久保 通猷(くぼ つうゆう、文久3年9月16日(1863年1… 久保 通猷(くぼ つうゆう、文久3年9月16日(1863年10月28日) – 昭和12年(1937年)5月2日)は、日本および同統治下台湾の官僚、政治家、実業家。衆議院議員(立憲政友会→中正会)。福岡県若松町長。 長門国厚狭郡厚西村(現在の山陽小野田市)出身。小学校卒業後、独学で文学、政治、経済、法律を学び1895年(明治28年)、高等文官試験に合格し、内務省、台湾総督府、地方官として勤務した。退官後は1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し当選、そのほか若松町長も務めた。その他に私立興風中学校理事長を務め、その後大連に渡り、大連大正米製造合資会社の代表を務めた。
黒田 重兵衛(くろだ じゅうべえ、1863年10月27日(文… 黒田 重兵衛(くろだ じゅうべえ、1863年10月27日(文久3年9月15日) - 1952年(昭和27年)3月1日)は、明治から昭和時代前期の政治家、銀行家。衆議院議員(1期)。前名は孝造。 伊豆国田方郡、のちの静岡県田方郡上狩野村(天城湯ケ島町を経て現伊豆市)に生まれ、のち静岡県賀茂郡下河津村(現河津町)に住む。足立清次郎の三男として生まれ、先代重兵衛の養子となり、1895年(明治28年)家督を相続し前名を改めた。下河津村農会長、同村会議員、賀茂郡会議員、静岡地方森林会議員、静岡県会議員を歴任したほか、静岡農工銀行監査役、下田銀行頭取、下田自動車会社取締役を務めた。 1924年(大正13年)5月の第15回衆議院議員総選挙では静岡県第10区から憲政会所属で出馬し当選。
関矢 橘太郎(關矢、せきや きちたろう / きつたろう、18… 関矢 橘太郎(關矢、せきや きちたろう / きつたろう、1863年10月26日(文久3年9月14日)- 1912年(明治45年)4月10日)は、明治期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、新潟県北魚沼郡下条村長。諱・忠和、号・雙柳。 越後国魚沼郡並柳新田(新潟県北魚沼郡並柳村、下条村、広瀬村、広神村並柳を経て現魚沼市)で、素封家・関矢孫左衛門の長男として生まれた。 1881年(明治14年)地域の冬期副業として機織工場(殖産会社)を設立して頭取に就任。1883年(明治16年)同志と益友会を組織し教育補修、知識の交換、学術の錬磨を図った。1897年(明治30年)小出町に病院を設立。1899年(明治32年)小千谷石油の設立に参画し取締役に就任。
黒岩 涙香(くろいわ るいこう、文久2年9月29日〈1862… 黒岩 涙香(くろいわ るいこう、文久2年9月29日〈1862年11月20日〉- 大正9年〈1920年〉10月6日)は、日本の小説家、思想家、作家、翻訳家、ジャーナリスト。本名は黒岩 周六(くろいわ しゅうろく)。兄は黒岩四方之進。ペンネームの由来は、黒岩が愛読していた『紅涙香』に由来する。黒岩涙香のほか、香骨居士、涙香小史、冷眼士等、歯月生などの筆名を用いた。号は古概、民鉄、正調庵、黒岩大。執拗な取材を行うことから「マムシの周六」というあだ名がつけられた。翻訳家、作家、記者として活動し、『萬朝報』を創刊した。戒名は黒岩院周六涙香忠天居士。 土佐国安芸郡川北村大字前島(現在の高知県安芸市川北)で土佐藩郷士・黒岩市郎の子として生まれる。
荒川 義太郎(あらかわ よしたろう、1862年 11月19日… 荒川 義太郎(あらかわ よしたろう、1862年 11月19日(文久2年9月28日)- 1927年(昭和2年)4月1日)は、日本の内務官僚・政治家。官選県知事、横浜市長、貴族院議員、錦鶏間祗候。 荒川利貞の長男として武蔵国豊島郡に生まれる。1884年、東京大学法学部を卒業し、内務省に入り御用掛となる。 1886年8月、岡山県書記官に就任。以後、内務省参事官、富山県・群馬県・神奈川県の各書記官、兼臨時横浜築港局次長などを歴任。 1897年11月、35歳の若さで鳥取県知事に就任。産業振興、賀露港修築を推進した。1899年5月、三重県知事に転じた。1900年1月、香川県知事となり、同年10月には長崎県知事に転じた。
大竹 多氣(おおたけ たけ/おおたけ たき、文久2年10月7… 大竹 多氣(おおたけ たけ/おおたけ たき、文久2年10月7日(1862年11月16日) - 大正7年(1918年)7月19日)は、日本の工学者。 専門は繊維工学。日本の染色技術、毛織物工業の近代化に貢献。学位は、工学博士。千住製絨所長を経て、米沢高等工業・桐生高等染織学校の初代校長を歴任。位階勲等は従三位勲二等。ペンネームは大竹美鳥、みどり、雅号碧玉。 父は会津藩士松田俊蔵である。会津時代の松田家は御薬園付近にあったが、藩の蝦夷地支配に従って同地に赴き、大竹は現在の北斗市に生まれた。四男であった大竹は慶応3年(1867年)に同藩士大竹作右衛門元一の養子となる。長兄精介は鳥羽・伏見の戦いに参戦し、箱館戦争を戦った。
久芳 直介(くば なおすけ、1862年11月14日(文久2年… 久芳 直介(くば なおすけ、1862年11月14日(文久2年9月23日) - 没年不詳)は、明治時代の日本の官吏、官僚。台湾総督府税務官、台湾土地調査局事務官兼監督官、朝鮮総督府事務官・総務局人事課長、埼玉県司税官を務めた。 長門国厚狭郡二俣瀬村(現在の山口県宇部市)で生まれる。 大阪・英和学舎(現在の立教大学)を卒業した。 1886年、大蔵省御用掛に任命され、埼玉県収税属、埼玉県大蔵属を経て、1898年、埼玉県司税官に任命される。 1902年、台湾土地調査局事務官兼監督官に就任したのち、台湾総督府税務官を務める。 1904年、日韓協約が成立するとすぐに目賀田種太郎財政顧問補佐として韓国政府に招聘される。
森田 庄兵衛(もりた しょうべえ、1862年11月12日(文… 森田 庄兵衛(もりた しょうべえ、1862年11月12日(文久2年9月21日)- 1924年(大正13年)11月5日)は、明治から大正期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 紀伊国伊都郡丁ノ町村(和歌山県伊都郡妙寺村、妙寺町を経て現かつらぎ町)で、酒造業・森田正治の長男として生まれる。1879年(明治12年)に上京して慶應義塾で学び、1882(明治15年)に帰郷した。父の隠居に伴い1883年(明治16年)4月に家督を相続した。 その後、英語、数学、漢学、修身、習字を教授する伊都郡自助私学校を設立し、夜間部も設け、英語教師に英文学者河島敬蔵を招き、地域の子弟の育成に貢献したが、1887年(明治20年)に閉校した。
西田 千太郎(にしだ せんたろう、1862年11月9日(文久… 西田 千太郎(にしだ せんたろう、1862年11月9日(文久2年9月18日) - 1897年(明治30年)3月15日)は、島根県出身の日本の教育者。小泉八雲が最も信頼を寄せた人物として知られる。 文久2年(1862年)、現在の島根県松江市雑賀町の西田家で長男として生まれた。父西田平兵衛は松江藩士で、明治維新後は県庁で働いた。 1876年(明治9年)5月に雑賀南小学校を卒業、同年9月に教員伝習校変則中学科(旧制松江中学校)に入学した。同窓には岡本金太郎、本庄太一郎、志立鉄次郎、長谷川辰之助などがいた。成績は常に首席であったが、1880年(明治13年)9月に同校を中退しすぐに授業手伝となった。翌1881年(明治14年)1月には教諭試補に任ぜられた。
串本 康三(くしもと こうぞう、1862年11月5日(文久2… 串本 康三(くしもと こうぞう、1862年11月5日(文久2年9月14日) - 1919年(大正8年)1月21日)は、日本の政治家、衆議院議員(4期)。勲等は勲四等。 広島県安芸郡奥海田村(現・海田町)出身。奥海田村会議員、広島市会議員、広島県会議員となる。また、広島汽船、関西皮革各(株)取締役、広島電気軌道(株)監査役を務めた。 1898年(明治31年)の第6回衆議院議員総選挙において広島1区から憲政党公認で立候補して当選した。1902年(明治35年)の第7回衆議院議員総選挙で落選。1903年(明治36年)の第8回衆議院議員総選挙において立憲政友会公認で立候補して復帰した。1904年(明治37年)の第9回衆議院議員総選挙で落選。
嶺山 時善(みねやま ときよし、1862年11月4日(文久2… 嶺山 時善(みねやま ときよし、1862年11月4日(文久2年9月13日) - 1930年(昭和5年)10月28日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 鹿児島県出身。鹿児島師範学校卒(年代不明)。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において大島選挙区から無所属で立候補したが落選した。1903年の第8回衆議院議員総選挙で政友倶楽部公認で立候補して初当選した。1904年の第9回衆議院議員総選挙では無所属で立候補して再選した。衆議院議員を2期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙では大同倶楽部から立候補したが落選した。以後の立候補はなく、1930年に死去した。
釜屋 忠道(かまや ちゅうどう、1862年11月4日(文久2… 釜屋 忠道(かまや ちゅうどう、1862年11月4日(文久2年9月13日) - 1939年(昭和14年)1月19日)は、日本の海軍軍人。手旗信号の改良で功績があり、日清戦争では第一遊撃隊参謀、日露戦争では「龍田」「佐渡丸」の艦長として歴戦した海軍中将である。旧名は源五郎。 幕末の米沢に生まれる。海軍兵学校11期を26名中15番で卒業した。村上格一、川島令次郎らが同期生である。米沢では小森沢長政の影響があり、山下源太郎(10期)、上泉徳弥(12期)、黒井悌次郎(13期)、千坂智次郎(14期)、釜屋の弟である釜屋六郎(14期、のち中将)などの海兵進学が続き、のちに米沢の海軍と呼ばれることとなる。 釜屋は水雷練習所の教官や、水雷団長などを務めた水雷を専門とする士官であった。
河内 礼蔵(かわち れいぞう、1862年11月1日(文久2年… 河内 礼蔵(かわち れいぞう、1862年11月1日(文久2年9月10日) - 1927年2月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県種子島出身。西之表納曽生まれ。1885年(明治18年)6月、陸軍士官学校(旧7期)を卒業し歩兵少尉に任官。 日露戦争に出征。遼陽会戦前の1904年(明治37年)8月、前任の吉田貞中佐の戦死により歩兵第4連隊長に就任。1905年(明治38年)3月、戦傷を受け解任。1906年(明治39年)2月、歩兵第4連隊長に復帰し、1907年(明治40年)11月、歩兵大佐に昇進。1911年(明治44年)9月、陸軍少将に進級し歩兵第15旅団長に就任。 1915年(大正4年)2月、歩兵第35旅団長に転じた。
佐藤 富十郎(さとう とみじゅうろう、1861年11月21日… 佐藤 富十郎(さとう とみじゅうろう、1861年11月21日(文久元年10月19日)- 1943年(昭和18年)8月16日)は、明治から昭和前期の養蚕家、林業家、政治家。衆議院議員。 陸奥国伊達郡、のちの福島県伊達郡小手川村(月舘町を経て現伊達市)で、佐藤長十郎の長男として生まれ、1882年(明治15年)11月に家督を相続した。漢学を修め、のち早稲田大学校外生として政治経済学を学ぶ。 養蚕について研鑽し、養蚕実修学舎を設立して指導に当たり、また各県に養蚕教師として出張した。長年、森林業に従事し、東洋木材を設立して社長に就任した。 政界では相馬郡中村町会議員に在任。相馬地方の開発に貢献した。1924年(大正13年)5月、 第15回衆議院議員総選挙(福島県第10区、憲政会公認)では、前2回落選の同情票で有力候補松本孫右衛門を破って当選し、その後、立憲民政党に所属して衆議院議員に1期在任した。
池辺 義象(いけべ よしかた、1861年11月5日(文久元年… 池辺 義象(いけべ よしかた、1861年11月5日(文久元年10月3日) - 1923年(大正12年)3月6日)は、明治・大正時代の国文学者、歌人。号は「藤園」、「知旦」。 1861年、肥後国(現・熊本県)で熊本藩士・池辺軍次の次男として生まれた。1879年(明治12年)に19歳で伊勢の神宮教院(現・皇學館大学)に入学し、神道・国史・国学を学んだ。神宮教院時代からの同期には落合直文がいた。同教院が閉鎖となると上京し、1882年に東京帝国大学文科大学古典講習科に第一期生として入学。同級生には、落合直文や関根正直がいた。1886年に卒業。東京大学の恩師であった国文学者・小中村清矩の養子となり、小中村義象を名乗る。
稲垣 満次郎(いながき まんじろう、1861年10月29日(… 稲垣 満次郎(いながき まんじろう、1861年10月29日(文久元年9月26日) - 1908年(明治41年)11月25日)は、明治時代の日本の外交官。著書で南進論を唱えたことで知られる。 肥前国松浦郡平戸(現在の長崎県平戸市)出身。父親は平戸藩士で同藩勘定奉行を務めた天野勇衛。藩立学校維新館、鹿児島私学校等を経て、1882年(明治15年)、東京大学文学部に入学。翌年東京大学明治十六年事件に巻き込まれて、英国ケンブリッジ大学ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジに留学、ジョン・ロバート・シーリーに師事する。大学では日本人クラブを設立し、英国紳士のマナーを研究した。また、大学の理事会を説得し、日本人の入学試験からギリシャ語を免除させた。
沢田 吾一(さわだ ごいち、1861年10月26日(文久元年… 沢田 吾一(さわだ ごいち、1861年10月26日(文久元年9月23日) - 1931年3月12日)は、日本の数学者、日本の数字・数学史学者。 美濃国厚見郡一色村(現・岐阜市)出身。明治15年(1881年)陸軍省御用掛となり、参謀本部測量課に勤務。1886年第一高等中学校(現・東京都立日比谷高等学校)数学授業嘱託、1887年同教師。1891年帝国大学理科大学物理学科卒。菊池大麓に師事。1896年大学院中退。1892年第四高等学校教授、96年陸軍中央幼年学校教授、97年東京高等商業学校(現・一橋大学)教授。1917年定年退官。東京帝国大学文学部国史学科に入学し、1923年、63歳で卒業。1927年大著「奈良朝時代民政経済の数的研究」を刊行した。
東条 良平(東條、とうじょう りょうへい、1860年11月2… 東条 良平(東條、とうじょう りょうへい、1860年11月22日(万延元年10月10日)- 1911年(明治44年)5月8日)は、明治期の医師、政治家。衆議院議員、千葉県会議長。 上総国市原郡山木村(千葉県市原郡八幡町山木、市原町を経て現市原市山木)で、代々医を業とした東条家で東条養仙の長男として生まれる。父は高野長英門下。嶺田士徳(楓湖)から英漢の学を学んだ。1874年(明治7年)に上京し、華岡真節に医学を学び、1877年(明治10年)8月、医術開業試験に合格し、医術内外科開業免状が交付され医師を開業した。千葉市原郡医会会頭、千葉医学会副会頭なども務めた。 1887年(明治20年)4月、八幡町会議員に選出され1889年(明治22年)7月まで在任。
服部 金太郎(はっとり きんたろう、1860年11月21日(… 服部 金太郎(はっとり きんたろう、1860年11月21日(万延元年10月9日) - 1934年(昭和9年)3月1日)は日本の実業家。服部時計店(現セイコーホールディングス)の創業者。輸入時計の販売店を開業し、のちに掛時計・腕時計の製造・販売へと事業を拡大して世界のセイコーの礎を築き、「日本の時計王」とも呼ばれる。
清水 精三郎(しみず せいざぶろう、万延元年10月25日(1… 清水 精三郎(しみず せいざぶろう、万延元年10月25日(1860年11月19日) - 昭和9年(1934年)12月5日)は、日本の外交官。駐ペルー公使。位階および勲等は従三位・勲二等。 武蔵国大里郡大幡村(現在の埼玉県熊谷市)に四分一啓次郎の二男として生まれ、清水賢良の養子となった。1890年(明治23年)に高等文官試験に合格し、外務省試補となった。1894年(明治27年)ホノルル領事官補。1895年香港領事官補。1896年(明治29年)香港二等領事。1897年(明治30年)バンクーバー二等領事。1902年(明治35年)待命。1903年(明治36年)シカゴ領事。1908年(明治41年)オタワ総領事。
松岡 鼎(まつおか かなえ、1860年11月15日(万延元年… 松岡 鼎(まつおか かなえ、1860年11月15日(万延元年10月3日) - 1934年(昭和9年)1月28日)は、松岡5兄弟(柳田國男、井上通泰、松岡静雄、松岡映丘)の長男で医師。父は儒者松岡操(約斉)。 神戸師範学校を卒業後、19歳にして昌文小学校(現在の田原小学校)の校長に就任するが、後に東京帝国大学に入学、卒業して医師資格を得、千葉県布佐町(現・我孫子市)に住む。 20歳で家督を継ぎ、近くの村出身の女性と結婚したが離婚した。原因はひとえに「小さな家」のためであった。 最も長命だった弟の柳田國男は、晩年に口述筆記の回想記『故郷七十年』において、「長兄は二十歳で近村から嫁をもらった。しかし私の家は二夫婦住めない家だった。
有賀 長雄(ありが ながお、万延元年10月1日(1860年1… 有賀 長雄(ありが ながお、万延元年10月1日(1860年11月13日) - 大正10年(1921年)5月17日)は、日本の法学者、社会学者。法学博士。文学博士。姓はあるがとも。
小林 重威(こばやし しげたけ、万延元年9月23日(1860… 小林 重威(こばやし しげたけ、万延元年9月23日(1860年11月5日) – 1917年(大正6年)2月6日)は、日本の内務官僚。山口県下関市長。 信濃国佐久郡小諸(現在の長野県小諸市)出身。1890年(明治23年)、内務属となり、県治局市町村課長、大分県参事官、福岡県参事官・内務部第一課長、同事務官・第三部長、京都府事務官・第三部長、徳島県事務官・第二部長を歴任した。1908年(明治41年)、韓国政府の応聘により全羅南道書記官に就任。 韓国併合後は下関市長に転じた。退任後、大阪市助役・港湾部長を務めた。
田部 芳(たなべ かおる、1860年11月1日(万延元年9月… 田部 芳(たなべ かおる、1860年11月1日(万延元年9月19日) - 1936年(昭和11年)11月18日)は明治から昭和期の法曹家。大審院検事・大審院部長判事等を歴任し商法起草委員として新商法成立に尽くした。滋賀県出身者として司法省法学校同期の河村譲三郎と共に最初の法学博士(博士登録番号22番)。 田部芳は、1860年11月1日((旧暦)万延元年9月19日)に彦根藩士下士の家(犬上郡彦根上藪下町)に生まれる。父田部密は桜田門外の変後彦根藩内に台頭した尊攘派下級藩士の結社である至誠組に近い立場にあり、明治維新後の藩政に関与。維新後は大和国の高市郡・葛上郡・葛下郡・忍海郡の郡長を務めると共に大阪・名古屋間の運送業を起こした。
持田 若佐(もちた / もちだ わかさ、1860年10月30… 持田 若佐(もちた / もちだ わかさ、1860年10月30日(万延元年9月17日)- 1931年(昭和6年)2月28日)は、明治から昭和初期の神職・政治家・実業家。衆議院議員。1913年(大正2年)「若狭」に改名した。 下野国都賀郡高椅村(栃木県下都賀郡絹村字高椅、桑絹村、桑絹町を経て現小山市高椅)で、持田和泉の長男として生まれる。明治元年(1868年)結城藩黌に入り和漢学を修め、栃木県中教院を終えて上京し、専修学校(現専修大学)で法律学、経済学を学んだ。 1875年(明治8年)教導職試補となり、郡吏、絹村戸長、少講義などを歴任。1885年(明治18年)高椅神社祠官に就任。1887年(明治20年)栃木県会議員に選出され4期在任し、同常置員、絹村会議員、下都賀郡会議員、同参事会員、教育諮問会員、郡徴兵参事会員、農林会特別会員、地方森林会議員、神道栃木分局顧問、神道教師尋常検定委員なども務めた。
浅井 栄凞(あさい えいき、安政6年10月28日(1859年… 浅井 栄凞(あさい えいき、安政6年10月28日(1859年11月22日) - 1931年(昭和6年)9月30日)は明治時代の日本の教育者。福井県福井中学校助教諭、済々黌教師、熊本英語学会主幹、文部省総務局詰、第五高等学校学寮掛、細川家家扶。五高時代に夏目漱石と同僚だった。 安政6年(1859年)10月28日肥後国熊本安巳橋通2丁目に浅井鼎泉の長男として生まれた。明治4年(1871年)3月古照軒国友昌に入門して漢学を学んだ。1875年(明治8年)熊本県立熊本中学校に入学し、普通学を学んだ。 1878年(明治11年)4月上京して箕作秋坪に入門し、英語を学んだ。1879年(明治12年)6月中村正直の同人社に転学し、1881年(明治14年)12月普通英語学科を卒業した。
淡島 寒月(あわしま かんげつ、本名: 淡島 寶受郎()、安… 淡島 寒月(あわしま かんげつ、本名: 淡島 寶受郎()、安政6年10月23日(1859年11月17日) - 1926年(大正15年)2月23日)は、明治時代の日本の作家、画家、古物収集家。父親は画家の淡島椿岳。長女は教育者・政治家の木内キヤウ(公立小学校校長となり第1回参議院議員選挙で参議院議員ともなった)。幕末の大富豪の伊藤八兵衛は伯父、その娘で渋沢栄一の後妻になった兼子は従姉にあたる。 広範な知識を持った趣味人であり、元禄の作家井原西鶴を再評価し、幸田露伴や尾崎紅葉などとともに文壇に紹介したエピソードで有名である。 収集家としても有名であり、住居の梵雲庵には3000あまりの玩具と江戸文化の貴重な資料があったが、関東大震災の際に全て焼失した。
塚田 啓太郎(つかだ けいたろう、1859年11月16日(安… 塚田 啓太郎(つかだ けいたろう、1859年11月16日(安政6年10月22日)- 1944年(昭和19年)1月16日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 武蔵国幡羅郡蓮沼村(のちの埼玉県大里郡明戸村、現:深谷市)で生まれる。英学、国漢学、法律学、経済学を学ぶ。 1885年、文部省中等教員検定に合格。比企横見中学校の教員を務め、大里外三郡中学校連合会議員となる。1894年、埼玉県会議員に選ばれ、所得税調査委員も務めた。 1902年8月、第7回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から立憲政友会所属で出馬して当選。第10回総選挙でも当選し、衆議院議員を二期務めた。 実業界では、1901年、深谷商業銀行を設立して頭取に就任。
上遠野 富之助(かどの とみのすけ、1859年11月13日〈… 上遠野 富之助(かどの とみのすけ、1859年11月13日〈安政6年10月19日〉 - 1928年〈昭和3年〉5月26日)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本の実業家・政治家である。 秋田県出身ながら愛知県名古屋市に移り名古屋財界で立身、名古屋商業会議所会頭や名古屋鉄道社長を務めた。政界では名古屋市会議員・同議長を歴任した。 上遠野富之助は、安政6年10月19日(新暦:1859年11月13日)、出羽国横手城下(現・秋田県横手市)に久保田藩士上遠野群吾の次男として生まれた。実家上遠野家は代々剣術・槍術師範をつとめる家であり、実兄秀忠(幼名:馬之助)も剣術家となっている。一方で富之助は生まれて5か月で実子のいない伯父・上遠野実の養子に引き取られた(養子だが戸籍上は豊の長男という扱い)。
伊藤 松宇(いとう しょうう、安政6年10月18日(1859… 伊藤 松宇(いとう しょうう、安政6年10月18日(1859年11月12日) - 昭和18年(1943年)3月25日)は俳人、古俳書収集家である。本名は半次郎、俳号は松宇・雪操居。 伊藤洗児の長男として、信濃国小県郡上丸子村(現長野県上田市)に生まれた。10代頃から俳句を作り、加部琴堂に師事する。1882年、家業の藍取引を通じて知遇を得た渋沢栄一に認められて、第一国立銀行横浜支店の調査職につき、王子製紙、渋沢倉庫などの渋沢財閥の幹部社員となった。1897年、静岡に転勤し、のちに東京に戻った。 旧来の宗匠の指導をうける句会の形にあきたらず、1890年、一高学寮舎監の片山桃雨、郵便局員の森猿男らと「椎の友社」を結成した。
石河 幹明(いしかわ かんめい、安政6年10月17日(185… 石河 幹明(いしかわ かんめい、安政6年10月17日(1859年11月11日) - 昭和18年(1943年)7月25日)は、日本のジャーナリスト。新聞『時事新報』主筆、茨城県会議員。慶應義塾理事および評議員。交詢社常議員長。徳川家評議員。千代田生命取締役。 号は碩果生(せきかせい)。福澤諭吉の伝記『福澤諭吉伝』全4巻を執筆し、大正版『福澤全集』全10巻、昭和版『続福澤全集』全7巻を編纂した。 『慶應義塾豆百科』 No.80 『福澤諭吉傳』の復刊
松村 介石(まつむら かいせき、本名読み:すけいし、1859… 松村 介石(まつむら かいせき、本名読み:すけいし、1859年11月9日(安政6年10月15日) - 1939年(昭和14年)11月29日)は、日本のプロテスタント系新宗教の指導者。植村正久、内村鑑三、田村直臣と共に、キリスト教界の四村と呼ばれた。道会の創設者。一時期養家の森本姓を名乗る。別名に市谷隠士、足堂、容膝堂主人。昆虫学者松村松年の実兄。いとこの子に橋本関雪がいる。 安政6年(1859年)に播磨国明石藩士の家に生まれる。祖父・橋本文水、父・松村如年は武士で漢学者であったため、幼少の頃より『大学』『中庸』はじめ、四書五経に親しむ。明治3年(1870年)11歳のとき上京し、安井息軒の門に入塾するが半年で辞めて神戸に帰郷する。
菊池 恭三(きくち きょうぞう、1859年11月9日(安政6… 菊池 恭三(きくち きょうぞう、1859年11月9日(安政6年10月15日)- 1942年(昭和17年)12月28日)は、明治から昭和前期の紡績技術者、実業家、政治家。大日本紡績(現ユニチカ)社長、貴族院勅選議員、工学博士。幼名・文造。 伊予国宇和郡川名津浦(愛媛県西宇和郡川上村を経て現八幡浜市川上町)で、庄屋・菊池久右衛門泰成、久子の三男として生まれる。1871年(明治4年)、一時、伊予吉田藩郡奉行・鈴木勝吉の養嗣子となり、藩校文武館で学んだ。その後、松山の勝山校などで学び、1976年(明治9年)大阪英語学校に入学。1878年(明治11年)11月、父に無断で上京したが、父の許しを得て勉学を続け、1879年(明治12年)工部大学校に入学し、予備科、機械工学科で学び1885年(明治18年)4月に卒業した。
坂本 一(さかもと はじめ、1859年11月6日(安政6年1… 坂本 一(さかもと はじめ、1859年11月6日(安政6年10月12日) - 1948年(昭和23年)11月21日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 土佐国土佐郡潮江村(現高知県高知市)で、坂本速、熊の息子として生まれた。致道館、さらに上京して山内家邸内の東京海南私塾で学んだ。 1874年(明治7年)10月、海軍兵学寮(7期)に入学。1883年(明治16年)11月、海軍少尉に任官。1890年(明治23年)1月、「海門」分隊長となり、「比叡」「金剛」「赤城」の各分隊長、「浪速」航海長、海軍大学校副官。1894年 (明治27年) 6月、「厳島」航海長となり、日清戦争に出征した。その後「鎮遠」回航委員、「葛城」副長などを経て、1896年(明治29年)4月、海軍少佐に昇進し横須賀水雷団第2水雷艇隊司令に就任した。
武田 惣角(たけだ そうかく、安政6年10月10日(1859… 武田 惣角(たけだ そうかく、安政6年10月10日(1859年11月4日) - 昭和18年(1943年)4月25日)は、日本の武術家。武号は源正義。大東流合気柔術の実質的な創始者。 以下の生い立ちは、大東流合気柔術の伝承によるものであり、各種事典、小説、漫画『王道の狗』『銀色の路』などは、大東流口伝の歴史で書かれた『武田惣角と大東流合気柔術』を引用している。 会津藩士・武田惣吉の次男として、陸奥国(現在の福島県)河沼郡会津坂下町で生まれた。母は黒河内兼規の娘・富。 惣吉は宮相撲の力士で、剣術にも秀でていた。 惣角は幼少期から父に相撲、柔術、宝蔵院流槍術を、渋谷東馬に小野派一刀流剣術を学んだ。剣術、柔術ともかなりの達人であったらしく、「会津の小天狗」と称される程の実力を持っていたが、学問には関心を示さず、いたずらが過ぎて寺子屋から追放された。
近藤 慶一(こんどう けいいち、1859年10月26日(安政… 近藤 慶一(こんどう けいいち、1859年10月26日(安政6年10月1日) - 1937年(昭和12年)3月21日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 山口県大島郡志佐出身。近藤清吉の子として生まれる。近藤家は庄屋を務めていた。1864年(元治元年)に寺子屋(永寿庵等悟和尚)へ入門。漢学などを学ぶ。1881年家督を相続する。 大島海員学校創設(1897年)および県立学校移行(1901年)に尽力する。沖浦区長、小松志佐村村会議員、山口県会議員、第6代同副議長(1903年から1904年)、第8代同議長(1904年から1907年)を務める。大島銀行頭取。朝鮮勧農株式会社、大島汽船(株)各取締役。
鷲田 土三郎(わしだ つちさぶろう、1858年11月19日(… 鷲田 土三郎(わしだ つちさぶろう、1858年11月19日(安政5年10月14日)- 1929年(昭和4年)10月27日)は、明治から昭和初期の薬剤師、実業家、政治家。衆議院議員、福井県会議長。 越前国足羽郡福井木田中町(福井県足羽郡福井木田中町、福井市木田中町を経て現:福井市西木田3丁目)で、茶商、薬種業・鷲田杏菀の長男として生まれた。1871年12月2日(明治4年10月20日)に家督を相続した。1881年(明治14年)東京大学医学部製薬学科を卒業した。 1882年(明治15年)福井県医学校教諭に就任。福井市豊(みのり)学区会議員、福井市会議員、同参事会員を務めた。1897年(明治30年)9月、福井県会議員に選出され、1903年(明治36年)9月まで2期在任し、第16代県会議長(1899年10月-1903年9月)も務めた。
隈川 宗雄(くまがわ むねお、安政5年10月13日(1858… 隈川 宗雄(くまがわ むねお、安政5年10月13日(1858年11月18日) - 1918年(大正7年)4月7日)は、日本の医学者。土木工学者(工学博士)の原龍太は実兄。 福島藩出身。藩医の原有隣の二男として生まれ、隈川宗悦の養子となった。1883年(明治16年)、東京大学医学部を卒業し、東京大学医学部第一医院当直医・東京大学御用掛となった。1884年(明治17年)から1889年(明治22年)までドイツに留学し、ベルリン大学で学んた。帰国後、駒込病院医長を経て、1891年(明治24年)に東京帝国大学医科大学教授に就任し、医化学講座を担当した。また同年に医学博士の学位を得、1908年(明治41年)に帝国学士院会員にえらばれた。
中島 鋭治(なかじま えいじ、1858年11月17日〈安政5… 中島 鋭治(なかじま えいじ、1858年11月17日〈安政5年10月12日〉 - 1925年〈大正14年〉2月17日)は、日本の土木技術者。宮城県仙台市生まれ。東京帝国大学名誉教授。工学博士、日本の近代上水道の父・近代衛生工学の父などと呼ばれる人物。駒沢給水塔(東京都世田谷区弦巻2丁目41番16号)の設計者として知られる。明治31年以降、旧東京市技師長、内務省技師、中央衛生会委員、都市計画調査会委員をつとめる。 箱根宮ノ下御用邸への給水引き込みの設計協力を行い、また東宮御所の水道施設をはじめ日本や満州の多くの近代水道施設を手がける。 1858年(安政5年)10月12日 - 仙台城下支倉通り(現宮城県仙台市青葉区支倉町)に生まれる。
島田 保之助(しまだ やすのすけ、安政5年10月12日(18… 島田 保之助(しまだ やすのすけ、安政5年10月12日(1858年11月17日) - 昭和2年(1927年)2月21日)は、衆議院議員(立憲政友会→中正会→憲政会)、ジャーナリスト。 近江国野洲郡中洲村大字新庄(現在の滋賀県守山市)出身。郷里で漢学を修めた後、京都に遊学した。1880年(明治13年)、滋賀県医学校に入学したが、翌年に東京に遊学した。東京で自由民権運動に参加し、1884年(明治17年)に自由党に入党。その後も立憲自由党の設立に尽力し、1892年(明治25年)から自由党滋賀県支部幹事を務めた。1894年(明治27年)、「淡海民報」を創刊し、1902年(明治35年)には「江州新聞」を創刊した。
大田 盛実(おおた もりざね、安政5年10月11日(1858… 大田 盛実(おおた もりざね、安政5年10月11日(1858年11月16日) - 昭和15年(1940年)8月10日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。山本権兵衛の実弟としても知られる。史料によっては太田誠実とも。 大田盛実は、安政5年(1858年)10月11日に生まれ、父は山本盛珉、兄に後の海軍大将・内閣総理大臣となる山本権兵衛がいる。盛実は開拓使生徒として若くして海軍に入り、そこで才能を見込まれた。 明治15年(1882年)に鹿児島県士族・大田休左衛門の養子となり、同年に大田家の家督を相続した。妻はヨシ(元治元年生)で、長男に大田操(明治22年(1889年)11月29日生、十五銀行新橋支店長)がいる。
勝島 仙之助(かつしま せんのすけ、安政5年10月11日(1… 勝島 仙之助(かつしま せんのすけ、安政5年10月11日(1858年11月16日) - 昭和6年(1931年)12月27日)は、日本の獣医学者。漢詩人。仙之介とも書く。号は仙坡。 備後国御調郡三原(現在の広島県三原市)出身。大阪英語学校を経て、1878年(明治11年)に駒場農学校に入学した。1882年(明治15年)、駒場農学校獣医学科を卒業。農商務省嘱託、助教授心得を経て、1887年(明治20年)に東京農林学校教授となった。1889年(明治22年)よりドイツに留学し、ベルリン高等獣医学校で学んだ。1891年(明治24年)に帰国し、帝国大学農科大学(のち東京帝国大学農学部)教授となった。1899年(明治32年)には獣医学博士の学位を受けた。
渡辺 嘉重(旧字体: 渡邊 嘉重、わたなべ かじゅう、安政5… 渡辺 嘉重(旧字体: 渡邊 嘉重、わたなべ かじゅう、安政5年10月9日 (1858年11月14日) - 昭和12年 (1937年) 2月4日)は、日本の教育者。 下総国岡田郡花島村(後の茨城県結城郡大花羽村花島→水海道市花島町、現在は常総市花島町)出身。 1883年(明治16年)、茨城県猿島郡小山村(後の同郡中川村小山→同郡岩井町小山→岩井市小山、現在の坂東市小山)に、日本で初めての子守学校を開設した。家族の人手不足から、幼い弟妹の世話をしなければならないため学校に行けない子供たちのための学校で、渡辺は、そうした子供たちが子守をしている幼い子供たちも一緒に連れてこさせ、その幼児たちも保育の観点から一緒に教育した。
吉川 類次(よしかわ るいじ、1858年11月12日(安政5… 吉川 類次(よしかわ るいじ、1858年11月12日(安政5年10月7日) - 1927年(昭和2年)8月10日)は、日本の篤農家。イネの品種改良に尽力した人物。土佐国長岡郡稲生村(現・高知県南国市)生まれ。 農業に従事するかたわら、農業の研究や社会奉仕活動も行う。 1895年、隣村の十市村の鍋島菊太郎が採取した早稲「出雲早稲」を改良し、「京早稲」を経て「衣笠早稲」を完成させた。この品種は短期間で実るため、土佐に二期作を広めるのに役立った。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
島村 速雄(しまむら はやお、1858年10月26日〈安政5… 島村 速雄(しまむら はやお、1858年10月26日〈安政5年9月20日〉- 1923年〈大正12年〉1月8日)は、日本の海軍軍人。元帥海軍大将正二位勲一等功二級男爵。高知県出身。海兵7期首席。「非常な秀才で智謀は底が知れない、軍人には珍しいほど功名主義的な所が無い、生涯はつねに他者に功を譲ることを貫いた、天性のひろやかな度量のある人物」などと評される。 安政5年(1858年)、土佐藩の郷士・島村左五平と妻・鹿子の間に生まれる。幼名は午吉で、四人兄弟の次男であった。海南学校に学ぶ。幼い頃から秀才ぶりを発揮していたが、9歳の時に父を亡くし、家計が厳しかったため、学費が不要な海軍兵学寮への進学を希望し、勉学に励んだ。
太田 實(おおた みのる、1858年10月26日(安政5年9… 太田 實(おおた みのる、1858年10月26日(安政5年9月20日)- 1918年(大正7年)11月20日)は、明治の内務官僚、第2代本所区長、第一回、二回衆議院議員、実業家、浅草公園水族館の設立者。 幕末の安政5年(1858年)、淡路国津名郡久留麻村(町村制後:来馬村、現:兵庫県淡路市久留麻)に生まれる。祖父・利右衛門の時、徳島藩主蜂須賀家に功があり士族に取り立てられ太田氏を賜った。旧姓は山田氏であった。傍ら、酒造を業とし柿屋と号した。10歳で藩校に入ったが、藩府内の俊秀少年5人を選び修学を命ずるにあたり、その一人に選ばれた。わずか12歳で洲本の学問所に入った。13歳のとき、徳島城内の藩校舎に入り蘭人ドングルに就きドイツ語を学んだ。
吉田 亀太郎(よしだ かめたろう、1858年10月26日(安… 吉田 亀太郎(よしだ かめたろう、1858年10月26日(安政5年9月20日) - 1931年(昭和6年)12月26日)は、明治時代に東北地方で活動した伝道者・牧師。祖父は仙台藩亘理伊達氏に仕えた新妻興左衛門、父はその四男吉田雄吉。 1858年(安政5年)、陸奥国稗貫郡花巻(現岩手県花巻市)で生まれ、現在の宮城県石巻で育った。新潟に赴任した時に、T・A・パームと押川方義らの説教を聞いてキリスト教に回心し、1878年(明治11年)に洗礼を受けた。それから、パーム、押川と共に伝道に従事した。 1880年(明治23年)、吉田は押川と共に、宮城県の伝道を始める。仙台についた吉田と押川は、北三番町木町通り角屋敷に「基督教講義所」の看板を掲げて伝道を開始した。
江木 衷(えぎ まこと/ちゅう、1858年10月25日(安政… 江木 衷(えぎ まこと/ちゅう、1858年10月25日(安政5年9月19日) - 1925年(大正14年)4月8日)は、日本の法学者。弁護士。
佐藤 源蔵(さとう げんぞう、1857年11月20日(安政4… 佐藤 源蔵(さとう げんぞう、1857年11月20日(安政4年10月4日)- 1937年(昭和12年)1月16日)は、明治から昭和時代前期の政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 陸奥国津軽郡畑中村(現在の南津軽郡田舎館村)に生まれる。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を持つ大地主 佐藤治郎左衛門の長男。 その後、1889年(明治22年)の 町村制施行とともに田舎館村収入役に就任し、2期務める。1905年(明治38年)佐藤、田沢周助(田沢吉郎の父)、宮舘貞吉の提唱により信用組合を創立し、組合長に就任。衆議院議員の加藤宇兵衛や宇野清左衛門と共に、黒石銀行取締役や津軽銀行取締役などを歴任し、県内での銀行の普及に努めた。
菊島 生宜(きくしま せいぎ、1857年11月18日(安政4… 菊島 生宜(きくしま せいぎ、1857年11月18日(安政4年10月2日)- 1923年(大正12年)1月15日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・朝次郎、号・東山。 甲斐国山梨郡下萩原村(山梨県山梨郡七里村、東山梨郡七里村、塩山町、塩山市を経て現甲州市塩山下萩原)で、農業・菊島定右衛門、イセの長男として生まれる。下瀬久寿、藤田習斎から漢学を学んだ。 1877年(明治10年)東山梨郡於曽学校事務掛に就任。以後、東山梨郡役所傭、同郡書記を務め、1883年(明治16年)8月に退官。1884年(明治17年)山梨県会議員に当選し2期7年在任した。その他、山梨県学事会員、同蚕糸業取締所議員、東山梨郡蚕糸業組合委員長、所得税調査委員などを務めた。