織田 敏次(おだ としつぐ、1922年3月16日 - 201… 織田 敏次(おだ としつぐ、1922年3月16日 - 2012年9月19日)は、日本の医学者(内科学)。勲等は勲一等。学位は医学博士(東京大学・1955年)。東京大学名誉教授、国立病院医療センター名誉院長、日本赤十字社医療センター名誉院長、日本学士院会員、文化功労者。 東京大学医学部教授などを歴任した。 石川県金沢市出身の医学者である。血清肝炎がB型肝炎ウイルスの感染に起因することを究明したことで知られている。その後、B型肝炎ウイルスのワクチンの調製に成功した。さらに、B型肝炎ウイルスの母子感染の阻止にも尽力した。東京大学医学部にて教鞭を執り、後進を育てた。 1922年3月16日生まれ、石川県金沢市出身。
園池 実覧(そのいけ さねみ、1922年3月16日 - 20… 園池 実覧(そのいけ さねみ、1922年3月16日 - 2014年6月9日)は、東京府出身の応用物理学者。工学博士、中央大学名誉教授、応用物理学会功労会員、中央大学名誉評議員、霞会館会員。長男は園池家現当主園池公毅。 子爵園池公致の長男として東京市四谷区信濃町に生まれ育つ。 1945年、東京大学工学部機械工学科卒業。 1951年、東京大学大学院応用物理特別研究生後期修了。 1952年、東京大学工学部応用物理学科講師。 1953年、中央大学工学部教養物理助教授。 1960年、中央大学工学部教授。 1962年、中央大学理工学部物理学科教授。 1964年、応用物理学会理事。 1968年、応用物理学会評議員。
鞠 快男(クク・クェナム、朝鮮語: 국쾌남、1922年3月1… 鞠 快男(クク・クェナム、朝鮮語: 국쾌남、1922年3月16日 - 2007年11月15日)は、大韓民国の実業家、政治家。忠武路にある映画館の大韓劇場(朝鮮語版)の設立者。第4代韓国国会議員。 本貫は潭陽鞠氏。号は白雪(ペクソル、백설)。15歳年下の弟の鞠鍾男は第14代国会議員、長男の鞠井本は1981年に大韓劇場の経営を継承した。 全南潭陽出身、4男2女中の長男である。早稲田大学法学部卒。軍政庁通訳官、ソングァン商事取締役、世紀商事代表、世紀航空(朝鮮語版)代表などを務めた。 1958年8月に映画館を運営する会社である世紀商事を設立し、1960年代に大韓劇場を引き継いだ以降に事業は着実に発展した。
田辺昇一(たなべ しょういち、1922年3月15日 - 20… 田辺昇一(たなべ しょういち、1922年3月15日 - 2015年12月22日)は、日本の経営コンサルタント。タナベ経営(現:タナベコンサルティンググループ)の創業者・名誉会長。 福井県小浜市出身。1945年東北帝国大学工学部航空力学科卒。成瀬政男に師事。岡田金属工業勤務、京都能率協会理事を経て、田辺経営相談所を設立、のちタナベ経営とし、社長。経営コンサルタント。
広瀬 習一(ひろせ しゅういち、1922年〈大正11年〉3月… 広瀬 習一(ひろせ しゅういち、1922年〈大正11年〉3月15日 - 1944年〈昭和19年〉9月13日)は、滋賀県出身のプロ野球選手(投手)。戦前期に巨人軍で活躍した。 1934年、12歳のとき、地元の琵琶湖を横断する遠泳大会で14㎞を泳ぎ切って大評判となる。 1935年に大津商業に入学。1938年の夏の甲子園の県予選では外野手として出場するが、準決勝で膳所中学に敗退する。1939年正月の京滋中等対抗野球大会では、初めて対戦した神田武夫を擁する京都商業に完敗するが、前年の夏の甲子園を制した平安中学を破りって2勝1敗となり、大津商業として初の春の甲子園大会に選ばれる。甲子園では1回戦で小倉工業と対戦、広瀬は一番・遊撃手を務めるが、緊張のせいか無安打2失策と奮わず、チームも1-3で敗れた。
中橋 敬次郎(なかはし けいじろう、1922年3月14日 -… 中橋 敬次郎(なかはし けいじろう、1922年3月14日 - 1994年6月17日)は、日本の官僚。国税庁長官を務めた。 石川県出身。1944年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に大蔵省に入省。主計局属。1949年6月に芦屋税務署長。その後は主税局税制第一課長などを務める。1967年8月4日に主税局総務課長(同年8月11日までは主税局税制第一課長、同日から8月18日までは主税局税制第二課長を兼ねる)。1968年6月25日に大臣官房文書課長。1970年6月25日に大臣官房審議官(銀行局担当)。1971年7月1日に大臣官房審議官(主税局担当)。1972年6月27日に東京国税局長。 1973年6月26日に大臣官房長。
吉川 虎雄(よしかわ とらお、1922年3月14日 - 20… 吉川 虎雄(よしかわ とらお、1922年3月14日 - 2008年8月19日)は、日本の地球科学者(地形学)。学位は、理学博士(東京大学)。東京大学名誉教授。第6次南極地域観測隊隊長。 海成段丘が、氷河性海面変動と隆起運動の結果で、形成されることをしめした論文は、日本の第四紀研究、地形学を大きく前進させた。また、日本の山地地形の研究において、地殻変動と侵食との量的な検討を行い、日本の地形の特徴を「湿潤変動帯」と表現した。これは、明治期以降日本の地形学の中心概念であったウィリアム・モーリス・ディヴィスの「侵食輪廻説」と大きく異なり、日本の山地の認識を大きく変えるものであった。
仮谷 志良(かりや しろう、1922年(大正11年)3月13… 仮谷 志良(かりや しろう、1922年(大正11年)3月13日 - 1997年(平成9年)9月2日)は、日本の政治家。和歌山県出身。和歌山県知事を5期務めた。 1922年(大正11年)3月13日、和歌山県西牟婁郡串本町(現・東牟婁郡串本町)で生まれる。1947年(昭和22年)に京都帝国大学法学部を卒業し、1949年(昭和24年)に和歌山県庁に入庁した。1959年(昭和34年)に土木部次長、1963年(昭和38年)に経済部長、1967年(昭和42年)10月16日には出納長に就任している。1975年(昭和50年)に副知事となった。 同年10月4日の和歌山県知事・大橋正雄の急逝を受けて行われた和歌山県知事選挙に立候補して当選。
川村 克己(かわむら かつみ、1922年3月13日- 200… 川村 克己(かわむら かつみ、1922年3月13日- 2007年6月14日)は、日本のフランス文学者。立教大学名誉教授。 東京生まれ。1934年(昭和9年)、津久戸小学校を卒業。 1945年(昭和20年)東京帝国大学文学部仏文科卒業後、助手を経て、立教大学文学部助教授、教授、1988年(昭和63年)定年、名誉教授。 立教大学退職後は、新潟産業大学副学長を務めた。 1989-93年日本フランス語フランス文学会会長を務めた。 子に国文学者の川村裕子。
嘉瀬 誠次(かせ せいじ、1922年〈大正11年〉3月13日… 嘉瀬 誠次(かせ せいじ、1922年〈大正11年〉3月13日 - 2023年〈令和5年〉12月14日は、日本の花火師。 戦時中途絶えていた長岡大花火大会の復興に尽力し、また海外活動を積極的に行った。第50回吉川英治文化賞受賞など。 現・新潟県長岡市に生まれる。父・嘉瀬誠喜、祖父・亀吉も花火製造に携わっており、煙火業として三代目にあたる(亀吉は農業との兼業)。 1943年 (昭和18年) 4月10日、新発田歩兵第158連隊に入隊。同連隊は第42師団に編入され 、翌1944年 (昭和19年) 3月3日に松輪島上陸、同島防衛の任に就く。 終戦後、シベリア抑留を経て1948年 (昭和23年) 復員。
和田 寿郎(わだ じゅろう、1922年3月11日 - 201… 和田 寿郎(わだ じゅろう、1922年3月11日 - 2011年2月14日)は、日本の心臓血管外科医。札幌医科大学名誉教授。ワダ弁(人工心弁)の開発や、後に「和田心臓移植事件」として様々な疑惑が浮上する日本初の心臓移植手術を執刀したことで有名な医師。
吉田 漱(よしだ すすぐ、1922年3月11日 - 2001… 吉田 漱(よしだ すすぐ、1922年3月11日 - 2001年8月21日)は、日本の歌人、美術史家。筆名・利根光一。美術史、特に浮世絵に関する研究書で知られる。 東京府で彫刻家の吉田久継の長男として生まれる。1941年、東京美術学校油絵科に入学。1943年、学徒出陣により中国大陸中部を転戦。復員後の1947年に東京美術学校を卒業。同年、アララギ歌会に出席し土屋文明に入門。1948年、アララギの若手集団「芽」に参加。1951年、近藤芳美を中心とする歌誌『未来』の創刊に参加、編集を担当するなど、同誌のの推進的リーダーとなる。青年歌人会議、東京歌人集会、定型詩の会にも参加して、現代短歌運動を推し進めた。
正野 三郎(しょうの さぶろう 1922年(大正11年)3月… 正野 三郎(しょうの さぶろう 1922年(大正11年)3月10日 - )は埼玉県与野市(現さいたま市)出身の実業家・文筆家。 知己であった与野市議会議員(のちに埼玉県議会議員)の井原弥一郎(元与野市長・井原勇の実兄)と共に食品スーパーマーケット経営の(株)与野フードセンターを創業。 与野フードの専務や社長・会長等を歴任する一方で、日本全国の中小スーパーを組織化。ボランタリーチェーンである協同組合セルコチェーン(全国セルコグループ)を設立し20年近く代表を務めた他、全国スーパーマーケット協会の副理事長も務めた。 現役の経営トップだった時代だけではなく経営の一線から退いた後も文筆活動に精力的に取り組み、食品小売業の経営哲学や井原弥一郎初代社長・与野フード従業員らとのエピソード等を多く含んだ与野フード社史も兼ねた自伝・回顧録や、少年時代の円阿弥(えんなみ)地域での思い出を基に執筆した児童書など5冊の書籍を出版した。
藤井幸雄(ふじい ゆきお、1922年3月10日 - 1997… 藤井幸雄(ふじい ゆきお、1922年3月10日 - 1997年7月20日)は、日本の気象学者。 北海道帯広市出身。1942年中央気象台附属気象技術官養成所(現気象大学校)本科卒、中央気象台に入り、気象庁予報課、気象研究所に勤務、応用気象研究室長。そのかたわら東京医科歯科大学で学び、1980年「食中毒発生の気象学的考察」で医学博士号を取得した。インテルハーツ生気象事業部長、エンペックス気象計 (株) 開発部勤務。 1997年7月20日、拡張型心筋症のため死去。
愛知山 春雄(あいちやま はるお、1922年3月10日 - … 愛知山 春雄(あいちやま はるお、1922年3月10日 - 1986年10月22日)は、愛知県幡豆郡一色町(現・西尾市)出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は高橋 春長(たかはし はるなが)。最高位は東前頭4枚目(1947年6月場所)現役時代の体格は172cm、105kg。得意手は右四つ、寄り、下手捻り、頭捻りなど。孫は知立を拠点に活動をしているラッパー、ビートメイカーのC.O.S.A.。 16歳の時に上京し、元小結・緑嶋が率いる立浪部屋へ入門。1938年5月場所で初土俵を踏んだ。 当初から故郷の愛知県に因んだ「愛知山」の四股名で相撲を取り、廃業まで1度も改名する事は無かった。 序ノ口に付いて以来、順調に出世し、1944年5月場所で新十両に昇進。
松葉 昇(まつば のぼる、1922年3月9日 - 1995年… 松葉 昇(まつば のぼる、1922年3月9日 - 1995年10月26日)は、和歌山県出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。1947年から1948年の登録名は旧姓の朝井昇。
前田純敬(まえだ すみのり、1922年3月9日-2004年2… 前田純敬(まえだ すみのり、1922年3月9日-2004年2月10日)は、日本の小説家。 鹿児島県平之町生まれ。東京外国語学校(現東京外国語大学)フランス語科卒業。在学中から『四季』などに詩を発表、太平洋戦争後、島尾敏雄のすすめで富士正晴らの同人誌『VIKING』に参加。1949年「夏草」で第22回芥川龍之介賞候補、『文藝春秋』に掲載される。その後筆を折り、『Cahier』に所属。ほか翻訳もした。息子は放送作家の松本尚久(和田尚久)。
金 重業(キム・ジュンオプ、ハングル: 김중업、1922年3… 金 重業(キム・ジュンオプ、ハングル: 김중업、1922年3月9日 - 1988年5月11日)は、大韓民国の建築家である。 1922年3月9日誕生。本貫は延安金氏(朝鮮語版)。父は金永弼、母は李英子であり、5男2女の家族の次男として生まれた。父は郡守であり、幼少期は江東・中和・成川などを転々とした。平壌の高校を卒業したのち横浜高等工業学校(現・横浜国立大学工学部)にて中村順平に師事し、ボザール様式建築を学んだ。1941年に同校を卒業したのち、松田平田設計にて3年勤務した。1944年に帰国したのち、朝鮮住宅営団(朝鮮語版)、朝鮮飛行機製作株式会社などを経て、1947年にはソウル大学校の助教授となった。
河合 凱夫(かわい がいふ、1922年3月8日 - 1999… 河合 凱夫(かわい がいふ、1922年3月8日 - 1999年7月29日)は、埼玉県出身の俳人。本名・由男、旧姓・戸張。別号に鳴弦楼。 北葛飾郡三輪野江村(現吉川市)生まれ。小学校時代、担任の導きで「桜草」に入会し岡安迷子の指導を受ける。1936年、千葉県立野田農学校(現在の千葉県立清水高等学校)在学中に「南柯」(渡辺志豊主宰)野田支部の句会に参加。1940年、戸張錦秋の名で「南柯」同人となる。のち上京して日本専売公社に勤めながら中央大学夜間学部に通い、「南柯」芝支部を結成して支部長となる。1942年専売公社を退職、大学も中退し陸軍予備士官学校に進む。 戦後は「野ぶどう」を主宰、「花俳句」(高梨花人主宰)や「東虹」(大野我羊主宰)を経て1963年に中島斌雄の「麦」入会、1965年同人。
水木 しげる(みずき しげる、男性、1922年[注 1]3月… 水木 しげる(みずき しげる、男性、1922年[注 1]3月8日 - 2015年11月30日)は、日本の漫画家。文化功労者、傷痍軍人。本名は武良 茂(むら しげる)。
琴錦登(ことにしき のぼる、本名:藤村登、1922年3月7日… 琴錦登(ことにしき のぼる、本名:藤村登、1922年3月7日 - 1974年7月14日 )は、香川県観音寺市出身で二所ノ関部屋所属の大相撲力士。身長177cm、体重120kg。得意手は右四つ、寄り、とったり。最高位は東小結。現役引退後は佐渡ヶ嶽部屋を興し、横綱琴櫻たちを育てた。
山田 晶(やまだ あきら、1922年〈大正11年〉3月7日 … 山田 晶(やまだ あきら、1922年〈大正11年〉3月7日 - 2008年〈平成20年〉2月29日)は、日本の哲学研究者で、西洋中世哲学研究の第一人者であった。京都大学名誉教授。 長野県諏訪市出身。長野県立諏訪中学校(現:長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)、第八高等学校文科乙類を経て、1944年(昭和19年)京都帝国大学文学部哲学科卒業、山内得立に師事。翌年まで徴兵された。 1951年(昭和26年)大阪市立大学文学部講師、1955年(昭和30年)同助教授、1965年(昭和40年)京都大学文学部助教授、1968年(昭和43年)同教授、1976年(昭和51年)同大文学部長。1985年(昭和60年)京大を停年退官、名誉教授。
石井 淑普(いしい よしなみ、1922年(大正11年)3月7… 石井 淑普(いしい よしなみ、1922年(大正11年)3月7日 - 1999年(平成11年)10月3日 )は、日本の陸軍軍人。インドネシア独立の英雄の一人。インドネシア名はサトゥリア。 佐賀県において陸軍将校の一人息子として生まれる。父は後に満州国陸軍の中将をつとめた。1943年(昭和18年)10月、学徒出陣に伴い拓殖大学商学部を繰り上げ卒業。拓殖大学在学中、大川周明のゼミに所属し、大アジア主義について学ぶ。 その年の12月、陸軍久留米工兵隊(西部第52部隊)に入隊し、間もなく、陸軍特別操縦見習士官(三期)を経て、陸軍少尉に任官し、インドネシアに進駐。 1945年(昭和20年)8月15日、インドネシアで終戦を迎えたが、日本に復員することなく、軍を離脱し、インドネシア独立義勇軍に参加し、インドネシア独立戦争に身を投じる。
村井 実(むらい みのる、1922年3月6日 - 2024年… 村井 実(むらい みのる、1922年3月6日 - 2024年10月18日)は、日本の教育学者。慶應義塾大学名誉教授。 佐賀県東松浦郡北波多村芳谷炭鉱(現:唐津市)の商店で7人兄妹の長男として生まれる。旧制唐津中学、広島高等師範学校英語科を経て、1944年広島文理科大学教育学科卒業。長崎青年師範学校助教授、同時に東部四六部隊の見習士官で終戦。1961年「教育的思惟の性格 ソクラテス研究」で広島大学より文学博士の学位を取得。 1948年慶應義塾大学文学部講師、1949年助教授、1961年教授、1962-66年慶應義塾女子高等学校校長、1987年定年、名誉教授、大東文化大学教授。ハーバード大学、テュービンゲン大学、ケルン大学、プリンストン高等研究所などの欧米の大学・研究所で教育哲学・思想史の研究を行った。
青木 昌治(あおき まさはる、1922年3月6日 - 199… 青木 昌治(あおき まさはる、1922年3月6日 - 1991年9月29日)は、日本の電子工学者。 東京出身。東北帝国大学理学部物理学科卒業。1960年7月より東京大学工学部電子工学科助教授、1963年6月より教授を務め、1982年に定年退官。その後、東京理科大学工学部電子工学科の教授を務めた。第12期日本学術会議会員。 1940年代末以降、熱電変換素子の研究で顕著な業績を挙げた。東京大学工学部電子工学科では化合物半導体の発光ダイオードの材料の研究を進めた。 1991年9月29日、甲状腺癌のため死去。
深見 けん二(ふかみ けんじ、1922年3月5日 - 202… 深見 けん二(ふかみ けんじ、1922年3月5日 - 2021年9月15日)は、福島県出身の俳人。本名は謙二。 高玉鉱山(現・郡山市)に生まれる。父の転勤で東京に移り、府立第五中学校を経て東京帝国大学工学部冶金科を卒業。卒業後は東大冶金科研究室勤務を経て日本鉱業入社。日興エンジニアリング勤務。 高校時代の1941年より高浜虚子に師事、20歳の頃に深川正一郎の指導を受ける。大学卒業後「ホトトギス新人会」を結成。1952年より山口青邨にも師事し、1953年に青邨の「夏草」同人。1959年に「ホトトギス」同人。1989年、「珊」創刊同人。1991年、「Fの会」を土台として「花鳥来」を創刊、主宰。 1992年、句集『花鳥来』で第31回俳人協会賞を受賞。
松濤 明(まつなみ あきら、1922年〈大正11年〉3月5日… 松濤 明(まつなみ あきら、1922年〈大正11年〉3月5日 - 1949年〈昭和24年〉1月6日)は日本の登山家。
上柳 克郎(うえやなぎ かつろう、1922年3月5日 - 2… 上柳 克郎(うえやなぎ かつろう、1922年3月5日 - 2007年12月7日)は、日本の法学者。専門は商法。学位は、法学博士(京都大学・論文博士・1989年)。京都大学名誉教授。1998年日本学士院会員。勲等は勲二等。京都帝国大学法学部助教授、京都大学法学部教授、京都大学法学部学部長、大阪学院大学法学部教授、大阪学院大学法学部学部長などを歴任。大隅健一郎門下。 1922年(大正11年)生まれの法学者である。専門は商法であり、学位論文「商法の基礎的研究」にて1989年に法学博士の学位を取得した。1980年に『会社法・手形法論集』を有斐閣より上梓したことで知られている。また、1999年には『商事法論集』を有斐閣より上梓した。
永野 賢(ながの まさる、1922年3月5日 - 2000年… 永野 賢(ながの まさる、1922年3月5日 - 2000年10月3日)は、日本の国語学者。山本有三研究家、東京学芸大学名誉教授。 千葉県生まれ。1944年に東京帝国大学国文科を卒業。同国語研究室副手、同大学院特別研究生、1949年に国立国語研究所所員、1966年頃に東京学芸大学助教授、のち教授。1985年に定年退官、名誉教授。山本有三は妻の父である。 国語教育、文法、国語学史などの研究をおこない、1980年から「山本有三評伝」を『解釈と鑑賞』に連載し、1983年に完結。1987年『山本有三正伝 上』を刊行したが、「下」は未完に終わった。 1953年に論文「表現文法の問題:複合辞の認定について」を『金田一博士古稀記念言語民族論』に寄稿、「複合辞」という概念を提起し、学界の関心を寄せた。
藤井清(ふじい きよし、1922年3月5日 - 2012年1… 藤井清(ふじい きよし、1922年3月5日 - 2012年1月15日)は、日本の物理学者。和光大学学長を務めた。 東京生まれ。1942年東京高等師範学校理科第二部卒、1945年東京文理科大学理学部物理学科卒、1950年同研究生後期修了、東京教育大学附属高等学校教諭・教頭をへて、1968年和光大学経済学部助教授、72年教授。81-93年学長となる。92年名誉教授、97年理事長。
山田 達雄(やまだ たつお、1922年3月5日 - 1980… 山田 達雄(やまだ たつお、1922年3月5日 - 1980年6月6日)は、日本の映画監督、脚本家である。 1922年(大正11年)3月5日、兵庫県神戸市に生まれる。立教大学卒業。 京都の映画界に入り、伊藤大輔監督の門下となり助監督を務める。1947年(昭和22年)、新東宝で助監督となる。1950年(昭和25年)、中川信夫監督の『アマカラ珍騒動』等でチーフ助監督を務めた。 1956年(昭和31年)、監督に昇進し、嵐寛寿郎主演の『剣豪相馬武勇伝 檜山大騒動』で監督としてデビューした。1961年(昭和36年)の同社の倒産までに22本を監督した。1960年12月公開の『東海道非常警戒』について、映画評論家の水野和夫は、「脱出という主題を具体的な速度感で映像化して行くクライマックスのカット・バックは山田達雄監督自身が堕落した現代映画の枠から脱出するかのごとく見事」であり、「日本映画界の底辺にあると思われている人たちが、実は最も力をこめて日本映画の土台をかためていることを再認識して、僕は激しい感動を禁じえなかった。
北原 鉱治(きたはら こうじ、1922年〈大正11年〉3月5… 北原 鉱治(きたはら こうじ、1922年〈大正11年〉3月5日 - 2017年〈平成29年〉8月9日)は、日本の市民運動家、社会運動家、元政治家、活動家。三里塚芝山連合空港反対同盟(北原派)事務局長であった。 1922年に、千葉県佐倉市田町で、呉服商の次男として誕生する。 保善中学校を中退後、日本光学(現・ニコン)に就職した後、1942年に大日本帝国海軍へ志願制度で入隊する。横須賀海兵団・工機学校を経て駆逐艦「松風」や第四号海防艦に乗務。なお「松風」では、後に反対同盟副委員長となる小川明治が乗務しており、上官であったが同郷人であったため知遇を得る。空襲によって第四号海防艦が三重県鳥羽港沖で沈没した後は、横須賀海兵団第四分隊配属の指令を受け、艦載機の攻撃を受けながらも汽車で神奈川県横須賀市へ移動した。
小森 敏之(こもり としゆき、1922年(大正11年)3月5… 小森 敏之(こもり としゆき、1922年(大正11年)3月5日 - 1981年(昭和56年)11月8日)は、日本の実業家である。丸大食品の創業者として知られた。 香川県高松市に小森保とその妻のかずえの間に長男として生まれる。今宮第五尋常高等小学校卒業後、証券会社であった不破商店に勤務した。後に水産物加工業務に携わり、1954年(昭和29年)には大阪市内で魚肉ハム及びソーセージの工場の創設、経営に携わった。小森はその工場名を「丸大食品」と称し、1958年(昭和33年)に株式会社化された。 1961年(昭和36年)には、同社で製造されたハムやソーセージにおける独自の小売店への販売システムを導入し、パートタイム労働者への育成に貢献した。
古川 清蔵(ふるかわ せいぞう、1922年3月4日 - 20… 古川 清蔵(ふるかわ せいぞう、1922年3月4日 - 2018年10月17日)は、鹿児島市下荒田町出身のプロ野球選手(外野手、1942年のみ捕手)・競馬評論家。 鹿児島二中から、鹿児島商業学校に進学、八幡製鉄を経て、赤嶺昌志の勧誘で1941年に名古屋に外野手として入団。 捕手を務めていた三浦敏一、服部受弘が2人とも応召されてしまったため、1942年は開幕から捕手として起用される。5月12日の対南海軍戦で川崎徳次からサヨナラ本塁打を放つと、5月24日の大洋戦では、2点ビハインドの9回に野口二郎から同点本塁打を放っている。この試合はそのまま延長戦に入り、当時世界最長の延長28回の末、4対4で引き分けている。
小池 澄(こいけ きよし、1922年 <大正11年> 3月4… 小池 澄(こいけ きよし、1922年 <大正11年> 3月4日 - 2006年 <平成18年> 2月22日)は、日本の経営者。名古屋鉄道副社長、名鉄百貨店社長を務めた。位階は正五位。 愛知県出身。1946年に京都帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に名古屋鉄道に入社。1966年11月に取締役に就任し、常務、専務、代表取締役を経て、1978年6月に副社長に就任。1980年6月から1993年6月までに取締役相談役を務めた。 一方で、1979年5月に名鉄百貨店副社長に就任し、同年11月には社長に昇格。1995年5月に会長に就任し、1999年5月に取締役相談役を経て、2001年5月には相談役に就任。 1978年6月に運輸大臣表彰を受け、1982年11月に藍綬褒章を受章し、1992年4月に勲三等瑞宝章を受章。
宇野政雄(うの まさお、1922年3月4日 - 2009年4… 宇野政雄(うの まさお、1922年3月4日 - 2009年4月27日)は、日本の経営学者。早稲田大学名誉教授。日本学術会議会員。 商品学、流通機構、消費者問題などを早くから手がけた。 東京(現目黒区)出身。1943年早稲田大学商学部卒。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、同年9月、海軍経理学校に入校。1944年3月、経理学校を卒業し、海軍主計中尉に任官。広島監督官事務所に配属され、原価計算、会計監査など軍需工場の指導に従事。1945年3月、主計大尉に進み終戦を迎えた。1946年早稲田大学商学部講師、49年同商学部助教授、53年同教授。同社会科学研究所長、システム科学研究所長。92年定年、名誉教授、城西国際大学経営情報学部教授、学部長。
安倍 北夫(あべ きたお、1922年3月3日 - 2013年… 安倍 北夫(あべ きたお、1922年3月3日 - 2013年8月6日)は、日本の社会心理学者。東京外国語大学名誉教授。 青森県生まれ。旧制東京高等学校を経て、東京帝国大学文学部心理学科を卒業。東京外国語大学助教授、1964年教授。1985年定年退官、名誉教授。早稲田大学文学部教授、聖学院大学政治経済学部政治経済学科教授を経て1994年から1999年まで聖学院大学学長。地震・火事などに当たっての災害心理学を提唱した。2013年8月6日死去、91歳没。 1998年4月 勲三等旭日中綬章を受章
田辺 博通(たなべ ひろみち、1922年3月3日 - 201… 田辺 博通(たなべ ひろみち、1922年3月3日 - 2010年2月24日)は、日本の官僚。
梅垣 洋一郎(うめがき よういちろう、1922年3月3日 -… 梅垣 洋一郎(うめがき よういちろう、1922年3月3日 - 2010年1月2日)は、日本の医師、医学者。専門は放射線医学。日本の放射線治療の発展に貢献した。 1945年東京帝国大学医学部医学科卒業。同大医学部放射線科助手、癌研究会付属病院放射線科医員(塚本憲甫に師事)、千葉大学医学部放射線科助教授を経て、1958年信州大学医学部放射線科教授に就任。1962年に国立がんセンターの初代総長であった田宮猛雄に乞われて初代放射線診療部長に就任、在任中に池田勇人首相(当時)の下咽頭がんの診療にも従事した。その後も放射線医学総合研究所臨床研究部長、癌研究会付属病院放射線科部長などを歴任。日本学術会議第13期会員。
野田 春彦(のだ はるひこ、1922年3月3日 - 2021… 野田 春彦(のだ はるひこ、1922年3月3日 - 2021年3月7日)は、日本の生物物理化学者。東京大学名誉教授。 東京出身。1943年東京帝国大学理学部化学科卒、海軍技術将校。1958年東京大学より理学博士の学位を取得。1946年東京帝国大学理学部助教授、東京大学教授、82年定年退官、名誉教授、電気通信大学教授、1985年放送大学教授、創価大学教授。
西内 文夫(にしうち ふみお、旧姓・平井、1922年3月2日… 西内 文夫(にしうち ふみお、旧姓・平井、1922年3月2日 - 2001年8月23日)は、日本の陸上競技選手。 香川県丸亀市広島町出身。丸亀商業学校(現:丸亀城西高校)、中央大学卒。 1951年、インドのニューデリーで開催された第1回アジア競技大会十種競技で金メダルを獲得(記録:6324点)。1954年、フィリピンのマニラで開催された第2回アジア競技大会では銀メダルを獲得した(記録:5429点)。 日本陸上競技選手権大会では1950年から1953年まで四連覇を達成。 その後、母校の中央大学陸上競技部監督に就任し、東京箱根間往復大学駅伝競走で8回優勝した。 2001年8月23日、急性心不全のため死去。
小尾俊人(おび としと、1922年3月2日 - 2011年8… 小尾俊人(おび としと、1922年3月2日 - 2011年8月15日)は、日本の書籍・出版編集者。 長野県茅野市出身。羽田武嗣郎の出版社「羽田書店」の社員だったが、1945年に独立、山崎六郎、清水文男らとみすず書房を創業、編集長として「現代史資料」「荻生徂徠全集」などを編さん。1990年定年退職。
カズオ・ナカモト(中本 一男、1922年3月1日 - 201… カズオ・ナカモト(中本 一男、1922年3月1日 - 2011年6月7日)は、日本出身のアメリカ合衆国の化学者。専門は赤外分光およびラマン分光。イリノイ工科大学教授、マーケット大学(英語版)教授。 結晶構成分子の伸縮振動の周波数と水素結合距離の相関図であるNakamotoダイアグラムにその名を残す。 1922年3月1日に神戸市で生まれた。1945年に大阪帝国大学理学部を卒業、1953年に同大学大学院理学研究科を修了し、理学博士号を取得した。 大阪大学の助教を4年間務めるが、その内の1953年から1955年の最初の2年間をフルブライト奨学金を得て博士研究員としてアイオワ州立大学で過ごした。その後、日本に戻り1955年から1957年までを大阪大学で過ごした。
神門 至馬夫(ごうど しまお、1922年(大正11年)3月1… 神門 至馬夫(ごうど しまお、1922年(大正11年)3月1日 - 1974年(昭和49年)12月11日)は、昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員。 島根県邑智郡川戸村(桜江村、桜江町を経て現江津市)で生まれる。江津町小学校高等科を卒業し、1937年(昭和12年)鉄道省に入省。1941年(昭和16年)広島鉄道教習所機関士科を卒業し機関士として乗務。 戦後、日本国有鉄道浜田機関区で勤務。1950年(昭和25年)国鉄労働組合の専従となり、国労米子地方本部書記長、同委員長、島根県労働組合協議会議長、同事務局長、島根県農民協議会副会長、島根県労働委員、島根県労働基準審議会委員などを務めた。 小瀧彬の死去に伴い1958年(昭和33年)7月に実施された第4回参議院議員通常選挙・島根県地方区補欠選挙に出馬して落選。
野中 庸(のなか いさお、1922年3月 - )は、日本の内… 野中 庸(のなか いさお、1922年3月 - )は、日本の内務・警察官僚。京都府出身。 東京帝国大学法学部卒業後、高等試験に合格し、1945年に内務省入省。1947年に内務省警保局に勤務。1948年に国家地方警察三重県本部警務部長兼教養課長、1949年に国家地方警察三重県本部警備部長兼警備課長、1952年に国家地方警察本部警備部警ら交通課課長補佐、1954年に兵庫県警察本部刑事部捜査第二課長、1955年に静岡県警本部警務部長、1958年に警察庁警備局警備第一課理事官、1962年に滋賀県警本部長、1964年に警察庁中部管区警察局総務部長、1965年に警察庁近畿管区警察局管区警察学校長、1967年に公安調査庁調査第二部第二課長、1969年に近畿管区警察局公安部長、1970年に長野県警本部長を歴任。
川島 廣守(かわしま ひろもり、1922年(大正11年)2月… 川島 廣守(かわしま ひろもり、1922年(大正11年)2月27日 - 2012年(平成24年)12月9日)は、日本の官僚。第10代プロ野球コミッショナー、第3代セントラル・リーグ会長、第2代本田財団理事長、内閣調査室長、内閣官房副長官、日本鉄道建設公団総裁などをつとめた。位階は従三位。 福島県湊村(現会津若松市)出身。会津中学校を経て、中央大学法学部専門部法科入学。在学中に高等試験に合格。中大卒業後、内務省入省。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、1943年9月、海軍経理学校に入学し、1944年3月に卒業して海軍主計中尉に任官。1945年3月、海軍主計大尉に昇進してインドネシア・サバン島で終戦を迎えた。
田邊 誠(田辺 誠、たなべ まこと、1922年〈大正11年〉… 田邊 誠(田辺 誠、たなべ まこと、1922年〈大正11年〉2月25日 - 2015年〈平成27年〉7月2日)は、日本の政治家、実業家。位階は従三位。 衆議院議員(11期)、日本社会党委員長(第11代)、裁判官弾劾裁判所裁判長(第61代)を歴任。 1922年(大正11年)、群馬県前橋市芳町(現・三河町)に生まれる。父・熊蔵は老人ホーム院長を勤めていた。熱心なクリスチャンであった父の影響を受け、自身もキリスト教徒となった。中川小学校、城東小学校、群馬男子師範学校附属小学校へと転校。1939年(昭和14年)旧制前橋中学(現・群馬県立前橋高等学校)を卒業した。旧制高校への進学を希望していたが、父が経営する養老院の運営がおもわしくなく、やむなく学費無料の逓信官吏練習所に進学した。
鈴木 忠(すずき ただし、1922年2月25日 - 没年不明… 鈴木 忠(すずき ただし、1922年2月25日 - 没年不明)は、東京府出身のプロ野球選手。 旧制日大二中、日大高工、川崎トキコ、国民野球連盟の大塚アスレチックスを経て1950年に新設された西日本パイレーツへ入団。同年退団。
古谷 眞二(ふるや しんじ、1922年2月24日 - 194… 古谷 眞二(ふるや しんじ、1922年2月24日 - 1945年5月11日)は、大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍少佐。 1922年2月24日に東京都で生まれる。慶應義塾大学経済学部に入学するが、大東亜戦争の戦況拡大により、6ヶ月早い1943年9月に繰り上げ卒業となる。卒業後、海軍航空隊へ志願し、海軍飛行科予備学生(第13期)に合格。一式陸上攻撃隊に搭乗して飛行訓練を受ける。訓練を受けた後は、1944年10月1日に編成された第721海軍航空隊に配属となり、海軍中尉に任官。 1945年に菊水六号作戦が始まると、第8神風桜花特別攻撃隊神雷部隊攻撃隊指揮官として、同年5月11日に鹿屋飛行場から一式陸上攻撃機の派生形である4発陸上攻撃機「連山 (航空機)」に搭乗して[要出典]南西諸島へ向かう。
倉田 悟(くらた さとる、1922年2月24日 - 1978… 倉田 悟(くらた さとる、1922年2月24日 - 1978年9月10日)は、日本の植物学者。東京大学農学部教授。 1943年(昭和18年)に東大農学部卒業、1948年(昭和23年)大学院修了、助教授を経て1966年(昭和41年)教授。1965年(昭和40年)からは森林植物学講座を担当。1978年、胃癌のため死去。「植物と民俗」、「樹木と方言」など植物民俗学などの研究でも知られる。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。