藤巻 胤家(ふじまき たねいえ、嘉永6年12月30日(185… 藤巻 胤家(ふじまき たねいえ、嘉永6年12月30日(1854年1月28日) - 1901年(明治34年)12月1日)は、明治時代の陸軍軍人。官位は陸軍歩兵大尉従六位勲四等。山形県士族(1894年(明治27年)に分家後は千葉県士族)。 1877年(明治10年)の西南戦争に出征して戦功を挙げる。歩兵第18連隊中隊長等を歴任する。 1881年(明治14年)7月、養子縁組解消に伴い「石口」姓から「藤巻」姓へ復姓。 陸軍省大日記(西南戦役第二旅団戦闘履歴明治10年2月26日~11年8月6日)によると『歩兵第2連隊第1大隊第1中隊附 陸軍少尉石口胤家は今回戦役中4月9日より5月11日まで中隊長代理となり木留村にて戦役に服し7月10日六観音山迂回の節は一小隊を引率し、賊軍背後に進出して部下を配慮指揮して大いに奮戦する。
天埜 伊左衛門(伊左衞門、あまの いざえもん、1854年1月… 天埜 伊左衛門(伊左衞門、あまの いざえもん、1854年1月27日(嘉永6年12月29日)- 1930年(昭和5年)8月28日)は、明治から大正期の酒造家、実業家、政治家。衆議院議員、愛知県知多郡亀崎町長。 尾張国知多郡乙川村(愛知県知多郡乙川村、亀崎町を経て現半田市亀崎町)で、先代・天埜伊左衛門の長男として生まれた。1869年(明治2年6月)家督を相続した。酒造業を営む。私塾を設け郷土の子弟の教育に尽くした。 乙川村戸長となる。1884年(明治17年)愛知県会議員に選出され1892年(明治25年)まで在任。1889年(明治22年)亀崎町長に就任。所得税調査委員、亀崎教育会長も務めた。 1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙(愛知県第7区)で初当選し、その後、第4回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
大島 寛爾(おおしま かんじ、1854年1月27日(嘉永6年… 大島 寛爾(おおしま かんじ、1854年1月27日(嘉永6年12月29日)- 1933年(昭和8年)4月24日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員、埼玉県北足立郡浦和町長。 肥前国高来郡堂崎村(のち長崎県南高来郡有家町、現:南島原市)で、佐々木龍潭の三男として生まれ、大島命の養嗣子となる。長南梁、村上仏山から漢籍を学ぶ。その後、長崎の瓊林館で英書を学んだが、学費の工面のため長崎本獄吏員となり、入獄中の丸山作楽とよしみを通じた。1875年、丸山の密書を持参して上京し、職を転々としながら丸山の動きに備えていた。 丸山の陰謀が止むと、東京の茂松法学舎で法律学を学び、1880年、代言人試験に合格して、1882年、浦和町に事務所を開設した。
有田 義資(ありた よしすけ、1854年1月24日(嘉永6年… 有田 義資(ありた よしすけ、1854年1月24日(嘉永6年12月26日) - 1940年(昭和15年)8月12日)は、幕末の佐賀藩士、明治・大正期の内務官僚、政治家。県知事、津市長、錦鶏間祗候。 佐賀藩士・有田伝蔵の長男として佐賀城下水の江に生まれる。藩校・弘道館で学ぶ。戊辰戦争に従軍し、会津戦争に小隊副指令(嚮導)として参加。 1875年(明治8年)1月、内務省に入り地理寮雇となる。以後、栃木県師範学校副幹事、栃木県八等警部、島根県警部、福島県警部、青森県属・庶務課長、同県警部、青森県警部長、埼玉県警部長、福岡県警部長、山口県警部長、島根県・大分県・岡山県の各書記官などを歴任。 1900年(明治33年)4月、徳島県知事に登用された。
西川 鉄次郎(にしかわ てつじろう、1854年1月22日(嘉… 西川 鉄次郎(にしかわ てつじろう、1854年1月22日(嘉永6年12月24日) - 1932年(昭和7年)6月1日)は、幕末の会津藩士。明治期の裁判官。白虎隊士として戊辰戦争を戦い、裁判官として大審院判事にいたる。中央大学の前身である英吉利法律学校の創立者の一人。 会津藩士の子として生まれる。父、西川俊治は、禄高6石5斗2人扶持、御書簡所物書勤めである。16歳で戊辰戦争を迎え、白虎寄合二番隊士として8月より越後方面で戦ったが、退却を余儀なくされ、9月6日より会津若松城に戻り三の丸警備にあたる。 戦後静岡藩に留学し、沼津兵学校附属小学校で学ぶ。1878年(明治11年)旧東京大学法学部を卒業。西川は旧東京大学法学部の最初の卒業生の一人であり、同期生6人には河上謹一などがいる。
片山 東熊(かたやま とうくま、嘉永6年12月20日(185… 片山 東熊(かたやま とうくま、嘉永6年12月20日(1854年1月18日)- 1917年(大正6年)10月24日)は、明治期に活躍した建築家。工手学校(現工学院大学)造家学科教務主理。位階および勲等は正三位勲一等。号は晩晴。 山口県生まれ。工部大学校の建築学科第1期生。 宮内省で赤坂離宮など宮廷建築に多く関わる。職務として県庁や博物館、宮内省の諸施設など36件の設計に関わったほか、公務の合間に貴族の私邸を中心に14件の設計を行った。 日本人建築家の養成を行うべく来日した、ジョサイア・コンドルによる最初の学生の一人である。 代表作である旧東宮御所(現・迎賓館赤坂離宮)は、2009年に明治期以降の建築としては初めて国宝に指定された。
大達 羽左エ門(おおだて うざえもん、1854年1月13日(… 大達 羽左エ門(おおだて うざえもん、1854年1月13日(旧暦嘉永6年12月15日) - 1904年8月17日)は、出羽国田川郡(現:山形県鶴岡市)出身の元大相撲力士。5代千賀ノ浦。本名は諏訪 辯治(すわ べんじ)。最高位は西大関。 1854年1月13日(旧暦嘉永6年12月15日)に出羽国田川郡(現:山形県鶴岡市)で農家を営む家に二男として生まれる。幼少期から地元の土地相撲で活躍したことで村民から「鬼童」と呼ばれて評判だったが、大食漢・大の相撲好きが災いして家業を疎かにすることが多くなったために養子先から離縁され、本職の力士を目指して上京、立田川部屋へ入門した。1873年12月場所において序二段で初土俵を踏むが、素行が悪かったためにまもなく脱走して新潟県を放浪し、村上の酒造家で奉公しながら再び土地相撲で活躍した。
9代 佐藤 伝兵衛(傳兵衞、さとう でんべえ、1854年1月… 9代 佐藤 伝兵衛(傳兵衞、さとう でんべえ、1854年1月13日(嘉永6年12月15日)- 1938年(昭和13年)8月11日)は、明治から昭和前期の大地主、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・菅野。 陸奥国安達郡、後の福島県安達郡小浜村(小浜町、岩代町を経て現二本松市小浜)で菅野善右衛門の三男として生まれ、安積郡郡山村(郡山町を経て現郡山市)の商家、大地主・佐藤喜一郎の養子となる。 1884年(明治17年)7月、郡山村会議員に就任し、その後、郡山町会議員、所得税調査委員、安積郡会議員、郡山本町郵便局長、営業税調査委員などを務めた。 1918年(大正7年)9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられ、研究会に所属して活動し1925年(大正14年)9月28日まで在任した。
片岡 七郎(かたおか しちろう、1854年1月12日〈嘉永6… 片岡 七郎(かたおか しちろう、1854年1月12日〈嘉永6年12月14日〉 - 1920年〈大正9年〉1月2日)は、日本の海軍軍人。海軍大将正二位勲一等男爵。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下薬師馬場町(鹿児島県鹿児島市薬師町を経て現薬師)で、薩摩藩士・片岡喜藤太の次男として生まれた。少年期のうちに薩英戦争や戊辰戦争が終わっており、西南戦争も兵学寮の生徒だったために参加していない。まだ兵学寮も制度が固まっておらず、カリキュラムを修了した順に卒業させていた。日高壮之丞大将と同時に入寮したものの、日高はそのまま兵学寮で練成を終えて第2期卒業を果たし、一方で片岡は、伏見宮兄弟(愛賢王→伏見宮博恭元帥と菊麿王→山階宮菊麿大佐)のドイツ留学に随員として1年半派遣されたため、日高より1期遅い第3期卒業生扱いとなっている。
本角 寅造(もとずみ とらぞう、嘉永6年12月12日(185… 本角 寅造(もとずみ とらぞう、嘉永6年12月12日(1854年1月10日) - 大正2年(1913年)6月6日)は、日本の政治家。中浜村長(初代)、県会議員。 小篠津村(のち鳥取県境港市小篠津町)の本角家は代々"与平"、"所十郎"を襲名する豪農で、大庄屋をつとめた由緒ある家柄だった。 寅造は、先代所十郎の長男文蔵が幼少のため財ノ木の角家より入り、同家の家督を継いで明治18年(1885年)県会議員、続いて第7連合戸長を務めた。 明治22年(1889年)11月中浜村長に就任し、小篠津尋常小学校を中浜尋常小学校と改めて新しい村づくりの中核とし、校地も拡張した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
高木 盛之輔(たかぎ もりのすけ/たかき もりのすけ、185… 高木 盛之輔(たかぎ もりのすけ/たかき もりのすけ、1854年(安政1年)- 1919年(大正8年)2月19日)は、日本の武士、検察官。会津藩藩士として戊辰戦争を、別働第二旅団の一員として西南戦争を戦った。姉の高木時尾は照姫附き祐筆で、元新撰組副長助勤斎藤一(藤田五郎)に嫁ぐ。福島県立会津高等学校の創立功労者の一人である。 会津藩高士、家禄300石の高木家に生まれる。高木家は藩大目付を務める家柄であった。会津戦争の当初は伝令を務め、松平容保、定敬兄弟が出陣していた滝沢本陣に危急を報告した。その後年少者で組織された護衛隊に属して篭城戦を戦った。藩降伏後は猪苗代で謹慎生活を送る。この際軍事方水島純の命で同年輩の山川健次郎、赤羽四郎、柴四朗ら五人で謹慎所を脱出し、若松で土佐藩の伴中吉に主君容保、喜徳父子への寛大な措置を嘆願した。
犬飼 真平(眞平、いぬかい しんぺい、1854年(嘉永7年1… 犬飼 真平(眞平、いぬかい しんぺい、1854年(嘉永7年10月) - 1924年(大正13年)8月20日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 肥後国阿蘇郡宮地村(のち熊本県阿蘇郡宮地町→一の宮町、現・阿蘇市)生まれ。漢籍を修め、巡査、消防夫、宮地村戸長、同村長、学務取締、村会議員、阿蘇郡会議員、熊本県会議員、同常置委員、同参事会員となる。また、熊本軌道(株)取締役を務めた。 1899年、古荘嘉門の辞職による熊本3区の補欠選挙に立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1924年死去。
岡 次郎太郎(おか じろうたろう、1854年(安政元年2月)… 岡 次郎太郎(おか じろうたろう、1854年(安政元年2月) - 1929年(昭和4年)9月5日)は、明治から大正時代の政治家、実業家、銀行家。鉱山経営者。衆議院議員(1期)。 岡権内の第二子として熊本城下内坪井町(現熊本市中央区内坪井町)に生まれる。藩校に入ったのち岡松甕谷の門に入る。第百五十一国立銀行の創立に尽くし、観光社などの重役を務め、鉱山業を営んだ。1884年(明治17年)大蔵省御用掛となり、翌年、秋田県収税長を任ぜられ1889年(明治22年)10月まで務めた。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では熊本県第4区から出馬し当選。大成会に所属し衆議院議員を1期務めた。
市橋 藤蔵(藤藏、いちはし とうぞう、1854年(安政元年6… 市橋 藤蔵(藤藏、いちはし とうぞう、1854年(安政元年6月)- 1923年(大正12年)7月25日)は、明治から大正期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、新潟県加茂郡梅津村長、同県佐渡郡加茂村長。 佐渡国加茂郡梅津村(新潟県加茂郡梅津村、佐渡郡梅津村、加茂村、両津市梅津を経て現佐渡市梅津)で生まれた。圓山溟北に学んだ。農業を営む。佐渡三郡勧業殖産下掛を務めた。 1872年(明治5年)加茂歌代郷校読方補助に就任。以後、梅津戸長、地租改正下調役、第二十六区副大区長兼小六区長、佐渡三郡町村連合会議員、同議長、所得税調査委員、徴兵参事員などを務めた。1889年(明治22年)梅津村長に就任。1900年(明治33年)新潟県会議員に選出され、海底電線の敷設、中等学校の拡充などに尽力した。
藤崎 可賛(ふじさき よしすけ、1854年(安政元年9月) … 藤崎 可賛(ふじさき よしすけ、1854年(安政元年9月) - 1906年(明治39年)12月1日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 対馬国下県郡(のち長崎県下県郡、現・対馬市)生まれ。対馬藩校で学ぶ。小学校教員を経て、雞知村(のち雞知町→美津島町、現・対馬市)長、厳原町(現・対馬市)長となる。また、士族授産所を開き、所長となった。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において長崎6区から国民協会から立候補して1票差で当選した。同年9月の第4回衆議院議員総選挙では国民協会から立候補し34票を獲得、対立候補の島村成達と同数だったが、島村が年長者のため当選者となり、藤崎は落選した。衆議院議員を1期務め、1898年3月の第5回衆議院議員総選挙は不出馬。
追手風 常吉(おいてかぜ つねきち、1854年(嘉永7年) … 追手風 常吉(おいてかぜ つねきち、1854年(嘉永7年) - 1919年(大正8年)8月8日)は肥前国彼杵郡三重村(現・長崎県長崎市三重町)出身の大相撲力士。本名は林(のち浜本)常吉。大阪相撲で活躍し最高位は大関。 7代陣幕(陣浪)の弟子となり追手風 順吉の名で1878年(明治11年)9月脱走組番付の四段目が初見。1881年(明治14年)7月鯱鉾と改めるが1882年(明治15年)8月元の追手風に戻す。1885年(明治18年)10月入幕、1888年(明治21年)9月関脇に登り下の名を常吉と改める。1889年(明治22年)9月大関昇進。1891年(明治24年)9月二枚鑑札で10代陣幕 常重を襲名、頭取(年寄)兼務となる。
磯部 孝一(いそべ こういち、1854年(安政元年3月) -… 磯部 孝一(いそべ こういち、1854年(安政元年3月) - 1936年(昭和11年)12月22日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 長門国大津郡三隅村(のち山口県大津郡三隅町、現・長門市)生まれ。農業を営み、山口県会議員、同常置委員、防長農工銀行創立委員となる。 1890年の第1回衆議院議員総選挙において山口2区から立憲自由党公認で立候補したが落選。1894年3月の第3回衆議院議員総選挙では自治党から立候補したが落選。同年9月の第4回衆議院議員総選挙では国民協会から立候補したが落選。1898年3月の第5回衆議院議員総選挙では国民協会から立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、同年8月の第6回衆議院議員総選挙は不出馬。
佐竹 義和(さたけ よしかず、1854年(安政元年2月)- … 佐竹 義和(さたけ よしかず、1854年(安政元年2月)- 1896年(明治29年)12月13日)は、明治時代の政治家。教育者。衆議院議員(1期)。 安芸広島藩領世羅郡、のちの神田村(広島県豊田郡大和町、賀茂郡大和町を経て現三原市)出身。官立師範学校を卒業し、愛媛県に奉職する。中等学校教諭、愛媛県学務課長を経て、文部省に出仕し書記官を歴任した。1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では広島県第7区から出馬し当選。大成会に所属し衆議院議員を1期務めた。
山崎 慎三(やまざき しんぞう、1854年(安政元年3月) … 山崎 慎三(やまざき しんぞう、1854年(安政元年3月) - 1912年(明治45年)2月8日)は、明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員。幼名は守正、字は子順。茨城県河内郡馴柴村長。 常陸国河内郡馴馬村(茨城県河内郡馴柴村、稲敷郡馴柴村を経て現龍ケ崎市)出身。幼い頃より椎名克堂、朽木久綱などについて学び、土浦藩儒の五十嵐儀一に師事し和漢学を修めた。その後、江戸に遊学し文武を研鑽した。 馴馬村副戸長、同戸長、門倉村ほか五箇村連合戸長を経て、1889年(明治22年)馴柴村長に就任。翌年、1890年(明治23年)には茨城県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1897年(明治30年)9月28日まで務めた。
鵜飼 退蔵(うかい たいぞう、1853年12月27日(嘉永6… 鵜飼 退蔵(うかい たいぞう、1853年12月27日(嘉永6年11月27日) - 1915年(大正4年)12月19日)は、明治時代の滋賀県の政治家。 1853年(嘉永6年)11月、近江国栗太郡東坂村(後の金勝村、現栗東市東坂)に住いする鵜飼藤右衛門の長男として誕生し、近隣の私塾に入塾した後に京都の岩垣月洲に就いて経書典籍を修め、1870年(明治3年)帰郷した。1872年(明治5年)地租改正令公布に伴い穴村(現草津市)の駒井深美とともに地租改正委員に選ばれ、1879年(明治12年)4月20日第一回滋賀県議会が大津南町顕證寺において開かれた際は栗太郡より県会議員に選出され、以後30年間その職にあった。
大山 綱昌(おおやま つなまさ、1853年12月24日(嘉永… 大山 綱昌(おおやま つなまさ、1853年12月24日(嘉永6年11月24日) - 1934年(昭和9年)10月18日)は、日本の官僚、政治家、警察官、陸軍軍人。貴族院議員、錦鶏間祗候。位階および勲等は正三位・勲二等。4県の知事を務めた。幼名・勘助。 陸軍元帥の大山巌の父大山綱昌とは同姓同名だが、直接的な血縁関係はない。 薩摩国鹿児島郡鹿児島近在西田村(現鹿児島県鹿児島市)で、鹿児島藩士、大山探賢の長男として生まれる。1875年(明治8年)、警視庁13等出仕となる。1877年(明治10年)、陸軍中尉に任官し西南戦争に出征。階級は陸軍憲兵大尉まで昇り、一等警視補に転じた。次いで、農商務省に移り、権少書記官、書記官、参事官、工務局次長、商工局次長、権大書記官を歴任。
手塚 猛昌(てづか たけまさ、1853年12月22日(嘉永6… 手塚 猛昌(てづか たけまさ、1853年12月22日(嘉永6年11月22日) - 1932年(昭和7年)3月1日)は、「時刻表の父」として知られる、明治期の実業家。日本最初の月刊時刻表とされる「汽車汽船旅行案内」の発行者。 現在の山口県萩市須佐出身。元の名は岡部緒三郎。 長州藩士の家柄だが家貧で四書五経を独学で修めた。長州藩永代家老の益田家が設けた郷校・育英館で学び、33歳の時に上京し慶應義塾(現・慶應義塾大学)に進んだ。 その後、庚寅新誌社を創立し政治経済雑誌を発行する一方『庚寅新誌』を発行し、政治活動を始める。1894年(明治27年)に恩師福沢諭吉の勧めで、英国の時刻表を手本に「汽車汽船旅行案内」を発行。
野田 卯太郎(のだ うたろう、嘉永6年旧暦11月21日(18… 野田 卯太郎(のだ うたろう、嘉永6年旧暦11月21日(1853年12月21日) - 昭和2年(1927年)2月23日)は日本の政治家、実業家。号は大塊。衆議院議員、逓信大臣、商工大臣などを務めた。福岡県平民。一平民から大臣にまで昇った立身出世を体現するような人物である。
告森 良(こつもり りょう / こつもり はじめ / つげも… 告森 良(こつもり りょう / こつもり はじめ / つげもり りょう、1853年12月21日(嘉永6年11月21日) - 1919年(大正8年)11月27日)は、明治から大正期の内務官僚。官選県知事。 伊予国宇和島城下御殿町(現愛媛県宇和島市)出身。宇和島藩士・告森桑圃の長男として生まれる。1873年、神山県に出仕。以後、兵庫県、広島県、長崎県、愛媛県、京都府で勤務。 1887年5月、愛媛県東宇和郡長に就任。以後、兼西宇和郡長、京都府参事官、岐阜県参事官、埼玉県書記官、岡山県書記官、徳島県書記官などを歴任。 1908年3月、鳥取県知事に就任。倉吉中学校・県立商業学校の新設、農事試験場拡張、耕地整理事業、因伯牛の改良などを推進。
上村 精之助(かみむら せいのすけ、1853年12月1日(嘉… 上村 精之助(かみむら せいのすけ、1853年12月1日(嘉永6年11月1日)- 1929年(昭和4年)2月1日)は、明治から大正期の農業経営者・政治家。衆議院議員、鹿児島県肝属郡花岡村長。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下(現鹿児島県鹿児島市)で生まれた。漢学を修めた。海軍兵学校、大阪英語学校で学んだ。 1881年(明治14年)犬童英輔らと博愛社を結成し、県下各地で演説会を催した。三州社が結成され博愛社はこれに合同した。九州改進党に加わらなかったが、鹿児島同志会が結成されると加入して委員となる。 その後、肝属郡花岡村(現鹿屋市花岡)に移り農業を営み、1887年(明治20年)8月、鹿児島県会議員に選出された。
三吉 正一(みよし しょういち、1853年11月28日(嘉永… 三吉 正一(みよし しょういち、1853年11月28日(嘉永6年10月28日) - 1906年(明治39年)3月24日)は、明治中期の日本の技術者。日本初の電気機器製造会社である三吉電機工場を経営し、電気機器の国産化を図った。 三吉正一は周防国岩国に生まれた。家は岩国領主吉川氏に仕え、祖父は佐久間象山や勝海舟とも親交があったという。1871年(明治4年)に大阪の開城学校に入学、翌年には上京して同郷先輩宅に寄宿していたが1875年(明治8年)上州富岡製糸場の伝習生となりその技術を学ぶことになった。やがて工部省が学校を創立し、学生を募集することを知り上京して勝海舟と面会して入学の希望を伝えた。そして東京電信修技校に入学することとなり通信術を学んだ。
井上 彦左衛門(いのうえ ひこざえもん、1853年11月25… 井上 彦左衛門(いのうえ ひこざえもん、1853年11月25日(嘉永6年10月25日) - 1929年(昭和4年)5月2日)は、明治から大正時代の政治家、銀行家。新聞経営者。大地主。衆議院議員(5期)。幼名は幾次郎。 先代の豪農・井上彦左衛門の長子として、駿河国有渡郡八幡村(安倍郡豊田村を経て現静岡市)に生まれ、1883年(明治16年)3月、家督を相続する。下総の遠藤良規に学ぶが水戸城焼失事件で疑われ投獄される。1873年(明治6年)釈放され帰郷し、1882年(明治15年)野崎銀行創立に参画し取締役兼支配人に就任する。1884年(明治17年)静岡県会議員に当選し1890年(明治23年)まで務めた。
12代 絲原 武太郎(いとはら ぶたろう、1853年11月1… 12代 絲原 武太郎(いとはら ぶたろう、1853年11月10日(嘉永6年10月10日)- 1911年(明治44年)3月10日)は日本の地主、実業家、政治家。鉄師絲原家12代、貴族院多額納税者議員。 出雲国仁多郡八川村大字大谷(現島根県仁多郡奥出雲町)で、鉄師糸原家11代・絲原権造の長男として生まれる。1895年(明治28年)父の死去に伴い家督を継承。1882年(明治15年)以降、島根県仁多郡横田村外三村戸長、仁多郡会議員、所得税調査委員、島根県農会評議員、八雲銀行頭取、松江銀行取締役などを務めた。1906年(明治39年)6月27日、島根県多額納税者として補欠選挙で互選されて貴族院多額納税者議員に任じられ、急性脳膜炎により死去するまで在任した。
八坂 甚八(やさか じんぱち、1853年11月10日(嘉永6… 八坂 甚八(やさか じんぱち、1853年11月10日(嘉永6年10月10日)- 1929年(昭和4年)3月29日)は、明治から昭和初期の大地主、篤農家、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、衆議院議員、佐賀県養父郡轟木村長。 肥前国養父郡、のちの佐賀県養父郡轟村(三養基郡轟木村、鳥栖町を経て現鳥栖市)で、素封家・八坂甚兵衛の長男として生まれる。漢学を修める。1868年(明治元年3月)家督を相続した。 養父郡真木村戸長、郡組合会議員、轟木村会議員、同村長、佐賀県会議員、同参事会員、鳥栖町会議員、三養基郡会議員、所得税調査委員などを務めた。 1897年(明治30年)佐賀県多額納税者として貴族院多額納税者議員に互選され、同年9月29日に就任し、1904年(明治37年)9月28日の任期満了まで1期在任した。
栗本 東明(くりもと とうめい、嘉永6年10月8日(1853… 栗本 東明(くりもと とうめい、嘉永6年10月8日(1853年11月8日) - 大正10年(1921年)1月1日)は、医学博士。狂犬病の予防注射液を世界で初めて発見し、第五高等学校教授、旧制長崎医科大学の主事心得、長崎医学専門学校長崎病院内科医長兼眼科医長などを歴任した。従五位勲六等。また、ロシア皇帝ニコライ2世から神聖アンチ第三等勲章が授与されている。 出羽国田川郡大山(現・山形県鶴岡市大山)に庄内藩医・栗本良意の子として生まれる(長男は医学者の栗本節安)。幼名は亀五郎。慶応2年(1866年)江戸で医師をしていた兄の節安を頼りに江戸に出府し、蘭方医・伊東玄朴に医術と英語を学ぶ。明治維新と共にいったん帰郷し、明治3年(1870年)11月に慶應義塾に入り、地理書などを学び、明治5年(1872年)に慶應義塾に再入学した。
関根 柳介(關根、せきね りゅうすけ、1853年11月5日(… 関根 柳介(關根、せきね りゅうすけ、1853年11月5日(嘉永6年10月5日)- 1917年(大正6年)11月24日)は、明治から大正前期の官吏・政治家。衆議院議員、東京府南葛飾郡奥戸村長。 武蔵国葛飾郡曲金村(東京府南葛飾郡奥戸村大字曲金、奥戸町大字曲金、東京市葛飾区を経て現東京都葛飾区)で、代々里正を務めた関根家に生まれる。和漢学、武術を修めた。父に代わって里正を務めた。 1876年(明治8年)内務省に出仕。以後、鹿児島県属、大蔵省属、福井県属、熊本県徴収課長、逓信属などを歴任した。 1889年(明治22年)奥戸村長に就任。1892年(明治25年)東京府会議員に当選し、大隊区徴兵参事員も務めた。
後藤 牧太(ごとう まきた、1853年11月5日(嘉永6年1… 後藤 牧太(ごとう まきた、1853年11月5日(嘉永6年10月5日) - 1930年(昭和5年)3月25日)は明治時代から昭和初期にかけての日本の教育者。理科教育の先駆者で、「手工教育の開拓者」と呼ばれる。 三河国宝飯郡出身。1868年(慶応4年)に慶應義塾に入学。翌年、下谷医学校に勤めたが、ほどなく慶應義塾に戻って勉学を続け、後には義塾の教員も務めた。1872年(明治5年)生徒として通っていた英語塾のクリストファー・カロザースを慶応義塾の講師として紹介している。1877年(明治10年)に東京師範学校雇教師、次いで同校訓導となった。1881年(明治14年)には教諭に就任。物理学の著書を多く執筆しており、1885年(明治18年)には、弟子であり当時群馬県師範学校の教諭であった滝沢菊太郎、篠田利英、柳生寧生とともに、簡易器械を用いた実験を中心とする教科書『小学校生徒用物理書』を出版した。
篠崎 豊彦(しのざき とよひこ、1853年11月3日(嘉永6… 篠崎 豊彦(しのざき とよひこ、1853年11月3日(嘉永6年10月3日) - 1939年(昭和14年)5月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県鞍手郡吉川村大字犬鳴(現・福岡県宮若市大字犬鳴)出身。父親は福岡藩御譜代組足軽兼犬鳴谷村庄屋。1878年、福岡県師範学校卒。1889年、東京法学校卒。小学校と中学校の教員となり、若松築港(株)取締役、第八十七銀行整理員を務める。日露戦争に参加、戦後、現地に止まり、大連で貸家業を営み、衛生組合副組長となる。のち帰国して亀川町(現・別府市)長となり、農業に従事した。 1931年、高橋欽哉の失職に伴う大分2区の再選挙で立憲民政党から立候補して当選した。
笹野 甚四郎(ささの じんしろう、1853年11月3日〈嘉永… 笹野 甚四郎(ささの じんしろう、1853年11月3日〈嘉永6年10月3日〉 - 1928年〈昭和3年〉12月6日)は、日本の資産家、実業家。藤相鉄道社長。共盛銀行頭取。族籍は静岡県平民。 静岡県志太郡藤枝町出身。藤枝宿下伝馬の郷宿「ならや」を営む八百次の長男。幼名は十三吉。恵まれた環境であったが5歳の時に実父を、12歳の時に祖父を、14歳の時に継父を亡くし笹野家は苦境に立たされる。 1868年、家督を相続。祖父の甚四郎の名を襲名し「ならや」の看板を捨て、料理屋を起こす。1869年、隣家からの火事で全焼し、それを機に駿河半紙を扱う紙屋に転身、同業者が増えると次に運送業を始める。 1891年、東京へ出る。
穐山 忠夫(秋山、あきやま ただお、1853年11月(嘉永6… 穐山 忠夫(秋山、あきやま ただお、1853年11月(嘉永6年10月) - 1904年(明治37年)5月13日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 安芸国豊田郡、のちの広島県豊田郡乃美村(豊栄町を経て現東広島市)出身。広島県会議員、同郡部会副議長、同議長となる。 1890年の第1回衆議院議員総選挙において広島6区から立憲改進党公認で立候補したが落選。1892年の第2回衆議院議員総選挙で再び立候補したが落選。1894年の第3回衆議院議員総選挙では無所属で立候補して当選した。1898年3月の第4回衆議院議員総選挙で再選。同年9月の第5回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1904年に死去した。
河村 喜助(かわむら きすけ、1853年10月30日(嘉永6… 河村 喜助(かわむら きすけ、1853年10月30日(嘉永6年9月28日) - 1937年(昭和12年)10月14日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。衆議院議員。 美濃国武儀郡、のちの岐阜県武儀郡関町(現関市)に生まれる。和漢学を修める。 関町会議員、岐阜県会議員、同常置委員、地方衛生会委員、郡所得税調査委員、武儀郡会議員、同副議長、郡茶業組合組長、郡蚕糸業組合組長、県茶業組合連合会議長を歴任した。 1903年(明治36年)3月の第8回衆議院議員総選挙では岐阜県郡部から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
大島 信(おおしま しん、1853年10月18日(嘉永6年9… 大島 信(おおしま しん、1853年10月18日(嘉永6年9月16日)- 1899年(明治32年)3月14日)は、明治期の日本の内務官僚、政治家。衆議院議員。 琉球国薩摩藩領大島郡瀬名方中勝村(鹿児島県大島郡中勝村、龍郷村を経て現龍郷町中勝)で生まれた。造士館、駒場農学校、専修学校で学んだ。 埼玉県属に就任。その後、内務属に転じ、佐賀県東松浦郡長に就任した。 1887年(明治20年)、奄美大島の黒砂糖を鹿児島商人が独占していることを批判した「大島郡糖業意見」を発表した。 1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙(鹿児島県第7区)で初当選し、以後、第4回総選挙まで再選され、最後に公同会に所属して衆議員議員に連続3期在任した。
宮井 茂九郎(みやい もくろう、1853年10月9日(嘉永6… 宮井 茂九郎(みやい もくろう、1853年10月9日(嘉永6年9月7日)- 1906年(明治39年)11月17日)は、明治期の地主、農業経営家、実業家、政治家。衆議院議員、初代香川県鵜足郡坂本村長。 讃岐国鵜足郡川原村(香川県鵜足郡坂本村、綾歌郡坂本村、飯山町を経て現:丸亀市飯山町川原)で生まれる。漢学、数学を修めた。明治2年5月(1869年6-7月)鵜足郡川原真時両村庄屋役に、明治4年10月(1871年11-12月)鵜足郡大庄屋役に任じられた。 実業界では、寒川郡志度村製糖会社取締役、高松砂糖会社取締役、宇足津塩田会社取締役、讃岐紡績会社取締役、讃岐鉄道会社監査役、香川県農工銀行取締役などを務めた。
有田 源一郎(ありた げんいちろう、1853年10月7日(嘉… 有田 源一郎(ありた げんいちろう、1853年10月7日(嘉永6年9月5日)- 1914年(大正3年)12月15日)は、幕末の佐賀藩武雄領主・武雄鍋島家家臣、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。 肥前国杵島郡、後の朝日村(現佐賀県武雄市朝日町)で武雄鍋島家家臣・有田(河原)竜左エ門の子息として生まれる。立野元定、草場佩川に師事し漢学を修める。 明治維新を迎え、小学校教員となるが、1886年、同志四名が各々米二百俵を出資して貸金業・甘久共同会社を設立し、同社は後に佐賀銀行の前身の一つ佐賀興業銀行に発展した。 1886年、佐賀県会議員に選出され、県議を五期、また参事会員も務めた。1908年5月、第10回衆議院議員総選挙おいて佐賀県郡部から出馬して当選し、立憲政友会に所属して衆議院議員を一期務めた。
村上 敬次郎(むらかみ けいじろう、嘉永6年9月4日(185… 村上 敬次郎(むらかみ けいじろう、嘉永6年9月4日(1853年10月6日) - 昭和4年(1929年)2月15日)は、安芸国(現広島県)出身の官僚、大日本帝国海軍軍人。貴族院議員、男爵、勲一等旭日大綬章。
青山 準二郎(あおやま じゅんじろう、嘉永6年9月3日〈18… 青山 準二郎(あおやま じゅんじろう、嘉永6年9月3日〈1853年10月5日〉 - 没年不詳)は、明治時代に活躍した長老派系の日本基督教会の牧師。北海道の宣教で活躍した。 越後国村上藩士中山湛斉の3男として生まれる。1878年(明治11年)エディンバラ医療宣教会宣教師T・A・パームと押川方義に出会いキリスト教に回心する。1880年(明治13年)3月にパームより洗礼を受ける。 パームの薫陶を受けて、伝道者になることを決心して、1883年(明治16年)に上京し、東京府築地の東京一致神学校に入学する。上京して間もない5月には第三回全国基督教信徒大親睦会に幹部として参加し、植村正久や内村鑑三と一緒に写真と取っている。
香川 富太郎(かがわ とみたろう、1853年9月25日(嘉永… 香川 富太郎(かがわ とみたろう、1853年9月25日(嘉永6年8月23日) - 1937年(昭和12年)12月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。安芸国(現・広島県)出身。
安東 貞美(あんどう さだよし/ていび/さだみ、1853年9… 安東 貞美(あんどう さだよし/ていび/さだみ、1853年9月21日〈嘉永6年8月19日〉- 1932年〈昭和7年〉8月29日)は、日本の陸軍軍人。朝鮮駐剳軍司令官、第10師団長、第12師団長、第6代台湾総督などを歴任した。階級は陸軍大将従二位勲一等功二級。勲功により男爵に叙爵された。 信濃国伊那郡南部の飯田藩槍術師範・安東辰武の三男として生まれる。父の辰武は松本藩槍術師範・菅沼政治の子で、飯田藩士・安東辰置の養子となり、辰置の長女志記と結婚。長男欽一郎を儲けたが、志記が早世したため、貞美の生母である島地菊子を娶った。貞美の同母兄には後に大審院判事となる柳田直平(柳田家に養子、柳田國男の義父)が、弟には中学校教師となる安東武雄がいる。
池田 孫一(いけだ まごいち、嘉永6年8月12日(1853年… 池田 孫一(いけだ まごいち、嘉永6年8月12日(1853年9月14日)- 大正11年(1922年)3月4日)は、日本の実業家。 出羽国仙北郡(仙北町を経て現在は大仙市)出身。1877年に仙北郡役所の吏員に採用されるが辞職し、1882年に秋田市に出て秋田織絹社に入社した。1886年に鉱山事業を始め雄勝郡の田子内鉱山を採掘した。1897年に東北鉱業会を組織した。 大館市の花岡鉱山の開発にも尽力した。黒川油田地帯の調査、天然アスファルトの活用研究なども行った。石州流の茶人としても知られた。 1922年に小坂町で死去した。
本山 彦一(もとやま ひこいち、嘉永6年8月10日(1853… 本山 彦一(もとやま ひこいち、嘉永6年8月10日(1853年9月12日) - 昭和7年(1932年)12月30日)は、日本の実業家、政治家。大阪毎日新聞社長、貴族院勅選議員。号は松蔭。 旧暦嘉永6年8月(1853年9月)、肥後国熊本城下(現・熊本市中央区)に熊本藩士本山四郎作の長男として生まれる。元治元年(1864年)、数え12歳で家督を相続。藩校時習館で漢籍を修めたのち、明治4年(1871年)に上京して箕作秋坪に学んだ。 新暦1874年(明治7年)に租税寮に出仕。1876年(明治9年)、慶應義塾予科に入塾し、在学中は尾崎行雄らと「協議社」を組織して演説会や新聞投稿を始める。 1878年(明治11年)より兵庫県属となり、神戸師範学校長等を歴任。
河喜多 能達(かわきた みちただ、嘉永6年8月2日(1853… 河喜多 能達(かわきた みちただ、嘉永6年8月2日(1853年9月4日) - 大正14年(1925年)4月3日)は、日本の応用化学者。 熊本藩出身。1881年(明治14年)、工部大学校を卒業し、工部大学校助教授、東京帝国大学工科大学助教授を務めた。1895年(明治28年)、応用化学研究のためドイツ・イギリスに留学。1897年(明治30年)、帰国し東京帝国大学工科大学教授に任命された。1899年(明治32年)、工学博士の学位を得た。1921年(大正10年)に退官し、翌年に名誉教授の称号を受けた。墓所は多磨霊園。
広瀬 貞文(ひろせ さだふみ、嘉永6年(1853年)9月 -… 広瀬 貞文(ひろせ さだふみ、嘉永6年(1853年)9月 - 大正3年(1914年)4月15日)は、明治・大正期の官吏、法学者、儒学者。衆議院議員(5期)、国民協会所属。号は、濠田(ごうでん)。 豊後国日田郡豆田町(現大分県日田市)に儒学者・広瀬青邨の長男として生まれる。 家塾の咸宜園で漢学を修め、朝吹英二が証人となり、明治8年(1875年)慶應義塾本科に入学し、明治11年(1878年)に本科を卒業した。在学中から碩学の士とうたわれ、刑法、治罪法などの法律学を研究。千葉県属から司法省属、大審院書記を経て内務省に入る。帰郷して、大分県教英中学校長、埼玉県尋常師範学校漢文科教授嘱託、台湾総督府事務嘱託等を歴任し、明治40年(1907年)に日田町長(四代目)に就任。
小坂 善之助(こさか ぜんのすけ、嘉永6年7月15日〈185… 小坂 善之助(こさか ぜんのすけ、嘉永6年7月15日〈1853年8月19日〉 - 大正2年〈1913年〉12月21日)は、日本の政治家、実業家。長野県会議員、衆議院議員を務めた。 明治23年(1890年)の帝国議会開設以来、4回衆議院議員に当選、中央政界に活躍するかたわら、信濃銀行(現みずほ銀行)を興し、山国長野県の豊富な水資源に着眼して長野電灯を創業、県下で最初の水力発電所をつくった。また信濃毎日新聞の基礎を固めた。 信濃国水内郡里村山村(1881年村山村に改称、現長野市)出身。父は3代目善之助(隠居名善三)。善之助の家は3代前に分家したもので、本家は代々名主を務めた豪家だった。 善之助は、少年時代から村の大将格で、村芝居ではつねに主役をつとめた。
河路 重平(かわじ じゅうへい、1853年8月18日(嘉永6… 河路 重平(かわじ じゅうへい、1853年8月18日(嘉永6年7月14日) - 1904年(明治37年)7月13日)は、明治時代の政治家。実業家。銀行家。貴族院多額納税者議員。滋賀県坂田郡長浜町長。 寺村喜右衛門の子として近江国坂田郡長浜町(現滋賀県長浜市)に生まれ、1872年(明治5年)醤油醸造業を営む河内重内の養子となり、1876年(明治9年)10月に家督を相続した。 1874年(明治7年)以降、坂田郡第十六区戸長、長浜町会議員、同町長のほか、第二十一、第六十四各国立銀行頭取、日本精米、日本汽船各取締役、近江製糸、長浜生糸米穀取引所各監査役などを歴任した。ほか、長浜銀行、長浜貯蓄銀行などの創立に関与した。
井田 文三(いだ ぶんぞう、1853年8月15日〈嘉永6年7… 井田 文三(いだ ぶんぞう、1853年8月15日〈嘉永6年7月11日〉 - 1936年〈昭和11年〉11月11日)は、明治・大正時代の神奈川県の政治家。自由民権運動家として活動し、神奈川県会議員、向丘村長を務めた。武蔵国橘樹郡長尾村(現在の神奈川県川崎市多摩区長尾)出身。 1853年8月15日(嘉永6年7月11日)、武蔵国橘樹郡長尾村(現在の神奈川県川崎市多摩区長尾)の名主・井田勘左衛門の長男として生まれる。井田家は『新編武蔵風土記稿』の長尾村の項に、小田原北条氏の家臣・高橋帯刀を先祖とする百姓太郎兵衛として記載されている。北条氏の滅亡後に長尾に移り、井田に改名したとされる。 21歳のときに長尾村ほか3ヶ村の戸長に選ばれるが、1876年(明治9年)4月17日に辞職する。