近藤 摂南(こんどう せつなん、1922年4月7日 - 20… 近藤 摂南(こんどう せつなん、1922年4月7日 - 2009年5月20日)は、日本の書道家。本名は寿男。 大阪府大阪市生まれ。1945年、立命館大学卒業。炭山南木、津金隺仙(「隺」は鶴の文字から鳥を取った文字)に師事。池大雅に大きな影響を受けた。旧来の書壇のあり方に疑問を呈し、自ら新書派を旗揚げ。寺山修司の詩を作品に仕上げるなどした。 日展理事、四天王寺女子大学教授のほか、新書派協会の会長などを務める。 2009年5月20日、肺炎のため死去。
清水 正博(しみず まさひろ、1922年4月7日 - 200… 清水 正博(しみず まさひろ、1922年4月7日 - 2008年12月21日)は、日本の実業家。北辰電機製作所(現・横河電機)代表取締役社長、北辰工業(現・シンジーテック)代表取締役会長。 工業計器・プロセス制御システムメーカーの一つであった北辰電機製作所の創業者で初代社長であった清水荘平の長男として生まれる。1947年、早稲田大学商学部を卒業し、北辰電機製作所に入社。1951年に同社監査役、1956年に同社専務取締役、1964年に父・荘平の会長就任に伴い、同社代表取締役社長に就任した。北辰は、戦前・戦中と軍需への依存度が高かった上に、戦災の被害が甚大で、戦後の再建は苦難を極めた。正博は、父・荘平を援けて、会社再建に尽力した。
田村 善藏(たむら ぜんぞう、1922年(大正11年)4月6… 田村 善藏(たむら ぜんぞう、1922年(大正11年)4月6日 - 2008年(平成20年)6月8日)は、日本の薬学者、分析化学者。薬学博士、東京大学名誉教授。薬理学者の田村憲造は父、農芸化学者の田村学造は弟である。 1922年(大正11年)4月6日、東京帝国大学医科大学助教授(当時)の田村憲造の長男として生まれる。東京高等師範学校附属中学校から、旧制第一高等学校へ進み、東京帝国大学医科大学薬学科へ入学する。薬学科へ進んだのは、父・憲造の共同研究者であった石館守三が新設された薬品分析化学講座の教授をしており、憲造からの勧めがあったからだという。1945年(昭和20年)4月、決戦教育措置要綱により授業停止となり、賀茂海軍衛生学校へ学徒勤労動員となった。
守本 順一郎(もりもと じゅんいちろう、1922年4月6日 … 守本 順一郎(もりもと じゅんいちろう、1922年4月6日 - 1977年10月1日)は、社会思想史学者。 東京生まれ。1950年東京大学経済学部卒業。55年名古屋大学法学部講師。助教授、62年教授、「中国封建思想成立史論」で名大法学博士。東洋政治思想史担当。55歳で死去。門下生に今中比呂志、舟橋喜恵、岩間一雄、雀部幸隆、巣山靖司ら。
林 安夫(はやし やすお、1922年4月3日 - 1944年… 林 安夫(はやし やすお、1922年4月3日 - 1944年?)は、愛知県出身のプロ野球選手(投手)。弟は元プロ野球選手の林直明。
磯邊 律男(いそべ りつお、1922年 <大正11年> 4月… 磯邊 律男(いそべ りつお、1922年 <大正11年> 4月3日 - 2012年 <平成24年> 2月12日)は、日本の大蔵官僚、実業家。国税庁長官を経て、博報堂代表取締役社長を歴任した。2001年春勲二等旭日重光章受章。位階は正四位。 大分県東国東郡武蔵町(現:国東市)生まれ。教員だった父の転勤で日本統治時代の朝鮮(現韓国)の光州の小学校と旧制中学校を卒業後、旧制五高に進み、東京帝国大学法学部政治学科を卒業した1948年に大蔵省に入省(理財局)。 国税庁査察課長時代には、吹原産業事件のほか、田中彰治衆議院議員が小佐野賢治を恐喝した虎ノ門事件の調査を担当。調査の最中には、順天堂大学医学部附属順天堂医院に入院しているはずの田中が、病院を抜け出して大蔵省5階の国税庁査察課に現れ、「課長の磯邊はいるか」と声を張り上げ、「俺のことをこそこそ調べているようだが、やれるもんならやってみろ」と啖呵を切って引き揚げた。
神代 雄一郎(こうじろ ゆういちろう、1922年4月2日 -… 神代 雄一郎(こうじろ ゆういちろう、1922年4月2日 - 2000年)は、日本の建築史研究者、建築評論家、明治大学名誉教授。専門は、近代建築史。建築と環境の関係を研究した。 東京出身。東京帝国大学工学部卒。大学院を経て明治大学理工学部助教授。1962年、「近代建築思潮形成過程の研究」で東京大学工学博士。1962年、教授。1993年、定年退任、名誉教授。
土田 國保(つちだ くにやす、1922年〈大正11年〉4月1… 土田 國保(つちだ くにやす、1922年〈大正11年〉4月1日 - 1999年〈平成11年〉7月4日)は、日本の警察官僚、警視総監(第70代)、防衛大学校長(第4代)。愛称は「ミスター警視庁」。剣道7段(居合)。位階は正四位。 父・土田誠一、母・敬子の長男として東京府生まれ。小学校6年間は学習院初等科で学び、5年生より生涯の趣味となる剣道を始める。旧制東京高校を経て、1943年(昭和18年)、東京帝国大学法学部を卒業し、内務省に入省。同年9月に短期現役主計科士官(第10期)に採用されて海軍経理学校で短期間の教育を受け、1944年(昭和19年)3月に同校を卒業して海軍主計中尉に任官した。戦艦武蔵にも乗り組み、主計大尉で終戦を迎えた。
久住 宏 (くすみ ひろし、1922年(大正11年)4月1日… 久住 宏 (くすみ ひろし、1922年(大正11年)4月1日 - 1945年(昭和20年)1月12日)は、日本の海軍軍人。海兵72期。大東亜戦争の末期、人間魚雷「回天」で出撃して戦死した。死後二階級特進し、最終階級は海軍少佐。 1922年(大正11年)4月1日に埼玉県川越市の素封家に生まれる。旧制東京府立第九中学校から海軍兵学校へ進学し、72期で卒業した。卒業後は同日中に軽巡洋艦「多摩」へ乗り組んで実習を重ね、さらに海軍潜水学校11期普通科学生として採用、1944年(昭和19年)8月に卒業したが、久住は当時極秘だった人間魚雷の存在をどのように知ったのか、必死兵器への配属を強く希望し、潜水学校を卒業した海軍兵学校72期卒業生ではただ一人の「回天」搭乗員として、同年9月6日に人間魚雷「回天」を創案した黒木博司大尉・仁科関夫中尉と共に第一特別基地隊大津島基地に着任、「回天」搭乗員として出撃までの時間を訓練にて過ごす。
元良 誠三(もとら せいぞう、1922年4月1日 - 202… 元良 誠三(もとら せいぞう、1922年4月1日 - 2020年5月1日)は、日本の船舶工学者、工学博士。東京大学名誉教授。東京府(現・東京都)出身(出生地は長崎県長崎市)。 祖父は心理学者・元良勇次郎。造船工学者で三菱重工業社長を務めた元良信太郎は父。由美子夫人は元三菱製紙会長・岩崎隆弥の長女なので三菱商事の社長・会長を歴任した槙原稔(2016年現在同社特別顧問)は元良の義弟にあたる(槙原夫人・喜久子は岩崎隆弥の三女で由美子の妹)。隆弥の祖父・岩崎弥太郎は三菱財閥の創始者。そして隆弥の父・岩崎久弥は弥太郎の長男で、三菱の3代目総帥である。岩崎弥太郎の曾孫にあたる由美子との結婚により三菱の創業者一族・岩崎家と姻戚関係で結ばれることになった。
関 弥三郎(せき やさぶろう、1922年4月1日 - )は、… 関 弥三郎(せき やさぶろう、1922年4月1日 - )は、日本の経済統計学者、立命館大学名誉教授。 京都市出身。1947年立命館大学経済学科卒。1992年「寄与度・寄与率の理論と応用」で経済学博士の学位の取得。立命館大学助教授、教授を務めた。1986年定年、名誉教授、京都学園大学教授。
川井 春三(1922年4月1日 - 1989年)は、日本の政… 川井 春三(1922年4月1日 - 1989年)は、日本の政治活動家、実業家。 奈良市の魚問屋の四男に生まれた。1940年、旧制大阪城東商業学校卒業。1942年3月、大阪YMCA無線電機学校高等科卒業。同時に大日本帝国陸軍参謀本部に入り、北多摩陸軍通信所に配属されて無線情報活動に従事した。1943年1月、関東軍特殊情報部隊に入営し、幹部候補生として教育を受けた。同年末、北多摩通信所に教育要員として復帰。1945年、派遣先の長野分遣隊で終戦を迎えた。1946年4月、旧制大阪専門学校(現在の近畿大学)経済学部に入学。のち中途退学し、父の営む奈良県魚株式会社で働いた。 1957年の父の死を契機に、民族運動への挺身を決意した。
伊狩 章(いかり あきら、1922年3月31日 - 2015… 伊狩 章(いかり あきら、1922年3月31日 - 2015年3月19日)は、国文学者、新潟大学名誉教授。叙正四位。
中埜 肇(なかの はじむ、1922年3月31日 - 1985… 中埜 肇(なかの はじむ、1922年3月31日 - 1985年8月12日)は、日本の実業家、プロ野球球団経営者。 阪神電気鉄道株式会社(以下、阪神電鉄)専務取締役鉄道事業本部長、阪神タイガース(以下、阪神)取締役社長を歴任した。球団社長在職中の1985年8月12日に発生した日本航空123便墜落事故により死去した。 京都帝国大学工学専攻卒業後、1947年に阪神電鉄へ入社し、子会社の阪神土木工業専務・社長を経て、阪神電鉄専務取締役に就任。土木・技術畑出身で、阪神電鉄グループ関連の建築物以外にも、国内の大型建造物やレジャー施設の建設にも関与していた。 1984年10月、子会社であるプロ野球球団・阪神タイガースに出向し、球団社長へ就任した。
堤 章三(つつみ しょうぞう、1922年3月31日 - 20… 堤 章三(つつみ しょうぞう、1922年3月31日 - 2009年1月24日)は、日本の放送作家。大阪府出身。東京大学心理学科卒業。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
野原 一夫(のはら かずお、1922年(大正11年)3月30… 野原 一夫(のはら かずお、1922年(大正11年)3月30日 - 1999年(平成11年)7月31日)は東京府出身の編集者、作家。 東京府立第五中学校(現都立小石川高等学校)から浦和高等学校文科乙類を経て、東京帝国大学文学部独逸文学科卒業。1943年(昭和18年)12月、学徒出陣、二等水兵として横須賀市の武山海兵団に入隊。その後、海軍の第四期兵科予備学生となる。1944年(昭和19年)12月に海軍少尉任官、埼玉県大和田通信隊勤務。1945年(昭和20年)4月、南九州・鹿屋基地に第五航空艦隊司令部付として赴任。終戦を大分で迎える。 1946年(昭和21年)8月26日、700名中2名の被採用者のひとりとして新潮社に入社(もうひとりの被採用者は野平健一)。
井上 太一(いのうえ たいち、1922年3月30日 - 19… 井上 太一(いのうえ たいち、1922年3月30日 - 1997年7月8日)は、日本の経営者、銀行家。京都銀行頭取を務めた。京都府京都市出身。 1946年に大阪商科大学を卒業し、同年に京都銀行に入行。1968年11月に取締役に就任し、1972年3月に常務、1974年11月に専務を経て、1978年12月に副頭取に就任し、1979年4月に頭取に昇格。1994年5月に会長に就任。 1985年11月に藍綬褒章を受章。 1997年7月8日肝不全のために死去。75歳没。
小川 省吾(おがわ しょうご 1922年〈大正11年〉3月2… 小川 省吾(おがわ しょうご 1922年〈大正11年〉3月29日 - 1993年〈平成5年〉12月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期、日本社会党)、群馬県議会議員(2期)。 群馬県新田郡生品村(現・太田市)に生まれる。旧制太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)を卒業後、外務省の留学生として北京へ留学する。1943年(昭和18年)に北京大学法学院を卒業。外務省北京日本大使館文化局に勤務し、中国で終戦を迎えた後は復員事務に従事する。 帰国後は進駐軍の通訳などとして勤務したのち、1948年(昭和23年)から群馬県庁職員として勤務する。1958年(昭和33年)県労農会議理事、1961年(昭和36年)県衛生民生部世話課援護係長。
吉村 励(よしむら つとむ、1922年3月29日 - 202… 吉村 励(よしむら つとむ、1922年3月29日 - 2020年1月3日)は、日本の経済学者。大阪市立大学名誉教授。専門は、賃金論・労働運動・社会政策。 大阪商科大学卒、1948年副手、1949年大阪市立大学経済学部助手、講師、助教授、教授、1971年「現代の賃金問題」で、大阪市立大学より経済学博士の学位を取得。85年定年退官、名誉教授、奈良産業大学教授、97年退職。部落解放研究所労働部長。
杉渓 一言(すぎたに きよとき、1922年(大正11年)3月… 杉渓 一言(すぎたに きよとき、1922年(大正11年)3月29日 - )は、日本の心理学者、日本女子大学名誉教授。 東京生まれ。男爵・杉渓由言の長男。1947年東京帝国大学文学部心理学科卒。1949年同大学院(旧制)修了。1951年横浜国立大学講師、1957年助教授、1964年日本女子大学助教授、1965年教授、1992年定年退任、名誉教授。1998年勲三等瑞宝章受勲。 2022年11月に100歳記念講演会を行なった。
武田 實(たけだ みのる、1922年3月28日 - 2009… 武田 實(たけだ みのる、1922年3月28日 - 2009年3月6日)は、日本の外交官。駐アイルランド特命全権大使等を経て、迎賓館長を務めた。 東京府立第一商業学校(現東京都立第一商業高等学校)を経て、1944年東京商科大学(現一橋大学)卒業。科学技術庁原子力局国際協力課長、在トルコ日本国大使館一等書記官、同参事官等を経て、1967年在オーストラリア日本国大使館参事官。1969年在ブルガリア日本国大使館参事官。1972年参議院参事、参議院事務局渉外部長兼列国議会同盟課長事務取扱。1976年シドニー総領事。1978年駐ラオス特命全権大使。1982年駐アイルランド特命全権大使。1985年迎賓館長。
佐藤 守良(さとう もりよし、1922年3月28日 ‐ 19… 佐藤 守良(さとう もりよし、1922年3月28日 ‐ 1996年3月7日)は、日本の政治家。衆議院議員・参議院議員を歴任した佐藤公治の父親。 衆議院議員(9期)、農林水産大臣(第8代)、国土庁長官(第20代)、北海道開発庁長官(第60代)、沖縄開発庁長官(第29代)を歴任。 広島県御調郡向島町(現尾道市)出身。尾道商業学校、1947年中央大学法学部英法科卒業。 運輸大臣を務めた永野護の秘書を長く務め、1960年の第29回衆議院議員総選挙に無所属で立候補するが落選。1969年の第32回衆議院議員総選挙で自由民主党公認を得て、再び広島3区から立候補し初当選(当選同期に小沢一郎・羽田孜・梶山静六・奥田敬和・渡部恒三・綿貫民輔・塩崎潤・森喜朗・村田敬次郎・松永光・江藤隆美・中山正暉・浜田幸一など)。
原秀三(はら ひでぞう、1922年3月28日 - 没年不明)… 原秀三(はら ひでぞう、1922年3月28日 - 没年不明)は、日本の大蔵官僚。関東信越国税局長、外務省在英国大使館参事官、外務省在英国大使館公使、日本専売公社副総裁、住総社長、同社会長などを務めた。 東京帝国大学経済学部経済学科在学中の1943年12月に大竹海兵団として臨時召集される。1944年9月 東京帝大経済学部経済学科卒業。短期現役海軍主計科士官(11期)を志願し、同年2月に海軍主計見習尉官となり海軍経理学校に入校。同年9月に経理学校を卒業し、三重海軍航空隊高野山分遣隊付となる。同年12月、海軍主計少尉に任官。1945年9月に主計中尉に進み予備役となる。 1945年10月、大蔵省に入省し主税局属に任官。
畠山 清二(はたけやま せいじ、1922年3月28日 - 1… 畠山 清二(はたけやま せいじ、1922年3月28日 - 1988年6月7日)は、日本の経営者。荏原製作所社長を務めた。東京都出身。 1942年に山梨高等工業学校工作機械科を卒業し、同年に荏原製作所に入社。1958年12月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1976年4月に副社長に就任し、同年12月には社長に昇格。 1988年6月7日心不全のために死去。66歳没。
大石 修平(おおいし しゅうへい、1922年3月26日 - … 大石 修平(おおいし しゅうへい、1922年3月26日 - 1991年5月25日)は、日本の近代文学研究者。元東京都立大学人文学部教授。 富山県氷見郡氷見町(現氷見市)出身。父は農政家で氷見農業学校校長、衆議院議員の大石斎治。富山県立氷見中学校 (現・富山県立氷見高等学校)、富山高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学文学部国文科に進学するが、文系学生に対する徴兵免除停止に伴い、1943年に繰上卒業して軍務に服する。 出征から帰還後、1947年に富山県立富山師範学校助教授となる。同年度に附属中学校国語担当講師も務めた。1949年東京都立高校(東京都立大学附属高等学校)教諭。高岡市在住の和田侃が自らの戦中戦後の体験から、作文をとおして「自分で見て自分でものを考えることができる人間に」育てるために発行した『中学作文』に、指針となる著作を多数寄稿。
玄 梧鳳(ヒョン・オボン、朝鮮語: 현오봉、1922年3月2… 玄 梧鳳(ヒョン・オボン、朝鮮語: 현오봉、1922年3月26日または1923年3月26日 - 1982年10月16日)は、大韓民国の政治家。第4・6・7・8・9・10代大韓民国国会議員。本貫は延州玄氏(朝鮮語版)。 済州島の南済州郡で生まれた。日本の興國商業学校(現・興國高等学校)卒業。1969年ソウル大学校経営大学院修了。光復後、左翼が活発だった済州島でしばらく警察に籍を置いて、済州警察署通信課長・公報室長を務めたが、1947年に商工部鉱務局に移った。 1956年に大明鉱業開発の専務を務め、その後1958年5月2日に行われた第4代総選挙で初当選し国会議員となり、自由党院内副総務・院内総務を務めた。
伊達 邦春(だて くにはる、1922年3月26日 - 200… 伊達 邦春(だて くにはる、1922年3月26日 - 2000年4月24日)は、日本の経済学者。 東京出身。早稲田大学政治経済学部卒、同大学院経済学研究科修了。1950年早稲田大学政治経済学部専任講師。助教授、教授となり、1992年定年、名誉教授となる。1997年勲三等旭日中綬章受勲。
大木 正吾(おおき しょうご、1922年〈大正11年〉3月2… 大木 正吾(おおき しょうご、1922年〈大正11年〉3月26日 - 2004年〈平成16年〉3月17日)は、昭和から平成初期の労働運動家、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(2期)。 千葉県山武郡松尾町(現・山武市)出身。 1937年(昭和12年)東京浅草寿町郵便局勤務。その後、日本大学法律科に入るが、1943年(昭和18年)に中退し軍務に就いた。 1948年(昭和23年)全逓信従業員組合中央執行委員。1950年(昭和25年)日本電信電話公社関東電気通信局に移り、1953年(昭和28年)に全電通書記長になる。1958年(昭和33年)委員長に就任。1962年(昭和37年)総評幹事。1970年(昭和45年)から6年間事務局長を務めた。
益田義賀(ますだ よしか、1922年3月25日 - 2019… 益田義賀(ますだ よしか、1922年3月25日 - 2019年6月29日)は、日本の物理学者。 島根県出身。1949年大阪大学理学部物理学科卒、大学院に進み、1958年「金属カドミユウムの核磁気共鳴の研究」で理学博士。神戸大学理学部講師、助教授、1965年阪大基礎工学部助教授、1967年名古屋大学理学部教授、1985年定年退官、名誉教授、愛知学院大学教授を務めた。1998年勲三等旭日中綬章受勲。米国留学中に伊藤整と知り合いだった。低温物理が専門。
関口 武士(せきぐち たけし、1922年3月25日 - 19… 関口 武士(せきぐち たけし、1922年3月25日 - 1997年5月2日)は、日本の経営者。中央信託銀行社長を務めた。新潟県出身。 1947年に東京大学経済学部商業学科を卒業し、同年に東海銀行に入行。1962年6月に中央信託銀行に転じ、1971年5月に取締役に就任し、1973年11月に常務、1976年6月に専務を経て、1979年12月には社長に就任。1987年3月に会長に就任し、1993年6月に取締役相談役を経て、1995年6月には相談役に就任。 1986年11月に藍綬褒章を受章し、19954月に勲三等旭日中綬章を受章。 1997年5月2日に脳出血のために死去。75歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
大内 恒夫(おおうち つねお、1922年3月24日 - 20… 大内 恒夫(おおうち つねお、1922年3月24日 - 2018年2月8日)は、日本の裁判官。最高裁判所判事。位階は正三位。山形県出身。 1943年(昭和18年)東京帝国大学法科を卒業。同年司法官試補となる。東京地方裁判所判事、最高裁訴廷部などに勤務。再び裁判事務に就いた後、1964年(昭和39年)5月に最高裁秘書課長兼広報課長に就任。新聞記者との折衝も仕事の一つだが、懇切丁寧な大内の対応は記者から好評だった。後に最高裁経理局長となり、現最高裁庁舎の建設に参画した。78億円から126億円と膨らんだ建設予算獲得のために大蔵省との折衝をした。国家的事業と考え、法廷内に吸音板を張り巡らして静穏に工夫したり、天井の高い大法廷の暖房にエアカーテンを流すなど最新の注文をつけるなどした。
石田 博(いしだ ひろし、1922年3月24日 - 2002… 石田 博(いしだ ひろし、1922年3月24日 - 2002年12月16日)は、日本の経営者、元日本交通公社(JTB)社長。東京都小平市出身。官立旧制和歌山高等商業学校(現:和歌山大学経済学部)卒業
小堀 光詮(こぼり こうせん、1922年3月23日 - 20… 小堀 光詮(こぼり こうせん、1922年3月23日 - 2013年6月21日)は、天台宗三千院門跡第六十一世門主。大僧正。
二豊山 光良(にほうざん みつよし、1922年3月23日 -… 二豊山 光良(にほうざん みつよし、1922年3月23日 - 没年不明 )は、現在の大分県津久見市出身で立浪部屋、時津風部屋(当初は双葉山相撲道場)に所属した元大相撲力士。本名は金丸 光良(かねまる みつよし)。175cm、95kg。最高位は東十両8枚目。得意技は右四つ、上手投げ。 1938年1月場所に初土俵。出世は早くなかったが、1952年5月場所の幕下優勝を機に1953年1月場所に十両昇進。12場所連続で在位し、十両下位で4勝11敗と大きく負け越した1955年9月場所に廃業した。
花谷 和子(はなたに かずこ、1922年3月22日 - 20… 花谷 和子(はなたに かずこ、1922年3月22日 - 2019年6月11日)は、大阪府出身の俳人。旧姓・驪城(こまき)。 豊中市生まれ。1939年、大阪府立清水谷高等女学校(現・大阪府立清水谷高等学校)卒。1954年、「青玄」に入会、日野草城に師事。草城没後は伊丹三樹彦に師事した。1973年、「藍」を創刊、代表同人。1975年より同主宰。1986年、大阪府芸術功労賞、1994年、第43回現代俳句協会賞受賞。2011年、「藍」主宰を退き名誉主宰。 代表句に「宙という美しきもの雪舞えり」などがあり、やさしさや慈しみを湛えた句風である。句集に『ももさくら』『光は空へ』『五月の窓』がある。子の花谷清も俳人で現「藍」主宰。
林大造(はやし たいぞう、1922年3月21日 - 1979… 林大造(はやし たいぞう、1922年3月21日 - 1979年11月9日)は日本の大蔵官僚。国際金融局次長、国際金融局長などを歴任した。 東京府出身。旧制府立高等学校、東京帝国大学法学部法律学科卒業。1944年9月 大蔵省入省。銀行保険局属。1945年5月 金融局。1946年2月 銀行局。1947年4月 高等試験行政科を合格。1951年8月 甲府税務署長。外務省在ドイツ大使館、主税局国際租税課長などを経て、1966年8月1日 大臣官房調査課長。1967年7月25日 大臣官房調査企画課長。1968年6月25日 大臣官房審議官(大臣官房担当)。1970年6月25日 大臣官房審議官(国際金融局担当)。
森 みつ(もり みつ、1922年3月20日-1967年7月1… 森 みつ(もり みつ、1922年3月20日-1967年7月15日)は、日本の詩人。北海道出身。 幼い頃、事業に失敗した父と生別。札幌市立高等女学校(現北海道札幌東高等学校)を卒業し、教員を経て、北海道農業会、食糧公団などに勤務。1941年、処女作『雪の哀願』を更科源蔵の推薦で『北方文芸』に掲載。その後も北海道で太平洋戦争の敗戦まで同人誌『木雫』を発刊して作品を発表。1943年、詩集『花咲きぬ』を出版し高い評価を集める。この頃結婚して阿部姓を名乗るが夫は戦死。戦後は詩誌『至上律』『野性』『核』に参加。1952年再婚して森姓となり、夫の任地・日高管内の新冠町へ移り詩作を続ける。1960年、『北海道讃歌』の歌詞に応募。
寺田 精之(てらだ きよゆき、1922年3月20日 - 20… 寺田 精之(てらだ きよゆき、1922年3月20日 - 2009年7月13日)は、日本の合気道家。養神館合気道10段。 合気道の達人塩田剛三と共に、養神館合気道設立者の一人。晩年は主に神奈川県に拠点を置き、合気道の指導を行っていた。塩田剛三亡き後、養神館合気道の最高師範、最高顧問も務めた。
新谷 敬三郎(あらや けいざぶろう、1922年3月20日 -… 新谷 敬三郎(あらや けいざぶろう、1922年3月20日 - 1995年11月6日)は、日本のロシア文学者、早稲田大学名誉教授。 北海道小樽市色内町で生まれる(生家は漁網の卸し問屋)。1949年3月早稲田大学文学部露文科卒業。大学院に進んだのち1950年6月早稲田大学文学部副手、1954年小樽商科大学講師、1957年早稲田大学第一文学部・第二文学部専任講師、1960年早稲田大学助教授、1965年教授、1992年定年、名誉教授。ドストエフスキーが専門で、バフチンのドストエフスキー論を訳した。 1995年11月6日、胃癌のため小金井市の聖ヨハネ会桜町病院ホスピスにて死去。
東 銀之介(あずま ぎんのすけ、1922年3月20日 - 1… 東 銀之介(あずま ぎんのすけ、1922年3月20日 - 1997年11月16日)は、東京都世田谷区出身[要出典]の俳優。劇団3◯◯(さんじゅうまる)に所属していた。本名は、新妻東一。 若い頃は陸軍戦闘隊に入隊、戦前に3回墜落し、一命をとりとめたことがある。戦後は航空自衛隊のテストパイロットになり、定年で退官、その後も民間アクロバットチームを編成して飛行を続ける。妻の経営するおでん屋でアルバイトをしていた渡辺えり子と知り合ったのがきっかけで芝居に関心を持ち、1982年(昭和57年)渡辺主宰の劇団3◯◯公演で舞台に初出演した。 大森一樹監督作品に多く起用された。また、日本人の父とフランス人の母とのハーフのため外国人風の容姿であり、『ゴジラvsキングギドラ』、NHK連続テレビ小説『チョッちゃん』などの諸作品で外国人の役を演じる機会も多かった。
石橋 一弥(石橋 一彌、いしばし かずや、1922年〈大正1… 石橋 一弥(石橋 一彌、いしばし かずや、1922年〈大正11年〉3月19日 - 1999年〈平成11年〉3月5日)は、日本の政治家(自由民主党衆議院議員)。位階は従三位、勲等は勲一等。第1次海部内閣で文部大臣を務めた。東金市名誉市民。 千葉県山武郡公平村(現・東金市)出身。石橋家は代々名主・村長を務めてきた旧家の豪農で、父・弥は竹尾弌とともに農民運動にも関わり公平村長や県議会議員を務めた。日本農士学校(埼玉県農業大学校の前身のひとつ)に学び、昭和16年に同校を卒業、陸軍に入隊。 1952年に公平村長、1968年に東金市長に就任。1976年、千葉三郎の後継者として旧千葉3区から衆議院議員に初当選。
小野田 寛郎(おのだ ひろお、1922年3月19日 - 20… 小野田 寛郎(おのだ ひろお、1922年3月19日 - 2014年1月16日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は予備陸軍少尉。旧制海南中学校・久留米第一陸軍予備士官学校・陸軍中野学校二俣分校卒。和歌山県出身。 情報将校とし第二次世界大戦に従軍し遊撃戦(ゲリラ戦)を展開、第二次世界大戦終結から29年を経て、フィリピン・ルバング島から日本へ帰還した。その後は、メディアにつきまとわれた事もあり、戦後の日本への適応は困難であった。 大正11年(1922年)、和歌山県海草郡亀川村(現・海南市)にて父・小野田種次郎(県議会議員)、母・タマエ(教師)の間に小野田家の四男として生まれる。小野田家は海南市小野田の宇賀部神社の宮司を代々務める家柄で、寛郎の家はその分家。
上崎 暮潮(うえさき ぼちょう、本名:上崎 孝一、1922年… 上崎 暮潮(うえさき ぼちょう、本名:上崎 孝一、1922年(大正11年)3月19日 - 2013年(平成25年)11月6日)は、日本の俳人。日本伝統俳句協会四国支部長名誉理事。徳島県出身。 1947年、名古屋帝国大学(現在の名古屋大学)卒業。高浜虚子等に師事し、第二次世界大戦前より俳誌「ホトトギス」に作品を発表してきた。1946年に徳島県内俳誌の草分けの一つである「祖谷」創刊に携わり、1987年から主宰を務める。 1995年に句集「花鳥阿波」で徳島県出版文化賞、2002年に芦屋国際俳句祭で文部科学大臣賞、2007年に徳島新聞賞(文化賞)を受賞した。 日本伝統俳句協会四国支部長や理事を務めた後、2008年より名誉理事となる。
内藤 晋(ないとう すすむ、1922年〈大正11年〉3月18… 内藤 晋(ないとう すすむ、1922年〈大正11年〉3月18日 - 2007年〈平成19年〉8月11日)は、日本のスピードスケート選手。戦後のスピードスケート界を代表する人物の1人とされ、1951年(昭和26年)にスイスで開催された世界選手権で、日本新記録で優勝を飾った。その実績と将来性から、冬季オリンピックの代表選手に2度選ばれたが、戦争と自身の病気によりその2度とも出場の機会を失い、「不運のアスリート」とも呼ばれる。現役引退後はオリンピック日本代表選手のコーチとして、スケート界の発展に尽くした。 北海道札幌市出身。父の内藤芳雄は、幼少時、まだスケート靴が非常に高価だった時代より、我流でスケートを楽しんで技術を鍛え上げ、成人後は札幌スケート協会の幹事長を務めた。
田口 弘(たぐち ひろし、1922年3月18日 - 2017… 田口 弘(たぐち ひろし、1922年3月18日 - 2017年2月9日)は、日本の詩人。埼玉県東松山市の元教育委員会教育長。高村光太郎や高田博厚などの文化人と親交を持ち、東松山市の小中学校の校歌の作詞を多く手がけた。 「日本スリーデーマーチの育ての父」と言われ、また、東武東上線高坂駅前の高坂彫刻プロムナード(高田博厚彫刻群)建設のため尽力するなど、東松山市の教育と体育・文化・芸術に対する顕著な活動を行った。 1922年(大正11年)3月18日、埼玉県武州松山町(現:埼玉県東松山市松葉町)に生まれる。旧制松山中学校を経て、東京府大泉師範学校専攻科卒業。志村第三国民学校に赴任後、南西方面艦隊司令部付海軍教員として、フィリピンよりインドネシア・スラバヤ等に着任、終戦後プジョン、レンパン島収容所を経て復員。
野口 昇(のぐち のぼる、1922年(大正11年)3月18日… 野口 昇(のぐち のぼる、1922年(大正11年)3月18日 - 1945年(昭和20年))は、昭和前期に活躍した中等学校野球の選手、プロ野球選手。
谷岡 敏行(たにおか としゆき、1922年3月18日 - 1… 谷岡 敏行(たにおか としゆき、1922年3月18日 - 1953年12月13日)は日本の騎手。 1922年3月18日、競走馬の故郷、馬産地として名高い北海道日高郡新ひだか町静内神森(旧静内町)に、水田農業を営む父・谷岡倉太郎(一族は、1882年(明治15年)広島県大竹市より移住)と母・ナツ(一族は兵庫県淡路島より移住)の三男として生まれる。10人兄弟姉妹(兄2人、弟4人、姉1人、妹2人)の第4子である。 新ひだか町の有限会社谷岡牧場(1935年創業)、有限会社新和牧場(1994年創業)は本家にあたる。 静内尋常高等小学校を卒業時、静内町にある新冠御料牧場獣(現・家畜改良センター新冠牧場)吉住獣医師(稲葉幸夫の妹の夫)が、学校教室に来て騎手希望者を募ったところ、谷岡敏行が手を挙げ申し込んだ。
坂 松蔵(ばん まつぞう、1922年3月17日 - 2004… 坂 松蔵(ばん まつぞう、1922年3月17日 - 2004年2月12日)は、日本の実業家。大成建設の副社長、海外法人の社長などを務めた。 滋賀県長浜市出身。1939年に県立長浜商業学校を卒業し、1941年12月に彦根高等商業学校(滋賀大学経済学部)を卒業した。1942年、大成建設に入社した。 入社後は主に経理・財務部門を歩み、同社の経理部経理課長、財務部資金課長などを務めた。大成海外建設の取締役・事務本部長も務めており、大成建設の海外事業に関わる管理部門も担当していた。 1979年に大成建設の取締役に就任した。その後、同社取締役・人事部長を務めた。1983年時点では常務・管理本部長となり、管理部門全般を管掌した。
北畑 静子(きたはた しずこ、1922年〈大正11年〉3月1… 北畑 静子(きたはた しずこ、1922年〈大正11年〉3月17日 - 1990年〈平成2年〉7月13日)は、日本のロシア児童文学の翻訳家。 福島県相馬郡原町()(現・南相馬市原町区)生まれ。本名・静()。父は逓信省無線電信技師の北畑平五郎(1894年 - 1944年)。3歳のとき父の転勤に伴い東京府荏原郡大井町へ転居して、以降少女時代を過ごす。品川区立原小学校を経て、1939年3月普連土女学校卒業。GHQ民事検閲局を経て、1953年1月28日国立国会図書館に勤務。司書となり、勤務の傍ら日ソ学院に通いロシア語を学ぶ。雑誌に短編を翻訳して以来、ソ連やチェコスロバキアの児童文学を紹介。1979年同人の一人として同人誌『イワン』(露: Иванушка)創刊、主宰者の役割を果たす。
佐川 清(さがわ きよし、1922年3月16日 - 2002… 佐川 清(さがわ きよし、1922年3月16日 - 2002年3月11日)は、日本の実業家。佐川急便株式会社の元社主(初代社長・会長)である。 新潟県中頸城郡板倉村(板倉町を経て、現在の上越市板倉区)の旧家に生まれる。有恒学舎に学んだのち、家業に従事した。1948年に建設業「佐川組」を設立し、建設会社の経営などを経て、1957年に自転車2台を使って妻と2人で運送業を創業した。中小企業の小口貨物に狙いを定めて得意先を開拓し、1966年に「佐川急便」株式会社に改組した。 日曜集配などの迅速な配達や運転手の集金担当など運送業の革命的な発想で高収益を上げ、各地の運送業者の吸収合併や新会社の設立で全国進出を図り、1977年に全国ネットワーク網を完成させた。