小山 五郎(こやま ごろう、1909年〈明治42年〉3月25… 小山 五郎(こやま ごろう、1909年〈明治42年〉3月25日 - 2006年〈平成18年〉3月2日)は、日本の銀行家。三井銀行(現:三井住友銀行)の社長、会長を歴任した。位階は従三位。 群馬県新田郡鳥之郷村(現・太田市)に、大島戸一の五男として生まれる。旧制太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)、旧制静岡高等学校を経て、1932年(昭和7年)に東京帝国大学経済学部卒業。三井銀行に入行。 三井銀行では数寄屋橋丸の内支店長などを経て1955年(昭和30年)総務部長、さらに1959年(昭和34年)取締役となり東京支店長に就任。1961年(昭和36年)大阪支店長を兼任して大阪事務所長委嘱、1963年(昭和38年)常務取締役となる。
三島 重人(みしま しげと、1909年2月27日 - 20… 三島 重人(みしま しげと、1909年2月27日 - 2009年8月9日)は、日本の経営者、銀行家。筑邦銀行頭取を務めた。 福岡県出身。1932年に神戸商業大学を卒業し、1933年に日本勧業銀行に入行した。1962年5月に筑邦銀行頭取に就任。1981年6月に会長に就任し、1988年6月に取締役相談役を経て、1989年6月には取締役名誉会長に就任。 1981年4月に勲四等瑞宝章を受章し、1990年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 2009年8月9日、老衰のために死去。100歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
横田 郁(よこた たかし、1909年〈明治42年〉1月31日… 横田 郁(よこた たかし、1909年〈明治42年〉1月31日 - 1984年〈昭和59年〉6月9日)は、日本の銀行家。日本勧業銀行頭取、第一勧業銀行初代頭取、全国銀行協会連合会会長。 司法大臣・横田千之助の長男として、東京・麹町に生まれる。 慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、1932年(昭和7年)に慶應義塾大学経済学部を卒業。翌年に日本勧業銀行に入行する。 築地支店長、大阪支店次長、審査第二部長、丸の内支店長を歴任。1955年(昭和33年)取締役に選任、丸の内支店長委嘱。常務、専務、副頭取を経て、1969年(昭和44年)2月、武田満作頭取の病気退任を受け、横田が後任として昇格した。 頭取に就任した当時、勧銀は都市銀行中位でもたついており、折からの国際化の進展で銀行が生き残るためには合併しかないと判断し、第一銀行の井上薫と共に、渋澤倉庫の八十島親義や日本経済新聞社の池内正人らの力を借りて、極秘裡に合併計画を進め、第一勧業銀行を発足させた。
大村 武彦(おおむら たけひこ、1908年12月19日 - … 大村 武彦(おおむら たけひこ、1908年12月19日 - 1994年8月23日)は、日本の銀行家。西日本相互銀行社長、会長を務めた。福岡県出身。位階は正五位。 1936年に九州帝国大学法科を卒業し、同年に朝鮮銀行に入行。 1947年3月に福岡税務署で勤務し、1948年3月に熊本財務局理財局長を経て、1952年2月に西日本相互銀行に転じ、1964年5月に取締役に就任し、1968年5月に常務、1971年5月に専務を経て、1973年7月に社長に就任。1982年10月に会長に就任し、1984年6月に名誉会長を経て、1986年6月に常任相談役に就任。 1975年9月に藍綬褒章を受章し、1981年4月に勲三等瑞宝章を受章。
長谷川 重三郎(はせがわ じゅうざぶろう、1908年(明治4… 長谷川 重三郎(はせがわ じゅうざぶろう、1908年(明治41年)11月5日 - 1985年(昭和60年)3月4日)は、日本の銀行家。第一銀行頭取、全国銀行協会会長(第25代)を務めた。東京出身。 実父は渋沢栄一で、妾との間に生まれたと言われる。一説には、渋沢の13番目の子供ということで「じゅう3郎」というところから「重三郎」と名付けられた。 一高を経て、東京帝国大学経済学部に入学。大学入学式のすぐその足で、ソビエトから帰国した佐野学歓迎会に出席、一挙検挙で辛うじて逃げ出した逸話は知る人の間では伝説となっている。東大では土屋喬雄のゼミナールで日本経済史を専攻した。 1932年に第一銀行に入行。行内ではエリートコースを歩み、本店営業部次長、業務部長兼秘書役を歴任。
伊原 隆(いはら たかし、1908年6月5日 - 1976年… 伊原 隆(いはら たかし、1908年6月5日 - 1976年9月24日)は、日本の大蔵官僚、銀行家。大蔵省理財局長、横浜銀行頭取、全国地方銀行協会会長、横浜商工会議所会頭などを歴任した。 1908年(明治41年)6月5日、神奈川県に生まれる。神奈川師範学校附属鎌倉小学校、神奈川県立湘南中学校、第一高等学校文科乙類を卒業したのち、1928年(昭和3年)に東京帝国大学法学部法律学科に入学。1931年に卒業したのちは大蔵省に入省、理財局に勤務した。京橋税務署長、大蔵大臣秘書官、内閣総理大臣秘書官(兼任)などを歴任し、1945年5月19日に金融局資金統制課長。1946年2月2日に理財局国庫課長。同年8月31日に理財局次長となり、1947年9月2日から1951年5月1日までは理財局長を務めた。
山口 孫一(やまぐち まごかず、1908年〈明治41年〉4月… 山口 孫一(やまぐち まごかず、1908年〈明治41年〉4月27日 - 1970年〈昭和45年〉10月31日)は、日本の銀行家。紀陽銀行頭取、大阪植木社長、大日本除虫菊取締役、白浜温泉ホテル監査役を務めた。父は紀伊貯蓄銀行頭取を務めた山口孫七。 和歌山県海草郡山口村(現・和歌山市)出身。山口孫七の長男。1931年、東京農業大学農学部卒業。大日本除虫菊監査役・取締役・専務を経て、1949年紀陽銀行取締役、1952年常務、1955年頭取。 趣味は美術工芸品、ゴルフ、運動、煙草。宗教は浄土宗。住所は大阪府泉北郡高石町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
清島 省三(きよしま せいぞう、1908年 <明治41年> … 清島 省三(きよしま せいぞう、1908年 <明治41年> 3月10日 - 1993年 <平成5年> 3月7日)は、日本の経営者、銀行家。位階は従四位。 熊本県出身。1933年に東京帝国大学法学部を卒業。満州国政府、大蔵省での勤務を経て、1955年に経済企画庁審議官に就任。 1956年3月に十八銀行頭取に就任し、1983年10月には会長に就任。1989年6月に取締役相談役を経て、1990年6月には相談役に退いた 1978年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1993年3月7日肺炎のために死去。84歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
中村 地平(なかむら ちへい、1908年(明治41年)2月7… 中村 地平(なかむら ちへい、1908年(明治41年)2月7日 - 1963年(昭和38年)2月26日)は、宮崎県出身の小説家、銀行家。宮崎県立図書館長、宮崎相互銀行(現宮崎太陽銀行)社長。自らが憧れた南方の風土で培われた南方文学を提唱した。筆名であり、本名は中村治兵衛。 1908年(明治41年)、現宮崎市淀川町に中村常三郎の次男として裕福な商家に生まれた。旧制宮崎中学校(現宮崎大宮高校)時代、佐藤春夫の台湾小説を読んで南方に憧れ、1930年(昭和5年)3月、台湾総督府立台北高等学校を卒業。同年4月、東京帝国大学文学部美術史科に入学。入学試験の会場で太宰治と知り合った。学生時代の1932年(昭和7年)「熱帯柳の種子」を文芸誌『作品』に発表。
菊久池 博(きくいけ ひろし、1908年1月13日 - 19… 菊久池 博(きくいけ ひろし、1908年1月13日 - 1989年12月10日)は、日本の経営者、銀行家。大阪府出身。 1927年9月に関西商工無尽に入社し、1953年3月に関西大学専門部法科を卒業。1959年4月に取締役に就任し、1957年11月に近畿相互銀行常務、1960年11月に専務、1963年8月に副社長を経て、1967年5月には頭取に就任。1979年6月には相談役に退いた。 1970年10月に藍綬褒章を受章し、1980年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 1989年12月10日肺炎のために死去。81歳没。
松平 一郎(まつだいら いちろう、1907年(明治40年)1… 松平 一郎(まつだいら いちろう、1907年(明治40年)11月15日 - 1992年(平成4年)12月24日)は、日本の銀行家。会津松平家の分家当主で、東京銀行、カリフォルニアファーストバンクの各会長。 秩父宮雍仁親王妃勢津子は妹、徳川宗家第18代当主の徳川恒孝は次男。 松平容保の六男松平恆雄、鍋島直大の四女信子の長男としてイギリスのロンドンで生まれる。成蹊中学、水戸高を経て、1932年(昭和7年)に東京帝国大学文学部支那哲学科を卒業。さらに同大学経済学部にも学ぶ。この間の1928年(昭和3年)に勢津子(節子)が秩父宮雍仁親王に嫁いだ。1934年(昭和9年)、横浜正金銀行に入行し本店勤務となるが、近衛歩兵第1連隊で兵役に就き、陸軍少尉に任官している。
武田 満作(たけだ まんさく、1907年(明治40年)9月1… 武田 満作(たけだ まんさく、1907年(明治40年)9月17日 - 1991年(平成3年)12月22日)は、日本の経営者、銀行家。日本勧業銀行頭取を務めた。愛知県海部郡弥富町(現・弥富市)出身。 1932年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、1933年に日本勧業銀行に入行。 全国金融統制会出向。東海、北陸地方商工局事務官を経て勧銀に復帰。調査課長、調査部次長、業務部次長、審査室審議役、調査部長、人事部長を歴任。 1957年11月に取締役に選任。常務、副頭取を経て、1966年12月には頭取に昇格した。 1969年2月、4月末からの全国銀行協会連合会長の激職を控え、持病の糖尿病を心配して、横田郁副頭取に頭取の座を譲り会長に退いた。
吉田 孝吉(よしだ たかよし、1907年 <明治40年> 5… 吉田 孝吉(よしだ たかよし、1907年 <明治40年> 5月5日 - 1982年 <昭和57年> 6月17日)は、日本の銀行家。岩手銀行頭取を務めた。位階は従五位。 岩手県出身。1929年に福島高等商業学校を卒業し、同年に盛岡銀行 (のちの岩手銀行) に入行。 1948年に取締役に就任し、1950年11月に常務、1968年4月に専務を経て、1973年11月には頭取に就任。1977年12月に会長に就任。 1978年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1982年6月17日白血病のために死去。75歳没。死没日付をもって正七位から従五位に進階した。
鷹野 孝徳(たかの たかのり、1907年2月15日 - 19… 鷹野 孝徳(たかの たかのり、1907年2月15日 - 1997年5月8日 )は、日本の経営者、銀行家。鹿児島銀行頭取を務めた。 山梨県甲府市出身。1928年に長崎高等商業学校を卒業し、同年に日本銀行に入行した。1959年11月に鹿児島銀行に転じ、副頭取に就任し、1960年5月には頭取に昇格した。1979年12月に会長を経て、1986年6月には相談役に就任。 1970年10月に藍綬褒章を受章し、1977年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1997年5月8日、脳梗塞のために死去。90歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
尾澤 修治(おざわ しゅうじ、1907年 - 1997年)は… 尾澤 修治(おざわ しゅうじ、1907年 - 1997年)は、日本の銀行家、公認会計士、税理士、不動産鑑定士。姓の「澤」は「沢」の旧字体のため、新字体で尾沢 修治(おざわ しゅうじ)と表記されることもある。 株式会社住友銀行東京支店次長、尾澤会計事務所所長(初代)、監査法人朝日会計社理事長(初代)、日本公認会計士協会会長などを歴任した。 三井住友銀行の前身である住友銀行に勤務していたが、病気により退職することになった。その後、公認会計士を目指し、やがて65歳にして監査法人朝日会計社を創設した。初代理事長として、同法人を大手会計事務所の一角に食い込むほどに育て上げ、のちの有限責任あずさ監査法人の礎を築いた。
立 正嘉(たち まさよし、1906年 <明治39年> 12月… 立 正嘉(たち まさよし、1906年 <明治39年> 12月26日 - 1990年 <平成2年> 10月13日)は、日本の銀行家。山陰合同銀行頭取を務めた。位階は正五位。 東京都出身。1929年に東京帝国大学独法科を卒業し、同年に日本銀行に入行した。1959年11月から1975年12月までに山陰合同銀行頭取を務めた。 1969年9月に藍綬褒章を受章し、1980年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1990年10月13日肺炎のために死去。83歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
井上 薫(いのうえ かおる、1906年(明治39年)5月13… 井上 薫(いのうえ かおる、1906年(明治39年)5月13日 - 1993年(平成5年)4月18日)は、日本の銀行家。第一銀行頭取、第一勧業銀行初代会長を務めた。千葉県我孫子市出身。妻・光子は渋谷米太郎の長女。 開成中学、一高を経て、1929年に東京帝国大学経済学部を卒業。同年に第一銀行に入行。調査部長、審査第一部長等を歴任。 1954年に取締役に選任。常務、専務、副頭取を経て、1962年に頭取に就任し、1966年に会長に退いた。しかし、当時第一銀行と三菱銀行の合併話が進んでいたことから、酒井杏之助相談役と共に合併反対派の領袖として、当時頭取で合併推進派だった長谷川重三郎と対立する。結局合併は破談となり、その責任を取って長谷川が頭取を辞任したため、1969年に頭取に復帰した。
中山 素平(なかやま そへい、1906年(明治39年)3月5… 中山 素平(なかやま そへい、1906年(明治39年)3月5日 - 2005年(平成17年)11月19日 )は、日本の銀行家。日本興業銀行(現:みずほフィナンシャルグループ)頭取、同会長、経済同友会代表幹事、海外技術協力事業団(現:国際協力機構)会長等を歴任。「財界の鞍馬天狗」の異名を持つ一方、部下からは「そっぺいさん」と呼ばれ慕われた。
岩佐 凱実(いわさ よしざね、1906年2月6日 - 200… 岩佐 凱実(いわさ よしざね、1906年2月6日 - 2001年10月14日)は、日本の実業家、銀行家。経済同友会代表幹事、安田銀行常務、富士銀行頭取、経団連副会長。(財)日本心臓財団会長。
瀬谷 誠一(せや せいいち、1906年(明治39年)1月20… 瀬谷 誠一(せや せいいち、1906年(明治39年)1月20日 - 1978年(昭和53年)2月7日)は、日本の経営者、銀行家。東邦銀行頭取を務めた。 福島県出身。1932年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、浅野物産での勤務を経て、1934年7月に白河瀬谷銀行に入行。 1941年に郡山商業銀行、会津銀行、白河瀬谷銀行が合併し東邦銀行が発足。1948年10月に取締役に選任され、1964年5月に常務、1969年11月に副頭取に就任し、1972年2月には頭取に昇格。 1978年2月7日、急性心不全のために死去。72歳没。
金 汶枰(キム・ムンピョン、朝鮮語: 김문평、1906年 -… 金 汶枰(キム・ムンピョン、朝鮮語: 김문평、1906年 - 1987年1月27日)は、日本統治時代の朝鮮の銀行家、ジャーナリスト、大韓民国の政治家。第2代麗川郡郡守、制憲韓国国会議員。 本貫は霊光金氏(朝鮮語版)、初代大法院長の金炳魯は岳父、政治家の金鍾仁は妻の甥、元憲法裁判所長の尹永哲(朝鮮語版)と政治家の李宅敦は妻の姪の夫である。 全羅南道麗水出身。1932年に早稲田大学政治学部政治経済科卒。卒業後は海東銀行に就職し、1938年1月までは海東銀行本町支店次席支配人を務め、同年の漢城銀行による買収後は漢城銀行本町支店支配人代理となり、その後は東亜日報麗水支局長を務めた。 光復直後は朝鮮建国準備委員会麗水支部文化部長を務め、1945年9月には韓国民主党麗水郡党、11月には韓国民主党全羅南道党の結成に参加した。
呉 金川(ご きんせん、1905年6月23日 - 1997年… 呉 金川(ご きんせん、1905年6月23日 - 1997年11月17日)は、台湾の銀行家。彰化商業銀行総経理、董事長、中華民国国際工商経営研究社連合会主席などを務めた。 日本統治時代の台湾の台南市で生まれた。台南高等商業学校(のちの台北高等商業学校台南分教場、台湾大学管理学院)での成績が優秀であったため、旧制東京商科大学(現一橋大学)で高垣寅次郎ゼミに所属して金融を学び卒業し、学士の学位を取得した。卒業後満州中央銀行に入行。1940年、満州国に訪ねてきた一橋の先輩である呉三連の仲人で、東京にて楊肇嘉の娘と結婚式を挙げた。 日本の降伏後、国民政府の東北経済研究所副所長となる。1949年台湾省合作金庫業務部経理。
新納 太郎(にいの たろう、1905年6月14日 - 199… 新納 太郎(にいの たろう、1905年6月14日 - 1998年9月8日)は、日本の銀行家。八千代銀行頭取、会長を務めた。 徳島県出身。1929年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に住宅土地信用購買組合調節社理事に就任。1954年に八千代信用金庫理事長に就任し、1991年に八千代銀行頭取を経て、1994年6月には会長に就任。 1976年4月に勲四等瑞宝章を受章。 1998年9月8日、消化管出血のために死去。93歳没。
佐々木 勇蔵(ささき ゆうぞう、1905年 <明治38年> … 佐々木 勇蔵(ささき ゆうぞう、1905年 <明治38年> 6月7日 - 1985年 <昭和60年> 6月17日)は、日本の経営者、銀行家。大阪府出身。位階は従五位。 1931年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に大阪府農工銀行に入行。 1937年3月に日本勧業銀行を経て、1951年1月に泉州銀行に転じ、常務に就任し、1958年4月に専務を経て、1963年10月に頭取に就任した。1974年11月に取締役相談役に就任した。 1973年に泉州高等学校の設立に携わり、泉州学園名誉理事長を務め、関西経済連合会顧問、日本少年野球連盟副会長なども歴任。 1972年9月に藍綬褒章を受章し、1982年5月に勲四等旭日小綬章を受章。
金井 勝助(かない かつすけ、1905年(明治38年)5月2… 金井 勝助(かない かつすけ、1905年(明治38年)5月27日 - 1986年(昭和61年)4月18日)は、日本の銀行家。荘内銀行頭取、会長を歴任した。 六十七銀行頭取を務めた金井成功の3男として、山形県西田川郡大宝寺村(現:鶴岡市)に生まれる。 旧制鶴岡中学(現:山形県立鶴岡南高等学校)卒業後、医師を目指し旧制第四高等学校に進むが、在学中に両親を亡くし、六十七銀行から強く入行を求められた。このため進路を変え、京都帝国大学経済学部に入学。卒業後、同行に入行した。 1941年4月に合併によって荘内銀行が発足する際には、合併事務の統括を担当。荘銀が誕生後には35歳にして支配人に就き、営業部長と庶務部長を兼務した。
高橋 順吉(たかはし じゅんきち、1905年 <明治38年>… 高橋 順吉(たかはし じゅんきち、1905年 <明治38年> 3月30日 - 1985年 <昭和60年> 6月20日)は、日本の銀行家。十六銀行頭取を務めた。位階は正五位。 岐阜県出身。1928年に京都帝国大学経済学部を卒業し、1930年に赤坂銀行に入行。1942年5月に十六銀行に転じ、1948年6月に取締役、1953年4月に常務、1954年6月に専務を経て、1958年2月副頭取に就任し、1963年2月小寺勝昌頭取の急逝に伴い頭取に昇格。1984年3月に会長に就任。 1969年10月に藍綬褒章を受章し、1975年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1985年6月20日呼吸不全のために死去。80歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
秋元 順朝(あきもと なおとも、1905年3月13日 - 1… 秋元 順朝(あきもと なおとも、1905年3月13日 - 1967年9月18日)は、日本の経営者、銀行家。埼玉銀行頭取を務めた。群馬県館林市出身。 秋元春朝子爵の長男として生まれる。1928年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、同年に高文行政科に合格し、1929年には大蔵省に入省。 1932年に茨木税務署長、大阪税務監督局管内茨木税務署所轄内相続税審査委員。1933年に淀川税務署長、大阪税務監督局轄内淀川税務署所轄内相続税審査委員。1934年に北税務署長、大阪税務監督局管内北税務署所轄内相続税審査委員。 1940年に関税等不服審査会幹事、阿片委員会幹事、台湾関税等不服審査会委員、不当廉売委員会幹事。
嶽山 貞治郎(たけやま ていじろう、1905年 <明治38年… 嶽山 貞治郎(たけやま ていじろう、1905年 <明治38年> 3月9日 - 1989年 <平成元年> 11月4日)は、日本の経営者、銀行家。滋賀銀行頭取を務めた。位階は従五位。 滋賀県出身。1927年に彦根高等商業学校を卒業し、1928年に八幡銀行(のちの滋賀銀行)に入行。1951年に取締役に就任し、1957年10月に常務を経て、1963年10月には頭取に就任。1971年11月に会長を経て、1973年11月には相談役に就任。 1971年10月に藍綬褒章を受章し、1979年4月に勲四等瑞宝章を受章。 1989年11月4日、急性肺炎のために死去。84歳没。死没日付をもって従五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
田辺 友太郎(たなべ ともたろう、1905年(明治40年)2… 田辺 友太郎(たなべ ともたろう、1905年(明治40年)2月17日 - 1970年(昭和45年)3月3日)は、日本の経営者、銀行家。北陸銀行頭取を務めた。 富山県出身。1929年(昭和4年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。電力会社を興し、商工会議所会頭を務めた田辺貫一と、西田牧三の三女の和子の次男として生まれる。1935年7月、祖父甚三郎や父が務めた十二銀行取締役に就任し、1957年3月には北陸銀行頭取に就任。1946年5月から1957年3月までに東洋精機社長を務めた。妻は密田良太郎の次女の節子。 1970年3月3日、尿毒症のために死去。65歳没。墓所は富山の光厳寺にある。
蟻川 五二郎(ありかわ ごじろう、1904年11月21日 -… 蟻川 五二郎(ありかわ ごじろう、1904年11月21日 - 1989年7月23日)は、日本の経営者、銀行家。東京都新宿区出身。 1931年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に日本銀行に入行。 1955年5月に福岡銀行頭取に就任し、1973年11月に会長を経て、1977年12月には顧問に就任。1974年1月から1980年5月までに福岡商工会議所会頭を務めた。 1960年11月に藍綬褒章を受章し、1975年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1989年3月22日心不全のために死去。84歳没。
吉永 武男(よしなが たけお、1904年〈明治37年〉10月… 吉永 武男(よしなが たけお、1904年〈明治37年〉10月28日 - 1978年〈昭和53年〉5月1日)は、日本の銀行家。長崎県長崎市出身。 熊本県立玉名中学校(1922年卒業)、第五高等学校を経て、東京帝国大学経済学部を卒業した。 大学卒業後に三十四銀行に入る。1933年に三十四銀行は他の銀行との統合により、三和銀行となる。1952年に東京事務所長に就任し、以後、経理部長、神戸支店長、取締役、常務取締役などを歴任した。 1963年三和銀行退任後、日本火災海上保険に取締役副社長として入り、1969年に取締役会長に就任。1974年、勲四等旭日小綬章を受章。 1978年5月1日、閉塞性黄疸のため東京都文京区本駒込の宮入外科病院で死去。
中田 清兵衛(なかた せいべえ、1904年9月28日 - 1… 中田 清兵衛(なかた せいべえ、1904年9月28日 - 1989年12月16日)は、日本の銀行家。北陸銀行頭取を務めた。富山県出身。幼名・勇吉。 1925年に富山薬学専門学校を経て、1928年に明治大学政治経済学科を卒業。日本銀行での勤務を経て、金沢貯蓄銀行頭取、北陸配電監事、北陸銀行取締役などを歴任し、1949年4月には北陸銀行頭取に就任。1957年1月から1958年5月までに会長を務め、北陸電力と北日本放送で監査役も務めた。 1989年12月16日急性心不全のために死去。85歳没。
木下 常雄(きのした つねお、1904年8月23日 - 19… 木下 常雄(きのした つねお、1904年8月23日 - 1985年8月21日)は、日本の経営者、銀行家。福岡県出身。 1926年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に日本銀行に入行。1954年4月に大分銀行会長に就任し、1958年4月に頭取、1973年6月に会長を歴任し、1975年5月から1981年6月までに監査役を務めた。 1966年9月に藍綬褒章を受章し、1974年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1985年8月21日気管支拡張のために死去。80歳没。
川喜田 壮太郎(かわきた そうたろう、1904年(明治37年… 川喜田 壮太郎(かわきた そうたろう、1904年(明治37年)8月19日 - 1972年(昭和47年)9月27日)は、日本の銀行家、文化人。元百五銀行頭取・会長、父は川喜田半泥子。 三重県津市に、旧家川喜田家の長男として生まれる。1928年(昭和3年)に法政大学経済学部を卒業し、日本銀行に入行する。1936年(昭和11年)に百五銀行に移り、1951年(昭和26年)に同行頭取に就任し、1971年11月には会長に就任。また、1970年5月から1972年9月までに近畿日本鉄道監査役を務め、菱川合資代表、相互商事社長、東海製鉄役員なども務めた。 三重経済界のトップとして、戦中・戦後を乗り切る。また、半泥子が設立した石水会館を石水博物館に発展させ、地域の文化振興に貢献する。
立林 文二(たてばやし ふみじ、1904年(明治37年)3月… 立林 文二(たてばやし ふみじ、1904年(明治37年)3月20日 - 1966年(昭和41年)7月10日)は、日本の銀行家。三和相互銀行社長(現・トマト銀行)。岡山県新見市出身。 1904年(明治37年)岡山県阿賀郡刑部村(現:新見市)に生まれる。1895年(明治28年)に旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、その後、1922年(大正11年)第六高等学校文科甲類へ入学した。1925年(大正14年)、同高校を卒業し、東京帝国大学法学部法律学科へ入学、イギリス法を学び1929年(昭和4年)3月、同大学を卒業した。 大学卒業後、日本勧業銀行(現・みずほ銀行)へ入行し、大阪支店に配属となり、1935年(昭和10年)には、貸付課の書記に配属となった。
島本 融(しまもと とおる、1904年(明治37年)1月31… 島本 融(しまもと とおる、1904年(明治37年)1月31日 - 1976年(昭和51年)5月5日)は、日本の大蔵官僚、銀行家。北海道銀行初代頭取のほか、公正取引委員会委員や日本銀行政策委員会委員等の要職を歴任。また公益財団法人札幌交響楽団の前身である札幌市民交響楽団の設立に尽力するなど北海道の芸術文化の向上にも貢献した。 京都府綴喜郡青谷村に生まれる。生家は酒造や宇治茶の販売を手掛ける素封家で、父は島本の生誕年に島本銀行を開業した。 三高を経て、京都帝国大学経済学部に入学する。在学中から将来は金融界に進もうと思い、また周囲からも島本銀行の跡取りとして期待されるも、金融恐慌の煽りを受け同行は経営破綻してしまう。
本陣 甚一(ほんじん じんいち、1904年1月5日 - 2… 本陣 甚一(ほんじん じんいち、1904年1月5日 - 2008年1月29日)は、日本の経営者、銀行家。北國銀行頭取を務めた。長男は北國銀行第6代頭取の本陣靖司。 石川県小松市出身。1929年に京都帝国大学法学部を卒業し、1930年2月に加越合同銀行に入行した。1943年12月に北國銀行に転じ、1948年2月に常務に就任し、1950年10月に専務、1954年11月に副頭取を経て、1961年1月には頭取に就任。1966年7月には会長も兼任し、1968年11月には頭取を退任。 近現代の日本画をはじめとした美術品収集を趣味としており、小松市立本陣記念美術館にコレクションが収蔵されている。 2008年1月29日、老衰のために死去。
湯藤 実則(ゆとう みのり、1904年1月3日 - 1989… 湯藤 実則(ゆとう みのり、1904年1月3日 - 1989年8月24日)は、日本の経営者、銀行家。日本不動産銀行頭取を務めた。広島県出身。 1925年に山口高等商業学校を卒業し、同年に朝鮮銀行に入行した。1957年に日本不動産銀行に就任し、1963年に副頭取を経て、1965年には頭取に就任。1969年に会長に就任。 経済団体連合会、全国銀行協会連合会の各理事も務めた。 1970年に藍綬褒章を受章し、1976年に勲二等旭日重光章を受章。 1989年8月24日脳梗塞のために死去。85歳没。
保母 道雄(ほぼ みちお、1903年12月1日 - 1981… 保母 道雄(ほぼ みちお、1903年12月1日 - 1981年4月12日)は、日本の銀行家、実業家。三和銀行(現:三菱UFJ銀行)専務取締役、東洋電機製造副社長、パレスサイドビルディング社長を務めた。 1903年12月1日、岐阜県恵那郡阿木村(現在の中津川市)に生まれる。 1927年、彦根高等商業学校(滋賀大学経済学部)を卒業し、鴻池銀行に入行した。1933年、鴻池銀行が三十四銀行・山口銀行と合併して三和銀行(現:三菱UFJ銀行)が発足すると、同銀行に転じた。 三和銀行では、戦時期に鴻池支店長代理、東京支店長代理、丸の内支店次長などを務めた。戦後、同行が北海道方面への支店網拡大を進めるなか、1946年11月に小樽支店開設準備委員となり、1947年3月に開設された小樽支店の初代支店長に就任した。
志茂 源吉(しも げんきち、1903年 <明治36年> 11… 志茂 源吉(しも げんきち、1903年 <明治36年> 11月22日 - 1994年 <平成6年> 2月10日)は、日本の経営者、銀行家。奈良県出身。位階は従五位。 1928年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に日本銀行に入行。 華興商業銀行、東洋水産での勤務を経て、1951年8月には七福相互無尽(のちの阪神相互銀行)社長に就任。1973年5月に会長、1975年5月に取締役相談役を経て、1979年11¥2月には相談役に就任。 1968年9月に黄綬褒章を受章し、1974年11月に勲四等瑞宝章を受章を受章。 1994年2月10日老衰のために死去。90歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
味田 順三郎(みた じゅんざぶろう、1903年11月18日 … 味田 順三郎(みた じゅんざぶろう、1903年11月18日 - 1992年9月21日)は、日本の銀行家。阿波銀行頭取を務めた。京都府出身。 1925年に大阪高等商業学校を卒業。 日本銀行での勤務を経て、1955年に阿波商業銀行(のちの阿波銀行)副頭取に就任し、1961年11月には頭取に昇格。1967年11月に会長を経て、1975年12月には相談役に就任。 1971年10月に藍綬褒章を受章し、1977年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 1992年9月21日老衰のために死去。88歳没。
亀沢 善次郎(かめざわ ぜんじろう、1903年11月5日 -… 亀沢 善次郎(かめざわ ぜんじろう、1903年11月5日 - 1987年3月27日)は、日本の経営者、銀行家。東京都出身。 1927年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、1943年に第四銀行に入行。 1957年11月に取締役に就任し、1960年11月に常務、1964年11月に専務を経て、1970年5月には頭取に就任。1972年11月には相談役に就任。 1975年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1987年3月27日急性心不全のために死去。83歳没。
芳川 周二(よしかわ しゅうじ、1903年8月25日 - 1… 芳川 周二(よしかわ しゅうじ、1903年8月25日 - 1992年3月3日)は、日本の銀行家。関西相互銀行(現在の関西アーバン銀行)社長を務めた。広島県広島市出身。 1926年に山口高等商業学校を卒業し、同年に住友銀行に入行。1958年10月に関西相互銀行専務に就任し、1968年4月には社長に就任。1973年11月に取締役相談役と明光証券社長に就任し、1978年12月に会長を経て、1982年3月から取締役相談役を務めた。 1970年10月に藍綬褒章を受章し、1976年4月に勲五等双光旭日章を受章した。 1992年3月3日急性心筋梗塞のために死去。88歳没。
久米田 七之助(くめだ しちのすけ、1903年6月30日 -… 久米田 七之助(くめだ しちのすけ、1903年6月30日 - 1980年3月2日)は、日本の経営者、銀行家。羽後銀行(現在の北都銀行)頭取を務めた。秋田県出身。 1925年に中央大学商学部を卒業し、同年4月に三和銀行に入行。1944年10月に羽後銀行に転じ、1956年4月に専務に就任し、1961年7月には頭取に昇格。1973年3月には会長に就任。 1968年10月に藍綬褒章を受章。 1980年3月2日に急性心不全のために死去。76歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
前田 實(まえた みのる、1903年(明治36年)5月4日 … 前田 實(まえた みのる、1903年(明治36年)5月4日 - 1983年(昭和58年)11月15日)は、日本の銀行家。秋田銀行頭取・会長および相談役を務めた。 商法学者前田庸(学習院大学名誉教授)の父。 福島県大沼郡高田町(現在の会津美里町)に、前田寅三郎の長男として生まれた。 1928年(昭和3年)東京帝国大学経済学部商業学科を卒業。同年、旧・秋田銀行に入行する。秋田・福島各支店支配人を歴任し、1946年(昭和21年)10月、常務に選任された。 1959年(昭和34年)には、鈴木直吉の後を受け頭取に昇格した。 頭取在任時は、店舗の県内外への新設や再編に取り組んだほか、現本店ビルの竣工や事務センタービルの建設、オンラインシステムの稼働、さらには東証2部上場の実現など経営の近代化を推進した。
堀江 薫雄(ほりえ しげお、1903年(明治36年)1月28… 堀江 薫雄(ほりえ しげお、1903年(明治36年)1月28日 - 2000年(平成12年)8月27日)は、日本の銀行家、経済学博士。東京銀行頭取を務めた。 徳島県麻植郡鴨島町に生まれる。旧制徳島中学校、 第五高等学校を経て1928年、東京帝国大学法学部政治学科卒業。 大学卒業後、横浜正金銀行に入行、海外各支店に勤務した。終戦後、GHQの命令により、横浜正金銀行改組室長に任命されて整理にあたり、東京銀行を創立した。1946年、取締役となり、常務取締役、副頭取、頭取、会長を歴任し、1967年に退任した。 1952年にサンフランシスコで行われた対日講和条約の調印では吉田茂首相の経済演説の原稿を書くとともに、その講義を一週間続けて行った。
藤野 重夫(ふじの しげお、1903年(明治36年)1月24… 藤野 重夫(ふじの しげお、1903年(明治36年)1月24日 - 1983年(昭和58年)7月31日)は、日本の銀行家。北海道銀行頭取、北海道テレビ放送会長。 兵庫県出身。1927年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に朝鮮銀行に入行。 1951年3月に北海道銀行常務に就任し、1961年11月に専務を経て、1965年5月に頭取に就任し、1967年11月には監査役に就任。 1967年12月には北海道テレビ放送会長に就任。 1983年7月31日間質性肺炎のため死去。80歳没。
森 俊雄(もり としお、1902年10月28日 - 1973… 森 俊雄(もり としお、1902年10月28日 - 1973年7月11日)は、日本の経営者、銀行家。西日本相互銀行(現在の西日本シティ銀行)社長を務めた。 福岡県出身。1927年に西南学院高等学部商科を卒業し、1934年4月に福岡高等商業学校で講師を務め、同年に博多無尽(のちの西日本相互銀行)に入社。1948年2月に取締役に就任し、1950年5月に常務、1956年9月に専務、1962年2月に副社長を経て、同年10月には社長に就任した。 1966年11月に紺綬褒章を受章し、1969年6月に藍綬褒章を受章。 1973年7月11日、胃がんのために在任中に死去。70歳没。
町田 一郎(まちだ いちろう、1902年8月11日 - 19… 町田 一郎(まちだ いちろう、1902年8月11日 - 1992年1月16日)は、三菱銀行常務取締役、三菱経済研究所長などを務めた、日本の銀行家。 長野県更級郡青木島村(後の長野市更北)生まれ。旧制長野中学(長野県長野高等学校の前身)から、第八高等学校 (旧制)へ進み、東京大学経済学部を卒業した。大学では研究者になることを目指して大内兵衛のゼミに参加していたが、実家が経営に関わっていた更埴銀行(1911年 - 1937年)の経営が困難に陥る状況などがあって研究者への道を断念し、1928年に三菱銀行に入行して、以降はもっぱら調査や貸付関係の業務に従事した。1936年ころには業務として欧米留学を経験し、その後、審査部長を経て常務取締役となり、後には、三菱経済研究所長に転じた。
佐々木 彰造(ささき しょうぞう、1902年〈明治35年〉2… 佐々木 彰造(ささき しょうぞう、1902年〈明治35年〉2月 - 1966年〈昭和41年〉)は、日本の実業家、銀行家、青森県多額納税者、地主。佐々木銀行頭取。「布嘉」佐々木家4代目。青森県北津軽郡五所川原町長(15代)。 青森県北津軽郡五所川原町の人・佐々木嘉太郎の長男。1945年(昭和20年)、五所川原町長に就任、1946年(昭和21年)、退職。その後、青森自動車部品社長、青菱自動車社長を歴任し、県内のモータリストの草分けとなった。住所は青森県北津軽郡五所川原町(現五所川原市)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。