島村 薫(しまむら かおる、1975年〈昭和50年〉4月12… 島村 薫(しまむら かおる、1975年〈昭和50年〉4月12日 - )は、日本の政治家。参政党所属の衆議院議員(1期)。 福岡県福岡市に生まれ、山口県下関市で育つ。東海大学福岡短期大学国際文化学科卒業卒業。 介護福祉士、介護支援専門員の資格を持ち、介護付き高齢者住宅の施設長代表を経て、健康事業会社の社長になり、温活サロンとしてサウナを経営している。 2023年2月に下関市議会選挙に無所属で立候補したが落選。 2025年9月8日に参政党から第51回衆議院議員総選挙で山口3区に擁立することが発表された。2026年2月8日の投開票の結果、自由民主党前職の林芳正に大差を付けられての次点となる得票率12.82%で落選したが、比例中国ブロックで参政党が1議席を獲得し、重複立候補者5人のうち名簿1位に掲載されていた2人の中で惜敗率が上位であったため、初当選を果たした。
秋山 賢治(あきやま けんじ、1969年(昭和44年)8月1… 秋山 賢治(あきやま けんじ、1969年(昭和44年)8月16日 - )は、日本の政治家。立憲民主党所属の下関市議会議員(1期)。元国会議員秘書。 山口県下関市出身。早鞆高等学校を卒業後、株式会社ゼンリンに入社。勤務先の紹介で自民党の安倍晋三の1回目の選挙を手伝い、1993年から安倍晋三の私設秘書として勤務。2007年より、西川京子、井上貴博の公設秘書を務める。2019年より、老人保健施設の支援相談員として勤務。 2017年3月の下関市議会議員補欠選挙、および2019年2月の下関市議会議員選挙に無所属で出馬したが、落選。 2022年3月、立憲民主党山口県連より第26回参議院議員通常選挙山口選挙区に公認発表。
林 芳正(はやし よしまさ、1961年〈昭和36年〉1月19… 林 芳正(はやし よしまさ、1961年〈昭和36年〉1月19日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(3期)、総務大臣(第33 - 34代)。内閣総理大臣臨時代理就任順位第3位。 内閣官房長官(第87-89代)兼沖縄基地負担軽減担当大臣兼拉致問題担当大臣(第2次岸田第2次改造内閣・第1次石破内閣・第2次石破内閣)、外務大臣(第151代)、文部科学大臣(第22・23代)、農林水産大臣(第54・57代)、内閣府特命担当大臣(経済財政政策)(麻生内閣)、防衛大臣(第5代)、内閣府副大臣(第1次安倍内閣)、大蔵政務次官(小渕第2次改造内閣)、参議院憲法審査会会長、参議院環太平洋パートナーシップ協定等に関する特別委員長、同外交防衛委員長、参議院議員(5期)、自由民主党知的財産戦略調査会会長、同経済成長戦略本部座長、同税制調査会小委員長代理、同IT戦略特別委員会委員長、同税制調査会副会長、同政務調査会会長代理、同参議院政策審議会会長、同行政改革推進本部事務局長、同参議院副幹事長を歴任した。
江島 潔(えじま きよし、1957年〈昭和32年〉4月2日 … 江島 潔(えじま きよし、1957年〈昭和32年〉4月2日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の参議院議員(3期)、自由民主党政調会長代理。 経済産業副大臣兼内閣府副大臣(菅義偉内閣)、国土交通大臣政務官(第3次安倍第1次改造内閣)、自由民主党人事局長、山口県下関市長(4期)などを歴任。 山口県下関市出身。小学校3年の頃、日本国有鉄道に勤務していた父・淳が外務省に出向となったため一家はアメリカのサンフランシスコに移住し、13歳の頃に日本に帰国する。 1976年、東京都立戸山高等学校卒業。1980年、東京大学工学部合成化学科卒業。1982年、東京大学大学院工学系研究科修了。 同年千代田化工建設技師、1990年、東亜大学講師、水産大学校非常勤講師を経て、1991年の下関市長選挙に無所属で、1993年の第40回衆議院議員総選挙に旧山口1区から日本新党公認で出馬したが、いずれも落選。
出畑実(でばた みのる、1950年(昭和25年)10月5日 … 出畑実(でばた みのる、1950年(昭和25年)10月5日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の元衆議院議員(1期)。 山口県下関市出身。成蹊大学経済学部卒業。東燃ゼネラル石油社員、国民政治協会千葉県支部事務局長を歴任。 2012年12月投開票の第46回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で比例南関東ブロック単独32位で立候補するが落選。 2014年12月投開票の第47回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で比例南関東ブロック単独39位で立候補するが落選。 2017年10月投開票の第48回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で比例南関東ブロック単独33位で立候補するが次点で落選。 2019年9月12日、比例南関東ブロックで当選し衆議院議員であった宮川典子が死去。
鴨 哲登志(かも てつとし、1947年 - )は、日本の政治… 鴨 哲登志(かも てつとし、1947年 - )は、日本の政治家。元習志野市議会議員(5期)。妻は全国コミュニティ・ユニオン連合会会長の鴨桃代。
高木 義明(たかき よしあき、1945年〈昭和20年〉12月… 高木 義明(たかき よしあき、1945年〈昭和20年〉12月22日 - )は、日本の政治家。国民民主党顧問。 長崎市議会議員(3期)、長崎県議会議員(1期)、衆議院議員(9期)、民主党副代表、民主党国会対策委員長、文部科学大臣(第14代)、民主党選挙対策委員長、民主党代表代行、民進党副代表、国民民主党長崎県連代表、民社協会会長等を歴任した。 山口県下関市生まれ。1964年、山口県立下関工業高等学校を卒業し、三菱重工長崎造船所に入社した。同造船所の労働組合執行役員を経て、1975年に長崎市議会議員選挙に出馬し、当選。市議を3期務めるが、1987年、3期目の任期途中で辞職し、長崎県議会議員選挙に出馬。
亀田 博(かめだ ひろし、1937年1月5日 - )は、日本… 亀田 博(かめだ ひろし、1937年1月5日 - )は、日本の自治官僚、政治家。山口県下関市長(1期)、下関市議会議員(5期)を歴任。市長経験者が落選後、市議に転進するのは全国的にも珍しい。 下関市出身。1959年、九州大学法学部を卒業。 1963年、自治省に入省。以後、鳥取県総務部長、自治省財政局指導課長、徳島県副知事、消防大学校校長などを歴任し、1987年に退官。 その後、地方債協会常務理事、地域総合整備財団常務理事を務め、1991年に下関市長選挙に当選して一期務めた後に2003年より下関市議会議員に在任中。 2024年(令和6年)春の受勲に於いて旭日中綬章が授けられることが決定された。 泉田芳次・前市長時代に計画・設立された第三セクターによる日韓高速船事業を引き継ぎ、1991年7月に運航が開始されたものの、経営不振で開設後約1年半の1992年12月に休業、そのまま廃業。
江島 淳(えじま あつし、1927年〈昭和2年〉10月5日 … 江島 淳(えじま あつし、1927年〈昭和2年〉10月5日 - 1987年〈昭和62年〉5月25日)は、日本の政治家。参議院議員(当選2回)。日本国有鉄道に入り、建設局計画課長、広島鉄道管理局長を経て、1980年以来参議院議員に2回当選する。 山口県下関市出身。江島鐡雄の長男。旧制山口県立豊浦中学校(同級生に林義郎)、海軍兵学校(76期)、山口高等学校を経て、1951年に東京大学第一工学部土木工学科を卒業した。 卒業後は日本国有鉄道に入り、東京鉄道管理局施設部工事第一課長、外務省サンフランシスコ総領事館領事、国鉄建設局計画課長、広島鉄道管理局長などを歴任。 1980年6月、第12回参議院議員通常選挙山口県選挙区に自由民主党公認で藤本万次郎を連合後援会会長に迎える万全の布陣で出馬、日本社会党新人浜西鉄雄、日本共産党新人伊藤潔を破って初当選。
疋田 敏男(ひきた としお、1902年(明治35年)5月27… 疋田 敏男(ひきた としお、1902年(明治35年)5月27日 - 1989年(平成元年)6月2日)は、日本の政治家。 山口県下関市出身。明治大学専門部法律科卒業。実業界に進み、親和興産社長を務めた。また、政治家として、1946年4月の戦後1回目の総選挙(第22回衆議院議員総選挙)に山口県から立候補して当選し、衆議院議員を一期務めた。早川崇(国家公安委員会委員長、労働大臣等)らと青壮クラブを発足させ、新政同志会と合流するなど、諸派・無所属議員を中心とした国民党の結成に参画し、党執行部役員(中央常任委員)などを務めた。
青木 作雄(あおき さくお、1898年〈明治31年〉2月3日… 青木 作雄(あおき さくお、1898年〈明治31年〉2月3日 - 1985年〈昭和60年〉8月6日)は、日本の政治家(衆議院議員、山口県会議員、下関市会議員)、家主、山口県多額納税者、会社役員。山陽ビルディング取締役。 山口県下関市出身。青木平七の長男。1920年、東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。広島高等工業学校に学んだ。 古河合名調査課、百十銀行貸付係等歴勤。1923年、家督を相続した。1927年、家業を継いだ。貸家業を営んだ。陸軍三等主計に任ぜられた。 下関市会議員、同参事会員、山口県会議員、同参事会員等となる。1937年、衆議院議員に選ばれ、1期務めた。興亜議員同盟、東方会に所属した。
植田 末蔵(うえだ すえぞう、1881年〈明治14年〉 - … 植田 末蔵(うえだ すえぞう、1881年〈明治14年〉 - 1943年〈昭和18年〉)は、日本の政治家、実業家。山口県豊浦郡彦島町長。山口県会議員。植田商事常務取締役。植田合名会社員。植田商店代表。山口県参事会員。 山口県豊浦郡彦島町(現・下関市)出身。長い間町村会議員、郵便局長、郡会議員をつとめた。1923年、満場の推選で町長となった。また会社の重役であった。 彦島で海運業、運送業、貸地貸家業、労力請負業などを営んでいた植田惣五郎の二男。性格は純で、正直な事で有名であった。趣味は釣り。宗教は真宗。住所は山口県下関市江ノ浦町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
河野 徳之助(こうの とくのすけ、1878年〈明治11年〉1… 河野 徳之助(こうの とくのすけ、1878年〈明治11年〉10月1日 - 没年不明)は、日本の政治家(下関市会議員)、商人(米穀商)、山口県多額納税者、下関米穀取引所取引員、日本米穀市場員、実業家。埴生養殖場代表。炭鉱会社吉豊公司取締役。第一証券監査役。族籍は山口県平民。 山口県豊浦郡彦島町(現・下関市)出身。河野仁左衛門の三男、同久蔵の弟。彦島の一介の農家の生まれだが、幼い頃から才気縦横、僻村の一農民として終始すべき器でなかった。 小学校を出ると米穀商の前途があることを察知し16歳にして自ら店員に甘んじて下関市江村商店に入った。番頭、支配人と進級する。 26歳の頃独立して米穀仲買店舗を開いた。
河野 久蔵(こうの きゅうぞう、1865年3月21日〈慶應元… 河野 久蔵(こうの きゅうぞう、1865年3月21日〈慶應元年2月24日〉 - 没年不明)は、日本の政治家(下関市会議員)、商人(仲買商)、山口県多額納税者、下関米取引所取引員、家主。 山口県豊浦郡彦島町(現・下関市)出身。河野仁左衛門の二男、同徳之助の兄。父祖の農業を助け傍ら勉学に余念がなかった。幼い頃より大志を懐いて下関市に来て、米穀取引が有望なことを洞察し、あるいは店員となり小僧となり、あらゆる刻苦勉励すること10年、転んでは起き、起きては転び1905年、独立して仲買店を設け以来堅実に精励信用を博した。 数年ならずして仲買人部長となり、組合委員長となり、1909年には下関商業会議所議員に選ばれ、1910年より下関市会議員に選出される事実に4回、1917年には市参事会員の名誉職に挙げられた。
植田 謙輔(うえだ けんすけ、1860年9月13日(万延元年… 植田 謙輔(うえだ けんすけ、1860年9月13日(万延元年7月28日) - 1927年(昭和2年)2月3日)は、日本の篤農家、政治家(山口県豊浦郡彦島村長)、実業家。彦島電気取締役。族籍は山口県平民。大彦島建設第一の功労者であった。 長門国彦島(現・山口県下関市)出身。植田藤左衛門の長男。第2代村長田代寅次郎に用いられて1890年、助役に就職し、1891年、第3代村長の要職に就いた。一意村治のために村長として約30年の永きにわたり心血を注いだ。 郡の町村長会副会長となり、種々な公的名誉職に関与した。自治功労者として表彰された。『彦島大観』で「彦島の元勲として崇敬すべき歴史的人物である。」と紹介されている。
大岡 育造(おおおか いくぞう、1856年7月4日〈安政3年… 大岡 育造(おおおか いくぞう、1856年7月4日〈安政3年6月3日〉- 1928年〈昭和3年〉1月26日)は、明治・大正期の弁護士・政治家。号は硯海。 医師大岡尚斎の長男として、長門国豊浦郡小串村(現:山口県下関市)に生まれた。1873年(明治6年)、長崎医学校(現:長崎大学医学部)に入ったが、翌年廃校となった為、上京して大井憲太郎らの講法学舎で法律を学んだ。司法省法学校に通ったとの記事は、裏付けを欠くとも言う。 1880年(明治13年)12月、代言人(現在の弁護士)の資格を取り、講法学舎の幹事になった。沼間守一に兄事して、1881年(明治14年)、板垣退助らの自由党に入党した。また、共立学校の幹事に転じ、1882年(明治15年)、校長になった。
植田 治作(うえだ じさく、1853年(嘉永6年) - 19… 植田 治作(うえだ じさく、1853年(嘉永6年) - 1925年(大正14年))は、日本の篤農家、政治家(山口県豊浦郡会議員、同郡彦島村会議員)、実業家。 長門国彦島西山(現・山口県下関市)出身。植田甚之丞の嫡子。1889年、町村制が実施されると推されて村会議員となり30余年間その公職にあって村政に参与し、その間には郡会議員となり信用組合・漁業組合の理事及び各種の名誉職に挙げられた。 1915年11月、彦島村長より、1919年10月、山口県知事より村治功労者として同年10月には彦島町長より1922年4月、豊浦郡長より自治功労者として表彰され、里人の手によって頌徳碑が建設された。 貧困な家を復興すると同時に全身熱血を注いで部落の青年を薫陶し、常に誠意をもって不言実行した。
瀧川 辨三(たきがわ べんぞう、嘉永4年11月21日(185… 瀧川 辨三(たきがわ べんぞう、嘉永4年11月21日(1851年12月13日) - 大正14年(1925年)1月12日)は、日本の実業家、政治家。 1884年、神戸で興したマッチ製造会社(精燧社)が成功、精燧社は数々の会社を吸収して東洋燐寸株式会社と改名し、辨三は「日本のマッチ王」と呼ばれるようになる。神戸のガス・水道・電気・築港などの公共事業にも参画した。神戸商工会議所会頭、貴族院多額納税者議員(1915年1月21日 - 1918年9月28日)などを歴任し1925年没。享年75。 嘉永4年(1851年)11月21日長府藩士瀧川清の二男として生まれた(戸籍では兵庫県平民)。幼名は百十郎、通称は武熊。
梶山 鼎介(かじやま ていすけ、1848年11月15日(嘉永… 梶山 鼎介(かじやま ていすけ、1848年11月15日(嘉永元年10月20日)- 1933年(昭和8年)3月25日)は、幕末の長府藩士、明治期の陸軍軍人・外交官・政治家。最終階級は陸軍歩兵中佐。衆議院議員。初名・喜代三郎。 長門国豊浦郡(現山口県下関市)で、長府藩士・梶山伴右衛門栄作の長男として生まれる。慶応元年2月14日(1865年3月11日)に長府藩報国隊が結成され斥候兼応接役となる。同年3月25日(4月20日)同志2名と長府藩保守派、藩目付役・林郡平を自宅で暗殺し、同年11月(12月-1966年1月)に捕縛され角島に流罪となった。その後、赦免され戊辰戦争で北陸の戦闘に報国隊軍監として従軍した。