松山 僚佑(まつやま りょうすけ、1983年5月13日 -)… 松山 僚佑(まつやま りょうすけ、1983年5月13日 -)は日本の起業家・実業家・プロ経営者・機関投資家。山口県下関市出身。 福岡大学在学中にステージIVのリンパ芽急性リンパ腫(血液病理学上、急性リンパ性白血病)に罹患。さらに同時期にサブプライムショックも重なったこともあり、2年間の闘病・リハビリを経て社会貢献のために社会性・公共性の高い社会福祉金融機関である九州労働金庫に入庫。その後、師事していた大野尚の勧めもあり、百貨店・大型モール・豪華大型クルーズ船等を中心に化粧品・美容機器を販売する事業会社(株式会社M’s MORE)を立ち上げ、代表取締役に就任。2019年上場企業へ売却。 代表取締役退任後、民間ファンドであるNSSK(日本産業推進機構)のオファーのもと、北海道リーディングブライダル企業の創和プロジェクト株式会社へCFO・CIO兼執行役員として就任。
萱間 真美(かやま まみ、1963年 - 山口県下関市出身)… 萱間 真美(かやま まみ、1963年 - 山口県下関市出身)は、日本の看護学者。国立看護大学校学校長。専門分野は精神看護学。研究テーマは、精神科地域ケア(訪問看護、アウトリーチ)のプロセスとアウトカム、質的研究方法論を用いた研究論文の査読プロセス。厚生労働省医道審議会委員、保健師助産師看護師分科会長。第39回日本看護科学学会学術集会2019年度学術論文優秀賞受賞。2024年第19回ヘルシー・ソサエティ賞受賞。
浜田 博文(はまだ ひろふみ、1961年 - )は、日本の教… 浜田 博文(はまだ ひろふみ、1961年 - )は、日本の教育学者。博士(教育学)筑波大学。専門研究領域は学校経営学。 山口県下関市生まれ。広島市立牛田小学校、牛田中学校、広島基町高等学校卒業。1984年、筑波大学第二学群人間学類卒業。1989年、同大学院博士課程教育学研究科単位取得退学。日本学術振興会特別研究員、鳴門教育大学、東京学芸大学講師・助教授を経て1998年筑波大学講師。2002年助教授。 1996年3月~1996年9月、アメリカ合衆国バリー大学客員研究員。2005年3月~2006年3月、アメリカ合衆国南カリフォルニア大学客員研究員。2007年2月、博士(教育学)取得。2008年7月筑波大学大学院人間総合科学研究科教育基礎学専攻教授。
竹本 孝弘(たけもと たかひろ、1960年 - )は、日本の… 竹本 孝弘(たけもと たかひろ、1960年 - )は、日本の海事科学者。山口県下関市出身。山口県立豊浦高等学校、東京商船大学乗船実習科(航海)修了。東京商船大学助手、運輸省航海訓練所教授、船長を経て、2009年から東京海洋大学海洋工学部海事システム工学科教授。博士(海事科学)(ヒューマンエラーの特徴に基づく衝突海難防止に関する研究:神戸大学)。日本航海学会理事。
藤永 壯(ふじなが たけし、1959年 - )は、日本の歴史… 藤永 壯(ふじなが たけし、1959年 - )は、日本の歴史学者、大阪産業大学教授。専門は朝鮮近現代史。山口県下関市生まれ。 『「マンガ嫌韓流」のここがデタラメ』において、「日清戦争前に朝鮮が中立宣言した事実はない。」、「統計によれば植民地朝鮮での人口増加は44%前後。」、「1894年に李氏朝鮮は賎民解放令を出し、形式的には白丁・奴婢は解放された。」などと一次史料を用いた解説を展開し、「マンガ嫌韓流」の主張を批判している。
小曽戸 洋(こそと ひろし、1950年8月16日 - )は、… 小曽戸 洋(こそと ひろし、1950年8月16日 - )は、日本の医史学者。医学博士。文学博士。薬剤師。鍼灸師。北里大学東洋医学総合研究所医史学研究部部長、第11代日本医史学会理事長、日本東洋医学会理事、日本薬史学会評議員。 1950年、山口県下関市生まれ。1974年東京薬科大学卒業。1976年東京高等鍼灸専門学校卒業後、近畿大学東洋医学研究所研究員(1976年-1979年)、鹿児島大学医学部第一生理学研究生(1977年-1981年)を経て、1982年より北里研究所東洋医学総合研究所に勤務し、東洋医学史の研究に従事、前北里研究所教授。 父の丈夫(薬剤師、薬史学者、医史学者)が戦時中、中国において矢数道明の弟の有道に漢方の指導を受けていた縁で、1975年に矢数道明の門下に入り、以後、医史学・漢方医学の世界に身を置くこととなる。
池田 啓(いけだ ひろし、1950年 - 2010年4月13… 池田 啓(いけだ ひろし、1950年 - 2010年4月13日)は、日本の動物学者。日本のコウノトリの野生復帰事業を推進した。 山口県下関市出身。1968年山口県立豊浦高等学校卒業、1973年九州大学理学部生物学科卒業、1979年九州大学大学院理学研究科博士課程修了。理学博士。文化庁文化財調査官(天然記念物担当)を経て、1999年兵庫県立大学教授、兵庫県立コウノトリの郷公園研究部長を務める。 ホンドダヌキの社会性の研究で学位を取得。その後、文化財調査官としてコウノトリの研究を始め、兵庫県立コウノトリの郷公園の責任者として2005年に始まった試験放鳥を軌道に乗せるなど、コウノトリの野生復帰事業を推進した。
中野 新治(なかの しんじ、1947年(昭和22年)1月18… 中野 新治(なかの しんじ、1947年(昭和22年)1月18日 - )は、日本近代文学研究者、梅光学院大学特任教授。学校法人梅光学院第8代学院長(2010年(平成22年) - 2016年(平成28年))。山口県下関市生まれ。 関西学院大学文学部日本文学科卒、同大学院文学研究科博士課程単位取得退学(1978年(昭和53年))。文学修士(関西学院大学)。元・梅光学院大学学長、元・梅光学院中学校・高等学校学校長、前・梅光学院大学学院長。学校法人梅光学院学事顧問(2017年(平成29年)4月 - )。 主として宮沢賢治を研究。第5回宮沢賢治賞奨励賞を受賞(1995年(平成7年)) 日本キリスト教文学会役員、日本文藝學会理事、日本近代文学会会員、宮沢賢治学会会員、梅光学院大学日本文学会会員。
門屋 光昭(かどや みつあき、1946年5月13日 - 20… 門屋 光昭(かどや みつあき、1946年5月13日 - 2007年12月5日)は、日本の民俗学者。山口県下関市出身。山口県立豊浦高等学校、國學院大学文学研究科修士課程修了。宗教民俗学、民俗芸能史、東北文学専攻。岩手県立高校教諭(国語)、岩手県立博物館学芸員を経て、盛岡大学文学部助教授、教授、名誉教授。2001年から2005年まで文学部長。北上市鬼の館館長も務めた。2007年、膵臓癌のため死去。
島 泰三(しま たいぞう、1946年 - )は、日本の動物学… 島 泰三(しま たいぞう、1946年 - )は、日本の動物学者、類人猿学者。 山口県下関市出身。自身の著書では生家は鮮魚商で、店は彦島にあったと記している。山口県立下関西高等学校を経て東京大学に進学。理学部人類学教室に在籍。学生運動に関わり、1968年の佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争に参加している。1969年の東大安田講堂事件に際しては、学部生の「本郷学生隊長」として参加。逮捕されて懲役2年の判決を受ける。京都大学で理学博士号を取得。 霊長類の研究を専門とし、「房総自然博物館」(野生のニホンザル研究のために千葉県内に設けられた施設)2代目館長や雑誌『にほんざる』編集長などを歴任。2002年以来、NGO日本アイアイ・ファンド代表としてマダガスカル北西部の「アンジアマンギラーナ監視森林」を保護・観察している。
横山 宏章(よこやま ひろあき、1944年4月21日 - )… 横山 宏章(よこやま ひろあき、1944年4月21日 - )は、日本の政治学者、歴史学者、北九州市立大学名誉教授。専門は、中華民国政治史、近代長崎県史。 明治学院大学法学部長、南京大学客員教授、財団法人国際東アジア研究センター理事、北九州市立大学アジア文化社会研究センター長を歴任。 山口県下関市生まれ、1969年一橋大学法学部卒業、朝日新聞社記者を経て、1978年一橋大学大学院法学研究科博士課程退学。1982年「孫中山の革命と政治指導」で法学博士(一橋大学)。 1978年明治学院大学法学部専任講師、1981年同助教授、1988年同教授、法学部長、1999年県立長崎シーボルト大学国際情報学部教授、国際情報学部長、2005年北九州市立大学社会システム研究科教授。
岩政 輝男(いわまさ てるお、1942年(昭和17年)2月2… 岩政 輝男(いわまさ てるお、1942年(昭和17年)2月25日 - 2019年(令和元年)6月8日)は、日本の医学者。琉球大学第15代学長。専門は病理学。 1942年(昭和17年)2月25日、山口県下関市出身。1966年(昭和41年)4月に熊本大学医学部を卒業。1972年(昭和47年)に医学博士号を取得し、1976年(昭和51年)11月に熊本大学医学部助教授となる。 1984年(昭和59年)4月に琉球大学医学部教授に着任。2000年(平成12年)4月から医学部長、2005年(平成17年6月)から副学長、財務・施設・医療担当理事を歴任した後、2007年(平成19年)6月から2013年(平成25年)まで琉球大学第15代学長を務めた。
木下 毅(きのした つよし、1936年6月10日 - )は、… 木下 毅(きのした つよし、1936年6月10日 - )は、日本の法学者(英米法)、弁護士(第一東京弁護士会)。法学博士(東京大学・課程博士・1971年)。 山口県下関市出身。伊藤正己に師事。 大木雅夫から盗作を指摘され、中央大学から調査を受けたが、著作権法違反とは断定できないが、引用先を明示していない個所が多数あり、学者として倫理上問題があったとして、2004年に職務停止3か月の懲戒処分を受けた。問題となった著書は『比較法文化論』と『アメリカ法入門・総論』の2冊。
西澤 信正(西沢 信正、にしざわ のぶまさ、1931年2月7… 西澤 信正(西沢 信正、にしざわ のぶまさ、1931年2月7日 - 2009年8月14日)は、名古屋を中心に活動したジャーナリスト、ニュースキャスター、大学教授。 山口県下関市出身。京都府立洛北高等学校→同志社大学文学部英文科卒業後、1953年に中日新聞社(当時は「中部日本新聞社」)に入社。当初は社会部記者として活動するが、後にカイロ、ワシントンD.C.特派員記者、東京本社(東京新聞)国会担当記者を歴任。1976年から名古屋本社文化部長を務めた。 1978年、東海テレビ放送が「イブニングニュース」シリーズ (630→600) をスタートさせると、中日新聞社が東海テレビのニュース制作に現在に至るまで協力している関係から初代メインキャスターに抜擢される。
山田 宗睦(やまだ むねむつ、1925年5月21日 - 20… 山田 宗睦(やまだ むねむつ、1925年5月21日 - 2024年6月17日)は、日本の評論家・哲学者。 1925年、山口県下関市生まれ。幼少期を下関、稚内、金沢、函館で過ごした。水戸高等学校で学び、1946年に京都帝国大学文学部哲学科に入学した。 卒業後は北海道第二師範学校助教授となった。東京大学出版会編集者などを務め、1959年より評論活動に入る。1962年「思想の科学」編集長。1965年には『危険な思想家』を出版。桃山学院大学教授を経て、1977年から1995年まで関東学院大学教授を務めた。1977年には作家の中山千夏らと革新自由連合を結成した。 1989年頃には神奈川県藤沢市辻堂に住んだ。
於保 不二雄(おほ ふじお、1908年(明治41年)1月22… 於保 不二雄(おほ ふじお、1908年(明治41年)1月22日 - 1996年(平成8年)1月14日)は、日本の法学者。専門は民法。京都大学名誉教授。学位は、法学博士(京都大学・1955年)。山口県下関市出身。弟子に奥田昌道など。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
町野 碩夫(まちの せきお、1899年10月15日 - 19… 町野 碩夫(まちの せきお、1899年10月15日 - 1971年2月6日)は、日本の産婦人科学者、鹿児島大学長。 山口県下関市豊田町大河内百合野出身。三豊小学校、旧制豊浦中学校、山口高等学校を経て九州帝国大学医学部卒業。1934年九州大学医学博士。論文の題は「子宮筋腫に対する硬レ線作用の臨床的並に組織化学的研究」 九州帝国大学助教授、鹿児島県立病院産婦人科部長を経て、1943年鹿児島医専教授。県立鹿児島医科大学創立と同大の国立移管につくした。1951年-55年県立鹿児島医科大学学長・医学部長。1968年-1969年鹿児島大学長。正心女子短期大学学長も務めた。
青木 正児(あおき まさる、旧字体: 靑木 正兒、1887年… 青木 正児(あおき まさる、旧字体: 靑木 正兒、1887年(明治20年)2月14日 - 1964年(昭和39年)12月2日)は、大正から昭和中期の中国学者・中国文学者。日本学士院会員。山口県下関市出身。字は「君雅」。号に「迷陽」があり、「迷陽先生」とも呼ばれた。 年譜は『青木正児全集』最終10巻末ほかに収録されている。 1887年(明治20年)2月14日、山口県下関市で漢方医・青木坦平の次男として生まれた。父・坦平には支那趣味があり、南画家を自宅に招いたり、妻や娘に琵琶など中国の楽器を習わせるなどしており、青木正児も幼少期より文学や美術を好んだ。1905年、山口県立豊浦中学校を卒業し、同年9月に第五高等学校第一部(現:熊本大学)に入学。
笹尾 粂太郎(ささお くめたろう、1871年4月14日〈明治… 笹尾 粂太郎(ささお くめたろう、1871年4月14日〈明治4年2月25日〉- 1941年〈昭和16年〉1月29日)は、日本の哲学者である。 長門国、現在の山口県下関市に笹尾勝蔵の息子として生まれ、日本基督教会柳川教会で父から洗礼を受けた。山口高等学校に入学したが、経済的事情で明治学院神学部に転校。同じく、白金にあった自営館(現・巣鴨教会)で共同生活を送った。 明治学院から推薦されて、20歳で渡米し、オーバン神学校、コロンビア大学で学んだ。さらに、1896年にドイツに渡りベルリン大学、ハレ大学、ボン大学でキリスト教とカント哲学の研究を重ね、1899年に学位論文「カントの神概念」によりボン大学より哲学博士号を得た。