大石 義雄(おおいし よしお、1903年1月8日 - 199… 大石 義雄(おおいし よしお、1903年1月8日 - 1991年4月29日)は、日本の法学者(憲法)。法学博士(立命館大学・論文博士・1947年)。京都大学名誉教授。従三位勲二等瑞宝章。山形県出身[要出典]。 戦後、押し付け憲法論、憲法無効論、改憲論を積極的に唱えた。 旧制弘前高等学校(弘前大学の前身)を経て、1929年に京都帝国大学法学部卒業。同大では佐々木惣一に憲法を学ぶ。1947年立命館大学より法学博士の学位を取得。 1930年、和歌山高等商業学校(和歌山大学経済学部の前身)講師、1939年、同教授。1947年、大阪府立淀川工業専門学校(大阪府立大学工学部の前身)校長、1947年12月京都大学法学部教授(国法学講座)、1950年から1956年まで大阪大学教授兼任、1956年9月京都大学法学部長(1958年12月まで)、1966年4月京都大学を定年退官し名誉教授となる。
山崎 知二(やまざき ともじ、1903年〈明治36年〉1月8… 山崎 知二(やまざき ともじ、1903年〈明治36年〉1月8日 - 1994年〈平成6年〉2月26日)は、日本の文学者(フランス文学)。愛知大学名誉教授。 京城帝国大学法文学部助教授、愛知大学文学部教授、愛知大学文学部学部長、愛知大学教養部部長などを歴任した。 静岡県出身のフランス文学を専攻する文学研究者である。シャルル・ボードレールやアンドレ・ジッドの作品の研究で知られている。当初は京城帝国大学で教鞭を執り、太平洋戦争後は長年に亘り愛知大学で教鞭を執った。 1903年(明治36年)1月8日に山崎豐太郞の二男として生まれ、静岡県小笠郡で育った。愛知県名古屋市に所在する旧制高等学校にて学んだ。東京府東京市に所在する東京帝国大学に進学し、文学部の仏文学専攻で学んだ。
森 茉莉(もり まり、1903年〈明治36年〉1月7日 - … 森 茉莉(もり まり、1903年〈明治36年〉1月7日 - 1987年〈昭和62年〉6月6日)は、日本の小説家・エッセイスト。翻訳も行っていた。 東京市本郷区駒込千駄木町出身。文豪森鷗外と、その2人目の妻志げの長女である。幻想的で優雅な世界を表現することに優れており、主な著作には『父の帽子』『恋人たちの森』『甘い蜜の部屋』などがある。また、独特の感性と耽美的な文体を持つエッセイストとして、晩年まで活躍した。 森家の長女として生まれた茉莉は、鷗外を始め非常に多くの人に囲まれ、かわいがられて育った。特に鷗外の溺愛ぶりは有名で、彼女は16歳まで鷗外の膝の上に座っていたという。 東京女子高等師範学校附属小学校(現・お茶の水女子大学附属小学校)に入学したが、10歳の時に教師と衝突して中退し、仏英和尋常小学校(現・白百合学園小学校)に転校。
藤田 六朗(ふじた ろくろう、1903年1月7日 - 200… 藤田 六朗(ふじた ろくろう、1903年1月7日 - 2004年[要出典])は、日本の医師。元北陸大学教授。専門は、東洋医学。 石川県生まれ。1930年旧制金沢医科大学(現・金沢大学)卒業。金沢医科大学大里内科に勤務。1935年に医学博士の学位を取得し、1936年から金沢市に内科・心臓病科・腎臓病科・循環器病科の専門で病院を開業する。1955年から約20年間、金沢女子短期大学教授として生理学と衛生学講座を担当した。1975年から学校法人松雲学園理事、北陸大学教授となって経絡学講座を担当した。1978年に藤田東洋医学研究所を開設する。1955年にドイツ鍼学会年次大会へ招聘され講演を行う。1965年に東京で開催された第1回国際鍼学会に出席して、経絡経穴学学名委員長となり、同年、ウイーンで開催された第13回欧州鍼学会に出席する。
松尾 吾策(まつお ごさく、1903年(明治36年)1月6日… 松尾 吾策(まつお ごさく、1903年(明治36年)1月6日 - 1988年(昭和63年)6月16日)は、日本の政治家。元岐阜市長。父は元岐阜市長で貴族院議員であった松尾国松。
権 煥(クォン・ファン、朝鮮語: 권환/權煥、1903年1月… 権 煥(クォン・ファン、朝鮮語: 권환/權煥、1903年1月6日 - 1954年7月30日)は、日本統治時代の朝鮮及び大韓民国の詩人。本貫は安東権氏。 本名は権 景完(クォン・ギョンワン、권경완)、または権 允煥(クォン・ユヌァン、권윤환)。 大韓帝国慶尚南道昌原郡鎮田面に生まれ、渡日し山形高校を経て京都帝国大学(現・京都大学)独文科卒業。1925年に雑誌『学潮』に作品を発表し、それに関連して拘束された。同時期に留学中であった金孝植や安漠、林和らと親交を結び、朝鮮プロレタリア芸術家同盟東京支部などで活躍した。1930年に林和らとともに帰国し朝鮮プロレタリア芸術家同盟を主導し、『行くなら行こう』(朝鮮之光1930年3月)、『頭を地まで下げるまで』(音楽と詩1930年8月)や、そのほか『無産芸術運動の別故と将来の展開策』、『朝鮮芸術運動の当面の具体的過程』などの文学批評を発表している。
志賀 夘助(しが うすけ、1903年1月6日 - 2007年… 志賀 夘助(しが うすけ、1903年1月6日 - 2007年4月15日)は、日本の昆虫調査機器商、昆虫商。 新潟県東頸城郡松之山村(現十日町市)生まれ。1931年に志賀昆虫普及社を設立し、日本の昆虫学普及に力を注ぐ。1974年、黄綬褒章受章。十日町市名誉市民。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
林 雲渓(林 雲谿、はやし うんけい、本名:林 勇、1903… 林 雲渓(林 雲谿、はやし うんけい、本名:林 勇、1903年(明治36年)1月6日 - 1990年(平成2年)9月11日)は、日本画家。徳島県麻植郡鴨島町(現吉野川市)出身。 1984年(昭和59年)に南画に優れた功績を挙げた第一人者として徳島県文化賞を受賞。 四国八十八箇所11番札所である藤井寺本堂の天井絵には雲渓の描いた雲龍が描かれている。30畳ほどの大きさがあり、繊細な線と睨みをきかせた迫力のある顔が薬師如来を守つているかのように見える。 現在、鴨島町の吉野川市立森山小学校に雲渓の記念碑が建てられている。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
小林 英夫(こばやし ひでお、1903年1月5日 - 197… 小林 英夫(こばやし ひでお、1903年1月5日 - 1978年10月5日)は、日本の言語学者、東京工業大学名誉教授。 東京府出身。1927年東京帝国大学言語学科卒。1928年、ソシュールの『一般言語学講義』(仏: Cours de linguistique générale)を『言語学原論』として世界にさきがけて翻訳する。1929年京城帝国大学講師、1932年助教授(ギリシア語、言語学)、敗戦により東京に引き揚げ、1946年京都帝国大学文学博士。1948年東京工業大学教授(フランス語、言語学)、1950年名古屋大学教授兼任。1963年東工大を定年となり名誉教授、早稲田大学教授、1973年退職。
田宮 博(たみや ひろし、1903年(明治36年)1月5日 … 田宮 博(たみや ひろし、1903年(明治36年)1月5日 - 1984年(昭和59年)3月20日)は、日本の理学、植物博士。微生物学者。専攻は、植物生理学、細胞生理学。光合成の研究により世界的評価を得た。国際生物学事業計画(International Biological Programme)副会長。 大阪市出身。医学者の田宮猛雄の弟。また、チェロの演奏家でもあり、民谷宏の変名で、諸井三郎、河上徹太郎らと共に樂團スルヤを組織した。 1926年(大正15年)東京帝国大学理学部植物学教室卒。ドイツ国、フランスに留学後、1933年(昭和8年)東帝大助手、1939年(昭和14年)同大学助教授、1943年(昭和18年)東京帝大教授(理学・植物学)。
古井 喜実(ふるい よしみ、別表記 : 古井 喜實、1903… 古井 喜実(ふるい よしみ、別表記 : 古井 喜實、1903年 <明治36年> 1月4日 - 1995年 <平成7年> 2月3日)は、日本の内務官僚、政治家。日中友好議員連盟会長を務めた。位階は正三位。 鳥取県八頭郡国中村(現・八頭町)に、古井實壽の二男として生まれる。生家は祖父久次郎の代からすでに田五町歩、山林三町歩をもつ小地主だった。父實壽は古井が生まれたころ、郡役所の書記だったが後に国中村の村長を務めた。 旧制鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)、第三高等学校を経て、1922年東京帝国大学法学部英法科に入学する。なお中学時代の同期生に政治学者の矢部貞治がいる。1925年内務省に入省する。
石島 房太郎(いしじま ふさたろう、1903年1月4日 - … 石島 房太郎(いしじま ふさたろう、1903年1月4日 - 1981年12月1日)は、日本の俳優。本名は同じ。 山口県下関市出身。旧制豊浦中学校(現山口県立豊浦高等学校)を中退。 初めは工芸の仕事をしていたが、舞台俳優を目指して1924年に松竹に入り、後に前進座に移る。1935年に『街の入墨者』で映画デビューする。 1937年、石島と同じく前進座に所属していた原ひさ子と結婚した。 1944年に夫婦揃って東宝の専属となり、後に東映などに所属、『ひめゆりの塔』(1953年)や『警視庁物語シリーズ』などの映画に出演した。またテレビドラマにも多く出演した。
岩野 喜久代(いわの きくよ、1903年1月3日 - 199… 岩野 喜久代(いわの きくよ、1903年1月3日 - 1996年3月7日)は、歌人、大東出版社代表。 広島県江田島海軍兵学校官舎に生まれる。1922年東京府女子師範学校(現東京学芸大学)卒業。1924年東洋大学倫理教育部入学。1925年10月大東出版社創立者、浄閑寺第24世岩野真雄と結婚。同11月仏教学者・高楠順次郎に師事する。1930年1月與謝野寛・晶子夫妻に師事し、新詩社同人となる。1942年9月與謝野晶子のあとを受け、文化学院にて短歌を指導。『明星』の後継誌『浅間嶺』を主宰。1948年1月法学者であり仏教研究者であった小野清一郎の聖典講座に参加。1968年夫の岩野真雄が死去、大東出版社の代表となる。
下村 三郎(しもむら かずお、1903年1月2日 - 198… 下村 三郎(しもむら かずお、1903年1月2日 - 1980年8月4日)は。日本の裁判官、弁護士。最高裁判所判事を務めた。東京都出身。 1920年、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業[要出典]。附属中学の同級生には、市原豊太(元獨協大学学長)、菊池正士(物理学者)、坪井忠二(東京大学名誉教授)、中島健蔵(フランス文学者)などがいた[要出典]。 旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部を卒業[要出典]。 裁判官生活と司法省への出向を2度繰り返した後、松江地方裁判所所長、東京高等裁判所判事、最高裁判所事務総長、仙台高等裁判所長官、東京高等裁判所長官を経る。東京高裁判事時代にチャタレイ事件で一審無罪を有罪に逆転させた。
神田 健治(かんだ けんじ、1903年〈明治36年〉1月2日… 神田 健治(かんだ けんじ、1903年〈明治36年〉1月2日 - 1958年〈昭和33年〉1月22日)は、愛知県宝飯郡神ノ郷村(現・蒲郡市)出身の農業技術者・政治家。愛知県議会議員(2期)。蒲郡みかんの発展に貢献した。 1903年(明治36年)1月2日に愛知県宝飯郡神ノ郷村(現・蒲郡市)に生まれ、愛知県立蒲郡農学校(現・愛知県立蒲郡高等学校)を卒業した。 蒲郡におけるウンシュウミカン栽培の発展に傾注し、1933年(昭和8年)には母樹園(現・愛知県農業総合試験場蒲郡支所)の設立に関与した。また、1933年(昭和8年)には神ノ郷に農業用ため池の白龍池が造成されたが、神田はこの難事業の会計係を担っている。
江家 義男(こうけ よしお、1903年〈明治36年〉1月2日… 江家 義男(こうけ よしお、1903年〈明治36年〉1月2日 - 1958年〈昭和33年〉5月11日)は、日本の法学者。北海道出身。専門は刑法、刑事訴訟法。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
鳴瀬 恒太郎(なるせ つねたろう、1903年〈明治36年〉1… 鳴瀬 恒太郎(なるせ つねたろう、1903年〈明治36年〉1月1日 - 1976年〈昭和51年〉)は、日本の哲学者であり言語学者でもある。関東学院大学等の大学講師も努めた。岡山県高梁市出身。 1903年(明治36年)岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)に生れる。地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、同期には、京都大学医学部名誉教授になる三宅儀がいる。1920年(大正9年)3月に同校を卒業。同年旧制第六高等学校へ入学する。1924年(大正13年)3月に卒業し、京都帝国大学文学部哲学科へ入学。 その後、1927年(昭和2年)3月に京大を卒業し、そのまま京都帝国大学大学院文学研究科宗教学専攻科へ進学する。
南雲 正朔(なぐも せいさく、旧姓・鳥山、1903年(明治3… 南雲 正朔(なぐも せいさく、旧姓・鳥山、1903年(明治36年)1月1日 - 1954年(昭和29年)4月7日)は、日本の弁護士、政治家。立憲民政党所属の衆議院議員で大東亜参与官を務めた。 群馬県勢多郡横野村(現在の渋川市)に生まれる。鳥山源吉の二男。後に南雲貞三の養子となった。1926年(大正15年)に高等試験司法科に合格し、翌年に同行政科に合格した。1928年(昭和3年)に中央大学法学部を卒業し、弁護士を開業した。 1936年(昭和11年)、民政党公認で第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。その後3回連続当選を果たした。その間、鈴木貫太郎内閣で大東亜参与官を務めた。 戦後、公職追放となり、追放解除後の1952年の第25回衆議院議員総選挙に改進党から立候補したが、落選した。
相川 広秋(あいかわ ひろあき、1903年(明治36年)1月… 相川 広秋(あいかわ ひろあき、1903年(明治36年)1月1日 - 1962年(昭和37年)1月27日)は、昭和期の日本の水産学者。 1925年(大正14年)、東京帝国大学農学部水産学科を卒業後、農林省(現 農林水産省)水産講習所・水産試験場技師を経て、1942年(昭和17年)より九州帝国大学の教授となり、同大天草臨海実験所長、長崎大学教授、水産庁調査研究部長、津屋崎水産実験所長を兼任。その他、中央漁業調整審議会委員、日本学術会議会員などを歴任した。プランクトンの研究に従事し、国内の水産資源学の発展に尽力した。1938年(昭和13年)、「日本産短尾甲殻類ノ幼形ニ関スル研究」で農学博士。1949年(昭和24年)5月31日、熊本県に昭和天皇の戦後巡幸が行われた際には、九州大学付属天草臨海実験所の所長を務めており、昭和天皇に無脊椎海棲動物標本の説明役を担った。
千明 康(ちぎら やすし、1903年1月1日 - 1986年… 千明 康(ちぎら やすし、1903年1月1日 - 1986年7月19日)は、日本の実業家、馬主、競走馬生産者。株式会社丸沼温泉ホテル会長、千明牧場代表を務めた。 1903年1月1日、群馬県利根郡片品村出身。千明賢治の長男。旧制沼田中学校、旧制新潟高等学校を経て東京帝国大学農学部林学科に進学し、1930年に卒業。大学院で2年間学んだのち南満洲鉄道に入社し、1937年退社。この間1936年に日光華厳滝エレベーター株式会社、株式会社丸沼温泉ホテル各社長に就任。また1949年6月より日光国立公園観光株式会社社長に就任し、1950年8月に辞任するまで同職に在任。このほか群馬官材事業協会、国有林材生産組合、群馬県養鱒漁業協同組合などで要職を務めた。
内田 一郎(うちだ いちろう、1903年1月1日 - 198… 内田 一郎(うちだ いちろう、1903年1月1日 - 1983年6月9日)は、日本の経営者。広島県出身。 1922年に東京歯科医学専門学校を中退し、1923年に中国新聞社に入社。1952年に中国放送に転じ、1958年に取締役に就任し、1959年10月に常務、1968年10月に専務を経て、1970年5月から1973年5月までに社長を務めた。 1973年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1983年6月9日結腸腫瘍のために死去。80歳没。
雨宮 庸蔵(あめみや ようぞう、1903年〈明治36年〉1月… 雨宮 庸蔵(あめみや ようぞう、1903年〈明治36年〉1月1日 - 1999年〈平成11年〉12月2日)は、日本の編集者。 山梨県南巨摩郡鰍沢町(現・富士川町)生まれ。早稲田大学社会哲学科卒。在学中から、早稲田の先輩である嶋中雄作宛に毎月『中央公論』の精細な批評を書き送り、1928年(昭和3年)中央公論社に入社、1929年(昭和4年)7月『中央公論』編集長に就任。谷崎潤一郎を担当し、1932年(昭和7年)出版部長に転じる。1934年(昭和9年)より『谷崎潤一郎訳源氏物語』を担当し、山田孝雄に校閲を頼む傍ら、谷崎との相談で皇室に関する部分の削除を決めた。 1937年『中央公論』編集長に復帰するも、1938年(昭和13年)同誌3月号に石川達三「生きてゐる兵隊」を掲載したことで石川とともに刑事告発され、責任をとって退社。
佐藤 慶二(さとう けいじ、1903年1月1日 - 1998… 佐藤 慶二(さとう けいじ、1903年1月1日 - 1998年6月4日)は、日本の哲学者、早稲田大学名誉教授。 岩手県西磐井郡花泉町(現・一関市)出身。早稲田大学哲学科卒業。1975年まで早大教授。1998年、肺炎のため死去。
穐田 弘志(あきた ひろし、1903年(明治36年)1月1日… 穐田 弘志(あきた ひろし、1903年(明治36年)1月1日 - 1969年(昭和44年)2月28日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大佐。陸士36期(騎兵、優等)・陸大46期。 岡山県岡山市出身(福岡県とも)。広島陸軍幼年学校を経て1924年(大正13年)7月、陸軍士官学校(36期)を優等卒業し、騎兵第4連隊附となる。陸軍騎兵学校も優等卒業し、陸士教官を経て陸大に入学。卒業後は原隊復帰したが、日中戦争勃発後は北支那方面軍参謀。駐独武官輔佐官在任中の1940年12月から、山下奉文陸軍中将を団長とする独伊軍事使節団に随行し、ドイツでの新兵器開発状況について視察した。帰国後は参謀本部ドイツ班長。独ソ戦直前、駐日武官のアルフレート・クレッチマー大佐にソ連軍の情報を渡した疑いが当時武官輔佐官のフリッツ=ユリウス・フォン・ペータースドルフ中佐の証言にあり、のち極東国際軍事裁判では「一度だけソ連軍の動向について尋ねられたことがあったためロシア班に持ち込んだものの、確証が持てないため「よく分からない」と回答した」と答弁している。
加賀山 之雄(かがやま ゆきお、1902年(明治35年)12… 加賀山 之雄(かがやま ゆきお、1902年(明治35年)12月30日 - 1970年(昭和45年)8月7日)は、昭和期の鉄道官僚、政治家。位階は正三位。 第2代日本国有鉄道総裁(在任1949年-1951年)、参議院議員。 福井県大野郡大野町(現在の大野市)生まれ。大野中学、一高を経て、1927年(昭和2年)東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業し、鉄道省に入省した。 1932年(昭和7年)10月17日に十河信二の娘と結婚。 その後、運輸省鉄道総局長官などを経て1949年(昭和24年)6月1日の国鉄発足時、副総裁に就任する。当初は総裁の予定だったが、GHQが「戦中にベルリンの滞在が長かった」として難色を示し、アメリカ視察の経験があり、GHQが米国通と評価していた下山定則が初代総裁となった。
斎藤 忠(さいとう ちゅう、1902年(明治35年)12月2… 斎藤 忠(さいとう ちゅう、1902年(明治35年)12月29日 - 1994年(平成6年)1月12日)は日本の国際政治評論家、軍事評論家、ジャーナリスト。大日本言論報国会常務理事、『ジャパンタイムズ』論説主幹等を歴任した。尾浜惣一の筆名で翻訳も行っている。 考古学者の斎藤忠(さいとう ただし)は同姓同名の別人である。 1902年(明治35年)12月29日、新潟県に生まれる。本籍地は東京市麹町区富士見町二丁目(現在の千代田区九段南)。 1928年(昭和3年)、東京帝国大学文学部英文科を卒業、大学院に進学し1930年(昭和5年)4月に2年の課程を修了、1933年(昭和8年)4月まで在籍。大学院での研究題目は「文芸復興期以後ノ欧羅巴ニ於ケル浪漫精神ノ研究」。
富山 小太郎(とみやま こたろう、1902年(明治35年)1… 富山 小太郎(とみやま こたろう、1902年(明治35年)12月28日 - 1972年(昭和47年)8月23日)は、日本の物理学者。理論物理学を専門とした東京物理学校、早稲田大学の各教授である。その著作や『科学』編集主任としての活動を通じ「現代物理学の紹介者、解説者」であった。 福島県喜多方町に生まれる。幼時に父が日露戦争で戦死し、母の養育を受けた。母方の祖父は喜多方事件の中心人物の一人で、のち県会副議長を務めた中島友八である。会津中学4年修了、二高理科甲類を経て、1925年(大正14年)3月に東京帝国大学を卒業。堀内寿郎は二高、中谷宇吉郎、三石巌、和達清夫は理学部物理学科の同級生であった。 同年4月から翌々年3月まで松本高校の講師、教授を務め、物理学を担当した。
井植 歳男(いうえ としお、英語:Toshio Iue, 1… 井植 歳男(いうえ としお、英語:Toshio Iue, 1902年12月28日 - 1969年7月16日)は、日本の実業家。三洋電機株式会社の創業者。松下電気器具製作所(松下電器産業を経て、現・パナソニック)の創業メンバーで、専務取締役を務めた。 兵庫県津名郡浦村(現:淡路市浦字井上浜)に井植清太郎の長男として生まれる。生家は代々自作農で、かなり裕福だったが、父清太郎は百姓を嫌い、船に乗っていた。「清光丸」という千石船をもち大阪、九州、朝鮮あたりまででかけて自家貿易をしていた。 13歳の時、清太郎が急死し、後を継いで叔父の船で船乗りになったものの、石灰岩を積んで大阪港から安治川を上って西九条の石灰工場の下に着いた際に、乗っていた叔父の船が東京倉庫(現・三菱倉庫)の爆発に巻き込まれて炎上沈没、歳男らは浦へ命からがら逃げ帰る。
畦地 梅太郎(あぜち うめたろう、1902年12月28日 -… 畦地 梅太郎(あぜち うめたろう、1902年12月28日 - 1999年4月12日)は、日本の版画家。平塚運一らに師事した。山岳風景を題材とした木版画作品を多数発表し、「山の版画家」として知られる。画文集の出版や装丁、挿画などの分野でも活躍した。愛媛県北宇和郡二名村(現・宇和島市三間町)出身。 1937年夏に軽井沢へ出かけ浅間山に魅せられ、山を制作の主題に定めて山の風景を描いた作品を多数発表した。戦争中の満州への単身赴任などを経て、第二次世界大戦後は「山男」シリーズを発表していく。右手親指のけが、大やけどの後は家族をテーマにした作品を多く制作した。 1902年12月28日、愛媛県北宇和郡二名村(現・宇和島市三間町)に生まれた。
太田 敬三(おおた けいぞう、1902年12月27日 - 1… 太田 敬三(おおた けいぞう、1902年12月27日 - 1996年4月1日)は、日本の医学者、東宮侍医。専門は、小児科学。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)出身。旧制長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、旧制松本高等学校理科を経て、1926年東京帝国大学医学部医学科卒業。 1926年東大医学部薬理学教室に入り、1927年小児科副手となり、外来診察所医長、1934年医学部附属病院小児科医長兼講師、1937年宮内省侍医寮勤務を経て、1945年東京医学歯学専門学校(現・東京医科歯科大学)講師、のち教授。1949年初代東京医学歯学専門学校附属医院国府台分院長。1956年東京医科歯科大学医学部附属病院長。
栗原 善夫(くりはら よしお、1902年〈明治35年〉12月… 栗原 善夫(くりはら よしお、1902年〈明治35年〉12月26日 - 1977年〈昭和52年〉11月21日)は、日本の皮膚科学者、皮膚科医。医学博士。大阪医科大学名誉教授、日本皮膚科学会名誉会員。趣味は蝶の収集。 新潟県西蒲原郡味方村大字西白根(現 新潟市南区西白根)の白根尋常高等小学校訓導・栗原九十九の長男として出生。1908年(明治41年)4月の父の吉田尋常高等小学校への異動に伴って新潟県西蒲原郡吉田村(現 燕市)に転居。 吉田尋常高等小学校を経て、1921年(大正10年)3月に新潟中学校を卒業、1925年(大正14年)3月に新潟高等学校を卒業、1930年(昭和5年)3月に京都帝国大学医学部医学科を卒業。
山県 四郎(やまがた しろう、1902年12月26日 - 1… 山県 四郎(やまがた しろう、1902年12月26日 - 1989年8月2日)は、日本の経営者。三菱金属鉱業社長、会長を務めた。山口県出身。 1927年に東京帝国大学工学部冶金学科を卒業し、同年4月に三菱鉱業に入社。1950年4月に太平鉱業取締役に就任し、1956年6月に三菱金属鉱業常務を経て、1960年3月には社長に就任。1967年5月に会長に就任し、1971年11月には相談役に就任。1971年11月から1983年6月までには三菱原子力燃料社長を務め、日本鉱業協会会長も務めた。 1963年に藍綬褒章を受章し、1973年に勲二等瑞宝章を受章。 1989年8月2日心不全のために死去。86歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
桑原 鶴(くわばら つる、1902年〈明治35年〉12月25… 桑原 鶴(くわばら つる、1902年〈明治35年〉12月25日 - 1969年〈昭和44年〉7月28日)は、日本の外交官・文筆家。外交官としてはエジプト王国代理公使などを勤めた。外務省内にあって日独防共協定締結に反対し、太平洋戦争の無条件降伏による敗戦を予見して講和による終結を唱えたことで知られる。戦後は外務省を退官し在野で著述活動を行った。 群馬県利根郡川場村門前に生まれる。川場村尋常小学校を経て、旧制沼田中学校(現在の群馬県立沼田高等学校)から第一高等学校に進み、東京帝国大学法学部に入学。1924年高等文官試験外交科、翌1925年同行政科に合格。 1926年に外務省入省。イタリアや青島で在勤の後、1936年に公使館三等書記官としてアフガニスタンに赴任。
彦坂 忠義(ひこさか ただよし、1902年12月25日 - … 彦坂 忠義(ひこさか ただよし、1902年12月25日 - 1989年3月27日)は、日本の原子核物理学者。新潟大学名誉教授。愛知県渥美郡老津村(現・豊橋市)出身。理学博士(東北大学、1950年)。 長男は社会評論家、翻訳家、社会運動家の彦坂諦。四男は物理学者の彦坂正道。岳父(妻の父)は西洋史学者の阿刀田令造。 愛知県出身。旧制愛知県立第四中学校を経て、旧制第二高等学校を卒業後、1923年に東北帝国大学理学部物理学科に入学した。1926年に同大学を卒業し、当時の同大学教授高橋胖のもとで助手を務めた。1934年に原子核の内部構造を提唱し、当時広く考えられていたニールス・ボーアの液滴模型とは異なった今日殻模型と呼ばれるものに近い模型を発表したが、広く受け入れられることはなかった。
玉井 浅一(たまい あさいち、1902年12月25日 - 1… 玉井 浅一(たまい あさいち、1902年12月25日 - 1964年12月10日)は、日本の海軍軍人。海兵52期。最終階級は海軍大佐。 1902年12月25日愛媛県で玉井熊太郎の息子として生まれる。松山中学卒業後、1921年海軍兵学校52期に入学、1924年(大正13年)7月24日、海軍兵学校卒業、少尉候補生。1925年(大正14年)12月、海軍少尉任官。1927年12月中尉。1929年(昭和4年)11月飛行学生第19期生卒業、大村航空隊付。 1930年11月空母「赤城」乗組。1930年12月海軍大尉。1931年10月空母「加賀」乗組。1932年11月横須賀航空隊付。1934年2月空母赤城分隊長。
外村 繁(とのむら しげる、1902年〈明治35年〉12月2… 外村 繁(とのむら しげる、1902年〈明治35年〉12月23日 - 1961年〈昭和36年〉7月28日)は、日本の小説家。本名は外村 茂(とのむら しげる)。東京帝国大学経済学部卒。出自である近江商人の世界を客観的に描いた『草筏』で注目され、『筏』『花筏』と共に長編三部作を成して高く評価された。『落日の光景』『澪標』は私小説の極致と評される。 滋賀県神崎郡南五個荘村金堂(現・東近江市五個荘金堂町)出身。金堂は近世から近代にかけて近江商人発祥地として栄えた土地である。外村家も江戸時代から代々続く木綿問屋で、茂は外村吉太郎の三男として生まれ、保守的な環境で育つ。滋賀県立膳所中学校卒業。第三高等学校文科甲類卒業。
伊達 定宗(だて さだむね、1902年(明治35年)12月2… 伊達 定宗(だて さだむね、1902年(明治35年)12月22日 - 1955年(昭和30年)3月17日)は、日本の華族、造園家、園芸家。吉田伊達家12代当主。旧名は定(さだ)。 東京生まれ、子爵伊達宗定の二男で、前当主の子爵伊達宗起の弟。伊達定清、伊達定継の父。 1925年(大正14年)東京農業大学本科卒業後、匠生として宮内省内匠寮工務課庭園係に勤務した。1929年(昭和4年)に宮内技手補、次いで1933年(昭和8年)宮内技手となった。 1934年(昭和9年)9月20日に分家したが、兄宗起が1940年に34歳で死去したことに伴い本家に復籍し、1941年(昭和16年)6月16日に子爵を襲爵した。
吉岡 修一郎(よしおか しゅういちろう、1902年1月18日… 吉岡 修一郎(よしおか しゅういちろう、1902年1月18日 - 1998年)は、日本の科学評論家。 石川県生まれ。東北帝国大学理学部卒、1934年九州帝国大学法文学部卒。戦後久留米大学教授、1959年「人の性格に関する脳波学的研究」で久留米大学より医学博士の学位を取得。定年退官後、九州産業大学教授。 数学、医学、哲学などで多くの一般向け著作をなした。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
深津 玉一郎(ふかつ たまいちろう、1902年(明治35年)… 深津 玉一郎(ふかつ たまいちろう、1902年(明治35年)1月18日 - 1976年(昭和51年)2月22日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)、愛知県半田市長(5期)などを歴任。 愛知県出身。1925年、早稲田大学専門部法律科を卒業し、その後、コロンビア大学、ソルボンヌ大学大学院で学んた。 愛知県半田農業学校講師、文部省嘱託、満州国外交部嘱託、満州炭鉱社員、富士産業農場長を務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙おいて大選挙区の愛知県第一区で日本自由党から出馬して当選。第23回総選挙(旧愛知2区)でも当選し、衆議院議員を連続二期務めた。この間、日本自由党総務、同渉外部副部長、同政調会鉱工業委員長、民主自由党常任総務などを務めた。
英 修道(はなぶさ ながみち、1902年1月17日 - 19… 英 修道(はなぶさ ながみち、1902年1月17日 - 1994年9月9日)は、日本の国際政治学者。学位は、法学博士(東京帝国大学・1945年)(学位論文「中華民国に於ける列国の条約権益」)。慶應義塾大学名誉教授。1975年勲三等旭日中綬章受章。 東京生まれ。1926年慶應義塾大学法学部卒業。1945年「中華民国に於ける列国の条約権益」で東京帝国大学より法学博士の学位を取得。慶應義塾大学法学部助教授、教授、1968年定年、名誉教授。1968-1972年日本国際政治学会理事長。1975年勲三等旭日中綬章受勲。 長男は医学博士の英清道(慶應義塾大学医学部卒)。次男は外交官の英正道(慶應義塾大学経済学部卒)。
篠原 虎一(しのはら とらかず、1902年(明治35年)1月… 篠原 虎一(しのはら とらかず、1902年(明治35年)1月14日 - 1980年(昭和55年)5月30日 )は、日本における西洋音楽黎明期のヴァイオリニスト、音楽教育者。指揮者としても活躍した。芳春院(まつ、前田利家正室)の生家・篠原家出身で、先祖は篠原長良(大学、前田利家の実子篠原長次の次男)に遡る。 1921年(大正10年)、金沢市で第1回演奏会を開く。大正時代に、イタリア人、フランチェスコ・フザリオ(ヴァイオリニスト・トリノ音楽院教授)、ロシア人、ミハエル・ウェックスラー(アウアー門下のヴァイオリニスト・サンフランシスコ音楽院教授)、昭和時代にはドイツ人、ウィリー・フライ(ヴァイオリニスト、16歳でメンデルスゾーン賞受賞・芸大教授)に師事。
渡辺 男二郎(わたなべ だんじろう、1902年(明治35年)… 渡辺 男二郎(わたなべ だんじろう、1902年(明治35年)1月14日 - 1980年(昭和55年)11月20日)は、日本の内務・警察官僚。最後の官選宮城県知事。 現在の広島県呉市出身。渡辺逸太郎の二男として生まれる。第三高等学校を卒業。1925年、東京帝国大学法学部を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年5月、内務省に入省し、北海道庁属となる。 1929年8月、地方警視として青森県警察部勤務となる。さらに、山形県警察部、福井県警察部で勤務。1935年5月、地方事務官として三重県勤務となり、さらに東京府に移る。1939年4月、内閣東北局書記官に発令され、山口県経済部長、和歌山県内務部長、宮城県内務部長などを歴任。
仲内 憲治(なかうち けんじ、1902年(明治35年)1月1… 仲内 憲治(なかうち けんじ、1902年(明治35年)1月12日 - 1971年(昭和46年)2月10日)は、昭和期の外交官、教育者、政治家。位階は従三位。 衆議院議員(2期)。在アフガニスタン日本大使を務めた。 千葉県海上郡、後の銚子市で生まれる。1919年(大正8年)銚子商業学校(現千葉県立銚子商業高等学校)を卒業。中央大学専門部法科で学ぶ。三井物産を経て、1922年(大正11年)外務省に入省し外務書記生に任官。1929年(昭和4年)10月、第38回高等試験外交科試験に合格。1930年(昭和5年)6月、アメリカ合衆国に派遣されクラーク大学で学ぶ。以後、外務属、外交官補、領事官補、外務事務官、領事、駐タイ国一等書記官、外務書記官、終戦連絡中央事務局連絡官などを歴任し、外務省政務局第四課長で退官した。
渡辺 要(わたなべ かなめ、1902年1月11日 - 197… 渡辺 要(わたなべ かなめ、1902年1月11日 - 1971年8月21日)は、日本の建築学者。
古沢 勘兵衛 (ふるさわ かんべえ、1902年(明治35年)… 古沢 勘兵衛 (ふるさわ かんべえ、1902年(明治35年)1月10日 - 1973年(昭和48年)5月2日)は、日本の柔道家(講道館9段、大日本武徳会教士)。元朝鮮総督府柔道教官。 持ち前の怪力を武器に全日本選士権大会で優勝2度、準優勝1度の成績を残したほか昭和天覧試合にも2度出場した実績を有す、戦前を代表する柔道家の1人である。 1902年(明治35年)1月10日に栃木県芳賀郡益子町本沼に生まれる。中学は地元の栃木県立旧制真岡中学校(現・栃木県立真岡高等学校)に進学し、1920年(大正9年)に講道館へ入門すると翌21年(大正10年)には当時中学生としては珍しかった初段に列せられた。卒業後は柔道の専門家を志して大日本武徳会武道専門学校 (旧制)に進学。
山口 文象(やまぐち ぶんぞう、男性、1902年1月10日 … 山口 文象(やまぐち ぶんぞう、男性、1902年1月10日 - 1978年5月19日)は、1930年代から60年代にかけて活躍した、近代日本建築運動のリーダーのひとりであり、モダニズム建築デザインと同時に和風建築の名手であった建築家。 東京・浅草生れ。祖父は宮大工、父は清水組(現・清水建設)の大工棟梁。1915年、親の反対に遭い府立一中(現 都立日比谷高校)入学翌日に退学を余儀なくされ、東京高等工業学校附属職工徒弟学校木工科大工分科入学(現 東京工大附属高校)。同期には横河工務所で構造技術者として活躍し、山口の代表作である日本歯科医学専門学校付属医院の構造設計も担当した田中正蔵らがいる。1918年、東京高等工業学校附属職工徒弟学校を卒業し、父の仕事を継ぐべく清水組(現:清水建設)に入社、名古屋の工場や銀行の工事現場に配属された。
宮城 仁四郎(みやぎ じんしろう、1902年1月10日 – … 宮城 仁四郎(みやぎ じんしろう、1902年1月10日 – 1997年12月20日)は、日本の経営者である。第二次世界大戦後の沖縄において沖縄機械製塩、大東糖業、琉球煙草、琉球セメントなど多数の企業を設立し、オリオンビールの具志堅宗精、国場組の国場幸太郎、大城組の大城鎌吉らとともに「沖縄財界四天王」に数えられる。その功績は「沖縄の産業復興の父」「戦後沖縄の混迷期脱出を象徴する代表的な経済人」などと評される。 宮城仁四郎は1902年(明治35年)1月10日に沖縄県国頭郡大宜味村字根路銘で、父・仁孝と母・ウシの間に生まれた。7人兄弟(4男3女)の末っ子であった。父の仁孝は建設業に従事しており、仁四郎は「当時としてはまずまずの生活を送っていた」と述べている。
田所 怜(たどころ さとし、1902年1月10日 - 198… 田所 怜(たどころ さとし、1902年1月10日 - 1983年11月12日)は、日本の経営者。日鉄鉱業社長を務めた。高知県出身。 1925年に京都帝国大学法学部政治学科を卒業し、1928年に八幡製鉄所に入社した。1934年に日本製鉄を経て、1946年に日鉄鉱業に転じ、1947年に取締役に就任し、1954年に常務を経て、1961年11月に副社長に就任し、1963年11月から1967年11月までに社長を務めた。 1983年11月12日老衰のために死去。81歳没。
竹村 文祥(たけむら ぶんしょう、1902年1月10日 - … 竹村 文祥(たけむら ぶんしょう、1902年1月10日 - 1987年7月15日)は、日本の医師、性科学者、文筆家、翻訳家。 青森県出身。北海道帝国大学医学部卒。1933年「実験的腸閉塞論」で北大医学博士。今裕に師事。東京都立病院に19年間勤務。東京都立大塚病院副院長、城北診療所院長。医業のかたわら、戦後は性医学について多くの随筆的著作をなした。
青木 清(あおき きよし、1902年1月9日 - 1978年… 青木 清(あおき きよし、1902年1月9日 - 1978年5月6日)は、日本の経営者。東邦ガス社長。愛知県名古屋市出身。 1927年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に東京ガスに入社。1930年4月に東邦ガスに転じ、同年10月に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1964年8月に社長に就任。 1964年11月に藍綬褒章を受章し、1972年11月に勲二等旭日重光章を受章。。 1978年5月6日急性心筋梗塞のために死去。76歳没。