小尾 知愛(おび ともちか、1918年7月5日 - 201… 小尾 知愛(おび ともちか、1918年7月5日 - 2014年12月31日)は、日本の経営者。大分銀行頭取を務めた。 山梨県出身。1941年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に日本銀行に入行した。1971年10月に大分銀行専務に就任し、1973年6月には頭取に昇格。1984年6月に会長に就任し、1992年4月には特別顧問に就任。日銀政策委員も務めた。 1981年11月に藍綬褒章を受章し、1992年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2014年12月31日、老衰のために死去。96歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
和田 英夫(わだ ひでお、1918年7月4日 - 2001年… 和田 英夫(わだ ひでお、1918年7月4日 - 2001年3月10日、82歳没)は、日本の法学者。専攻は、憲法・行政法。 第3代駿河台大学学長、明治大学名誉教授、駿河台大学名誉教授。 1918年に山形県西村山郡河北町で生まれる。旧制寒河江中学校(現:山形県立寒河江高等学校)を経て、東京帝国大学(現:東京大学)法学部政治学科を卒業。 1946年に北海道大学農学部副手、1948年講師、1950年北海道大学法文学部助教授、1954年から明治大学教授を務める。1989年に、設立準備委員として参画していた駿河台大学法学部教授となった。同大学では法学部長、1991年比較法研究所初代所長、法学研究科長を歴任した後、1994年に第3代学長となる(在任 : 1994年-1999年)。
八木 一夫(やぎ かずお、1918年(大正7年)7月4日 -… 八木 一夫(やぎ かずお、1918年(大正7年)7月4日 - 1979年(昭和54年)2月28日)は日本の陶芸家である。戦後復興期に前衛陶芸家集団「走泥社」を結成、器としての機能を持たない「オブジェ焼」と呼ばれる作品を発表し、現代陶芸に新分野を確立した。陶芸家八木一艸の長男。長男は陶芸家の八木明。 京都市五条坂に陶芸家八木一艸の長男として生まれる。1937年京都市立美術工芸学校彫刻科卒業の後、商工省設置の国立陶磁器試験所の伝習生となり、沼田一雅の「日本陶彫協会」に入会し陶彫を学んだ。1939年兵役で南支広東方面へ派遣されたが、病気のため翌年除隊。帰国後、日本画の前衛団体「歴程美術協会」などと関わりを持つなかでシュルレアリスムや抽象美術などの西洋の最先端美術への親しみを深めるが、戦時下の社会で前衛を否定して古典回帰を求める風潮が高まり、八木もまたしばらくは陶芸を中断して神戸や京都で教員として生活した。
堀 文子(ほり ふみこ、1918年7月2日 - 2019年2… 堀 文子(ほり ふみこ、1918年7月2日 - 2019年2月5日)は、日本画家。東京市麹町区平河町(現・東京都千代田区麹町)生まれ。 洋画家の内海信彦は甥である。 アルビレックスチアリーダーズに2003年から2010年まで所属していた堀文子は、同姓同名の別人である。 永田町小学校(現・千代田区立麹町小学校)、東京府立第五高等女学校(現・都立富士高等学校)、女子美術専門学校師範科日本画部(現・女子美術大学芸術学部美術学科日本画専攻)を卒業。府立第五高等女学校時代に自宅近くで二・二六事件に遭遇した。 在学中の1939年に第2回新美術人協会展入選。1940年に女子美術専門学校を卒業し、新美術人協会会員。
千 炳圭(チョン・ビョンギュ、朝鮮語: 천병규、1918年7… 千 炳圭(チョン・ビョンギュ、朝鮮語: 천병규、1918年7月1日 - 1993年7月19日)は、大韓民国の金融官僚、外交官、政治家、実業家。韓国銀行副総裁、第14代財務部(現・企画財政部)長官、第10代韓国国会議員。本貫は潁陽千氏。号は東栢(トンベク、동백)。日本名は千田 圭一。 元検察総長、法務部長官の呉鐸根は妻の兄弟。 慶尚北道安東に生まれた。1931年に大邱公立普通学校を卒業し、1936年大邱高等普通学校(現・慶北高等学校)を修了した。1939年に大阪商科大学(のちの大阪公立大学)予科を卒業し、1941年に大阪商科大学を卒業した。1942年に朝鮮銀行に入行し、1950年に韓国銀行初代東京支店長を務め、その後は大阪、香港の支店長および外務部長、調査部長を務めた。
西河 克己(にしかわ かつみ、1918年〈大正7年〉7月1日… 西河 克己(にしかわ かつみ、1918年〈大正7年〉7月1日 - 2010年〈平成22年〉4月6日)は、日本の映画監督。鳥取県出身。 西河が生まれたのは鳥取県東部の土師村 で現在の智頭町。父親の就職で一家が東京へ移るまで、4年余りをこの地で過ごした。小説家志望であったが、次善の途として映画監督を志し、松竹大船撮影所に監督助手として入社。当時は日本映画の第1期黄金時代ともいえる時代だった。 大学を卒業したのが日中戦争真っ只中であったため、松竹入社後1年を経ずして召集(結局2度応召した)されて旧満州やビルマへ出征、捕虜収容所生活も経験した。戦後復員して1946年(昭和21年)復職。原研吉、渋谷実、中村登らの名匠に師事し、1952年(昭和27年)助監督待遇のまま『伊豆の艶歌師』(主演:佐田啓二)を初監督。
久野 昌輝(ひさの まさてる、1918年(大正7年)7月1日… 久野 昌輝(ひさの まさてる、1918年(大正7年)7月1日 - 1989年(平成元年)9月21日)は、日本の経営者。テレビ西日本元社長。 東京都出身。1944年に早稲田大学法学部を卒業し、1951年に文化放送に入社した。1961年にフジテレビジョンの総務部長に就任し、取締役、常務、専務を歴任した。 1973年にテレビ西日本の専務に就任し、1979年から1985年までに社長を務めた、1985年以降、取締役相談役、顧問、フジテレビジョン監査役を歴任した。日本民間放送連盟副会長も務めた。 1983年に藍綬褒章を受章し、1989年に勲三等旭日中綬章を受章した。 1989年9月21日腎不全のために死去。
中瀬 正幸(なかせ まさゆき、1918年(大正7年)7月1日… 中瀬 正幸(なかせ まさゆき、1918年(大正7年)7月1日 - 1942年(昭和17年)2月9日)は、大日本帝国海軍の軍人、海軍航空隊戦闘機搭乗員。最終階級は一等飛行兵曹、2階級特進により、飛行特務少尉。いわゆるエース・パイロットと呼ばれる撃墜王(撃墜数18)。 1918年(大正7年)、徳島県徳島市生まれ。1934年(昭和9年)6月1日、「第5期飛行予科練習生」(乙飛)を志願し横須賀海軍航空隊に入隊。 1938年(昭和13年)3月、飛行練習生課程を修了し三空曹昇進、大村海軍航空隊に配属された。同年末、第14航空隊に配属。日中戦争(支那事変、日華事変)に出動するが空戦の機会はなかった。その後横須賀航空隊に移る。
關屋 實(せきや みのる、1918年〈大正7年〉6月29日 … 關屋 實(せきや みのる、1918年〈大正7年〉6月29日 - 1996年〈平成8年〉1月29日)は、日本の薬学者(薬品製造化学)。勲等は勲三等。学位は薬学博士(東京大学・1950年)。静岡薬科大学名誉教授、社団法人日本薬学会有功会員。姓の「關」は「関」の旧字体、名の「實」は「実」の旧字体のため、関屋 實(せきや みのる)、關屋 実(せきや みのる)、関屋 実(せきや みのる)とも表記される。 武田化学薬品株式会社、和光純薬工業株式会社を経て、神戸女子薬科大学薬学部助教授、静岡薬科大学薬学部教授、静岡薬科大学学長事務取扱などを歴任した。 薬品製造化学を専攻する薬学者である。蟻酸アンモニウムによる還元反応の研究では、日本における先駆者とされている。
松本 旭(まつもと あさひ、1918年6月29日 - 201… 松本 旭(まつもと あさひ、1918年6月29日 - 2015年10月30日)は、日本の俳人、俳句研究家、国文学者、作詞家。埼玉大学名誉教授、城西大学女子短期大学部教授。従四位。 埼玉県大石村(現・上尾市)出身。本名の読みは「あきら」。東京文理科大学卒業後、埼玉県立浦和高等学校で教鞭を執った。埼玉大学教育学部助教授、教授、1972年から1975年まで埼玉大学教育学部附属小学校校長兼任。1983年定年退官、名誉教授、城西大学女子短期大学部教授。 加藤楸邨、角川源義に師事して俳句を詠み、1978年俳誌『橘』を創刊、主宰。妻も俳人の松本翠。「村上鬼城研究」で俳人協会評論賞受賞。連歌・近代俳句の研究家でもあった。
苧阪 良二(おさか りょうじ、1918年〈大正7年〉6月28… 苧阪 良二(おさか りょうじ、1918年〈大正7年〉6月28日 - 2018年〈平成30年〉8月12日)は、日本の心理学者。京都大学名誉教授、名古屋大学名誉教授。視空間構造の成立に係わる心理学的研究、眼球運動計測に関する研究などで知られる。長男は苧阪直行、長男の妻は苧阪満里子。 京都市左京区吉田に生まれる。旧制京都府立京都第一中学校、旧制第三高等学校理科甲類を経て、1943年(昭和18年)9月に東京帝国大学文学部心理学科を卒業(卒業論文は「視空間の異方向性 - 月の錯視について」)後、海軍予備学生として応召され海軍兵学校舞鶴分校教官として電測術および心理学を担当する。終戦後、復員し1945年(昭和20年)11月より京都帝国大学大学院文学研究科部哲学専攻にて学ぶ。
陸井 三郎(くがい さぶろう、1918年(大正7年)6月28… 陸井 三郎(くがい さぶろう、1918年(大正7年)6月28日 - 2000年(平成12年)1月13日)は、日本の国際政治評論家である。『ハリウッドとマッカーシズム』などの著作で知られる。 東京出身。1940年、青山学院(のちの青山学院大学)高等商学部を卒業。第二次世界大戦中は太平洋協会、戦後は世界経済研究所に勤務し、アメリカ研究所長(1966年 - 1973年)、アジア・アフリカ研究所員(1961年 - 2000年)、「ベトナムにおける戦争犯罪調査日本委員会」事務局長(1966年 - 1975年)を歴任した。1967年、ベトナム戦争における米国の戦争犯罪を裁く民衆法廷「国際戦争犯罪法廷」(ラッセル法廷)に参加し、調査や証言を行った。
明道 博(みょうどう ひろし、1918年6月28日 - 19… 明道 博(みょうどう ひろし、1918年6月28日 - 1988年)は、日本の園芸学者。専門は環境保全学花卉・造園学。北海道大学では農学部長,農学部附属農場長,本学評議員を歴任。 昭和38年に園芸学会賞学術賞受賞。1986年第9回日本公園緑地協会北村賞受賞。 著書に『朝日園芸百科』(編集、朝日新聞社、1984年)『花卉・造園学とともに歩んで』(北大農学部,明道博先生退官記念事業会、1982年)『百合(ユリ)入門』(共著、池田書店、1976年)『北国の鉢植え』(監修、北海道協同組合通信社、1976年)『楽しい北国の庭と花づくり』(北海道農業改良普及協会、1972年)『草花』(朝倉書店、1958年)など。
塩川 優一(しおかわ ゆういち、1918年(大正7年)6月2… 塩川 優一(しおかわ ゆういち、1918年(大正7年)6月27日 - 2016年(平成28年)4月28日)は、日本の内科学者である。 兵庫県神戸市に生まれる。東京帝国大学医学部(現在の東京大学大学院医学系研究科・医学部)卒業後は、第二次世界大戦により従軍しビルマ等で軍医として活動した。戦後の1946年(昭和21年)に帰国し、その後は母校附属の第2内科に勤務した。1955年(昭和30年)には順天堂大学の助教授として活動し、1964年(昭和39年)には教授に昇格する。1969年(昭和44年)には同大学に膠原病を専門とした内科の開業に携わり、1979年(昭和54年)には順天堂大学医学部附属順天堂病院の院長も務めた。
村上 正名(むらかみ まさな、1918年6月26日 - 20… 村上 正名(むらかみ まさな、1918年6月26日 - 2002年2月9日)は、日本の教育学者、郷土史家。元広島大学附属福山中学校・高等学校教諭。勲四等旭日小綬章受章。後に従四位に叙せられた。 「東洋のポンペイ」と呼ばれる草戸千軒遺跡の発掘に尽力した。個人的な調査と資料をもとに草戸千軒集落の発掘と保存を粘り強く行政に訴えつづけ、1961年に福山市が行った発掘調査に続き、1973年に広島県により調査所が、1976年調査研究所を発足させるに至った。これ以降、1990年までに行われた全面的な調査と研究が継続され、草戸千軒遺跡の全貌が明らかになり、広島県立歴史博物館の創設をもたらすことにもなった。 また、姫谷焼について、日本陶磁協会誌『陶説』を場として、当時まだ地方窯(じかたよう)としか見られていなかった色絵姫谷焼の貴重性を広く世に広めた。
岩永 健吉郎(いわなが けんきちろう、1918年6月26日 … 岩永 健吉郎(いわなが けんきちろう、1918年6月26日 - 1998年11月22日)は、日本の政治学者。東京大学名誉教授。 福岡市に生まれる。1936年福岡県中学修猷館、1938年第一高等学校文科甲類を経て、戦争による非常時を理由に高等教育の修業年限が短縮されたことにより、1941年12月東京帝国大学法学部政治学科を3か月繰り上げて卒業。東大在学中は、戦時色が高まる中で欧米における民主政の発展過程を学ぶことに心の救いを求め、高木八尺教授のアメリカ政治史や岡義武教授のヨーロッパ政治史を熱心に聴講した。また、両教授の勧めにより、アレクシ・ド・トクヴィルやアルトゥル・ローゼンベルクの著作を熟読している。
桂 英澄(かつら ひでずみ、1918年6月26日 - 200… 桂 英澄(かつら ひでずみ、1918年6月26日 - 2001年1月28日)は、日本の小説家。父は東京帝国大学教授(金属工学)の桂弁三。姉は洋画家・桂ゆき。 東京市本郷区生まれ。1943年京都帝国大学文学部哲学科卒。在学中から太宰治に師事。卒業後NHKに入社、戦後放浪生活に入り八年ほど療養生活をしたのち、同人誌に創作を発表。1971年『早稲田文学』に「寂光」を連載、72年同作で直木賞候補となる。
染野 義信(そめの よしのぶ、1918年6月26日 - 20… 染野 義信(そめの よしのぶ、1918年6月26日 - 2007年)は、日本の法学者。専門は、民事訴訟法・裁判法。日本大学法文学部卒業。日本大学名誉教授。茨城県出身。 明治期以降の司法制度の研究で知られ、『講座 日本近代法発達史』(有斐閣)に収められた「司法制度」「裁判制度」は珠玉の業績として影響力をもった。染野の近代司法制度に関する研究業績は、東京大学より法学博士の学位が授与されている。また、日本学術会議会員に選出され、同会議第二部(法学・政治学部門)部長の要職も務めた。『民事訴訟法講義』『破産法講義』(ともに勁草書房)などの著作があり、『口語民事訴訟法』(自由国民社)の監修者でもある。 1992年、勲三等旭日中綬章を受章。
塚田 庄平(つかだ しょうへい、1918年6月25日 - 1… 塚田 庄平(つかだ しょうへい、1918年6月25日 - 1991年3月20日)は日本の政治家。日本社会党(以下、社会党)における炭鉱労組出身政治家として北海道議会議員(4期)や道議会副議長、衆議院議員(4期)を歴任した。 1918年(大正7年)6月25日、北海道浦河郡浦河町に生まれる。1942年(昭和17年)に東京帝国大学法学部を卒業後、北海道炭礦汽船(北炭)に入社した。その後水戸航空通信学校に入校。戦後は北炭職員組合連合会(北炭職連)委員長、全日本石炭労働組合(全石炭)副委員長を務めた。北炭職連委員長在任中の1950年(昭和25年)6月に行われた第2回参議院議員通常選挙に民主戦線候補として立候補したが、15名中9位で落選した。
許 南麒(허남기、ホ・ナムギ、きょ・なんき、1918年6月2… 許 南麒(허남기、ホ・ナムギ、きょ・なんき、1918年6月24日 - 1988年11月)は、在日韓国・朝鮮人の詩人。朝鮮語と日本語の両方で作品を発表。日本語で書いた叙事詩「火縄銃のうた」で有名。在日本朝鮮文学芸術家同盟委員長、朝鮮総聯中央副議長、朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議代議員。
浜口 庫之助(はまぐち くらのすけ、1917年7月22日 -… 浜口 庫之助(はまぐち くらのすけ、1917年7月22日 - 1990年12月2日)は、日本のソングライター。兵庫県神戸市出身。愛称はハマクラ。府立四中卒業、早稲田大学中退。青山学院大学商学部卒業。パーカッショニストの浜口茂外也は子。元女優の渚まゆみは妻。
松尾 敬宇(まつお けいう / よしたか、1917年〈大正6… 松尾 敬宇(まつお けいう / よしたか、1917年〈大正6年〉7月21日 - 1942年〈昭和17年〉5月31日)は、日本の海軍軍人。海兵66期。太平洋戦争におけるシドニー湾攻撃で特殊潜航艇「甲標的」艇長として戦死。二階級特進により最終階級は海軍中佐。 熊本県鹿本郡三玉村久原(現・山鹿市久原)出身。松尾鶴彦、まつ枝の次男として生まれる。父は八幡小学校校長、母も元小学校教師であり、厳格な家風で育った。 鹿本中学を経て、1938年(昭和13年)9月、海軍兵学校を卒業(66期)。特殊潜航艇(以下「特潜」 )艇長として訓練を受け、日米開戦前に真珠湾を視察している。真珠湾攻撃においては予備指揮官として現地まで赴いた。
山下 重明(やました しげあき、1917年7月21日 - 1… 山下 重明(やました しげあき、1917年7月21日 - 1992年3月21日)は、日本の外交官。 山下はブルガリア人民共和国特命全権大使時代に当地で1970年バレーボール世界選手権が開催された際、その大会で銅メダルを獲得したバレーボール日本男子代表を応援のために夫人と共に試合を観戦した。その試合で日本チームの選手たちがサインプレーの暗号として「おにぎり」という言葉を使っていたのを耳にし、後日、「試合中に『おにぎり』を盛んに言っていたから、おにぎりが食べたいのだろう」と思って日本男子代表チームにおにぎりを差し入れたという。
太田 朗(おおた あきら、1917年7月21日 - 2015… 太田 朗(おおた あきら、1917年7月21日 - 2015年12月31日)は、日本の英語学者、言語学者。東京教育大学名誉教授。神奈川県横須賀市生れ。 1950年代以降活発な研究活動を行なった。アメリカ構造主義および生成文法の影響下での業績が多い。
李 建鎬(イ・ゴノ、朝鮮語: 이건호、1917年7月21日 … 李 建鎬(イ・ゴノ、朝鮮語: 이건호、1917年7月21日 - 2020年4月12日)は、大韓民国の弁護士、法学者、教授、政治家。第11代韓国国会議員。 本貫は全州李氏、号は為村(ウィチョン、위촌/爲村)。カトリック教徒。 日本統治時代の忠清北道清州郡(現・清州市)またはソウル出身。東北帝国大学(現・東北大学)法学部卒。法学博士。朝鮮弁護士試験合格。普成専門学校、高麗大学校、ソウル大学校や梨花女子大学校で講義したほか、中央日報論説委員、成均館大学校教授、梨花女子大学校大学院長、国会議員、民主正義党中央委員会副議長、韓国放送倫理委員会委員長、ユネスコ韓国委員長、韓国刑法学会会長を歴任した。 2020年4月12日に死去。
菅 季治(かん すえはる、1917年(大正6年)7月19日 … 菅 季治(かん すえはる、1917年(大正6年)7月19日 - 1950年(昭和25年)4月6日)は、日本の哲学者。シベリア抑留後、徳田要請問題に巻き込まれ悲劇的最期を遂げた人物として知られる。 愛媛県宇摩郡津根村(現四国中央市)で父勝吉・母ツ子の7人兄弟姉妹の三男として生まれ、5歳で北海道常呂郡野付牛町(現・北見市)に移住。父母は染物屋「三吉堂染舗」を経営し、近在の木材工場の印伴天や漁場の大漁旗を一手に引き受けていた。地元の小学校、野付中学校(現・北見北斗高等学校)を卒業し、1935年(昭和10年)に東京高等師範学校文科に入学、3学年終了後、東京文理科大学哲学科に入学し、務台理作、田中美知太郎に師事し、ギリシャ哲学、ヘーゲル哲学を学ぶ。
佐藤 平七(さとう へいしち、1917年7月15日 - )は… 佐藤 平七(さとう へいしち、1917年7月15日 - )は、北海道函館市出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
都丸 十九一(とまる とくいち、1917年7月15日 - 2… 都丸 十九一(とまる とくいち、1917年7月15日 - 2000年3月21日)は日本の民俗学者。群馬県勢多郡北橘村(現渋川市)出身。 民俗学研究、特に地史の分野で活躍し、地名を成り立ちから分類して自然地名・人文地名・修飾地名・新付地名という概念を打ち立てるなど、顕著な功績を残した。 1937年 群馬県師範学校卒業。1941年 今井善一郎と勢多郡誌作成のために民俗調査を行う。1946年 上毛民俗の会が発足し入会する。1947年 民俗学研究所例会で柳田國男と出会う。教師として、群馬県玉村町、高崎市、赤城村、北橘村、富士見村、黒保根村などの小中学校に勤務し、中学校長をつとめ1976年に退職。1983年からは群馬大学教育学部非常勤講師を勤める(1986年まで)。
平垣 美代司(ひらがき みよじ、1917年7月14日 - 1… 平垣 美代司(ひらがき みよじ、1917年7月14日 - 1984年6月26日)は、昭和時代の労働運動家。日本教職員組合(日教組)書記長。 大阪府池田市生まれ。1937年大阪府池田師範学校卒業。大阪市成小路小学校の教壇に立ったが、学問に興味を抱き関西大学に進学。1940年関西大学専門部法科卒業。学生時代、賀川豊彦等の指導により洗礼を受けた。戦後、大阪教職員組合(大阪教組)、日本教職員組合(日教組)、総評大阪地方評議会(大阪総評)の結成に参加。1947年大阪教組組織部長。1949年日本社会党に入党。日教組近畿地区協議会書記長を経て、1951年日教組組織部長、1953~1958年日教組書記長。 1951年に国労の岩井章、全逓の宝樹文彦らと「三角同盟」を結成。
相模川 佶延(さがみがわ よしのぶ、1917年7月13日 -… 相模川 佶延(さがみがわ よしのぶ、1917年7月13日 - 1987年1月22日)は、神奈川県愛甲郡南毛利村(現在の同県厚木市)出身で春日野部屋に所属した大相撲力士。本名は原島 寶(はらじま たから)。身長189cm、体重124kg。得意手は左四つ、突っ張り、上手投げ。最高位は西関脇(1944年5月場所)。 17歳の時に春日野部屋へ入門し、1935年5月場所で初土俵を踏んだ。 1937年5月場所で序二段優勝してから上昇気流に乗り、三段目・幕下・十両をそれぞれ1場所で突破し、1939年5月場所に於いて新入幕を果たした。 長身から繰り出す突っ張りは威力があり、それが上位へ進出する際の大きな武器になった。
安藤 良雄(あんどう よしお、1917年7月12日 - 19… 安藤 良雄(あんどう よしお、1917年7月12日 - 1985年5月6日)は、日本の経済学者。東京大学名誉教授、成城大学学長。 1917年、大蔵省の役人であった父の任地の広島市で生まれた。1935年3月、東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。旧制弘前高等学校に入学して学んだ。 1939年4月、東京帝国大学経済学部に入学し、土屋喬雄のゼミナールに学ぶ。1941年12月、東京帝国大学経済学部を卒業し、同大学助手となるが、1942年1月、応召。短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、同年1月、海軍経理学校に入校し海軍主計中尉に任官。同年5月、経理学校を卒業し、1943年11月、主計大尉に進み、戦時中を通して海軍省に勤務し、戦時統制経済の実務に当たった。
富松 信彦(とみまつ のぶひこ、1917年7月12日 - 1… 富松 信彦(とみまつ のぶひこ、1917年7月12日 - 1983年7月20日)は、昭和時代前期に活躍したプロ野球選手。
鬼澤 正巳(おにざわ まさみ、1917年〈大正6年〉7月12… 鬼澤 正巳(おにざわ まさみ、1917年〈大正6年〉7月12日 - 2002年〈平成14年〉12月22日)は、日本の経営者。三井生命保険社長、会長を務めた。位階は従四位。 東京都出身。1949年に青山学院高等商学部を卒業し、同年に三井生命保険に入社。 1967年5月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1976年4月に副社長に就任し、1981年7月には社長に昇格。1987年4月に会長に就任し、1993年4月に取締役相談役を経て、1996年7月から相談役を務めた。 青山学院大学理事も務めた。 1985年11月に藍綬褒章を受章し、1990年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 2002年12月22日肺炎のために死去。
斜里錦 菊三(しゃりにしき きくぞう、1917年7月12日 … 斜里錦 菊三(しゃりにしき きくぞう、1917年7月12日 - 1950年1月22日)は、北海道斜里郡斜里町出身で二所ノ関部屋に所属した大相撲力士。本名は京堂 菊三(きょうどう きくぞう)。最高位は西前頭18枚目(1943年1月場所)。現役時代の体格は173cm、102kg。得意手は右四つ、押し。 18歳の時に上京し、二所ノ関部屋へ入門。1936年1月場所で初土俵を踏んだ。 入門時から最初の師匠である横綱・玉錦に期待され(四股名は、出身地の斜里郡斜里町と師匠の四股名に由来)、1936年5月場所で序ノ口に付いてから勝ち越しを続け、1939年1月場所で新十両に昇進した。ところがその場所直前に応召され、約3年の期間を経て1942年1月場所より角界に復帰した。
林 博(はやし ひろし、1917年(大正6年)7月11日 -… 林 博(はやし ひろし、1917年(大正6年)7月11日 - 1994年(平成6年)5月4日)は、昭和期の検察官、弁護士、政治家。衆議院議員。 東京府出身。1941年(昭和16年)東京帝国大学法学部法律学科を卒業した。 司法省に入省し、司法官試補に任官。横浜地方検察庁検事、東京地方検察庁検事、経済安定本部経済査察官を歴任した。その後、弁護士を開業した。 1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙に東京都第6区から出馬したが落選。同補欠選挙、第25回、第26回総選挙でも落選したが、1955年(昭和30年)2月の第27回総選挙に日本民主党公認で出馬して初当選。第28回総選挙では落選し、1960年(昭和35年)11月の第29回総選挙で再選され、衆議院議員に通算2期在任した。
市田 夏生(いちだ なつお、1917年7月10日 - 没年不… 市田 夏生(いちだ なつお、1917年7月10日 - 没年不明)は、広島県出身のプロ野球選手(投手)。 1950年に広島カープへ33歳で入団。武器はドロップ。1951年に引退。
千代田 葛彦(ちよだ くずひこ、1917年7月10日 - 2… 千代田 葛彦(ちよだ くずひこ、1917年7月10日 - 2003年11月22日)は、俳人。本名次郎。台湾台中州にて生まれる。1934年阿川燕城の「竹鶴」に参加。終戦後に引揚げ。肺湿潤で療養後、中央大学法学部を卒業、教職に就く。1950年、「馬酔木」に入会し水原秋桜子に師事。1964年、『旅人木』で第4回俳人協会賞受賞。2003年、葛飾賞受賞。代表句「眠るまで月をいくつも見て眠る」他。「賜る俳句」を作句信条とした。句集に『旅人木』(1964年)『瀝々集』(1980年)『無邪』(2003年)。
大口 信夫(おおぐち のぶお、1917年〈大正6年〉7月10… 大口 信夫(おおぐち のぶお、1917年〈大正6年〉7月10日 - 1994年〈平成6年〉1月28日)は、日本の外交官。 ブラジル、サウジアラビア、ポルトガル駐箚特命全権大使を務めた。 サンパウロ総領事在任中の1970年3月11日に、都市ゲリラによる誘拐事件で日本人外交官初めての人質となった。4日後の3月15日に無事解放された。 1917年(大正6年)愛知県豊橋市で政治家・大口喜六の4男として生まれる。1942年(昭和17年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、外務省入省。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入校。1943年1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業。1944年5月、主計大尉に進み終戦を迎えた。
中村 浩三(なかむら こうぞう、1917年(大正6年)7月1… 中村 浩三(なかむら こうぞう、1917年(大正6年)7月10日 - 2008年(平成20年))は、日本のドイツ文学者、翻訳家、早稲田大学名誉教授。 島根県生まれ。1944年早稲田大学文学部独文科卒。早稲田高等学校講師、1951年早稲田大学理工学部助教授、1957年教授、1968 - 1974年語学教育研究所長、1988年定年退任、名誉教授。 1991年『少年ルーカスの遠い旅』で産経児童出版文化賞受賞。ドイツの児童文学を多く訳し、『大どろぼうホッツェンプロッツ』三部作がロングセラーとなっている。
丸山 忠綱(まるやま ただつな 1917年7月8日 – 1… 丸山 忠綱(まるやま ただつな 1917年7月8日 – 1971年5月8日)は、日本の歴史学者。 長野県生まれ。1935年県立長野中学卒業、1938年旧制第二高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部国史学科に入学。中村孝也に師事し、1941年に卒業。「宮座ノ研究」を研究課題とし、同大学大学院に進学。1948年に法政大学教授となる。 宮座の研究の他、古代史では三世一身の法、墾田永年私財法、家人・奴婢の研究に取り組み、また戦時下の空襲で自宅を失った東京のホームレスや戦災孤児の姿を見て、近世史では加役方人足寄場の研究も行った。
増井 健一(ますい けんいち、1917年(大正6年)7月8日… 増井 健一(ますい けんいち、1917年(大正6年)7月8日 - 2001年(平成13年)8月24日)は、日本の経済学者、慶應義塾大学名誉教授。交通経済学を専攻。 経済学者・増井幸雄の長男として静岡県浜松市に生まれる。慶應義塾幼稚舎、普通部、予科を経て、1940年3月に慶應義塾大学経済学部を卒業。同年4月から助手を務める。短期現役海軍主計科士官(4期)を志願し、同年5月、海軍経理学校に入学して海軍主計中尉に任官。同年9月に卒業。1942年3月、主計大尉に進む。1945年5月、海軍主計少佐に昇進して終戦を迎えた。 1945年10月に解員(復員)し、同助教授。1955年教授、1957年商学部教授、商学部長、1983年定年退任、名誉教授、松阪大学教授、1994年退職。
片岡 鶴八(かたおか つるはち、1917年7月7日 - 19… 片岡 鶴八(かたおか つるはち、1917年7月7日 - 1988年7月13日)は、日本の声帯模写芸人。 音楽家の片岡慎介は実息。 実家はハンコ職人。素人時代にNHKのど自慢、ラジオ東京の「しろうと寄席」に出演し名を馳せる。自転車でハンコの配達中に肩の怪我で玄人に転身。玄人になってからは1957年より8代目桂文楽の一門で落語協会に属した。 芸名は「しろうと寄席」の審査員であった安藤鶴夫と木下華声(2代目江戸家猫八)の「鶴」と「八」の字を貰った。 物まねのレパートリーは浪曲の節まね、歌手、政治家、評論家、歌舞伎俳優、映画俳優、動物のまねなど幅広かった。 1980年に脳出血で引退した。 弟子にお笑いタレントの片岡鶴太郎がいる。
浅井 淑子(あざい よしこ、1917年7月4日 - 1980… 浅井 淑子(あざい よしこ、1917年7月4日 - 1980年1月4日)は、教育者、服飾研究家、学校法人浅井学園元学園長、専門学校北海道ドレスメーカー学院初代院長、北翔大学の前身にあたる北海道女子短期大学創立者。 北海道札幌市生まれ。叔父を頼って上京し、1934年、東京国華高等女学校卒業。その後、東京女子医学専門学校に合格するも、両親に反対されて女医の道を断念。生家の家事を手伝いながら学費を貯め、1937年再上京して、1939年杉野ドレスメーカー女学院師範科卒業。同年9月、洋裁教育を通じて女子の教養を高め、専門的技術修得によって女子に経済的独立の能力を習得させることを目的として、各種学校「北海ドレスメーカ一女学園」を創設した。
竹中 知之(たけなか ともゆき、1917年(大正6年)7月3… 竹中 知之(たけなか ともゆき、1917年(大正6年)7月3日 - 1990年(平成2年)8月)は、日本の検察官であり、弁護士でもある。大分弁護士会会長を務めた後、大分県地方労働委員会会長を務める。岡山県高梁市出身。 1917年(大正6年)岡山県上房郡川面村(現:高梁市)の竹中家に出生する。地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、1935年(昭和10年)同校を卒業する。同年、旧制第六高等学校文科乙類へ進学し、1938年(昭和13年)同校を卒業、東京帝国大学法学部へ進学する。1941年(昭和16年)10月、東大在籍中に司法試験に合格。同年12月、第二次世界大戦の影響で、同大学政治学科を3ヶ月繰上げ卒業になった。
中山 正嘉(なかやま まさよし、1917年7月3日 - 19… 中山 正嘉(なかやま まさよし、1917年7月3日 - 1994年7月4日)は、愛媛県出身のプロ野球選手(投手)。
織田 重治(おだ しげはる、1917年(大正6年)6月29日… 織田 重治(おだ しげはる、1917年(大正6年)6月29日 - 1995年(平成7年))は、大阪通管工業所の創業者で、アマチュアの古代史研究家。フィギュアスケート選手・織田信成の祖父。 兵庫県神戸市生まれ。1966年(昭和41年)家庭用下水配管の洗浄業を大阪市浪速区桜川で個人経営として創業。1968年(昭和43年)4月、家庭用下水配管の洗浄業を有限会社大阪通管工業所に改組する。 1983年(昭和58年)大阪医科大学の解剖学実習のための献体組織「さつき会」の初代会長となる。1985年(昭和60年)3月、「好太王碑文」の改竄説否定と碑文の再解析のために、古田武彦に従い藤田友治ら21名と訪中して「好太王碑」の現地調査を行う。
福地 重孝(ふくち しげたか、1917年 6月28日- 19… 福地 重孝(ふくち しげたか、1917年 6月28日- 1994年)は、日本の歴史学者。日本大学名誉教授、学位は文学博士。 茨城県生まれ。1947年東京文理科大学史学科卒。1962年3月27日東京教育大学より「日本近代史上における士族と士族意識に関する研究」にて博士号取得。東京教育大学講師を経て日本大学史学科教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
山川 鴻三(やまかわ こうぞう、1917年6月26日 - 2… 山川 鴻三(やまかわ こうぞう、1917年6月26日 - 2009年4月25日)は、日本の英文学者。大阪大学名誉教授。 三重県生まれ。京都帝国大学文学部英文科卒。京都工芸繊維大学助教授、1960年大阪大学文学部助教授、68年「近代英文学における批評の伝統」で大阪大学文学博士。74年教授、81年定年退官、名誉教授、佛教大学教授。
清宮 質文(せいみや なおぶみ、1917年〈大正6年〉6月2… 清宮 質文(せいみや なおぶみ、1917年〈大正6年〉6月26日 - 1991年〈平成3年〉5月11日)は、日本の木版画家。父は版画家・清宮彬(ひとし)。ガラス絵、モノタイプ、水彩画技法など、数多くの作品を残した。 1917年(大正6年)東京府豊多摩郡内藤新宿北裏町(現:東京都新宿区)に生まれる。 1935年(昭和10年)麻布中学校卒業。1937年(昭和12年)東京美術学校(現:東京芸術大学美術学部)油画科に入学。藤島武二に師事し、4年からは田辺至の指導を受ける。1942年(昭和17年)、東京美術学校を卒業。同年6月、長野県上田中学校の美術教師となるも、翌年3月に辞職した。 1944年(昭和19年)慶應義塾工業学校の美術教師となるが、同年中に応召される。
古瀬 大六(こせ たいろく、1917年(大正6年)6月26日… 古瀬 大六(こせ たいろく、1917年(大正6年)6月26日 - 2007年(平成19年)4月11日)は、日本の経済学者。元東北大学経済学部教授、一橋大学商学博士。四女の漫画家、山下和美の作品『天才柳沢教授の生活』の主人公・柳沢良則のモデル。なお、良則は大六の父、つまり山下の祖父の名である。 1917年(大正6年)6月26日、父・古瀬良則(英語学者・一橋大学名誉教授)、母・要(旧姓、鷲田)の長男として、石川県金沢市に生まれる。 1940年(昭和15年)、東京商科大学(現在の一橋大学)を卒業後、東京芝浦電気に入社。短期現役海軍主計科士官(4期)を志願し、同年5月、海軍経理学校に入学して海軍主計中尉に任官。