磯浦 康二(いそうら こうじ、1932年11月11日 - 2… 磯浦 康二(いそうら こうじ、1932年11月11日 - 2018年4月7日)は、元日本放送協会(NHK)のアナウンサー。 東京都豊島区出身。1957年上智大学文学部新聞学科卒業。同年、日本放送協会(NHK)にアナウンサーとして入局。1990年まで同局にて活躍。同局退社後、ラジオ・パーソナリティー、上智大学文学部新聞学科講師、対話総合研究所主任研究員、国会議員政策担当秘書を歴任。2000年4月よりNHK水戸文化センターで「心を開く話し方講座」「朗読講座」の講師を務める。 また、1988年にマスコミ・ソフィア会の創設に参加し、東京放送ホールディングス社長や社長室名誉顧問を歴任した濱口浩三初代会長とともに同会の発展に寄与した。
志生野 温夫(しおの はるお、1932年11月4日 - )は… 志生野 温夫(しおの はるお、1932年11月4日 - )は、大分県竹田市出身のフリーアナウンサー。シオノ事務所社長を務める。 國學院大學卒業後の1956年、日本テレビへ入社。同期に本多当一郎、赤木孝男がいる。1972年、アナウンス部副部長を最後にフリーへ転身。現在も地上波やCSなどで活躍し、日本テレビアナウンスカレッジ講師や結婚式の司会業(椿山荘)なども担当する。元NHKアナウンサーの山川静夫は大学時代の同級生である。 「〜であります!」調の実況が特徴であり(後輩の徳光和夫も影響を受けている)、倒産した全日本女子プロレスではWWWA2代目コミッショナーを務めた。
枇杷阪 明(びわさか あきら、1932年11月3日 - )は… 枇杷阪 明(びわさか あきら、1932年11月3日 - )は、日本のアナウンサー。東京都出身。枇杷坂 明は誤り。
植草 貞夫(うえくさ さだお、1932年9月29日 - )は… 植草 貞夫(うえくさ さだお、1932年9月29日 - )は、日本のアナウンサー。元・朝日放送(ABC)アナウンサーで、同社からの定年退職(1992年)後も、個人事務所の(植草貞夫事務所・オフィスSARAH)代表を務めながら、フリーアナウンサーやスポーツコメンテーターとして2010年代の初頭まで活動していた。 東京府東京市の出身で、東京都立墨田川高等学校から早稲田大学へ進学。大学卒業後の1955年に、アナウンサーとして朝日放送に入社した。入社時点の朝日放送はラジオ単営局であったが、テレビ単営局の大阪テレビ放送との合併によって、入社直後の6月1日付でテレビとの兼営局として再スタートを切った。朝日放送アナウンサーとしての同期に田村安起と矢代清二、他の職種で採用されていた同期の社員に山内久司と澤田隆治と槇洋介などがいる。
中江 陽三(なかえ ようぞう、1932年6月15日 - )は… 中江 陽三(なかえ ようぞう、1932年6月15日 - )は、元NHKアナウンサー。現在はフリー。
小林 完吾(こばやし かんご、1932年4月27日 - )は… 小林 完吾(こばやし かんご、1932年4月27日 - )は、日本のアナウンサー、ニュースキャスター、司会者、ジャーナリスト、タレント。CMにも出演。愛称は「完吾さん」。 1960年2月6日、ラジオ南日本(現在の南日本放送)に入社し、放送業界に入った。1963年9月2日、日本テレビ放送網に移籍した。1992年4月、日本テレビ放送網を定年退職した。フリーアナウンサーとなり、オフィスこばやしを立ち上げた。 神奈川県鎌倉市出身。6人兄弟(兄2・姉2・弟)の5番目で三男である。両親はともに東京都出身である。祖父は洋画家の小林萬吾、母方の祖父は医学博士の中島譲吉である。親戚には元九州朝日放送アナウンサーで現在の福岡市長である高島宗一郎がいる。
金原 二郎(きんばら じろう、1932年2月2日 - 199… 金原 二郎(きんばら じろう、1932年2月2日 - 1997年4月26日)は、日本の司会者、アナウンサー。東京府(のちの東京都)出身。 早稲田大学教育学部卒業後、1954年(昭和29年)に日本テレビへアナウンサーとして入社。ワイドショー『金原二郎ショー』のほか、『底ぬけ脱線ゲーム』などのバラエティ番組の司会を務めた。この他に皇太子明仁親王(第125代天皇)の成婚パレードの実況、東京オリンピックの開会式実況、吉田茂の国葬中継実況、静岡第一テレビ開局[要説明]、アナウンス部長を務めた。 早稲田大学の同期には元毎日放送アナウンサーの小池清や元読売ジャイアンツ選手の広岡達朗、俳優の宇津井健(中退)などがいる。
井上 光央(いのうえ てるひさ、1932年1月28日 - )… 井上 光央(いのうえ てるひさ、1932年1月28日 - )は、毎日放送出身のフリーアナウンサー。 東京都出身で巣鴨育ち。東京都立小石川高等学校を経て、早稲田大学第一政経学部卒業後、1955年に新日本放送(現在の毎日放送)にアナウンサーとして入社。大学時代は放送研究会に所属していた。 スポーツ実況を主とし、プロ野球・南海ホークス戦をはじめ、「選抜高等学校野球大会」では開会式17回、決勝戦22回を担当し、『センバツの生き字引』と呼ばれた。また、日本シリーズでは1985年の阪神対西武戦(甲子園球場の第4戦)、大阪スタヂアム最後のオールスターとなった1986年の第2戦(清原和博(当時・西武)のオールスター初ホームランでMVPを獲得)、1988年10月15日の大阪球場での南海最後の公式戦の実況を担当した。
稲福 健蔵(いなふく けんぞう、1932年1月12日 - 1… 稲福 健蔵(いなふく けんぞう、1932年1月12日 - 1996年)は、日本のアナウンサー・報道記者である。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:アナウンサー)。
飯窪 長彦(いいくぼ ながひこ、1932年 - )は、元NH… 飯窪 長彦(いいくぼ ながひこ、1932年 - )は、元NHKアナウンサー。
藤谷 栄也(ふじや まさや、1931年11月3日 - )は、… 藤谷 栄也(ふじや まさや、1931年11月3日 - )は、日本の元アナウンサー。NHK札幌放送局などで活躍した。 東京府(現在の東京都)生まれ。戦時中の14歳時に北海道余市へ疎開する。 北海道余市高等学校を経て、北海道大学に進学し、同大教育学部を卒業。 1954年にNHKへ入局し、釧路放送局を皮切りにアナウンサーとして活動。札幌放送局の人気番組「北海道中ひざくりげ」の初代リポーター・北海道ニュースワイドのキャスターを務める。北海道中ひざくりげでは江戸っ子らしい小気味の良い口ぶりや人懐っこい笑顔で人気を博した。 NHK退職後は1997年に札幌国際大学非常勤講師に就任、講演や大学での授業を通じて日本語の正しい使い方を教える。
羽佐間 正雄(はざま まさお、1931年10月29日 - )… 羽佐間 正雄(はざま まさお、1931年10月29日 - )は、日本のフリーアナウンサー。元NHKアナウンサー。
小池 清(こいけ きよし、1931年8月10日 - 2012… 小池 清(こいけ きよし、1931年8月10日 - 2012年4月28日)は、元アナウンサー。毎日放送勤務後、フリーアナウンサーに転身した。 東京府東京市滝野川区(現在の東京都北区)田端出身。東京都立北園高等学校を経て、早稲田大学第一文学部英文科へ進学した。早大の同期には俳優の宇津井健(中退)や元読売ジャイアンツ選手の広岡達朗、元日本テレビアナウンサーの金原二郎らがいた。 大学卒業後の1954年4月に、新日本放送にアナウンサーとして入社した。当時の新日本放送はラジオ単営局で、同期のアナウンサーに藤本永治がいる。なお、新日本放送は1958年に「毎日放送」と改称し、1959年3月1日に、テレビ(以下「MBSテレビ」と略記)の本放送を開始した。
松本 暢章(まつもと のぶあき、1931年8月10日 - 1… 松本 暢章(まつもと のぶあき、1931年8月10日 - 1998年3月14日)は、大阪府出身の元フリーアナウンサー。 登校拒否・不登校問題全国協議会の代表者・松本弘義は実兄。 旧制天王寺中学時代には野球部に所属。強打の左翼手として活躍し、1947年の春の選抜に出場。学制改革後は夕陽丘高校を卒業。 関西学院大学進学後は母校で野球部の監督を務める傍ら、創設間もない放送研究会に在籍。大学野球の実況や様々なナレーションをやっているところを開局準備中であった神戸放送(現・ラジオ関西)のスタッフにスカウトされ、在学中の1952年にパーソナリティとしてデビュー。卒業後の1958年に開局したばかりの関西テレビ(KTV)へ第1期アナウンサーとして入社し、主にプロ野球や競馬といったスポーツ中継を担当。
藤本 永治(ふじもと えいじ、1931年7月5日 - 201… 藤本 永治(ふじもと えいじ、1931年7月5日 - 2018年11月)は毎日放送(MBS)の元アナウンサーである。愛称は「MBSの永ちゃん」(矢沢永吉に対抗して)。 東京都出身。中央大学卒業後、1954年に新日本放送(NJB。現在の毎日放送)のアナウンサーとして入社。同期には小池清。 毎日放送ではラジオ番組中心に出演。1984年6月1日より秘書室へ人事異動となった小池の後を継いでアナウンサー室長を1992年まで務めた。アナウンサー室長時代は「ひょうきん室長」と呼ばれていた。その後は主幹となり、1993年まで在籍して退職。退職後も、年に1回ほどのペースで、毎日放送のラジオ番組にゲストで出演していた。
細田 勝(ほそだ まさる、1931年〈昭和6年〉6月23日 … 細田 勝(ほそだ まさる、1931年〈昭和6年〉6月23日 - 2021年〈令和3年〉12月31日)は、東京都新宿区出身のアナウンサー、大相撲評論家。 早稲田大学文学部卒業。1954年4月、文化放送にアナウンサーとして入社。以来、スポーツアナウンサーとして、33年に渡って活躍。大相撲に対する造詣が深く、1相撲番組を15年に渡って担当。進行を担当した『大相撲熱戦十番』は「大相撲熱戦十番の狂言回し」と自らを紹介した。 文化放送の定年退職後は大相撲評論家として、著書出版の他、講演会活動を行った。 2021年12月31日、腎不全のため死去。その死去は文化放送の後輩アナウンサーである坂信一郎が雑誌『相撲』(ベースボール・マガジン社)に寄稿したことで明らかにされた。
井川 良久(いかわ よしひさ、1931年6月1日 - 200… 井川 良久(いかわ よしひさ、1931年6月1日 - 2009年2月21日)は、元NHKアナウンサー。 陸軍幼年学校と早稲田大学に在籍後に、1955年、NHK入局。落ち着いた低音の語り口は、高度成長期の多くの人々の印象に刻まれた。 この項目は、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(アナウンサーPJ)。
常木 建男(つねき たつお、 1931年5月26日 - 19… 常木 建男(つねき たつお、 1931年5月26日 - 1986年7月30日)は、元ニッポン放送アナウンサー。早稲田大学法学部卒業。「健夫」は誤り 。 ニッポン放送に開局と同時に入社。1967年にスタートした看板番組「オールナイトニッポン」の初代パーソナリティとして一躍有名になった。この他、『日立ミュージック・イン・ハイフォニック』のパーソナリティなども担当。 1978年に赤塚不二夫と全日本満足問題研究会が発表したレコード『ライヴ・イン・ハトヤ』(ビクターSJX-20052)では、TBSアナウンサーの林美雄と共にライブショーの司会者、中継アナウンサーとして出演。 後年にはアナウンサー職の傍ら、後進の指導にも当たっていた。
後藤 美代子(ごとう みよこ、1931年3月30日 - 20… 後藤 美代子(ごとう みよこ、1931年3月30日 - 2017年7月5日)は、元NHKアナウンサー。 東京都出身。お茶の水女子大学卒業。テレビ放送が始まった1953年、NHKにテレビ1期生アナウンサーとして入局。家庭医学の番組や、古典芸能、クラシック音楽の番組を数多く担当。NHK初の女性管理職アナウンサーを務めた。1988年、NHK退職後はフリーアナウンサーとして活躍しながら徳島文理大学教授も歴任した。2017年7月5日、全身塞栓症で死去、86歳。
竹山 恭二(たけやま きょうじ、1931年3月 - 2008… 竹山 恭二(たけやま きょうじ、1931年3月 - 2008年8月6日)は、日本のアナウンサー、映像作家、文筆家。本名、同じ。 叔父は評論家・ドイツ文学者・小説家の竹山道雄。妻はTBSアナウンサーのちメディア史研究者の竹山昭子。 東京都生まれ。1953年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業。同年2月にラジオ東京(KR。のちの東京放送=TBS)へ入社、アナウンサー第2期生として編成局アナウンス課へ配属。報道番組を担当。 その後、1954年12月に編成局報道部テレビニュース課へ異動ののち、報道局テレビ報道部を経て、1967年2月に編成局放送部、1976年9月テレビ本部制作局制作部に在職。テレビニュース記者を務めたほか、ニュース番組やドキュメンタリー番組の制作、映像ライブラリー等を手掛けた。
塚越 恒爾(つかごし つねじ、1931年1月8日 - 201… 塚越 恒爾(つかごし つねじ、1931年1月8日 - 2016年3月21日)は、元アナウンサー、児童文学作家。 神風号のパイロットとして名前を知られた塚越賢爾の長男として東京に生まれる。 1955年横浜国立大学工学部卒業。当初は父と同じく朝日新聞社に入って航空分野で活躍しようとした節があるが、相談相手で賢爾を知っていた斉藤寅郎に「君は本流を歩きなさい」と反対され、NHKにアナウンサーとして入局。あさま山荘事件やアポロ11号月着陸の報道特別番組における現場からの中継に携わった。 1987年の定年退職後は対話総合研究所を設立して後進の指導を行う一方、児童文学の執筆も行い、「ファンタ爺さん」として全国の小学校で口演などを行い、語り伝えの普及に努めた。
荒川 修(あらかわ おさむ、 1931年〈昭和6年〉 - 2… 荒川 修(あらかわ おさむ、 1931年〈昭和6年〉 - 2012年〈平成24年〉1月)は。日本のフリーアナウンサー、元NHKアナウンサー。 東京都本郷出身。1955年、東京大学教育学部卒業後にNHKへ入局。 鹿児島→甲府→東京→高知→東京→札幌→東京→大阪→東京で勤務。1988年12月にNHKを定年退職後、 フリーアナウンサーになる。 2012年1月に死去。 この項目は、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(アナウンサーPJ)。
高田 晃(たかだ あきら、1931年 - 没年不明)は元朝日… 高田 晃(たかだ あきら、1931年 - 没年不明)は元朝日放送・テレビ東京のアナウンサー。 大阪府出身。早稲田大学卒業後、1954年に朝日放送へ入社。1964年にテレビ東京へ移籍(開局より関わっていた)。1984年時点でアナウンス部長。 2000年4月発行の「テレビ東京史 20世紀の歩み」に物故者として記載がある[要ページ番号]。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:アナウンサー)。
小坂 巖(こさか いわお、1931年 - )は長野県須坂市出… 小坂 巖(こさか いわお、1931年 - )は長野県須坂市出身のフリーアナウンサー、競馬ジャーナリスト。 1954年、日本短波放送にアナウンサーの第1期生として入社。1956年の『中央競馬実況中継』開始に伴い、実況アナウンサーを務めた。 東京優駿(日本ダービー)では1年おきに実況を務めたほか、1964年の菊花賞ではシンザンによる中央競馬史上2頭目のクラシック三冠達成の瞬間を伝えた。このときは道中での様子から「シンザン、どうやらこれで、三冠馬ダメか」、「シンザン、どうやら三冠できそうにない」と実況してしまい、忘れられないと語っている。また、俗に「シンザンが消えた」という文句で知られる翌1965年の有馬記念の実況も小坂が担当している。
渡辺 謙太郎(わたなべ けんたろう、1930年12月22日 … 渡辺 謙太郎(わたなべ けんたろう、1930年12月22日 - 2006年11月14日)は、日本のアナウンサー。東京府(後の東京都)出身。 1953年2月、TBSにアナウンサーとして入社。日本の民放のスポーツアナウンサーの草分けで、温かみのある実況の名調子は「謙太郎節」と呼ばれ、プロ野球中継に一時代を築いた。皇太子御成婚中継の他、メルボルン、東京、メキシコ、ミュンヘン各五輪の放送も担当。ワイドショーの司会等もこなし、1985年12月にTBSを定年退職。1986年1月、フリーに転向後はメディア・スタッフ代表取締役の他、東京運動記者クラブ会友、日本プロゴルフ協会学術委員、日本ボウリング場協会理事も歴任した。
石井 鐘三郎(いしい しょうざぶろう、1930年11月13日… 石井 鐘三郎(いしい しょうざぶろう、1930年11月13日 - 没年不明)は、元NHKアナウンサー。 東京外国語学校ロシア文学科卒業。 1951年5月よりNHK帯広放送局、1953年4月よりNHK東京、1961年9月よりNHK福岡放送局で勤務。 『NHK紅白歌合戦』では、1954年 - 1960年、1962年 - 1967年に総合司会を担当。 NHK退職後、1999年12月まで全国産業資源循環連合会発行の雑誌「いんだすと」でコラムを連載していた。
稲垣 吉彦(いながき よしひこ、1930年9月10日 - 2… 稲垣 吉彦(いながき よしひこ、1930年9月10日 - 2013年4月8日)は、日本の言語学者、評論家、アナウンサー。 神奈川県生まれ。本名・文男。慶應義塾大学経済学部卒業。NHKアナウンサー、NHK放送文化研究所主任研究員、文教大学情報学部教授を歴任。2001年退職。流行語などについて著作を多く著し、1971年から2013年まで『現代用語の基礎知識』の執筆にも携わった。2013年4月8日、肺炎のため死去。82歳没。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
高野 昭平(たかの しょうへい、1930年6月25日 - )… 高野 昭平(たかの しょうへい、1930年6月25日 - )は、日本のアナウンサー、実業家。 浅草生まれ。早稲田大学卒業後、1953年2月にラジオ東京(のちのTBS)へ第2期生として入社。アナウンス部長などを歴任(1967年10月から1968年9月までの間、報道局特別制作部へ異動)後、1981年7月にラジオ局へ異動しアナウンス職から離れる。1982年10月には広島エフエム放送へ出向。1983年10月にTBSへ復帰し人事労政局に在籍。1985年5月にテレコム・ジャパンへ出向し、6月に定年。その後、メディア・スタッフの取締役相談役を務める一方、TBSアナウンススクールの特別講師を担当している。
金子 辰雄(かねこ たつお、1930年3月8日 - 2025… 金子 辰雄(かねこ たつお、1930年3月8日 - 2025年10月12日)は、元NHKアナウンサー。 東京都大森区(現:大田区)出身。早稲田大学法学部を卒業後、1951年にNHK入局。札幌、福岡等に勤務。 現役時代は、1970年4月から17年間にわたって『NHKのど自慢』の司会を務めた。金子の司会就任前の『のど自慢』は超低迷期にあり、東西分裂や地域別放送など、試行・模索が続いていたが、金子の司会就任により全国統一され、現在に至る人気を確立した。出場者同士の仲人や赤ちゃんの名付け親になったこともある。また、NHK紅白歌合戦の特典集計センター担当、テレビ中継、ラジオ中継にも長年に亘り携わり、第23回(1972年)から第41回(1990年)まで、毎年途切れる事なくこの内の何れかの役割を担当し続けた。
佐藤 昭(さとう あきら、1930年1月24日 - )は、元… 佐藤 昭(さとう あきら、1930年1月24日 - )は、元日本テレビアナウンサー、元福島中央テレビ役員、元株式会社21インコーポレーション取締役社長。
小篠 菊雄(おざさ きくお、1930年 - 2020年)は、… 小篠 菊雄(おざさ きくお、1930年 - 2020年)は、日本のアナウンサー。東京プロ野球記者OBクラブ会員。神奈川県横浜市出身。慶應義塾大学文学部卒業。 1958年に[要出典]文化放送へ入社し、その後にフジテレビジョンへ移籍(同期に鶴岡巍)[要出典]。主にスポーツ実況で活躍。プロ野球中継、ボクシング中継などを担当、特にボクシングではファイティング原田(笹崎ボクシングジム)の試合を中心に実況を担当。また、オリンピック大会の中継でも活躍。1964年東京大会では、開会式の実況を担当。1972年ミュンヘン大会ではジャパンコンソーシアムの一員として中継を担当した。冷静なアナウンスが特徴。 フジテレビではアナウンサーののち、アナウンス室長、スポーツ部プロデューサーを歴任。
武藤 和子(むとう かずこ、1930年 ‐ 2010年12月… 武藤 和子(むとう かずこ、1930年 ‐ 2010年12月3日)は、日本のアナウンサーである。キリスト教信者であり、洗礼名は「ルチア」。 日本の民放局女性アナウンサーの草分けの一人であり、後年、濱口浩三(TBS社長、マスコミ・ソフィア会会長)と結婚し「濱口 和子」(はまぐち かずこ)となった。 青山学院大学卒業後、1951年(昭和26年)10月に、同年12月25日の開局を控えていたラジオ東京(現TBS)へアナウンサー第1期生として入社。音楽番組『歌のない歌謡曲』初代担当や、婦人向けニュース番組などを担当。 1960年(昭和35年)7月に退社。退職から1年間は嘱託アナウンサーの後、完全にフリーに。
西沢 祥平(にしざわ しょうへい、1930年〈昭和5年〉 -… 西沢 祥平(にしざわ しょうへい、1930年〈昭和5年〉 - 2016年〈平成28年〉7月7日)は、日本のアナウンサー、ニュースキャスター。元CICカナダ国際大学副学長。 松本高等学校 (旧制)から学制改革により信州大学卒業後[要出典]、東京大学に学士入学、教育学部を卒業。 1954年(昭和29年)、NHKに後期入局。札幌放送局に配属。1960年代から1980年代にかけ、ニュースや選挙開票速報番組などで活躍した。後にチーフアナウンサーを歴任し 1970年入局の新人研修の講師を務め、その後も多くの後輩の指導にも全力を注いだ。 1987年(昭和62年)10月、NHKを退職。CICカナダ国際大学副学長に就任。
玉井 孝(たまい たかし、1929年〈昭和4年〉11月5日 … 玉井 孝(たまい たかし、1929年〈昭和4年〉11月5日 - 2016年〈平成28年〉12月21日)は、日本のアナウンサー・司会者。元、ラジオ神戸(CR、現:ラジオ関西 (CRK))・朝日放送(ABC)アナウンサーで、アクト・アカデミー芦屋の校長も務めた。 特記事項のないものはすべてABC制作の番組。 この項目は、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(アナウンサーPJ)。
榎本 勝起(えのもと かつおき、1929年〈昭和4年〉10月… 榎本 勝起(えのもと かつおき、1929年〈昭和4年〉10月26日 - 2021年〈令和3年〉11月22日)は、日本のアナウンサー、放送ジャーナリスト。TBSアナウンサー第3期生。東京都町田市出身・在住。愛称は「榎さん(えのさん)」。 東京都立玉泉中学校(現在の東京都立西高等学校)3期→駒澤大学文学部英米文学科卒業。1952年11月23日にTBSの前身であるラジオ東京に入社、編成局考査部、制作一課、調査部を経て1954年4月にアナウンサーとなる(第3期生)。以後、ラジオ局制作現業部兼テレビ編成局アナウンス部(1966年1月)、ラジオ局第一制作部兼アナウンサー研修室付(1967年11月)、ラジオ局第一制作部(1968年9月)、テレビ制作局第二制作部兼テレビ編成局放送部(1969年3月)、ラジオ本部アナウンス室(1971年3月)に配属される。
鈴木 治彦(すずき はるひこ、1929年8月18日 - )は… 鈴木 治彦(すずき はるひこ、1929年8月18日 - )は、日本のアナウンサー。愛称は「治さん」。味の素創業者一族・鈴木家の一人。 神奈川県藤沢市辻堂出身で、第二次世界大戦後に茅ヶ崎市へ転居して以来、茅ヶ崎に在住。慶應義塾中等部3年生の時に相撲中継がやりたくてアナウンサーへの道を志す。 1955年4月、第4期アナウンサーとしてラジオ東京(現在のTBS)入社(同期には田畑国夫・増子智英・松野道男・柳広武・大沢嘉子・杉田喜代子・高橋作子・松浦園子)。1966年1月にラジオ局放送部兼テレビ編成局アナウンス部に所属、1967年11月15日にはアナウンサー研修室設置に伴いチーフ・アナウンサーへ就任。その後、テレビ本部編成局朝ワイド制作部兼ラジオ局アナウンス室(1971年2月)、報道局朝ワイド制作部(1976年11月)、第二制作局朝ワイド制作部(1979年12月)、第二制作局(1981年7月)をそれぞれ歴任。
鈴木 健二(すずき けんじ、1929年〈昭和4年〉1月23日… 鈴木 健二(すずき けんじ、1929年〈昭和4年〉1月23日 - 2024年〈令和6年〉3月29日)は、日本のフリーアナウンサー・司会者。元NHKアナウンサー。 『歴史への招待』や『クイズ面白ゼミナール』などの司会者として高視聴率を叩き出したことで知られる。著作も多く、『気くばりのすすめ』はベストセラーになった。 NHKのエグゼクティブアナウンサー(理事待遇)になり、1988年にNHKを定年退職した後、熊本県立劇場の館長に就任し、伝承芸能の復元などにつとめ、1998年には青森県立図書館および青森近代文学館の館長に就任した。 兄は映画監督・俳優の鈴木清順。 東京府東京市本所区(現・墨田区亀沢)出身、生粋の江戸っ子。
廣瀬嘉夫(ひろせ よしお、1929年〈昭和4年〉 - )は、… 廣瀬嘉夫(ひろせ よしお、1929年〈昭和4年〉 - )は、NHKの元アナウンサー。 旧姓は鶴間。埼玉県鴻巣市出身。1945年に、旧制埼玉県立熊谷中学校を卒業。1948年、一橋大学卒業。 1951年、NHK入社。経済担当記者、経済部長、解説委員、解説主幹を歴任した。特に経済担当のニュース解説委員として広く世間に知られた。 1982年、NHKを退社。経済評論家として独立。その後、公共経済調査会理事長、経済審議会総合部会委員、税制調査会特別委員、資金運用審議会専門委員、競馬懇談会委員、金融制度調査会委員などの公職を歴任し、政府の政策決定に関与した。
川上 裕之(かわかみ ひろゆき、1929年 - 2016年)… 川上 裕之(かわかみ ひろゆき、1929年 - 2016年)は、元NHKアナウンサー。 NHK退局後は大学講師の傍ら、日本語研究や家庭教育、交通安全や趣味の航空史研究まで、講演や執筆活動などを幅広くこなしており、一時期、東海道・山陽新幹線の自動放送のナレーションも勤めていた。 朝・昼・夜の定時ニュースでの明るい笑顔と落ち着いた語り口にはファンが多かった。
生田 博巳(いくた ひろみ、1929年 - 2000年12月… 生田 博巳(いくた ひろみ、1929年 - 2000年12月16日、本名:生田 登〔 - のぼる〕、別名義:南海 太郎〔なんかい たろう〕)は、日本のアナウンサー、タレント。 神戸大学文理学部(後の文学部)卒業。入学時には経済学部にいたが、途中で文理学部へ転部した。 1953年に大学を卒業し、日本放送協会 (NHK) に入局。同期に磯村尚徳、和田勉、吉田直哉がいる。大阪局にアナウンサーとして配属され、主にプロ野球や高校野球などのスポーツ中継で実況などを担当した。 1958年、読売テレビ (YTV) の開局とともに同局へ移籍し、ここでもスポーツ実況などを担当した。 読売テレビ退社後の1964年からはフリーランスで活動。
山形 定房(やまがた さだふさ、1929年 - 2022年5… 山形 定房(やまがた さだふさ、1929年 - 2022年5月24日)は、日本のアナウンサー。東京都出身。 日本大学卒業後、1952年にNHKに入局。1958年に日本教育テレビ(現テレビ朝日)設立時に移籍。 主に報道番組のキャスターを担当した。またNETテレビの試験電波放送時の第一声を担当したのは山形である。 息子は、元静岡放送アナウンサーでワイド!スクランブルなどの番組でレポーターをしたり、オートレースの実況アナウンサーなどを務めた山形美房である。 2022年5月24日、死去。93歳没。 この項目は、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(アナウンサーPJ)。
越智 正典(おち まさのり、1928年11月18日 - 20… 越智 正典(おち まさのり、1928年11月18日 - 2025年4月16日)は、日本のアナウンサー、野球評論家、スポーツライター。日本放送協会(NHK)アナウンサー→日本テレビ放送網(NTV)アナウンサー、のち運動部長。東京府(のちの東京都)出身。 「おち せいてん」の読みをあてる場合がある。 東京府立第一商業、早稲田大学政治経済学部卒業。 1951年にNHKへ入局。札幌局勤務ののち、1953年のNTV開局に伴い同局へ第1期アナウンサーとして移籍とする資料があるが、同年10月21日のNHKラジオ第2放送での日米野球(円山球場)の実況を担当しているため、実際には開局翌年移籍とみられる。以後、特にスポーツ中継の実況アナウンサーとして活躍。
小椋 克己(おぐら かつみ、1928年10月21日 - 20… 小椋 克己(おぐら かつみ、1928年10月21日 - 2005年5月29日)は日本の元アナウンサー。
福島 幸雄(ふくしま ゆきお、1928年〈昭和3年〉6月8日… 福島 幸雄(ふくしま ゆきお、1928年〈昭和3年〉6月8日 - 2001年〈平成13年〉1月11日)は、NHKのアナウンサー。 東京生まれ。日本大学第一中学校(現在の日本大学第一高等学校)を経て、千葉外事専門学校(現在の麗澤大学)を卒業した。 1949年(昭和24年)、NHKにアナウンサーとして入局した。同期には八木治郎、小川宏といった、後に民放のワイドショーで司会を担当するアナウンサーがいた。 1960年(昭和35年)から2年間、アメリカ・ワシントンのVOAに出向し、東京オリンピックをはじめとしたスポーツ実況、『ニュースセンター9時』(NC9)のスポーツコーナー、『スポーツアワー』の司会などスポーツキャスターの草分けとして活動し、夏冬で5回の五輪を担当した。
小川 宏(おがわ ひろし、1926年〈大正15年〉4月17日… 小川 宏(おがわ ひろし、1926年〈大正15年〉4月17日 - 2016年〈平成28年〉11月29日)は、日本のフリーアナウンサー・司会者。元NHKアナウンサー。東京都墨田区出身。 東京府南葛飾郡寺島町(後の東京市向島区、現:東京都墨田区東向島)生まれ。東京府立第七中学校(現:東京都立墨田川高等学校)を経て早稲田大学専門部工科建築科を卒業後、一旦間組(現在の安藤ハザマ)に入社するも半年で退職。NHKには二次募集で1949年に入局した。同期には八木治郎、大塚利兵衛、福島幸雄、穂坂俊明がいる。鶴岡放送局、郡山放送局(現在はいずれも支局)に勤務後、1952年より東京勤務となる。 1955年より『ジェスチャー』の4代目司会者として10年にわたって活躍。
酒井 広(さかい ひろし、1926年4月3日 - 2017年… 酒井 広(さかい ひろし、1926年4月3日 - 2017年4月20日)は、日本の司会者、アナウンサーである。NHKを経てフリーアナウンサーとなり『酒井広のうわさのスタジオ』では、ほのぼのトークと親しみのある人柄で人気を集め一時代を築いた。 東京府東京市京橋区(現在の東京都中央区)出身。1950年、法政大学卒業。法大在学中は法政大学弁論部に所属。卒業後、NHKに入局。新潟・福岡[疑問点 – ノート]の各局を経て東京アナウンスへ。特に、社会・家庭教養番組で一時代を築いた[要出典]。 1982年にNHK退職後、フリーとなり、日本テレビ(局契約)・テレビ朝日などで活躍した。1989年の第15回参議院議員通常選挙では比例区から友部達夫らが結成した年金党公認候補として立候補するが、落選。
石田 武(いしだ たけし、1926年(大正15年)3月 - … 石田 武(いしだ たけし、1926年(大正15年)3月 - 1989年(平成元年)4月15日)は、元NHKアナウンサー。 中外商業新報(現・日本経済新聞)の記者である父・石田武太郎は現在の大阪府富田林市出身で、先祖は紀州徳川家に仕えた武士であった。武はアメリカの牧場で働くべく陸軍の獣医を目指し、麻布獣医専門学校を卒業する。終戦後に大勢の獣医が復員したため職に就けず、GHQの在日米軍基地で家畜の世話をして糊口を凌いだ。その後、英語が活かせると考え、高い競争倍率のNHK報道員に応募し採用された。 最初に派遣された広島時代には、広島カープ創設時のラジオの実況を務め、名調子で知られたという。またプロ野球、高校野球、大相撲、サッカーなどの実況も担当した。
吉村 光夫(よしむら みつお、1926年(大正15年)2月1… 吉村 光夫(よしむら みつお、1926年(大正15年)2月14日 - 2011年(平成23年)1月3日)は、日本のアナウンサー、司会者、鉄道ライター。愛称は「ロングおじさん」、「ロンちゃん」。「吉村 忠晃」の名義を使用する場合もあった。2女あり。 兵庫県神戸市生まれ、神奈川県横浜市、東京都千代田区育ち。 1937年(昭和12年)、第一東京市立中学校(現・千代田区立九段中等教育学校)に入学し、1942年(昭和17年)に卒業。次いで同年藤原工業大学(後の慶應義塾大学工学部、現・理工学部)予科に入学、戦後の1948年(昭和23年)に慶應義塾大学大学工学部電気工学科を卒業し、日本放送協会(NHK)入局。
川原 恵輔(かわはら けいすけ 1926年 - )は、日本の… 川原 恵輔(かわはら けいすけ 1926年 - )は、日本の元アナウンサー。 東京都出身の武蔵野音楽大学声楽科卒業後、1946年に日本放送協会(NHK)に入局。野球(プロ・アマを問わず)、柔道など各種スポーツ放送に従事。1964年の東京オリンピック男子柔道の実況を担当。無差別級決勝の神永昭夫 - アントン・ヘーシンク戦のテレビ中継の実況を行ったのは川原である。 1982年ごろ定年退職後はフリーアナウンサーとして、テレビ埼玉、千葉テレビ放送、サンテレビジョンを中心に、プロ野球中継の実況を担当した。少なくとも2000年代前半以後はアナウンサーとしての活動は確認されていない。 この項目は、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。
木島 則夫(きじま のりお、1925年〈大正14年〉5月10… 木島 則夫(きじま のりお、1925年〈大正14年〉5月10日 - 1990年〈平成2年〉4月13日)は、日本の司会者、ニュースキャスター、アナウンサー、政治家。民社党所属の参議院議員(2期)。 東京都出身。旧制横須賀中学(現神奈川県立横須賀高等学校)、明治学院大学文学部英文科を卒業。1948年に、読売新聞社の採用試験を受け不合格となったが、NHKのアナウンサー採用試験で合格し入局、クイズ番組『危険信号』『生活の知恵』などの司会を担当した。1964年3月にNHKを退職し、その直後の同4月より、日本教育テレビ(NET。現テレビ朝日)と局契約アナウンサー(嘱託職)を結び、『木島則夫モーニングショー』の司会を1968年3月まで務め(『モーニングショー』自体も初代の総合司会者だった)、「泣きの木島」と呼ばれて人気を集めて、ワイドショーブームの火付け役となった。