金子 有卿(かねこ ありのり、1846年1月18日(弘化2年… 金子 有卿(かねこ ありのり、1846年1月18日(弘化2年12月21日)- 1923年(大正12年)1月16日)は、日本の政治家、神職、華族。貴族院男爵議員。有郷と表記される場合がある。 石見国安濃郡川合村(現島根県大田市川合町川合)で物部神社社家・金子有久の二男として生まれる。元治元年7月7日(1864年8月8日)父の隠居に伴い家督を相続し第47代石見国造となる。1875年(明治8年)9月、華族に列せられ、1884年(明治17年)7月8日、男爵を叙爵した。 明治4年(1871年)物部神社権宮司に就任し、権大講義、大教正、神道大社教副管長などを歴任。明治元年(1868年)から川合国漢塾を設け神道教育と共に国漢教育を行い、また、皇典講究所委員にも就任した。
岩村 高俊(いわむら たかとし、弘化2年11月10日(184… 岩村 高俊(いわむら たかとし、弘化2年11月10日(1845年12月8日)- 明治39年(1906年)1月4日)は、日本の江戸時代後期から明治期の武士(土佐藩士)、官僚、華族である。初名は鉄五郎、のち精一郎。 宿毛領主伊賀家に仕えた岩村英俊(礫水)の三男で、岩村通俊、林有造の弟。位階勲等は従二位、勲二等、男爵。美術評論家・美術史家の岩村透は長男、次男は建築家の竹腰健造。 土佐国幡多郡、のちの宿毛村貝塚(宿毛町を経て現宿毛市)に生まれる。藩校の文武館で蘭学や砲術を学ぶ。慶応3年(1867年)9月に通俊の鉄砲購入に随行して長崎へ行く。ここで監察・佐佐木高行の添え書きを得て11月に上京し、陸援隊に入隊した。
到津 公誼(いとうづ きみよし、弘化2年10月18日〈184… 到津 公誼(いとうづ きみよし、弘化2年10月18日〈1845年11月17日〉 - 1901年〈明治34年〉6月22日)は、宇佐神宮大宮司などを務めた明治時代の神職、男爵、正四位。 宇佐氏の流れを汲んで代々宇佐神宮の宮司を務めていた世襲家である到津家に、当主であった到津公嘏(公蝦?)の息子として生まれる。母である到津言子は、熊本藩士の娘で、歌人でもあった。 安政2年(1855年)に初めて宇佐神宮大宮司となり、以降、長く神職を務めた。明治5年(1872年)に華族に列せられ、明治17年(1884年)に男爵となり、明治32年(1899年)には、正四位に叙された。この間、教導職では、明治5年(1872年)に権少教正に任じられ、明治12年(1879年)には少教正となり、明治17年(1884年)には職を解かれた。
岡沢 精(おかざわ くわし、1844年8月20日〈弘化元年7… 岡沢 精(おかざわ くわし、1844年8月20日〈弘化元年7月7日〉- 1908年〈明治41年〉12月12日)は、日本の武士(長州藩士)、陸軍軍人、華族。正二位勲一等功二級子爵。 長州藩士岡沢甚内の子として萩に生まれる。1862年(文久2年)以降は江戸の長州藩邸に滞在しながら京都を往来し、文久の政変に巻き込まれたこともあった。大村益次郎の塾に学んだ後は尊皇攘夷運動に携わる。南国隊を組織し戊辰戦争に従軍した。 維新後は陸軍に進み、1870年(明治3年)10月に大坂第2教導隊に入営。1871年(明治4年)2月に四等軍曹、4月に御親兵大隊長、6月3日には陸軍准中尉となり、さらに同年中には中尉・大尉・少佐と昇任した。
有地 品之允(ありち しなのじょう、1843年4月14日〈天… 有地 品之允(ありち しなのじょう、1843年4月14日〈天保14年3月15日〉- 1919年〈大正8年〉1月17日)は、日本の陸軍軍人、海軍軍人、華族、政治家。貴族院議員、第2代連合艦隊司令長官。爵位は男爵。最終階級は海軍中将。別名は信政。 長州藩士で武術指南役を務め、禄高1千石の大身である有地信敏(通称は藤馬)の長男として生まれる。戊辰戦争では干城隊士として奥羽に出陣した。 明治2年(1869年)から同4年(1871年)まで欧州へ出張して普仏戦争を視察。帰国後に陸軍少佐、御親兵6番大隊長となり、同年から明治6年(1873年)まで侍従を務める。同年に海軍に転じ、海軍少佐となって提督府分課に勤務。
赤松 則良(あかまつ のりよし、天保12年11月1日〈184… 赤松 則良(あかまつ のりよし、天保12年11月1日〈1841年12月13日〉 - 大正9年〈1920年〉9月23日)は、日本の武士(幕臣)、華族、海軍軍人、政治家。貴族院議員。栄典は海軍中将。位階勲等爵位は従二位勲一等男爵。通称は大三郎。「日本造船の父」と呼ばれる。 中世の播磨の名族赤松氏の末裔と称する播州網干(現姫路市網干区)新在家の龍野藩御用商人であった廻漕業赤松良則を実父とする幕府十五番組御徒士(御家人)・吉沢雄之進の次男として江戸深川に生まれる。弘化4年(1847年)、祖父赤松良則の後を継ぎ父の実家である赤松姓となる。先祖の出自から父の経歴まで「赤松則良半生談」に本人が詳しく述べている。
足立 正声(正聲、あだち まさな、天保12年9月22日〈18… 足立 正声(正聲、あだち まさな、天保12年9月22日〈1841年11月5日〉 - 1907年〈明治40年〉4月19日)は、日本の武士(鳥取藩士)、官僚、華族。男爵。字は興卿、通称は八蔵。雅号は老狸、天瀑、克己斎、礫室、碌々山房、楽石山人、鼓腹庵、古狸窟。 因幡国邑美郡鳥取庖丁人町(現鳥取県鳥取市)で、鳥取藩士・足立次郎八中和の二男として生まれる。文久元年(1861年)学正堀庄次郎(熙明、敦斎)の推挙で江戸の芳野金陵に学ぶ。文久2年(1862年)冬、国事周旋方に就任。 文久3年8月17日(1863年9月29日)本圀寺事件に参加したため、京都藩邸に拘留され、伯耆国日野郡黒坂、鳥取に幽閉された。第二次長州征討が始まり、慶応2年7月(1866年)幽閉先の荒尾直就邸から同志と共に脱出し、長州藩諸隊の南園隊に加わり、備前、京都で活動して長州藩のために周旋し、大村益次郎から西洋軍学を学んだ。
相浦 紀道(あいのうら のりみち、1841年8月9日〈天保1… 相浦 紀道(あいのうら のりみち、1841年8月9日〈天保12年6月23日〉- 1911年〈明治44年〉4月1日)は、日本の海軍軍人、政治家、華族。最終階級は海軍中将。官位は従二位勲一等功三級男爵。旧名は忠一郎。 佐賀藩士相浦蕃慎の長男として生れる。藩校・弘道館で学び、佐賀藩海軍に入り、戊辰戦争に従軍。 1869年(明治2年)、「延年艦」副長となり、「長鯨丸」「飛隼丸」の各船長、「日進」乗組などを歴任。1871年(明治4年)、海軍大尉に任官。「摂津艦」「雲揚」「龍驤艦」の各艦長などを歴任。1873年(明治6年)3月、水路寮出仕、水路寮測量課長、海軍兵学校次長などを務めた。 1879年(明治12年)9月、現場に復帰し「筑波」艦長となり、以後、「金剛」「扶桑」の各艦長を経て、1885年(明治18年)12月に海軍少将となる。
藤田傳三郎(ふじた でんざぶろう、1841年7月3日(天保1… 藤田傳三郎(ふじた でんざぶろう、1841年7月3日(天保12年5月15日) - 1912年(明治45年)3月30日)は、日本の商人、実業家、華族。明治時代の大阪財界の重鎮で、藤田組(後の藤田財閥、現・DOWAホールディングス)の創始者。男爵。 建設、土木、鉱山、電鉄、電力開発、金融、紡績、新聞などの経営を手がけ、今日の多くの名門企業の前身を築いた。また有能な経営者を多数育て、美術品の収集家、慈善事業家、数寄者としても名高い。号を香雪と称す。現在の山口県萩市出身。元奇兵隊士だとされるが詳細は不詳。 長州藩の萩(現・山口県萩市)で醸造業を営む藤田半右衛門常徳の四男に生まれる。家業は醸造業の他、藩の下級武士に融資を行う掛屋を兼営していた。
有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう、天保… 有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう、天保6年2月19日〈1835年3月17日〉- 明治28年〈1895年〉1月15日)は、江戸時代後期・明治時代の日本の皇族、政治家、軍人。雅号は初め泰山、後に霞堂。階級勲等功級は陸軍大将大勲位功二級。世襲親王家の有栖川宮第9代当主。 有栖川宮幟仁親王(霊元天皇玄孫)の第一王子で、幼名は歓宮(よしのみや)。生母は家女房の佐伯祐子。官職は任命順に、大宰帥、国事御用掛、政府総裁、明治政府総裁、東征大総督、兵部卿、福岡藩知事(後に県知事、県令)、元老院議官(後に議長)、鹿児島県逆徒征討総督、左大臣、陸軍参謀本部長、参謀総長、神宮祭主。 和宮親子内親王と婚約していたことで知られるが、徳川幕府の権力失墜に伴い、公武合体を余儀なくされた幕府が公武合体を国内外に誇示するための実績として和宮は降嫁し、徳川将軍第14代徳川家茂と結婚した。
伊丹 重賢(いたみ しげかた、文政13年11月17日(183… 伊丹 重賢(いたみ しげかた、文政13年11月17日(1830年12月31日) - 明治33年(1900年)7月15日)は、日本の男爵。志士、貴族院議員、大審院判事、錦鶏間祗候、従五位。通称、蔵人、右近大進。子に伊丹春雄、伊丹二郎。 京都(山城国)粟田(現京都市東山区)生まれ。伊丹家は代々粟田青蓮院宮に仕えた。幼き頃から神童と呼ばれ、徳川幕府が衰退するにいたって尊皇攘夷派の志士となり東奔西走する。安政5年(1858年)に橋本左内、梅田雲浜らと共に幕府に捕らわれ彦根城に幽閉される。その後、放免となり明治維新を迎える。 維新後、大阪府判事に命ぜられて同地に赴任。その後、長崎・東京府へ赴任し、大審院に入り元老院議官に転ず。
文仁親王妃紀子 は、日本の皇族。旧名は川嶋 紀子。身位は親王… 文仁親王妃紀子 は、日本の皇族。旧名は川嶋 紀子。身位は親王妃。敬称は殿下。お印は檜扇菖蒲(ひおうぎあやめ)。勲等は勲一等宝冠章。皇室会議予備議員。
守谷 絢子 は、日本の元皇族。日本郵船社員およびNPO法人「… 守谷 絢子 は、日本の元皇族。日本郵船社員およびNPO法人「国境なき子どもたち」理事・守谷慧の妻。勲等は宝冠牡丹章。
伊地知 正治(いじち まさはる / しょうじ)は、日本の武士… 伊地知 正治(いじち まさはる / しょうじ)は、日本の武士(薩摩藩士)、官僚、政治家、華族。諱は季靖。通称は龍右衛門、後に正治。正三位勲一等伯爵。家紋は宝結び。 戊辰戦争の白河口の戦いでは、わずか700の兵で、4倍弱にあたる2500名の幕府軍を撃破したことなどにより、「類いまれな軍略家」などという異名がある。また、片眼と片脚が不自由がなのにも関わらず新政府軍参謀として活躍したことにより、「薩摩の山本勘助 」などという異名もある。 薩摩藩士伊地知季平の次男として鹿児島城下千石馬場町に生まれる。幼名は竜駒。3歳の時に文字を読んで「千石の神童」と呼ばれるが、幼い頃に大病を患ったために片目と片足が不自由となる。
承子女王 は、日本の皇族。
愛子内親王 は、日本の皇族。諱は愛子、御称号は敬宮(としのみ… 愛子内親王 は、日本の皇族。諱は愛子、御称号は敬宮(としのみや)、お印はゴヨウツツジ(五葉つつじ)。勲等は宝冠大綬章。身位は内親王。敬称は殿下。日本赤十字社常勤嘱託職員。今上天皇と皇后雅子の第1皇女。上皇と上皇后美智子の皇孫にあたる。2000年代に誕生した初の皇族で、2000年代に誕生した唯一の女性皇族でもある。現在、女性皇族11方かつ内廷皇族の最年少者。
千家 典子 は、日本の元皇族。出雲大社権宮司・千家国麿の妻。… 千家 典子 は、日本の元皇族。出雲大社権宮司・千家国麿の妻。勲等は宝冠牡丹章。
竹田 恒徳 、または竹田宮恒徳王 は、日本の旧皇族(竹田宮第… 竹田 恒徳 、または竹田宮恒徳王 は、日本の旧皇族(竹田宮第2代当主)、陸軍軍人。竹田宮恒久王の第1男子。母は常宮昌子内親王。最終階級は陸軍中佐。勲等は大勲位。1947年(昭和22年)10月に皇籍離脱し、株式会社竹田編織(埼玉県飯能市)の社長。
松平 容大(まつだいら かたはる)は、明治時代の知藩事、華族… 松平 容大(まつだいら かたはる)は、明治時代の知藩事、華族。会津松平家11代で陸奥斗南藩主(知事)。 明治2年(1869年)6月、藩領を没収された前会津藩主・松平容保の長男として誕生した。母は容保の側室・佐久。同年11月3日(12月5日)、会津松平家の再興を許されて、容大は新たに陸奥国北郡・三戸郡・二戸郡内で3万石を与えられた。斗南藩と称した。なお、明治3年(1870年)1月、戊辰戦争の処罰として命じられていた藩士の謹慎を解かれた。同年5月15日(6月13日)、版籍奉還により知藩事に就任し、従五位を与えられた。明治4年7月15日(1871年8月30日)、廃藩置県により、斗南藩は斗南県となり、知藩事職を免じられた。
小野 尊光(おの たかてる)は、明治から昭和期の神職、政治家… 小野 尊光(おの たかてる)は、明治から昭和期の神職、政治家、華族。貴族院男爵議員。天葺根命95代。 出雲国神門郡日御碕(現島根県出雲市大社町日御碕)で日御碕神社神職、94代天葺根命・小野尊安の長男として生まれる。明治5年3月12日(1872年4月19日)父の隠居に伴い家督を継承し尊光と改名。1873年(明治6年)10月、華族に列し、1884年(明治17年)7月8日に男爵を叙爵した。 家督継承後、日御碕神社権宮司に任じられ、以後、同社権中講義、同宮司・権大講義、兼権少教正を歴任。この間、遷宮を行った。 1901年(明治34年)4月27日、日御碕神社宮司を辞任。同年6月6日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、1911年(明治44年)7月9日まで2期在任した。
阿野 公誠(あの きんみ)は、幕末の公家、明治時代初期の官僚… 阿野 公誠(あの きんみ)は、幕末の公家、明治時代初期の官僚、華族。麝香間祗候。 京都で非参議阿野実典の長男として生まれる。文政10年(1827年)3月22日に元服、昇殿を許される。天保14年(1843年)1月14日侍従 。左近衛権少将を経て、安政3年(1856年)12月22日左近衛中将に任じられる。安政5年(1858年)廷臣八十八卿列参事件にその名を連ねている。文久2年(1862年)8月16日には三条実美ほか公卿13名の連名で幕府にこびへつらう「四奸二嬪」(岩倉具視・久我建通・千種有文・富小路敬直・今城重子・堀河紀子)を弾劾する文書を関白近衛忠煕に提出した。同年11月4日参議、同時に議奏および国事御用掛を拝命する。
綾小路 有良(あやのこうじ ありかず)は、幕末の公家、明治期… 綾小路 有良(あやのこうじ ありかず)は、幕末の公家、明治期の雅楽家・華族。子爵。 山城国京都で、侍従・綾小路俊賢の長男として生まれる。安政5年11月7日(1858年12月11日)元服して昇殿を許され従五位上に叙せられた。文久2年12月7日(1863年1月26日)侍従に任じられ孝明天皇、明治天皇に仕える。左近衛権少将、侍従、兼雅楽助、神楽御人数、兼次侍従・雅楽助、式部寮御用掛、侍従、兼大伶人などを歴任し、1873年9月27日に家督を相続した。 1884年7月8日、子爵を叙爵。1886年、御歌所参候となり、雅楽部長、式部職主事などを務め、1886年から歌会始で披講の発声を担当した。三オクターブの声域があったと言われている。
溝口 直正(みぞぐち なおまさ)は、江戸時代後期(幕末)の大… 溝口 直正(みぞぐち なおまさ)は、江戸時代後期(幕末)の大名、明治から大正期の華族。位階・爵位は従二位・伯爵。 越後国新発田藩12代(最後)藩主、同藩初代(最後)藩知事を務めた。廃藩置県後も死去まで華族溝口家の戸主であり続けた。 11代藩主溝口直溥の四男として新発田に生まれる。幼名は誠之進。 旧暦慶応3年8月28日(1867年9月)、直溥の隠居に伴い家督を継ぐ。同年10月、諸大名に上京が命じられるが、幼少のため名代として家老・窪田平兵衛が京都に赴く。同4年2月、藩兵を上京させ御所警衛を行う。のちにこの藩兵は東征軍参加を命じられた。同月、直正は江戸を発ち、翌月に新発田に入る。同年5月、周辺諸藩の圧力もあり、やむなく新発田藩は奥羽越列藩同盟に参加する。
酒井 忠宝(さかい ただみち)は、江戸末期の大名、明治から大… 酒井 忠宝(さかい ただみち)は、江戸末期の大名、明治から大正期の日本の華族。位階は従三位。幼名は徳之助。 第9代出羽庄内藩主酒井忠発の六男で、兄忠篤の蟄居後に酒井佐衛門尉家第18代当主となり、岩代若松(旧会津)、磐城平への転封を経て、庄内藩知事(のち大泉藩と改称)を務めた。正室は遠藤胤城の娘。 戊辰戦争で兄・酒井忠篤が新政府軍に降伏し、永蟄居に処された後、御家再興を許されて明治元年12月(1869年1月)に忠宝が家督を継ぎ岩代若松(のち若松県)へ、さらに版籍奉還直前の明治2年6月(1869年7月)に陸奥磐城平への移封を命じられたが、70万両の献納を条件に同年7月22日に庄内藩知事への復帰が認められた。