土方 寧(ひじかた やすし、安政6年2月12日(1859年3… 土方 寧(ひじかた やすし、安政6年2月12日(1859年3月16日)– 昭和14年(1939年)5月18日)は、貴族院勅選議員、法学者。専門は民法学。帝国学士院会員。弟子に石坂音四郎、末延三次など。 土佐国高岡郡佐川村(現在の高知県高岡郡佐川町)に、土佐藩士土方直行の子として生まれる。1873年(明治6年)より、東京英語学校、開成学校、大学予備門で学んだ。1878年(明治11年)、東京大学法学部に入り、1882年(明治15年)に卒業した。 卒業後、文部省御用掛となり、翌年に東京大学法学部(のち東京帝国大学法科大学)助教授に任命された。また英吉利法律学校の創設発起人に名を連ね、講師も務めた。1887年(明治20年)よりイギリスのミドル・テンプルに留学した。
小山 久之助(こやま ひさのすけ、安政6年2月5日(1859… 小山 久之助(こやま ひさのすけ、安政6年2月5日(1859年3月9日) - 明治34年(1901年)10月3日)は、日本の政治家。衆議院議員。号は騁斉。 信濃国佐久郡小諸城下与良町に小山敬義の次男として生まれる。小諸藩士の山本杏園に漢学を学び、明治5年(1872年)、私塾を開いて「孟子」を論ずる。同11年(1878年)新潟県師範学校に入学したが中退し、上京して興法学舎や、 中江兆民の仏学塾に学び、幸徳秋水とともに両高弟と称された。明治15年(1882年)、自由民権の雑誌「政理叢談」の発刊に加わり、欧米の憲法論を紹介した。 明治20年(1887年)の保安条例で兆民らが「皇居三里外」に追放され、仏学塾が解散したため、後藤象二郎や大石正巳らと全国を遊説した。
鳥取 柔三郎(とっとり じゅうさぶろう、1859年3月9日〈… 鳥取 柔三郎(とっとり じゅうさぶろう、1859年3月9日〈安政6年2月5日〉 - 没年不明)は、日本の実業家、篤農家。讃岐農工銀行監査役。讃岐土管取締役。族籍は香川県平民。 讃岐国三野郡笠岡村(現・香川県三豊市)出身。鳥取為三郎の二男。1875年、分家した。住所は香川県三豊郡笠田村。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
風間 九郎(かざま くろう、安政6年〈1859年〉3月6日-… 風間 九郎(かざま くろう、安政6年〈1859年〉3月6日- 昭和5年〈1930年〉4月2日)は、日本の実業家、玩具の開発者。長岡藩領福島村(現、新潟県長岡市福島町)出身。東京浅草にて玩具の発明や開発をし、雑貨貿易商として商店を営み販売も行っていた。 風間九郎は、安政6年(1859年)3月6日に旧長岡藩領福島村にて、風間九八郎(1819-1901)とミツ(1833-1900)の長男として生まれる。大塚定吉の養子となるが離縁。九郎は故郷の新潟から上京し、東京に住む伯父の佐藤虎清と同居を始める。 風間家は代々、旧福島村の地主であった。彼の生まれ育った地域では、蔵王権現に対する信仰が盛んであり、頭屋制度のもと民間に巡祀される祭儀「王神祭」が行われてきた。
浅見 竹太郎(あさみ たけたろう、1859年3月6日(安政6… 浅見 竹太郎(あさみ たけたろう、1859年3月6日(安政6年2月2日) - 1930年(昭和5年)7月20日)は、日本の弁護士。政治家、衆議院議員(2期)。 近江国犬上郡彦根町(滋賀県犬上郡彦根町を経て現彦根市)出身。1872年、旧彦根藩校弘道館卒。卒業後は代言人となり、弁護士となる。滋賀県会議員を経て、近江水電会社を創立する。 1903年の第8回衆議院議員総選挙において滋賀県郡部から憲政本党公認で立候補して初当選する。1904年の第9回衆議院議員総選挙で再選。衆議院議員を2期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙は不出馬。 政界引退後は朝鮮総督府判事となり、大邱、光州、京城の各地方法院判事を歴任し、その後は弁護士に戻った。
南里 琢一(なんり たくいち、1859年3月4日(安政6年1… 南里 琢一(なんり たくいち、1859年3月4日(安政6年1月30日)- 1938年(昭和13年)4月14日)は、明治から大正期の政治家。衆議院議員、佐賀県小城郡芦刈村長。 肥前国小城郡川越村(佐賀県小城郡浜枝川村、芦刈村、芦刈町川越を経て現小城市芦刈町浜枝川川越)で、小城藩士・南里俊八の長男として生まれる。小城藩校興譲館で学び、さらに川副二水に師事し漢学を修めた。農業を営み、地域の産業振興に尽力した。 2代刈芦村長に就任し13年間在任した。小城郡会議員、同参事会員、佐賀県会議員、西芦刈水利組合議員なども務めた。松田正久の側近として活動し、立憲政友会佐賀県支部長を務めた。 1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙に佐賀県郡部から政友会所属で出馬して初当選。
石川 倉次(いしかわ くらじ、1859年2月28日〈安政6年… 石川 倉次(いしかわ くらじ、1859年2月28日〈安政6年1月26日〉 - 1944年〈昭和19年〉12月23日)は、日本の教育者。ルイ・ブライユが考案した6点点字を基に日本語に翻案して全国を回り点字を広める等、今日の日本語点字の基礎を築き、「日本点字の父」といわれている。 1859年(安政6年)、浜松藩士の父・専七と母・ゑしの子として名残組屋敷(現在の浜松市中央区鹿谷町)に生まれる。8歳から9歳の頃から手習いに通い、現在の高町にあった藩校・克明館に入学し、漢籍や西洋の砲術、英語を学んで、優秀な成績を修めていた。 当時、専七の勤める浜松藩は財政困窮や政局の行方に揺れており、妹ぎんを出産後は病気がちだった母ゑしの体調とともに、少年倉次の心配事となっていた。
野村 龍太郎(のむら りゅうたろう、1859年2月27日(安… 野村 龍太郎(のむら りゅうたろう、1859年2月27日(安政6年1月25日) - 1943年(昭和18年)9月18日)は、大正・昭和期の土木技術者・鉄道官僚・実業家。 安政6年に大垣藩士野村藤陰の長男として大垣にて出生。明治5年(1872年)に上京し慶應義塾、東京外国語学校・東京英語学校・東京開成学校(これら3校はともに一高の前身)を経て、1881年(明治14年)7月、東京大学理学部土木工学科卒業。同年、東京府勤務となる。1891年(明治24年)、鉄道庁技師に転じる。1899年(明治32年)3月工学博士となる。1913年(大正2年)5月、鉄道院副総裁に就任。1914年(大正3年)4月7日、錦鶏間祗候に任じられる。
吉田 彦六郎(よしだ ひころくろう、安政6年1月23日〈18… 吉田 彦六郎(よしだ ひころくろう、安政6年1月23日〈1859年2月25日〉- 昭和4年〈1929年〉3月3日)は日本の化学者。京都帝国大学理工科大学教授。 安政6年(1859年)、福山藩の家老吉田豊辰の四男として現在の広島県福山市西町に生まれる。 明治4年(1871年)、大学南校に入学し、明治10年(1877年)に東京帝国大学理学部化学科でロバート・ウィリアム・アトキンソンに師事、メントールの研究を行う。 明治11年(1878年)、日本化学会の前身となる化学会の初代会員となった。明治13年(1880年)卒業して農商務省に入り漆の研究を始める。生漆の成分を分画して主成分を漆酸と名付けた。さらに他のたんぱく質成分が含まれていることを突き止め、漆の硬化作用は漆酸が酵素の作用によって空気中の酸素と化合することによるとした。
加藤 恒忠(かとう つねただ、安政6年1月22日(1859年… 加藤 恒忠(かとう つねただ、安政6年1月22日(1859年2月24日) - 大正12年(1923年)3月26日)は、日本の外交官、政治家。旧姓は大原。号は拓川。衆議院議員、貴族院勅選議員、松山市長、錦鶏間祗候。三男忠三郎は阪急電鉄の車掌、阪急百貨店の職員で、俳人正岡子規の妹リツの養子となり正岡家の祭祀を嗣いだ。 伊予国(現・愛媛県松山市)に伊予松山藩の儒者大原観山の三男として生まれる。父の死後、上京し、1876年(明治9年)給費の官吏養成所である司法省法学校(現在の東京大学法学部)に入学、フランス語とフランス法を学んだ。1879年1月廃絶していた縁戚の加藤家を興し加藤家戸主になった。同年2月校長の方針に反対し退学、中江兆民の塾に入る。
西田 庄助(にしだ しょうすけ、1859年2月20日(安政6… 西田 庄助(にしだ しょうすけ、1859年2月20日(安政6年1月18日)- 1937年(昭和12年)6月23日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、滋賀県犬上郡千本村長。 近江国犬上郡西沼波村(滋賀県犬上郡千本村字西沼波を経て現彦根市)で、西田教寛の長男として生まれる。深見東岳から漢学を学んだ。1881年(明治14年)12月、家督を相続した。農業、商業を営む。 1884年(明治17年)10月、平田村外11ヶ村連合会議員・同議長に就任。以後、地蔵村外2ヶ村連合会議員・同議長、彦根沼波町外6ヶ町村連合会議員・同議長、今井水利土工連合会議員・同議長、犬上郡彦根町外101ヶ町村連合会議員、犬上郡所得税調査委員、滋賀県米質改良組合規則設定委員、滋賀県勧業諮問会員などを務めた。
2代 高広 次平(たかひろ じへい、1859年2月19日(安… 2代 高広 次平(たかひろ じへい、1859年2月19日(安政6年1月17日) - 1920年(大正9年)8月26日)は、明治時代後期から大正時代の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。 越中国礪波郡福岡町(富山県西礪波郡福岡町を経て現高岡市)に生まれ、高広彦八の長男彦造の婿養子となり、のち襲名する。福岡町会議員を経て、1889年(明治22年)初代福岡町長に就任する。1895年(明治28年)福岡同盟銀行を創業し頭取に就任。ほか、北陸海上保険社長、広通、高岡共立銀行、中越鉄道各取締役などを歴任した。 1900年(明治33年)富山県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、同年6月13日から1903年(明治36年)2月6日まで在任した。
相磯 慥(あいいそ まこと、1858年3月20日〈安政5年2… 相磯 慥(あいいそ まこと、1858年3月20日〈安政5年2月6日〉 - 1929年〈昭和4年〉8月18日)は、日本の医師。宮中顧問官。 東京府出身。小柴家に生まれ、相磯格堂の養子となった。のち格堂の娘・正子と結婚。1882年(明治15年)、東京大学医学部を卒業し、岐阜県立医学校長・附属病院長ののち、ドイツに留学。1888年(明治21年)に侍医となった。専門は産婦人科。1924年(大正13年)に侍医を辞し、宮中顧問官に就任した。 食品微生物学者の相磯和嘉、永井荷風の側近の相磯凌霜は、義理の甥に当たる。
富谷 千太郎(とみたに せんたろう、安政5年2月5日(185… 富谷 千太郎(とみたに せんたろう、安政5年2月5日(1858年3月19日) - 大正13年(1924年)10月23日)は、日本の茶人、政治家。余子村長(初代)、余子村会議員。 竹内村(のち鳥取県境港市竹内町)出身。父喜七郎は醤油醸造をはじめ手広く事業をやっており、元治元年(1864年)の外江大火には醤油を見舞ったという。また村役人を務めた記録もある。 千太郎は初代村長として余子尋常小学校を開校し、明治23年(1890年)竹内村津山長四郎宅に役場を移転した。 いつのころか家業に失敗し、その後は煮干鰮製造や養鶏等を手掛けた。 またお茶やお花の宗匠でもあり、この道を海外で広めようと渡米したが、時期尚早で目的成らず帰国した。
井上 円了(旧字体: 井上 圓了、いのうえ えんりょう、18… 井上 円了(旧字体: 井上 圓了、いのうえ えんりょう、1858年3月18日(安政5年2月4日) - 1919年(大正8年)6月6日)は、日本の哲学者、教育者。 明治日本に哲学を広めた人物の一人。哲学館(現、東洋大学)や哲学堂公園を設立した。仏教哲学や妖怪学にも業績がある。 1858年(安政5年)、越後長岡藩領の三島郡浦村(現・新潟県長岡市浦)にある慈光寺に生まれる。幼名、岸丸。父は円悟、母はイク。 16歳で長岡洋学校に入学し、洋学を学んだ。1877年(明治10年)、東本願寺の教師学校に入学する。1878年(明治11年)東本願寺の国内留学生に選ばれ上京し、東京大学予備門に入学する。その後東京大学に入学し、文学部哲学科に進んだ。
山口 定省(やまくち さだみ、やまぐち ていせい、1858年… 山口 定省(やまくち さだみ、やまぐち ていせい、1858年3月18日(安政5年2月4日) - 1926年(大正15年)1月20日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 若狭国遠敷郡和久里村(のち福井県遠敷郡今富村、現・小浜市)に小浜藩士山口甚太夫の子に生まれる。農業を営み、学務委員、和久里村戸長、今富村長、福井県会議員、同参事会員、遠敷郡会議員、同参事会員、福井農工銀行取締役、若越新聞社長となる。また、朝鮮で貿易業に従事する。 1898年8月の第6回衆議院議員総選挙において福井4区から憲政党公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1926年に死去した。
肥後 静雄(ひご しずお、1858年3月17日(安政5年2月… 肥後 静雄(ひご しずお、1858年3月17日(安政5年2月3日) - 1924年(大正13年)8月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 鹿児島県出身。曽於郡志布志郷の後の東志布志村(志布志町を経て現志布志市の一部)に生まれる。薩摩藩藩校造士館に学ぶ。囎唹郡東志布志村長、鹿児島県会議員となる。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において鹿児島県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1915年の第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1924年に死去した。
折田 兼至(おりた かねたか、1858年3月11日(安政5年… 折田 兼至(おりた かねたか、1858年3月11日(安政5年1月26日) - 1923年(大正12年)6月5日)は、明治から大正期の政治家・実業家。衆議院議員(4期)。 薩摩国給黎郡知覧郷(鹿児島県給黎郡知覧村、川辺郡知覧村、知覧町を経て現南九州市)で、神職・折田丹江の長男として生まれた。1882年(明治15年)2月、家督を相続する。私学校に学ぶ。和漢学、英学を修めた。1882年(明治15年)熊本に九州進歩党を創立した。ほか、学務委員、徴兵参事員、衛生会委員、県教育会副会長などを歴任した。 1883年(明治16年)7月、鹿児島県会議員に選出され、1887年(明治20年)6月、県会副議長、1888年(明治21年)3月、第6代県会議長に就任し、同常置委員も務めた。
池辺 棟三郎(池邊、いけべ とうざぶろう、1858年3月10… 池辺 棟三郎(池邊、いけべ とうざぶろう、1858年3月10日(安政5年1月25日) - 1926年(大正15年)4月13日)は、明治から大正時代の医師。宮中顧問官。旧姓は渡邊。子孫に香川京子と池辺晋一郎がいる。 渡邊建節の二男として豊後国(現大分県)に生まれ、1888年(明治21年)5月、池辺田村の養嗣子となり家督を相続する。1871年(明治4年)加藤賢成の門に入り漢学を修め、1873年(明治6年)大分町英学校、豊前中津において英語を研鑽したのち上京しドイツ人・ヒュルゲルマイステルに従いドイツ語を修めた。同年9月、東京外国語学校に進んだのち、翌年3月、帝国大学医学部に入り、1886年(明治19年)10月に卒業し、医学士の称号を得た。
御木本 幸吉(みきもと こうきち、1858年3月10日(安政… 御木本 幸吉(みきもと こうきち、1858年3月10日(安政5年1月25日) - 1954年(昭和29年)9月21日) は、日本の実業家。真珠の養殖とそのブランド化などで富を成した人物である。御木本真珠店(現・ミキモト)創業者。ミキモト・パール、真珠王とも呼ばれた。 志摩国答志郡鳥羽城下の大里町(現在の三重県鳥羽市鳥羽一丁目)で代々うどんの製造・販売を営む「阿波幸」の長男として生まれた。父は音吉、母はもと。幼名は吉松と名付けられた。父は商売よりも機械類の発明・改良に関心があり、1881年(明治14年)には粉挽き臼の改良により三重県勧業課の表彰を受け賞金100円を授与されている。祖父・吉蔵は「うしろに目があるような人」と言われたように、先が見え商才に恵まれていた。
田中 敬一(たなか けいいち、安政5年1月24日(1858年… 田中 敬一(たなか けいいち、安政5年1月24日(1858年3月9日) - 昭和5年(1930年)7月21日)は、日本の教育者。 美作国勝山(岡山県真庭市)出身。同人社・三叉学舎・慶應義塾を経て、1878年(明治11年)に東京師範学校(後の東京高等師範学校)に入り、1884年(明治17年)に卒業した。 長崎外国語学校教諭、長崎県中学校教諭、長崎県師範学校教諭、高等師範学校助教諭・訓導、岐阜県師範学校教頭、同校長を経て、1892年(明治25年)に宮城県師範学校校長に就任した。1893年(明治26年)、東京女子高等師範学校教授となり、1897年(明治30年)に東京府師範学校校長に転じた。1900年(明治33年)、台湾総督府国語学校校長となる。
乾 亀松(いぬい かめまつ、1858年3月7日〈安政5年1月… 乾 亀松(いぬい かめまつ、1858年3月7日〈安政5年1月22日〉 - 1925年〈大正14年〉12月23日)は、日本の政治家(衆議院議員、大阪府郡部選出、当選1回、立憲政友会)、篤農家。 河内国高安郡恩智村(大阪府中河内郡南高安村大字恩智、高安村を経て現八尾市)出身。喜一の長男。18歳の時に父が病没し、家督を相続する。 恩智村総代役、同村会議員、高安村会議員、中河内郡会議員、大阪府会議員・同議長、同参事会員、郡部会副議長に挙げられる。また水利築留樋連合会議員、学事委員、地押調査掛、地方森林会議員等となる。 1902年、八尾銀行監査役に就任。1909年、八尾銀行取締役に就任。住所は大阪府中河内郡南高安村大字恩智。
六代目 藤井 佐次兵衛(ふじい さじへえ、安政5年1月20日… 六代目 藤井 佐次兵衛(ふじい さじへえ、安政5年1月20日(1858年3月5日) - 1931年(昭和6年)3月25日)は、三河国幡豆郡佐久島村(現・愛知県西尾市佐久島)出身の漁業者・地方自治功労者。佐久島村漁業組合の設立に尽力し、1908年(明治41年)には佐久島村長を務めた。 安政5年1月20日(1858年3月5日)、三河国幡豆郡佐久島村(現・愛知県西尾市佐久島)西側97番地に生まれた。藤井佐次兵衛の長男である。幼名を覚三郎といい、やがて六代目藤井佐次兵衛を襲名した。 四番組長、学務委員、地積取調委員、戸長、佐久島村会議員などを歴任した。農事改良、金融の利便向上、防波堤の築造などに力を注ぎ、1903年(明治36年)2月1日には筒井新次郎、筒井由次郎、筒井金兵衛、筒井浅次郎らと協力して佐久島村漁業組合を設立した。
春田 祐清(はるた すけきよ、1858年3月3日(安政5年1… 春田 祐清(はるた すけきよ、1858年3月3日(安政5年1月18日) - 1929年(昭和4年)11月21日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 愛知県出身。1874年、愛知県養成学校小学教科卒。小学校訓導、南麻績村戸長、実田村長、中島郡会議員、同参事会員、愛知県会議員となる。また、破産管財人、愛知県教育会、同県農会各評議員、日光川倉庫銀行取締役を務めた。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において愛知県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。1912年の第11回衆議院議員総選挙で再選した。1915年の第12回衆議院議員総選挙では51票差で落選した。1929年に死去した。
元田 肇(もとだ はじめ、1858年2月28日〈安政5年1月… 元田 肇(もとだ はじめ、1858年2月28日〈安政5年1月15日〉- 1938年〈昭和13年〉10月1日)は、明治、大正、昭和期の日本の政治家。立憲政友会の長老。号は国東。第25代衆議院議長、逓信大臣、鉄道大臣(初代)を歴任した。中央大学創立者18人の内の一人。杵築藩(大分県)の儒学者の養子。 豊後国国東郡来浦(現在の大分県国東市国東町来浦)に医師・猪俣栄造の子として生まれる。杵築藩の藩儒・元田直の養子となる。1880年(明治13年)、東京大学法科を卒業。弁護士となる。第1回衆議院議員総選挙に当選し、以後当選16回、議員生活は40有余年に渡った。当初は大成会・国民協会・帝国党に所属した後に立憲政友会の結成に参加、衆議院副議長に3度選出された他、第1次山本権兵衛内閣の逓信大臣、原内閣の鉄道大臣(初代)として入閣している。
田中 省三(たなか せいぞう、1858年2月20日(安政5年… 田中 省三(たなか せいぞう、1858年2月20日(安政5年1月7日)- 1925年(大正14年)6月29日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 大隅国囎唹郡福山郷福山村小廻(現鹿児島県霧島市福山町福山)で生まれる。町田実有から漢学を学んだ。1876年(明治9年)福山小学校を卒業。1876年(明治9年)西南戦争で西郷軍に加わり、宮崎で官軍に捕らえられ細島に流罪となった。その後赦免されて帰郷し、1882年(明治15年)鹿児島師範学校を卒業。福山小学校の教師を務め、1885年(明治18年)同郷で当時石川県庁勤務の川上親晴の推薦で能登半島の小学校長に就任。1年ほどで辞職して、奈良県五条の看守長、大阪地方裁判所書記などを歴任。
内藤 守三(ないとう もりぞう、安政4年2月13日(1857… 内藤 守三(ないとう もりぞう、安政4年2月13日(1857年3月8日) - 昭和21年(1946年)2月22日)は、実業家、政治家。国勢調査創設者。安芸国賀茂郡板城村馬木(現在の広島県東広島市)出身。幼名・太郎一。 若くして庄屋をつとめ、戸長にもなる。竹原の学館で漢学を修め1870年上京、東京開成学校で英語、法律、国勢学(統計学)を、皇典講究所で国学を学ぶ。卒業後黒瀬川の浚渫事業に携わった後、実業家となり1888年呉市に呉土工会社を設立。呉海軍工廠の誘致・山陽鉄道の国有化等に尽力、また呉市二河公園の建設など同地の市街地整備にあたった。1892年には高性能爆弾の研究を進めていた下瀬雅允に資金を提供し、日露戦争で威力を発揮した下瀬火薬の開発に協力した。
佐藤 佐(さとう たすく、1857年3月6日〈安政4年2月1… 佐藤 佐(さとう たすく、1857年3月6日〈安政4年2月11日〉 - 1919年〈大正8年〉3月3日)は、明治期の医師、医学者、順天堂医院副院長。大日本薬局方調査會委員。 佐倉藩士井上信利の三男井上虎三として生まれ、11歳で藩医佐藤尚中に入塾する。大学東校に入り、1878年夏、脚気の再発で足腰が立たないまでの症状に陥ったが翌年から復学、1881年3月、東京大学医学部を卒業。卒業が確定となった事で佐藤尚中の三女:楽との婚姻を結び、佐藤家へ養嗣子となる。 同期は三浦守治、高橋順太郎、中濱東一郎、森林太郎、賀古鶴所であった。 明治15年(1882年)2月4日、佐藤佐と同じく明治14年度派遣留学生、三浦守治、榊俶、高橋順太郎とフランス客船メンザリー号で横浜港を出発、3月23日にベルリンに到着、ドイツ及びオーストリアに私費留学、1886年(明治19年)に帰朝し、順天堂医院の内科医療に従事する。
大和田 荘七(おおわだ しょうしち、安政4年2月11日(18… 大和田 荘七(おおわだ しょうしち、安政4年2月11日(1857年3月6日) - 昭和22年(1947年)1月30日)は、日本の実業家。北前船の船主であり、大和田銀行や大和田貯金銀行を創立した。 安政4年2月11日(1857年3月6日)、越前国敦賀(現・福井県敦賀市)に生まれた。出生名は山本 亀次郎(やまもと かめじろう)。父親は薬屋の山本三郎兵衛であり、兄の山本九郎左衛門は、大和田炭鉱株式会社取締役を務めた。初代大和田荘七に見込まれ、初代大和田荘七の長女万寿子と結婚して大和田家の婿養子となった)。1887年(明治20年)、30歳のときに2代目大和田荘七を襲名した。1892年(明治25年)、大和田銀行を設立した。
北里 貞之(きたざと さだゆき、1857年3月4日(安政4年… 北里 貞之(きたざと さだゆき、1857年3月4日(安政4年2月9日) - 1928年(昭和3年))は日本の裁判官、弁護士。元・大審院判事。 1857年(安政4年2月9日)、熊本藩士北里一格の長男として生まれる。東京法学校(現・法政大学)で学び、1887年(明治20年)に判事検事登用試験に合格する。1890年(明治23年)に北里崎次郎の養子となる。 福島地方裁判所判事、宮崎地方裁判所長、大分地方裁判所長、鹿児島地方裁判所長を経て、1919年(大正8年)に大審院判事に就任する。正五位勲四等。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
菅 了法(すが りょうほう、安政4年2月8日(1857年3月… 菅 了法(すが りょうほう、安政4年2月8日(1857年3月3日) – 昭和11年(1936年)7月26日)は、明治期のジャーナリスト、「グリム童話」の訳者、衆議院議員、僧(本願寺顧問)。号は桐南。筆名は桐南居士。 石見国邑智郡銀山領川本村(現・島根県邑智郡川本町川本)の浄土真宗本願寺派・壽國山光永寺に住職・菅了雲の長男として生まれる。 明治8年(1875年)、学制施行により設立された川本小学(現・川本小学校)の初代校長となる。明治9年(1876年)秋、川本小学を辞して、大阪英語学校(後の第三高等学校)に学び、明治10年(1877年)6月、本願寺からの援助を受けて慶應義塾「大人科」に入学。明治12年(1879年)暮れないし明治13年(1880年)春まで在学。
土方 千種(ひじかた ちくさ、安政4年2月7日(1857年3… 土方 千種(ひじかた ちくさ、安政4年2月7日(1857年3月2日) - 大正10年(1921年)5月14日)は日本の政治家、法律家。衆議院議員(1期、立憲国民党)。 1857年(安政4年)2月7日、江戸麹町に生まれる。東京法学校(現在の法政大学)で学んだ後、1887年(明治20年)に判事試験に合格する。久留米区裁判所、福岡地方裁判所、小倉区裁判所等で判事として勤務し、1897年(明治30年)に退官し、小倉市で弁護士を開業する。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選する。1921年(大正10年)5月14日に死去。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
千田 軍之助(せんだ ぐんのすけ、安政3年2月11日(185… 千田 軍之助(せんだ ぐんのすけ、安政3年2月11日(1856年3月17日) – 大正3年(1914年)3月2日)は、衆議院議員(自由党→憲政党→立憲政友会)、ジャーナリスト。 紀伊国那賀郡南志野村(現在の和歌山県紀の川市)の郷士の家に生まれた。1874年(明治7年)、副戸長となり、第三大区第二小区会議所に勤務した。1876年(明治9年)、地租改正にあたって県令神山郡廉に地価の不当を訴えたが、容れられなかったため副戸長を辞した。その後、児玉庄右衛門(児玉仲児の父)らとともに自由民権運動を展開したため、投獄された。これに対し数百の民衆が彼らを奪還しようと蜂起したため、神山は大阪鎮台に出兵を乞う事態となった(粉河騒動)。
神谷 傳兵衛(かみや でんべえ、安政3年2月11日(1856… 神谷 傳兵衛(かみや でんべえ、安政3年2月11日(1856年3月17日) - 大正11年(1922年)4月24日)は、三河国幡豆郡松木島村(現在の愛知県西尾市一色町松木島)出身の実業家。神谷 伝兵衛とも表記される。 東京都台東区浅草の洋酒バーの神谷バー、茨城県牛久市のワイン醸造所のシャトーカミヤの創設者。旭製薬社長のほか、神谷醸造、日本製粉、九州炭鉱汽船、三河鉄道、東洋遊園地などの役員を務めた。 幼名は松太郎。実子はなく、養女のぶ(神谷桂助長女)の婿養子の神谷(旧姓:小林)伝蔵(傳藏とも表記される)が2世神谷傳兵衛を名乗る。 安政3年2月11日(1856年3月17日)、三河国松木島村の名主の六男として生まれた。
斎藤 孝治(さいとう こうじ、1856年3月10日(安政3年… 斎藤 孝治(さいとう こうじ、1856年3月10日(安政3年2月4日) - 1917年(大正6年)8月22日)は、日本の弁護士、公証人、東京府会議員。 古河藩士・斎藤三平の子として江戸駒込の藩邸で生まれた。1872年に上京して儒者亀田鶯谷の塾で学んだ。1875年警視庁巡査となり、西南戦争に従軍。戦後、北畠道龍・矢代操らの講法学舎に入ったが、1881年、明治法律学校(明治大学の前身)の開校にあたって幹事として庶務にあたり、また一学生として法学を修め、同校最初の卒業生の一人となった。 1882年に代言人試験に合格し、秩父事件や野口男三郎事件などで弁護活動に従事。日本弁護士協会の創設に参画し、1898年には副会長となった。
丹羽 藤吉郎(にわ とうきちろう、1856年3月8日(安政3… 丹羽 藤吉郎(にわ とうきちろう、1856年3月8日(安政3年2月2日)- 1930年(昭和5年)3月12日)は、日本の薬学者である。 佐賀藩士だった丹羽与左衛門の次男として生まれる。佐賀藩校を経て、廃藩置県により1871年(明治4年)に大学校に入学し、当時お雇い外国人として来日していたドイツ人のヤーコプ・カデルリー(カドリーとも、1827年 - 1874年)からドイツ語を学んだ。その後同学校は東京帝国大学(現在の東京大学)に名称変更し、1873年(明治6年)に初めドイツ語学科に入学にし、フグ毒に関する研究に携わる田原良純らが所属した製薬学科に移る。この頃に同じくお雇い外国人として来日していたドイツ人のアレクサンダー・ランガルトに師事し、製薬化学の研究に携わった。
鈴木 儀左衛門(儀左衞門、すずき ぎざえもん、1856年3月… 鈴木 儀左衛門(儀左衞門、すずき ぎざえもん、1856年3月4日(安政3年1月28日)- 1933年(昭和8年)8月6日)は、明治から昭和初期の農業経営者、教育者、実業家、政治家。衆議院議員、千葉県会議長、千葉県海上郡嚶鳴村長。 下総国夷隅郡琴田村(千葉県夷隅郡琴田村、嚶鳴村琴田、海上町 を経て現旭市琴田)で、農業、先代・鈴木儀左衛門の長男として生まれた。安中藩儒・伊藤桂次郎に師事し漢籍を修めた。 1872年(明治5年)大区選挙人に就任。1876年(明治9年)地租改正で苦しむ村民の先頭に立ち、地租等級の改訂を誓願する減租運動を10年有余にわたって継続し、ついに改定を実現した。また自由党の板倉中、西村甚右衛門らと交際し、1890年(明治23年)自由党系の政治結社・興東倶楽部を結成した。
高橋 直治(たかはし なおじ、1856年3月4日(安政3年1… 高橋 直治(たかはし なおじ、1856年3月4日(安政3年1月28日) - 1926年(大正15年)2月18日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。 越後国刈羽郡石地村(現・柏崎市)で高橋喜惣八の長男として生まれる。1875年(明治8年)小樽に渡り荒物商の店員となる。1878年(明治11年)に独立し合羽荒物雑貨商を開業し、さらに米穀海産委託問屋、味噌醤油製造、石炭販売、精米所、回漕業を営んだ。1896年(明治29年)弟・喜蔵と共に高橋合名会社を組織し代表社員に就任。事業を米雑穀業に転換した。第一次世界大戦により日本からヨーロッパへ菜豆類の輸出が急増した際に、大量の大豆を貯蔵し直輸出を行い、日本やロンドン市場を左右するほどの影響を与えたことから「小豆将軍」と称された。
河合 浩蔵(かわい こうぞう、1856年2月29日〈安政3年… 河合 浩蔵(かわい こうぞう、1856年2月29日〈安政3年1月24日〉 - 1934年〈昭和9年〉10月6日)は主に明治・大正期に活躍した建築家。建築学会の前身造家学会の設立に尽力した。ドイツ留学より帰国後、司法省建築主任として現法務省の建設に携わる。その後関西を中心に活動し、ドイツ風の小寺家は重要文化財となっている。 武州東葛飾郡(埼玉県)に生まれ、江戸・本所(東京都墨田区)で幕臣の子として育つ。工部大学校造家学科でジョサイア・コンドルに建築を学び、1882年(明治15年)卒業(4期生、同期に中村達太郎、新家孝正、鳥居菊助)、工部省営繕局に入る。皇居造営事務局御用掛を務める。皇居正門に掛かる迫持造徳利型欄干付の石橋(二重橋)の外観意匠を構造設計の久米民之助と共に担当した。
片桐 清治(かたぎり せいじ、安政3年1月17日〈1856年… 片桐 清治(かたぎり せいじ、安政3年1月17日〈1856年2月22日〉 - 1928年〈昭和3年〉1月21日)は日本の牧師で、日本組合基督教会の東北地方の重鎮として活躍する。 安政3年1月17日(1856年2月22日)仙台藩伊達家の陪臣片桐英之助の子として、水沢に生まれる。一の関師範伝習所を卒業して、小学校の教員として働いている時、1879年夏、友人で同志社英学校の学生であった山崎為徳によりキリスト教に接する。 1880年(明治13年)より友人山崎為徳の招きで同志社英学校邦語学科に入学する。在学中、病気療養中の山崎の看病を続ける。1881年(明治14年)5月1日同志社教会においてM・L・ゴードン宣教師から洗礼を受ける。
菊池 大麓(きくち だいろく、1855年3月17日〈安政2年… 菊池 大麓(きくち だいろく、1855年3月17日〈安政2年1月29日〉- 1917年〈大正6年〉8月19日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の数学者、教育行政官。男爵、理学博士。 東京帝国大学(東京大学の前身)理科大学長・総長、文部次官・大臣、学習院長、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、帝国学士院院長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。 蘭学者の箕作秋坪とつね夫妻の次男として江戸天神下(現:新宿区喜久井町)の津山藩の下屋敷に生まれ、父の実家・菊池家の養嗣子となった。秋坪は蘭学者箕作阮甫の弟子で、つねはその阮甫の三女である。 蕃書調所(東京大学の前身)で英語を学び、1867年(慶応3年)に幕府派遣で、1870年(明治3年)に新政府派遣で、2度に渡り英国に留学した。
今立 吐酔(いまだて とすい、1855年3月14日〈安政2年… 今立 吐酔(いまだて とすい、1855年3月14日〈安政2年1月26日〉 - 1931年〈昭和6年〉)は、日本の教育者(理学士)・外交官。京都府京都中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)初代校長。 安政2年(1855年)、越前国今立郡松成村(現・福井県鯖江市松成町)の浄土真宗本願寺派の満願寺の第14世今立乗永の五男として生まれる。幼名は芳丸。神童と言われるほど幼い頃から優れた才能を現した。14、5才の時に吐酔と改名。 旧暦1871年(明治4年)、福井藩の藩校明新館(旧明道館)に入学、アメリカ人理化学者ウィリアム・グリフィスに学ぶ。1972年(明治5年)1月にグリフィスが大学南校(東京大学の前身の1つ)教授に転じて福井を去った後、武生進修小学校で1年間英語を教えた(教え子に松本源太郎・土肥慶蔵がいた)。
池上 三郎(いけがみ さぶろう、1855年3月14日〈安政2… 池上 三郎(いけがみ さぶろう、1855年3月14日〈安政2年1月26日〉 - 1914年〈大正3年〉11月10日)は明治期の司法官、検事。函館控訴院検事長。従三位勲二等。族籍は福島県士族。実弟に、第6代大阪市長、第6代朝鮮総督府政務総監を務めた池上四郎がいる。 安政2年(1855年)1月26日、若松城下本三ノ丁に会津藩士の父池上武輔と母ウメの長男として生まれる。初め八三郎と称し後に三郎と名乗る。元治元年(1864年)藩校日新館に入学、抜群に優秀な成績を修めた。 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、14歳で隊頭西郷寧太郎の率いる中軍護衛隊に加わり北出丸の篭城戦で敵を防いだ(会津戦争)。開城後の明治2年(1869年)、上窪村(現塩川町)の肝煎鈴木家に家族と寄寓。
安香 堯行(あこう たかゆき、1855年3月2日(安政2年1… 安香 堯行(あこう たかゆき、1855年3月2日(安政2年1月14日) - 1928年(昭和3年)1月5日)は、日本の薬学者。正五位勲四等。薬学博士。陸軍三等薬剤正。九州薬学専門学校(のち熊本薬学専門学校)長。族籍は静岡県士族。叔父に榎本武揚。 静岡県出身。1882年、東京大学医学部製薬学科を卒業して製薬士の称号を得た。大阪薬専、名古屋薬専の教授をつとめた。1913年5月、薬学博士の学位を授与された。1928年1月5日死去。遺族宅は東京市渋谷区渋谷。二男の愛二は厚生技師、衛生局勤務。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
寺原 長輝(てらはら おさてる / ながてる、1855年3月… 寺原 長輝(てらはら おさてる / ながてる、1855年3月2日(安政2年1月14日)- 1912年(大正元年)12月23日)は、日本の内務官僚、政治家。官選県知事、貴族院勅選議員、錦鶏間祗候。幼名・研輔。一時期、園田姓。 薩摩国伊佐郡大口郷(現:伊佐市)で、寺原用右衛門の三男として生まれる。園田家の養子となり一時期その姓を名乗るが、1878年から元の寺原に姓を戻した。 1874年8月、陸軍省十五等出仕となり、台湾出兵収拾のため渡清した大久保利通に随行。1875年3月、警視庁十四等出仕となる。以後、少警部、中警部と昇進。鹿児島で私学校生徒の暴発の危険性が伝えられ、1876年1月、同郷の同僚である高崎親章、中原尚雄ら20名と共に帰郷したが、私学校の生徒らに捕らえられ拷問を受けた。
前田 慧雲(恵雲、まえだ えうん、安政2年1月14日(185… 前田 慧雲(恵雲、まえだ えうん、安政2年1月14日(1855年3月2日) - 昭和5年(1930年)4月29日)は、伊勢国桑名(現・三重県桑名市)出身の浄土真宗本願寺派の学僧。第2代東洋大学長、龍谷大学学長。「含潤」、「止舟斎」とも号した。 1855年(安政2年)、桑名の西福寺に生まれた。漢文を大賀旭川、佐藤牧山の下で学び、また仏教学を西山教校、比叡山で修めた。松島善譲にも学んでいる。 1888年に上京して大内青巒と共に尊皇奉仏を唱え、新欲主学問所の主事となった。東京大学講師として教鞭を執り、1904年からは高輪仏教大学学長を務めた。1906年、井上円了の意志を継いで哲学館大学を東洋大学と改称し、第2代学長に就任(1914年に退任)。
西ノ海 嘉治郎(にしのうみ かじろう、1855年2月19日(… 西ノ海 嘉治郎(にしのうみ かじろう、1855年2月19日(安政2年1月3日) - 1908年(明治41年)11月30日)は、薩摩国高城郡(現:鹿児島県薩摩川内市)出身で高砂部屋(入門時は京都相撲の鯨波部屋)に所属した大相撲力士。第16代横綱。本名は小園 嘉次郎(おぞの かじろう)。 1855年に薩摩国高城郡高城郷麓村(現在の鹿児島県薩摩川内市高城町)で農業を営む家に長男として生まれる。子供の時から土地相撲で活躍。 京都に上り、京都相撲の鯨波部屋に入門、1873年8月だった。 西ノ海嘉治郎を名乗り、1874年7月(興行は延期し9月、三都合併相撲)西三段目に出る。1876年入幕、小結まで昇進した。
留川 一路(とめかわ いちろ、1854年3月17日(安政元年… 留川 一路(とめかわ いちろ、1854年3月17日(安政元年2月19日) - 没年不詳)は日本基督教会の牧師である。 山脇藤吉、ブンの次男として、豊前国中津(現・大分県中津市)に生まれ、留川家の養子になる。留川家の家督を継ぐ。中津藩の儒学の大久庭家塾をへて、1872年(明治5年)より、3年間藩校の修徳館で、英語と数学を学んだ。続いて、1875年(明治8年)秋にヘンリー・スタウトの塾に入り英語を学ぶ。スタウトの家庭礼拝に出て、スタウトから聖書を学ぶ。1876年(明治9年)頃スタウトの影響でキリスト教に入信し、1876年12月25日に長崎一致教会(現・日本基督教団長崎教会)でスタウトから洗礼を受ける。
箕浦 勝人(みのうら かつんど、1854年3月13日〈嘉永7… 箕浦 勝人(みのうら かつんど、1854年3月13日〈嘉永7年2月15日〉- 1929年〈昭和4年〉8月30日)は、日本の新聞記者、実業家、政治家。 豊後国臼杵で、臼杵藩の武道師範の実相寺常之丞の次男として生まれる。15歳で藩士箕浦又生の養子となる。慶應義塾出身で福澤諭吉の弟子。福澤諭吉の子孫の家庭教師を担当した。1880年(明治13年)、神戸新報(慶応義塾―交詢社系の新聞)を主筆(兵神交詢社会員、神戸商法講習所所長)として、社主安倍清誠五郎、代表三木善八(のち『郵便報知新聞』社主)、主幹鹿島 秀麿(のち兵庫県会議員をへて改進党系代議士)等と共に、創刊に関わった。郵便報知新聞社に入社し、新聞記者の後、社長となる。
先代 植竹 三右衛門(うえたけ さんえもん、1854年3月1… 先代 植竹 三右衛門(うえたけ さんえもん、1854年3月13日〈安政元年2月15日〉 - 1933年〈昭和8年〉7月6日)は、日本の政治家(貴族院議員)、実業家、資産家、篤農家、味噌醤油醸造家、栃木県の大地主、栃木県地主会顧問、栃木県多額納税者、宇都宮商業会議所特別議員。従六位。勲四等。族籍は栃木県平民。 下野国那須郡、のちの栃木県那須郡川西町(現・大田原市)で三右衛門(のち三重郎)の二男として生まれた。1874年、家督を相続し、幼名・虎次郎を改め、三右衛門を襲名した。農業、味噌醤油醸造業を営む。傍ら殖産興業に鋭意し、実業界に活躍し、公共慈善事業に尽くした。 1897年、栃木県農工銀行設立委員を命ぜられた。