上田 治(うえだ おさむ、1907年(明治40年) - 19… 上田 治(うえだ おさむ、1907年(明治40年) - 1978年(昭和53年))は、大阪府出身のゴルフ場設計者。元競泳日本代表選手。100m背泳ぎ元日本記録保持者。 上田治は、大阪府茨木市に、1907年(明治40年)生まれ、旧制茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)、旧制松山高等学校(後身校・愛媛大学)を卒業、京都帝国大学農学部に学んだ。旧制茨木中学校時代水泳部で活躍した。100m背泳ぎで3度日本記録を更新し、極東選手権競技大会では1923年(大正12年)から1927年(昭和2年)にかけて100m背泳ぎ3連覇を達成した。 1930年(昭和5年)、「廣野ゴルフ倶楽部」(兵庫県)のコース設計で来日したチャールズ・ヒュー・アリソンは、コース設計図を作成した上で帰国した。
大谷 俊夫(おおたに としお、1907年 - 没年不詳)は、… 大谷 俊夫(おおたに としお、1907年 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、元俳優である。当初のキャリアは水谷 登志夫(みずたに としお)名義で、監督、俳優としてスタートした。 1907年(明治40年)、広島県呉市に生まれる。旧制・神戸第二中学校(現・兵庫県立兵庫高等学校)卒。1923年(大正12年)、子爵家の長男、23歳の小笠原明峰が京都に設立した小笠原プロダクションに参加、翌1924年(大正13年)、水谷 登志夫名義で『風船売りの小母さん』(短編)を自らのオリジナル脚本で監督し、デビューしている。同プロダクションでは、同作以降は俳優として、1926年(大正15年)の同社の解散まで4本に出演した。
柿坪 正義 (かきつぼ まさよし、1907年 - 1997年… 柿坪 正義 (かきつぼ まさよし、1907年 - 1997年)は、日本の外交官。外務省情報文化局長や、国連大使、駐アラブ連合共和国大使、駐スイス大使、国連アジア経済開発研修所長等を歴任した。正三位勲一等瑞宝章。 兵庫県加古川市出身。通産省官僚で日米繊維交渉時などで日東紡績会長を務めた柿坪精吾は弟。姫路市立姫路商業学校(現兵庫県立姫路商業高等学校)在学中、同級生の黒田俊夫(のちに日本大学人口問題研究所名誉所長)とともに東京商科大学(現一橋大学)進学を目指し、同大に進学。大学在学中文官高等試験に合格し、1932年に中退し外務省に入省した。 ケンブリッジ大学留学や、大東亜省南方事務局事務官、自由インド仮政府一等書記官等を経て、第二次世界大戦後は外務省情報文化局長、国連政府代表部大使、駐パキスタン特命全権大使、駐アラブ連合共和国特命全権大使、駐スイス特命全権大使、国連アジア極東経済委員会研修所長、国連アジア経済開発研修所長等を歴任した。
三橋 勲(みつはし いさお、1907年 - 1984年)は、… 三橋 勲(みつはし いさお、1907年 - 1984年)は、日本の実業家、学校経営者。元学校法人旭川大学理事長。北海道旭川市出身。 この他、公職として旭川経営者協会会長や、旭川ロータリークラブ会長、旭川信用金庫理事などを歴任。 髙木正雄『北海道建設人物事典』(北海道建設新聞、2008年) この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
高津 俊久(こうづ としひさ、1907年〈明治40年〉 - … 高津 俊久(こうづ としひさ、1907年〈明治40年〉 - 1981年〈昭和56年〉)は、日本の都市計画家。大阪市の都市計画事業をてがけた。 大阪市南区に生まれる。1931年(昭和6年)に京都帝国大学工学部土木工学科を卒業後、大阪市に就職する。以来、第2次および第3次の大阪都市計画事業をはじめとする都市計画分野の職務に従事した。1945年(昭和20年)から大阪市復興局計画部計画課長となり,太平洋戦争での被災により市域の27パーセントに当たる1600万坪に及ぶ広大な地域を焼失した後の戦災復興事業の推進にあたる。大阪市は全国の同事業の中で最大となる1069万坪の規模であった。その後は、同市建築局の整地部次長から整地部長、計画部長を経て大阪市計画局長を歴任した。
河井 洋一(かわい よういち、1907年[要出典] - 19… 河井 洋一(かわい よういち、1907年[要出典] - 1980年2月)は、日本の実業家。旭電化工業株式会社(現・株式会社ADEKA)元社長、会長。 1907年生まれ。慶應義塾大学卒業後、古河電工常務取締役を経て、古河化学工業社長、日本石油化学副社長を歴任し[要出典]、1971年5月旭電化工業株式会社社長就任。1977年6月会長就任。1979年6月相談役就任。1980年2月死去。 父は横浜護謨製造(現・横浜ゴム)初代社長の河井浩。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
中島 関爾(なかじま かんじ、1907年 - 1980年)は… 中島 関爾(なかじま かんじ、1907年 - 1980年)は、日本の英文学者、博士。駒澤大学教授、僧侶。 駒澤大学文学部人文学科(英文学)卒業。曹洞宗研究生を経て、国際仏教協会に就職。東亜研究所嘱託も務めた。戦後、駒澤大学教授となる(英文学)。 1961年、論文「シェイクスピアの批判的研究」で博士号(文学、駒澤大学)取得。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
前田 幸蔵(まえだ こうぞう、1907年(明治40年) - … 前田 幸蔵(まえだ こうぞう、1907年(明治40年) - 1986年(昭和61年))は、日本の公認会計士、税理士。元日本税理士会連合会会長。 鳥取県八頭町(旧船岡町)出身。1934年(昭和9年)拓殖大学商科を卒業し、同年計理士に登録。1950年(昭和25年)、公認会計士試験に合格する。日本計理士会常任理事、税理士試験委員、中小企業中央連絡懇談会委員等を歴任。 1965年の第7回参議院議員通常選挙では、全国区で立候補して当選した青木一男を支援。後に公職選挙法違反(違法文書配布)の容疑で警視庁に逮捕された。
西里 龍夫(にしさと たつお、1907年 - 1987年)は… 西里 龍夫(にしさと たつお、1907年 - 1987年)は、日本の社会主義運動家。戦後は日本共産党熊本県委員長を務めた。 熊本県出身。東亜同文書院大学に26期生として入学。在学中、「日支闘争同盟」を結成し、海軍陸戦隊に反戦ビラをまく事件を起こした。安斎庫治、中西功らとともに反戦運動を行う。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
宮崎 一老(みやざき いちろう、1907年(明治40年) -… 宮崎 一老(みやざき いちろう、1907年(明治40年) - 没年不明)は、日本の水産学者。兵庫県生まれ。旧制姫路高等学校を経て、1932年に東京帝国大学農学部水産学科を卒業、農林省水産講習所(現東京海洋大学)金沢演習場、農林省水産局(現農林水産省)、宮崎県経済部水産課、鯨類研究所勤務。1962年「二枚貝の発生、特に浮游幼貝の識別に関する研究」で東北大学農学博士。日本捕鯨協会勤務。
小沢 武夫(おざわ たけお、1907年 - 1996年)は、… 小沢 武夫(おざわ たけお、1907年 - 1996年)は、日本の外交官。シカゴ総領事、駐チェコスロヴァキア特命全権大使などを務めた。 神奈川県出身。1932年東京商科大学(現一橋大学)卒業。1936年高等試験外交科合格、外務書記生(アメリカ合衆国)。1937年外交官補(アメリカ合衆国)。1938年上海・漢口領事官補。1940年外務省東亜局第二課兼対満事務局事務官。1942年満州国勲三位桂国章受章。1943年満州国国勢調査紀念章受章。 日本の降伏後、一等書記官を経て、1945年終戦連絡地方事務局連絡官。1948年総理庁官房財閥役員審査課長。1951年外務省連絡局調整課長。1952年、サンフランシスコ平和条約の発効によりペルーとの国交が再開したことに伴い、駐ペルー臨時代理公使に赴任。
矢吹 勝二(やぶき かつじ、1907年 - 1986年)は、… 矢吹 勝二(やぶき かつじ、1907年 - 1986年)は、日本の英語学者。 広島県生まれ。1931年早稲田大学高等師範部英語英文学科卒業、ジャパン・ツーリスト・ビューロー入社。1967年定年退職、調布学園女子短期大学教授。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
石津 良介(いしづ りょうすけ、明治40年(1907年) -… 石津 良介(いしづ りょうすけ、明治40年(1907年) - 昭和61年(1986年))は、日本の写真家。ファッションデザイナー・石津謙介の兄。 岡山県岡山市片瀬町(現・岡山市北区天瀬)の老舗紙問屋「紙石津」の長男として生まれる。慶應義塾大学経済学部に入学。在学中に家業を継がないことを宣言し、これにより弟の謙介が家業を継ぐ羽目になった。昭和7年(1932年)大学を中退。帰郷し写真家を志す。 一時期、松竹キネマに入社。昭和9年(1934年)岡山在住の写真家・大森一夫、山崎治雄らと県下で初の写真家集団「光ト影の会」を結成(のちの岡山県知事・長野士郎が旧制第六高等学校時代、石津に憧れ同会に入会している)。
入江 好之(いりえ よしゆき、本名:入江 好行、1907年(… 入江 好之(いりえ よしゆき、本名:入江 好行、1907年(明治40年) - 1989年(平成元年))は、日本の詩人・児童文学作家・教育者・経営者。 北海道小樽市生まれ。1928年(昭和3年)旭川師範学校(現・北海道教育大学旭川校)卒業。 在学中に詩誌「北斗星」を創刊。旧制中学校教諭]しながら、作詩活動を続け、詩誌「青光」を創刊。1936年(昭和11年)に第一詩集「あしかび」を刊行。その後官憲の弾圧を受け、教職を辞職し、1943年(昭和18年)に満州国に渡る。満州国日本人中学校の教員をしていたが、終戦。シベリア抑留を経て、1949年(昭和24年)に帰国。 1956年(昭和31年)北海道詩人協会の設立に参画し、同協会事務局長に就任( - 1976年(昭和51年))。
本部 マサ(ほんぶ マサ、1907年 - 1991年)は、宮… 本部 マサ(ほんぶ マサ、1907年 - 1991年)は、宮崎県において埴輪の複製の制作に従事し、多数の作品を残した女性。「はにわ製作の先駆者」と評される。1955年には、宮崎市に本部はにわ製作所を開業して、以降、土産物などとして販売される埴輪を多数制作した。 1963年に開園した宮崎市の平和台公園にある「はにわ園」には、本部が制作した複製の埴輪およそ400基が配置された。 本部マサは、下穂北村(後の西都市の一部)に生まれた。父親の大次郎は、林業経営の傍ら商家でもあったが、古墳の遺跡や出土品への関心をもっており、西都原古墳群の発掘調査にも関わりがあったため、マサは幼い頃から出土品に触れる機会があった。
永田 寛(ながた ひろし、1907年(明治40年) - 不明… 永田 寛(ながた ひろし、1907年(明治40年) - 不明)は、日本のホッケー選手。第10回ロサンゼルスオリンピック銀メダリスト。
佐藤 昌胤(さとう しょういん、1907年(明治40年)- … 佐藤 昌胤(さとう しょういん、1907年(明治40年)- 1970年(昭和45年)9月4日)は画家。伊勢湾台風を題材にした絵画などで知られる。三重県桑名郡長島町(現在の三重県桑名市)出身、長島町町会議員も務めた。 晩年住んだ屋敷は改修され、桑名市の情報交流施設・又木茶屋として利用されている。 1921年(大正10年)、三重県立津中学校に入学する。1924年(大正13年)、三重県立富田中学校に編入学するも、翌年退学する。同校の先輩の丹羽文雄の影響を受け、文学を志し上京した。川端画学校で油絵の修業を始め、曽宮一念の指導を受けた。1928年(昭和3年)「晩秋の丘」が帝展に入選する。1930年から春陽会に出品し、1948年に準会員として推挙され、後に会員となる。
本庄 光郎(ほんじょう こうろう、1907年 - 1995年… 本庄 光郎(ほんじょう こうろう、1907年 - 1995年6月7日)は、大阪府出身の写真家。シュルレアリスムなど前衛芸術に強く影響され、あらゆる技法を駆使したヌード作品を多く制作したことで知られる。大阪大倉商業学校(現・関西大倉高等学校)出身。
小畠 元雄(おばたけ もとお、1907年〈明治40年〉 - … 小畠 元雄(おばたけ もとお、1907年〈明治40年〉 - 2004年〈平成16年〉8月17日)は、日本の演劇学者。 大阪生まれ。神戸第一中学校(現兵庫県立神戸高等学校)卒、第六高等学校卒、1929年東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業、同大学院入学後、1931年演劇研究のため渡米、ミネソタ大学、コロンビア大学大学院で学び、その後ヨーロッパに滞在、1934年帰国。1935年国士舘大学教授、大阪学芸大学(のち大阪教育大学)教授。1969年『演劇学の基本問題』で日本演劇学会河竹賞受賞。1970年大阪教育大学名誉教授。1978年勲三等旭日中綬章受勲。
猪野 俊平(いの しゅんぺい、1907年(明治40年) - … 猪野 俊平(いの しゅんぺい、1907年(明治40年) - 1981年(昭和56年)7月4日)は、日本の植物形態学者。愛媛県生まれ。松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)、松山高等学校卒、東京帝国大学理学部生物学科卒。1946年「ネジモクの胚発生について」で東北帝国大学理学博士。北海道帝国大学理学部講師、岡山大学助教授、教授。1970年定年退官、名誉教授。
正田 満三郎(しょうだ まんさぶろう 1907年 - 没年不… 正田 満三郎(しょうだ まんさぶろう 1907年 - 没年不明)は、日本の裁判官、法学者。
保田 耕(やすだ こう、1907年 - 1943年9月7日)… 保田 耕(やすだ こう、1907年 - 1943年9月7日)は、日本の眼科医。外島保養院と邑久光明園というハンセン病療養所に勤務し、初代奄美和光園園長が発令されたが、応召し、中国で戦病死した。 1907年、和歌山県で出生。 1932年。大阪大学卒業。外島保養院医員。1934年。外島保養院水害後は邑久光明園に勤務。1938年。邑久光明園医務課長。1943年4月。奄美和光園園長発令。5月27日園長保田耕ほか職員7名と家族21名が奄美大島に到着。戦争が激しく奄美島民の出迎えはなかった。1943年8月31日。応召。1943年9月7日。中国で戦死。同日 松本当太郎が奄美和光園園長心得に発令。別の文献によると、43年9月に赤紙がきた。
中森 三彌(なかもり さんや、1907年(明治40年)- 2… 中森 三彌(なかもり さんや、1907年(明治40年)- 2002年(平成14年)7月16日)は、日本の写真家である。 大阪新橋の染物屋に生まれる。関西大学専門部中退。大阪光芸倶楽部、銀影探光倶楽部を経て、1940年(昭和15年)、浪華写真倶楽部に入会。小石清、本庄光郎、花和銀吾らから指導を受ける。長く同倶楽部の幹事長や代表を務めた。中藤敦らと堺公共職業補導所写真科にて指導、なんばデザイナー学院写真科教授。サンフォトクラブを主宰する傍ら、他写真クラブを指導しアマチュア写真家の育成に携わった。他にくらぶ草土会、オール関西写真集団に属した。日赤大阪府支部写真奉仕団団長、大阪写真材料商業組合理事、全日本写真連盟関西本部顧問を務め、日本写真協会功労賞、全日本写真連盟関西本部表彰、日本赤十字社厚生大臣特別表彰など各方面から受賞。
李 錫基(イ・ソッキ、朝鮮語: 이석기、1907年または19… 李 錫基(イ・ソッキ、朝鮮語: 이석기、1907年または1908年1月2日 - 1974年6月25日または1975年6月25日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の公務員、政治家、実業家。牙山郡守、公州郡守、第4・5代大田府尹、ソウル特別市副市長、第2・3・5代韓国国会議員を歴任した。 本貫は洪川李氏。仏教徒。元国会議員の方一弘は娘婿。 忠清南道扶余郡出身。1931年京城法学専門学校卒、1939年中央大学法学部卒。弁護士試験、高等文官試験行政科合格。京畿道内務部を経て、1941年に牙山郡守、1945年に公州郡守、忠清南道地方課長、1946年に第4・5代大田府尹、1948年にソウル特別市副市長、1950年に文教部秘書室長、国会議員、1953年に国会内務委員長、以後弾劾裁判所審判官、民主党院内副総務・総務、1967年に新韓党常務委員を歴任した。
井上 真六(いのうえ しんろく、1907年 - 没年不詳)は… 井上 真六(いのうえ しんろく、1907年 - 没年不詳)は第二次大戦中の資材不足を補うため、純国産木製飛行機の製造を提唱し、キ107を開発した航空機技術者。父は李氏朝鮮顧問であり、ハングル普及に尽力したことでも知られる井上角五郎。 東京の麹町区一番町で1907年(明治40年)4月9日に生まれる。衆議院議員を長く務め、いくつもの企業設立に関わる実業家でもあった父の邸宅で育ち、兄弟一人ずつに女中が付く生活であった。東京府立第五中学校から第一高等学校へ進学。1931年(昭和6年)3月に東京大学工学部航空学科を卒業し、中島飛行機製作所へ入社した。同社では太田工場設計部技師となり、試作設計業務に従事する。
佐藤 章蔵(さとう しょうぞう、1907年〈明治40年〉 -… 佐藤 章蔵(さとう しょうぞう、1907年〈明治40年〉 - 1981年〈昭和56年〉7月12日)は日本の工業デザイナー。東京都出身。若い頃から自動車の造形美に魅せられ、第二次世界大戦前から東京の街頭で多くの名車・珍車を撮影していた。 1937年(昭和12年)に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、日産自動車に入社。1954年(昭和29年)に同社初代造形課課長となり、ダットサン・110/210型系(1955年発表)及びその後継車である初代ブルーバード(310型系、1959年発表)をデザインした。1956年(昭和31年)には110型の改良型である112型のデザインで毎日デザイン賞を受賞する。両車のデザインは共に虚飾が無く、シンプルで機能的なことが特徴であった。
中村 常次郎(なかむら つねじろう、1907年 - 1980… 中村 常次郎(なかむら つねじろう、1907年 - 1980年7月16日)は、日本の経営学者。東京大学名誉教授。 秋田県秋田市出身。東京帝国大学経済学部卒、1954年「経営経済学の展開」で東京大学より経済学博士の学位を取得。福島高等商業学校教授を務め、1949-1951年福島大学の初代学長、東京大学経済学部教授となり、1968年定年退官、名誉教授、中央大学教授、創価大学教授を務めた。
浜田 義一郎(はまだ ぎいちろう、1907年 - 1986年… 浜田 義一郎(はまだ ぎいちろう、1907年 - 1986年6月11日)は、日本の国文学者。近世の狂歌、川柳を研究した。 東京神田神保町生まれ。1932年、東京帝国大学国文科卒。東洋大学助教授、教授を経て、1969年、大妻女子大学教授。
吉倉 範光(よしくら のりみつ、1907年 - 1988年3… 吉倉 範光(よしくら のりみつ、1907年 - 1988年3月23日)は、日本の精神医学者。 東京出身。1933年東京慈恵会医科大学卒業、千葉医科大学講師、フランス留学、1947年「青年期「独創的危機」の精神病理学的研究」で慶応義塾大学医学博士。戦後は日本大学医学部教授。
頭山 秀三(とうやま ひでぞう 1907年 - 1952年)… 頭山 秀三(とうやま ひでぞう 1907年 - 1952年)は、日本の右翼活動家。 頭山満の三男。東京農業大学卒業。1931年に天行会を創設して会長となる。1932年に古賀清志、中村義雄から計画を打ち明けられ、五・一五事件に後援していた。児玉誉士夫らと共に暗殺計画を企てていたことから検挙され、禁固3年となる。1940年には大森曹玄らと日本主義青年会議を結成。大政翼賛会参与にもなる。1952年より街頭で演説会を行っていたが、1か月で交通事故で死去。三島由紀夫の小説のモデルにもなる。 1945年8月20日に放送のNHKの放送原稿を執筆する。そこでは日本にたった1つ不足していたことは、負けた国というのはどれほど苦しくて恥ずかしいかということを少しも知らなかったことであるとする。
宇高 勲(うだか いさお、1907年 - 1979年12月2… 宇高 勲(うだか いさお、1907年 - 1979年12月26日)は日本の実業家、プロ野球球団経営者・スカウト。 1907年(明治40年)和歌山県生まれ。父親は鉄道省勤務。早稲田大学理工科卒業。大学卒業後単身中華民国青島市に渡り、貿易業に従事した。ここで得た利益をもとに帰国後、兵庫県神戸市で貿易商を営む傍ら、大阪市で旋盤工場を経営した。この時期に戦況の激化を考慮し、兵庫県尼崎市に電線工場を購入した。1944年(昭和19年)応召。応召期間中に大阪の旋盤工場は空襲で焼失したが、尼崎の電線工場は焼け残ったため、第二次世界大戦後、自動車クラクションの製造を開始した。この自動車部品製造会社、宇高産業は成功を収め、巨額の利益をあげた。
河村 みゆき(かわむら みゆき、1907年-1947年)は、… 河村 みゆき(かわむら みゆき、1907年-1947年)は、自由律俳句の荻原井泉水に学んだ女流俳人。神奈川県小田原市の出身。旧姓は富田。 若くから求道者的な姿勢をもち、一燈園に身を投じ、その後岡山の金光教に移り、そこで夫河村恵雲と知り合う。結婚後は、夫の両親と、愛媛県西条市にある香園寺で暮らすが、まもなく肺結核を病んで床につく。そこに1939年10月8日に同門の俳人種田山頭火が見舞いに訪れ、13日まで滞在した。雑誌『層雲』(1936年)に句が残っている。山頭火に送った追悼文「をぢさん-山頭火翁の霊前に-」(『層雲』昭和16年4月号所収)がある。『層雲』には度々彼女の句が掲載されているが、闘病生活を詠んだものが多い。
山田 国広(やまだ くにひろ、1907年 - 1987年12… 山田 国広(やまだ くにひろ、1907年 - 1987年12月27日)は、左翼の政治運動家。 長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)生まれ。1924年長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒。永明小学校代用教員。 日本共産党に入り、1933年検挙(長野県教員赤化事件)。34年下獄。36年釈放。1937年上京、思想犯保護団体帝国更新会に入り、のちその事務員となる。 1942年頃から東京の目黒、蒲田などの町工場の徒弟教育の仕事に従事、戦時中はそれらの工場舎監、青年学校の事務をとる。44年諏訪に疎開し工場に勤務、敗戦を迎える。 46年から61年まで民主化運動に従事。党内闘争で共産党を除名され、文筆をもって訴える。
飛鳥 明子(あすか あきこ、1907年 - 1937年8月1… 飛鳥 明子(あすか あきこ、1907年 - 1937年8月15日)は、OSK日本歌劇団(当時は松竹楽劇部)の最初期のトップスター(当時の呼称は「幹部」)。1933年の労働争議、いわゆる桃色争議を機に退団。退団後に同歌劇団の振付師、舞踊教師。本名:片野 貞子(かたの さだこ)。旧姓・松田。大阪府高石市出身。 開業医の娘として生まれる。ロシア革命の影響で日本に亡命したバレリーナ・エリアナ・パヴロワの舞台を見てバレリーナを志す。高等女学校を経て、松竹楽劇部(後のOSK日本歌劇団)に入団し、OSKの誕生時から舞台に立つ。1世紀以上の歴史を持つOSK初の看板になるスターで、当時のOSKはトップスター制ではなく幹部制だが、初代トップスターと呼ばれる 。
飯島 綾子(いいじま あやこ、1907年 - 1954年9月… 飯島 綾子(いいじま あやこ、1907年 - 1954年9月25日)は、日本の舞台女優、日本舞踊家、歌手、声優。主に戦前の昭和初期に活躍した。本名は飯田 日出子(いいだ ひでこ)。舞踊家としては藤間 勘秀(ふじま かんひで)を名乗る。元夫は俳優の三島雅夫。 東京府東京市赤坂区(現・東京都港区赤坂)出身。幼少時に父親を亡くし、仕立物で生計を立てる母親のもとで育つ。 1921年(大正10年)に帝国劇場付属技芸学校(旧・帝国女優養成所。女優川上貞奴の創立した養成所)の7期生として入学し、1923年(大正12年)に卒業。同期に女優の河原崎しづ江(山岸静江→山岸しづ江)・舞踊家の吾妻徳穂(藤間春江)らがいる。