竹田 千代足(たけだ ちよたり、1859年8月23日(安政6… 竹田 千代足(たけだ ちよたり、1859年8月23日(安政6年7月15日) - 1923年(大正12年)10月30日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛知県出身。愛知県養成学校(のち愛知第一師範学校、現・愛知教育大学)卒。戸長、六輪村(のち平和村、現・稲沢市)長、同村会議員、中島郡会議員、同参事会員、愛知県会議員、日光川倉庫(株)銀行頭取、尾三農工銀行、尾張銀行各取締役、名古屋米穀取引所監査役となる。 1904年の第9回衆議院議員総選挙において愛知県郡部から立憲政友会公認で立候補してトップ当選した。衆議院議員を1期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙は不出馬。1923年死去。
掘越 寛介(ほりこし かんすけ、1859年8月23日(安政6… 掘越 寛介(ほりこし かんすけ、1859年8月23日(安政6年7月25日)- 1916年(大正5年)2月27日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、埼玉県北埼玉郡川俣村長。堀越と表記される場合がある。族籍は埼玉県平民。 武蔵国埼玉郡本川俣村(のち埼玉県北埼玉郡川俣村、現:羽生市)で、豪農・掘越庭七郎、りく夫妻の三男として生まれる。和漢学を修めた。 1874年、本川俣村戸長に就任。自由民権運動に加わり、1876年、埼玉郡羽生町に同志と民権結社通見社を創設した。1879年、国会開設請願書を元老院に提出。1881年、羽生領用悪水路連合会、島川路連合会、羽生中学連合会などの議長となる。同年に自由党が創設されると、1882年、通見社などを母体に自由倶楽部を結成し、これが立憲自由党埼玉部に発展し部理(理事)となる。
熊本 寿人(くまもと ひさと〔仮、読み不詳〕、1858年9月… 熊本 寿人(くまもと ひさと〔仮、読み不詳〕、1858年9月21日(安政5年8月15日)- 1924年(大正13年)1月10日)は、明治から大正期の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・北村。 筑後国三潴郡、のちの福岡県久留米市で久留米藩士・北村養啓の二男として生まれ、三潴郡木室村中木室(現大川市)の熊本謹蔵の養子となる。和洋学を修めた。 1886年(明治19年)福岡県の花筵業振興のため合資会社共産社を設立。花筵の製造、販売に従事し、染料の改善、染釜の改良などにより製品の品質向上に尽力した。また、筑後茣蓙商同業組合頭取、福岡県花筵同業組合長などを務めた。その他、三潴銀行取締役、福岡県農工銀行監査役にも在任した。
10代 桑原 善吉(くわばら ぜんきち、1858年9月20日… 10代 桑原 善吉(くわばら ぜんきち、1858年9月20日(安政5年8月14日)- 1934年(昭和9年)4月30日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・林。 美濃国加茂郡太田村(岐阜県加茂郡太田町を経て現美濃加茂市)で素封家・林市郎兵衛の二男として生まれ、のちの岐阜市玉井町の材木商・9代桑原善吉の婿養子となる。1889年(明治22年)7月、家督を相続した。 家業の材木商「桑善」を営む。1877年(明治10年)10月に創立した第十六国立銀行(後の十六銀行)の経営に参画し、重役を経て頭取に就任した。また、岐阜電気取締役、岐阜貯蓄銀行頭取、岐阜材木同業組合長、第4代岐阜商業会議所会頭、岐阜県地方森林会議員などを務めた。
荒井 啓五郎(あらい けいごろう、安政5年8月13日〈185… 荒井 啓五郎(あらい けいごろう、安政5年8月13日〈1858年9月19日〉 - 1920年〈大正9年〉7月22日)は、明治から大正前期の公証人、政治家。衆議院議員。足尾鉱毒問題における田中正造の同労者。 上野国邑楽郡石打村(群馬県邑楽郡石打村、高島村大字石打、中島村、邑楽村を経て現邑楽町石打)で、名主・荒井源十郎、みね の長男として生れた。英僊三から読書、習字を学び、1874年(明治7年)に上京して飯田章湖の塾に入門して漢学を修めた。 帰郷して、1880年(明治13年)蜂巣長五郎を招聘し幽谷義塾を開き、主として英学、漢学、数学を郷土の子弟に教えた。1881年(明治14年)再度上京して明治法律学校(現明治大学)で法律学、経済学を学んだ。
川島 瀧蔵(かわしま たきぞう、1858年9月17日(安政5… 川島 瀧蔵(かわしま たきぞう、1858年9月17日(安政5年8月11日) - 1930年(昭和5年)3月26日)は、明治から昭和時代初期の政治家、畜産家。衆議院議員(1期)。 遠江国、のちの静岡県山名郡於保村(磐田郡於保村を経て現磐田市)出身。畜産業を営み、興農社、畜産組合、共同競馬会などを創立したほか、獣医養成所、水産物製造伝習所を設立した。ほか、副戸長、村長、静岡県会議員、同参事会員、磐田郡会議員、地方森林会議員を歴任した。1904年(明治37年)3月の第9回衆議院議員総選挙では静岡県郡部から憲政本党所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
深尾 竜三(龍三、ふかお りょうぞう、1858年9月17日(… 深尾 竜三(龍三、ふかお りょうぞう、1858年9月17日(安政5年8月11日) - 1907年(明治40年)2月24日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 河内国交野郡尊延寺村(のち大阪府北河内郡氷室村→津田町、現・枚方市)に生まれる。漢学を学ぶ。農業を営み、商業に従事する。学務委員、勧業委員、衛生委員、茶業組合会議員、町村組合会議員、地方教育会頭、氷室村長、北河内郡会議員となる。また、山城起業銀行、河内酒造会社各取締役を務めた。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において大阪6区から無所属で立候補して初当選。同年8月の第6回衆議院議員総選挙で再選を果たした。1902年の第7回衆議院議員総選挙では大阪府郡部から帝国党公認で立候補したが落選した。
大西 五一郎(おおにし ごいちろう、1858年9月14日(安… 大西 五一郎(おおにし ごいちろう、1858年9月14日(安政5年8月8日)- 1917年(大正6年)2月25日)は、明治から大正前期の実業家、政治家。衆議院議員、大阪府堺市長。 和泉国大鳥郡堺甲斐町西四丁(現堺市堺区)で、代々具足屋の屋号で両替商を営んだ大西家当主・先代大西五一郎の長男として生まれる。大和国の儒学者谷三山に漢籍を学んだ。 1881年(明治14年)大西銀行を設立して頭取に就任し終生在任した。1886年(明治19年)3月、家督を相続し五一郎を襲名した。堺商業会議所副会頭、大阪電機製造取締役、大阪電気信託取締役、市立堺商品陳列所長、第5回内国勧業博覧会評議員などを務めた。 1879年(明治12)堺区学区取締に就任。
北古賀 竹一郎(きたこが たけいちろう、1858年9月9日(… 北古賀 竹一郎(きたこが たけいちろう、1858年9月9日(安政5年8月3日)- 1926年(大正15年)8月14日)は、明治時代から大正時代の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 肥前国佐賀郡本庄村(現在の佐賀県佐賀市)において、佐賀藩士の北古賀兵蔵の長男として生まれる。海軍兵学校を卒業し海軍少尉となる。同期に海軍大将となった斎藤実がいる。後に海軍大学校に入学し、卒業後に日清戦争に従軍した。1899年、海軍大佐となり海軍省軍務局兵器課長に就任した。 1906年、呉工廠長となり、1908年に舞鶴工廠長、同年に海軍水雷学校校長兼横須賀水雷団長などとなった。また、駐英造船造兵監督官や艦政本部第1部長、東京造兵廠長なども務めた。
高木 友枝(たかぎ ともえ、1858年9月8日(安政5年8月… 高木 友枝(たかぎ ともえ、1858年9月8日(安政5年8月2日) - 1943年(昭和18年)12月23日)は、陸奥国泉藩(福島県)出身の医学者、細菌学者。日本統治時代の台湾で台湾総督府医学校第2代校長、台湾電力(台電)初代社長を務め、ペスト撲滅や電力開発などに貢献。後藤新平による台湾近代化政策のもとで医学教育と医療行政の礎を築いたことから『台湾医学・衛生の父』として知られているほか、戦前台湾の民主化運動(zh:臺灣民主化)を支持し、活動家に転じた門下生にも影響を与えた。 陸奥国菊多郡泉藩松小屋村(現在の福島県いわき市泉地区・渡辺町松小屋)で出生。 東京大学医学部(現・東京大学大学院医学系研究科・医学部)在学時に高木は先輩の北里柴三郎(1853-1931)と交流もあった。
團 琢磨(だん たくま 安政5年8月1日(1858年9月7日… 團 琢磨(だん たくま 安政5年8月1日(1858年9月7日) - 1932年(昭和7年)3月5日)は、日本の工学者、実業家。爵位は男爵。アメリカで鉱山学を学び、三井三池炭鉱の経営を行う。経営を成功させ、三井財閥の総帥となった。三井合名会社理事長、日本工業倶楽部初代理事長などを歴任した。
松井 源内(まつい げんない、1858年8月30日(安政5年… 松井 源内(まつい げんない、1858年8月30日(安政5年7月22日) - 1913年(大正2年)3月9日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、寿都町長。旧姓・若林、初名・忠太郎。 佐渡国雑太郡吉岡村(現新潟県佐渡市吉岡)で農業・若林源右衛門の二男として生まれ、同村・先代松井源内の養子となる。その後、養父の死去に伴い源内を襲名した。 1873年、義兄・高野吾吉に伴われ江差に移り、同地の呉服商・本郷家に奉公し、各地に行商した。1884年、寿都に移り同地で義兄・高野吾吉が経営していた呉服店を帰郷する高野から譲り受け、さらに海産仲買業、醸造業、回漕業、漁業などにも経営を広げた。また、寿都外三郡酒造組合長、後志興農銀行 (株) 取締役、寿都銀行 (株) 取締役、寿都倉庫 (株) 社長、寿都汽船 (株) 社長などを務めた。
北守 政直(きたもり まさなお、安政5年7月21日〈1858… 北守 政直(きたもり まさなお、安政5年7月21日〈1858年8月29日〉 - 大正15年〈1926年〉1月18日)は、明治から大正時代の日本の政治家、実業家。函館区長。通称は縫人、清次郎。 盛岡藩士・北守政智の長男として生まれ、1870年(明治3年)家督を相続し、盛岡藩権大属となる。当時、北守家は御新丸番頭家格で家禄は250石。同年免官し、1876年(明治9年)岩手県に出仕。地租改正係となる。その後、県税係を経て、1878年(明治11年)開拓使函館支庁に出向し、会計課配属となる。翌年の1879年(明治12年)民事課に転じ、1880年(明治13年)岩手県からの出向停止となり、開拓使に採用され准判任官に任官。
森田 久萬人(もりた くまんど、1858年8月26日(安政5… 森田 久萬人(もりた くまんど、1858年8月26日(安政5年7月18日) - 1899年(明治32年)2月23日)は熊本バンドの一人である。 1858年肥後国山鹿郡上永野村(現山鹿市)の熊本藩士の鈴木家に生まれ、森田家の養子になる。 藩校時習館で和漢の学問を修め、1871年熊本洋学校に入学。卒業後に洋学校の教師になる。1876年熊本バンドの盟友と共に、同志社英学校に入学する。卒業と同時に、同志社の教師になる。教師業の傍ら、『六合雑誌』に哲学と理学の論文を発表する。 イェール大学に留学し、ジョージ・トランブル・ラッドに師事する。ヘルマン・ロッツェの哲学の研究をし、ロッツェの形而上学と仏教の教義の比較研究で哲学博士号を取得する。
高橋 久次郎(たかはし きゅうじろう、1858年8月25日(… 高橋 久次郎(たかはし きゅうじろう、1858年8月25日(安政5年7月17日)- 1926年(大正15年)6月11日)は、明治から大正時代の政治家。衆議院議員(5期)。 高橋佐十郎の子として、出雲松江藩領神門郡稗原村(島根県神門郡稗原村、簸川郡稗原村を経て現出雲市)に生まれる。奉緘斎の門に入り漢籍を修めた。農業を営む傍ら、1876年(明治9年)第四十八区戸長に就任し、1881年(明治14年)稗原村戸長に転じた。1884年(明治17年)郡民より推され、島根県会議員に当選し、同常置委員を務めた。ほか、簸川郡会議員、同議長、道路会議議員、郡農会長、郡蚕業同業組合長、郡青年農業団総裁を歴任した。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では島根県第3区から出馬し当選。
田口 謙吉(たぐち けんきち、1858年(安政5年)8月23… 田口 謙吉(たぐち けんきち、1858年(安政5年)8月23日 - 1928年(昭和3年)10月18日)は、日本の実業家。参天製薬創業者。
伊東 圭介(いとう けいすけ、1857年9月22日(安政4年… 伊東 圭介(いとう けいすけ、1857年9月22日(安政4年8月5日)- 1895年(明治28年)2月5日)は、明治時代の政治家、弁護士。自由民権運動家。衆議院議員(2期)。 盛岡藩目付役の父、伊東元右衛門の子として盛岡に生まれる。幼くして藩校作人館に入り和漢学を修め、大清水の小原洋学塾で学び、上京したのち岩手県聴訴課に奉職する。法律に目覚め、官を辞して法学を研究し、1875年(明治8年)代言人となった。翌年、協同社を、1878年(明治11年)には改進社を設立、さらに同社を合併し自由党盛岡支部を設立するなど自由民権運動に傾倒するが、1884年(明治17年)政談演説会で黒田内閣顧問の職務を誹毀したとして侮辱罪に問われ重禁錮2ヶ月罰金10円に処された。
青柳 四郎(あおやぎ しろう、安政4年8月4日(1857年9… 青柳 四郎(あおやぎ しろう、安政4年8月4日(1857年9月21日) - 大正10年(1921年)3月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 豊前国小倉城下(現在の福岡県北九州市小倉北区)に、小倉藩士鎌田思誠の四男として生まれ、青柳彦蔵の養子となった。法律学を学んで、代言人となった。福岡県会議員に選出され、参事会員も務めた。 1900年(明治33年)、衆議院補欠選挙で当選。第7回衆議院議員総選挙、第8回衆議院議員総選挙でも再選された。
伊藤 欽亮(いとう きんすけ(きんりょう)、安政4年8月4日… 伊藤 欽亮(いとう きんすけ(きんりょう)、安政4年8月4日(1857年9月21日) - 昭和3年(1928年)4月28日)は、日本の実業家。新聞『時事新報』編集長、新聞『日本』社長。交詢社理事、慶應義塾評議員。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
安達 憲忠(あだち けんちゅう/のりただ、安政4年8月3日(… 安達 憲忠(あだち けんちゅう/のりただ、安政4年8月3日(1857年9月20日) - 昭和5年(1930年)12月2日)は、備前国赤坂郡小野田村(現・赤磐市熊山町)出身の社会実業家。東京市養育院幹事。 1857年、備前国赤坂郡小野田村で生まれる。幼くして母と死別し、遠戚の天台宗寺院で育つ。仏教を修める一方、岡山の藩校遺芳館で経学を学び、新聞記者となる。山陽新報、中国日々新聞、福島新聞などの記者を務める傍ら、自由民権運動に携わり、「岡山自由党の四天王の一人」と称される。また、集会条例違反で逮捕された事もあった。 その後上京し、1888年、東京府に奉職する。東京市養育院院長であった渋沢栄一の勧めで、1892年、養育院幹事となる。
高橋 善一(たかはし よしかず、安政4年8月3日〈1857年… 高橋 善一(たかはし よしかず、安政4年8月3日〈1857年9月20日〉 - 1923年〈大正12年〉5月20日)は、明治時代から大正時代の鉄道員・鉄道官吏。新橋停車場の下級駅夫より鉄道院副参事まで累進した最古参の鉄道員として知られた。初代東京駅長。名は「ぜんいち」とも。 三河国渥美郡西伊古部村(現・豊橋市伊古部町)にて、河合善七(福井県平民)の次男として生まれ、幼くして同郡赤沢村(現・豊橋市赤沢町)の高橋祐二の養子となり、のち高橋さくと婚姻した。 数え14歳で海軍を志して上京、早稲田の北門社に入塾したが、新橋・横浜間の汽車を見物したの機に、1873年(明治6年)につてを得て新橋停車場(のち汐留駅)の下級駅夫として雇われた。
若林 玵蔵(わかばやし かんぞう、1857年9月19日(安政… 若林 玵蔵(わかばやし かんぞう、1857年9月19日(安政4年8月2日)- 1938年(昭和13年)5月3日)は、日本の速記者である。幼名は銓太郎。 武蔵の埼玉郡加須に生まれる。明治法律学校(現在の明治大学)に入学し、在学中の1882年(明治15年)に田鎖綱紀に師事し、彼が開いた日本傍聴筆記法講習会の記念すべき第一回講習生して加入した。これにより、卒業後の1884年(明治17年)に埼玉県議会の議事記録に携わる。 その後は矢野龍渓が著した『経国美談』の後編や三遊亭圓朝の『怪談牡丹灯籠』の速記したものを版にする事にも携わり、速記物の実用化に貢献した。これにより若林は多くの速記者の育成や、1890年(明治23年)には帝国議会における衆議院の常任速記者としても活動した。
植木 元太郎(うえき もとたろう、1857年9月19日(安政… 植木 元太郎(うえき もとたろう、1857年9月19日(安政4年8月2日) - 1943年(昭和18年)1月25日)は日本の実業家、政治家。島原鉄道および口之津鉄道(のちに島原鉄道に合併)、温泉軽便鉄道(のちの雲仙鉄道)、小浜鉄道(同)を設立し、島原半島内の鉄道網の整備を進め、のち初代島原市長を務めた。号「鉄狂斎」。 1857年、肥前国高来郡多比良村(長崎県南高来郡多比良町、国見町を経て現雲仙市国見町)で、酒造業を営む植木直平の子として生まれる。肥前鹿島の谷口藍田に漢学を、長崎の中島広行に国学を学んだ。 1874年(明治7年)、父の没後家業を継ぐ。1879年(明治12年)頃から副業として山野の開墾や海面埋め立てにより農地を造成しクワや果樹の栽培を手がけ、養蚕製糸業を営む。
渡辺 渡(わたなべ わたる、安政4年7月27日(1857年9… 渡辺 渡(わたなべ わたる、安政4年7月27日(1857年9月15日) - 大正8年(1919年)6月29日)は、日本の冶金学者。 長崎県出身。大学南校を経て、1879年(明治12年)、東京大学理学部を卒業し、東京大学校助教授となった。1882年(明治15年)から1885年(明治18年)まで冶金鉱山学研究のためドイツに留学し、フライベルク鉱山大学に学ぶ。1886年(明治19年)、東京帝国大学工科大学教授に就任し、農商務省技師を兼ね佐渡鉱山局に勤務した。また宮内省で御料鉱山設置の構想が進むと、御料局技師・理事・佐渡支庁長に任命された。1891年(明治24年)には工学博士の学位を得た。しかし1896年(明治29年)に御料鉱山構想が中止になると退官した。
木戸 孝正(きど たかまさ、1857年9月14日〈安政4年7… 木戸 孝正(きど たかまさ、1857年9月14日〈安政4年7月26日〉- 1917年〈大正6年〉8月10日)は、日本の宮内官、政治家、華族(侯爵)。貴族院侯爵議員。旧姓は来原、幼名は彦太郎。 長州藩士・来原良蔵、治子(木戸孝允の妹)夫妻の長男として生まれる。木戸孝允の養嗣子であった弟木戸正二郎の死去に伴い、木戸家を継承し1884年(明治17年)11月18日、侯爵を襲爵()。1890年(明治23年)2月、貴族院令施行により貴族院侯爵議員に任じられ死去するまで在任した。 1871年(明治4年)、アメリカ合衆国に留学。帰国後、開成学校、東京大学理学部、大阪専門学校を修了。1882年(明治15年)以降、山口師範学校教諭兼同山口中学校教諭、駅逓局属、農商務省御用掛、主猟官などを経て、1902年(明治35年)に東宮侍従長兼式部官、1908年(明治41年)に宮中顧問官式部官兼閑院官別当となる。
渋江 保(しぶえ たもつ、1857年9月14日(安政4年7月… 渋江 保(しぶえ たもつ、1857年9月14日(安政4年7月26日) - 1930年4月7日)は日本の翻訳家、著作家、教師、ジャーナリスト、自由民権家として明治期に活躍した人物である。渋江抽斎の実子で、本名は成善(しげよし)、幼名は三吉(さんきち)、通称は道陸(どうりく)である。森鷗外が小説『渋江抽斎』を執筆した際の情報提供者であるというのが一般的な評価である。 渋江は親交の深かった多くの民権家が民権運動後期に至り、アジアへの国権拡張を主張する中で、誰もが唱えなかった植民地問題について深い理解があった。多くの自由民権思想家が自国民の自由民権だけを意識してきたのに対して、渋江は代表作『万国戦史』の編纂をとおして戦史思想を展開し植民地政策に反対を唱えた。
山口 嘉七(やまぐち かしち、1857年9月13日(安政4年… 山口 嘉七(やまぐち かしち、1857年9月13日(安政4年7月25日)- 1932年(昭和7年)12月17日)は、明治から昭和初期の弁護士、実業家、政治家。衆議院議員。 若狭国遠敷郡小浜酒井町(福井県遠敷郡小浜町を経て現小浜市酒井)で、小浜藩士・山口甚太夫の三男として生れる。 1886年(明治19年)代言人試験に合格し、1893年(明治26年)弁護士登録を行い、大津、京都で開業。その後、帰郷して1895年(明治28年)4月、小浜町会議員となる。遠敷郡会議員、同参事会員にも在任。1897年(明治30年)8月、福井県会議員に初当選し、1908年(明治41年)3月まで通算5期、10年6ヵ月在任した。
10代奥野 小四郎(おくの こしろう、1857年9月10日(… 10代奥野 小四郎(おくの こしろう、1857年9月10日(安政4年7月22日) - 1915年(大正4年)12月31日)は、日本の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員、兵庫県津名郡洲本町長、北海道河西郡帯広町長。旧姓・富永、初名・守次郎。 淡路国津名郡(後の鮎原村、現洲本市)で富永包方の二男として生まれる。徳島藩校で漢学、撃剣を修め、その後英語を学んだ。1877年、洲本町の商人・9代奥野小四郎の死去に伴い、その養嗣子となり10代小四郎を襲名。 1881年、淡路汽船 (株) を起こし翌年社長に就任。淡路紡績 (株) 社長、淡路製陶 (株) 社長などを務めた。その他、洲本町長、洲本町会議員、洲本商工会会長、津名郡会議員、同郡会議長、同郡参事員、徴兵参事員、兵庫県会議員などを歴任。
関 直彦(せき なおひこ、1857年9月4日〈安政4年7月1… 関 直彦(せき なおひこ、1857年9月4日〈安政4年7月16日〉- 1934年〈昭和9年〉4月21日)は、日本のジャーナリスト、政治家、弁護士。東京日日新聞社長、衆議院議員、貴族院議員。 江戸で紀州藩士関平兵衛の次男として生まれる。築地の立教学校(立教大学の前身の一つ)で学ぶ。 1883年(明治16年)、東京大学法学部法律科を卒業後、東京日日新聞入社。東京専門学校・英吉利法律学校の各講師、東京日日新聞記者、日報社社長などを務め、後に弁護士となり東京弁護士会長も務めた。さらに、東京日日新聞・大阪日日新聞・帝国石油の各社長などを歴任。 政界にも進出し、麹町区会議員、東京市会議員、同参事会員、東京府会議員を歴任。
麻生 太吉(あそう たきち、1857年8月26日(安政4年7… 麻生 太吉(あそう たきち、1857年8月26日(安政4年7月7日) - 1933年(昭和8年)12月8日)は日本の炭鉱業者、実業家、政治家。第92代内閣総理大臣麻生太郎の曽祖父。
中浜東一郎(なかはま とういちろう、安政4年7月7日(185… 中浜東一郎(なかはま とういちろう、安政4年7月7日(1857年8月26日)- 1937年(昭和12年)4月11日)は、日本の医師、医学者。ジョン万次郎の子。 中浜万次郎の長男として江戸土佐藩邸中屋敷にて出生。明治5年(1872年)、横浜十全医院に入り医学を研修、翌6年(1873年)に大学東校に入り、明治14年(1881年)に(旧)東京大学医学部を卒業。 1881年(明治14年)に福島県医学校校長に任命され、その後、岡山・金沢各医学校教授兼病院長を歴任。1885年(明治18年)10月、内務省の命により、衛生学に属する部分の研究のためドイツへ留学差遣される。1886年(明治19年)1月、ライプツィヒ大学衛生試験所の衛生学ホフマン教授に師事する。
松田 学(松田 學、まつだ まなぶ / がく、1856年9月… 松田 学(松田 學、まつだ まなぶ / がく、1856年9月17日(安政3年8月19日)- 1938年(昭和13年)1月10日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、札幌市会議長。 但馬国出石郡水上村(現兵庫県豊岡市)で、庄屋・松田甚次郎の長男として生まれる。 1881年6月、徳島県属に任じられ、以後、大蔵省属、根室県収税属、北海道庁属を歴任し、1891年に退官。実業に従事した後、1897年、北海道庁属に再任され、さらに台湾総督府新竹県属、台北県属を務め、1898年に退官した。 その後、札幌に移り、実業界に入った。1907年、札幌木材 (株) 取締役に就任。以後、札幌調帯 (株) 取締役社長、定山渓鉄道 (株) 取締役社長、札幌商業会議所第3代会頭などを歴任。
高川 定次郎(たかがわ ていじろう、1856年9月16日(安… 高川 定次郎(たかがわ ていじろう、1856年9月16日(安政3年8月18日)- 1921年(大正10年)11月25日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、兵庫県会議長、兵庫県赤穂郡坂越村長。 播磨国赤穂郡坂越村(兵庫県赤穂郡坂越村、坂越町を経て現赤穂市坂越)で、油製造業、廻船業、塩業・高川定十郎の息子として生まれた。室井源仙に師事し、漢学、習字、算数を修めた。その後、赤穂郡北野中村の鍋島智成から漢籍を学んだ。 1877年(明治10年)坂越村小学校教員となり数年間在任。1883年(明治16年)3月、赤穂郡全町村連合会議員に就任。1885年(明治18年)12月、兵庫県会議員に選出され、同常置委員、同副議長、同議長も務めた。
山田 順一(やまだ じゅんいち、1856年9月11日(安政3… 山田 順一(やまだ じゅんいち、1856年9月11日(安政3年8月13日) - 1919年(大正8年)10月19日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。名は篤敬、字は子信、号は忠焉齋、旧姓飯塚。 越後国刈羽郡新道村(のち新潟県刈羽郡日高村→高田村、現・柏崎市)生まれ。神奈川県立修文館で英語を学び、東京湯島共貫義塾を経て、麻布学農社で農学を学ぶ。新潟県会議員、刈羽郡連合会議員、同議長、郡教育会議員、同議長、学務委員、両田尻村(現・柏崎市)外七ヶ村戸長、郡所得税調査委員、徴兵参事員、田尻村会議員、刈羽郡会議員、同議長代理となる。第百三十九国立銀行取締役、柏崎物産(株)社長、越後セメント取締役、柏崎米穀取引所理事長、宝(株)石油、日東石油(株)各取締役、七十七銀行、石地銀行各監査役を務めた。
藤掛 文平(ふじかけ ぶんぺい、1856年9月10日(安政3… 藤掛 文平(ふじかけ ぶんぺい、1856年9月10日(安政3年8月12日) - 1920年(大正9年)1月30日)は、明治から大正時代の政治家。薬剤師。衆議院議員。 美濃国可児郡、のちの岐阜県可児郡兼山町(現可児市)出身。東京薬学校を卒業し、薬剤師として薬種問屋および各種薬品の製造販売業を営む。 区長、戸長、岐阜県会議員を歴任した。1902年(明治35年)8月の第7回衆議院議員総選挙では岐阜県郡部から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
浅野 長太郎(あさの ちょうたろう、1856年9月7日(安政… 浅野 長太郎(あさの ちょうたろう、1856年9月7日(安政3年8月9日) - 1932年(昭和7年)3月18日)は、明治から大正時代の政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 越中富山藩領婦負郡笹倉村(富山県婦負郡速星村、婦中町を経て現富山市)で、大地主・浅野為都(ためと)の長男として生まれる。 1884年(明治17年)以降、笹倉村会議員、同議長、速星村会議員、同村長、富山県会議員(3期)、婦負郡会議員、同議長代理、速星村農会長、同学務委員などを歴任した。 1906年(明治39年)富山県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、同年12月13日から1911年(明治44年)9月28日まで在任した。
松岡 長康(まつおか ながやす、1856年9月6日(安政3年… 松岡 長康(まつおか ながやす、1856年9月6日(安政3年8月8日) - 1908年(明治41年)4月26日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 肥後国八代郡高田村(現・熊本県八代市)の地主の家に生まれる。漢学を学ぶ。農業と商業を営み、学区取締、熊本県会議員、熊本県御用掛、県収税属、八代郡所得税調査委員となる。日清戦争後の1895年、台湾総督府雲林支庁長、同法院雲林支部審判官、台中県支庁書記官となり、従七位に叙せられる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において熊本5区から自由党公認で立候補して当選する。同年8月の第6回衆議院議員総選挙で再選。衆議院議員を2期務め、1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。
佐藤 範雄(さとう のりお、1856年9月4日(安政3年8月… 佐藤 範雄(さとう のりお、1856年9月4日(安政3年8月6日) - 1942年(昭和17年)6月20日)は、現在の広島県福山市出身の宗教家・教育者。 金光教祖の教えを教祖没後も世に遺すべく、教祖の教えの記録保存や、信者の結収を行い、金光教の教団組織化を推進した。現在の金光学園中学校・高等学校と金光教学院の創立者・初代校長。金光教の三直信の一人で、金光教内では佐藤宿老(さとう しゅくろう)と呼ばれる。 安政3年(1856年)8月6日(戸籍上は2月8日)、備後国安那郡神御領村(現在の広島県福山市神辺町上御領)佐藤吉五郎満貴の三男に生まれる。明治4年(1871年)、16歳の時大工職を目指し弟子入りした。
青木 定謙(あおき さだかね、安政3年8月4日(1856年9… 青木 定謙(あおき さだかね、安政3年8月4日(1856年9月2日) - 昭和5年〈1930年〉4月10日)は、内務官僚、札幌区長。 秋田市角館出身。1875年(明治8年)に小学校教員となり、その後仙北郡書記、山形県警部、秋田県警部、秋田県属を歴任した。1890年(明治23年)、秋田県参事官に任じられ、高知県参事官、島根県警部長、和歌山県警部長、新潟県警部長、広島県警部長、広島県事務官・第四部長を歴任した。 1906年(明治39年)、札幌区長に選出され、1912年(大正元年)まで在任した。 1922年(大正11年)より義勇財団海防義会の理事を務めた。
保田 棟太(やすだ むねた、1856年9月1日(安政3年8月… 保田 棟太(やすだ むねた、1856年9月1日(安政3年8月3日) - 1919年(大正8年)6月28日)は、教育者。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。
井口 省吾(いぐち しょうご、1855年9月20日〈安政2年… 井口 省吾(いぐち しょうご、1855年9月20日〈安政2年8月10日〉- 1925年〈大正14年〉3月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将 従二位勲一等功二級。日清戦争、日露戦争期を代表する軍人の一人である。駿河国出身。 歩兵第九聯隊大津分営に兵卒として入営し、翌年、陸軍士官学校を受験している。 陸軍士官学校(旧2期)、陸軍大学校(1期)を経て1887年(明治20年)にドイツ留学。日露戦争時には満州軍総司令部参謀となり、奉天会戦などの作戦指揮にあたった。児玉源太郎は口癖のように、「俺には普賢菩薩と文殊菩薩がついている。」と井口と松川敏胤の両名を頼りにしていたという。またドイツ留学の経験を生かし、いろいろな訳書を行った。
井島 茂作(いじま もさく、1855年9月18日(安政2年8… 井島 茂作(いじま もさく、1855年9月18日(安政2年8月8日)- 1925年(大正14年)8月31日)は、三重県四日市市(伊勢国)出身の政治家、教育者、実業家。第2代四日市市長(官選市長)。 井島家は戦国時代には北畠氏の家臣であったが、1570年(元亀元年)に多気郡浅香(現在の松阪市嬉野町付近)から四日市に移住して、北勢四十八家の1つの浜田氏の重臣となった。江戸時代には、市場町四日市を開拓した旧家として名高く、代々庄屋を務めた。1804年(文化元年)以降は苗字帯刀永久御免となった。 竪町(現在の四日市市北町)に誕生した茂作は、1867年(慶応3年)に庄屋役見習い、1872年(明治5年)には度会郡の山田国札引替役に任命された。
松本 節造(まつもと せつぞう、1855年9月18日(安政2… 松本 節造(まつもと せつぞう、1855年9月18日(安政2年8月8日) - 1933年(昭和8年)11月24日)は日本の政治家。渡村長(第2代)、渡村会議員。 渡村(現在の鳥取県境港市渡町)の富農「下渡辺」渡辺又衛の次男として生まれ、千鳥屋松本に婿養子に入った。千鳥屋は渡村草分けの一軒といわれている旧家で、農業の傍ら酒・醤油醸造業を営む富豪だった。 38歳で村長となった節造は、村の発展は道路整備が第一と、改修が終わった外浜街道と渡を直線で結ぶ渡・余子間里道の改修を成し遂げたほか、消防組を設置し、衛生組合の創設や、伝染病避病舎建築等を果たした。
三須 宗太郎(みす そうたろう、1855年9月16日〈安政2… 三須 宗太郎(みす そうたろう、1855年9月16日〈安政2年8月6日〉- 1921年〈大正10年〉12月24日)は、明治時代の海軍軍人。官位は海軍大将・正三位勲一等功二級男爵。近江国(現:滋賀県)出身。 彦根藩士三須熊次郎の長男として生まれた。藩主井伊直弼がペリー来航に際して江戸湾防衛を担当した際、死を覚悟して事前に「宗観院柳暁覚翁居士」の戒名を手に入れて赴任したことにちなみ、熊次郎は藩主の戒名から最初の一字を頂き、長男を宗太郎と命名した。三須本人も開国に殉じた藩主を尊敬し、元服しても名を改めようとしなかった。 明治4年(1872年)8月、海軍兵学寮に入った。カリキュラムを修了するまでの7年間、兵学寮に留まったが、生徒の多くが薩摩藩や佐賀藩の出身者で、彦根出身の三須には居心地のよい場所ではなかったらしい。
植田 惣五郎(うえだ そうごろう、1855年9月12日(安政… 植田 惣五郎(うえだ そうごろう、1855年9月12日(安政2年8月2日) - 没年不明)は、日本の篤農家、実業家。植田合名会社代表社員。族籍は山口県平民。 長門国彦島(現・山口県下関市)出身。植田惣三郎の長男。1874年、家督を相続した。三菱を背景として弟子待及び江ノ浦一帯の海岸を埋築して貯炭場を作り、あるいは数10隻に余る帆船を造り、ほとんど全国にまたがり海運業を営み、日清、日露戦役から欧州大戦にかけてにわかに家運膨張し、一躍巨万の富をなした。 三菱の引立てがあったといえども惣五郎の手腕と英断がなければ成功は成し遂げられなかった。蓄財の反面子弟の教養に意を注ぎ、末子2人は帝大を卒業して三菱社員となった。
秋元 源彌(秋元 源弥、あきもと げんや、1855年9月5日… 秋元 源彌(秋元 源弥、あきもと げんや、1855年9月5日〈安政2年7月24日〉 - 1915年〈大正4年〉7月26日)は、日本の商人(皮革商、近江屋主)、会社役員。日本肥料取締役。族籍は東京府平民。 近江国坂田郡甲田村(のち滋賀県坂田郡鳥居本村、現彦根市甲田町)出身。秋元平太郎の三男。分家して一家を創立する。僅かに旅費を持ち、1879年に単身で東京に来る。 製皮事業が有利であることを予知し、2年間某商の徒弟となり、1881年に独立して近江屋商店を開業する。「都下に於ける皮革商中の大商賈」と称され、直接国税約1000円を納める。 所得税調査委員、東京製革業組合頭取などをつとめる。長らく病気のところ薬石効なく1915年7月26日に死去する。
鵜飼 郁次郎(うかい いくじろう、1855年9月2日(安政2… 鵜飼 郁次郎(うかい いくじろう、1855年9月2日(安政2年7月21日) - 1901年(明治34年)9月27日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 佐渡国加茂郡河崎村(新潟県佐渡郡河崎村、両津市を経て現佐渡市)出身。1876年、新潟師範学校卒。卒業後は東京府雇、新潟師範学校教員、中学校教諭、新潟県会議員となる。また、雑誌「回天」を発行する。 1890年の第1回衆議院議員総選挙において新潟9区から自由倶楽部公認で立候補して初当選する。1892年の第2回衆議院議員総選挙では独立俱楽部から立候補して再選した。1894年の第3回衆議院議員総選挙では国民協会から立候補して落選した。1901年に死去した。
奈須川 光宝(なすがわ みつとみ、1855年9月2日(安政2… 奈須川 光宝(なすがわ みつとみ、1855年9月2日(安政2年7月21日) - 1926年(昭和元年)12月29日)は、日本の政治家。青森県八戸町長、衆議院議員。 八戸城下の八戸藩士川勝家の子として生まれる。1862年(文久2年)に奈須川光武の養子となる。八戸初の英学校である開文舎で英語などを学び、1875年(明治8年)に八戸小学校の教諭となる。 1885年(明治18年)に青森県会議員に初当選。1888年(明治21年)に県会副議長を務め、翌年に自由党系の政治結社である八戸土曜会を結成した。 1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙に青森県第1区から出馬し当選。その後、第5回、第6回総選挙で当選し、衆議院議員を通算三期務めた。
新井 領一郎(あらい りょういちろう、安政2年7月19日(1… 新井 領一郎(あらい りょういちろう、安政2年7月19日(1855年8月31日) - 昭和14年(1939年)4月10日)は、日本の実業家、日米生糸貿易の創始者。旧姓名は星野良助。星野長太郎の実弟、孫娘の夫に駐日米国大使のエドウィン・O・ライシャワー。 上野国勢多郡(現群馬県桐生市)の農民であったが、明治初期に製糸業と生糸貿易の将来性に着目した兄星野長太郎と連携し、日本製生糸の市場開拓のためニューヨークに渡った。直ちに顧客獲得に取り組み、日本初の生糸直輸出を実現した。有力絹織物業者などとの取引を通して生糸輸出量の飛躍的拡大を図った。絶えず高い品質維持を目指し品質向上にも努め、市場からの高い評価と信頼を勝ち取った。
五味 卯三郎(ごみ うさぶろう、1855年8月28日〈安政2… 五味 卯三郎(ごみ うさぶろう、1855年8月28日〈安政2年7月16日〉 - 1923年〈大正12年〉9月1日)は、日本の政治家、資産家、地主。東京府会議員、東京市会議員、神田区会議員。族籍は東京府平民。 栃木県宇都宮の人で、宇都宮藩士・五味吉房の二男。1869年、東京に出て吉川慎堂の門に入り漢籍・洋書を学んだ。1875年、分かれて一家を創立した。 1873年、樺太に渡り、後九州に於いて警察官となり西南戦争に従う。1879年、兄が病んで没した。卯三郎は官を辞めて上京し、遺子・保に其の後を継がせ、自ら分家した。 1892年、神田区会議員に挙げられ、以来20有余年間毎回当選した。1896年、東京府会議員に挙げられ、1897年、東京市会議員に選出された。