大島 泰郎(おおしま たいろう、1935年2月13日 - )… 大島 泰郎(おおしま たいろう、1935年2月13日 - )は、日本の生化学者。学位は、理学博士。東京工業大学名誉教授、東京薬科大学名誉教授。 東京出身。1958年、東京大学理学部化学科卒業。1963年、同大学院で博士課程修了。東京大学助手、NASA研究員、三菱化成生命科学研究所研究員、東京工業大学教授、東京薬科大学教授などを歴任。日本蛋白質科学会会長も務めた。2005年より共和化工(株)環境微生物研究所所長。ポリアミン学会会長。極限環境生物学会会長。日本Archaea研究会代表。 1968年、伊豆の峰温泉から、好熱菌サーマス・サーモフィルスを分離。その他、好熱菌の発見や研究を行う。 生命の起源や、宇宙生物学に関心があり、一般向けの著書も多数著している。
滝井 禧夫(たきい よしお、1935年2月13日 - 201… 滝井 禧夫(たきい よしお、1935年2月13日 - 2010年2月9日)は、日本の経営者。北海道テレビ放送社長、会長を務めた。東京都出身。 1957年に早稲田大学第一政治経済学部を卒業し、同年に朝日新聞社に入社。1992年6月に北海道テレビ放送専務に就任し、1994年6月には社長に昇格。1999年6月に会長に就任し、2002年6月には取締役相談役に就任し、全国朝日放送取締役も務めた。 2010年2月9日肺癌のために死去。74歳没。叙従五位、旭日小綬章追贈。
馬場 璋造(ばば しょうぞう、1935年2月13日 - 20… 馬場 璋造(ばば しょうぞう、1935年2月13日 - 2021年12月20日)は、日本の建築評論家、建築批評家、建築史家、編集者、建築ジャーナリスト。 1935年埼玉県川越市生まれ。1957年早稲田大学建築学科卒。1959年早稲田大学経済学科卒、新建築社入社。1972年新建築社取締役編集長。1989年から「高松宮殿下記念世界文化賞」建築部門の選考委員を務めた。1990年建築情報システム研究所設立。1992年日本建築学会理事。1995年日本文化デザイン会議福岡議長。2002年日本建築学会賞業績賞受賞。 コンペのプロフェッショナル・アドバイザー、さいたまスキップ・シティ技術提案競技審査委員長、中国仏山市スポーツセンター国際指名設計競技審査員、ブリーゼタワー国際指名設計競技審査員等を歴任。
所 一彦(ところ かずひこ、1935年2月12日 - 202… 所 一彦(ところ かずひこ、1935年2月12日 - 2020年1月30日)は、日本の法学者。立教大学名誉教授。東亜大学教授。元日本犯罪社会学会会長・日本刑法学会理事・日本学術会議第16期会員(第3常置委員会委員長)。刑事法専攻。刑法の法社会学で業績を残す。北海道函館市出身。 1959年の立教大学法学部創設の際、刑事学(刑事政策)の担当教員に当時学士助手だった所を推薦したのが団藤重光である。ところが、東京大学の学士助手制度は3年で助手論文を仕上げるというものであるから、2年しか在籍していない所は助手論文が出来上がらずに講師になることになる。所自身が団藤に在籍年数を間違えたのではと尋ねたが、団藤は否定している。
豊田 泰光(とよだ やすみつ、1935年2月12日 - 20… 豊田 泰光(とよだ やすみつ、1935年2月12日 - 2016年8月14日)は、茨城県久慈郡大子町出身のプロ野球選手・野球解説者。 現役時代は豪快な打撃で、西鉄ライオンズ(以下、西鉄)黄金時代の主力選手の1人として活躍した。引退後はニッポン放送、フジテレビ、文化放送、テレビ東京、テレビ大阪、スポーツニッポンなどの野球解説者をつとめた。2006年に野球殿堂入り。 3歳の時に日立市へ転居し、父は建設業を営んでいたが、国民学校(小学校)2年生の時に太平洋戦争に伴うアメリカ軍の空襲が起こったため 母の実家があり自分も生まれた大子町へ疎開し、5年生の時に戦争が終結した後も同地へ留まった。この終戦直後、国民学校(小学校)の教師が持ってきたソフトボールの道具 で野球をやったことが、豊田が野球を本格的に始めるきっかけとなった。
野口 薫(のぐち かおる、1935年2月12日 - 2006… 野口 薫(のぐち かおる、1935年2月12日 - 2006年7月25日)は、日本の心理学者。専門は、ゲシュタルト心理学、交通心理学、芸術心理学。千葉大学名誉教授。 愛知県出身。1957年(昭和32年)に千葉大学文理学部人文科学課程(心理学専攻)を卒業後、1960年に東京都立大学 (1949-2011)大学院人文科学研究科修士課程(心理学専攻)修了。翌1961年、千葉大学文理学部助手となった。 1966年に千葉大学文理学部講師に就任。また同年、カナダ・ヨーク大学大学院リサーチ・アソシエイトも務めた。1968年、千葉大学教養部助教授となり、1979年には教授となった。 1980年にドイツ・ミュンヘン大学訪問研究員、イタリア・トリエステ大学客員教授を務めた。
向井 正剛(むかい まさかた、1935年(昭和10年)2月1… 向井 正剛(むかい まさかた、1935年(昭和10年)2月11日 - )は、日本の教育者であり、高校野球監督でもある。岡山県下の高校野球監督として春夏通じて唯一の優勝経験者。岡山東商業高等学校の監督時代に、同郷のエース平松政次を擁して春の甲子園で優勝した。岡山県高梁市出身。 1935年(昭和10年)に岡山県高梁市で生まれる。戦後に地元の岡山県立高梁高等学校に進み、同期には富士銀行(現:みずほFG)頭取・日本政策投資銀行社長になる橋本徹、伊藤忠商事副社長になる森澤寛二、群馬大学医学部教授の伊吹令人、ノートルダム清心女子大学教授の南智、新宿で高級和食料理店「車屋」を起業する佐藤勇がいた。 高校時代は硬式野球部に所属したが、普通科高校であるため、野球部の人気が無く部員不足により2年秋で休部となった。
藤本 統紀子(ふじもと ときこ、1935年〈昭和10年〉2月… 藤本 統紀子(ふじもと ときこ、1935年〈昭和10年〉2月11日 - )は、日本のタレント、エッセイスト。作家・藤本義一の妻。義一との間に2女があり、次女はアーティストのフジモト芽子(まいこ)。 兵庫県神戸市須磨区生まれ。小学二年から商社マンだった父の赴任先、蒙古張家口で育つ。終戦後引き揚げ、父が故郷・広島県尾道市で事業を始めたため、中学一年から高校卒業まで尾道に住んだ。 広島県立尾道北高校を経て大阪女子大学(現・大阪公立大学)英文科に進学。高校、大学と演劇部に所属し、当時大阪府立大学の演劇部だった藤本義一と知り合う。 大学卒業後、スポーツニッポンの文化部記者として二年間勤務。藤本と結婚後退社。
藤田 貞一郎(ふじた ていいちろう、1935年2月11日 -… 藤田 貞一郎(ふじた ていいちろう、1935年2月11日 - 2015年6月13日)は、日本経済史学者。同志社大学名誉教授。 朝鮮平壌府出身。1963年大阪大学大学院経済学研究科修了、「近世経済思想の研究 幕藩体制と「国益」思想」で大阪大学より経済学博士の学位を取得。松山商科大学講師、同志社大学商学部助教授、教授、2005年定年、名誉教授。宮本又次に師事した。
吉田 政幸(よしだ まさゆき、1935年2月11日 - 20… 吉田 政幸(よしだ まさゆき、1935年2月11日 - 2003年9月24日)は、日本の化学者・図書館情報学者。 静岡市生まれ。1953年、静岡県立静岡城内高等学校卒業。1957年、東京大学理学部化学科卒業。1962年、同大学院博士課程修了、理学博士。東京大学理学部助教授を務めたのち、物理有機化学から図書館情報学に転じ、図書館情報大学教授となり、1991年、副学長、1995年、学長。再選、再々選され、7年間学長を務めた。2002年、定年退官、名誉教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
二見 伸明(ふたみ のぶあき、1935年(昭和10年)2月1… 二見 伸明(ふたみ のぶあき、1935年(昭和10年)2月10日 - )は、日本の政治家。 運輸大臣(第68代)、衆議院議員(8期)、公明党副委員長を歴任。 東京都台東区出身。埼玉県立浦和高等学校卒業、早稲田大学大学院修了。政治団体霞見會代表。日本戦略研究フォーラム政策提言委員。創価学会出身の公明党副委員長で、1994年の羽田内閣で運輸大臣を務めた後、新進党結党に参加して小沢一郎に接近し、小沢の自由党(後の民主党)に留まった。 公明新聞政治部長・第1編成局長を経て、1969年12月の衆院選に公明党公認で茨城3区から出馬し当選。いわゆる落下傘候補であった。以後衆院議員を計8期務め、1970年から1993年まで中央執行委員。
原 嘉壽子(はら かずこ、1935年2月10日 - 2014… 原 嘉壽子(はら かずこ、1935年2月10日 - 2014年11月30日)は、日本のオペラ作曲家。本名は原和子。 東京府出身。東京藝術大学音楽学部作曲科卒業、同専攻科修了。ベネデット・マルチェッロ音楽院声楽科卒業。池内友次郎、デュティユー、コラデッティらに師事。元同志社女子大学教授。芸術選奨文部大臣賞、ジロー・オペラ賞、紫綬褒章、旭日小綬章などを受賞している。 1978年から1999年の間に18曲のオペラを作曲した。多くは日本オペラ振興会または二期会によって東京で初演されたが、イタリアでも上演された作品がある。全般的には日本の主題を好んで用いるが、2作目のオペラはシャーロック・ホームズを題材とするもので、また1999年には新国立劇場でドストエフスキーの「罪と罰」の大規模オペラを上演した。
渡邊 學而(わたなべ がくじ、1935年〈昭和10年〉2月9… 渡邊 學而(わたなべ がくじ、1935年〈昭和10年〉2月9日 - 2025年〈令和7年〉4月4日)は、日本の音楽評論家、合唱指揮者。新字体で渡辺学而または渡邊学而と記載されることがある。 東京教育大学附属高等学校を経て、1959年(昭和34年)3月、慶應義塾大学経済学部卒業。在学中は慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団の学生指揮者を務めた。同年4月日本ビクター株式会社へ就職したが1961年(昭和36年)10月に同社退職。同年よりヴォイストレーナーとして学習院輔仁会音楽部男声合唱団の指導に携わり、1962年(昭和37年)から1972年(昭和47年)まで前田幸市郎とともに男声合唱団の常任指揮者を務めた。
小林 好宏(こばやし よしひろ、1935年2月9日 - 20… 小林 好宏(こばやし よしひろ、1935年2月9日 - 2013年12月22日)は、日本の経済学者。経済学博士(北海道大学)。北海道大学名誉教授。元北海道武蔵女子短期大学学長。北海道生まれ。恩師は新川士郎。 1957年北海道大学経済学部卒業。1962年北海道大学大学院経済学研究科博士課程単位取得満期退学。同年、山口大学経済学部専任講師。1965年北海道大学経済学部助教授。1977年同経済学部教授。1989年北海道大学評議員。1994年同経済学部長。1998年北海道大学停年退官。同名誉教授。札幌大学経営学部教授。2005年札幌大学退職。北海道武蔵女子短期大学学長。2009年(平成21年)北海道武蔵女子短期大学退職。
大塚 弘(おおつか ひろし、1935年(昭和10年)2月9日… 大塚 弘(おおつか ひろし、1935年(昭和10年)2月9日 - )は、日本の実業家。京成電鉄第9代代表取締役社長。代表取締役会長を経て現在は同社相談役。オリエンタルランド監査役を兼任。神奈川県出身。 1958年、早稲田大学第一法学部を卒業後、京成電鉄に入社。加賀見俊夫と同期入社である。 入社直後に大山秀雄から川﨑千春に社長が交代し、その後この2人を含む5人の社長の下で勤務。1982年には運輸部長となり、その後も出世を重ね、1997年には久々の生え抜き社長として第9代京成電鉄社長に就任。以後2004年に花田力に交代するまで7年間歴任した。1996年から株式会社オリエンタルランド社外監査役。東急建設株式会社社外取締役、株式会社京葉銀行社外監査役。
深沢 道子(ふかざわ みちこ、1935年2月9日 - 201… 深沢 道子(ふかざわ みちこ、1935年2月9日 - 2013年5月12日)は、日本の心理学者、早稲田大学名誉教授。交流分析 (TA) の専門家。 東京都生まれ。1957年早稲田大学文学部卒、1959年イリノイ大学社会福祉大学院卒。米国で十年間精神病院などに勤務、聖マリアンナ医科大学病院医療相談室室長、聖マリアンナ医科大学助教授(1980年兼任)、1989年早稲田大学文学部教授、2006年定年、名誉教授。国際TA協会(wikidata)教授会員(TSTA)。日本交流分析学会理事、日本TA協会(TAAJ)初代会長。中央更生保護審査会委員(1995年12月25日付け、1998年再任)。
寺西 博(てらにし ひろし、1935年2月8日 - )は、日… 寺西 博(てらにし ひろし、1935年2月8日 - )は、日本の元・ラグビー選手及び指導者。 北見北斗高校を経て、明治大学(以下、明大)へ進み、1956年度シーズンには明大の主将を務めた。また同年、オーストラリア学生代表戦でラグビー日本代表デビューを果たし、通算キャップ数5を獲得した。 明大卒業後は日本鉱業に入社。 その後、明大ラグビー部のコーチを経て、ヘッドコーチに就任。明大ラグビー部の象徴である北島忠治監督を長年に亘って補佐し、北島が体調不良のため、1991年度シーズンより試合会場へ姿を見せなくなると、自身が指揮を執った。 1996年、北島が死去したため、二代目の明大ラグビー部監督に就任。同年度の大学選手権で明大は優勝した。
熱田 良一(あつた りょういち、1935年2月8日 - )は… 熱田 良一(あつた りょういち、1935年2月8日 - )は、大阪府吹田市出身の元プロ野球選手(内野手)。 吹田高校から1956年に近鉄パールスへ入団。 2年目の1957年に引退した。
長谷川 欣佑(はせがわ きんすけ、1935年2月8日 - 2… 長谷川 欣佑(はせがわ きんすけ、1935年2月8日 - 2023年3月31日)は、日本の英語学者。東京大学名誉教授。 東京生まれ。東京大学文学部英文科卒、1962年同大学院英語英文学博士課程中退、一橋大学講師、1965年東京大学文学部英文科専任講師、1968年同助教授、1974年市河三喜賞受賞。1980年同教授、1996年同大学を定年退官、名誉教授、獨協大学教授となり、2005年定年。2015年春瑞宝中綬章受勲。 生成文法に基づく英語学研究を行い、「一般化 A-over-A 原則」を提案した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
高野 正三(たかの しょうぞう、1935年(昭和10年)2月… 高野 正三(たかの しょうぞう、1935年(昭和10年)2月8日 - )は、日本の実業家。調味料「ろく助塩」の開発者であり、東洋食品株式会社( 東京都港区赤坂8丁目13−19)の創業者として知られている。 現在の栃木県那須烏山市に生まれた。祖父・伊予作と父・正一が同地で写真館を営んでおり、幼少期から写真の撮影や修整技術を観察を通じて学んだ。 1952年(昭和27年)、17歳のときに父の師匠が営む北海道・幾春別の「小林写真館」で写真家としての修行を開始した。1954年(昭和29年)、技術向上のため東京・神田神保町の「丹羽写真館」に入社した。1956年(昭和31年)、広告写真を学ぶため「阿部スタジオ」の阿部正二に師事した。
大島 寅夫(おおしま とらお、1935年2月7日 - )は、… 大島 寅夫(おおしま とらお、1935年2月7日 - )は、日本の実業家。中日新聞社元社長。岐阜県出身。 1935年(昭和10年)、岐阜県海津郡東江村(海津町を経て現在の海津市)で安田順時の四男として出生、1960年(昭和35年)に同志社大学法学部を卒業。同年に中部日本新聞社へ入社し、常務の大島一芳から養嗣子に迎えられる。 広告局次長を経て1991年(平成3年)に取締役となり、1997年(平成9年)に常務、2001年(平成13年)に名古屋本社代表。2003年(平成15年)6月から2011年(平成25年)6月まで社長を務め、その間には2007年から横綱審議委員会委員に就任している。2011年を以て社長職を小出宣昭に譲って退任し、副会長に就任した。
内山 斉(内山 齊、うちやま ひとし、1935年2月6日 -… 内山 斉(内山 齊、うちやま ひとし、1935年2月6日 - 2022年2月2日)は、読売新聞グループ本社顧問、同社元代表取締役社長、日本新聞協会会長、第13代横綱審議委員会委員長。位階は正三位。 北海道札幌市出身。北海道札幌西高等学校、日本大学文学部社会学科卒業。1957年4月、読売新聞社入社。地方部を中心に記者として活動する。制作局を担当していた当時、印刷拠点の分散化を経営トップに進言して功績が認められる。のちに渡邉恒雄から後継者指名を受ける。 2022年2月2日21時48分、心不全のため、東京都内の病院で死去。86歳没。同日付をもって正三位に叙され、旭日大綬章を受章した。
玉井 義臣(たまい よしおみ、1935年2月6日 – 202… 玉井 義臣(たまい よしおみ、1935年2月6日 – 2025年7月5日)は、日本の社会運動家、教育者。あしなが運動創始者。「あしなが育英会」前会長。 1935年2月6日、大阪府池田市に生まれる。大阪府立池田高等学校を卒業後、滋賀大学経済学部に入学し、1958年に卒業。証券会社勤務等を経て、経済評論家として文筆活動に入る。1963年、母親が交通事故に遭ったことを契機に「交通評論家」としての活動を開始(母親は昏睡状態のまま36日後に死去)。また、妻も20代で脊椎ガンにて下半身不随となり、2年半後に死別。これらふたつの「死」が、玉井の「あしなが運動」の原点となる。 「あしなが運動」開始後は、自賠責保険の支払限度額引き上げなどの問題提起を行い、1966年からは「桂小金治アフタヌーンショー」(NET)で週1回行われた「交通事故防止キャンペーン」コーナーにレギュラー出演し、各界関係者と議論を戦わせ刑法211条改正実現等に尽力した。
山本 和郎(やまもと かずお、1935年2月6日 - 201… 山本 和郎(やまもと かずお、1935年2月6日 - 2016年7月12日)は、日本の心理学者。慶應義塾大学名誉教授。日本コミュニティ心理学会初代会長。日本・精神技術研究所心理臨床学院長。専門はコミュニティ心理学。 新潟県新潟市生まれ。1950年大田区立大森第六中学校卒業、1953年東京都立小山台高等学校卒業、1958年東京大学文学部心理学科卒業、1963年同大学院人文科学研究科心理学専攻博士課程単位取得退学、1963年国立精神衛生研究所研究員、1965年ハーバード大学医学部リサーチ・フェロー(1966年帰国)。 慶應義塾大学文学部助教授、1981年教授。2000年定年退任、名誉教授、大妻女子大学人間関係学部教授。
高梨 豊(たかなし ゆたか、1935年2月6日 - )は、日… 高梨 豊(たかなし ゆたか、1935年2月6日 - )は、日本の写真家。東京造形大学元教授。 東京都出身。1957年、日本大学芸術学部卒業後、八木治のスタジオに就職。その後、桑沢デザイン研究所に入り、大辻清司に学ぶ、1961年、卒業。日本デザインセンターに入社。1968年には写真同人誌「プロヴォーク」に参加(1970年の活動休止まで)。1970年、日本デザインセンターを退社、フリーとなる。1980年、東京造形大学助教授、1983年、教授、2000年、客員教授。 ライカ同盟(メンバー:高梨豊、赤瀬川原平、秋山祐徳太子)家元。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
今村 貞夫(いまむら さだお、1935年2月5日 - )は、… 今村 貞夫(いまむら さだお、1935年2月5日 - )は、日本の医師。医学者。京都大学名誉教授。医学博士。専門は皮膚科学。 1935年、京都府京都市生まれ。1953年、福井県立若狭高等学校卒業。1959年、京都大学医学部卒業。1968年、「ブドウ球菌、連鎖状球菌の螢光抗体法による研究:主としてアレルギー性皮膚疾患への関与について」で京都大学より医学博士号取得。1972年1月、京都大学医学部講師、1978年同助教授、1980年から1997年まで同教授。皮膚疾患に関する多くの研究を行った。 学術業績としては,小児腹壁遠心性脂肪委縮症 (Lipodystrophia centrifugalis abdominalis infantilis (Imamura)の発見が知られる。
長尾 旬(ながお ひとし、1935年2月5日 - 2013年… 長尾 旬(ながお ひとし、1935年2月5日 - 2013年1月17日)は、静岡県出身のプロ野球選手(投手)。 池新田高から社会人野球の東洋レーヨンを経て、1953年に大阪タイガースにテスト生として入団。 1954年に一軍初登板初先発するもその後は登板がなく、1956年に近鉄パールスに移り、1957年には12試合に登板するものの同年オフに現役を引退した。武器はスライダー。 2013年1月17日、77歳で死去した。
長谷川 弘志(はせがわ ひろし、1935年2月5日 - 20… 長谷川 弘志(はせがわ ひろし、1935年2月5日 - 2023年4月27日)は、日本のアナウンサー、実業家。元・九州朝日放送(KBC)アナウンサー、元・KBCメディア社長。 福岡県福岡市出身。早稲田大学文学部を卒業後の1957年、九州朝日放送にアナウンサーとして入社。情報番組からスポーツ中継まで幅広いジャンルの番組を担当した。 スポーツアナウンサーとしては、地元の平和台球場を本拠地に使用していた西鉄(→太平洋クラブ→クラウンライター)ライオンズ戦中継の実況で人気を博していた。クラウンの後継球団・西武ライオンズの誕生で本拠地が平和台球場から西武ライオンズ球場(埼玉県所沢市)へ移転した1979年に運動部の記者へ異動したが、1980年4月からKBCラジオで『長谷川ひろし おはよう7』(平日7:00 - 9:00の生ワイド番組)のパーソナリティを8年間務めた。
城戸 毅(きど たけし、1935年(昭和10年)2月4日 -… 城戸 毅(きど たけし、1935年(昭和10年)2月4日 - )は、西洋史学者、東京大学名誉教授。 東京出身。1958年(昭和33年)、東京大学文学部西洋史学科を卒業。東京大学大学院人文科学研究科西洋史学に進学後イギリスに留学。1966年(昭和41年)にロンドン大学にて歴史学博士号を取得し、東京大学博士課程を単位取得満期退学。
高野利也(たかの としや、1935年2月4日- )は、日本の… 高野利也(たかの としや、1935年2月4日- )は、日本の医師・医学者、慶応義塾大学名誉教授。 東京生まれ。1960年慶応義塾大学医学部卒業。1967年医学博士。マサチューセッツ工科大学に招かれ、のち米国NIHに移る。1974年慶大医学部教授。2001年定年、名誉教授となる。北里賞、三越医学賞受賞[要説明]。
栃木 孝惟(とちぎ よしただ、1935年2月3日 - )は、… 栃木 孝惟(とちぎ よしただ、1935年2月3日 - )は、日本の国文学者。専門は日本中世文学、特に軍記物語。千葉大学名誉教授。 東京府下谷区生まれ。埼玉県立浦和高等学校を経て、1959年東京大学文学部国文科卒業、1966年、同大学院博士課程単位取得満期退学。1968年千葉大学講師、1970年同助教授、1980年同教授。1998年、定年の1年前に退官、名誉教授、清泉女子大学教授。2005年、清泉女子大学を退職。
飯山 平一(いいやま へいいち、1935年2月3日 - )は… 飯山 平一(いいやま へいいち、1935年2月3日 - )は、埼玉県南埼玉郡春日部町(現:春日部市)出身の元プロ野球選手。 春日部高校から1954年に毎日オリオンズへ入団。 1956年に高橋ユニオンズへ移籍し、1957年は合併した大映ユニオンズに在籍し同年引退。
野田 幸男(のだ ゆきお、1935年2月2日 - 1997年… 野田 幸男(のだ ゆきお、1935年2月2日 - 1997年8月27日)は、日本の映画監督・演出家・脚本家。和歌山県御坊市出身。 代表作には『不良番長シリーズ』、『やくざ刑事シリーズ』、『0課の女 赤い手錠』、『激殺! 邪道拳』、『ゴルゴ13 九竜の首』など。 京都大学在学中に戸浦六宏の主催する劇団「風波」に参加。1958年(昭和33年)に大学卒業後、東映東京撮影所に助監督として入社し、石井輝男・佐伯清らに師事する。 1968年(昭和43年)3月、日本プロレスの記録映画である『プロレスWリーグ 血ぬられた王者』で監督デビュー。同年には梅宮辰夫主演の『不良番長』で映画の演出デビューも果たした。同作は大ヒットとなり、1972年(昭和47年)の『不良番長 骨までしゃぶれ』までシリーズ全16作が製作され、野田は11作を監督した。
広田 伊蘇夫(ひろた いそお、1935年(昭和10年)2月2… 広田 伊蘇夫(ひろた いそお、1935年(昭和10年)2月2日 - 2011年(平成23年)9月18日)は、日本の精神科医。 富山県魚津市出身。1961年(昭和36年)東京大学医学部卒、同精神科入局。1964年(昭和39年)東京都立松沢病院勤務。1980年(昭和55年)三枚橋病院勤務、のち理事。病院地域精神医学会理事長。同愛記念病院勤務。国連非政府組織 (NGO) 国際医療職専門委員会日本代表。イギリス王立精神医学会選出会員。患者の権利のために戦い宇都宮病院事件でも活躍した。
藤岡 貞彦(ふじおか さだひこ、1935年2月1日 - )は… 藤岡 貞彦(ふじおか さだひこ、1935年2月1日 - )は、日本の教育学者。東京都出身。専門は社会教育学、公害教育論、環境教育論。一橋大学名誉教授。 1953年茨城県立水戸第一高等学校卒業。1954年東京大学教養学部文科2類入学、1959年東京大学教育学部卒業、1964年東京大学大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。 1965年東京大学教育学部助手、1970年一橋大学社会学部助教授、1978年一橋大学社会学部教授、1989年から1991年まで一橋大学社会学部長。1998年一橋大学を停年退官し一橋大学名誉教授の称号を受ける。同年帝京平成大学情報学部教授。2004年から2010年まで学校法人湘南学園の第8代学園長を務めた。
成田 三樹夫(なりた みきお、1935年〈昭和10年〉1月3… 成田 三樹夫(なりた みきお、1935年〈昭和10年〉1月31日 - 1990年〈平成2年〉4月9日)は、日本の俳優。愛称はミッキー。山形県酒田市出身。 戦後日本映画史において、悪役の系列に確実に名を残した俳優であった。 父親は司法省の職員で、秋田、旭川、仙台の刑務所長を歴任した。実家は日用品を扱う雑貨店を営み、母親が切り盛りしていた。四男一女の三男として生まれ、兄弟たちは地元で評判のエリートとして知られた。 父親に手ほどきされた剣道は三段、スポーツは水泳、野球など何でもこなす万能選手だったが、野球の試合中に右眼に打球を受けて網膜剥離になり、失明寸前となって、以降も右眼はほとんど見えなかった。山形県立酒田東高等学校に進学後から演劇に興味を持ち始め、地元の演劇コンクールに参加し、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を脚色して優秀賞を受賞した。
大江 健三郎(おおえ けんざぶろう、1935年〈昭和10年〉… 大江 健三郎(おおえ けんざぶろう、1935年〈昭和10年〉1月31日 - 2023年〈令和5年〉3月3日)は、日本の小説家。昭和中期から平成後期にかけて活躍した現代日本文学を代表する小説家の一人。愛媛県喜多郡大瀬村(現:内子町)出身。 東京大学文学部仏文科卒。学生小説家としてデビューして、大学在学中の1958年、短編小説「飼育」により当時最年少の23歳で芥川賞を受賞。新進小説家として脚光を浴びた。 新しい文学の旗手として、豊かな想像力と独特の文体で、現代に深く根ざした作品を次々と発表していく。1967年、代表作とされる『万延元年のフットボール』により歴代最年少で谷崎潤一郎賞を受賞した。 1973年に『洪水はわが魂に及び』により野間文芸賞、1983年に『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』により読売文学賞(小説賞)など多数の文学賞を受賞。
村井 正(むらい ただし、1935年1月31日 - )は、日… 村井 正(むらい ただし、1935年1月31日 - )は、日本の法学者。専門は租税法。関西大学名誉教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
江口 大象(えぐち たいしょう、本名:江口 啓爾(けいじ)1… 江口 大象(えぐち たいしょう、本名:江口 啓爾(けいじ)1935年〈昭和10年〉1月31日 - 2020年〈令和2年〉9月3日)は、日本の書家。 中国青島市出身。本籍は佐賀県佐賀市。父親の仕事の関係で小学四年生頃まで中国で過ごし、戦後帰国した後東京学芸大学書道科を卒業。1990年には師の小坂奇石の後を継いで書道研究璞社(ぼくしゃ)会長に就任した。 月刊書道研究誌「書源」「みなもと」主幹。日展特別会員。日本書芸院顧問。全国書美術振興会参事。読売書法会常任理事。 2020年9月3日に死去。85歳没。 法名は彰源院釋大象。
久保 嘉治(くぼ よしはる、1935年(昭和10年)1月31… 久保 嘉治(くぼ よしはる、1935年(昭和10年)1月31日 - 2017年(平成29年)7月11日)は、日本の農学者・経済学者。学位は、農学博士(北海道大学・1963年)。専門は農業経済学。元帯広畜産大学学長。元雪印メグミルク酪農総合研究所所長。指導教授は矢島武。 北海道空知郡栗沢町出身。北海道大学農学部農業経済学科卒。1958年(昭和33年)同大学院農学研究科博士課程修了。同農学部助手。1962年(昭和37年)帯広畜産大学畜産学部助手。1968年(昭和43年)同畜産学部助教授。1977年同畜産学部教授。1994年(平成6年)同図書館長。1996年(平成8年)帯広畜産大学9代学長に就任。2000年(平成12年)帯広畜産大学退官、同名誉教授。
石津 祥介(いしづ しょうすけ、1935年1月31日 - 2… 石津 祥介(いしづ しょうすけ、1935年1月31日 - 2023年11月2日)は、日本のファッションデザイナー・ファッションディレクター。有限会社石津事務所、代表取締役。社団法人日本メンズファッション協会常任理事。公益財団法人日本ユニフォームセンター理事。ヴァンヂャケット創業者・石津謙介の長男。岡山県岡山市生まれ。 明治大学中退。桑沢デザイン研究所、セツ・モードセミナー卒業後、婦人画報社入社。創刊初期の「男の服飾」〜「MEN'S CLUB」編集部勤務。 1960年にヴァンヂャケット入社。その後、高度成長期のファッション界を席巻したヴァンヂャケット社創業者で父親の石津謙介の片腕として活躍。
三浦 正敏(みうら まさとし、1935年1月30日 - )は… 三浦 正敏(みうら まさとし、1935年1月30日 - )は、日本の経営者。東急リバブル社長を務めた。 神奈川県出身。1959年に慶應義塾大学法学部を卒業し、同年4月に東京急行電鉄に入社。1959年7月に東急不動産に転じ、、1984年12月に取締役に就任し、1986年12月に常務、1989年12月に東急リバブル取締役を経て、1992年6月に副社長に就任し、1999年6月には社長に昇格。2003年6月に取締役相談役を経て、2007年6月から相談役を務めた。
石濱 朗(いしはま あきら、1935年1月29日 - 202… 石濱 朗(いしはま あきら、1935年1月29日 - 2022年7月26日)は、日本の俳優。石浜朗とクレジットされる作品もある。最終所属はミズキ事務所。血液型はB型。身長172cm、体重68kg。 東京府(東京都)出身。立教大学文学部英文科卒業。 1951年、高校在学中に姉に薦められて応募した『少年期』にて16歳でデビュー。演技が好評だったため、そのまま松竹専属になる。 木下惠介、野村芳太郎、小林正樹などの作品に出演していた。 1961年からは『若い季節』に出演。テレビドラマでの助演も務めた。 2009年より日本映画俳優協会の理事長を務める。 2014年3月12日、東京・池袋の新文芸坐での特集「有馬稲子と十八人の監督たち」のトークショーに出演。
島村 寧(しまむら やすし、1935年1月29日 - 199… 島村 寧(しまむら やすし、1935年1月29日 - 1997年5月28日)は、日本の経営者。センコー社長を務めた。東京都出身。 1963年に明治大学経営学部を卒業し、同年に扇興運輸(現在のセンコー)に入社。 1982年6月に取締役に就任し、1983年6月に常務を経て、1990年6月に社長に就任。 1997年5月28日肝不全のために死去。62歳没。
小山 勇(こやま いさむ、1935年1月29日 - 2020… 小山 勇(こやま いさむ、1935年1月29日 - 2020年6月10日)は日本の実業家、ジャーナリスト。株式会社中日新聞社代表取締役副社長、中部日本放送株式会社非常勤取締役を歴任した。東京府東京市(現:東京都港区)出身。 養父は株式会社中日新聞社代表取締役社主を務めた小山龍三。 1935年(昭和10年)1月29日、東京府東京市に「平賀勇」として生まれる。 1959年(昭和34年)3月、早稲田大学政治経済学部を卒業する。在学中は後に内閣総理大臣となる森喜朗と交友があった。同年4月、自動車ディーラーのヤナセに入社する。 1969年(昭和44年)に義父の小山武夫が取締役を務める中部日本新聞社(現:中日新聞社)に入社、経済部記者に配属される。
白川 義員(しらかわ よしかず、1935年〈昭和10年〉1月… 白川 義員(しらかわ よしかず、1935年〈昭和10年〉1月28日 - 2022年〈令和4年〉4月5日)は、日本の写真家。「地球再発見による人間性回復へ」をテーマに、原始の風景と聖地などを撮り続けた。 1996年から『世界百名山』撮影プロジェクトを開始する。エドモンド・ヒラリーらの各国の11名が選考委員を快諾して、この委員と「白川義員世界百名山撮影プロジェクトを支援する会」により、世界の山から110座を選んだ。これをもとに2001年(平成13年)までに、自ら127座すべてを空から撮影した。理想の被写体を求めて、日の出や日没時を含めて360度のあらゆる方向からその山を眺め航空機の窓を開けての撮影を行った。
須藤 美也子(すとう みやこ、1935年1月28日 - 20… 須藤 美也子(すとう みやこ、1935年1月28日 - 2018年8月11日)は、日本の政治家。日本共産党参議院議員(1期)。同党山形県委員会委員長。 山形県鶴岡市出身。山形県立鶴岡南高等学校卒業後、電電公社職員となる。 1975年の第11回統一地方選挙で山形県議会議員となり、1980年第36回衆議院議員総選挙および1983年第37回衆議院議員総選挙で旧山形2区から立候補したが落選。1989年第15回参議院議員通常選挙からは参議院比例区へ鞍替えするも落選。1995年第17回参議院議員通常選挙では比例区で初当選し、1期務めた。この間、党では中央委員、農・漁民局長を歴任している。2000年から2004年まで党山形県委員会委員長。
松平 直晃(まつだいら なおあき、1935年〈昭和10年〉1… 松平 直晃(まつだいら なおあき、1935年〈昭和10年〉1月28日 - 2021年〈令和3年〉8月22日)は、直良系越前松平家(播磨国明石藩)第15代当主。 日高震作の子として生まれる。出生名は、日高 震二。直良系越前松平家(播磨国明石藩)14代当主の松平尚次郎が1975年に40代で死去後に友人で妹の夫でもあった震二が婿養子となり、松平 直晃に改名。妻は松平弥栄子(子爵松平直頴の娘)。 学習院高等科、学習院大学卒業。 明石藩士の子孫たちが作る「明石葵会」の総会等で度々、旧領でもある、兵庫県明石市を訪れたり、同家に伝わる資料を寄贈するなどしてかつての地元と親交を深めていた。 娘が二人居るがいずれも婿養子を迎えなかったため、直晃が2021年8月22日に死去後は、戸籍上での松平家は断絶となった。
丸山 有成(まるやま ゆうせい、1935年〈昭和10年〉1月… 丸山 有成(まるやま ゆうせい、1935年〈昭和10年〉1月28日 - 2014年〈平成26年〉10月30日)は、日本の化学者。専門は固体物理化学。分子科学研究所名誉教授。総合研究大学院大学名誉教授。理学博士。 1935年1月28日に生まれた。 1959年に東京大学理学部化学科を卒業し、1961年に東京大学大学院理学系研究科の修士課程を修了した。同年に東京大学物性研究所の教務員、1962年に文部技官、1963年に助手となった。 1967年に東京大学から理学博士号を取得した。1972年にお茶の水女子大学理学部化学科の助教授、1980年に同大学の教授に着任した。1984年に分子科学研究所分子集団研究系の教授となった。
吉川 一義(よしかわ かずよし、1935年1月28日 - )… 吉川 一義(よしかわ かずよし、1935年1月28日 - )は、日本の映画監督である。平仮名表記の「よしかわ いちぎ」名義で『電子戦隊デンジマン』の監督も手掛けた。京都府京都市出身。 日本大学藝術学部卒業後東映に入社。今井正に師事し、1968年に監督デビュー。以降テレビドラマ作品を中心に活動し、刑事ドラマ・時代劇・2時間ドラマと数多くの作品で現在もメガホンを執り続ける。特に1988年のスタートから足掛け20年続いた『はぐれ刑事純情派』ではメイン監督として長年携わり、その縁から藤田まこと主演の東映テレビ時代劇にもコンスタントに参加した。 瀬川昌治が塾長を務める瀬川塾では講師を務めた。