平野 峯郎(ひらの みねろう、1912年9月19日 - 20… 平野 峯郎(ひらの みねろう、1912年9月19日 - 2002年12月22日)は、日本の歌人。千葉県君津郡貞元村生まれ。北原白秋が主宰する多磨短歌会の会員などを経て、1952年より山本康夫に師事。君津市の鹿野山には峯郎の短歌を刻んだ歌碑が建てられている。 1912年、千葉県君津郡貞元村(現・君津市貞元)生まれ。貞元小学校および農業補習学校卒。農村地帯に生まれ、自らも農業を生業としたが、一方で1928年ごろから作歌活動を開始し、雑誌『千葉県青年処女』(千葉県連合青年団)の歌壇(伊藤公平選)や、千葉県農会機関誌『愛土』の歌壇(鈴木康文選)に短歌を投稿する。その後、1940年に北原白秋が主宰する多磨短歌会(1935年結成)の会員となる。
染谷 一雄(そめたに かずお、1912年(大正元年)9月19… 染谷 一雄(そめたに かずお、1912年(大正元年)9月19日 - 1980年(昭和55年)11月30日)は、日本の囲碁棋士。滋賀県出身、久保松勝喜代名誉九段門下、日本棋院関西総本部所属、九段。第4期本因坊戦最終予選ベスト4など。重厚で力戦型の棋風。 滋賀県神崎郡(現・東近江市)に生まれる。父は京都から無医村の永源寺町に派遣されて住み着いていた医師で、囲碁好きだった。9歳の時に片足が不自由になったため、父は体が不自由でも成功できる道のある囲碁を熱心に教えるようになった。京都で腕を磨き、1926年に久保松勝喜代に入門。1927年初段。1932年大手合春期乙組優勝、三段。1939年四段。その後も1941年まで内弟子を続け、久保松門の塾頭格として後輩を指導した。
古畑 正秋(ふるはた まさあき、1912年9月18日 - 1… 古畑 正秋(ふるはた まさあき、1912年9月18日 - 1988年11月23日)は、日本の天文学者。元東京大学東京天文台教授。 長野県諏訪郡落合村(現・富士見町)出身。長野県諏訪中学校・旧制松本高等学校理科甲類を経て、1938年東京帝国大学理学部天文学科卒業。 同年からハーバード大学天文台で助手を務め、プログラムによる測定や計算などに従事し、1941年に帰国後は、東京大学東京天文台の助手、1958年に教授、1968年に台長を歴任し、野辺山宇宙電波観測所や木曽観測所設置に尽力した。夜天光研究の権威として知られており、アマチュア天文家による変光星観測の指導も行った。1973年退官。 古畑の門下生には北村正利、田鍋浩義がいる。
北住 敏夫(きたずみ としお、1912年9月18日 - 19… 北住 敏夫(きたずみ としお、1912年9月18日 - 1988年5月26日)は、日本の国文学者、東北大学名誉教授。 三重県生まれ。東北帝国大学法文学部国文科卒。宮城県女子専門学校教授、東北大学助教授、55年「文芸に於ける写生説の研究」で東北大文学博士。59年教授。76年定年退官、山形女子短期大学教授。75年「写生説の研究」「写生派歌人の研究」などで学士院賞受賞。岡崎義恵、阿部次郎らに学び、「万葉集」から長塚節まで研究。 この項目は、文学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJライトノベル)。 項目が小説家・作家の場合には {{Writer-stub}} を、文学作品以外の本・雑誌の場合には {{Book-stub}} を貼り付けてください。
松下 正治(まつした まさはる、英語:Masaharu Ma… 松下 正治(まつした まさはる、英語:Masaharu Matsushita, 1912年9月17日 - 2012年7月16日)は、日本の実業家。パナソニック(旧・松下電器産業)の代表取締役社長、代表取締役会長、取締役相談役名誉会長を歴任した。位階は従三位。松下幸之助の娘婿。東京府出身。2018年現在、同社の歴代社長8人の中で唯一、関西以外の出身者(他は全て最終学歴まで関西育ち)である。
惣郷 正明(そうごう まさあき、1912年9月16日 - 1… 惣郷 正明(そうごう まさあき、1912年9月16日 - 1993年4月16日)は、日本の英学史・辞書史学者。 広島県出身。九州帝国大学法文学部卒、朝日新聞記者、国立国語研究所国語辞典編纂員、のち朝日新聞社友。
原 百代(はら ももよ、1912年9月16日 - 1991年… 原 百代(はら ももよ、1912年9月16日 - 1991年8月12日、女性)は、日本の作家、翻訳家。 東京生まれ。1934年に津田英学塾(現津田塾大学)卒業。戦前から英文翻訳業を行い占領下では、GHQ機関に勤務、独立後は翻訳家に戻った。 知人から贈られたヘレン・ミアーズ(Helen Mears、1900 - 1989)『Mirror for Americans.JAPAN』を読み感銘を受け著者の承諾を得て、1949年にCIE(民間情報教育局)へ翻訳許可を願い出たが認可されず、講和独立後の1953年に訳書『アメリカの反省』を上梓した(新訳は1995年に、伊藤延司訳『アメリカの鏡・日本』で刊行)。
鳳 誠三郎(ほう せいざぶろう、1912年〈大正元年〉9月1… 鳳 誠三郎(ほう せいざぶろう、1912年〈大正元年〉9月16日 - 2005年〈平成17年〉1月10日)は、日本の工学者。東京大学工学部教授。成蹊大学工学部教授。電気学会第60代会長。専門は電気工学で、放電に関する多岐にわたる研究に携わった。 鳳秀太郎の三男、与謝野晶子の甥。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。 この項目は、工学・技術に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:技術と産業)。
成田 知巳(なりた ともみ、1912年〈大正元年〉9月15日… 成田 知巳(なりた ともみ、1912年〈大正元年〉9月15日 - 1979年〈昭和54年〉3月9日)は、日本の政治家。衆議院議員、日本社会党政策審議会長・書記長・委員長を歴任した。 香川県高松市出身。肥料商で高松市議会議員をつとめた成田鷹次の子として生まれる。旧制高松中学(現・香川県立高松高等学校)を経て、第四高等学校(現・金沢大学)、東京帝国大学(現・東京大学)法学部へと進む。高松中では野球部のマネージャーも務めており、1学年上に梶原英夫、三原脩がいた。大学卒業後、三井鉱山に入社する。1941年、三井化学に転属となり、1943年には文書課長に昇進した。第四高等学校時代には後に社会党の参議院議員となる亀田得治と同じクラスだった。
栗原 敬三(くりはら けいぞう、1912年(大正元年)9月1… 栗原 敬三(くりはら けいぞう、1912年(大正元年)9月15日 - 2007年(平成19年)3月30日)は、昭和から平成時代初期の政治家。東京都板橋区長。位階は従五位。 東京府出身。1935年(昭和10年)日本大学専門部を卒業し東京市臨時国勢調査部に奉職する。戦後、1946年(昭和21年)板橋区総務課に転じ、教育長、助役を経て、1979年(昭和54年)板橋区長に当選した。3期務め、1991年(平成3年)引退した。2007年死去。死没日付をもって従五位に叙された。
橋本 喜三(はしもと きぞう、1912年9月14日 - 没年… 橋本 喜三(はしもと きぞう、1912年9月14日 - 没年不明)は、美術評論家。 京都市生まれ。1936年早稲田大学文学部英文科卒。1940年朝日新聞社に入社。京都支局、大阪本社学芸部で美術記者。1946年京都美術懇話会を結成しのち理事。1967年定年退社。1970年池坊短期大学教授、1983年客員教授。1975-1983年朝日アートセンター館長。
寺田 熊雄(てらだ くまお、1912年(大正元年)9月12日… 寺田 熊雄(てらだ くまお、1912年(大正元年)9月12日 - 1996年(平成8年)2月24日)は、日本の裁判官、政治家。第21代岡山市長、参議院議員(2期)。東京府出身。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
武田 栄一(たけだ えいいち、1912年9月12日 - 20… 武田 栄一(たけだ えいいち、1912年9月12日 - 2003年1月29日) は、日本の原子力工学者。専門は原子炉物理学。東京工業大学(のちの東京科学大学)名誉教授。元日本原子力学会会長。 1936年東京工業大学(のちの東京科学大学)電気化学科卒業、大阪帝国大学理学部副手。1939年大阪帝国大学理学部助手。1943年東京工業大学講師。1944年東京工業大学附属工業専門部教授。1948年東京工業大学助教授。1952年日本学術会議原子核特別委員会委員。1954年東京工業大学教授。1955年原子力平和利用国際会議日本政府代表顧問。1956年日本学術会議原子力特別委員会委員。1958年原子力委員会専門委員。
石川 敏治(いしかわ としはる、1912年(大正元年)9月1… 石川 敏治(いしかわ としはる、1912年(大正元年)9月10日 - 2015年(平成27年)6月16日)は、昭和から平成時代の政治家。愛知県高浜市長。 高浜市出身。1927年(昭和2年)高浜高等小学校卒業。 1947年(昭和22年)高浜町議会議員、1955年(昭和30年)同議長を経て、1973年(昭和48年)から高浜市長に4選。1989年(平成元年)引退した。
石母田 正(いしもだ ただし/しょう、1912年9月9日 -… 石母田 正(いしもだ ただし/しょう、1912年9月9日 - 1986年1月18日)は、日本の歴史学者。法政大学法学部名誉教授。専攻は古代史および中世史で、多数の著作・論文がある。 1912年、北海道札幌市の母方の実家で生まれ、宮城県石巻市で育った。父・石母田正輔は旧仙台藩出身で、石巻の町長・市長を長く務めた。二高を経て、東京帝国大学文学部哲学科に入学。後に国史学科へ転科し、1937年に卒業。 冨山房、日本出版会に勤務の後、朝日新聞記者を経て、1947年から法政大学法学部講師、1948年に同教授。この間、1963年から法学部長、1967年から附属図書館長などの役職にあり、1981年に定年退職、名誉教授となる。
三浦 矢一(みうら やいち、1912年(大正元年)9月7日 … 三浦 矢一(みうら やいち、1912年(大正元年)9月7日 - 2005年(平成17年)3月29日)は、昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 華族・三浦松二郎の長男として生まれる。父の死去に伴い、1931年(昭和6年)10月7日、子爵を襲爵した。 1936年(昭和11年)中央大学法学部を卒業。同年、南満州鉄道に入社。大陸鉄道従事員援護会でも勤務した。 1946年(昭和21年)8月22日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
緒方 孝男(おがた たかお、本名・佐藤孝男、1912年(大正… 緒方 孝男(おがた たかお、本名・佐藤孝男、1912年(大正元年)9月7日 - 1988年(昭和63年)11月4日)は、昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員(1期)。 大分県速見郡山浦村(山香町を経て現杵築市)で生まれる。1924年(大正13年)山香高等小学校を卒業した。 1934年(昭和9年)日本製鐵八幡製鉄所に工員として就職。戦後、八幡製鉄所労働組合運動に参画し、同労組執行委員、同副組合長、同三代組合長、日鉄労働組合連合会長などを務めたが、1950年(昭和25年)連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の追放処分(レッドパージ)を受けた。 1951年(昭和26年)労働組合の支援を受け福岡県議会議員に当選。
宮武 正道(みやたけせいどう、1912年9月6日 - 19… 宮武 正道(みやたけせいどう、1912年9月6日 - 1944年8月16日)は、日本の言語研究者である。マレー語の専門家として知られる。大学の職は求めなかったものの、生家の経済力に支えられて一生を学問に費やし、自費出版を含む30冊以上の著書を出版した。正道(まさみち)と命名されたが、文筆活動に入る頃に同じ漢字で「せいどう」と名乗るようになった。 1912年、奈良県奈良市西御門町にて、製墨業を営む佐十郎、てるのもとに生まれる。奈良県師範学校附属の幼稚園、小学校を卒業したのち、1925年に奈良県立奈良中学校に入学。中学時代には、切手蒐集とエスペラントに熱中した。エスペラントは1年でマスターし、友人にも勧めていたという。
永田 正全(ながた まさはる、1912年9月6日 - 201… 永田 正全(ながた まさはる、1912年9月6日 - 2010年2月17日)は、日本の経営者。熊本県出身。 1938年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に阪神急行電鉄(のちの阪急電鉄)に入社。1968年5月に取締役に就任し、1979年10月に副社長に就任。1986年6月に阪急不動産会長に就任。 1982年11月に藍綬褒章を受章し、1987年11月に勲三等瑞宝章を受章。 2010年2月17日に死去。72歳没。
伊藤 逸平(いとう いっぺい、1912年9月5日 - 199… 伊藤 逸平(いとう いっぺい、1912年9月5日 - 1992年12月18日)は、日本の写真・漫画評論家。 愛知県出身。本名は武夫。1936年日本大学芸術学部卒。1941年玄光社に入社。1943年より「写真文化」(のち「写真科学」)編集長を務め、映像、絵画、漫画、グラフィックデザイン等の批評運動を行なう。「カメラ」の編集長となり写真評論に活躍。1946年イヴニングスター社の専務兼編集局長として漫画風刺雑誌「VAN」を創刊、編集長として谷内六郎らを発掘した。漫画評論家の草分け。
蕗沢 忠枝(ふきざわ ただえ、女性、1912年9月4日 - … 蕗沢 忠枝(ふきざわ ただえ、女性、1912年9月4日 - 2001年)は、日本の翻訳家。 千葉県夷隅郡大多喜町出身で、旧姓は川崎 忠枝。1935年東京女子大学英文科卒業。武蔵野音楽学校講師を経て内務省勤務。推理小説、児童文学など英語文学を翻訳した。日本翻訳家協会理事(1965年、1966年時点)。「マガーク少年探偵団シリーズ」 で日本翻訳出版文化賞を受賞している。 夫の蕗沢紀志夫()(旧名:蕗沢喜芳())は、東京高等工業学校附設工業教員養成所(応用化学科)出身で、のちに英文学翻訳家、日本大学芸術学部講師となった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
寺内 一隆(てらうち かずたか、1912年9月3日 - 戦死… 寺内 一隆(てらうち かずたか、1912年9月3日 - 戦死)は、愛媛県出身のプロ野球選手(外野手)。
安士 正夫(やすし まさお、1912年9月3日 - 1970… 安士 正夫(やすし まさお、1912年9月3日 - 1970年10月4日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。東京都立大学名誉教授。筆名に中田 精一。 北海道小樽市生まれ。1937年東京帝国大学仏文科卒、東京都立大学教授を務めた。 バルザックが専門だが、ルソー『新エロイーズ』を初めて完訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
阿部 俊子(あべ としこ、1912年9月2日 - 1993年… 阿部 俊子(あべ としこ、1912年9月2日 - 1993年)は日本の国文学者。学習院名誉教授(元学習院女子短期大学教授)、元大正大学教授。『伊勢物語』の研究で著名。 岡山県出身。1934年(昭和9年)、東京女子高等師範学校卒業。1937年(昭和12年)、東京文理科大学国語学国文学科卒業。国文学(古代)専攻。1964年(昭和39年)、「大和物語を中心とした歌物語の研究」で文学博士(東京教育大学)。1955年学習院女子短期大学着任、1978年退職、学習院名誉教授、のち大正大学教授等を務める。夫は文学者の阿部秋生。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
青柴 憲一(あおしば けんいち、1912年9月1日〈大正元年… 青柴 憲一(あおしば けんいち、1912年9月1日〈大正元年〉 - 1945年11月1日〈昭和20年〉)は、京都府出身のプロ野球選手(投手)。 1930年に立命館大学野球部に所属。1932年から1933年頃、旧関西六大学リーグ戦での快速球は京都の野球界を風靡しており、京都商業学校時代の沢村栄治から目標とされる程の存在だった。また、島秀之助も戦前で最も印象に残った選手の一人として、青柴憲一の名を挙げている。大学時代のチームメイトに後藤正・村川幸信(社会人野球の明電舎でもバッテリーを組んだ)がいる。 立命館大学を中退して、渡辺商店や東洋ベアリングでプレー。1934年のベーブ・ルース率いる全米選抜チーム来日時には、11月8日の湯の川球場(北海道函館市)での試合に全日本選抜チームの投手として先発。
西村 正夫(にしむら まさお、1912年9月1日 - 200… 西村 正夫(にしむら まさお、1912年9月1日 - 2002年11月28日)は、香川県高松市出身のプロ野球選手・監督。ポジションは外野手。
千田 九一(ちだ くいち、1912年9月1日 - 1965年… 千田 九一(ちだ くいち、1912年9月1日 - 1965年12月12日)は、日本の漢文学者。 山口県出身。1936年東京帝国大学文学部支那文学科卒。竹内好、武田泰淳らの中国文学研究会に参加、戦後は機関誌『中国文学』の編集にあたる。また高見順らの文芸同人誌『日暦』にも参加した。戦後、小野忍とともに『金瓶梅』を訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
山本 大(やまもと たけし、1912年9月1日- 2001年… 山本 大(やまもと たけし、1912年9月1日- 2001年8月19日)は、日本史学者。高知大学名誉教授。 高知県生まれ。1937年東京帝国大学文学部国史学科卒業。高知大学助教授、教授、1976年定年退官、名誉教授。高知県の歴史を中心に研究した。
吉田 正太郎(よしだしょうたろう、1912年9月1日 - 2… 吉田 正太郎(よしだしょうたろう、1912年9月1日 - 2015年7月30日)は、日本の天文学者、光学設計者である。 非球面光学系の先駆者であり、理論面、実務面の双方において優れた業績を残した。学究活動の傍ら、一般や青少年向けの本を執筆して知識の向上に努めた。
唐橋 東(からはし あずま、1912年(大正元年)9月1日 … 唐橋 東(からはし あずま、1912年(大正元年)9月1日 - 2012年(平成24年)4月26日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員(日本社会党、1期)、福島県喜多方市長(4期)。位階は従四位、勲等は勲三等。 孫に俳優・イラストレーターの唐橋充がいる。 福島県耶麻郡高郷村(現喜多方市)出身。1932年(昭和7年)福島師範学校専攻科(福島大学人間発達文化学類の前身)卒業。地元で小学校教員や中学校長などを務め、日本教職員組合の活動を行う。その後、福島県議を4期務める福島県議を4期務める。その後、1967年の総選挙において福島県第2区から日本社会党公認で出馬し初当選するも、再選を期した1969年の総選挙で落選。
有明 五郎(ありあけ ごろう、1912年9月1日 - 195… 有明 五郎(ありあけ ごろう、1912年9月1日 - 1959年7月20日)は、東京府東京市(現在の東京都新宿区)出身で錦嶌部屋に所属した大相撲力士。本名は金子 元五郎(かねこ もとごろう)。身長171cm、体重111kg。得意手は左四つ、寄り。最高位は東前頭11枚目(1944年5月場所)。有明吾郎とは別人物。 1929年5月場所、錦島部屋から初土俵を踏む。最初の四股名は錦谷であった。四つに組むと力を出す相撲であったが、体も硬く勝ち身が遅く、あまり稽古熱心な方ではなかった。新十両は1936年1月場所、しかしその後も幕下と十両の間を往復し、新入幕は1941年1月場所、入門から12年も経過していた。
大崎 正次(おおさき しょうじ、 1912年9月 - 199… 大崎 正次(おおさき しょうじ、 1912年9月 - 1996年7月23日)は、日本の東洋史学・天文学史家。 1912年9月東京に生まれる。東京文理科大学(現在の筑波大学)史学科(東洋史学)を卒業した。東京大学史料編纂所所員、日本学士院嘱託を経て、東京都立九段高等学校教諭となる。天文学に関しては、中学生の頃から野尻抱影、神田茂に師事し、星に親しんだという 。 『天文方関係史料』では、「天文方代々記」をはじめ重要な天文方資料を多く翻刻している。神田茂編の『日本天文史料』の調査では、広瀬秀雄と共に大崎が重要な貢献をした。また、『近世日本天文史料』は、神田が残した17世紀以降の史料リストの原稿を大崎らが古本屋で偶然入手し整理・増補して出版したものである(同書の序文、および日本天文学会『天文月報』の書評)。
大谷 一二(おおたに いちじ、1912年8月31日 - 20… 大谷 一二(おおたに いちじ、1912年8月31日 - 2007年11月23日)は、兵庫県出身のサッカー選手、実業家。サッカー元日本代表。東洋紡績会長・名誉顧問。サッカー記者の大谷四郎は実弟。 内海紡績常務取締役を務めた大谷恭助の次男として生まれる。兵庫県立第一神戸中学校では右近徳太郎とコンビを組み全国制覇を達成。兵庫県立神戸高等商業学校を卒業後に鐘紡に入社するが1年で退社して、1934年に神戸商業大学(現神戸大学)に入学。同大学ではサッカー部を創設して、関西学生リーグで優勝を果たした。 在学中の1934年5月に開催された第10回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、フィリピン代表戦など3試合に出場して1得点を上げた。
手塚 勝巳(てづか かつみ、1912年8月31日 - )は、… 手塚 勝巳(てづか かつみ、1912年8月31日 - )は、日本の元俳優、スーツアクター。元プロ野球選手。
立花 保夫(たちばな やすお、1912年8月31日 - 19… 立花 保夫(たちばな やすお、1912年8月31日 - 1984年5月13日)は、日本の経営者。トピー工業社長、会長を務めた。岩手県出身。 1936年に東京商科大学を卒業。東芝、八幡製鉄での勤務を経て、1965年10月にトピー工業常任顧問に就任し、同年11月副社長を経て、1968年11月には社長に就任。1977年6月に会長を経て、1980年7月には相談役に就任。 1977年4月に藍綬褒章を受章。 1984年5月13日前立腺腫瘍のために死去。71歳没。
堀内 民一(ほりうち たみかず、1912年8月30日 - 1… 堀内 民一(ほりうち たみかず、1912年8月30日 - 1971年8月15日)は、日本の文学博士、元名城大学教授。専攻は国文学古代と近代詩歌。 奈良県北葛城郡河合町出身。國學院大學文学部国文学科卒。折口信夫に師事。万葉に関する著書を出版し、それらの業績を讃えられ奈良県文化賞を受賞した。他にも國學院大學の卒業者から優秀な研究業績をあげた者に授与される三矢博士記念賞も受賞した。また地元の学校河合町立河合第一小学校や河合町立河合第一中学校の校歌も作詞した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
須甲 鉄也(すこう てつや、1912年8月30日 - 199… 須甲 鉄也(すこう てつや、1912年8月30日 - 1998年4月19日)は、日本の動物学者。専門は甲殻類の発生学や、河川の生態学(特に環境破壊による動物相の年代的遷移)。 長野県長野市出身。東京文理科大学卒業。1938年理学博士。1941年埼玉師範学校教授、1964年埼玉大学文理学部教授、教養部教授、学生部長、教育学部長から1978年名誉教授、1980年から1987年まで学長。 国立大学協会教養課程特別委員会長、天然記念物北海道犬保護会長、埼玉県環境アセスメント会長、さいたま緑のトラスト協会理事、埼玉県立自然博物館協会長など多数の役職を歴任した。勲二等旭日重光章。 著書には「動物発生学実験法」、「大学教養生物学」などがある。
孫 基禎(そん きてい、ソン・ギジョン、1912年8月29日… 孫 基禎(そん きてい、ソン・ギジョン、1912年8月29日 - 2002年11月15日)は、日本統治時代の朝鮮の新義州近郊出身のマラソン選手。1936年ベルリンオリンピックではアジア地域出身で初めてマラソンで金メダルを獲得した。大韓民国建国後は韓国の陸上チームのコーチや陸連会長を務めた。 当時の平安北道新義州府新義州(現在の朝鮮民主主義人民共和国新義州市)付近の町で育つ。 実家は雑貨店を営んでいたが、家計は貧しく、冬に周囲の子供たちが鴨緑江で興じるスケートの靴を買ってもらうことができなかった。そのため、普通学校(内地の尋常小学校に相当)の頃から走ることに興味を抱いて、通学などで足袋を履いて走り、高学年になると自ら練習を考案して走っていたという。
渡辺 明正(わたなべ あきまさ、1912年8月26日 - 2… 渡辺 明正(わたなべ あきまさ、1912年8月26日 - 2007年8月7日)は、フランス文学者、京都大学名誉教授。 1935年東京帝国大学文学部仏文科卒。1963年京大教養部教授。1975年フランス教育功労章オフィシエ受章。1976年定年退官。 1985年、勲三等旭日中綬章を受章。2007年8月7日、肺炎のため死去。歿日付で従四位。
福田 恆存(ふくだ つねあり、1912年〈大正元年〉8月25… 福田 恆存(ふくだ つねあり、1912年〈大正元年〉8月25日 - 1994年〈平成6年〉11月20日)は、日本の評論家、翻訳家、劇作家、演出家。現代演劇協会理事長、日本文化会議常任理事、日本芸術院会員などを務めた。名前については「こうそん」と音読みされることも多い。 保守派の文士であり、進歩的文化人を批判した『平和論にたいする疑問』(1955年)は、戦後思潮の転換点となる。討議倫理が戦後民主主義を軸とする進歩派にも影響を与えるなど、戦後日本を代表する思想家。 また、同時期には『ハムレット』(1955年)をはじめとするシェイクスピア戯曲の翻訳、演出を開始する。新劇を日本の近代化問題の象徴的な弱点と捉え、演劇の革新に取り組んだ。
村上 三島(むらかみ さんとう、本名 村上 正一、むらかみ … 村上 三島(むらかみ さんとう、本名 村上 正一、むらかみ まさかず、1912年(大正元年)8月25日 - 2005年(平成17年)11月20日)は、日本の書家。勲三等旭日中綬章受章者。文化勲章受章者。「現代書道の巨匠」と呼ばれている。贈従三位(没時叙位)。
田中 元(たなか はじめ、1912年〈大正元年〉8月24日 … 田中 元(たなか はじめ、1912年〈大正元年〉8月24日 - 1953年〈昭和28年〉8月28日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 北海道函館区(現函館市)で生まれる。北海道庁立函館中学校(現北海道函館中部高等学校)を経て、1939年(昭和14年)東京歯科医学専門学校(現東京歯科大学)を卒業した。興亜院嘱託となり、同技手、在北京大使館技手、同技師を歴任した。 その後、日本興行取締役、函館ミツワ商会取締役会長、大洋貿易社長、函館ドック顧問などを務めた。 1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙で北海道第3区から民主自由党所属で出馬して初当選。第25回総選挙で自由党所属で出馬するも次点で落選。
斉藤 晋一(さいとう しんいち、1912年8月24日 - 1… 斉藤 晋一(さいとう しんいち、1912年8月24日 - 1985年10月6日)は、日本の経営者。住友ゴム工業3代目社長を務めた。新潟県栃尾市(現:長岡市)出身。 1936年に東京商科大学を卒業し、同年に住友電気工業に入社。1962年11月に取締役に就任し、1964年に常務、1969年5月に専務を経て、1971年5月に副社長に就任。1974年8月に住友ゴム工業社長に就任し、1980年3月に会長に就任。 1978年5月に藍綬褒章を受章。 1985年10月6日肝不全のために死去。73歳没。
宮 柊二(みや しゅうじ、1912年(大正元年)8月23日 … 宮 柊二(みや しゅうじ、1912年(大正元年)8月23日 - 1986年(昭和61年)12月11日)は、昭和時代に活躍した日本の歌人。位階は正五位。本名は宮肇(はじめ)。 長岡中学在学中から作歌をはじめる。1932年に上京、翌年北原白秋を訪ねて門下に入る。1935年、白秋主宰の歌誌「多磨」の創刊に参加。日中戦争に応召し、中国を転戦した体験が、歌集『山西省』(1949年)に結実した。1953年には「多磨」の流れをくむ歌誌「コスモス」を創刊、主宰した。ながらく勤めた製鉄会社を辞して歌作と著作に専念し、74歳で死去。 一生活者の真実の声を響かせた誠実な歌風が特色。歌集に、『日本挽歌』(1953年)、『多く夜の歌』(1961年)、『濁石馬』(1975年)など、エッセイに、『埋没の精神』(1955年)、『西行の歌』(1977年)など。
片山 桃史(かたやま とうし、1912年8月23日 - 19… 片山 桃史(かたやま とうし、1912年8月23日 - 1944年1月21日)は、兵庫県出身の俳人。本名・隆雄。 黒井村(現・丹波市春日町)生まれ。酒屋の次男。旧制柏原中学校(現・兵庫県立柏原高等学校)を卒業後、鴻池銀行(三菱東京UFJ銀行の前身)に入行。俳句は旧制中学在学中よりはじめ、「鬼灯」誌で西山泊雲に師事、「ホトトギス」を経て、1935年に日野草城の「旗艦」創刊に同人参加。1937年8月応召、中国大陸にて従軍しながら戦地で詠んだ前線俳句を本国に送り「旗艦」に発表した。1940年帰国、句集『北方兵団』(三省堂 俳苑叢刊)を刊行。1941年に再度応召し、東部ニューギニアで戦死した。戦後、宇多喜代子が遺稿などを集め、1984年に『片山桃史集』を編集刊行している。
榎並 正一(えなみ しょういち、1912年 <大正元年> 8… 榎並 正一(えなみ しょういち、1912年 <大正元年> 8月23日 - 1990年<平成2年> 2月6日)は、日本の経営者。バンドー化学の社長・会長を務めた。位階は正五位。父はバンドー化学創業者の榎並充造で、正一は次男である。 兵庫県神戸市出身。1935年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、同年に日本毛織に入社した。1938年12月に阪東調帯護謨(現在のバンドー化学)に転じた。1942年12月に副社長に就任し、1962年5月には社長に昇格した。1977年6月には会長に就任した。 神戸薬科大学理事長、日本経営者団体連盟理事、神戸商工会議所副会頭なども歴任した。 1983年4月に勲三等瑞宝章を受章した。
大田 正一(おおた しょういち、1912年〈大正元年〉8月2… 大田 正一(おおた しょういち、1912年〈大正元年〉8月23日 - 1994年〈平成6年〉12月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は大尉。特攻兵器桜花の発案者。終戦後に逃亡を図りその後も正体を隠して3人の子をもうけ生きながらえた。 1912年8月23日山口県熊毛郡室津村(現・上関町)に生まれる。名古屋で育ち、高等小学校卒業後、1928年(昭和3年)6月海軍普通科電信術練習生を志願して呉海兵団に入団。 1932年(昭和7年)4月、第20期偵察練習生に採用され、半年課程後に艦上攻撃機の「偵察員」になる。海軍では、操縦員以外で航法、通信、爆撃、射撃、写真撮影、観測などの任務を行う飛行機搭乗員を一括して「偵察員」と呼んでおり、兵曹、水兵の中から募集した「操縦練習生」(略して操練)、「偵察練習生」(略して偵練)の教育を行っていた。
秋本 正(あきもと ただし、1912年(大正元年)8月21日… 秋本 正(あきもと ただし、1912年(大正元年)8月21日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。陸軍司政官。 兵庫県揖保郡に生まれる。明石中学校、第三高等学校を経て、1933年(昭和8年)4月、東京帝国大学法学部政治学科に入学し、1935年(昭和10年)10月、高等試験行政科に合格。1936年(昭和11年)3月、同大を卒業し、台湾総督府警務局保安課に奉職する。1939年(昭和14年)7月、台南州新営郡守となり、府事務官警務局保安課勤務を経て、陸軍司政官に転出した。
菱沼 五郎(ひしぬま ごろう、1912年〈大正元年〉8月20… 菱沼 五郎(ひしぬま ごろう、1912年〈大正元年〉8月20日 - 1990年〈平成2年〉10月3日)は、日本の政治家(茨城県議会議員、同議長)、実業家、テロリスト。別名は小幡五朗。 茨城県那珂郡前渡村にて農業徳松の三男として生まれ、水戸勤王の遺風を学んで成長した。上京後は自動車の助手を経て岩倉鉄道学校(現・岩倉高等学校)に進学。1929年(昭和4年)10月、同校業務課を卒業し、翌1930年(昭和5年)、東武東上線池袋駅に就職するつもりが、紅緑色盲のため鉄道業務に致命的であると判断されて就職できなかった。失意の中、大洗町の護国堂にいた井上日召のもとに通う。 1930年(昭和5年)、ロンドン軍縮条約をめぐって統帥権干犯問題が起きると、日本国民党(委員長・寺田稲次郎、書記次長・鈴木善一)がその抗議行動のために結成しようとした決死隊に参加。
安藤 正一(あんどう しょういち、1912年8月20日 - … 安藤 正一(あんどう しょういち、1912年8月20日 - 1995年3月22日 )は日本の歯科医師、歯学者。 東京出身。1930年、旧制日本大学中学校(現・日本大学第一高等学校)卒業、1934年日本大学専門部歯科卒業。1964年、日本大学歯学部歯科放射線学講座第3代教授。1973年から1977年まで日本大学歯学部付属歯科病院長。 日本歯科放射線学会会長、総務理事、日本歯科医学会副会長などを歴任した。 1995年3月22日、心筋梗塞のため死去。