永松 為治郎(ながまつ ためじろう、1865年 (慶応元年)… 永松 為治郎(ながまつ ためじろう、1865年 (慶応元年) - 1939年 (昭和14年) )は、日本の実業家、官僚。 1865年、豊前国宇佐郡、のちの大分県宇佐郡駅館村に生まれる。 1886年、熊本県庁に奉職。1897年、大蔵省煙草専売局に入省。専売支局長に任じられた後、大蔵省本局勤務となる。その後退官し、実業界へ転ずる。 1907年、大日本共同運輸会社 (同社発起人に日比谷平左衛門、平沼専蔵、村井吉兵衛、福澤桃介) 専務取締役に就任。 1913年、ラサ島燐礦 (現ラサ工業) の創立とともに監査役に就任。また当時、精製糖におけるシェア第2位の名古屋製糖取締役、第5位の横濱製糖 (現DM三井製糖ホールディングス) 支配人も務めた。
川面 凡児(かわつら ぼんじ、1862年4月29日(文久2年… 川面 凡児(かわつら ぼんじ、1862年4月29日(文久2年4月1日) - 1929年(昭和4年)2月23日)は、日本の宗教家、神道家。禊の行法を体系化し、組織的に行なった。現在の神社神道における禊作法は、戦前に川面が行っていたものに基づいている。名は恒次(つねじ)、字は吉光。号は殿山(でんざん)。 豊前国(のち大分県宇佐郡両川村小坂、現宇佐市)に、酒造業を営む家の次男として生まれる。神職をしていた父の義弟の溝口千秋に教育のため預けられる。千秋は宇佐神社に参詣する全国各地の神道家や勤王の志士と交流があり、川面はその中のひとり、豊前の儒者・恒遠翁に漢籍を学ぶ。13歳のときに近くの霊山・馬城山(まきさん)に籠り、童仙・蓮池貞澄から仙道を学ぶ。
水之江 文二郎(みずのえ ぶんじろう、1860年11月29日… 水之江 文二郎(みずのえ ぶんじろう、1860年11月29日(万延元年10月17日)- 1929年(昭和4年)2月11日)は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、大分県会議長、大分県宇佐郡封戸村長。旧姓・鶴田、号・孤峰。 豊前国宇佐郡、のちの大分県宇佐郡和間村鶴田新田(長洲町を経て現宇佐市)で、鶴田文左衛門(文左ヱ門)の二男として生まれる。漢学、詩学、歌道を修める。上京して独逸学校で独逸学、数学を学び、1882年(明治15年)東京大学医学部に入学したが病のため退学し、書法を研究した後に帰郷した。 1886年(明治19年)8月、宇佐郡封戸村水崎(現豊後高田市)の素封家で父の異母兄・水之江浩の養嗣子となった。
尾立 維孝(おだて これたか、1860年1月8日(安政6年1… 尾立 維孝(おだて これたか、1860年1月8日(安政6年12月26日)- 1927年(昭和2年)6月21日)は、明治期の検察官。錦鶏間祗候。 豊前国宇佐郡津房村(現在の大分県宇佐市)出身。中津の白石照山塾で学んだ。広島師範学校、二松學舍を経て、1883年(明治16年)に司法省法学校を卒業。東京地方裁判所判事補、大阪地方裁判所検事、東京地方裁判所検事、宮崎地方裁判所検事正、宇都宮地方裁判所検事正、名古屋地方裁判所検事正を歴任。1899年(明治32年)に台湾総督府法院覆審法院検察官長に転じた。1910年(明治43年)に退官し、1912年(大正元年)11月18日に錦鶏間祗候となった。 退官後は二松學舍理事を務めた。
小河 源一(おがわ げんいち、安政6年6月19日(1859年… 小河 源一(おがわ げんいち、安政6年6月19日(1859年7月18日) - 大正5年(1916年)12月27日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→甲辰倶楽部→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会)、弁護士。 豊前国宇佐郡長洲村(現在の大分県宇佐市)出身。法学を学び、1886年(明治19年)に代言人試験に合格し、山口県で開業した。1893年(明治26年)、弁護士法が施行され、代言人が弁護士と改められるとともに、山口弁護士会会長に選出された。1895年(明治28年)には李鴻章狙撃犯の小山豊太郎の弁護を担当した。 それより先、1887年(明治20年)に山口県内の革新派で防長同士会を組織し、幹事となった。
是恒 真楫(これつね まかじ、1851年(嘉永4年8月) -… 是恒 真楫(これつね まかじ、1851年(嘉永4年8月) - 1892年(明治25年)3月13日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(2期)。 豊前国宇佐郡畑田村(大分県宇佐郡駅館村、駅川村、駅川町を経て現宇佐市)で生まれた。白石照山に師事し漢籍を修める。京都の春日潜庵に学び、ロシア語を研究した後に帰郷。1875年(明治8年)宇佐郡に民会を設立し民権の発揚に努める。1879年(明治12年)大分県会議員に推されたがこれを断り、西国東郡長に就任する。1881年(明治14年)大蔵省に出仕し主税官となり1890年(明治23年)3月まで務めた。ほか、日本運輸会社長を務めた。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では大分県第6区から出馬し当選。
横田 国臣(よこた くにおみ、嘉永3年8月9日(1850年9… 横田 国臣(よこた くにおみ、嘉永3年8月9日(1850年9月14日) - 1923年(大正12年)2月24日)は、明治・大正時代の司法官僚、法律家。法学博士。司法次官、検事総長、大審院院長(現在の最高裁判所長官)等を歴任。法典調査会第三部長(刑法起草責任者)。和仏法律学校(現在の法政大学)校長。位階勲等は正二位勲一等。爵位は男爵。 肥前島原藩士・横田宗雄の長男として豊前国宇佐郡辻村(現在の大分県宇佐市)に生まれる。1865年、日田の咸宜園に入塾し、漢学などの各種学問を学ぶが、同期に清浦奎吾(後の内閣総理大臣)がおり親友となった。横田は清浦の力添えも得ながら出世していくことになる。 中津市学校を経て、1872年に上京し数え年23歳で慶應義塾(現在の慶應義塾大学)に入学し、1873年に清浦の斡旋で埼玉県の師範学校教諭となった。
江島 久米雄(えじま / えしま くめお、1850年(嘉永3… 江島 久米雄(えじま / えしま くめお、1850年(嘉永3年2月)- 1933年(昭和8年)3月18日)は、明治から大正期の政治家。衆議院議員。本名・粂雄。 豊前国宇佐郡南宇佐村(大分県宇佐郡宇佐町を経て現宇佐市南宇佐)で、農業・江島茂兵衛の長男として生まれる。1872年(明治5年)中津の白石照山塾に入り、1876年(明治9年)郡立宇佐中学校を卒業した。 連合町村会議員、所得税調査委員、宇佐郡会議員、同議長代理者などを務めた。1879年(明治12年)に上京したが、1880年(明治13年)大分県会議員に当選したため帰郷し、1894年(明治27年)まで在任。この間、1889年(明治22年)と1893年(明治26年)に県会副議長となり、同常置委員、同参事会員も務めた。
山中 幸義(やまなか ゆきよし、1849年3月12日(嘉永2… 山中 幸義(やまなか ゆきよし、1849年3月12日(嘉永2年2月18日)- 1899年(明治32年)3月19日)は、明治期の内務官僚、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・麟趾、麟司。 豊前国宇佐郡、のちの大分県宇佐郡高家村(四日市町を経て現宇佐市)で山中柳平の四男として生まれ、従兄弟・山中幸左衛門の養子となる。 漢籍を鷺海量容、広瀬林外に師事した。1868年(明治元年)澤宣嘉九州鎮撫総督が長崎に着任後、それに従い戊辰戦争に従軍した。その後、慶應義塾で学んだ。 1873年(明治6年)6月、司法省十三等出仕となり、同年7月、権少解部に就任。1874年(明治7年)3月、内務省に転じ新治県少属となる。
到津 公誼(いとうづ きみよし、弘化2年10月18日〈184… 到津 公誼(いとうづ きみよし、弘化2年10月18日〈1845年11月17日〉 - 1901年〈明治34年〉6月22日)は、宇佐神宮大宮司などを務めた明治時代の神職、男爵、正四位。 宇佐氏の流れを汲んで代々宇佐神宮の宮司を務めていた世襲家である到津家に、当主であった到津公嘏(公蝦?)の息子として生まれる。母である到津言子は、熊本藩士の娘で、歌人でもあった。 安政2年(1855年)に初めて宇佐神宮大宮司となり、以降、長く神職を務めた。明治5年(1872年)に華族に列せられ、明治17年(1884年)に男爵となり、明治32年(1899年)には、正四位に叙された。この間、教導職では、明治5年(1872年)に権少教正に任じられ、明治12年(1879年)には少教正となり、明治17年(1884年)には職を解かれた。
水之江 浩(みずのえ ひろし、1845年6月29日(弘化2年… 水之江 浩(みずのえ ひろし、1845年6月29日(弘化2年5月25日)- 1922年(大正11年)4月11日)は、明治期の地主、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・佐藤。 豊前国宇佐郡日足村(大分県宇佐郡北馬城村、宇佐町を経て現宇佐市)に佐藤継信(楽山)の五男として生まれ、1856年6月(安政3年5月)に宇佐郡水崎村(宇佐郡封戸村を経て現豊後高田市)の素封家・水之江家43代・久衛(号・奇峰)の婿養子となる。1871年(明治4年7月)家督を相続した。 家業の製塩業を営む。養父の遺志を継いで溜池の築造を継続して耕地の拡大に尽力。また、小学校校舎の建築、道路・橋梁の整備などにも多額の寄付を行った。
大井 憲太郎(おおい けんたろう、天保14年8月10日(18… 大井 憲太郎(おおい けんたろう、天保14年8月10日(1843年9月3日) - 大正11年(1922年)10月15日)は、日本の政治家、弁護士、社会運動家。自由民権運動に携わり、衆議院議員を務めた。旧姓、高並。別名、馬場城二郎、馬城山人。 天保14年8月10日(1843年9月3日)に豊前国宇佐郡高並村(現在の大分県宇佐市)に農民・高並彦郎とサノの三男として出生。幼名は彦六。幼少から漢学の手ほどきを受け、文久3年(1863年)に、長崎で蘭学・英学を学び、大井卜新との知遇を得て、義兄弟となり、大井の名字を名乗る。更に江戸に出て仏学・化学を学ぶ。江戸幕府の開成所舎密局に出仕する。戊辰戦争では幕軍砲兵隊に属し官軍と戦う。
南 一郎平(みなみ いちろべえ、1836年(天保7年5月22… 南 一郎平(みなみ いちろべえ、1836年(天保7年5月22日) - 1919年(大正8年)5月13日)は、日本の建設事業者、建設指導者、実業家である。晩年は南 尚(みなみ ひさし)と改名した。豊前国宇佐郡金屋(現・大分県宇佐市)出身。 幕末から明治にかけて、大分県の広瀬井手(広瀬井路)、高森水路を開発。その後明治政府の水利開墾事業に従事し、全国の水利土木工事にあたった。とくに日本三大疏水とされる安積疏水(福島県)、琵琶湖疏水(滋賀県 ‐ 京都府)、那須疏水(栃木県)の開発や月居トンネル工事(茨城県)に取り組んでいる。疏水工事のなかで、特にトンネル工事で経験を積み、この経験を生かして、後にトンネル工事を専門とする「現業社」を創設した。
麻生 武平(あそう たけへい、天保6年(1835年) - 明… 麻生 武平(あそう たけへい、天保6年(1835年) - 明治40年(1907年)4月27日)は、明治時代の日本の教育者、海軍軍人。最終階級は海軍機関大佐。旧名弼吉。 明治前半期に海軍操練所、海軍兵学寮、海軍兵学校、海軍機関学校で機関官養成にたずさわり、10年にわたり機関学校の事実上の校務責任者である校長心得および次長を務めた。 豊前国宇佐神宮社司に生まれる。 元治2年(1865年)4月に慶應義塾に入塾。1869年(明治2年)に出版された『奇機新話』(西洋の機械の紹介)など科学技術の啓蒙書や理科教科書を福沢・小幡などと共に数多く執筆。同年、海軍操練所に出仕し、海軍兵学中教授を経て海軍省六等出仕となり、海軍始に明治天皇が行幸した時に「ピョートル大帝海軍創立ノ事」と題する御前講演を行った。
清瀬 善三(きよせ ぜんぞう、1833年6月26日(天保4年… 清瀬 善三(きよせ ぜんぞう、1833年6月26日(天保4年5月9日 )- 1912年(明治45年)7月4日)は、明治期の醸造家・銀行家・政治家・慈善家。貴族院多額納税者議員。幼名・秀吉。慈善事業にも資金を提供した。 豊前国宇佐郡四日市村(大分県宇佐郡四日市村、四日市町を経て現宇佐市四日市)で醸造業・清瀬亀助の六男として生まれた。敷田年治(吉松伊勢守)から読書算術習字などを学んだ。父からその優れた資質を見込まれ、1855年(安政2年6月)に家督を相続した。 1856年(安政3年)四日市の宿役に就任。その後、里掌、四日市村戸長を務め、1879年(明治12年)四日市村会議員に選出され、同町会議員、宇佐郡会議員なども務めた。
佐藤 国彦(國彦、さとう くにひこ、1828年7月19日(文… 佐藤 国彦(國彦、さとう くにひこ、1828年7月19日(文政11年6月8日)- 1911年(明治44年)2月19日)は、明治期の農業経営者、政治家。貴族院多額納税者議員。 豊前国宇佐郡、のちの大分県宇佐郡北馬城村(宇佐町を経て現宇佐市)で、佐藤楽山の長男として生まれる。1843年7月5日(天保14年6月8日)父の隠居に伴い家督を相続し農業を営む。 1874年(明治7年)第6小区戸長に就任し1878年(明治11年)まで在任。1884年(明治17年)大分県岩崎村ほか九カ村戸長となった。 1899年(明治32年)6月4日、大分県多額納税者として貴族院多額納税者議員補欠選挙で互選され、同年7月3日に就任し、1904年(明治37年)9月28日まで1期在任した。
奥 並継(おく なみつぐ、文政7年(1824年)12月 - … 奥 並継(おく なみつぐ、文政7年(1824年)12月 - 明治27年(1894年)2月26日)は、幕末・明治期の志士、国学者、書家、明治期日本の大蔵官僚である。字は子紹、菱池(菱池は宇佐神宮境内の池名)と号す。 豊前国宇佐村(現大分県宇佐市)の藤波氏に生まれ、宇佐神宮祠官漆島姓の奥氏の養嗣子になる。12歳で広瀬淡窓の門に入り、後に帆足万里に学んだ。 嘉永5年(1852年)、宇佐神宮官人代に任じられ、従五位下対馬守に叙せられた。安政2年(1855年)、江戸に出て平田篤胤の門に入り国学を修めた。 文久3年(1863年)、飄然して京都に出遊して憂国の志士と交わり、国事疾走の生活が始まる。丁度三条実美卿らの七卿落ちとなり、勤王攘夷党の蹉跌をみるや、憤慨し直ちに宇佐に帰り、豊前国、豊後国の志士らと語らい勤王倒幕の先鞭をつけんとしてならず、弟の時枝重明と共に日田の獄舎に投じられ、3年を経て即位の大赦により出獄した。
敷田 年治(しきだ としはる、1817年9月1日(文化14年… 敷田 年治(しきだ としはる、1817年9月1日(文化14年7月20日)- 1902年(明治35年)1月30日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代に活動した国学者である。本姓は宮本、後に吉松に改姓。名は仲治。号は百園、百桃園等がある。通称は伊勢守もしくは主計之介。 豊前の宇佐郡敷田村(現・大分県宇佐市)にある二葉山神社の禰宜であった宮本兼継の次男として生まれる。1839年(天保10年)には同郡四日市町にある蛭子神社の禰宜一家であった吉松家の養子となり、後に帆足万里や渡辺綱章らから国学や漢学を学んだ。1846年(弘化2年)には従五位下に叙せられたことにより、出生地の姓を名乗る事が許され敷田姓に改姓する。
賀来 惟熊(かく これたけ、1796年10月28日〈寛政8年… 賀来 惟熊(かく これたけ、1796年10月28日〈寛政8年9月28日〉 - 1880年〈明治13年〉2月25日)は、豊前国の殖産家。 豊前国宇佐郡佐田村(現在の大分県宇佐市)に生まれた。実家は現在の宇佐市安心院町佐田地区の庄屋である宇佐賀来家であり、佐田は肥前国島原藩の知行地(飛び地)であった為に島原藩に仕える人物であった。 惟熊は賀来家の当主として庄屋を引き継ぐと林業の重要性を説き、佐田の村人たちに杉の苗を植えるように指導したと伝わる。 また豊後国日出藩の儒学者である帆足萬里に弟子入りして学問を学んでいたが、帆足から海防強化の必要性を示唆された惟熊は、大砲製造の重要性を認識、島原藩の許可を得て自身の四人の息子や従弟に当たる賀来飛霞などの協力を得て安心院町佐田神社の境内に日本初とも言える反射炉を完成させ、江戸末期に佐田の反射炉で島原藩から鉄製大砲や銅製大砲を受注して鋳造を行ったという。
小田原 潔 は、日本の政治家、自由民主党所属の衆議院議員(5… 小田原 潔 は、日本の政治家、自由民主党所属の衆議院議員(5期)。
永松 健次(ながまつ けんじ)は、日本の国土交通官僚。国土交… 永松 健次(ながまつ けんじ)は、日本の国土交通官僚。国土交通省海事局次長等を経て、日本船員雇用促進センター理事長。 大分県宇佐市出身。東京都立国立高等学校を経て、1984年一橋大学経済学部卒業、運輸省入省。国家安全保障政策研究なども行い、1987年からイラン・イラク戦争下にペルシャ湾岸地域に駐在し船舶安全確保対策の取りまとめにあたった。1998年運輸省九州運輸局自動車部長。 経済企画庁物価局物価管理室長、内閣府国民生活局消費者企画課国際室長を経て、アメリカ同時多発テロ事件翌年の2002年から運輸政策研究機構国際問題研究所在ワシントン研究室次長を務め、アメリカ合衆国国土安全保障省とテロ対策の研究に従事。
神谷 禎恵(かみや よしえ)はフードプロデューサー。大分県乾… 神谷 禎恵(かみや よしえ)はフードプロデューサー。大分県乾しいたけ大使。 調味料ソムリエプロでゆずごしょうの啓発活動は有名で、通称は『マダムゆず』。株式会社生活工房とうがらし代表取締役。 大分県宇佐市出身、母は金丸佐佑子(伝承料理研究家)。 大分県立宇佐高等学校を卒業。1989年、大分大学教育学部を卒業。1991年、日本女子大学文学部在籍。2007年、中村学園大学大学院を卒業。2013年10月5日、国東半島宇佐地域世界農業遺産シンポジウムでパネリストとして参加。2015年6月2日、株式会社生活工房とうがらし代表取締役に就任。2015年10月20日、ミラノ国際博覧会 (2015年)大分県デーでプレゼンテーション。
しいの 実(しいの みのる、本名:椎野 壽脩(しいの ひさな… しいの 実(しいの みのる、本名:椎野 壽脩(しいの ひさなが))は、日本の演歌歌手、作曲家。大分県宇佐市出身。大分県立四日市高等学校卒。 1962年に上京後、数年の下積み時代を経て1965年にNHKオーディションで春日八郎の「長崎の女」を歌い、合格したのをきっかけに演歌歌手としてデビュー。 デビュー当初から岐阜を音楽活動の拠点とし、「四十八滝飛騨国府」「わたしの飛騨古川」「高山の夜」など飛騨地方の歌を数多くリリース。 「高山の夜」はレコードやCDなどを合わせた累計で30万枚以上を売り上げ、1981年にはビクターレコードヒット賞を受賞した。 2004年には歌手活動35周年記念でリリースした「ふるさとの唄」がヒット。
重松 重治(しげまつ じゅうじ、(1870年12月24日〈明… 重松 重治(しげまつ じゅうじ、(1870年12月24日〈明治3年11月3日〉 – 1943年〈昭和18年〉2月4日)は、明治後期から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 豊前国宇佐郡江島村(大分県宇佐郡江須賀村、柳ヶ浦村、柳ヶ浦町、長洲町を経て現宇佐市)で、重松和七郎の長男として生まれる。中津の漢学塾で学び、その後、同志社に進んだが一年で中退した。1897年(明治30年)家督を相続。 帰郷して柳ヶ浦村会議員、宇佐郡会議員となる。1911年(明治44年)大分県会議員に選出された。1920年(大正9年)5月の第14回衆議院議員総選挙で大分県第7区から憲政会所属で出馬して当選し、以後、第20回総選挙まで連続7回の当選を果たした。
宮本 辰彦(みやもと たつひこ)は日本の思想家、和プロジェク… 宮本 辰彦(みやもと たつひこ)は日本の思想家、和プロジェクトTAISHI代表。 大化の改新の中臣鎌足を祖とする神職、学者、医師の家系に生まれる。大分県宇佐市下敷田出身で、二葉山神社(別名八大龍王宮)が本家にあたる。一族の出身では学僧寂室堅光(1753 - 1830)。また、辰彦の父の曾祖父の兄は、国学者敷田年治(1817 - 1902)で神宮皇學館の初代学頭。その孫であり辰彦の伯父は住吉大社元宮司・敷田年博。辰彦の父包厚は阪神・淡路大震災当時、神戸市衛生局長を勤め、厚生省から出された遺体の野焼き案に対して、故人の尊厳と遺族心情を理由に異を唱え、被災が冬だったことも手伝い、野焼きが回避される(この時の様子は2009年1月17日のNHKスペシャル「阪神・淡路大震災 秘められた決断」)。