橋本 康(はしもと やすし、1936年5月29日 - )は、… 橋本 康(はしもと やすし、1936年5月29日 - )は、日本の農業工学者。学位は、農学博士(東京大学)。愛媛大学名誉教授。日本学術会議会員、デューク大学客員教授、国際自動制御連盟(英語版)(IFAC)理事、日本農業工学会長、日本生物環境調節学会長、日本植物工場学会長、農業情報学会長などを歴任。専門は植物生体計測学、植物環境調節学、太陽光植物工場のシステム制御工学。 栃木県立宇都宮高等学校を経て東京大学に入学し、同農学部農業工学科に進んで農業機械学を学んだ。1962年に同大学を卒業、東京大学大学院数物系研究科修士課程、さらに同大学院農学系研究科博士課程に進学した。そして、生物環境調節学講座を専攻し、杉二郎教授に師事した。
青木 惇(あおき つとむ、1936年5月29日 - )は、神… 青木 惇(あおき つとむ、1936年5月29日 - )は、神奈川県足柄下郡真鶴町出身 の元プロ野球選手(捕手)。 小学校の頃から野球を始めるが、母子家庭であり経済的な事情でグラブを買ってもらえなかったため、学校の備品にあったキャッチャーミットを使っている内に、捕手を務めるようになった。 相洋高校在学中に同校野球部部長に勧められて、1954年8月に川崎球場で行われた高橋ユニオンズの入団テストを受ける。500人近い参加者の中で、走塁・遠投はトップを記録して一次試験に合格。9月に千葉で合宿をしながら行われた二次試験にも合格し、契約金なし、月給15,000円で高橋に入団した。1955年は新人ながら33試合に捕手として出場すると、1956年には筒井敬三に次ぐ第二捕手となって86試合にマスクを被った。
下重 暁子(しもじゅう あきこ、1936年〈昭和11年〉5月… 下重 暁子(しもじゅう あきこ、1936年〈昭和11年〉5月29日 - )は、日本の作家・評論家・エッセイスト。元NHKアナウンサー、JKA初代会長。 栃木県宇都宮市出身。「下重」は江戸時代、各地の御典医に多かった姓で、暁子の下重家は石見国浜田藩の御典医を代々勤めた。映画「戦場のメリークリスマス」の登場人物のモデルになった森勝衛は、父の従兄にあたる。 9歳の時に太平洋戦争の疎開先の奈良県で終戦を迎える。 教師の影響で、進学校の大阪府立大手前高等学校に進学。国語など文科系科目は得意なため、苦労したことはなく早稲田大学教育学部国語国文学科に進学した。芥川賞作家の黒田夏子は早大教育学部の同級生で同人誌仲間。
河野 正(かわの ただし、1936年5月29日 - 没年不詳… 河野 正(かわの ただし、1936年5月29日 - 没年不詳)は、大分県出身のプロ野球選手。 佐伯鶴城高校から、1955年に読売ジャイアンツへ入団。4年目の1958年に一軍公式戦初出場を果たすと、翌1959年に76試合に出場、5月30日の対中日ドラゴンズ戦で代打満塁本塁打を放つが、シーズンでは打率.160、1本塁打に留まる。その後も外野の控えとして1960年に68試合、1961年に20試合に出場するが、両年とも打率1割台に終わり、1961年限りで現役引退した。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
石井 眞木(いしい まき、1936年5月28日 - 2003… 石井 眞木(いしい まき、1936年5月28日 - 2003年4月8日)は、日本の作曲家、指揮者。東京府出身。父は舞踊家の石井漠、同じく作曲家の石井歓は兄、石井五郎は叔父。 幼少より、父の舞踊音楽を担当した縁で伊福部昭の薫陶を受ける。11歳よりヴァイオリンを学ぶ。1952年国立音楽大学付属高等学校ピアノ科に入学、学外で作曲を池内友次郎に、ピアノをL.コハンスキに、指揮法を渡邉暁雄に師事する。1955年に卒業後、伊福部昭に作曲を学ぶ。1958年、ベルリンに留学し、国立ベルリン音楽大学作曲科でボリス・ブラッハー、ヨーゼフ・ルーファーらに師事、十二音技法など最先端の音楽技法を学ぶ。1961年ダルムシュタット国際現代音楽祭で「9奏者のための前奏と変奏」が初演される。
林 義郎(はやし よしろう、1936年5月28日 - )は、… 林 義郎(はやし よしろう、1936年5月28日 - )は、日本の実業家。元J-フォン東京社長。元ボーダフォン日本法人(現:ソフトバンク)会長などを歴任。日本国有鉄道出身。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
浅見 敏夫(あさみ としお、1936年5月27日 - )は、… 浅見 敏夫(あさみ としお、1936年5月27日 - )は、埼玉県出身の元競艇選手。 息子の昌克・宗孝は現役のボートレーサー。 進学校・浦和西高校から埼玉大学に進学したが、1年後に上智大学へ転入。上智大も父親の病気の為に中退し、競艇選手の道を選ぶ。 1959年11月に連合会養成6期生として選手登録され、彦坂郁雄・岡本義則・高田登らと共にデビュー。同年夏には5期生として北原友次、加藤峻二がデビューしている。 モットーが「レースはケンカ」と少々荒かったが、闘志剥き出しの豪快なレースぶりから「ダンプ」と呼ばれ、多くのファンから共感を呼んだ。 コーナーでの突っ込みは攻撃的で、ホームプールの戸田では1967年の関東地区選手権競走で記念初優勝を飾るなど7度の優勝を記録。
内山 森彦(うちやま もりひこ、1936年5月27日 - )… 内山 森彦(うちやま もりひこ、1936年5月27日 - )は、日本の俳優、声優。長野県諏訪市出身。アンテーヌ所属。 長野県諏訪清陵高等学校卒業、法政大学文学部日本文学科卒業。 以前は劇団三十人会、プロダクション・エムスリーに所属していた。
丸山 博(まるやま ひろし、1936年5月27日 - )は… 丸山 博(まるやま ひろし、1936年5月27日 - )は、日本の経営者、銀行家。日本債券信用銀行社長、あおぞら銀行社長を務めた。 東京都出身。1959年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に日本勧業角丸証券に入社した。1969年にオリエント・リース(現在のオリックス)に転じ、1979年にファミリー信販(のちのオリックス・クレジット)取締役に就任し、1985年に副社長を経て、1990年には社長に就任。2000年6月に会長を経て、2000年12月には日本債券信用銀行(2001年1月にはあおぞら銀行に変更)社長に就任し、2003年12月には国際的な多角経営に対応できるようにするために、水上博和を後見に指名し、自身は相談役に退いた。
芦ヶ原伸之(よしがはら のぶゆき、1936年5月27日 - … 芦ヶ原伸之(よしがはら のぶゆき、1936年5月27日 - 2004年6月19日)は、日本のパズル作家。Nobの愛称でも知られている。 1970年、東京工業大学化学工学科卒業。高分子関係の技師や教職を経て、パズラーとして国際的に活動した。 内外のパズルを世界に広く紹介し、パズルのコレクターとしてもジェリー・スローカム、エドワード・ホーダンと共に世界三大パズルコレクターと呼ばれている。世界中のパズル関係者と交流があり、高木茂男とはパズル懇話会設立時の同僚で、日本メンサの名誉会員でもあった。1978年に始まった国際パズルパーティーでは幹事を務め、2003年にはパズルに対する功績によりサム・ロイド賞を受賞している。
佐伯 博司(さえき ひろし、1936年5月26日 - 201… 佐伯 博司(さえき ひろし、1936年5月26日 - 2010年)は広島県出身の元サッカー選手。フォワード(FW) 広島基町高等学校、八幡製鉄などに所属。1964年、1965年アジアユース代表。日本代表として1962年ワールドカップチリ大会予選の初戦、対韓国戦で杉山隆一とツートップを組んだ他、国際Aマッチ4試合に出場した。
牛込 惟浩(うしごめ ただひろ、1936年5月26日 - 2… 牛込 惟浩(うしごめ ただひろ、1936年5月26日 - 2016年4月9日)は、日本のメジャーリーグアナリスト、プロ野球スカウト。 東京府東京市(現東京都)足立区出身。愛称は「タッド」。 1955年から1959年まで、家業の牛乳販売業に従事し、1963年に早稲田大学法学部卒業後、入学した日米会話学院の院長から、1964年2月に大洋ホエールズの通訳アルバイトを紹介され、従事した。ディーン・ストーンの通訳アルバイト契約終了間際に、スカウト部長だった平山菊二から継続雇用を打診され、1964年4月に大洋球団に入社した。その後は通訳から、二軍・一軍マネジャー、広報を経て、渉外担当・スカウトに就任した。 スカウトとしては、クリート・ボイヤー、ジョン・シピン、フェリックス・ミヤーン、カルロス・ポンセ、ジム・パチョレック、ラリー・シーツ、ロバート・ローズ、グレン・ブラッグスら、ホエールズ・ベイスターズで活躍する外国人選手を次々と獲得に成功する。
寺崎 昭久(てらさき あきひさ、1936年5月25日 - 2… 寺崎 昭久(てらさき あきひさ、1936年5月25日 - 2017年10月15日)は、日本の政治家、元民主党参議院議員(2期)。 北海道出身。1961年、茨城大学文理学部卒業。日産自動車に入り、日産労連副会長、自動車総連副会長を歴任。1989年の第15回参議院議員通常選挙で比例区に民社党より立候補して当選。その後、1994年新進党結党に伴い、参加。新進党解党後新党友愛を経て民主党に合流。参議院運輸委員長を務めた。参議院議員として2期務め、2001年の第19回参議院議員通常選挙に立候補せず、引退した。 2017年10月15日午前2時41分、咽頭がんのため、千葉県鎌ケ谷市の病院で死去。81歳没。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
山下 惣一(やました そういち、1936年5月25日 - 2… 山下 惣一(やました そういち、1936年5月25日 - 2022年7月10日)は、日本の農民、小説家。農業をテーマにした作品の小説・ルポを執筆した。 佐賀県唐津市出身。唐津市立湊中学校卒。86歳没。 中学校の卒業後に家業の農業を継いだ。30歳過ぎで作家となった。 2006年、毎日国際交流賞を受賞。 2021年2月、執筆活動から引退。 2022年7月10日、肺がんのため死去。86歳没。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
梶田 達二(かじた たつじ、1936年〈昭和11年〉5月24… 梶田 達二(かじた たつじ、1936年〈昭和11年〉5月24日 - 2011年〈平成23年〉10月8日)は、日本の画家、イラストレーター。ボックスアートを得意とした。愛知県名古屋市港区出身。理科美術協会、ミロの会会員。 愛知県立惟信高等学校を卒業。家業の楽器製造会社を手伝う傍ら、挿絵画家の小松崎茂の作品を摸写。1959年(昭和34年)、集英社より単行本の挿絵でデビュー。同年、上京。 秋田書店「冒険王」9月号で雑誌デビュー。また、小学館、講談社、光文社、少年画報社、徳間書店、学習研究社などの少年誌、学年誌に表紙、口絵、挿絵を発表する。また、プラモデルの箱に航空機や艦船を描くボックスアートの世界で活躍。
濱田 邦夫(はまだ くにお、1936年5月24日 - )は、… 濱田 邦夫(はまだ くにお、1936年5月24日 - )は、日本の弁護士、裁判官。学位はLL.M.(ハーバード大学・1966年)。勲等は旭日大綬章。日比谷パーク法律事務所客員弁護士。「濱」が旧字体のため、新字体で浜田 邦夫(はまだ くにお)と表記されることもある。
木村 光佑(きむら こうすけ、1936年5月24日 - )は… 木村 光佑(きむら こうすけ、1936年5月24日 - )は 日本の版画家・彫刻家・作家・画家。京都工芸繊維大学名誉教授(第9代学長)。 大阪府大阪市生まれ。日本経済の高度成長と同時に美術の大衆化が顕著となる中、木村光佑は30歳を超えた1968年に作家としてデビューを果たした。シルクスクリーンや写真製版をはじめ多様な製版・印刷の最新技術を駆使し、現在社会の虚像と実像入り交じる様々なイメージを重ね合わせることで、情報過剰な同時代人の視覚的経験を作品化し、デビューと同時に「時代の申し子」として立て続けに国際コンクールでの受賞を重ねていく。一方で、自由な版表現への挑戦は、当時の日本版画界においては異色であり、版画の範疇や概念に対する議論を巻き起こした。
三上 豊(みかみ みのる、1936年5月24日 - )は、日… 三上 豊(みかみ みのる、1936年5月24日 - )は、日本の経営者。コクド社長を務めた。東京都出身。 1959年に早稲田大学商学部を中退し、同年に国土計画に入社した。1981年に取締役に就任し、1990年に常務を経て、1998年に社長に就任。2004年11月に社長を辞任。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
山村 幹弘(やまむら みきひろ、1936年5月23日 - )… 山村 幹弘(やまむら みきひろ、1936年5月23日 - )は、熊本県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。
堀部 政男(ほりべ まさお、1936年5月23日 - )は、… 堀部 政男(ほりべ まさお、1936年5月23日 - )は、日本の法学者。専門は英米法、メディア法、情報法。一橋大学名誉教授。元個人情報保護委員会委員長。一橋大学博士(法学)。東京大学大学院で伊藤正己に学び、日本における情報法学の礎を築く。 1936年栃木県出身。1960年埼玉大学文理学部卒業。東京大学大学院修士課程修了を経て、1962年東京大学大学院社会科学研究科基礎法学博士課程退学。1996年一橋大学博士(法学)(学位論文「アクセス権」)。 1962年東京大学社会科学研究所助手、1966年一橋大学法学部講師、1970年同助教授、1978年同教授、1994年から1996年まで一橋大学法学部長・法学研究科長を歴任。
津島 利章(つしま としあき、1936年〈昭和11年〉年5月… 津島 利章(つしま としあき、1936年〈昭和11年〉年5月22日 - 2013年〈平成25年〉11月25日)は、日本の作曲家。岡山県出身。 愛媛県立新居浜工業高等学校電気科を卒業。上京し、東京工業大学を受験するも不合格となり、日本大学芸術学部音楽理論科に入学。音楽を志すつもりはなく、合格後も代々木の予備校に通ったが、夏休みに黄疸にかかり、翌年春までの闘病となり、工大受験を断念した。 日本大学芸術学部3年生の折に作曲した『管弦四重奏』が、毎日音楽コンクールで入賞。周囲の勧めもあり、作曲家となる。1961年、フジテレビの『宮本武蔵』で注目を浴び、 1964年の『三匹の侍』で東映京都のプロデューサーの目に留まり、誘いを受けて映画音楽家となる。
秋光 新二(あきみつ しんじ、1936年5月21日 - )は… 秋光 新二(あきみつ しんじ、1936年5月21日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手(投手)。 忠海高校から、1955年に大阪タイガースに入団。在籍3年間で勝ち星を挙げることはできずに1957年に退団。 その後、社会人野球の富士製鐵室蘭でプレーした。
諸口 あきら(もろぐち あきら、本名:南 弘人(みなみ ひろ… 諸口 あきら(もろぐち あきら、本名:南 弘人(みなみ ひろと)、1936年〈昭和11年〉5月21日 - 2017年〈平成29年〉9月10日 )は、日本のタレント、ラジオパーソナリティ、カントリーシンガー、俳優、評論家、書家。妻はプロゴルファーの中村悦子。 福岡県門司市(現在の北九州市門司区)出身で、多摩美術大学油絵学科を卒業した。1960年代に、「茂呂 弘人」や「諸口 旭」名義で俳優として活動した。 1970年代にカントリーシンガーとして一世を風靡したほか、関西地方を中心にディスクジョッキーや放送タレントとしての活動を展開した。『日本列島ズバリリクエスト』(KBS京都ラジオ)や『MBSヤングタウン』(毎日放送ラジオ)をはじめ、関西地方のラジオ局が制作する番組に数多く出演した。
吉岡 静夫(吉岡 靜夫、よしおか しずお、1936年〈昭和1… 吉岡 静夫(吉岡 靜夫、よしおか しずお、1936年〈昭和11年〉5月21日 - 2023年〈令和5年〉7月2日)は、日本の政治家。元新潟県糸魚川市長(1期)。 新潟県糸魚川市出身。慶応義塾大学法学部(通信制)中退。1958年(昭和33年)糸魚川市役所に入り、26年間勤務する。1984年(昭和59年)に退職。タウン誌を発行する。糸魚川市議会議員を3期務めた。 1997年(平成9年)糸魚川市長選挙に立候補するが、元市議会議長の山田紀之に敗れて落選した。※当日有権者数:-人 最終投票率:78.40%(前回比:-pts) 2001年(平成13年)に再び立候補し、現職を破って初当選する。同年11月5日に市長に就任した。
川口 知子(かわぐち ともこ、1936年5月21日 - 19… 川口 知子(かわぐち ともこ、1936年5月21日 - 1969年1月19日)は、1960年代に文学座で活動した、日本の新劇女優。テレビ・ドラマや映画にも出演し、1960年には日本映画製作者協会新人賞を受賞した。 東京、銀座で、両親とも長唄の師匠という家に生まれる。 親類の田村秋子に影響を受け、女優を志し、共立女子学園高等部を卒業して俳優座養成所に入った(川口は、田村秋子の姪とする記述と、従妹とする記述がある)。 1959年に俳優座養成所を卒業し、文学座に入って研究生となり、同年9月の公演『黄色と桃色の夕方』で大役に抜擢された。 1960年には、映画『赤坂の姉妹より 夜の肌』に、映画初出演にして淡島千景、新珠三千代とともに主演し、この年の日本映画製作者協会新人賞を受賞した。
小山 貞夫(こやま さだお、1936年5月20日 - )は、… 小山 貞夫(こやま さだお、1936年5月20日 - )は、日本の法制史学者(西洋法制史)。東北大学名誉教授。文化功労者。出身は神奈川県横浜市。 略歴は以下のとおり。 指導教官は世良晃志郎。
河崎 義祐(かわさき よしすけ、1936年5月20日 -)は… 河崎 義祐(かわさき よしすけ、1936年5月20日 -)は、日本の映画監督。 福井県福井市生まれ。福井県立高志高校を1955年に卒業、1960年に慶應義塾大学経済学部卒業後、東宝に入社。当初は宣伝部に勤務していたが、1962年に製作部に転属。黒澤明の『どですかでん』、加藤泰『日本侠花伝』、岡本喜八『日本のいちばん長い日』、森谷司郎『大空戦』など、約40作品の助監督を務めた。1975年、『青い山脈』で監督に昇格。同作で第1回大阪市民映画祭新人監督賞を受賞した。翌1976年公開の『挽歌』では、主演の秋吉久美子がアジア映画祭主演女優賞を受賞。以降、多くのアイドル映画を手掛けた。東宝配給ながらホリ企画制作が一貫して日活へ制作外注していた山口百恵主演シリーズにも東宝監督としては初めて招かれ、『炎の舞』で日活撮影所に赴いている。
太田 誠(おおた まこと、1936年5月20日 - )は、駒… 太田 誠(おおた まこと、1936年5月20日 - )は、駒澤大学硬式野球部OB会長。元駒澤大学硬式野球部監督。
藤本 強(ふじもと つよし、1936年5月20日 - 201… 藤本 強(ふじもと つよし、1936年5月20日 - 2010年9月10日)は、日本の考古学者。東京大学名誉教授。 東京生まれ。1959年東京大学文学部考古学科卒業、同大学院博士課程単位取得満期退学、1973年東大文学部附属北海文化研究常呂実習施設助教授、1985年東大文学部教授、1994年から1996年まで文学部長・人文社会系研究科長、1997年定年退官、名誉教授、新潟大学人文学部教授、2002年國學院大学文学部教授、2007年退職。2001年福島県文化財センター白河館館長、2006年文化審議会世界文化遺産特別委員会委員長。先史考古学が専門で多数の著作がある。 2010年9月10日、ドイツに滞在していた際に74歳で病死。
金子民雄(かねこ たみお、1936年5月20日- )は、日本… 金子民雄(かねこ たみお、1936年5月20日- )は、日本の歴史学者。 東京生まれ。日本大学商学部卒業。中央アジア史、東南アジア史の調査・研究を行う。白水社などでの探検調査記録の編さんも多く行っている。哲学博士(未確認)。兄の金子史朗は地震学者・サイエンスライターである。
宮城 篤実(みやぎ とくじつ、1936年5月19日 - 20… 宮城 篤実(みやぎ とくじつ、1936年5月19日 - 2025年6月13日)は、日本の政治家で、沖縄県嘉手納町長。沖縄県嘉手納町(当時は北谷村嘉手納)出身。
興津 立雄(おきつ たつお、1936年5月19日 - )は、… 興津 立雄(おきつ たつお、1936年5月19日 - )は、静岡県焼津市出身の元プロ野球選手(三塁手)。旧名は「達雄」。
合田 耕平(ごうだ こうへい、1936年5月19日 - )は… 合田 耕平(ごうだ こうへい、1936年5月19日 - )は、日本の経営者。長谷工コーポレーション社長を務めた。 兵庫県出身。1959年に京都大学法学部を卒業し、同年に長谷川工務店(のちの長谷工コーポレーション)に入社。1967年1月に取締役に就任し、1970年8月に常務、1972年6月に専務、1974年10月に副社長を経て、1987年8月に社長に就任。1999年5月に社長を退任。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
川口 汎夫(かわぐち なみお、1936年5月19日 - )は… 川口 汎夫(かわぐち なみお、1936年5月19日 - )は、愛知県渥美郡出身の元プロ野球選手。 豊川高校から1956年に中日ドラゴンズへ入団。1957年には遊撃手として2試合に先発出場。その後は出場機会がなく1958年限りで退団。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
萩原 敏雄(はぎわら としお、1936年(昭和11年)5月1… 萩原 敏雄(はぎわら としお、1936年(昭和11年)5月18日 - )は、日本のテレビプロデューサー、実業家。日本テレビ社長、日本テレビフットボールクラブ会長兼社長を務めた。 萩原雄祐・結子夫妻の三男として東京府(現・東京都)に生まれる。 慶應義塾高等学校を経て慶應義塾大学文学部を卒業。俳優の早川保と川口浩は慶應高校の同級生。早川とは慶大でも同期であった。 文学青年だった萩原は、出版社を志し、新潮社の最終面接まで行った。だが、萩原には日本テレビにコネがあった。新潮社の最終面接で「あなたは合格したら間違いなく入社しますね?」という問いに正直に答えた。日本テレビが採ってくれるといえば、そちらに入らざるを得ないと、。
岡本 民夫(おかもと たみお、1936年5月17日 - 20… 岡本 民夫(おかもと たみお、1936年5月17日 - 2024年12月11日)は、日本の社会福祉学者。同志社大学名誉教授。 和歌山県生まれ。1959年関西学院大学文学部社会事業学科卒業。浅香山病院勤務。1964年熊本短期大学講師、助教授、1974年教授、1980年同志社大学文学部教授、2007年定年退職、名誉教授。2016年11月、瑞宝中綬章受章。
栗田 子郎(くりた しろう、1936年5月16日 - 201… 栗田 子郎(くりた しろう、1936年5月16日 - 2019年8月22日)は、日本の植物学者。千葉大学名誉教授。理学博士(東京都立大学 (1949-2011))。日本植物学会、アメリカ植物学会、国際シダ学会他、会員。 静岡県掛川市に生まれた。1958年に東京教育大学理学部生物学科を卒業し、1962年に、千葉大学文理学部生物学科助手、1971年に理学部生物学科助教授、1992年に教授となった。シダ植物の染色体の構造を観察し、シダ植物の進化の道筋とその仕組みのを明らかにする研究などを行った。研究室の学生が種子を作らず球根の分裂で繁殖する日本産のヒガンバナを研究テーマに選び、日本各地の集団間の染色体の変異の有無を調べる研究を行うことになったことから、東アジアのヒガンバナ科の研究を行い、その経緯と成果を一般向けの科学書『ヒガンバナの博物誌』として発表した。
大野木 克信(おおのぎ かつのぶ、1936年5月15日 - … 大野木 克信(おおのぎ かつのぶ、1936年5月15日 - 2017年5月10日)は、日本の銀行家。日本長期信用銀行最後の頭取を務めた。 東京大学の農学部を卒業した農学士という異色の経歴ながら、イギリスの銀行に出向し投資銀行の業務の実際を学んだ。そのため、日本長期信用銀行の行内では「国際派のエース」と評されており、早くから注目されていた。1995年に日本長期信用銀行の頭取に就任した。しかし、頭取を引き継いだ時点で、日本長期信用銀行の経営状況は既に悪化し始めていた。 頭取就任後は、コンプライアンスの重視とグローバル化の推進を積極的に推し進めた。大和銀行ニューヨーク支店巨額損失事件に危機感を抱き、「大和銀行は、11億ドルものディーリング損失を隠蔽してアメリカから追放された。
柴田 泰(しばた とおる、1936年5月15日 - 2012… 柴田 泰(しばた とおる、1936年5月15日 - 2012年2月15日)は、日本の仏教学者。札幌大谷大学初代学長。札幌大谷短期大学名誉教授。 北海道出身。1959年北海道大学文学部印度哲学科卒業。1964年北海道大学大学院文学研究科東洋哲学専攻単位取得満期退学。1964年北海道大学文学部助手。1972年札幌大谷短期大学一般教育助教授。1989年札幌大谷短期大学一般教育教授。2002年札幌大谷短期大学学長に就任。2006年札幌大谷大学初代学長に就任。2007年札幌大谷大学退職。札幌大谷短期大学名誉教授。 1977年に日本印度学仏教学会賞受賞。 岩見沢駒澤短期大学国文科兼任講師も1972年から1988年にかけて務めた。
長谷川 至(はせがわ とおる、1936年5月15日 - )は… 長谷川 至(はせがわ とおる、1936年5月15日 - )は、日本の実業家。ヤマハ発動機代表取締役社長、同社取締役会長、日本舟艇工業会会長などを歴任した。 静岡県静岡市新光明寺住職の家に三男として生まれる。静岡県立静岡高等学校を経て、1960年横浜国立大学経済学部卒業。大学時代はヨット部に所属した。会計学の沼田嘉穂ゼミ出身で、大学卒業後は沼田教授の勧めでヤマハ発動機に入社し名古屋支店経理担当に配属される。 1980年ヤマハ発動機購買本部購買部長。1985年取締役マリン事業部長。1988年取締役マリン本部副本部長兼マリン営業事業部長。1990年取締役欧州本部長兼Yamaha Motor Europe N.V.社長。
輿石 東(こしいし あずま、1936年〈昭和11年〉5月14… 輿石 東(こしいし あずま、1936年〈昭和11年〉5月14日 - ) は、日本の政治家。 参議院副議長(第30代)、参議院議員(3期)、衆議院議員(2期)、参議院国土交通委員長、旧立憲民主党山梨県連合最高顧問、民主党参議院議員会長、民主党幹事長(第12代)、民主党幹事長職務代行、民主党代表代行、民主党参議院幹事長、民主党参議院国会対策委員長を歴任した。 山梨県韮崎市出身。山梨県立韮崎高等学校卒業。在学時には柔道部に所属。都留市立都留短期大学(現:都留文科大学)初等教育科卒業。在学時には、小学校教員免許取得を目指して勉強しながら空手や相撲などのスポーツにも取り組む。後に都留文科大学同窓会長や同窓会顧問をつとめる。
石橋 誠晃(いしばし せいこう、1936年(昭和11年)5月… 石橋 誠晃(いしばし せいこう、1936年(昭和11年)5月13日 - 2016年(平成28年)12月13日)は、昭和から平成時代の政治家。位階は正五位。愛知県常滑市長。 愛知県出身。法政大学法学部卒業。 常滑市議会事務局長、市消防長、助役を経て、1991年(平成3年)常滑市長に当選。2007年(平成19年)まで4期16年間務めた。 2008年、旭日小綬章受章。 2016年(平成28年)12月13日、肺癌のため死去した。叙正五位。
浦城 恒雄(うらき つねお、1936年(昭和11年)5月12… 浦城 恒雄(うらき つねお、1936年(昭和11年)5月12日 - )は、日本の計算機科学者である。 1959年(昭和34年)3月東京大学理学部物理学科を卒業後、日立製作所に入社。各種コンピュータの開発に従事する。1984年(昭和59年)同社神奈川工場企画部長、その後コンピュータ事業本部マーケティング本部長、研究開発推進本部長、技師長を経て1995年(平成7年)退職する。その後、関連会社を経て1999年(平成11年)東京工科大学へ移籍し、メディア学部教授、コンピュータサイエンス学部教授を務め、名誉教授となった。
中嶋 嶺雄(なかじま みねお、1936年5月11日 - 20… 中嶋 嶺雄(なかじま みねお、1936年5月11日 - 2013年2月14日)は、日本の政治学者、国際社会学者。社会学博士。専門は現代中国政治。東京外国語大学学長、同大学名誉教授、国際教養大学学長、公立大学法人国際教養大学理事長をそれぞれ務めた。位階は従三位。 長野県松本市生まれ。長野県松本深志高等学校を経て、東京外国語大学外国語学部中国科を経て、東京大学大学院社会学研究科国際関係論修士課程修了、博士課程中退。1980年、社会学博士。 中華人民共和国時代の中国についての先駆的な研究者として知られ、文化大革命に対する批判など現代中国への冷徹な認識で知られる。東京外国語大学名誉教授(1995年から2001年まで学長)、元北九州市立大学大学院教授。
豊田 行二(とよだ こうじ、1936年5月11日 - 199… 豊田 行二(とよだ こうじ、1936年5月11日 - 1996年11月7日)は、日本の作家。 日本文芸家クラブ初代理事長。本名は渡辺修造。 山口県下関市生まれ。山口県立下関西高等学校、早稲田大学教育学部卒業。早稲田大学大学院経済学研究科財政学専攻修士課程修了。在学中は雄弁会に所属していた。郷里で「防長新聞」の記者、代議士秘書を経て、1968年「示談書」でオール読物新人賞受賞、同作で直木賞候補となる。上京後、『週刊大衆』のライターを務める。ゴーストライターとして糸山英太郎の「怪物商法」「太陽への挑戦」を書く。1984年『作家前後』で日本文芸大賞現代文芸賞受賞。 のち「ラブ―」と始まる題名の官能小説を多量に執筆、多くは「野望」のついた題名に改められ、野望シリーズの観を呈した。
加茂直樹(かも なおき、1936年5月11日 - )は、日本… 加茂直樹(かも なおき、1936年5月11日 - )は、日本の哲学者、京都教育大学名誉教授。 満洲国新京生まれ。京都市立紫野高等学校卒、1959年京都大学文学部哲学科卒、64年同大学院文学研究科博士課程単位取得退学(西洋哲学史専攻)。1966~70年大阪府立大学教養部助手. 1970年京都教育大学助教授、教授、学長を務めた。2000年定年退官、名誉教授、京都女子大学教授。2010年退職。北海道大学薬学部教授だった加茂直樹(1946年生?)は同名異人。
有明 夏夫(ありあけ なつお、1936年5月11日 - 20… 有明 夏夫(ありあけ なつお、1936年5月11日 - 2002年12月17日)は、日本の作家。本名は斎藤 義和。 大阪府出身。1945年福井県に疎開し、勝山精華高等学校(現福井県立勝山南高等学校)を卒業。同志社大学工学部中退後、工員や会社員を経て1972年に作家としてデビューした。1978年、『大浪花諸人往来』で第80回直木賞を受賞。 2002年、肝不全のため死去。66歳没。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
菊地 透(きくち とおる、1936年5月10日 - )は、日… 菊地 透(きくち とおる、1936年5月10日 - )は、日本の経営者。サンケイビル社長を務めた。福島県出身。 1960年に東京大学法学部公法学科を卒業し、同年4月に日本興業銀行に入行した。1988年6月に取締役に就任し、1990年6月にサンケイビル専務を経て、1991年6月には社長に就任した。2000年6月に会長を経て、2007年6月からは相談役を務めた。 1フジテレビジョン、ニッポン放送、ポニーキャニオンなどを傘下に持つフジサンケイグループを統括する認定放送持株会社。2フジテレビジョン、産業経済新聞社、ニッポン放送、サンケイビル、ポニーキャニオン、文化放送を中心に構成する日本最大級のメディア・コングロマリット。
渡辺 允(渡邉 允、わたなべ まこと、1936年(昭和11年… 渡辺 允(渡邉 允、わたなべ まこと、1936年(昭和11年)5月9日 - 2022年(令和4年)2月8日)は、日本の外交官。位階は正三位。 元・侍従長、前・宮内庁参与。東京府(現・東京都)出身。 学習院初等科(1949年(昭和24年)卒業)、都立日比谷高校を経て、1959年(昭和34年)東京大学法学部卒業後、外務省入省。同期には松浦晃一郎ら。 英語研修(米国スワースモア大学)、北米局北米第一課事務官、1976年(昭和51年)条約局法規課長、1977年(昭和52年)国際連合局政治課長、1979年(昭和54年)在フィリピン日本国大使館参事官、1981年(昭和56年)在アメリカ合衆国日本国大使館参事官、1983年(昭和58年)在アメリカ合衆国日本国大使館公使、1985年(昭和60年)外務省大臣官房審議官(北米局担当)、1988年(昭和63年)駐ヨルダン大使を歴任。
増本 一彦(ますもと かずひこ、1936年5月9日 - 20… 増本 一彦(ますもと かずひこ、1936年5月9日 - 2022年2月6日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(日本共産党公認)。日本共産党神奈川県後援会代表委員。 神奈川県藤沢市出身。中央大学卒業後、弁護士を開業。日本共産党神奈川県委員や同県憲法会議幹事長を経て、1972年の第33回衆議院議員総選挙に旧神奈川県第3区から立候補し初当選を果たす。当選1回。 政界を引退した後は、現役の弁護士(横浜弁護士会所属)として、消費税をなくす会の常任世話人などを務めた。 2022年2月6日、胆管がんのため、鎌倉市内の病院で死去。85歳没。