戸塚 七郎(とつか しちろう、1925年3月11日 - )は… 戸塚 七郎(とつか しちろう、1925年3月11日 - )は、日本の哲学研究者、旧・東京都立大学名誉教授。西洋古典哲学専攻。 北海道小樽市生まれ。1950年京都大学文学部哲学科卒。東京都立大学助教授、教授、1987年定年退官、愛知大学教授。
1925年(大正14年)生まれ:937人
戸塚 七郎(とつか しちろう、1925年3月11日 - )は… 戸塚 七郎(とつか しちろう、1925年3月11日 - )は、日本の哲学研究者、旧・東京都立大学名誉教授。西洋古典哲学専攻。 北海道小樽市生まれ。1950年京都大学文学部哲学科卒。東京都立大学助教授、教授、1987年定年退官、愛知大学教授。
折口 透(おりぐち とおる、1925年3月11日 - )は、… 折口 透(おりぐち とおる、1925年3月11日 - )は、日本の自動車評論家、翻訳家。 本名・伊藤 哲(さとし)。折口透の名で自動車評論や翻訳を、伊藤哲の名でSFや冒険小説の翻訳を行った。 宮城県仙台市生まれ。1952年東京大学理学部中退。1955年モーターマガジン社編集部長。1962年から1965年ホンヤク出版社取締役・編集長。1972年モーターマガジンインターナショナル社取締役・編集長。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
古沢 友吉(ふるさわ ともきち、1925年3月11日 - 2… 古沢 友吉(ふるさわ ともきち、1925年3月11日 - 2010年8月1日)は、日本の経済学者。 神奈川県出身。東京商科大学卒。横浜市立大学講師、助教授、教授。1990年定年退官、名誉教授。2002年、勲三等旭日中綬章受章。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
松島 鈞(まつしま ひとし、1925年(大正14年)3月10… 松島 鈞(まつしま ひとし、1925年(大正14年)3月10日 - 2011年(平成23年)12月17日)は、日本の教育学者。筑波大学名誉教授。 静岡県生まれ。1952年東京文理科大学教育学科卒、1966年「フランス革命期における公教育組織の成立過程とその思想に関する研究」で東京教育大学教育学博士。千葉大学助教授、東京学芸大学助教授、東京教育大学教授、筑波大学教授、教育学系長、1984年副学長。1989年定年退官、名誉教授、大正大学教授、1996年聖徳大学教授、東京成徳学園理事、副学長。在任中に死去。2003年春、勲三等旭日中綬章受勲。没後正四位。
中川 一郎(なかがわ いちろう、1925年〈大正14年〉3月… 中川 一郎(なかがわ いちろう、1925年〈大正14年〉3月9日 - 1983年〈昭和58年〉1月9日)は、日本の政治家。衆議院議員。自由民主党の派閥・自由革新同友会の領袖。正三位勲一等。 農林大臣(第49代)、農林水産大臣(初代)、科学技術庁長官(第35代)、原子力委員会委員長(第35代)。 「北海のヒグマ」と呼ばれ、タカ派議員として知られていた。財務大臣兼内閣府特命担当大臣(金融担当)などを務めた中川昭一は長男。参議院議員を務めた中川義雄は実弟。 北海道広尾郡広尾町に農業・中川文蔵、セイの長男として生まれた。祖父・五八郎の時代に富山県福光町から北海道の広尾郡広尾村にある山奥の開拓地に移住した農民の出である。
蜷川 譲(にながわ ゆずる、1925年3月9日 - 2014… 蜷川 譲(にながわ ゆずる、1925年3月9日 - 2014年7月9日)はフランス文学者、比較文学者、ロマン・ロラン研究家。 本籍は愛知県一宮市。台湾台北州基隆市に生まれる。愛知東海中学校卒。1948年早稲田大学政経学部卒業、同文学部大学院にて現代フランス文学を専攻。1954年渡欧、1957年帰国までパリ大学ソルボンヌにおいて学ぶ。日本福祉大学教授、早稲田大学講師などを務めた。1951年に兵藤正之助、金井光太郎らと日本ロマン・ロラン協会を創立。昭和30年代からは窪村らの参加を得て、東京の新宿(初期は毎月)、水道橋労音(年3回)、五反田(年2回)、吉祥寺(晩年は年2回)で、449回にわたり「ロマン・ロラン研究会」を主催した。
大谷 光紹(おおたに こうしょう、1925年(大正14年)3… 大谷 光紹(おおたに こうしょう、1925年(大正14年)3月9日 - 1999年(平成11年)12月24日)は、浄土真宗の僧で、浄土真宗東本願寺派第25世法主。東京都台東区の東京本願寺(現:浄土真宗東本願寺派本山東本願寺)住職。幼名は光養麿。雅号は愚苑。院号は無稱光院。法名は興如。上皇の従兄、今上天皇の従伯父に当たる。弟は大谷暢順、大谷暢顯、大谷光道。長男は大谷光見。 東本願寺第24世法主(のちに門首)・大谷光暢(闡如)の長男として誕生。母は久邇宮邦彦王の三女で香淳皇后の妹に当たる大谷智子。1934年(昭和9年)、真宗大谷派の法嗣(法主後継者)として得度。1946年(昭和21年)、京都大学文学部史学科を卒業し、その後、アメリカのハーバード大学やコロンビア大学等に留学。
井上 周八(いのうえ しゅうはち、1925年〈大正14年〉3… 井上 周八(いのうえ しゅうはち、1925年〈大正14年〉3月9日 - 2014年〈平成26年〉9月26日)は、日本の経済学者。専攻は農業経済学。立教大学名誉教授。チュチェ思想国際研究所名誉理事長。 マルクス経済学における地代論で知られる。立教大学在職中より北朝鮮と朝鮮労働党のチュチェ思想の宣伝工作に熱意を燃やし、日本におけるチュチェ思想宣伝の旗振り役として知られる。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
稲田 献一(いなだ けんいち、1925年〈大正14年〉3月8… 稲田 献一(いなだ けんいち、1925年〈大正14年〉3月8日 - 2002年〈平成14年〉5月17日)は、日本の経済学者、大阪大学名誉教授。 群馬県桐生市に生まれる。旧制群馬県立桐生中学校(現・群馬県立桐生高等学校)、旧制第一高等学校を経て、東京大学理学部数学科卒業、同大学院理学研究科数学専攻修了。 1948年(昭和23年)獨協高等学校教諭となり、1953年(昭和28年)東京都立大学講師、助教授を経て1965年(昭和40年)教授に就任。1966年から1969年にかけてニューサウス大学、スタンフォード大学の客員教授に招かれる。1969年(昭和44年)年に大阪大学社会経済研究所教授となり、後に所長。
一柳 東一郎(ひとつやなぎ とういちろう、1925年3月8日… 一柳 東一郎(ひとつやなぎ とういちろう、1925年3月8日 - 2016年6月7日)は、日本のジャーナリスト。元朝日新聞社社長。 東京都出身。東京帝国大学文学部卒。1948年朝日新聞東京本社入社。札幌支局、政治部を経て、1964年論説委員、1966年政治部長、1967年東京本社編集局次長、1970年7月西部本社編集局長、1973年9月東京本社編集局長、1977年12月取締役・東京本社編集局長、1978年12月常務取締役・大阪本社代表、1982年6月代表取締役専務取締役・大阪本社代表、1983年10月副社長と歴任して、1984年12月社長に就任。営業成績の伸び悩みから、1985年3月に常務会メンバーを中心とする「長期ビジョン懇談会」を設置し、全社員にアイディアを求めて長期経営戦略をまとめ、新聞という単一商品依存型の経営から脱皮し、総合情報産業として立つことを目指し、新媒体として1988年に『AERA』、『ASAHIパソコン』、1989年に『月刊ASAHI』を創刊したが、1989年4月に朝日新聞社のカメラマンが沖縄県西表島で珊瑚に傷を付け、その写真を基に記事を捏造した珊瑚事件で同年6月に引責辞任した。
伊藤 延男(いとう のぶお、1925年3月8日 - 2015… 伊藤 延男(いとう のぶお、1925年3月8日 - 2015年10月31日)は、日本の建築史学者、文化財保護者、文化功労者。東京国立文化財研究所名誉研究員、神戸芸術工科大学名誉教授。 愛知県名古屋市出身。愛知一中を経て、1947年東京帝国大学工学部建築学科卒業後、国立博物館に入り、奈良国立文化財研究所建造物研究室長、1961年「中世和様建築の研究」で東京大学より工学博士の学位を取得。1971年文化庁文化財保護部建造物課長、1978年東京国立文化財研究所所長。87年定年退官、名誉研究員、神戸芸術工科大学教授、同名誉教授。1995年勲三等旭日中綬章受章。2004年文化功労者。2012年ガッゾーラ賞受賞。
逸見 武光(へんみ たけみつ、1925年3月8日 - 200… 逸見 武光(へんみ たけみつ、1925年3月8日 - 2002年3月25日)は、日本の精神科医。 京都市出身。京都帝国大学附属医学専門学校精神科卒。1960年「てんかん及び類てんかんの犯罪精神医学的研究」で京都大学医学博士。京大医学部精神医学教室、法務省大津少年鑑別所、総合研究所、文部省、東京大学医学部教授、1985年定年退官、聖マリアンナ医学研究所顧問。島津一郎らと研究会を開いた。薬物依存治療を研究した。
木村 浩(きむら ひろし、1925年3月8日 - 1992年… 木村 浩(きむら ひろし、1925年3月8日 - 1992年10月30日)は、日本のロシア文学者。筆名は、北野純、北見一郎。 東京府(現・東京都)生まれ。1945年、東京外事専門学校(現・東京外国語大学)露語科卒業。1950年から1953年まで旺文社勤務の後、1957年から1967年にかけて法政大学、横浜市立大学(1961年度 - 1966年度)、東京大学などで講師を歴任した。一方、ロシアの小説作品を数多く訳し、特にアレクサンドル・ソルジェニーツィンの翻訳で知られ、本人と交流があり、ソルジェニーツィンの国外追放などソ連の模様もレポートした。『ロシア文学の周辺』など著書も多く、流ちょうな随筆風の語り口に特色がみられる。
山畠 正男(やまはた まさお、1925年(大正14年)3月8… 山畠 正男(やまはた まさお、1925年(大正14年)3月8日 - 2016年(平成28年)2月24日)は、日本の法学者・弁護士。専門は民法。学位は、法学博士(東北大学)。北海道大学名誉教授。号は「山畠容童」。2002年勲二等瑞宝章受章。中川善之助門下。 略歴は以下のとおり。 この他、札幌家庭裁判所調停委員、北海道地方労働委員会公益委員・同会長、北海道大学評議員、北海道労働協会理事、学校法人札幌学院大学理事なども務めた。 専門は家族法。特に養子に関する法律や親族法を研究。「札幌身分法研究会」を創設。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
岡崎 晋(おかざき すすむ、1925年3月8日 - )は、日… 岡崎 晋(おかざき すすむ、1925年3月8日 - )は、日本の北欧文学者、東海大学名誉教授。 島根県益田市出身。1945年陸軍特別幹部候補生水上特攻隊除隊、1949年京都府農林専門学校農学科卒業、1951年早稲田大学文学部卒業、54年同大学院修士課程修了。55-59年デンマークのコペンハーゲン大学およびアイスランド大学で一般言語学、デンマーク語、アイスランド語を学ぶ。1967年東海大学文学部北欧文学科専任講師となり、助教授、教授。95年定年退職、名誉教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
野口 正明(のぐち まさあき、1925年3月7日 - 200… 野口 正明(のぐち まさあき、1925年3月7日 - 2004年3月24日)は、福岡県飯塚市出身のプロ野球選手(内野手、外野手、投手)。 飯塚商業学校卒業後、1942年名古屋軍に内野手として入団。同年5月、プロ野球史上最長イニング記録の28イニングを戦った対大洋戦では、六番・一塁手として出場。翌1943年、投手に転向し12勝をあげ、石丸進一、西沢道夫らと共に投手陣の柱として活躍した。この頃、晩年の沢村栄治からも安打を放っている。1944年9月に行われた日本野球総運動大会にも参加し、その後応召された。 戦時中は満州で憲兵として活躍していたが、シベリア抑留を経験。栄養失調で倒れ、生死の境を彷徨ったが、戦友の看護により一命を取り留める。
松澤 昭(まつざわ あきら、1925年3月6日- 2010年… 松澤 昭(まつざわ あきら、1925年3月6日- 2010年8月13日)は、東京出身の俳人。東京府滝野川町(現北区)生。父は「雲母」同人の松澤鍬江。少年時代より萩原朔太郎、三好達治に憧れて詩作を試み、また10代の頃より松澤家の常連来客である松村蒼石らを知り俳句に興味を持つ。1944年、学徒動員時代に句作を開始。1946年、法政大学経済学部を卒業。この年に飯田蛇笏に会い師事する。1953年、「雲母」同人。1956年より現代俳句協会会員。1961年、石原八束、文挾夫佐恵、柴田白葉女らとともに「秋」を創刊。主宰を務める。1962年、「秋」主宰を辞し、1964年「四季」を創刊・主宰。2000年、現代俳句協会会長に就任。
御庄 博実(みしょう ひろみ、1925年3月5日 - 201… 御庄 博実(みしょう ひろみ、1925年3月5日 - 2015年1月18日)は、日本の詩人、医師。広島共立病院名誉院長。医師としては本名の丸屋博名義での著書もある。 山口県岩国市出身。岩国中学校から広島高等学校に学び、1945年、岡山医科大学に入学。帰省中のその年8月、近隣の住人の消息を探りに被爆直後の広島に入り入市被爆する。1949年、峠三吉と知りあい、峠たちの詩誌『われらの詩』に1950年から寄稿をはじめる。1951年、肺結核で入院中の岩国病院の患者自治会報に掲載した詩「失われた腕に」が、政令325号(占領目的阻害行為処罰令)違反にあたるとして逮捕される(不起訴となった)。 1952年、詩集『岩国組曲』を上梓、詩誌『列島』のグループに加わる。
廣渡 文利(ひろわたり ふみとし、1925年3月5日 - 2… 廣渡 文利(ひろわたり ふみとし、1925年3月5日 - 2007年7月24日)は、日本の地球科学者。専門は鉱物学・鉱床学。福岡県福津市生まれ。 旧海軍兵学校を経て、1950年に九州大学理学部地質学科を卒業。翌年九州大学理学部助手となる。1956年通産省工業技術院地質調査所(現産業技術総合研究所)に転任、1966年九州大学理学部助教授となり、1973年同教授に昇任。1988年九州大学定年退官。1962年、九州大学より理学博士の学位を取得。論文の表題は「Manganese ore deposits in Ryoke metamorphic zone.」。1986~88年日本鉱物学会(現日本鉱物科学会)会長。
稲葉 清右衛門(いなば せいえもん、1925年(大正14年)… 稲葉 清右衛門(いなば せいえもん、1925年(大正14年)3月5日 - 2020年(令和2年)10月2日)は、日本の技術者、経営者。位階は従四位。 工学博士(東京工業大学、1965年)。富士通で電気油圧パルスモーターや数値制御器の研究開発に従事し、NC工作機械の黎明期に大きな業績を残す。富士通の計算制御部から分離独立したファナックでは、経営者として同社をNC装置、産業用ロボットのトップメーカーに育て上げた。 富士通ファナック専務、副社長、社長、ファナック社長、代表取締役会長、相談役名誉会長を歴任し、精密工学会会長、日本ロボット学会副会長、日本産業用ロボット工業会会長なども務めた。NC関係の標準化活動にも実績がある。エンゲルバーガー賞、紫綬褒章、藍綬褒章、勲二等瑞宝章を受けた。ブルガリアやルクセンブルク大公国からも勲章を受けている。 やり手のワンマン経営者として知られ、高羅芳光(富士通の当時の社長)により富士通の計算制御部から分離独立されたファナックを、一代で工作機械のトップメーカーとして育て上げた。NC(数値制御)装置の世界シェアは50%、国内シェアは75%であり、世界トップシェアである。また、同社はメーカーとして驚異的な利益率の高さでも知られ、売上高経常利益率は44.83%(2008年3月期)にものぼる。 「研究開発と企業経営は不可分」という考えを持つ。社長になってからも、研究員に目標を与え、月に一回の社長主催の技術会議で報告をさせ、指導していた。名誉会長になってからも、2013年まで経営本部長や研究本部長に就いていた。その後は本社の相談役名誉会長の座からは退いてはいないものの、連結子会社を含めて、ファナックと名がつく国内7社の代表を退いたため、経営の第一線からは身を引いたのではないかと報じられた。 技術者としてはNC工作機械の数値制御、電気油圧パルスモータ、これらを活用した数値制御による連続切削等に実績があり、この分野の著書や記事も多い。日本ロボット学会副会長、精密工学会会長等を歴任。東京大学工学部において精密工学科(旧造兵学科)図書室の蔵書1万冊が処分されかけた際には、ファナック本社の書庫でそれを引き受けている。
小川 寛興(おがわ ひろおき、1925年3月5日 - 201… 小川 寛興(おがわ ひろおき、1925年3月5日 - 2017年7月19日)は、日本の作曲家。 東京府東京市芝区新橋(現在の東京都港区)出身。日本作曲家協会監事。 大倉高等商業学校中等科卒業(1943年)。 声楽を立松房子、薗田誠一、作曲および管弦楽法を服部良一、指揮法を森正に師事。藤原歌劇団合唱部でオペラを勉強するが、挫折し作曲に転向する。 1947年、服部良一の内弟子となり、1950年独立。服部門下の兄弟子に原六朗、佐野雅美らがいる。 帝国劇場のミュージカルの作曲および専任指揮者を経て、1960年から1961年までは日本コロムビアの専属作曲家となり、1962年から1973年まではキングレコードの専属作曲家となった。
三谷 信(みたに まこと、1925年(大正14年)3月4日 … 三谷 信(みたに まこと、1925年(大正14年)3月4日 - 2000年(平成12年)7月5日)は、日本の実業家。作家・三島由紀夫の幼少・青少年期の無二の親友。『仮面の告白』の草野のモデル。同書の園子のモデルは妹・三谷邦子。 学習院初等科から学習院中等科を経て、1944年(昭和19年)9月に学習院高等科を卒業するまで、14年間にわたり三島の同級生の親友であった。1944年(昭和19年)9月から1945年(昭和20年)9月まで幹部候補生として兵役に就いた。 1948年(昭和23年)3月、東北帝国大学(現・東北大学)法学部を卒業。日本興業銀行を経て、1979年(昭和54年)4月、興和不動産に監査役として1996年(平成8年)まで勤務した。
長谷川 晶(はせがわ あきら、1925年(大正14年)3月3… 長谷川 晶(はせがわ あきら、1925年(大正14年)3月3日 - 2005年(平成17年)6月11日)は、日本の洋画家・抽象画家である。 1925年3月3日北海道旭川にて、国鉄の車掌区に勤務していた父馨と母キヨとの次男として生まれる。稚内の小学校を卒業し、北海道庁立旭川中学校(5年制)を卒業後、北海道大学理学部臨教数学課へ進学。子供の頃から絵や漫画を描くのが得意であった。油絵を始めたのは大学に入ってからで、当時札幌在住の菊地精二に師事した。太平洋戦争末期、徴兵で旭川師団に入隊したが、まもなく終戦。卒業後、1946年21歳で函館高等女学校の数学教師として就職した。そこで田辺三重松と出会い師事した。
玉井 袈裟男(たまい けさお、1925年3月3日 - 200… 玉井 袈裟男(たまい けさお、1925年3月3日 - 2009年6月11日)は、日本の農学者、社会教育指導者、信州大学名誉教授。農村における実践経験に裏付けられた独自の実践的風土論を軸として、長野県を中心に、各地の農村における地域おこし、社会教育にたずさわり、農産物等、様々な特産品の開発にも関わった。教員としては、信州大学教養部にあって「農学」を長く担当し、定年退職後は松商学園短期大学教授となり、自らが主宰する風土舎を立ち上げ、地域づくり活動の拠点とした。 現在の長野県須坂市に生まれ、戦時中は軍隊生活を経験した。戦後、旧制・宇都宮農林専門学校から九州帝国大学農学部に進み、1948年に信州大学教員となった。
垣木 邦夫(がきき くにお、1925年 <大正14年> 3月… 垣木 邦夫(がきき くにお、1925年 <大正14年> 3月3日 - 1999年 <平成11年> 11月26日)は、日本の経営者。日本ビクター社長、会長を務めた。東京都出身。位階は従四位。 1948年に東京大学第一工学部電気工学科を卒業し、同年に日本ビクターに入社。1974年11月に取締役に就任し、1978年6月に常務、1980年6月に専務を経て、1986年6月に社長に就任。1990年6月に会長に就任し、1992年6月に顧問に就任。 1989年4月に藍綬褒章を受章し、1997年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1999年11月26日呼吸不全のために死去。74歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
田中 嫺玉(たなか かんぎょく、1925年3月2日 - 20… 田中 嫺玉(たなか かんぎょく、1925年3月2日 - 2011年7月20日)は、日本のベンガル語翻訳家、著作家。女性。「田中かん玉」とも表記。 1925年(大正14年)、北海道旭川市生まれ。北海道庁立旭川高等女学校(現・北海道旭川西高等学校)、日本女子大学家政科に進学。1945年(昭和20年)に戦争が終わると、中退して帰郷し、結婚して男の子2人を育てる。1954年(昭和29年)に東京都新宿区に引っ越した。1959年(昭和34年)、目白ロゴス英語学校を卒業。1969年(昭和44年)に仏教学者の渡辺照宏、東京外国語大学教授の奈良毅もとでベンガル語のラーマクリシュナの言行録『不滅の言葉』の翻訳を始め、5年後の1974年(昭和49年)に抄訳本を奈良毅と共訳で自費出版。
佐伯 有清 (さえき ありきよ、1925年(大正14年)3月… 佐伯 有清 (さえき ありきよ、1925年(大正14年)3月2日 - 2005年(平成17年)7月19日)は、日本の歴史学者。 1925年、東京市赤坂区で生まれた。法政大学第二高校を卒業し、名古屋大学文学部国史学科に進学。1952年に卒業し、1957年に東京大学大学院国史学専攻を修了。 1952年より母校の法政大学第二高校に勤務。後に同校校長となった。1962年、学位論文『新撰姓氏録の基礎的研究』を名古屋大学に提出し、文学博士号を取得。1971年、北海道大学教授に就いた。1983年、成城大学教授に転じた。1995年に成城大学を退任。 専門は日本史で、日本古代史。その研究内容は大きく下記の3つに分けられる。
中村 善也(なかむら ぜんや、1925年3月2日 - 198… 中村 善也(なかむら ぜんや、1925年3月2日 - 1985年4月5日)は、日本の西洋古典学者。 1925年、福井県で生まれた。京都大学文学部で学び、1949年に卒業。 卒業後は西京大学で教鞭を執った。1959年に西京大学は京都府立大学となったため、以降京都府立大学助教授。後に教授昇進。1985年、在職中に死去した。 専門は西洋古典学。ギリシア関係ではホメロスの叙事詩、ローマ関係ではキケロの『法律論』など多数の作品を翻訳した。
伊吹 新一(いぶき しんいち、1925年3月2日 - 201… 伊吹 新一(いぶき しんいち、1925年3月2日 - 2012年7月26日)は、京都府京都市生まれの指揮者・音楽監督・音楽教育者。 オーケストラ・合唱・吹奏楽を指揮することが多い中で、ハイドンのミサ曲の演奏に力を入れた。アメリカ、ハワイ、中国、カナダ、オーストリア、ウィーン、ドイツなど海外公演もこなし、国際的な活躍もみせた。 京都府京都市西本願寺前の念珠屋「伊吹新八商店」八代目として生まれる。立命館大学専門部法政科卒業後、同大学法学部へ進学。在学中に立命館大学メンネルコール、立命館大学混声合唱団メディックス、立命館大学交響楽団を創部。京都市役所渉外課に依頼され、マシュー・リッジウェイ第8軍司令長官宅でクリスマス・キャロルを演奏する。
森 乾(もり けん、1925年3月1日 - 2000年5月3… 森 乾(もり けん、1925年3月1日 - 2000年5月30日)は、日本のフランス文学者。早稲田大学名誉教授。金子光晴、森三千代の息子として東京に生まれる。1952年、早稲田大学仏文科卒業。1954年、同大学院修士課程修了、パリ大学に留学、比較文学を学ぶ。1956年、帰国、1958年、早大博士課程中退。早大社会科学部助教授、教授。1995年、定年退任、名誉教授。
北 修二(きた しゅうじ、1925年2月28日 - 2007… 北 修二(きた しゅうじ、1925年2月28日 - 2007年5月25日)は、日本の政治家。北海道・沖縄開発庁長官、参議院議員(3期、自民党)。北海道空知郡奈井江村出身。農民運動を展開した。 空知農業学校卒業。1951年に25歳で奈井江町議に初当選し、1967年に奈井江農協(現・新砂川農協(JA新すながわ))組合長。北海道農協中央会(JA北海道中央会)副会長、北海道テレビ放送番組審議会委員などを経て1977年の参議院選北海道選挙区でトップで初当選。連続3回当選。1981年北海道開発政務次官。1984年参議院農林水産委員長。1990年に鳩山由紀夫を北海道知事候補に目論むが失敗。自民党道連会長を辞任。
赤尾 兜子(あかお とうし、1925年(大正14年)2月28… 赤尾 兜子(あかお とうし、1925年(大正14年)2月28日 - 1981年(昭和56年)3月17日)は、日本の俳人。本名は赤尾俊郎。 兵庫県揖保郡網干町新在家(現:兵庫県姫路市網干区)で材木問屋を営む父・常治と母・とよの8人兄弟の二男として生まれた。網干尋常小学校、兵庫県立龍野中学校(現:兵庫県立龍野高等学校)を経て、1942年(昭和16年)旧制大阪外語専門学校中国語科へ入学する。この頃より俳誌『馬酔木』や『火星』に投句を始める。なお、同級生には蒙古語科の司馬遼太郎、一年上の印度語科に陳舜臣がいた。1944年(昭和19年)太平洋戦争激化のため、この年の9月に繰り上げ卒業し姫路に帰郷した。 1946年(昭和22年)京都大学文学部中国文学科入学、在学中の1948年(昭和23年)に水谷砕壺により俳誌『太陽系』の同人に推挙された。
本田良寛(ほんだ よしひろ、1925年〈大正14年〉2月27… 本田良寛(ほんだ よしひろ、1925年〈大正14年〉2月27日 - 1985年〈昭和60年〉7月1日)は、昭和後期の医師。日雇い労働者への奉仕的な医療で「釜ヶ崎の赤ひげ」「西成の赤ひげ」と呼ばれた。 大阪府大阪市城東区鴫野西の開業医の家に生まれる。大阪偕行社附属小学校(現・追手門学院小学校)、大阪府立八尾中学校(修業5年間の旧制中学校、現・大阪府立八尾高等学校)を経て、徳島医学専門学校(旧制医学専門学校)に入学。太平洋戦争の戦災の設備不良で徳島医専が廃校となったため、大阪市立医学専門学校(現・大阪市立大学の医学部の源流)に編入し卒業。父の開業医を継ぐ。 1963年(昭和38年)大阪市西成区萩之茶屋の大阪府済生会今宮診療所の所長に就任。
豊田 章一郞(とよだ しょういちろう、1925年(大正14年… 豊田 章一郞(とよだ しょういちろう、1925年(大正14年)2月27日 - )は、日本の実業家、技術者。勲等は桐花大綬章。学位は工学博士(名古屋大学・1955年)。トヨタ自動車株式会社名誉会長、日本経済団体連合会名誉会長、株式会社デンソー取締役、東和不動産株式会社取締役会長、社会福祉法人恩賜財団済生会会長、学校法人海陽学園理事長(初代)、学校法人トヨタ学園理事。
加藤 二郎(かとう じろう、1925年2月26日 - 201… 加藤 二郎(かとう じろう、1925年2月26日 - 2015年3月3日)は、ドイツ文学者、一橋大学名誉教授。 神奈川県生まれ。1951年東京帝国大学文学部独文科卒業。53年同大学院中退、54年明治学院大学講師、1961年電気通信大学助教授、1967年一橋大学社会学部助教授、70年教授、1988年定年退官、名誉教授、神奈川大学教授。95年退職。ロベルト・ムージルが専門で『特性のない男』を全訳した。叙従四位。
山内 大介(やまうち だいすけ、1925年2月26日 - 1… 山内 大介(やまうち だいすけ、1925年2月26日 - 1987年12月22日)は、毎日新聞社長。 福岡県出身。1949年東京大学法学部卒。同年毎日新聞入社。1952年フルブライト奨学生としてアメリカに留学、1962年毎日新聞ニューヨーク支局長。その後、帰国して取締役企画室長、代表取締役主筆を経て、1980年代表取締役社長に就任した。このほか、パレスサイドビルディング社長や横綱審議委員を務めた。
津神 久三(つがみ きゅうぞう、1925年2月26日 - 2… 津神 久三(つがみ きゅうぞう、1925年2月26日 - 2017年10月10日)は、日本のイラストレーター、西部劇研究家。 東京府東京市神田区(現・東京都千代田区)出身。本名・小林久三。別名・白井哲。1948年東京美術学校油絵科卒。NHKに2年勤めた後、フリーのイラストレーターとなり1963年渡米。ニューヨークで18年間過ごし、1980年帰国。千葉大学工学部教授としてイラストを教えた。1999年定年退官。西部劇研究家でもあった。
田邉 昇(たなべ のぼる、1925年2月26日 - 2018… 田邉 昇(たなべ のぼる、1925年2月26日 - 2018年2月14日)は、日本の大蔵官僚。近畿財務局長や、大蔵省大臣官房審議官を経て、西武化学工業社長、オールステート自動車・火災保険社長などを歴任した。 東京府生まれ。1947年高等文官試験行政科に2番の成績で合格。1948年東京商科大学(現一橋大学)卒業。同年に大蔵省入省後、ハーバード大学ハーバード・ロー・スクール留学。1949年金融検査官。1951年札幌国税局室蘭税務署長。1952年金沢国税局総務部総務課長。 国税庁長官官房審議官補佐を経て、1963年国税庁長官官房審議官。1964年大蔵省為替局局付、国際通貨基金シニア・エコノミスト。1967年大蔵省主税局税制第二課長。
石田 次男(いしだ つぎお、1925年〈大正14年〉2月24… 石田 次男(いしだ つぎお、1925年〈大正14年〉2月24日 - 1992年〈平成4年〉2月4日)は、日本の政治家、宗教家。公明党所属の参議院議員、創価学会理事、初代九州総支部長を務めた。 のちに、創価学会の反対派(批判者)になり、創価学会への批判活動を行っていた。 詳細は「創価学会#創価学会に対する批判」を参照。 1925年(大正14年)2月24日、秋田県鹿角市生まれ。芝浦工業専門学校を卒業後、1950年1月、創価学会に入会する。創価学会秘書室を経て、聖教新聞編集長、1951年7月11日、男子部第一部隊長(小岩、向島、城東各支部青年部担当)、1953年1月2日、創価学会小岩支部長に就任し、特に教学方面を担当する。
大西 潤甫(おおにしじゅんすけ 1925年2月24日 - 2… 大西 潤甫(おおにしじゅんすけ 1925年2月24日 - 2004年11月11日)は、日本の実業家。1968年から2000年まで高松琴平電気鉄道社長を務め、2000年からは会長を務めたが2001年に経営破綻して退任。地元の実業家真鍋康彦に再建が託された。 四国一の資産家だった大西行礼は祖父。高松琴平電気鉄道創業者で貴族院議員を務めた大西虎之介は父。高松琴平電気鉄道社長や衆議院議員を務めた大西禎夫は叔父。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
金杉 秀信(かなすぎ ひでのぶ、1925年2月24日 - )… 金杉 秀信(かなすぎ ひでのぶ、1925年2月24日 - )は、日本の労働運動家。元全国造船重機械労働組合連合会(造船重機労連)中央執行委員長、全日本労働総同盟(同盟)副会長、全日本民間労働組合協議会(全民労協)副議長。勲三等旭日中綬章。 東京・向島生まれ。第一寺島高等小学校卒業後、1939年石川島造船所(現・IHI)に養成工として入社。石川島造船所青年学校卒。戦時中に右翼運動家の穂積五一、元共産党員の川﨑堅雄から影響を受けた。敗戦時に退職して家業を手伝うが、かつての仲間から共産党に対抗するため復帰を要請され、1946年に職場復帰。1948年全造船石川島支部執行委員、組織部長。占領政策を批判したかどでGHQに呼び出され、半年で組合役員を辞任。
井上 孝(いのうえ たかし、1925年2月23日 - 200… 井上 孝(いのうえ たかし、1925年2月23日 - 2004年11月7日)は、日本の建設技官、政治家。 国土庁長官(第23代)兼研究・学園都市担当大臣兼土地対策担当大臣(宮澤改造内閣)、参議院行財政機構及び行政監察に関する調査会長、同議院運営委員長、同国会等の移転に関する特別委員長、同内閣委員長、同エネルギー対策特別委員長、参議院議員(3期)、建設事務次官、建設技監、建設省道路局長、同省東北地方建設局長などを歴任。 1925年(大正14年)2月23日、中華民国吉林省長春南満洲鉄道附属地常盤町に生まれる。本籍地は新潟県。旧制旅順高校を経て、京都大学工学部土木工学科に入学。その後、学士試験に合格し、2年間大学院特別研究生として在籍した。
倉田 道夫(くらた みちお、1925年2月23日 - 200… 倉田 道夫(くらた みちお、1925年2月23日 - 2004年9月10日)は、日本の物理学者。京都大学名誉教授。高分子物理学専攻。高分子の構造と物性の分野で業績を上げた。建築家の倉田康男(高山建築学校校長)は実弟。 日本レオロジー学会会長
片山 力夫(かたやま りきお、1925年〈大正14年〉2月2… 片山 力夫(かたやま りきお、1925年〈大正14年〉2月23日 - 1992年〈平成4年〉4月26日)は、日本の政治家。兵庫県相生市長(3期)。位階は正六位。勲五等双光旭日章。 現在の兵庫県相生市出身。兵庫師範学校卒業。相生市教育委員会学校教育課長、相生市立相生中学校校長、相生市教育長を経て、1981年相生市長に当選。3期務め、1992年脾臓リンパ腫により、在任中に死去した。死没日付をもって正六位に叙され、勲五等双光旭日章を追贈された。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
門脇 卓爾(かどわき たくじ、1925年(大正14年)2月2… 門脇 卓爾(かどわき たくじ、1925年(大正14年)2月22日 - 2012年(平成24年)12月28日)は日本の哲学者。学習院大学名誉教授。米子日独協会会長。カント哲学の研究者。ボン大学より学位「Doktor der Philosophie」を取得。宗教家・実業家門脇章太郎の長男。門脇家第11代当主。 子息の一人は鳥取県内で教職についている。
工藤 万砂美(くどう まさみ、男性、1925年2月22日 -… 工藤 万砂美(くどう まさみ、男性、1925年2月22日 - 1996年8月27日)は、日本の実業家。政治家。参議院議員(1期、自由民主党)。北海道議会議員(通算4期)。 北海道歌志内市出身。1943年早稲田実業学校卒。翌年陸軍に召集される。中央大学法学部に入るも中退。戦後、空知建設工業株式会社を創立し、代表取締役となる。ほか空知物産(株)、丸美大道通商(株)の各代表取締役に就任し、歌志内商工会議所会頭を務めた。1971年から北海道議を3期務め、1983年の第13回参議院議員通常選挙で北海道選挙区から自民党公認で立候補し当選。1986年の第3次中曽根内閣で法務政務次官、1988年の竹下改造内閣で北海道開発政務次官に就任。
屋形 稔(やかた みのる、1925年2月21日 - 2015… 屋形 稔(やかた みのる、1925年2月21日 - 2015年11月24日)は、日本の医学者、医師。新潟大学名誉教授。専門は、検査診断学。
笈田 敏夫(おいだ としお、1925年(大正14年)2月21… 笈田 敏夫(おいだ としお、1925年(大正14年)2月21日 - 2003年(平成15年)9月2日)は昭和期のジャズ歌手。戦後を代表するジャズ歌手として活躍した。愛称は「ゲソ」。ドイツベルリン生まれ。 父はピアニストで、園田清秀と共に絶対音感教育を提唱した笈田光吉(本名は逓吉こきち。1902年〜1964年)。母は製薬業を営む亀田通夫の妹の富子。祖父は福井県出身で、陸軍幼年学校英語教官の笈田敏野。妻は女優・歌手の宇治かほる(1931年〜1987年)で、黒澤明の妻の妹。息子は司会者・エッセイストの島敏光(1949年6月22日~ )。 戦時中は海軍に召集され、大分で終戦を迎える。戦後、数々のバンドを転々とし、1953年(昭和28年)ビクターからレコードデビュー。
長島 弘三(ながしま こうぞう、1925年2月21日 - 1… 長島 弘三(ながしま こうぞう、1925年2月21日 - 1985年1月6日)は、日本の化学者。専門は分析化学・無機化学・地球化学。 父は、紫綬褒章受章者で日本のアマチュア鉱物学者のパイオニアである長島乙吉。 東京市麹町区(現・東京都千代田区)生まれ。1944年東京帝国大学理学部化学科入学、同大学院理学研究科へ進学し、木村健二郎の指導を受けた。 1950年東京大学教養部助手となる。その後、東京農工大学農学部助教授(1951年)、東京大学教養部助教授(1959年)、東京大学理学部助教授(1963年)を経て、1966年に東京教育大学理学部教授となる。東京教育大学の改編に伴い、1976年筑波大学化学系教授となる。
桑山 健一(くわやま けんいち、1925年2月21日 - 2… 桑山 健一(くわやま けんいち、1925年2月21日 - 2010年12月30日)は、昭和・平成期の実業家。京王帝都電鉄(現・京王電鉄)代表取締役社長(第6代)。CI戦略「リフレッシング京王」を提唱して経営改革を強力に推進し、京王グループを優良企業に押し上げた実績から「京王の中興の祖」といわれる。 東京都生まれ。1949年に早稲田大学専門部を卒業、京王帝都電鉄に入社した。京王帝都電鉄は当時、東京急行電鉄(大東急)から分離独立したばかりで、桑山らは総合職1期生として入社した。 設立当初の京王帝都電鉄は、大手私鉄の中でも経営基盤が脆弱で財務状況も芳しくなかった。毎期の決算の度に、旧・東急系の事業者である東急、小田急電鉄、京浜急行電鉄と比較され、特に経理部門の社員たちは悔しい思いをしてきたという。