年〈大正10年〉2月19日 - 2002年〈平成14年〉3月3日)は、日本の実業家、経営者、ジャーナリスト、証券アナリスト。新日本証券会長。毎日新聞社社友。静岡県出身。 静岡県立静岡中学校から、静岡高等学校 (旧制)に進み、1942年(昭和17年)東京帝国大学法学部卒業。同年、東京日日新聞社入社、経済部記者。日銀記者クラブのキャップなどを務めた。のちに、毎日オリオンズ出向、営業部長。1961年(昭和36年)、毎日新聞を離籍し大商証券に転じ、福岡支店長を経て、1964年(昭和39年)、取締役。1967年(昭和42年)、合併により新日本証券取締役。1975年(昭和50年)、同副社長。
目崎 徳衛(めざき とくえ、1921年2月19日 - 200… 目崎 徳衛(めざき とくえ、1921年2月19日 - 2000年6月13日)は、国文学者、王朝文化研究者、専攻は日本文化史、平安文学研究。 新潟県生まれ。1945年東京帝国大学文学部国史学科卒業、長岡工業高等専門学校助教授、文部省教科書調査官、聖心女子大学教授、のち同名誉教授。1980年に『西行の思想史的研究』で東京大学文学博士、第一回角川源義賞。1996年に『南城三余集私抄』で第三回(95年度)やまなし文学賞<研究評論部門>を受賞。また俳句同人誌「花守」を半世紀近く主宰し、若井新一などを輩出した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
西尾 邑次(にしお ゆうじ、1921年2月19日 - 201… 西尾 邑次(にしお ゆうじ、1921年2月19日 - 2013年7月23日)は、日本の政治家。鳥取県知事。東京高等農林学校(現東京農工大学)卒業。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
岡本 辰巳(おかもと たつみ、1921年2月19日 - 20… 岡本 辰巳(おかもと たつみ、1921年2月19日 - 2008年2月29日)は、日本の政治家。愛知県議会議員(7回、1971年-1999年)、愛知県議会議長(1984年-1985年)、刈谷市議会議員(4回、1955年-1971年)、自由民主党愛知県連幹事長(1985年-1989年)などを歴任。 1921年(大正10年)2月19日に愛知県碧海郡富士松村(現・刈谷市泉田町)に生まれた。富士松村立尋常高等小学校を卒業すると、1951年(昭和26年)4月に30歳で富士松村会議員に初当選した。1955年(昭和30年)4月に富士松村が刈谷市に合併された際には刈谷市議会特別委員となり、1955年(昭和30年)7月に刈谷市議会議員に初当選した。
市橋 保(いちはし たもつ、1921年 <大正10年> 2月… 市橋 保(いちはし たもつ、1921年 <大正10年> 2月18日 - 2005年 <平成17年> 9月17日)は、日本の銀行家。福井銀行頭取、会長を務めた。位階は正五位。 福井県福井市出身。1944年に慶應義塾大学工学部を卒業し、1945年11月に日本銀行に入行。1962年4月に福井銀行に転じ、1965年11月に取締役に就任し、1969年4月に常務、1972年11月に副頭取を経て、1982年10月に頭取には就任。1992年10月には会長に就任。 1987年11月に藍綬褒章を受章し、1992年11月に勲三等瑞宝章を受章。 2005年9月17日心不全のために死去。84歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
佐原 亨(さはら とおる、1921年2月18日 - 1984… 佐原 亨(さはら とおる、1921年2月18日 - 1984年8月3日)は、日本の運輸官僚、経営者。愛知県出身。 1943年に東京帝国大学法学部を卒業し、高文行政科にも合格し、同年に逓信省に入省した。後に運輸省に転じ、1970年6月に船員局長、1972年に海運局長を経て、1973年8月から1974年6月までに海上保安庁長官を務めた。1974年6月に日本長期信用銀行顧問を経て、1976年6月にジャパンライン専務に就任し、1981年6月から1983年6月までに副社長を務めた。 1984年8月3日上咽頭腫瘍のために死去。63歳没。
水上 芳美(みずかみ よしみ、1921年2月17日 - 20… 水上 芳美(みずかみ よしみ、1921年2月17日 - 2006年3月20日)は、日本の経営者。長谷川工務店(現在の長谷工コーポレーション)社長、会長を務めた。 兵庫県出身。1944年に神戸商業大学 (旧制)(現・神戸大学)を卒業。1946年に長谷川工務店に入社。1949年1月には早くも取締役に就任し、1960年2月常務、1962年12月専務となり長谷工の業績拡大に合わせて昇進を重ねる。1966年2月副社長就任を経て、1969年7月に同社創業者長谷川武彦の後を受けて第2代社長に就任。1987年8月に会長に就任するまで18年間社長職にあった。1996年6月に取締役相談役に退き、1998年6月から翌年まで顧問も務めた。
清水 正徳(しみず まさのり、1921年2月17日 - 20… 清水 正徳(しみず まさのり、1921年2月17日 - 2004年3月7日)は、日本の哲学研究者。神戸大学名誉教授。 京都府京都市生まれ。東北帝国大学哲学科卒業。神戸大学助教授、教授、1984年定年退官、名誉教授、大阪学院大学教養部教授。マルクスの疎外論を研究。 1996年、勲三等旭日中綬章を受章。 2004年3月7日、病気のため京都市東山区の病院で死去。83歳没。
天津 敏(あまつ びん、1921年2月16日 - 1979年… 天津 敏(あまつ びん、1921年2月16日 - 1979年7月24日)は、日本の俳優。本名は天都 敏(あまつ とし、旧姓:佐藤)。身長182cmの体格、ドスの利いた声、鋭い眼光などを活かし、映画・テレビドラマで悪役・敵役スターとして活躍した。宮城県桃生郡河南町(現・石巻市)出身。 両親および兄弟はすべて教員という一家に育つ。歌と水泳が得意な少年だったという。宮城県師範学校を卒業後、教職に就く。戦時中は海兵団で少年兵の教官の職にあった。1944年に結婚、婿養子となり姓を天都(あまつ)とした。戦後は教職から離れ、鎌倉の夫人の実家の工場を手伝い、水道工事などの仕事をしていた。戦後、教職を離れたのは、戦前と正反対の教育をすることはできないという理由であった。
三鬼 彰(みき あきら、1921年2月16日 - 2000年… 三鬼 彰(みき あきら、1921年2月16日 - 2000年6月22日)は、日本の実業家。八幡製鐵の初代社長を務めた三鬼隆の長男で、後身会社である新日本製鐵の会長や、日本経済団体連合会副会長を務めた。また、タレントの出川哲朗の外従父に当たる。 岩手県釜石市出身。官立新潟高等学校、京都帝国大学法学部を経て、戦時中の1943年に日本製鐵へ入社。過度経済力集中排除法による日本製鐵解体後は富士製鐵で秘書室長、総務部長など主に管理畑を経験した。 新日本製鐵発足後は、父・隆が八幡製鐵社長だった人脈を通じて社内融和に尽力。専務、副社長就任以降はプラザ合意による円高不況対策などに努め、高炉休止など合理化を推進した。
平井 隆太郎(ひらい りゅうたろう、1921年2月15日 -… 平井 隆太郎(ひらい りゅうたろう、1921年2月15日 - 2015年12月9日)は、日本の心理学者、新聞学者。立教大学名誉教授。大阪府出身。 平井太郎(江戸川乱歩)の一人息子として大阪府北河内郡守口町(現在の守口市)に生まれる。東京府立第五中学校から1年浪人して第一高等学校に入学。このとき1級下に藤村正太がいた。1942年、東京帝国大学文学部心理学科に入学。1943年11月、同大学を仮卒業し(正式卒業は1944年9月)、1943年12月に学徒出陣で徴兵されて大日本帝国海軍に入団。千葉県の館山海軍砲術学校に配属され、高射砲を専修。予備学生として横須賀市武山の海兵団で過ごした後、海軍少尉として茨城県土浦市の航空隊に赴任。
斎藤 眞(さいとう まこと、1921年〈大正10年〉2月15… 斎藤 眞(さいとう まこと、1921年〈大正10年〉2月15日 - 2008年〈平成20年〉1月16日)は、日本の政治学者(アメリカ政治外交史)。勲等は文化勲章。東京大学名誉教授、日本学士院会員、文化功労者。名の「眞」は「真」の旧字体のため、新字体で斎藤 真(さいとう まこと)とも表記される。 東京大学法学部教授、国際基督教大学教授、国際基督教大学平和研究所所長などを歴任した。 斎藤勇(英文学者、文化功労者、東京大学名誉教授)の次男として東京都に生まれる。アメリカ文学者の斎藤光は実兄。 1927年、成城学園小学校入学。1937年に受洗。同年、成城高等学校文科乙類入学。1940年に同校を卒業。高木八尺に師事し、1942年東京大学法学部政治学科卒業。
宮川 知彰(みやがわ ともあき、1921年2月15日 - 2… 宮川 知彰(みやがわ ともあき、1921年2月15日 - 2007年12月21日)は、日本の教育学者。 福井県出身。東京帝国大学文学部教育学科卒。東北大学教育学部助教授、教授、1979年「青年における生活条件と語の認知閾との関係に関する実験的考察」で東京大学教育学博士。1984年東北大を定年退官、名誉教授、放送大学教授。 1995年、勲二等瑞宝章を受章。2007年12月21日、心不全のため死去。
石井 多加三(いしい たかぞう、1921年(大正10年)2月… 石井 多加三(いしい たかぞう、1921年(大正10年)2月14日 - 2014年(平成26年)6月15日)は、日本の実業家、元国際電信電話(現・KDDI)社長、元郵政事務次官。岡山県岡山市出身。長男の石井健一郎は名古屋大学名誉教授、次男の石井洋二郎は東京大学名誉教授で元東京大学大学院総合文化研究科長・教養学部長。 旧制岡山県第一岡山中学校、旧制第六高等学校文科甲類卒業。
横山 亮次(よこやま りょうじ、1921年2月14日 - 2… 横山 亮次(よこやま りょうじ、1921年2月14日 - 2017年9月24日)は、日本の経営者、工学博士。日立化成工業(日立化成、昭和電工マテリアルズを経て、現在のレゾナック)社長を務めた。茨城県出身。 1944年に東京工業大学応用化学科を卒業し、同年に日立製作所に入社した。1971年2月に日立化成工業に転じ、1972年11月に取締役に就任し、1973年11月に常務、1977年6月に専務を経て、1981年6月には社長に就任した。1991年6月、会長に就任し、1995年6月から相談役を務めた。 1984年11月に藍綬褒章を受章した。 2017年9月24日に老衰のため死去した。96歳没。
足立原 茂徳(あだちはら しげのり、1921年〈大正10年〉… 足立原 茂徳(あだちはら しげのり、1921年〈大正10年〉2月12日 - 2002年〈平成14年〉3月16日)は、昭和から平成時代の政治家。神奈川県厚木市長。位階は従五位。 厚木市出身。旧制厚木中学校(現神奈川県立厚木高等学校)第32回卒業。1949年(昭和24年)東京文理科大学文学部東洋史学科を卒業し、母校の厚木高等学校教諭となる。その後、青少年センター館長、県教育副参事、社会教育課長などを歴任し、1973年(昭和48年)厚木市助役に就任。 1979年(昭和54年)以来、厚木市長に4選した。1992年(平成4年)厚木テレコムタウンの推進母体である厚木テレコムパークの初代社長に就任。1995年(平成7年)引退した。
大松 博文(だいまつ ひろふみ、1921年2月12日 - 1… 大松 博文(だいまつ ひろふみ、1921年2月12日 - 1978年11月24日)は、日本のバレーボール指導者、政治家。参議院議員(1期)。香川県綾歌郡宇多津町出身。 ニチボー貝塚監督時代は、自ら育て上げた東洋の魔女を率いて、辞任までに175連勝を記録。1962年(昭和37年)、第4回女子世界選手権でソ連を破り優勝。国民的英雄として迎えられる。1964年東京オリンピックでは全日本女子を監督として金メダルに導く。「回転レシーブ」などを考案、その過酷な練習で「鬼の大松」ともいわれた。情報誌『imidas2001』(集英社)の「20世紀を創った人々550」では、バレーボールの分野で前田豊、猫田勝敏と並んで3人のうちの1人に数えられた。
飛鳥 高(あすか たかし、1921年2月12日 - )は、日… 飛鳥 高(あすか たかし、1921年2月12日 - )は、日本の小説家、推理作家。
巷野 悟郎(こうの ごろう、1921年2月12日 - 201… 巷野 悟郎(こうの ごろう、1921年2月12日 - 2017年2月2日)は、日本の小児科医。 栃木県足利市生まれ。1944年東京帝国大学医学部卒業。1953年「乳児ヒポプラジーの研究」で東京大学より医学博士の学位を取得。東京大学医学部小児科、厚生省児童局母子衛生課技官、東京都立八王子乳児院長、市立札幌病院小児科医長、東京都立駒込病院小児科医長、副院長、東京都立府中病院長、東京家政大学教授。聖徳大学児童学科教授、こどもの城・小児保健クリニック院長。日本保育園保健協議会会長。日本母性保護協会先天異常調査委員会。全国ベビーシッター協会会長。 NHKラジオでの電話による育児相談でも知られる。筋拘縮症は乱注射による医原病であると報告した。
樋渡 宏一(ひわたし こういち、1921年2月11日 - 2… 樋渡 宏一(ひわたし こういち、1921年2月11日 - 2009年3月7日) は、日本の細胞生物学者、遺伝学者。東北大学名誉教授。元日本学士院会員。日本における、ゾウリムシを用いた生物学研究の先駆者とされる。 宮城県仙台市生まれ。旧制盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)、盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)を経て、東北帝国大学理学部を卒業後、東北帝国大学大学院特別研究生となる。 山形大学講師に赴任後、東北大学教育学部で教授に就任、宮城教育大学教授を経て、1968年に東北大学理学部教授となる。東北大学理学部教授時の1971年に日本動物学会賞を受賞した。 1984年に定年退職し、東北大学名誉教授となる。