高橋 尚孝(たかはし ひさたか、1914年(大正3年) - … 高橋 尚孝(たかはし ひさたか、1914年(大正3年) - 1993年(平成5年))は、日本の昆虫学者。徳島県徳島市出身。田宮尋常小学校(現徳島市立千松小学校)、旧制撫養中学(現徳島県立鳴門高等学校)、東京農業大学卒業。 徳島県加茂村矢三に4男として生まれる。鳴門市の親族の家の養子となり、1933年(昭和8年)に旧制撫養中学(現徳島県立鳴門高等学校)を卒業。同級生に植物研究家・高知女子大学元教授の赤沢時之がいる。 昆虫館系雑誌「昆蟲界」に、「吉野川下流地方の昆虫相(1)~(完)」(1933年-1937年)を報告し、徳島県内の昆虫約700種を記録・報告した。 1937年(昭和12年)に東京農業大学を卒業。
池中 康雄(いけなか やすお、1914年 - 1992年3月… 池中 康雄(いけなか やすお、1914年 - 1992年3月14日)は、元マラソン選手、元日本陸上競技連盟オリンピック代表コーチ。大分県中津市出身で1935年にマラソンの世界記録を打ち立てている。 池中は旧制中津中学校(現在の大分県立中津南高等学校)を経て、1932年東洋大学専門部に入学と同時に東洋大学陸上競技部へ入部、その翌年に東洋大学は東京箱根間往復大学駅伝競走初出場を果たす。1935年には東洋大学予科へ入学、この年に池中は世界記録を樹立する。1937年3月文学部卒。1938年には東洋大学本科へ入学する。この間、箱根駅伝には1933年、1934年、1935年、1936年、1937年、1940年の合計6回出場を果たしている。
鈴木 正雄(すずき まさお、1914年(大正3年) - 20… 鈴木 正雄(すずき まさお、1914年(大正3年) - 2006年(平成18年)11月7日)は、日本の実業家。三菱銀行入行を皮切りに、三菱グループで三菱重工業副社長や三菱自動車販売(現三菱自動車工業)社長・会長などを歴任した。
林 宏(はやし ひろし、1914年 - )は、日本の民俗学者… 林 宏(はやし ひろし、1914年 - )は、日本の民俗学者・地理学者。奈良教育大学元教授。
石井 秋雄(いしい あきお、1914年 - 没年不明)は、千… 石井 秋雄(いしい あきお、1914年 - 没年不明)は、千葉県出身のプロ野球選手。
船越 栄一(ふなこし えいいち、1914年 - 1982年7… 船越 栄一(ふなこし えいいち、1914年 - 1982年7月19日)は、西南学院大学学長。
金 正植(キム・ジョンシク、朝鮮語: 김정식、1914年また… 金 正植(キム・ジョンシク、朝鮮語: 김정식、1914年または1915年 - 1989年11月26日)は、大韓民国のジャーナリスト、実業家、政治家。第2代韓国国会議員。本貫は清道金氏(朝鮮語版)。 日本統治時代の慶尚北道栄州郡出身。大阪薬学校(現・大阪大学大学院薬学研究科・薬学部)卒。日本で製薬業を営んだほか、新聞記者を3年間務め、楽貴歌劇団の経営も行った。光復後は大同青年団・韓国青年会会長、大韓青年団栄州郡団長、博愛園園長、議会新聞社社長、厚生会理事長を歴任した。1948年の初代総選挙では栄州郡選挙区から無所属で出馬したが落選し、1950年の第2代総選挙では大韓青年団の候補として当選した。国会議員時代は国会文教委員を務め、共和民政会所属で活動したが、議員非行糾弾事件により朴順天、尹吉重らと共に離党した。
川面 稜一(かわも りょういち、1914年 - 2005年1… 川面 稜一(かわも りょういち、1914年 - 2005年1月9日)は、日本の日本画家、文化財修復技術者。古建築の彩色復原や障壁画・壁画の模写に従事し、建造物彩色の選定保存技術保持者として知られる。また、都をどりの舞台背景画制作にも長年携わった。 川面は、戦前から法隆寺金堂壁画模写事業に参加し、戦後は寺社建築の彩色復原、壁画・障壁画の現状模写・復原模写などに従事した。とくに、建築部材に残る彩色痕跡を調査したうえで修理・復原彩色を施す建造物彩色の分野で重要な役割を果たした。1997年には文部大臣から建造物彩色の選定保存技術保持者に認定された。 大阪市に生まれる。1934年、京都市立絵画専門学校を卒業した。
高 永完(コ・ヨンワン、朝鮮語: 고영완、1914年 - 1… 高 永完(コ・ヨンワン、朝鮮語: 고영완、1914年 - 1991年8月6日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家。初代長興郡郡守(アメリカ軍政下)、第2・5代韓国国会議員を歴任した。号は霧渓(ムゲ、무계)。仏教徒。 本貫は長興高氏(朝鮮語版)。壬辰倭乱の時の義兵長の高敬命(朝鮮語版)の直系の15世孫である。元大法院長の李容勲(朝鮮語版)は娘婿。また、2人の妹は金性洙の2人の息子、金相万(朝鮮語版)と金相欽(朝鮮語版)の妻である。 日本統治時代の全羅南道長興郡出身。専修大学法科卒。抗日運動で活躍したため、日本軍憲兵に捕まえられ、咸興刑務所で3年間服役した。光復後は長興郡守、大韓独立促成国民会長興支部長、大韓民族青年団長興支団長、韓民党中央執行委員・長興党部総務を歴任した。
浅野 三義(あさの みつよし、1914年〈大正3年〉 - 1… 浅野 三義(あさの みつよし、1914年〈大正3年〉 - 1988年〈昭和63年〉5月3日)は、日本の造園家。 東京都に生まれる。その後は千葉県に居住した。千葉高等園芸学校(現・千葉大学園芸学部・大学院園芸学研究科)を卒業後、東京都庁に入庁する。 神代植物公園管理事務所長、多摩動物公園・恩賜上野動物園長等を歴任する。その後株式会社景環境設計事務所代表取締役を務めた。 1984年、第8回日本公園緑地協会北村賞を受賞した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
張香山(ちょう こうざん、1914年-2009年10月10日… 張香山(ちょう こうざん、1914年-2009年10月10日)は、中華人民共和国の外交官、政治家。中華人民共和国の建国後、対日工作を担った政治家で、日中国交正常化では中華人民共和国外交部顧問として日本側と交渉した。党対外連絡部副部長や中国国際交流協会副会長・顧問のほか、日中友好21世紀委員会の中国側座長、中日友好協会顧問などの要職を歴任している。 1914年、 浙江省寧波市に生まれる。1933年に日本へ留学、東京高等師範学校(現筑波大学)で学ぶ。 帰国後の1934年に延安において 八路軍に参加。1938年に中国共産党へ入党、1941年に八路軍129師団敵工作部副部長、1943年に大行軍区敵工作部長となる。
鴫谷 亮一(しぎや りょういち、1914年 - 1989年6… 鴫谷 亮一(しぎや りょういち、1914年 - 1989年6月21日)は、日本の医学者、医師。専門は循環器内科。 旧制静岡県立静岡中学校、旧制静岡高等学校理科乙類、東京帝国大学医学部卒業。1974年まで群馬大学医学部第二内科(循環器内科)教授。東海大学医学部教授、国立横浜病院院長を歴任。 新谷家は戦国期に今川氏勢力下の駿河国に来住、5代目述賢の頃に新谷を鴫谷姓に改め郷士となり、医術を甲斐国の徳本に学び、代々業とした。江戸幕末期の鴫谷一元(14代)は、兵太夫新田(現藤枝市内)の村松良元に医科修業、田中藩の御典医でもあったと伝えられる。この一元は1876年(明治9年)に隠居別家し、自らは代々定住の子持坂村(現藤枝市内)から近隣の横内村へ転居、医業を継続した。
高村 新一(たかむら しんいち、1914年 - 2002年3… 高村 新一(たかむら しんいち、1914年 - 2002年3月25日)は、英文学者、東京大学名誉教授。東京帝国大学英文科卒。静岡大学助教授、東大教養学部教授、1974年定年退官、東京女子大学教授、1984年明星大学教授、87年東大名誉教授。1989年11月勲三等旭日中綬章受章。ジョン・バニヤンの全五巻の著作集を個人全訳した。
李 龍雲(イ・ヨンウン、이용운、1914年 - 1987年1… 李 龍雲(イ・ヨンウン、이용운、1914年 - 1987年10月19日)は大日本帝国海軍及び大韓民国海軍の軍人。最終階級はそれぞれ海軍少佐、海軍中将。第4代海軍参謀総長を務めた。日本名は山本龍雲。 陸軍少将の李龍文は弟。第15代国会議員の李健介(朝鮮語版)は甥。 平壌生まれ。大韓帝国武官出身の父が病死すると生計のため靴屋を運営し、日本行きの船に乗った。1932年11月、東京高等商船学校航海科入学。1938年5月、東京高等商船学校卒業。商船学校を卒業すると、弟の龍文も日本に呼んだとされる。同年6月4日、海軍予備少尉。海軍砲術学校修了。連合艦隊所属戦艦航海士、掃海艇航海長、駆潜艇艇長、三江丸艦長などを務め、少佐まで昇進した。
伊藤 喜三郎(いとう きさぶろう、1914年 - 1996年… 伊藤 喜三郎(いとう きさぶろう、1914年 - 1996年3月3日)は、日本の建築家、伊藤喜三郎建築研究所会長。病院建築の分野で著名であった。また、日本自由画壇理事長も歴任し、「伊藤三喜庵」の名で絵本(『絵本 ジョン万次郎の生涯』)や画集(『三喜庵墨絵』)などを刊行している。 1938年に日本大学旧工学部建築学科卒業。東京大学営繕課研究室嘱託、日立研究所、大成建設、厚生省嘱託などを経て1952年に建築設計事務所・伊藤喜三郎建築研究所設立。建築業協会BCS賞、文部大臣賞、京都府知事賞などを受賞。主な作品に、産業医科大学、慶應義塾大学病院、三楽病院、国立身体障害者リハビリテーションセンターなどがある。
児玉 英水(こだま ひでみ、1914年 - 1945年)は日… 児玉 英水(こだま ひでみ、1914年 - 1945年)は日本の舞台プロデューサー。宮崎県西都市出身。 西都市三宅に、教育者の長男として生まれる。法政大学法学部入学後、1939年のノモンハン事件に出征、九死に一生を得て帰国する。帰国後、東宝に入社、日劇の企画に配属。翌年上演される紀元2600年奉祝、第81回日劇ステージショー、「民族舞踊・日向」の、プロデューサーを任され、1940年11月、1か月にわたるロングランで、17万人もの観客を集める大成功をもたらした。1943年に報道班員としてマニラに渡り、終戦を前にした1945年7月20日、31歳で戦死した。 満映のスター李香蘭が初めて日本の舞台を踏んだ際(1941年2月11日:「歌う李香蘭」)、押し寄せたファンが日劇を取り巻く、いわゆる日劇七回り半事件が発生、警察官が出動して取り締まりに当たる騒ぎになったが、公演期間中エスコートしたのが英水であり、それを機会に李香蘭と交流することとなる。
松本 武雄(まつもと たけお、1914年 - 1976年11… 松本 武雄(まつもと たけお、1914年 - 1976年11月6日)は、日本の男子テニス選手・指導者。石川県鳳至郡(現鳳珠郡)出身。法政大学卒業。 松本は法政大学のテニス部で、中野文照と同期のライバルだった選手である。1937年、関東本学生テニストーナメントで男子シングルス準優勝。同年の全日本学生庭球選手権(現在の通称・インカレ)で男子シングルスのベスト4に進出する。1938年度の成績は、関東本学生テニストーナメントは2年連続準優勝であったが、全日本学生庭球選手権で初優勝を果たした。この年は「フィリピン選手権」の男子シングルスも制した。当時の全日本学生選手権では、同じ法政大学の松本と中野が優勝争いをすることが多かった。
錦 三郎(にしき さぶろう、1914年 - 1997年5月8… 錦 三郎(にしき さぶろう、1914年 - 1997年5月8日)は、日本のエッセイスト、歌人、蜘蛛研究家、特にバルーニングの研究で著名。山形県山形市出身。1936年山形師範学校卒業、小学校教員となる。1929年頃から斉藤茂吉の弟子の結城哀草果に師事して作歌を始める。1937年アララギ入会。晩年は短歌結社「山麓」の選者を務めた。1958年日本蜘蛛学会に入会。蜘蛛に関連する書籍で数多くの賞を受賞する。1973年退職、1975年南陽市芸術文化協会会長。翌年、市史編さん嘱託(編集委員長)に就任。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
代田 銀太郎(しろた ぎんたろう、1914年 - 2006年… 代田 銀太郎(しろた ぎんたろう、1914年 - 2006年6月7日)は、日本の陸軍軍人・作詞家。最終階級は中尉。 戦後の死刑囚時代に「ああモンテンルパの夜は更けて」の作詞を手がけたことで知られる。 長野県下伊那郡松尾村(現在の飯田市)出身。第二次世界大戦の勃発に伴い陸軍に召集され、憲兵としてフィリピン・セブ島を転戦。終戦時は少尉であったが、ポツダム宣言により中尉に昇進。 その後、戦犯死刑囚としてフィリピンのモンテンルパにある刑務所に収容された。1951年、自身と同じ死刑判決をうけた日本兵が処刑されたのを契機に、同僚たちを勇気付けるため「ああモンテンルパの夜は更けて」を作詞。代田と同じく死刑囚となっていた伊藤正康大尉が曲をつけた。
大田 学(おおた まなぶ、1914年 - 2007年2月21… 大田 学(おおた まなぶ、1914年 - 2007年2月21日)は神奈川県横須賀市生まれ、鳥取県倉吉市余戸谷町で育ち、晩年は大阪府に在住した将棋の真剣師である。 倉吉信用金庫の第4代理事長を務めた父のもとに生まれる。 少年時代から軍人を志し、戦中は海軍航空隊・横須賀基地に所属した。終戦後に郷里に帰り、30歳をすぎた年齢から本格的に将棋を始めたという、異例なほど晩学の将棋指しだった。当時の棋力は現在のアマ初段ほどだったという。以降修行を続け、1948年 - 1950年には「アマチュア将棋名人戦」の鳥取県代表。その後は真剣師として全国を回り、「史上最強のアマ強豪」と呼ばれる平畑善介以外には、ひけを取ることがなかったという。