室井 照平(むろい しょうへい、1955年(昭和30年)9月… 室井 照平(むろい しょうへい、1955年(昭和30年)9月28日 - )は、日本の政治家。福島県会津若松市長(4期)。元福島県議会議員(1期)、元会津若松市議会議員(2期)。 福島県会津若松市出身。会津若松市立謹教小学校、会津若松市立第三中学校、福島県立会津高等学校卒業。1978年(昭和53年)3月、東北大学経済学部経営学科卒業。同年4月、北海道拓殖銀行に入行。1980年(昭和55年)、帰郷し家業の室井商店を継ぐ。 1999年(平成11年)4月、会津若松市議会議員選挙に無所属で出馬し、初当選。2003年(平成15年)4月、同市議選に2期目の当選。2006年(平成18年)10月5日、市議を辞職。
菅家 一郎(かんけ いちろう、1955年〈昭和30年〉5月2… 菅家 一郎(かんけ いちろう、1955年〈昭和30年〉5月20日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(5期)。 復興副大臣、内閣府大臣政務官兼環境大臣政務官、会津若松市長(3期)、福島県議会議員(1期)、会津若松市議会議員(1期)などを歴任した。 福島県会津若松市生まれ。 会津若松市立謹教小学校、会津若松市立第二中学校、福島県立会津高等学校を経て、早稲田大学社会科学部を卒業。立正佼成会の信者であり、会津教会青年部長を務めていた時期がある。また、世界宗教者平和会議の準会員である。 1991年、会津若松市議会議員に初当選。1995年、福島県議会議員に初当選。1999年、会津若松市長に就任。
渡部 篤(わたなべ あつし、1952年4月12日 - )は、… 渡部 篤(わたなべ あつし、1952年4月12日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、福島県議会議員(4期)、会津若松市議会議員(2期)を歴任した。福島県会津若松市出身。 福島県立若松商業高等学校、駒澤大学経営学部卒業。衆議院議員の八田貞義の秘書を務める。 学生時代は右翼系の学生運動に参加していた。 30歳で会津若松市議会議員に当選し2期、福島県議会議員を4期務めた。2005年の第44回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で立候補し、福島4区では渡部恒三に敗れたが、比例東北ブロックで復活し初当選した。 2007年6月14日、『ワシントン・ポスト』に掲載されたアメリカ合衆国下院121号決議の全面撤回を求める広告「THE FACTS」の賛同者に名を連ねた。
山内 日出夫(やまうち ひでお、1952年(昭和27年)1月… 山内 日出夫(やまうち ひでお、1952年(昭和27年)1月1日 - 2020年(令和2年)10月22日)は、日本の政治家。位階は従五位。福島県会津若松市長(2期)、会津若松市議会議員(2期)を務めた。 福島県会津若松市生まれ。福島県立会津高等学校、日本大学藝術学部卒業。大学卒業後、伊東正義衆議院議員の秘書、内閣官房長官秘書(1979年11月9日 - 1980年7月17日)、外務大臣秘書(1980年7月17日 - 1981年5月18日)を経て、会津若松市議を2期務める。 1991年に会津若松市長に就任。会津若松市長時代の功績のひとつに、1993年のコンピュータ理工学部の会津大学の設立がある。会津地方に4年制大学を作るのは、会津の人々の悲願となっていた。
渡部 行雄(わたなべ ゆきお、1925年(大正14年)1月2… 渡部 行雄(わたなべ ゆきお、1925年(大正14年)1月27日 - 1997年(平成9年)9月16日)は、昭和から平成初期の司法書士、政治家。日本社会党衆議院議員(6期)。 福島県若松市(現会津若松市)出身。福島県立会津中学校(旧制)を卒業後、942年(昭和17年)東京物理学校を中退。司法書士、福島県議会議員(4期)、全日本農民組合連合会中央常任委員、同福島県連合会会長、福島県日中友好協会顧問、同県労農会議顧問、日本司法書士会連合会顧問などを務めた。 1972年(昭和47年)第33回衆議院議員総選挙で旧福島2区から日本社会党公認で立候補したが落選。1976年(昭和51年)第34回総選挙で初当選。
猪俣 良記(いのまた よしき、1920年(大正9年)10月2… 猪俣 良記(いのまた よしき、1920年(大正9年)10月27日 - 2007年(平成19年)5月22日)は、昭和時代の政治家。位階は正五位。福島県会津若松市長。 会津若松市出身。1943年(昭和18年)日本大学商経学部卒業。 門田村議会議員、会津若松市議会議員を経て、1967年(昭和42年)より福島県議会議員に5選する。1983年(昭和58年)会津若松市長に当選し、1987年(昭和62年)落選した。
伊東 正義(いとう まさよし、1913年〈大正2年〉12月1… 伊東 正義(いとう まさよし、1913年〈大正2年〉12月15日 - 1994年〈平成6年〉5月20日)は、日本の政治家、農林官僚。 衆議院議員(9期)、外務大臣(第109代)、内閣総理大臣臨時代理、副総理、内閣官房長官(第43代)、自由民主党政務調査会長(第32代)、自由民主党総務会長(第30代)を歴任した。 1913年、福島県若松市(現・会津若松市)に生まれる。祖父の伊東健輔は会津藩士、父の伊東秀三郎は旧制会津中学校(現・福島県立会津高等学校)の一回生で同校教諭となった。 旧制会津中学校、旧制浦和高等学校(現・埼玉大学)を経て、東京帝国大学法学部を卒業。農林省に入省する。農務局嘱託。その後、間もなく興亜院に出向する。
飯沼 一省(いいぬま かずみ、1892年(明治25年)2月1… 飯沼 一省(いいぬま かずみ、1892年(明治25年)2月15日 - 1982年(昭和57年)11月14日)は、日本の内務官僚、貴族院議員。戦前から戦後にかけ、日本の都市計画行政を牽引した人物の一人である。妻は南弘の娘・櫂子。 福島県会津若松市生まれ。父は白虎隊士飯沼貞吉の弟で会津松平家家令・飯沼関弥。東京小石川の旧黒田小学校(現在の文京五中の敷地)、府立四中、一高を経て、東京帝国大学法科大学を卒業後、内務省に入省。土木局属。神社局総務課長、都市計画課長、埼玉県知事、紀元二千六百年式典の事務局長を務めた後、静岡県知事、広島県知事、神奈川県知事、内務省神社局長、神祇院副総裁を歴任。 第二次世界大戦後の1946年3月12日に貴族院議員に勅選され、交友倶楽部に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任。
石川 淳(いしかわ じゅん、1879年〈明治12年〉10月2… 石川 淳(いしかわ じゅん、1879年〈明治12年〉10月25日 - 1933年〈昭和8年〉8月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福島県北会津郡、のちの若松町(若松市を経て現会津若松市)で、石川森の長男として生まれた。 石城耐火煉瓦(株)社長、東洋電線、電機製造各(株)監査役、富士水電(株)嘱託となる。 1920年(大正9年)8月、福島2区から前田兵郎の死去による第14回衆議院議員総選挙補欠選挙で立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年(大正13年)第15回総選挙には立候補しなかった。1933年に死去した。
八田 宗吉(はった そうきち、1874年(明治7年)10月9… 八田 宗吉(はった そうきち、1874年(明治7年)10月9日 - 1938年(昭和13年)1月16日)は、日本の政治家、実業家、陸軍軍人である。幼名は吉之丞。立憲政友会所属の衆議院議員。馬議員、鉄道代議士、百姓代議士などの異名があった。 日本医科大学教授で衆議院議員の八田貞義は息子。 福島県河沼郡日橋村(現・会津若松市)出身。福島中学を経て、陸軍軍人となり歩兵大尉まで進級している。故郷である日橋村村長となったのが政治家としての第一歩で、県会議員、参事会員を歴任。実業家としては福島県農工銀行、只見川水力電気、日本化学工業、会津電力の役員を務めている。 1917年(大正6年)福島二区から衆議院議員に初当選。
松江 豊寿(まつえ とよひさ、1872年7月11日(明治5年… 松江 豊寿(まつえ とよひさ、1872年7月11日(明治5年6月6日)- 1956年(昭和31年)5月21日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。第9代若松市長。 第一次世界大戦中に板東俘虜収容所所長を務め、在任中にドイツ人俘虜を人道的に扱い地元の住民とドイツ人俘虜を交流させた。この時、ドイツ人俘虜によって日本で初めてベートーベンの交響曲第9番が演奏された。映画『バルトの楽園』の主人公としても知られる。 1872年6月に現在の会津若松市で会津藩士、警察官・松江久平の長男として生まれる。1889年(明治22年)16歳の時に仙台陸軍地方幼年学校に入校し、1892年(明治25年)には陸軍士官学校(5期)に進んだ。
井深 彦三郎(いぶか ひこさぶろう、慶応2年8月2日〈186… 井深 彦三郎(いぶか ひこさぶろう、慶応2年8月2日〈1866年9月10日〉- 大正5年〈1916年〉4月4日)は、日本の政治家、大陸浪人。明治時代の陸軍工作員であり、衆議院議員当選1回。旧会津藩士族の出身で、兄に松平容保の小姓から後に宣教師、明治学院総理となった井深梶之助、娘にハンセン氏病患者の救済に尽くした井深八重がいる。 会津九家井深家の分家の出身である。父は藩校・日新館の学頭(校長)でもあった井深宅右衛門、母は会津藩家老・西郷頼母近思の娘であり西郷頼母近悳の実妹に当たる八代子。三男の彦三郎は分家の井深守之進家で養子となる。従兄弟には山田重郎、佐瀬(一瀬)熊鉄、西郷四郎らがいる。彦三郎2歳の時に戊辰戦争が勃発、敗れた会津藩は斗南に移され、貧困の内に幼少期を過ごす。
佐瀬 熊鉄(佐瀨 熊鐵、さぜ / させ くまてつ、1866年… 佐瀬 熊鉄(佐瀨 熊鐵、さぜ / させ くまてつ、1866年1月31日(慶応元年12月15日)- 1929年(昭和4年)9月5日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員。旧姓・一瀬。 陸奥国会津郡若松城下(現福島県会津若松市)で、会津藩家老・一瀬要人の二男として生まれる。15歳で上京し山川浩の世話を受けて苦学し、1887年(明治20年)海軍医学校を卒業し海軍少軍医候補生となるが、2年ほどで退官した。その後帰郷して、河沼郡金上村の豪農・佐瀬家を継いだ。 1893年(明治26年)に再度上京し、同盟倶楽部の理事に就任し、また立憲革新党の運営に加わった。1894年(明治27年)大韓帝国に渡り、朴泳孝内務大臣の知遇を得て、同国の警務庁・監獄署医務、訓練隊衛生事務、裁判医事の顧問となった。
白井 新太郎(しらい しんたろう、1862年12月13日(文… 白井 新太郎(しらい しんたろう、1862年12月13日(文久2年10月22日) - 1932年(昭和7年)12月10日)は、日本の実業家、政治家。号は如海。 会津若松城下で家禄500石の上級藩士である白井家の長男として生まれる。父の五郎太夫は林安定とともに藩大砲隊頭を務め、鳥羽・伏見の戦いで討死した。戊辰戦争後に再建された日新館(現会津高校)に学び、上京後は秋月悌次郎門下として勉学を続けた。1884年(明治17年)には東政図(東次郎)の中国赴任に随行。清国改造運動に加わった。一年後には日本へ戻り、井深彦三郎、中野二郎らと同居生活を送った。 中国との貿易に従事し、1891年(明治24年)には東邦協会の設立に関わり、幹事を務める。
池上 四郎(いけがみ しろう、1857年5月11日〈安政4年… 池上 四郎(いけがみ しろう、1857年5月11日〈安政4年4月18日〉 - 1929年〈昭和4年〉4月4日)は、日本の警察官僚、政治家。第6代大阪市長、第6代朝鮮総督府政務総監。族籍は大阪府平民。文仁親王妃紀子は曾孫に当たる 1857年、陸奥国耶麻郡(現・福島県会津若松市)で生まれた。会津藩士・池上武輔の二男、あるいは四男。池上三郎の実弟。11歳のときに戊辰戦争を経験する。兄の友次郎は、鳥羽・伏見の戦いの正月五日の戦で戦死。父・武輔は井深宅右衛門の第二遊撃隊の組頭として越後小千谷で新政府軍と戦い、負傷する(北越戦争)。会津戦争時に四郎は、兄の三郎と共に会津若松城に篭城した。白虎隊への入隊を強く希望したが、15歳以上の規約のため数えで12歳の四郎は除外された。
丸山 芳介(まるやま よしすけ、1855年6月12日(安政2… 丸山 芳介(まるやま よしすけ、1855年6月12日(安政2年4月28日) - 1922年(大正11年)10月11日)は、日本の武士(会津藩士)、実業家、政治家である。戊辰戦争を戦ったのち、土木請負業を営む実業家となり、姫路において各種事業に関わる。姫路市商業会会長、衆議院議員一期。 会津藩藩士の丸山家に次男として生まれる。父は丸山玄斎。日新館に学び、会津戦争では会津若松城に籠城して戦った。池上三郎や南清は戦友である。戦後に上京し南摩綱紀門下となったのち、北海道で開拓に従事する。ここで島田組幹部大三輪長兵衛に知られ、その帰郷に従って同社に入社したものの、ほどなく同社は倒産し、苦渋の時代が続いた。
小野木 源次郎(おのぎ げんじろう、安政元年10月28日〈1… 小野木 源次郎(おのぎ げんじろう、安政元年10月28日〈1854年12月17日〉 - 1925年〈大正14年〉9月11日)は、幕末・戊辰戦争期の武士、明治から大正にかけての警察官・実業家・政治家である。 会津藩藩士として生まれ、戊辰戦争に従軍。その後は警察官に転じ、各地の警察署長や県警察部長などを歴任した。1907年(明治40年)より実業界に転じて長野県の電力会社信濃電気の社長に就任し、1912年(大正元年)には郷里の福島県若松市(現・会津若松市)に戻って若松市長(第5代)を務めた。 小野木源次郎は、安政元年10月28日(新暦:1854年12月17日)、会津若松城下(現・福島県会津若松市)に生まれた。
日下 義雄(くさか よしお、嘉永4年12月25日(1852年… 日下 義雄(くさか よしお、嘉永4年12月25日(1852年1月16日) - 大正12年(1923年)3月18日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。位階および勲等は正四位・勲二等。 現在の会津若松市で会津藩の侍医・石田龍玄(常雄)の長男として生まれる。父は農家の出身だが、幼年より医学を学び公家の側醫格となり士分に登用され七人扶持を賜った。龍玄は特に内科の名医として名声があり、貧しきものには無銭にて薬を処方した。母は中村為七郎の娘のちえ子。幼名は五郎。初名は石田伍助。弟に白虎隊二番士中組の1人で飯盛山で自刃した石田和助がいる。妻は水野忠精の娘。 藩校・日新館で学び、鳥羽・伏見の戦いに従軍。会津戦争では、大鳥圭介らと行動をし、落城前に会津を脱出し、箱館戦争に加わった。
高野 源之助(たかの げんのすけ、1848年5月28日(嘉永… 高野 源之助(たかの げんのすけ、1848年5月28日(嘉永元年4月26日)- 1907年(明治40年)6月15日)は、幕末の会津藩士、明治期の実業家・政治家。衆議院議員。 陸奥国会津郡若松城下で会津藩士の息子として生まれる。漢学、武術、英蘭学を修めた。戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦い、東北の戦闘に従軍。 1873年、小樽に渡り船舶回漕業を営んだ。1890年8月、小樽総代人に選出された。その後、小樽区会議員、北海道会議員を務めた。1903年3月、第8回衆議院議員総選挙に北海道庁小樽区から出馬し当選。交友倶楽部に所属し衆議院議員を一期務めた。 その他、小樽商業会議所会頭、北海道拓殖銀行創立委員、小樽米穀外五品取引所監査役、小樽銀行取締役、北海木材 (株) 監査役、北海生命保険 (株) 社長、北海道鉄道 (株) 取締役、大同生命保険 (株) 取締役、小樽電燈合資会社執行社員なども務めた。
山川 浩(やまかわ ひろし、弘化2年11月6日〈1845年1… 山川 浩(やまかわ ひろし、弘化2年11月6日〈1845年12月4日〉- 明治31年〈1898年〉2月4日)は、日本の武士(会津藩家老)、陸軍軍人、政治家、教育者。最終階級は陸軍少将、位階勲等・爵位は従三位勲三等・男爵。 陸軍省人員局長 兼 輜重局長、陸軍省総務局制規課長、高等師範学校長・附属中学校初代校長、貴族院議員を歴任した。明治初年までの諱は重栄、字は士亮、通称は大蔵(おおくら)、与七郎。号は屠竜子。 祖父は、会津藩家老・山川兵衛 重英。父は、山川尚江 重固。山川家の家禄は1千石。 祖父の重英が高齢まで隠居せずに家老職にあったため、父の重固は山川家の嗣子の立場で会津藩に出仕して郡奉行主役を務めていた。
山本 覚馬(やまもと かくま、旧字体: 山本 覺馬、文政11… 山本 覚馬(やまもと かくま、旧字体: 山本 覺馬、文政11年1月11日(1828年2月25日) - 明治25年(1892年)12月28日)は、幕末の会津藩士、砲術家(津田流炮術)、明治時代の地方官吏、政治家。京都府顧問、府議会議員(初代議長)として初期の京都府政を指導した。また、同志社英学校(現:同志社大学)の創立者・新島襄の協力者として、現在の同志社大学今出川校地の敷地を譲った人物としても知られている。号は相応斎。 会津藩士で砲術指南役の山本権八(禄高は22石4人扶持)の長男として、鶴ヶ城近くの武家屋敷に生まれる。山本家の遠祖は甲州流軍学の祖とされる山本勘助で、代々兵学をもって藩に仕えた。母は佐久。