飯塚 啓(いいづか あきら、慶応4年6月16日〈1868年8… 飯塚 啓(いいづか あきら、慶応4年6月16日〈1868年8月4日〉 - 昭和13年〈1938年〉12月10日)は、日本の動物学者(理学博士)。元学習院大学教授。環虫類の世界的権威として知られた。息子は地理学者の飯塚浩二。 1868年、上野国北群馬郡小野上村(現・群馬県渋川市)に生まれる。初名・熊吉。前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を中退。第二高等中学校を経て、1897年、東京帝国大学動物学科を卒業。 1900年8月第六高等学校教授、翌月東京帝国大学助教授。1910年、学習院大学教授に就任。 1919年、エッセイ集「伊香保みやげ」の中で、榛名湖のシジミの減少を予言した[要出典]。皇太子・裕仁親王への進講も行った。
山崎 覚次郎(やまざき かくじろう、慶応4年6月15日〈18… 山崎 覚次郎(やまざき かくじろう、慶応4年6月15日〈1868年8月3日〉 - 昭和20年〈1945年〉6月28日)は、日本の経済学者。法学博士。東京帝国大学経済学部長。専門は貨幣論、金融論。 静岡県掛川に父・徳次郎の長男として生まれる。冀北学舎を経て、明治22年(1889年)東京帝国大学政治科卒業、大学院で研究する。 東京帝大法科助教授、経済学部教授等を歴任し、のち経済学部長。社会政策学会で指導的役割をはたし、退官後は中央大学教授、日銀顧問、金融学会初代理事会長をつとめた。1913年(大正2年)5月29日、帝国学士院会員となる。 東大時代の教え子である賀屋興宣(大蔵次官、大蔵大臣)は山崎の貨幣論に感銘を受け、山崎の理論に依拠して日本銀行法を作ったと述べている。
小角 彌三次(こすみ やそうじ、1868年〈明治元年〉8月 … 小角 彌三次(こすみ やそうじ、1868年〈明治元年〉8月 - 1935年〈昭和10年〉)は、日本の柔術家である。小角弥三次とも書かれる。 明治元年に阿波国撫養町(現在の徳島県鳴門市)に生まれる。 1877年(明治10年)に撫養町林崎の亀井吉太郎(亀井吉衛)の門に入り天神真楊流を修行した。 1884年(明治17年)に目録、1888年(明治21年)に免許、1890年(明治23年)に免許皆伝を受けて撫養町で子弟を育てた。 その後兵庫県神戸市に移り住み、神戸市の小野柄通に眞武館道場を設け柔術の普及発展に努力した。この道場は門下生数千人を数えた。 1902年(明治35年)、兵庫県警察部に奉職し柔道教師となった。
花井 卓蔵(はない たくぞう、1868年7月31日〈慶応4年… 花井 卓蔵(はない たくぞう、1868年7月31日〈慶応4年6月12日〉- 1931年〈昭和6年〉12月3日)は、明治・大正に活躍した弁護士・政治家。第3代検事総長・中央大学教授を務めた花井忠の岳父。 1868年(慶応4年)、備後国御調郡三原町(現:広島県三原市)に士族・立原四郎右衛門の四男として生まれ、その後、分家により花井姓を名乗った。幼年期から神童と謳われ、10歳の時に進学のため上京するが、経済的に困窮し3年後に帰郷し、広島市の修道学校(現:修道中学校・高等学校)で学ぶ。その後、小学校の代用教員として勤務する傍ら、長谷川桜南の門下生となり、高楠順次郎らと桜南舎で学ぶ。その後3年間ほど教員を務めるが、高楠とともに自由民権運動に参加し、これが原因で教員を免職される。
二神 駿吉(ふたがみ しゅんきち、1868年7月27日(慶応… 二神 駿吉(ふたがみ しゅんきち、1868年7月27日(慶応4年6月8日) - 1961年(昭和36年)10月1日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員。 郷土二神深蔵の二男として伊予国宇和郡城辺村(城辺町を経て現在の愛南町)に生まれる。南予中学校を経て、英吉利法律学校を卒業し、内国通訳会社員、東京モスリン紡織会社支配人となり、三井物産に迎えられ九州の石炭事業を統括した。大阪西、名古屋、門司の各支店長を歴任した後、1921年(大正10年)大日本人造肥料会社が創立すると三井系の代表として専務取締役に就任した。ついで日本油脂会社社長になった。ほか、合同油脂専務取締役を務めた。
澤田 半之助(さわだ はんのすけ、1868年7月27日(慶応… 澤田 半之助(さわだ はんのすけ、1868年7月27日(慶応4年6月8日) - 1934年6月17日)は日本の実業家、労働運動家。洋服の仕立職人としてアメリカ合衆国に在住中に高野房太郎と知り合い、帰国後の1897年に高野らとともに労働組合期成会を結成した。また、銀座に洋服店を開いた。のち、米友協会幹事として横須賀市久里浜のペリー上陸記念碑の建立に関わった。 1868年に現在の福島県須賀川市で生まれる。後述する在米時代以来の友人だった米山梅吉によれば、生家は須賀川でも有数の資産家の本家で、父は澤田喜兵衛だった。しかし、幼少期に父と死別し、遺産を欲する親族の意向から彼らの後見を受け、進学できずに寺子屋に学ぶなど不遇な環境に置かれた。
伊藤 武七郎(いとう ぶしちろう、1868年7月23日(明治… 伊藤 武七郎(いとう ぶしちろう、1868年7月23日(明治元年6月4日)- 1936年(昭和11年)10月26日)は、大正から昭和前期の大地主、政治家。衆議院議員、東京府荏原郡荏原町長。 武蔵国荏原郡下蛇窪村(東京府荏原郡平塚村、平塚町、荏原町、東京市荏原区を経て現東京都品川区)で、地主・伊藤受房の二男として生まれる。父は杜松斎景湖と名乗り寺子屋を開いていた。攻玉社中学校(現攻玉社中学校・高等学校)で学んだ。1917年(大正6年)5月に家督を相続した。 平塚村内堀普通水利組合議員、同村会議員、同耕地整理組合長、荏原郡会議員、荏原町長、東京府会議員(4期)、同副議長、土地貸借価格調査委員、品川普通水利組合会議員、東京市会議員、同参事会員、荏原区公民学務委員などを務めた。
須永 元(すなが はじめ、1868年7月20日〈慶応4年6月… 須永 元(すなが はじめ、1868年7月20日〈慶応4年6月1日〉 - 1942年〈昭和17年〉7月1日)は、明治時代の漢学者、実業家、朝鮮独立運動を支援した活動家。輹斎と号した。 下野国安蘇郡天明町(現・栃木県佐野市)に豪農の子として生まれる。幼名を平十郎または平重郎という。明治19年(1886年)頃上京し、二松学舎に入り、三島中洲、岡本黄石に師事し、漢籍を修める。続いて1889年(明治22年)3月22日、慶應義塾別科独仏科に入り、大学部を卒業する。1895年(明治28年)に帰郷し、金玉均亡き後の朝鮮壮士を支援し、東邦協会や玄洋社、黒龍会の活動に没頭する。1895年(明治28年)には朝鮮に渡り、朴泳孝の旧宅に寄寓する。
岡田 朝太郎(おかだ あさたろう、慶応4年5月29日(186… 岡田 朝太郎(おかだ あさたろう、慶応4年5月29日(1868年7月18日) - 昭和11年(1936年)11月13日)は、日本の法学者。専門は刑法。弟子に穂積重遠など。 号は三面子、虚心。川柳の研究家としても知られ、「岡田三面子」名義で『日本史伝川柳狂句』全27巻(遺稿、古典文庫、1972年 - 1981年)などの著作がある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
一の濱 音吉(いちのはま おときち、1868年7月17日(慶… 一の濱 音吉(いちのはま おときち、1868年7月17日(慶応4年5月28日) - 1906年(明治39年)6月11日)は、摂津国豊島郡豊中村(現・大阪府豊中市大島町)出身の大相撲力士。本名は高橋 乙吉。大阪相撲で活躍し最高位は大関。 8代猪名川に入門、一の濱を名乗り1888年(明治21年)9月見習が初見。一時広角組に加わるが1894年(明治27年)4月入幕。174cm100kgの筋肉質の体格で左差しからの寄り、吊り、投げを得意とした。 1897年(明治30年)9月小結、1898年(明治31年)4月関脇。同年10月には大関となるがこの場所4勝4敗1分の五分ながら1899年(明治32年)6月は関脇に下げられた。
広瀬 武夫(ひろせ たけお、旧字体: 廣瀨武夫、1868年7… 広瀬 武夫(ひろせ たけお、旧字体: 廣瀨武夫、1868年7月16日(慶応4年5月27日) - 1904年(明治37年)3月27日)は、日本の海軍軍人。
3代目 牧野 文斎(さんだいめ まきの ぶんさい、1868年… 3代目 牧野 文斎(さんだいめ まきの ぶんさい、1868年7月14日(慶応4年5月25日) - 1933年(昭和8年)6月25日)は、三河南設楽郡東郷村八束穂(現・愛知県新城市八束穂)出身の医師・実業家・郷土史家。「牧野文斎」は襲名制であり、本稿では3代目について記述する。 牧野家は三河吉田藩の藩医だったが、祖父の牧野竜庵(初代牧野文斎)は幕末にその職を辞した。宝飯郡一宮村江島(現・豊川市一宮町)から南設楽郡東郷村八束穂(現・新城市八束穂、やつかほ)に移り住み、信玄病院を開設して初代院長となった。当初は主屋の一部を診療所として使用していたが、やがて2階建の建物を当地に移築して病院とした。父の牧野謙作(2代目牧野文斎)もこの地で医業に励み、信玄病院の2代目院長となった。
湯川 寛吉(ゆかわ かんきち、慶応4年5月24日(1868年… 湯川 寛吉(ゆかわ かんきち、慶応4年5月24日(1868年7月13日) - 昭和6年(1931年)8月23日)は、第5代住友総理事である。 慶応4年(1868年)5月24日、紀伊国東牟婁郡新宮町841番地(現和歌山県新宮市千穂1丁目)で紀伊新宮藩の藩医湯川寛斎と八重の長男として生まれた。新宮小学校を卒業後、和歌山中学校へ入学したが中退し、東京ドイツ協会学校に在籍した。明治15年(1882年)東京大学予備門に入学して医科大学へ進む予定であったが、独法科が設置された法科大学に転学し、明治23年(1890年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。 同年逓信省に入り、明治27年(1894年)日清戦争の野戦高等郵便局長として戦地で活躍、明治28年(1895年)東京郵便電信学校の校長となる。
平野 鍋吉(ひらの なべきち、1868年7月13日(明治元年… 平野 鍋吉(ひらの なべきち、1868年7月13日(明治元年5月24日) - 1932年(昭和7年)12月31日)は、日本の政治家、実業家。徳島県吉野川市出身。徳島県立徳島中学校卒業。 麻植郡山川町瀬詰(現在の吉野川市)で生まれる。実家は代々酒造業、藍商を営んでいる。 後に鉱山業に転じ海部郡の浅川鉱山で成功し、後に三菱鉱業に譲渡した。 徳島県会議員を経て1930年(昭和5年)に第17回衆議院議員総選挙に当選。その後、貴族院議員に立候補をしたが、病のため辞退した。 1932年(昭和7年)、65歳で没する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
武藤 喜一郎(むとう きいちろう、1868年7月12日(慶応… 武藤 喜一郎(むとう きいちろう、1868年7月12日(慶応4年5月23日) - 1943年(昭和18年)12月14日)は、日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・戦間期の陸軍軍人。獣医学者・獣医師。陸軍獣医学校長、陸軍獣医総監を歴任した。最終階級は陸軍獣医中将。獣医学博士(1902年)、医学博士(1917年)。馬学の研究で知られた。 静岡県出身。静岡中学に学んだ。1892年(明治25年)、東京帝国大学農科大学獣医科卒業。1902年(明治35年)、獣医学博士(東京帝国大学)、1917年(大正6年)、医学博士を取得。 1892年(明治25年)12月20日、陸軍三等獣医。1895年(明治28年)1月8日、陸軍二等獣医。
大江 礒吉(おおえ ぎきち、慶応4年5月22日(1868年7… 大江 礒吉(おおえ ぎきち、慶応4年5月22日(1868年7月11日) - 明治35年(1902年)9月6日)は日本の教育者。出生名は大江磯吉(いそきち)。 1868年、信濃国伊那郡下殿岡村(現・長野県飯田市下殿岡)に生まれた。父および祖父は、殿岡、名古熊、毛賀の3カ村の警備「下役」に従事し、江戸時代は「番太」とされていた家系である。 地域最初の小学校で一年生から教育を受ける。開校された下伊那中学校の第一期生として入学する。1885年7月、改名され長野県立中学校飯田支校の第一期卒業生となる。1886年9月、長野県師範学校高等師範科第2級に編入となり、翌年7月卒業する。 1886年9月2日に、長野県諏訪郡平野小学校の訓導として赴任するが、同僚教師の間で排斥する動きとなり、7日後に辞職を余儀なくされる。
永富 雄吉(ながとみ ゆうきち、慶應4年5月21日(1868… 永富 雄吉(ながとみ ゆうきち、慶應4年5月21日(1868年7月10日) - 昭和4年(1929年)1月20日)は、明治・大正期の日本の海事実業家。高等商業学校(現・一橋大学)講師などを経て、日本郵船の副社長を務めた。 遠江国横須賀藩に生まれる。安房国花房藩横渚出身。高等商業学校(現・一橋大学)本科第二年生だった1889年から、村瀬春雄とともにアントワープ商業大学(Institut supérieur de commerce d'Anvers:現・アントウェルペン大学(英語版))に留学し、リサンシェ(フランス語版)(学士)を取得して卒業後、1894年に帰国し、高等商業学校講師となった。1895年に日本郵船に入社した。
本田 美禅(ほんだ びぜん、慶応4年5月20日(1868年7… 本田 美禅(ほんだ びぜん、慶応4年5月20日(1868年7月9日) - 昭和21年(1946年)3月29日)は、日本の小説家。本名は本田 浜太郎。 信濃国伊那郡山村(現長野県飯田市)生まれ。明治維新後、一家で上京。貧困により小学校を中退して丁稚奉公し、1881年砲兵工廠の職工となる。1887年砲兵工廠の火工科を卒業して熊本の第6師団野戦砲兵隊付へ赴任。「熊本忠愛新報」へ投稿するうちに認められ、1891年には同社に文芸記者として入社した。日清戦争の従軍記者をした後、1897年に内藤湖南に招かれて「台湾日報」の編集者となる。1905年「大阪新報」に「日本丸」が入選したのを機に作家生活に入り、結核の療養生活をしながら多くの大衆小説を大手新聞社やキングなどに掲載した。
石井 次郎(いしい じろう、1868年7月8日(明治元年5月… 石井 次郎(いしい じろう、1868年7月8日(明治元年5月19日)- 1939年(昭和14年)3月19日)は、日本の教育者、実業家、政治家。衆議院議員をつとめた。 肥前国小城郡、のちの佐賀県小城郡南多久村(現在の多久市)に生まれる。生家の石井家は、旧佐賀藩主鍋島家の外戚家門で、佐賀地方で繁栄した一族であった。 地元で小学校の教師として働き始めるが、郷里の先輩である大隈重信らの活躍に憧れて、政治家を志す。1888年(明治20年)には、弱冠20歳にして郡会議員に選ばれ、政治家としての第一歩を踏み出す。10年後には佐賀県会議員に当選し、その期間、第17代県会議長もつとめた。また、小城郡是製糸、多久金融、多久土地の各社の取締役社長などもつとめた。
長谷川 戍吉(はせがわ じゅきち、1868年7月7日(慶応4… 長谷川 戍吉(はせがわ じゅきち、1868年7月7日(慶応4年5月18日) - 1907年(明治40年)1月21日)は、日本の陸軍軍人。日露戦争において騎兵挺進隊隊長を務めた、いわゆる長谷川挺進隊の指揮官である。戦後旧部下の不祥事が原因で自決した。最終階級は陸軍騎兵少佐。 父は会津藩藩士長谷川信吉である。信吉は禄高十三石四人扶持の武具役所勤めであった。長谷川が誕生した際、すでに長兄の丑吉が白河の戦いで討死しており、長谷川が跡を継いだ。戦後に斗南藩三戸郡門前村に移住したが、1873年(明治6年)に 会津本郷に戻った。陶芸家の弟子となり、旧藩校日新館を再興した私立日新館(現会津高校)に進むが退校。単独で上京し山川浩家の家僕となる。
能海 寛(のうみ ゆたか、1868年7月7日〈慶応4年5月1… 能海 寛(のうみ ゆたか、1868年7月7日〈慶応4年5月18日〉 - 1903年〈明治36年〉?)は、チベットを探検した真宗大谷派の僧、仏教学者。 1868年(慶応4年)5月18日、島根県那賀郡波佐村(現在の浜田市金城町)長田にある浄蓮寺住職の能海法憧の次男として生まれる。1877年(明治10年)、10歳の時に広島へ出て進徳教校(現在の崇徳中学校・高等学校)で3年間漢籍などを学び、11歳の時得度し宗門に入る。その後郷里に戻り養父謙信から後継住職としての教育を受ける。1885年(明治18年)9月、18歳の時に再び広島へ出て進徳教校へ入学するが、4ヶ月後に退学し、京都へ出て、西本願寺の普通教校(現在の龍谷大学の前身の一部)で学ぶ。
磯野 敬(いその けい、1868年7月6日(明治元年5月17… 磯野 敬(いその けい、1868年7月6日(明治元年5月17日)- 1925年(大正14年)10月25日)は、明治後期から大正期の林業家、実業家、政治家。衆議院議員。 上総国夷隅郡、のちの千葉県夷隅郡市野郷村(現:勝浦市市野郷)で、富豪・磯野市郎兵衛の長男として生まれる。1892年(明治25年)慶應義塾大学部理財科を卒業した。1904年(明治37年)12月、家督を相続し、造林業を営む。 地方森林会議員、日新護謨取締役なども務める。 1912年(大正元年)、東京府東京市小石川区大塚窪町(現:東京都文京区小石川五丁目)に近代和風建築の粋を集めた自邸が竣工。同邸は2005年(平成17年)12月27日、「旧磯野家住宅」として国の重要文化財に指定される。
加藤 茂苞(かとう しげもと、慶応4年5月17日(1868年… 加藤 茂苞(かとう しげもと、慶応4年5月17日(1868年7月6日) - 1949年(昭和24年)8月16日)は、出羽国鶴岡(現・山形県鶴岡市)出身の農学者。農学博士。九州帝国大学教授。水原高等農林学校教授。東京農業大学教授。 水稲の品種改良に約25年に渡り取り組み続け、数多くの新品種の創出を指導し東北稲作改良の父といわれた。代表的な新品種に「陸羽132号」がある。また、世界に存在する稲を印度型と日本型の2種類の型に分類する事を提案した。著作物に、水稲品種の改良、新品種育成に関する論文25編、講演筆記22編がある。
板垣 鉾太郎(いたがき ほこたろう、慶応4年5月15日(18… 板垣 鉾太郎(いたがき ほこたろう、慶応4年5月15日(1868年7月4日) - 昭和17年(1942年)2月4日)は、日本の教育家。従四位。 慶応4年5月15日(1868年7月4日)土佐藩士・板垣退助の嫡男として土佐国高知城下に生まれる。母は土佐藩士・小谷正臣(善五郎)の娘、鈴。 明治10年(1877年)に北川貞彦が「立志社」の下部組織として興した民権結社「発陽社」(跡地・高知県高知市天神町14)に実弟・乾正士と共に参加。同社は機関紙『江南新誌』を発行するなど、立志社傘下の有力な結社として活動。北川貞彦、弘瀬重正、宮地茂春、徳弘馬域郎らがいた。 明治21年(1888年)5月15日、山田平左衛門を校長に招聘し、高知県土佐郡種崎町に私立学校泰平学校を設立した。
橋本 辰二郎(はしもと たつじろう、1868年6月30日〈明… 橋本 辰二郎(はしもと たつじろう、1868年6月30日〈明治元年5月11日〉- 1951年〈昭和26年〉4月12日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。位階は正五位。勲等は勲二等。 豊前国、のちの大分県で橋本建平の二男として生まれる。1885年(明治18年)3月、伯父橋本雄造の養子となった。専修学校(現専修大学) を修了し、1911年(明治44年)家督を相続した。 1906年(明治39年)以降、長崎商業会議所会頭、橋本汽船社長、福洋汽船社長、橋本商事社長、山下コークス社長、日本タイプライター社長、九州汽船社長、長崎製鉄社長、長崎県商工経済会会頭などを務めた。 政界では長崎市会議員に選出された。
瀬戸口 藤吉(せとぐち とうきち、1868年6月29日〈慶応… 瀬戸口 藤吉(せとぐち とうきち、1868年6月29日〈慶応4年5月10日〉 - 1941年〈昭和16年〉11月8日)は、日本の音楽家、海軍軍楽師。軍艦行進曲や愛国行進曲などを作曲し、「日本行進曲の父」とされる。 琉球王朝に対する接待係を務める薩摩藩士・瀬戸口覚兵衛の家に生まれる。出生地は鹿児島県鹿児島郡小川町(現・鹿児島市)と肝属郡垂水村(現・垂水市)の二説がある。 13歳の時、覚兵衛の実弟であり、東海鎮守府警吏補であった大山軍八の養子となって大山藤吉と名を改め、横浜(東海鎮守府が置かれていた。1885年に横須賀に移転)に移る。1882年、海軍の第2回軍楽公募生に応募し採用される。クラリネットを学んだほか、フランツ・エッケルトと吉本光蔵に和声を師事し、後に東京音楽学校外国人教師のアンナ・レール(ピアノ)とアウグスト・ユンケルとグスタフ・クローンにも師事した。
松方 正雄(まつかた まさお、1868年6月26日(慶応4年… 松方 正雄(まつかた まさお、1868年6月26日(慶応4年5月7日) - 1942年(昭和17年)3月25日)は、鹿児島県出身の実業家。父は松方正義で四男。浪速銀行頭取、共同火災保険取締役、豊川鉄道監査役、阪神電鉄社長などを歴任。 1878年に父の従兄・松方勇助の養嫡子となり、学習院大学、東京大学を経て英国留学。アメリカのペンシルベニア大学時代は野球とアメリカンフットボールのレギュラー選手で、帰国してからは関西財界で活躍した。 1935年に大阪タイガースの初代取締役に就任し、東京巨人軍を越えるチームにするために力を注ぎ、タイガースの基礎を築き上げている。また、戦前のタイガース対阪急軍の試合を「関西の早慶戦」と名付け、関西地区の名物カードとして定着させた。
大芝 惣吉(おおしば そうきち、1868年6月23日(慶応4… 大芝 惣吉(おおしば そうきち、1868年6月23日(慶応4年5月4日)- 1925年(大正14年)10月7日)は、日本の内務官僚、検察官、政治家。政友会系官選県知事、衆議院議員。 甲斐国巨摩郡村山西割村(現・山梨県北杜市)で大芝治貫の長男として生まれる。1890年、和仏法律学校(現・法政大学)を卒業。代言人試験に合格。1894年、弘前区裁判所判事に任官。以後、盛岡・秋田・大津・八王子の各区裁判所検事などを歴任。 以後、佐賀県事務官・警察部長、富山県事務官・警察部長、福島県警察部長、同内務部長などを務める。1913年6月、群馬県知事に就任し、1914年4月まで在任。1915年3月、第12回衆議院議員総選挙で福島県郡部区に立憲政友会から出馬し当選。
長沢 別天(長澤、ながさわ べってん、1868年6月20日(… 長沢 別天(長澤、ながさわ べってん、1868年6月20日(慶応4年5月1日) - 1899年(明治32年)11月22日)は、明治時代の評論家、文芸評論家、ジャーナリスト。 山陽新報(現・山陽新聞)主筆、東京朝日新聞政治主任。本名、説。別名、別天樓主人、別天生、別有天地樓主人、半眼子、四六翁、坂東太郞、渺茫子、渺茫居士、渺茫生、金毛獅。 ジョン・ミルトンやジョージ・バイロンの評論を著し、エドガー・アラン・ポーの詩を日本に初めて紹介するなど英文学の普及に尽力。文芸に加えて日本関係論や政治思想など幅広い評論活動を行った。 常陸国(現・茨城県)生まれ。攻玉社を経て、築地の立教学校(現・立教大学)で学ぶ。
丹羽 鋤彦(にわ すきひこ、1868年(明治元年6月19日)… 丹羽 鋤彦(にわ すきひこ、1868年(明治元年6月19日) - 1955年〈昭和30年〉1月18日)は、明治時代-昭和初期の土木技術者、工学博士。 1868年(慶応4年)名古屋生まれ、1889年東京帝国大学工科大学土木学科を卒業。内務省に入り内務技師。仙台、大阪、名古屋の土木監督署で勤務。1900年-1901年に欧米出張(横浜港新港埠頭建設のため)。大蔵省臨時建築部第二課長橫浜支部長、同臨時建築課長などを歴任。この間、木曽川、淀川、最上川の治水事業、横浜、神戸の港湾改良事業などに携わる。1915年、工学博士。1919年、依願免官。同年、日本水力株式会社取締役。1921年、東京市道路局長、河川課長・建築課長事務取扱。
甲斐 和里子(かい わりこ、1868年(慶応4年)6月15日… 甲斐 和里子(かい わりこ、1868年(慶応4年)6月15日 - 1962年(昭和37年)11月27日)は、日本の教育者。京都女子大学の前身、顕道女学院の創始者。旧姓・足利。 現在の広島県福山市神辺町西中条生まれ。父は勝願寺の住職で、浄土真宗本願寺派の学者の足利義山。父が進徳教校(崇徳中学校・高等学校の前身)の教授になったため、1886年に広島開成舎に入学し英語・漢文を学ぶ。卒業した翌年の1890年、父の転勤に伴い京都に移る。仏教活動家平井金三の仏教系英学塾オリエンタルホールで英語を学ぶ。 明治初期の日本には各地でミッションスクールが創設されたが、仏教系の女子学校はほとんどなく、仏教精神の根ざした女子校が必要と教師の資格を得るため1893年、26歳で同志社女学校(同志社女子大学の前身)英語専科へ入学。
門永 昇平(かどなが しょうへい、明治元年(1868年)6月… 門永 昇平(かどなが しょうへい、明治元年(1868年)6月1日 - 没年不明)は日本の実業家、政治家。鳥取県西伯郡境町中屈指の豪商。元境町会議員。 鳥取県西伯郡上道村(現境港市上道町)出身。厳父浅重の二男。 弱冠にして実家の業務を扶け大に商業の経験を積み明治23年(1890年)8月境町に分家し、始め酒類販売及び砂糖商を開き一意専心業務に力めたことにより、日増しに繁栄に向かい資産増殖する。 従来の家業を廃し質屋肥料商を開く。明治33年(1900年)実に壮観なる家宅を新築する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
内田 魯庵(うちだ ろあん、1868年5月26日(慶応4年閏… 内田 魯庵(うちだ ろあん、1868年5月26日(慶応4年閏4月5日) - 1929年(昭和4年)6月29日)は、明治期の評論家、翻訳家、小説家。本名貢(みつぎ)。別号不知庵(ふちあん)、三文字屋金平(さんもんじやきんぴら)など。明治文壇を代表する批評家として知られ、旺盛な好奇心と広範な知識は文学を超えて、民族学や文明論的な拡がりを持った。江戸下谷車坂六軒町(現・東京都台東区)生まれ。洋画家内田巌は長男。孫(巌の娘)に翻訳家の内田莉莎子。 旧幕臣の子・貢(幼名・貢太郎)として下谷車坂三軒町に生まれる。父・正には7人の妻がおり、魯庵は最初の妻との子。はじめは政治・実業に関心を持ち、1882年(明治15年)に15歳で築地の立教学校(現立教大学)に入学して英語を学んだほか、東京専門学校(現早稲田大学)英語部などでも英語を学び、東京大学予備門にも入ったが、家が貧しく結局どこも中退し、文部省編輯局翻訳係であった叔父(継母の姉妹の夫)・井上勤のもとで下訳や編集の仕事をする。
鏡 保之助(かがみ やすのすけ、慶応4年4月28日(1868… 鏡 保之助(かがみ やすのすけ、慶応4年4月28日(1868年5月20日) - 昭和6年(1931年)3月29日)は、明治から昭和始めにかけて活躍した農学者。農業教育者、庭園研究家。元姓は中川で人造肥料施用法原理を表した他、庭園研究にも勤しむ。駿河国(現在の静岡県)出身。 1890年(明治23年)、帝国大学農科大学卒業。1890年(明治23年)8月から1896年(明治29年)3月まで母校の静岡県尋常中学校で英語・博物・農業の教員を務める。1897年(明治30年)から農商務省農事試験場技師となる。1905年(明治38年)から1909年(明治42年)まで、京都府立農林専門学校に教諭として赴任し、のち校長を務める。
匹田 鋭吉(ひきた えいきち、1868年5月18日〈慶応4年… 匹田 鋭吉(ひきた えいきち、1868年5月18日〈慶応4年4月26日〉 – 1944年〈昭和19年〉11月9日)は、日本のジャーナリスト・政治家。立憲政友会所属の衆議院議員。 1868年5月18日、美濃国郡上郡八幡(現在の岐阜県郡上市)に於いて郡上藩士匹田重秋の長男として生まれる。1888年(明治21年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)政治経済科を卒業。読売新聞社の記者となった後、1902年(明治35年)に富山日報の主筆に招かれ、1910年(明治43年)からは九州日報の主筆となった。さらに北陸タイムス主筆に転じ、1913年(大正2年)からは岐阜日日新聞社の社長兼主筆を務めた。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
土居 通博(どい みちひろ、1868年5月16日(慶応4年4… 土居 通博(どい みちひろ、1868年5月16日(慶応4年4月24日) - 1939年(昭和14年)12月8日)は、岡山県出身の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 美作国(現岡山県)出身。明治法律学校卒業後、実業界に進む。 1897年(明治30年)、土居銀行の創立に関わり、勝間田銀行、久世銀行、武藤銀行、備前加茂銀行等を合併させて、作備銀行を設立。その後、津山銀行を加えて1924年(大正13年)に山陽銀行を設立し、頭取に就任。以降も、阿哲銀行、足守銀行、鞆銀行、丸亀銀行、倉敷大橋銀行など県内外の銀行を合併吸収。1930年(昭和5年)には、第一合同銀行と合併し、中国銀行創立に関与。 津山製糸取締役、中国鉄道取締役などにも就任。
岡 喜七郎(おか きしちろう、1868年5月15日(慶応4年… 岡 喜七郎(おか きしちろう、1868年5月15日(慶応4年4月23日) - 1947年(昭和22年)7月4日)は、日本の内務官僚、政治家。官選県知事、警視総監、貴族院議員。旧姓・伊丹。 備前国御野郡大安寺村(後の岡山県御津郡大野村を経て現岡山市北区)出身。農業・伊丹喜三郎の長男として生まれ、旧幕臣・岡敬孝の養子となる。岡山中学、成立学舎、大学予備門を経て、1891年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年10月、高等試験に合格し、内務省試補となり警保局に配属され、さらに県治局へ異動した。 1893年11月、鳥取県参事官に就任。以後、青森県内務部長、内務書記官・警保局警務課長、大阪府内務部長などを歴任。
阿部 秀逸(あべ しゅういつ、1868年5月15日(明治元年… 阿部 秀逸(あべ しゅういつ、1868年5月15日(明治元年4月23日) - 1935年(昭和10年)4月29日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。旧姓・小林。 小林庄之助の長男としてのちの宮城県に生まれ、先代阿部たかの養子となり1906年(明治39年)家督を相続する。宮城師範学校を経て、明治法律学校を卒業し、1882年(明治15年)小学校訓導となる。ついで中津山村会議員、桃生郡会議員、仙台米穀取引所理事長、小牛田倉庫社長、宮城商業銀行取締役、仙台平機業監査役、宮城県信用組合理事、石巻製氷社長、石巻共同運輸、石巻運輸造船、東北製凾各取締役、仙台染織製綿監査役などを歴任した。
江藤 捨三(えとう すてぞう、1868年〈明治元年5月12日… 江藤 捨三(えとう すてぞう、1868年〈明治元年5月12日〉 - 1947年〈昭和22年〉3月31日)は静岡県出身の製鉄技術者であり工学博士。室蘭製鉄所の初代所長を務めた。 駿河国駿東郡金岡村にて平民・江藤俊平の五男として生まれる。1887年(明治20年)7月、第一高等中学校の予科第三級へ入学。東京帝国大学工科大学の採鉱冶金科を1895年(明治28年)7月に卒業し、当時国内唯一の近代式製鉄所として稼働していた釜石鉱山田中製鉄所に勤めた。1896年(明治29年)5月に退職すると、同年7月に官営八幡製鉄所の技手に任官、工務部に所属した。翌1897年には研修のためドイツへ留学し、ベルリン大学で2年間研究したのち帰国。
桑原 羊次郎(くわばら ようじろう、慶応4年4月18日(18… 桑原 羊次郎(くわばら ようじろう、慶応4年4月18日(1868年5月10日) - 昭和30年(1955年)7月21日)は、明治後期から昭和前期にかけての美術工芸研究家、社会事業家、政治家(衆議院議員)。号は双蛙(そうあ)。 肉筆浮世絵コレクター、装剣金工研究家として知られる。1910年の日英博覧会では日本美術部門委員を務めた。 慶応4年4月18日(1868年5月10日)、代々松江藩両替商を務めた「桑屋太助」本家の6代目・愛三郎の次男(第4子)として生まれた。明治9年(1876年)より内村友輔(鱸香)の私塾「相長舎」に通う。明治14年(1881年)5月、本町小学校上等科を卒業し、同年9月に松江中学校へ入学した。
武田 貞之助(たけだ ていのすけ、慶応4年4月15日(186… 武田 貞之助(たけだ ていのすけ、慶応4年4月15日(1868年5月7日) - 昭和17年(1942年)3月11日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党)、弁護士。 近江国伊香郡高時村(現在の滋賀県長浜市)出身。1884年(明治17年)に滋賀県師範学校を卒業し、小学校教員を務めていたが、大阪に出て関西法律学校(現在の関西大学)に入学した。1892年(明治25年)に卒業した後、弁護士試験に合格し、大阪に事務所を開いた。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後大阪商業学校校主・理事、原田汽船株式会社監査役、虎屋信託株式会社監査役、福井商店監査役などを務めた。
豊島 愿(とよしま げん、慶応4年4月15日(1868年5月… 豊島 愿(とよしま げん、慶応4年4月15日(1868年5月7日) - 没年不詳)は、日本の内務官僚。新潟県長岡市長。 金沢の佐久間家に生まれ、豊島永頼の養子となった。1891年(明治24年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。1895年(明治28年)には専修学校(現在の専修大学)を卒業した。1899年(明治32年)に高等文官試験に合格し、青森県視学官、福島県視学官、同事務官、熊本県事務官、佐賀県内務部長、福井県内務部長、岩手県内務部長、岐阜県内務部長を歴任した。 退官後は長岡市長を務めた。
本多 辰次郎(ほんだ たつじろう、明治元年4月15日(186… 本多 辰次郎(ほんだ たつじろう、明治元年4月15日(1868年5月7日) - 1938年(昭和13年)7月8日)は戦前日本の歴史学者。山形県立山形中学校長、宮内省臨時帝室編修局御用掛、法政大学、立教大学講師。 明治元年(1868年)4月15日愛知県海部郡津島町に七里長兵衛の次男として生まれた。1886年(明治19年)上京して浅草区小島町に住み、大谷教校に通ったが、同年高等科が京都に移転したため、共立学校に入学した。1889年(明治22年)第一高等中学校、1895年(明治28年)東京帝国大学国史科、1898年(明治31年)帝国大学大学院に進んだ。 1898年(明治31年)本多正開の養子となり、1902年(明治35年)家督を相続した。
花子(はなこ、慶応4年4月15日(1868年5月7日) - … 花子(はなこ、慶応4年4月15日(1868年5月7日) - 昭和20年(1945年)4月2日)は、明治から昭和初期にかけてヨーロッパで活躍した日本人女優、ダンサー。本名、太田ひさ。 1900年代初頭、単身でヨーロッパに渡り舞台女優として活躍し、日本文化の紹介者としての役割を担った。また、彫刻家オーギュスト・ロダンに認められ、モデルとなっている。森鷗外の短編小説『花子』のモデルである。 尾張国中島郡上祖父江村(現・愛知県一宮市上祖父江)出身。2歳の時に親元を離れて名古屋に移り住み、4歳の時に養子に出され、酒井ひさとなる。 家の没落の影響もあり、旅芸人一座に入れられる。その後、1880年に舞子になり、1884年に芸者となる。
尾越 辰雄(おごせ たつお、慶応4年4月14日(1868年5… 尾越 辰雄(おごせ たつお、慶応4年4月14日(1868年5月6日) - 大正12年(1923年)9月21日)は、日本の衆議院議員(立憲同志会→憲政会)。弁護士。旧姓・武藤。 肥後国宇土郡宇土(現宇土市)に宇土藩士武藤三兵衛の三男に生まれ、尾越可俊の養子となった。1893年(明治26年)、獨逸協会学校専修科(現在の獨協大学)を卒業し、熊本市で弁護士を開業した。1898年(明治31年)よりドイツのライプツィヒに留学し、1901年(明治34年)に博士号を得た。帰国後は破産管財人、熊本市会議員、同参事会員などを務めた。1906年(明治39年)からは東京市に事務所を開いた。 1915年(大正4年)第12回衆議院議員総選挙に出馬し当選。
高鳥 順作(たかとり じゅんさく、1868年5月5日(明治元… 高鳥 順作(たかとり じゅんさく、1868年5月5日(明治元年4月13日) - 1958年(昭和33年)2月8日)は、日本の政治家、実業家。位階は正四位。 新潟県能生谷村平(現糸魚川市平)の高鳥半五郎の長男として生まれる。実家は貧しい農家であり小学校卒業後も親の手伝いをしながら夜学に通う生活であった。農村の開田工事をしていたが24歳の時に登記所の整地工事を入札したのが土木請負いのはじまりで高鳥組をおこし、新潟県下の公共事業を請負っていくようになる。主だった工事として明治末期の加治川改修工事、直江津-富山間の鉄道(北陸本線。現在のえちごトキめき鉄道日本海ひすいライン・あいの風とやま鉄道線)建設工事がある。
大橋 松二郎(おおはし まつじろう、明治元年4月13日(18… 大橋 松二郎(おおはし まつじろう、明治元年4月13日(1868年5月5日) - 大正9年(1920年)12月15日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→立憲同志会→憲政会)、ジャーナリスト。 越前国吉田郡円山西村(現在の福井県福井市)出身。1890年(明治23年)に『若越自由新聞』を創刊し、1894年(明治27年)には『若越新聞』と改題。後に『若越新聞』を政友会福井支部の機関紙とした。また農業においては馬耕の奨励や稲種改良に尽力した。福井県会議員、同参事会員、同議長を歴任した。その他、吉田郡農会長、吉田郡教育会長などを務めた。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し当選。第12回衆議院議員総選挙でも再選された。
井上 剛一(いのうえ ごういち、1868年5月4日(慶応4年… 井上 剛一(いのうえ ごういち、1868年5月4日(慶応4年4月12日) - 1946年(昭和21年)5月12日)は、日本の弁護士・政治家で憲政会→立憲民政党所属の衆議院議員。 紀伊国伊都郡学文路村(現・和歌山県橋本市)に、水木重左衛門の二男に生まれ、井上又左衛門の養子となった。和歌山県師範学校を卒業した後、1887年(明治20年)より英吉利法律学校(現・中央大学)で法学を学び、1889年(明治22年)に代言人試験に合格した。浜松代言人組合に所属し、後には静岡弁護士会長や日本弁護士協会名誉理事に選ばれた。 浜松市会議員、静岡県会議員を経て、1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。
片山 太郎(かたやま たろう、1868年5月3日(明治元年4… 片山 太郎(かたやま たろう、1868年5月3日(明治元年4月11日)- 1940年(昭和15年)10月17日)は、明治後期から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員、奈良県磯城郡川西村長。 大和国式下郡結崎村(奈良県式下郡川西村、磯城郡川西村を経て現川西町結崎)で、郡山藩大庄屋、同藩の金子御用達を務めた片山家当主・片山太平(太兵衛)の長男として生まれた。1883年(明治16年)家督を相続し農業を営む。1886年(明治19年)郡山中学校(現奈良県立郡山高等学校)を卒業した。 川西村会議員を務め、1905年(明治38年)川西村長に就任。その他、磯城郡会議員にも在任した。中山梅治郎の死去に伴い、1919年(大正8年)11月に実施された第13回衆議院議員総選挙奈良県郡部補欠選挙で当選し、衆議院議員に1期在任。
関 保之助(せき やすのすけ、1868年5月2日〈慶応4年4… 関 保之助(せき やすのすけ、1868年5月2日〈慶応4年4月10日〉 - 1945年〈昭和20年〉5月25日)は、明治から昭和時代にかけての有職故実家。東京帝室博物館学芸委員、重要美術品等調査委員。有職故実、甲冑武器の考証家として著名だった。蒐集家としては東都において小堀鞆音に並ぶ存在として知られた。筆名に波爾和、号に花郷、加和羅廼舎、箙廼舎。 江戸小石川原町(現・文京区)に一橋徳川家臣・関守真の二男として生まれる。幼い頃より古武器を愛好し、歴史画家を志して、明治23年9月に東京美術学校に入学した。同期に横山大観・下村観山らがいた。日本画を学び、明治26年7月、同校の第1回卒業生として専修科絵画科を卒業した。