一戸 誠太郎(いちのへ せいたろう、1996年1月25日 -… 一戸 誠太郎(いちのへ せいたろう、1996年1月25日 - )は、北海道網走郡美幌町出身のスピードスケート選手。ANA社員アスリート。 父の指導でスケートを始め、中学卒業までは北海道の美幌町で過ごす。山形県の山形県立山形中央高等学校を経て、長野県の信州大学教育学部に進学。大学4年の時にナショナルチームに入り、チームパシュートに一員として練習しながら重ね、2018年平昌オリンピック日本代表になった。 2020年3月の世界オールラウンド選手権で総合3位となり、日本の男子が表彰台の立つのは、1997年の2位になった白幡圭史以来、23年ぶりとなった。 2022年北京オリンピックのスピードスケート競技では、男子5000mに出場し6分19秒81で12位だった。
高山 梨沙(たかやま りさ、1993年6月29日 - )は、… 高山 梨沙(たかやま りさ、1993年6月29日 - )は、北海道網走郡美幌町出身の女子スピードスケート選手である。安平町立早来中学校、駒澤大学附属苫小牧高等学校卒業。富士急行所属。妹である高山菜摘もスピードスケート選手。 小学校2年でスケートを始める。 小4で千歳市に移り、早来町(現・安平町)の少年団に入団。スピードスケートを本格的を打ち込む。小6で早来町に再び移住。 中学進学後に才能が開花。1年で3000mで全国準優勝。2年では全国優勝。真駒内選抜5000mで史上初の中学生優勝を果たした。 2008年にISUワールドカップ日本代表に選ばれる。中学生の選出は史上初。
高橋 優太(たかはし ゆうた、1987年4月13日 - )は… 高橋 優太(たかはし ゆうた、1987年4月13日 - )は、日本の陸上競技選手。専門は長距離種目。北海道美幌町出身。2006年、仙台育英学園高等学校、城西大学卒業、エスビー食品・DeNAを経て高橋牧場所属。 中学時代は陸上競技とクロスカントリースキーとの掛け持ちをしており、陸上では全国中学1500m 2位、クロスカントリースキー5kmでは全国中学6位などの成績を残している。仙台育英高進学後は陸上に専念し、大学では世界ジュニア代表、2007年ユニバーシアード5000mで4位入賞した。2008年の日本インカレ5000mでも日本人トップの3位に入り、2010年は主将として東京箱根間往復大学駅伝競走のシード権獲得に貢献した。
石田 正子(いしだ まさこ、1980年11月5日 - )は、… 石田 正子(いしだ まさこ、1980年11月5日 - )は、日本のクロスカントリースキー選手。日本大学文理学部体育学科卒業。現所属はJR北海道。日本人選手で初めてワールドカップ長距離種目(30kmクラシカル)3位入賞をしている。美幌町「栄誉賞」受賞。 北海道網走郡美幌町出身、札幌市在住。旭川大学高校では高校総体、高校選抜、ジュニアオリンピック、国体で優勝している。日本大学進学後は2001年3月にクロスカントリースキー・ワールドカップに初出場。インカレでも3連覇を達成。大学卒業後はJR北海道(2011年3月まではJR北海道グループの札新開発に勤務し、JR北海道スキー部所属、2011年4月以降はJR北海道とのユニフォームスポンサー契約)。
木村 章司(きむら しょうじ、1977年7月20日 - )は… 木村 章司(きむら しょうじ、1977年7月20日 - )は、日本のプロボクサー。元日本スーパーバンタム級王者(2度獲得)。花形ボクシングジム所属。 北海道網走郡美幌町出身。網走支庁初のボクシング興行を行った選手。 萩野崇初主演の映画「HERO?天使に逢えば…」に出演している。鴨居駅近くの飲食店「章舞」の店長等を経て、現在は空調設備会社勤務。 マイク・タイソンに憧れ、美幌北中学の頃から帯広市のボクシングジムに通うようになる。北海道美幌高等学校卒業後、札幌市の北海道ボクシングジムに短期間在籍の後、横浜市の花形ボクシングジムに移籍。 1997年10月3日、横浜文化体育館で花形ジム所属選手としてプロデビュー。
工藤 雪枝(くどう ゆきえ、1965年3月14日 - )は、… 工藤 雪枝(くどう ゆきえ、1965年3月14日 - )は、日本のジャーナリスト、評論家。国家論、安全保障論に関する執筆を行っている。 北海道美幌町に生まれ、その後陸上自衛官である父親の転勤に伴って全国各地に移り住む。高校在学中にAFS財団プログラム留学生として米国に1年間留学した。 岡山県立津山高等学校へ進学し、同期には稲葉浩志がいた。津山高校を経て、1988年(昭和63年)に東京大学法学部を卒業、その後ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)で経済学修士号を取得した。経済学の分野でも特にブラック・マートンらのデリバティブ価格理論を研究。本人曰くもともとは東大志望ではなく、高校時代成績優秀だったため志望を変更させられたという。
石川 求(いしかわ もとむ、1958年 - )は、日本の哲学… 石川 求(いしかわ もとむ、1958年 - )は、日本の哲学者、東京都立大学名誉教授。専門分野はドイツ近現代哲学。 北海道網走郡美幌町生まれ。北海道北見北斗高等学校、北海道大学文学部卒業。東北大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。2005年東京都立大学助教授、首都大学東京教授。 2016年「カントの無限判断」で京都大学文学博士。2019年『カントと無限判断の世界』で和辻哲郎文化賞受賞。
伊藤 博明(いとう ひろあき、1955年4月14日 - )は… 伊藤 博明(いとう ひろあき、1955年4月14日 - )は、日本の文学者、図像学者。専修大学教授(元・埼玉大学教授・副学長)。専門はヨーロッパ中世・ルネサンスの思想史(ルネサンス哲学)・芸術論・図像学。 北海道網走郡美幌町出身。1980年北海道大学文学部西洋哲学科卒業、87年同大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。1986年北海道大学文学部助手、1988年埼玉大学教養部講師、89年助教授、95年同教養学部助教授、98年教授のち副学長を経て、2017年4月より専修大学教授。 15世紀フィレンツェのプラトン主義をめぐる諸問題およびバロック期におけるテクストとイメージの関連に係わる諸問題を研究対象としている。
八巻 正治(やまき まさはる、1950年4月25日 - )は… 八巻 正治(やまき まさはる、1950年4月25日 - )は、日本の牧師、社会福祉学者。尚絅学院大学名誉教授、「ラブリー・チャペル」元牧師、元篤志面接委員、クリスチャン・ソーシャルワーカー。北海道網走郡美幌町出身。 尚絅学院大学での担当科目は社会的養護、児童養護、社会福祉、相談援助であった。 前任校の弘前学院大学では障害者福祉論が担当科目であった。 順天堂大学卒業後、東京都立光明養護学校教諭を経て四国学院大学、梅花女子大学、西南女学院大学、大分大学、弘前学院大学、尚絅学院大学教授を歴任。博士(教育学)・博士(宗教学)。 重い知的障害を有する義弟を養育し、義弟について大学の授業や講演等で積極的に発言し、その生活の記録を妻・益恵との共著『君は麦畑の風の中を―さわやか福祉へのまなざし』にまとめた。
鶴丸 俊明(つるまる としあき、1948年2月 - )は、日… 鶴丸 俊明(つるまる としあき、1948年2月 - )は、日本の考古学者。文化人類学者。札幌学院大学元学長。北海道網走郡美幌町生まれ。 明治大学文学部史学地理学科卒業。1972年3月同大学院文学研究科史学専攻考古学専修修士課程修了。1979年3月筑波大学大学院歴史人類学研究科文化人類学専攻博士課程単位取得満期退学。その後、日本女子大学文学部・駒澤大学文学部・東海大学文学部・明治大学文学部・東京学芸大学教育学部の非常勤講師を歴任。1986年4月札幌学院大学人文学部助教授に就任。1999年4月同人文学部人間科学科長(~2001年3月)。2003年4月同広報入試部長(~2007年3月)。2010年10月モンゴル国科学アカデミー考古学研究所より名誉博士の称号を受ける。
山口 昌男(やまぐち まさお、1931年〈昭和6年〉8月20… 山口 昌男(やまぐち まさお、1931年〈昭和6年〉8月20日 - 2013年〈平成25年〉3月10日)は、日本の教育者・文化人類学者。東京外国語大学名誉教授、文化功労者、瑞宝中綬章受勲。位階は正四位。 1931年、北海道美幌町で9人兄弟の次男として生まれた。美幌尋常小学校、旧制網走中学校を経て、新制網走高校(現・北海道網走南が丘高等学校)に進学。1950年3月に卒業し、同年4月に青山学院大学文学部第二部仏文科に進学。在学中には、展覧会と古書店に頻繁に巡った。青山学院大学には1学期のみ通い、1951年に東京大学教養学部文化二類に入学。同学年に作曲家となる三善晃、美学者となる宇波彰らがいた。また、東京大学駒場美術研究会では、磯崎新らと親交を結んだ。
山田 利雄(やまだ としお、1910年9月28日 - 200… 山田 利雄(やまだ としお、1910年9月28日 - 2001年10月)は、日本の政治家・元地方公務員。北海道江別市長(1971年 - 1983年)。北海道網走郡美幌町出身。明治大学専門部商科(後の明治大学商学部)卒業。 美幌町の造材屋に生まれるが、早くに父を亡くす。小学校は網走で終えた。 自治講習所で学んだあと、小清水村役場にて4年間勤務する。 それから、東京で新聞販売店を経営していた兄を頼って上京し、1938年(昭和13年)に明治大学商科専門部を卒業した。 芝浦マツダ製作所(後の東芝)の経理として就職し、神戸の子会社に出向するなどしたが、1945年(昭和20年)に故郷近くの湧別町に疎開。太平洋戦争終結後は、湧別定温倉庫の支配人を務めた。