安保 清康(あぼ きよやす、1843年1月30日(天保14年… 安保 清康(あぼ きよやす、1843年1月30日(天保14年1月1日) - 1909年10月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。男爵。旧姓は林。通称は謙三。海軍の先覚者の一人。 備後国御調郡向島西村(現在の広島県尾道市)の医師・林金十郎の四男として生れる。12歳で広島に出て漢学、医学を学ぶ。1860年、長崎で医学を学び、英国軍艦に乗組んで二年間軍学を学んだ。1865年何礼之が開設した私塾で前島密らとともに学ぶ。 薩摩藩の講師として招かれた前島に誘われ薩摩藩へ移る。1866年、小松清廉、西郷隆盛に請われ薩摩藩の海軍養成に携わる。1867年薩摩藩に軍艦「春日丸」を購入するよう島津久光に進言。
蛯子 末次郎(えびこ すえじろう、天保13年12月27日(1… 蛯子 末次郎(えびこ すえじろう、天保13年12月27日(1843年1月27日) - 大正元年(1912年)8月29日)は、幕末から明治期の日本の航海者。函館大経・深瀬鴻堂と共に「函館三士」と称される。 天保13年12月27日(1843年1月27日)、箱館に生まれる。箱館の諸術調所で蘭学者・武田斐三郎より航海術を学び、箱館奉行企画の黒竜江出貿易及び上海出貿易航海で測量方を務めた。 大政奉還後の明治5年(1872年)正月、開拓使御用掛に任ぜられ「樺戸丸」の船長となる。その際に開拓長官・黒田清隆の指示で航海に際しての旗印として夜空に赤く光る北極星をイメージした「北辰旗」をデザインし、この旗印は1882年まで開拓使のシンボルとして使用された。
千葉 胤昌(ちば たねまさ、1843年1月11日(天保13年… 千葉 胤昌(ちば たねまさ、1843年1月11日(天保13年12月11日)- 1914年(大正3年)1月11日)は、明治期の公吏、農業経営者、政治家。衆議院議員。幼名・丹三郎。 陸奥国栗原郡文字村上葛峰(宮城県栗原郡文字村、栗駒町を経て現栗原市栗駒文字)で、素封家・千葉忠蔵の長男として生まれた。農業を営む。 1870年(明治3年)水沢県附属に就任し同年12月に辞職。1873年(明治6年)7月、水沢県第6大区学区取締掛に任じられ、1874年(明治7年)8月に廃職となる。 1877年(明治10年)県会の前身である共議会議員に就任。1879年(明治12年)1月、宮城県会議員に選出され1890年(明治23年)2月まで3期在任し、常置委員も3期務めた。
下郷 久道(しもごう ひさみち、1843年1月7日(天保13… 下郷 久道(しもごう ひさみち、1843年1月7日(天保13年12月7日) - 1898年(明治31年)5月19日)は、明治時代の政治家。実業家。貴族院多額納税者議員。 近江国坂田郡長浜(現・滋賀県長浜市)出身。1876年(明治9年)以降、南新町副戸長、同戸長、長浜町会議員のほか、大阪製紙抄造場、近江製糸所などを経営した。 1890年(明治23年)滋賀県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1897年(明治30年)9月28日まで務めた。
山田 省三郎(やまだ しょうざぶろう、1843年1月5日(天… 山田 省三郎(やまだ しょうざぶろう、1843年1月5日(天保13年12月5日)- 1916年(大正5年)3月8日)は日本の政治家。 衆議院議員。現在の東海地方を代表する木曽三川の水害対策(木曽三川分流工事)に翻弄し、生涯を治水に捧げた人物。 1929年(昭和4年)、岐阜公園に像高2m余の台座付きの銅像が建立された。後に、太平洋戦争時の金属類回収令より撤去。 1957年(昭和32年)、岐阜市内の長良川金華橋近くの四ッ屋公園に顕彰記念碑が立てられ、現在も存在する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
逸見 宗助(へんみ そうすけ、1843年〈天保14年〉 - … 逸見 宗助(へんみ そうすけ、1843年〈天保14年〉 - 1894年〈明治27年〉)は、幕末から明治の武士、剣術家、警察官。 生年は1834年(天保5年)ともいわれる。佐倉藩藩士・逸見信敬(立身流第17代宗家)の子として生まれ、家伝の立身流を修行する。立身流は袋竹刀で打ち合う古式の剣法であったが、江戸で竹刀防具を用いる撃剣試合が盛んになると、佐倉藩も1850年(嘉永3年)に他流試合を許し、北辰一刀流や鏡新明智流などを招いて学んだ。鏡新明智流からは高弟の上田馬之助が来て、逸見は上田の指導を受けた。 1860年(万延元年)、父より立身流居合目録を受ける。父の計らいで藩から剣術留学の許しを得て、1861年(万延2年)に江戸に出て、鏡新明智流士学館道場を主として1年間撃剣を修行。
原 豊穣(はら ほうじょう、1843年(天保14年) - 1… 原 豊穣(はら ほうじょう、1843年(天保14年) - 1917年(大正6年))は、日本の政治家。南多摩郡長および八王子町長を務めた。 1843年に武蔵国多摩郡調布の上布田村(現在の東京都調布市)で生まれる。幼名は泰輔。1880年4月、神奈川県勧業課御用掛になる。1882年6月、南多摩郡長に就任。1886年に愛甲郡長になる。1891年11月、再び南多摩郡長に就任。1893年に南多摩郡は神奈川県から東京府になる。1897年に郡長を辞任。1900年4月、八王子町長に就任し、1901年3月辞任。 豊穣は1870年から1913年まで日記を書いており、調布市で公開されている(ただし、1889年 - 1912年10月は空白になっている)。
久光 与市(ひさみつ よいち、1843年(天保14年)- 1… 久光 与市(ひさみつ よいち、1843年(天保14年)- 1913年(大正2年))は、日本の実業家・起業家。久光常英堂(久光製薬の前身)の代表者である。 肥前国基肄郡田代村(現・佐賀県鳥栖市)出身。小松屋(現・久光製薬)の創業者である久光仁平の長男として生まれる。新しい薬の開発に力を注ぎ、1869年(明治2年)に健胃清涼剤「奇神丹(きしんたん)」を発売する。日清戦争の際に出征する兵士に販売し、そのことを契機として軍用薬に指定され業績を大いに伸ばしていった。 1871年(明治4年)、仁平より家業を譲り受ける。小松屋を「久光常英堂」と改称する。1881年(明治14年)、田代村で起こった大火に巻き込まれ久光常英堂も全焼したため、養父郡轟木村大字鳥栖字三角屋(現・鳥栖市)の徳渕家に身を寄せながら行商を続けた。
海老名 季昌(えびな すえまさ/えびな としまさ、1843年… 海老名 季昌(えびな すえまさ/えびな としまさ、1843年(天保14年)- 1914年(大正3年)8月23日)は、幕末の会津藩家老。明治時代の警察官、地方官吏である。幼名秀次郎、通称郡治。郡次とも表記される。 父は海老名季久。海老名家は家禄250石であった。季久は1851年(嘉永4年)房総半島の警備を命じられた会津藩の軍事奉行として出動。その後品川砲台(金杉陣屋)、蝦夷地警備でも軍事奉行として活躍した。海老名は父と行動を共にし、ペリー来航の際は、父に貰った陣羽織を手に開戦に備えていた。 幼少の頃は天然痘に罹患するなど、3度も死に瀕する重病を患った。安政の大地震の際は歩行もできなくなっていた。弓馬刀槍に加え砲術、儒学と厳しい教育に耐え切れず、家出を図ったことさえあったという。
足立 孫六(あだち まごろく、1843年(天保14年9月) … 足立 孫六(あだち まごろく、1843年(天保14年9月) - 1911年(明治44年)7月27日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(2期)。 遠江国城東郡丹野村(静岡県城東郡川野村、小笠郡川野村、小笠村、小笠町を経て現菊川市)の三橋家に生まれ、周智郡平宇村(山科村、山梨村、山梨町を経て現袋井市)の足立家の養子になる。和漢学を学ぶ。1873年(明治6年)浜松県第二大区小区長となるが、1875年(明治8年)凶荒に際し減租を訴え県官と対立し罷免された。この頃、協同会を結成し小作米基準地価算定論や公選民会開設論を展開した。1876年(明治9年)2月、浜松県15等出仕、同年6月、権少属として民会係となり、浜松県民会設立に尽くした。
浅部 和七郎(あさべ わしちろう、1843年 - 1883年… 浅部 和七郎(あさべ わしちろう、1843年 - 1883年11月22日)は、岡山県窪屋郡子位庄(現・倉敷市)出身の実業家。 1843年、窪屋郡小位庄で生まれる。叔父である忠義と木綿栽培、材木業、漁業を営んでいたが成功しなかった。 1876年、開業資金を得て、廃坑となっていた中庄村の猿曳山銅山の再掘を始める。出費がかさむ事から、採掘事業は解散したが、和七郎一人踏みとどまり、新抗を試みていたところ鉱脈に接することに成功した。 また、早島村金田山廃坑の再掘を開始。多くの銅鉱を採掘し、巨額の富を得た。 巨額の利益を得たことから、数十町の田畑を買い、更に船舶を買い、海運業を始めた。 1883年11月22日、病で死去。
勝ノ浦 与一右エ門(かつのうら よいちえもん、1843年〈天… 勝ノ浦 与一右エ門(かつのうら よいちえもん、1843年〈天保14年〉 - 1888年〈明治21年〉7月22日)は、勝ノ浦部屋及び境川部屋に所属した力士。 本名は吉井→川島 力之助。身長162cm,体重105kg(成人時)。出身地は現在の千葉県山武市(旧・上総国武射郡)。 最高位は東前頭筆頭。 農家の次男として出生。子供の時から体格が大きく、怪童力士として1850年11月に初土俵を踏んだ。当時数え8歳で、121cm,68kgあったと伝わる。嘉永年間は土俵入りのみだった(番付上は西張出前頭。当時の四股名は鬼若力之助だった)が、1860年10月に序ノ口として相撲を取り始めた。最初は苦労したが、明治に入って力を付け始め、1870年4月に十両昇進(西二段目7枚目となり十両相当となった)。
吉田 常三郎(よしだ つねさぶろう、1843年(天保14年1… 吉田 常三郎(よしだ つねさぶろう、1843年(天保14年1月) - 1918年(大正7年)5月23日)は、明治から大正時代の政治家。銀行家。衆議院議員。岐阜県武儀郡吉田村長。 美濃国武儀郡吉田村(岐阜県武儀郡関町を経て現関市)出身。漢学を修める。 戸長、地租改正地価監定役、岐阜県会議員、武儀郡学務委員、郡書記、郡徴兵参事員、吉田村長、所得税調査委員、吉田村会議員となる。ほか、吉田倉庫銀行頭取、上有知銀行取締役を歴任した。 1894年(明治27年)9月の第4回衆議院議員総選挙では岐阜県第5区から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
大纒 長吉(おおまとい ちょうきち、1843年(天保14年)… 大纒 長吉(おおまとい ちょうきち、1843年(天保14年) - 1889年(明治22年)12月2日)は、現在の東京都出身で玉垣部屋に所属した大相撲力士。本名は竹馬 長吉。7代出来山。最高位は関脇。 実家は神田の蕎麦屋で、幼少期から体が大きく、玉垣部屋に入門。1856年(安政3年)1月に怪童力士として1場所だけ番付に載り、土俵入りをつとめた。翌1857年(安政4年)に角界に入り直し、11月場所で序ノ口に就いた。1867年(慶応3年)に入幕し、同期、同時入幕の境川浪右衛門(のち横綱)と出世を争い、その取組は人気を集めた。番付を順調に上げ、1869年(明治2年)4月に小結に昇進、8年に渡って三役の座を維持し、1871年(明治4年)3月関脇に昇進した。
小柳 卯三郎(おやなぎ / こやなぎ うさぶろう、1843年… 小柳 卯三郎(おやなぎ / こやなぎ うさぶろう、1843年(天保14年3月)- 1915年9月6日)は、幕末の庄屋、明治期の政治家。衆議院議員、新潟県西蒲原郡小吉村長。大河津分水路建設の功労者。 越後国蒲原郡東中村(現:新潟市西蒲区東中)で庄屋の家に生まれる。長善館で漢学を学び、京阪地方を遊学。15歳で家督を相続した。 明治2年(1969年)大河津分水路工事用弁掛に就任。その後、新潟県会議員、小吉村長などを歴任。1880年、国会開設懇望協議会で国会開設懇望上申書の起草委員、同本部長に就任。西蒲原郡自由党を組織し、北辰自由党理事、越佐同盟会評議員などを務め、山際七司を補佐して県内の自由民権運動などを推進した。
梅津 喜八(うめづ きはち、1843年(天保14年2月)- … 梅津 喜八(うめづ きはち、1843年(天保14年2月)- 1909年(明治42年)2月26日)は、明治時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 沿岸部との交易により一代で財を成した花巻の豪商。大地主として小間物商、薬種商を営んだ。1879年(明治12年)岩手県会議員に当選。ほか、花巻銀行取締役、稗貫郡花巻川口町会議員、同郡会議員などを歴任した。 1908年(明治41年)岩手県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年10月2日から務めたが、在任中に死去した。小学校の教科書を出版するなど教育振興にも務めた。
小森沢 長政(こもりさわ ながまさ、1843年(天保14年)… 小森沢 長政(こもりさわ ながまさ、1843年(天保14年) - 1917年(大正6年)3月13日)は、幕末の米沢藩士、明治期の海軍法務官。初期海軍の法制度確立に努め、海軍省法務部長に至る。また郷里の後進を海軍に勧誘し、米沢海軍の祖とされる人物である。米沢有為会第二代会長。 旧名は宮島琢蔵。父は米沢藩右筆・宮島吉利、兄は宮島誠一郎である。 明治維新後に米沢藩少属となり、次いで兵部省海軍所文官に採用され、海軍省発足とともに海軍大録に任じられた。小森沢の海軍入りは兄の宮島誠一郎と親しかった勝海舟の影響があったともいわれる。 長く海軍大臣を務めた西郷従道の知己を得たといわれ、1877年(明治10年)太政官権大書記官、翌年には海軍大書記官を兼ねる。
小間 粛(こま しく、1843年(天保14年8月) - 19… 小間 粛(こま しく、1843年(天保14年8月) - 1900年(明治33年)12月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 1843年(天保14年)8月 能登国鳳至郡清水村の藤九郎の次男に生まれる。父は加賀藩の寺社奉行であった。小間は藩校に学び漢学を修め、藩から山廻役を命ぜられていた。廃藩後は養蚕業を営み、製糸工場を経営した。その一方で戸長を務めのちに門前小学校で訓導や珠洲郡書記も務めた。1879年県会議員選挙に鳳至郡選挙区から出馬し当選、以後当選を重ねる。1883年2月には盈進社発起の北陸道有志大懇談会に参加し、1884年の県会では河瀬貫一郎に反対の立場をとったが同志少なく主導権を握ることはできなかった。
原 六郎(はらろくろう、天保13年11月9日(1842年12… 原 六郎(はらろくろう、天保13年11月9日(1842年12月10日) - 昭和8年(1933年)11月14日)は、日本の幕末から大正期の志士、軍人、銀行家、実業家。 但馬国佐中村(現・兵庫県朝来市)出身。もとの名は進藤俊三郎長政といい、生野の変で敗れ潜伏中に、原六郎と改名。 鎌倉時代より続く但馬国佐中村の大地主・進藤家の第22代目当主・丈右衛門長廣の六男四女の末っ子として生まれる。 11歳のころ、池田草庵の私塾・青谿書院に入門し、北垣国道、西村哲二郎らとともに学ぶ。池田草庵門下には、ほかに浜尾新(元東宮侍従浜尾実の祖父)、河本重次郎らがいる。 当時、尊皇攘夷派の活動が盛んであり、尊皇攘夷論を唱えるようになる。
寺島 秋介(てらしま あきすけ / てらじま あきすけ / … 寺島 秋介(てらしま あきすけ / てらじま あきすけ / てらじま しゅうすけ、1842年11月17日(天保13年10月15日)- 1910年(明治43年)7月30日)は、日本の官僚・政治家。諱・直方、通称・秀之助。 周防国熊毛郡原村(現周南市)で長州藩士・寺島太次郎直一、沢夫妻の長男として生まれる。下関戦争、禁門の変に参加した。 慶応4年1月12日(1868年2月6日)浪華隊隊長に就任。同年2月27日(3月20日)東征大総督・有栖川宮熾仁親王の副参謀を命ぜられ江戸に下り、上野戦争では団子坂口の諸藩兵の総指揮を担当した。同年7月2日(8月19日)奥羽鎮撫総督九条道孝の参謀に任じられ奥州を転戦し、明治元年11月1日(1868年12月14日)京都に帰還した。
南条 文五郎(南條、なんじょう ぶんごろう、1842年11月… 南条 文五郎(南條、なんじょう ぶんごろう、1842年11月16日(天保13年10月14日)- 1905年(明治38年)4月4日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 陸奥国栗原郡太田村(宮城県栗原郡太沢村、玉沢村、築館町字太田を経て現栗原市築館太田)で、肝煎(庄屋)・南条彦作(親章)の二男として生まれた。普通学、武道を修めた。農業を営む。 1871年(明治4年)太田村副戸長に就任。1880年(明治13年)5月に宮城県会議員に選出され、1902年(明治35年)8月15日の辞職まで8期在任し、常置委員、参事会員、地方衛生会委員、徴兵参事員なども務めた。その他、太沢村会議員、玉沢村会議員、栗原郡会議員にも在任した。
大山 巌(おおやま いわお、旧字体: 大山 巖、1842年1… 大山 巌(おおやま いわお、旧字体: 大山 巖、1842年11月12日〈天保13年10月10日〉- 1916年〈大正5年〉12月10日)は、日本の政治家、陸軍軍人。陸軍大臣(初代・第3代)、陸軍参謀総長(第4・6代)、大警視(第2代)、文部大臣(臨時兼任)、内大臣(第4代)、元老、貴族院議員を歴任した。称号・階級は元帥陸軍大将。栄典は従一位大勲位功一級公爵。雅号は赫山、瑞岩。字は清海。西郷隆盛・従道兄弟は従兄弟。 薩摩国鹿児島城下加治屋町柿本寺通(下加治屋町方限)に薩摩藩士・大山綱昌(彦八)の次男として生まれた。幼名は岩次郎。通称は弥助。家紋は佐々木源氏大山氏として典型的な「丸に隅立て四つ目」である。
筧 雄平(かけい ゆうへい、1842年11月12日〈天保13… 筧 雄平(かけい ゆうへい、1842年11月12日〈天保13年10月10日〉 - 1916年〈大正5年〉3月12日)は、日本の実業家、豪農、篤志家、鳥取県の大地主。筧融通合名会社代表社員。慈善及び教育事業に尽くす。日本最初の季節保育所の創始者である。族籍は鳥取県平民。 因幡国高草郡下味野村(のち鳥取県気高郡美穂村下味野、現・鳥取県鳥取市下味野)出身。筧橘五郎の長男。家業である農業の発達につとめ、傍ら鳥取市で酒類醸造業を営む。1876年、村有原野の開拓と共有林造成事業に着手する。1890年、繁忙期の農家のため託児所を開設する。 下味野に分教場を設けることに尽力し、社会的・経済的に劣悪な環境にあり就学率が低かった赤池部落の子弟のための学校教育の道を開く。
田村 寛一(たむら かんいち、1842年10月23日〈天保1… 田村 寛一(たむら かんいち、1842年10月23日〈天保13年9月20日〉- 1899年〈明治32年〉3月4日)は、幕末の長州藩士、明治期の大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 長門国阿武郡萩城下(現山口県萩市)で長州藩士の家に生まれた。江戸に遊学し江川英龍の江川塾で砲術を学び、帰藩して萩調製方に出仕した。四境戦争、戊辰戦争に従軍した。 1871年(明治4年)御親兵として上京。佐賀の乱、西南戦争に従軍した。 1885年(明治18年)5月、参謀本部副官に就任。1886年(明治19年)5月、歩兵第6連隊長となり、1888年(明治21年)11月、陸軍歩兵大佐に昇進。近衛歩兵第1連隊長、陸軍省人事課長を歴任し、1894年(明治27年)10月、陸軍少将に進み歩兵第8旅団長に就任。
織田 完之(おだ かんし、天保13年9月18日(1842年1… 織田 完之(おだ かんし、天保13年9月18日(1842年10月21日) - 大正12年(1923年)1月18日)は、日本の農政家、歴史学者、著述家。 織田完之は、明治時代の官僚および農政史学者、歴史学者、著述家である。字は士全、雅号は鷹洲、寅賓。 医者の家系に生まれ当初は医術を専攻したが、幕末には松本奎堂に師事したのち、天狗党の乱を視察するなど志士として活動した。明治以後は新政府の官僚として弾正台や大蔵省、内務省などに奉職、その後農商務省農務局に異動し尚古派農学者として佐藤信淵の著作の編纂など日本在来農法の調査・編纂に従事した。また、金原明善らとともに印旛沼干拓の事業計画を行った。 晩年は歴史研究にも従事し、平将門の雪冤運動を展開するなど歴史上の人物の顕彰活動を行った。
小林 信近(こばやし のぶちか、天保13年8月28日(184… 小林 信近(こばやし のぶちか、天保13年8月28日(1842年10月2日) - 大正7年(1918年)9月24日)は、日本の実業家、政治家。松山城下(現愛媛県松山市)出身。伊予鉄道会社(現伊予鉄グループ)の創立者であり初代社長。第五十二国立銀行(現伊予銀行)、松山商法会議所(現松山商工会議所)、伊予水力電気(現四国電力)を創立するとともに、海南新聞社(現愛媛新聞社)社長を務めるなど、明治時代に愛媛経済の基盤を作った。 1883-1884年(明治16-17年)ころ小林は工部省神戸鉄道局の用材調達を請負っており、大坂に滞在している間阪神間の鉄道旅行を経験していた。小林は松山の道路整備の遅れを鉄道敷設で補うよう意識していたが、当時四国には官設鉄道も建設されてなく思案していた。
林 有造(はやし ゆうぞう、1842年9月21日〈天保13年… 林 有造(はやし ゆうぞう、1842年9月21日〈天保13年8月17日〉- 1921年〈大正10年〉12月29日)は、日本の政治家、自由民権運動家。逓信大臣、農商務大臣などを歴任。位階勲等は従二位勲四等。幼名を助次。実名は包直。梅渓と号した。 天保13年8月17日(1842年9月21日)、土佐国宿毛に土佐藩安東家(のち伊賀家)の家臣・岩村英俊・嘉乃の次男として出生。兄は岩村通俊、弟は岩村高俊。幼年期に林茂次平の養子となる。戊辰戦争では板垣退助の配下につき、越後国に転戦し、明治維新後は初代の高知県令(参事)をつとめる。藩の債務処理や在任中に発生した膏取り一揆の鎮圧を図るが、板垣が参議を辞任したのに合わせて辞職。
臥雲 辰致(がうん たつむね(たっち、ときむね)、天保13年… 臥雲 辰致(がうん たつむね(たっち、ときむね)、天保13年8月15日(1842年9月19日) - 明治33年(1900年)6月29日)は、明治初期に臥雲式紡績機(ガラ紡)を発明した発明家。幼名は栄弥。元の姓は横山で、「臥雲」姓は住持であった寺の山号に由来。 信濃国安曇郡小田多井新田村(現・長野県安曇野市堀金三田)の出身。父は儀十郎。横山家はかつては豪農であったが、父の代に没落したという。家業として営んでいた足袋底織業を手伝い、少年の頃から能率向上のための紡績器械改良を思案していた。文久元年(1861年)20歳で近隣の法降山安楽寺(岩原村)で出家し、智恵と名乗る。慶応3年(1867年)には末寺の臥雲山孤峰院の住持となるが、明治4年、明治政府の廃仏毀釈により廃寺とされたので還俗し、臥雲辰致を名乗る。
淀川 音吉(よどがわ おときち、1842年9月13日(天保1… 淀川 音吉(よどがわ おときち、1842年9月13日(天保13年8月9日) - 1915年(大正4年)2月17日)は、明治時代の大相撲力士。本名:松崎音吉。年寄白玉。讃岐国丸亀(現・香川県丸亀市)出身。 数え21 - 22歳ごろに江戸へ出て雷の弟子となったと伝えられ、数え27歳の1868年5月に讃岐川で序ノ口1871年11月に幕下に昇進と比較的早い出世であったがその後幕下に低迷した。1877年頃和田ノ森との対戦で、40回以上の仕切りとなり審判が預かりとしようとしたが、仕切りの形が和田ノ森のほうが良かったということで和田ノ森の勝ちとなったことがある。1878年5月に幕下二段目12枚目の最高位に昇進。
若嶌 久三郎(わかしま きゅうざぶろう、1842年9月 - … 若嶌 久三郎(わかしま きゅうざぶろう、1842年9月 - 1891年1月6日)は、福島県会津若松市出身の大相撲力士。本名は小沢 久三郎(旧姓根本)。最高位は大関。現役時代の体格は174cm、113kg。福島県出身の力士でただ一人大関になっている。 漆器塗師の二男として生まれ、家業を手伝いながら宮相撲で活躍していた。江戸に出て5代楯山(元・大槇)に入門、文久元年(1861年)10月場所で初土俵を踏んだ。押し相撲を得意としたが取り口が慎重すぎたためか出世が遅く、幕下十枚目(十両)内に入ったのが明治3年(1870年)11月場所、入幕は明治7年(1874年)3月場所ですでに数え年で33歳になっていた。
下条 正雄(下條、げじょう / しもじょう まさお、1842… 下条 正雄(下條、げじょう / しもじょう まさお、1842年8月29日(天保13年7月24日) - 1920年(大正9年)12月1日)は、幕末の米沢藩士、明治・大正期の海軍軍人、政治家、日本画家。最終階級は海軍主計大佐。貴族院勅選議員。雅号・桂谷(けいこく)。 出羽国置賜郡米沢(現山形県米沢市)で、米沢藩士・下条半兵衛の長男として生まれ、慶応2年6月(1866年)下条武兵衛の養子となり家督を相続。明治2年12月(1870年1月)権少属任官。1873年以降、海軍少秘書、同大秘書、同少書記官、同主計少監、同督買部理事官、横須賀鎮守府会計監督部長、佐世保鎮守府主計部長、海軍主計学校長、海軍部内の諸課長、海軍主計大監等を歴任し、1893年5月予備役に編入。
大東 義徹(おおひがし ぎてつ/よしあきら/よしてつ、184… 大東 義徹(おおひがし ぎてつ/よしあきら/よしてつ、1842年8月20日〈天保13年7月15日〉- 1905年〈明治38年〉4月8日)は、 日本の政治家。司法大臣(第9代)、衆議院議員(7期)を務めた。元は小西姓。父は小西新左衛門。通称、近江西郷。 彦根藩士で足軽の小西貞徹の次男として生まれる。幼名を寛蔵。 戊辰戦争に従軍し武功を立てた。戸籍編成の際、姓を小西から大東に改めた。廃藩置県後、司法省に入り、権少判事となる。明治六年政変(征韓論政変)の際に下野し、1877年(明治10年)の西南戦争の勃発後に代言人仲間だった有馬藤太らとともに大阪で警察に拘束されるが、後に放免となる。 1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に滋賀郡部から立候補し初当選。
長岡 安平(ながおか やすへい、1842年8月10日(天保1… 長岡 安平(ながおか やすへい、1842年8月10日(天保13年7月5日) - 1925年(大正14年)12月20日)は、日本の造園家、作庭家。また茶人で、「祖庭」と号した。日本人初の公園デザイナー。 明治初期から大正にかけて東京府の公園係長などとして活躍。数々の名園を生み出した。明治年代から大正初期に至る間の造園技術の第一人者、また公園行政官のパイオニア。日本の近代公園の先駆者。 1842年(天保13年)肥前大村藩士として大村城下に生まれる。小さい頃から病弱だったため、藩士の子息に課された武芸等は嗜まず、そのためもっぱら動植物を好み、飼育や栽培等といった方面に才を見出していたという。 1870年(明治3年)郷土の先輩である楠本正隆に従って上京、1872年(明治5年)楠本が新潟県令に就任すると彼に従って新潟に赴く。
磯辺 包義(いそべ かねよし、1842年7月30日(天保13… 磯辺 包義(いそべ かねよし、1842年7月30日(天保13年6月23日) - 1917年(大正6年)6月4日)は、明治から大正時代前期の大日本帝国海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。貴族院勅選議員。幼名は虎之助。 熊本藩士磯辺謙叟の長男として、豊後国大分郡鶴崎村(鶴崎町、鶴崎市を経て、現在の大分市鶴崎)に生まれる。1856年(安政3年)5月、家督を相続する。のち本籍を東京府に置いた。幼年より海軍を志し、1868年(明治元年)「摂津艦」乗組となり、翌年艦長代理に進んだ。ついで「飛龍丸」艦長を経て、1871年(明治4年)海軍大尉に進み、「千代田形」艦長となる。間もなく「第一丁卯」艦長に転じ、1873年(明治6年)「大坂丸」艦長を経て、1874年(明治7年)4月、少佐に進んだ。
香月 恕経(かつき じょけい / ゆきつね、1842年7月2… 香月 恕経(かつき じょけい / ゆきつね、1842年7月21日(天保13年6月14日)- 1894年(明治27年)5月18日)は、幕末の医師、明治期の政治家、教育者。衆議院議員。玄洋社社員。幼名・恕吉郎、字・子貫。号・晦処、晦洞。 筑前国夜須郡下浦村(現福岡県朝倉市下浦)で、医師・香月春庵の長男として生まれる。佐野東庵(甘木高原町)の私塾梅西舎で漢籍を、医師・深水玄門(熊本)に漢方内科医術を、玉井養純(筑後国生葉郡)に漢学・医術をそれぞれ師事した。文久2年(1862年)父の死去により家督を相続し医業を開業し、幕末には国事に奔走した。 明治2年3月13日(1869年4月24日)秋月藩に同藩の情報を久留米藩に提供したとして捕らえられたが、同月17日に釈放された。
小幡 篤次郎(おばた とくじろう、1842年7月15日(天保… 小幡 篤次郎(おばた とくじろう、1842年7月15日(天保13年6月8日) - 1905年(明治38年)4月16日)は、幕末の中津藩士。明治時代の政治家(貴族院議員)・教育者・思想家。慶應義塾長。小幡甚三郎の兄。号は箕田。 1842年(天保13年)、豊前国中津藩殿町(現在の大分県中津市殿町)に、中津藩家老・小幡氏の中津藩士で、供番・元締兼郡奉行を務める小幡篤蔵の次男として生まれる。幼時から父に四書五経を習い、中津藩の藩校・進脩館(しんしゅうかん) で藩儒・野本真城、野本三太郎、藩士・古宇田姑山らに就き漢学を学び、教頭となるが、1864年(元治元年)、福澤諭吉が欧州から帰朝後、中津に帰省中に中津藩士の次男・三男で家事に係累のない優秀な子弟を物色して江戸に伴って行こうと考え野本三太郎に相談したところ篤次郎を推薦したため、説得されて江戸に出ることになった。
樋口 杏斎(ひぐち きょうさい、天保13年6月7日(1842… 樋口 杏斎(ひぐち きょうさい、天保13年6月7日(1842年7月14日) - 1917年(大正6年)11月11日)は、幕末、明治時代の徳島県の教育者。名は健三。元治元年(1864年)、櫛淵村(小松島市櫛渕町)の自宅に寺子屋敬義斎を開き、1874年(明治7年)に櫛渕小学校(現小松島市立櫛渕小学校)に改組、1906年(明治39年)に退職するまで長く初等教育に携わった。日本史学者・喜田貞吉の恩師。 天保13年(1842年)6月7日、阿波国那賀郡櫛淵村に医者・樋口才庵の長男として生まれた。 嘉永元年(1848年)1月から父・才庵より習字、素読を習い、安政4年(1857年)1月から名東郡富田浦の櫛淵駒蔵、安政6年(1859年)4月から富田幟町の湯浅道輔に漢学を学び、岡本斯文に経史学を学んだ。
鈴木 大亮(すずき だいすけ、1842年6月26日(天保13… 鈴木 大亮(すずき だいすけ、1842年6月26日(天保13年5月18日) - 1907年(明治40年)2月1日)は、日本の政治家、農商務官僚。貴族院議員、官選県知事、錦鶏間祗候、男爵。幼名・篤敬。 陸奥国遠田郡中埣村(現:美里町)で仙台藩士・鈴木雄三郎の長男として生まれる。文久3年(1863年)、江戸で江川塾において砲術を学び、黒田清隆と知り合う。戊辰戦争に従軍した。 明治4年(1871年)11月、黒田清隆の推薦で開拓使十二等出仕となる。以後、開拓少主典、同主典、同権大主典、同大主典、開拓権少書記官、同権大書記官などを歴任。1882年2月、開拓使が廃止され農商務省に移り大書記官に就任。以後、兼大蔵大書記官、北海道庁理事官、農商務省水産局長などを務めた。
野村 素介(のむら もとすけ、1842年6月26日(天保13… 野村 素介(のむら もとすけ、1842年6月26日(天保13年5月18日)- 1927年(昭和2年)12月23日)は、幕末から昭和初期にかけての日本の武士(長州藩士)、官僚、政治家、書家。正二位勲一等 男爵。幼名は範輔、字は絢夫、号は右仲、素軒。 1842年(天保13年)5月18日に長州藩士 有地留之助の次男として周防国吉敷郡長野村(現在の山口県山口市)に生まれる。はじめ、萩の藩校明倫館で学ぶ。1859年(安政6年)4月、江戸へ行き、長州藩上屋敷内の有備館で学ぶ。さらに儒学者 塩谷宕陰から漢籍・経書・歴史を、書家 小島成斎から書道を学ぶ。1862年(文久2年)に帰国して明倫館舎長となる。 1863年(文久3年)10月に同じく長州藩士 野村正名の養子となり、1866年(慶応2年)2月、家督を継ぐ。
足立 寛(あだち かん、1842年6月14日(天保13年5月… 足立 寛(あだち かん、1842年6月14日(天保13年5月6日) - 1917年(大正6年)7月7日)は、幕末から明治にかけての医師、医学者、日本陸軍軍医、陸軍軍医学校校長。最終階級は陸軍軍医総監。字は士得。号は菊径、欲堂。妻は坪井信道の娘。 遠江国山名郡国本村(現・静岡県袋井市)生まれ。木村軍太郎に師事した後、緒方洪庵の適塾、福沢諭吉の書生として慶應義塾で学び、のちに塾長も務める。幕府の西洋医学校塾頭となる。1887年(明治20年)陸軍軍医学舎長となり、一等軍医正まで昇格する。陸軍省に出仕し、軍医総監、陸軍軍医学校長、慶應義塾医学所の設立に携わる。文部省医術開業試験委員長、文部省薬剤師開業試験委員長をつとめ、多忙を極める中、衛生学教程本を多数記す。
初代 三橋 四郎次(みつはし しろうじ、1842年5月17日… 初代 三橋 四郎次(みつはし しろうじ、1842年5月17日(天保13年4月8日)- 1923年(大正12年)12月25日)は、日本の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員。 遠江国城東郡丹野村(のち静岡県小笠郡川野村、現菊川市)で、地主・里正、三橋四郎助の長男として生まれる。和漢学を修め、丹野村の里正となる。 明治維新後、浜松県第十五区戸長、第三大区十三小区長、兼学区取締、浜松県第十三番中学区内学区取締、静岡県会議員、同議長、同常置委員などを務めた。1898年3月、第5回衆議院議員総選挙に静岡県第四区から出馬して当選。さらに第6回総選挙でも再選され、憲政本党に所属して衆議院議員を連続二期務めた。 茶園の経営に尽力し、1890年、内国勧業博覧会に自家製の緑茶を出品し有功三等章を受章した。
岡内 重俊(おかうち しげとし、天保13年4月2日〈1842… 岡内 重俊(おかうち しげとし、天保13年4月2日〈1842年5月11日〉 - 1915年〈大正4年〉9月20日)は、幕末の土佐藩士、明治期の司法官僚・政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、男爵、錦鶏間祗候。通称・俊太郎。 土佐国土佐郡潮江村(現高知県高知市)で、土佐藩士・岡内清胤、鹿子夫妻の長男として生まれる。土佐藩の横目職を務めた。その後、海援隊に加わり坂本龍馬の秘書役を務め、土佐藩の武器調達に尽力。 明治維新後、新政府に出仕し、明治2年2月15日(1869年3月27日)刑法官鞫獄判司事に任じられた。以後、鞫獄副知判司事、徴士・鞫獄司知事、刑部大解部、刑部少判事、刑部中判事、司法少判事、司法権中判事を歴任。
竹添 進一郎(たけぞえ しんいちろう、1842年4月25日〈… 竹添 進一郎(たけぞえ しんいちろう、1842年4月25日〈天保13年3月15日〉- 1917年〈大正6年〉3月31日)は、日本の外交官、漢学者。名は漸、字は光鴻(こうこう、みつあき)、号は井井(せいせい)と称した。甲申政変時の朝鮮弁理公使であり、後に漢学者として活躍した。日本学士院賞受賞。熊本県近代文化功労者。 肥後国天草(現・熊本県上天草市大矢野町)生まれ。父である小田順左衛門(竹添筍園)は、肥前国島原出身の医者(熊本藩医)で、天草大矢野島に移り住み、上八幡宮の宮司二上出雲の娘である美加と結婚した。順左衛門は儒学者広瀬淡窓門下十八傑の一人でもあり、進一郎が幼い頃より儒学を教えた。 1855年(安政2年)15歳の時、天草より熊本に出て儒学者木下韡村の門下生となった。
泉 麟太郎(いずみ りんたろう、1842年〈天保13年4月2… 泉 麟太郎(いずみ りんたろう、1842年〈天保13年4月21日〉 - 1929年〈昭和4年〉1月7日)は、北海道栗山町の前身である角田村の開祖。 1842年(天保13年4月21日)、陸奥国伊具郡角田にて、陸奥石川氏に仕える添田保の子として生まれる。幼名は拙之助。 成教堂で経史を修めた拙之助は、生徒たちに書物の読み方を教える「句読役」を命じられ、さらに仙台への遊学を経てからは、成教堂目付兼武頭役に就いた。 1864年(元治元年)8月1日、角田藩重役の泉靖七郎の養子となり、10月6日には藩主・石川義光から「麟太郎」の名を賜る。 1868年(慶応4年)に戊辰戦争が勃発すると、仙台藩一門の筆頭格たる石川家は、はじめ仙台の警備にあたっていた。
小松 彰(こまつ あきら、1842年4月19日(天保13年3… 小松 彰(こまつ あきら、1842年4月19日(天保13年3月9日) - 1888年(明治21年)3月25日)は明治時代の日本の実業家、官僚。旧松本藩士。通称・彰太郎、左右輔。号は雪巌。 久美浜県権知事兼生野県権知事、豊岡県令、東京株式取引所頭取を歴任した。 天保13年3月9日(1842年4月19日)、信濃国筑摩郡松本城下に松本藩医小松維貫(通称・齢司、坪井信道門弟)の子として生まれる。幼名は金八。藩学崇教館に学んだのち、安政5年(1858年)から藩命で江戸に遊学。塩谷宕陰の教えを受け、文久元年(1861年)には陽明学を学ぶため古賀謹堂に入門したが、父・維貫が江戸に赴任した文久2年(1862年)、家事を掌るべく帰藩した。
瓜生 寅(うりゅう はじめ/はじむ、1842年2月24日(天… 瓜生 寅(うりゅう はじめ/はじむ、1842年2月24日(天保13年1月15日)- 1913年(大正2年)2月23日)は、幕末から明治時代の官僚、教育者、英学者、実業家である。別称は寅(とら)、通称は三寅、号は梅村・六合魁民、幼名は乕作。本姓は多部。海援隊士・瓜生震(雷吉)の兄。 日本の近代教育の起源となる1872年(明治5年)の「学制」起草者の一人で、故郷福井藩の英学教育にも大きな足跡を残した。大阪理学校(現・京都大学)校長、初代神戸税関長、日本鉄道会社幹事などの要職も歴任し、実業家としても活躍した。ホーム・リンガー商会と協同で下関に設立した「瓜生商会」は、三菱・三井の両財閥の石炭輸出の主要な仲介業者となった。
高橋 竹之助(たかはし たけのすけ、1842年2月14日(天… 高橋 竹之助(たかはし たけのすけ、1842年2月14日(天保13年1月5日) - 1909年(明治42年)11月7日)は、江戸時代幕末の尊攘運動家。明治時代の教育者、治水家。名は竹之介とも書き、「ちくかい」とも読む。諱は三寅、字は誠仲。変名として北山信や芳賀喜之七がある。号は蘇門。 越後国南蒲原郡中之島村杉之森(現在の新潟県長岡市)の名主の高橋家に次男として生まれる。生家跡には生誕地の碑が建つ。与板の斎藤赤城の塾に学び、20歳で漢学者・鈴木文臺の私塾・長善館に入門した。1863年(文久3年)、西国遊学に出発し、湊川神社の楠木正成の墓前で尊王を誓う。京都で播磨国林田藩の儒学者の河野鉄兜の門下となり、森田節斎や日柳燕石にも学ぶ。
田村 又吉(たむら またきち、1842年2月14日(天保13… 田村 又吉(たむら またきち、1842年2月14日(天保13年1月5日)- 1912年(大正元年)11月14日)は、日本の農業指導者である。 伊豆の賀茂郡稲取村(現在の静岡県東伊豆町)に生まれる。幼少時に寺子屋にて学び、農業や和漢の著書の研究に携わった。明治維新後の1876年(明治9年)には同村の地主総代を務め、当時漁業が盛んであったものの、大部分が山林で耕地が少なかったことにより植林事業に携わる。翌1887年(明治10年)には地元稲取村等4つの村の戸長を務め、寒天の原料となるテングサの栽培及び採取を初め稲取村の特産品として名を広めた。またこの栽培の利益の寄付により、学校や水道局、病院等の公共施設の整備にも携わる。
石井 省一郎(いしい しょういちろう、1842年2月8日(天… 石井 省一郎(いしい しょういちろう、1842年2月8日(天保12年12月28日) - 1930年(昭和5年)10月20日)は、幕末の小倉藩士、明治期の内務官僚、政治家。官選県知事、貴族院勅選議員。錦鶏間祗候。 豊前国企救郡(現・福岡県北九州市)において小倉藩士の家に生まれる。第二次長州征討において長州藩との停戦に尽力した。 明治2年(1869年)、明治政府に出仕し民部官書記となる。以後、民部兼大蔵大録、監督大佑、庶務大佑、土木権正、土木権頭、内務権大書記官などを歴任し、1877年、初代の内務省土木局長に就任。「土木の石井」と称された。その後、西南戦争時に熊本県権令心得として務めた。 1884年2月に岩手県令に就任。
工藤 行幹(くどう ゆきもと、天保12年12月28日(184… 工藤 行幹(くどう ゆきもと、天保12年12月28日(1842年2月8日) – 明治37年(1904年)4月21日)は、日本の衆議院議員(自由党→立憲革新党→進歩党→憲政党→憲政本党)。 弘前藩士櫛引儀三郎(錯斎)の子として生まれ、幼名を峯次郎といった。19歳で同藩士工藤秀四郎の養子となり、姓名を改めた。戊辰戦争の際には、奥羽越列藩同盟のために奥羽諸藩を奔走したが、弘前藩が新政府軍に帰順すると、禁錮となった。しかしすぐに赦免され、参軍助役として秋田や水沢口で盛岡藩と戦い、盛岡に入城し、さらに箱館にも出陣した。 1869年(明治2年)、公議所書記に選ばれて上京。さらに民部省土木権少祐に任ぜられ、各地の河川の調査に赴き、土木権少祐、土木中属に昇進した。