稲川 素子(いながわ もとこ、1934年〈昭和9年〉1月18… 稲川 素子(いながわ もとこ、1934年〈昭和9年〉1月18日 - 2024年〈令和6年〉5月13日)は、日本の芸能プロモーター。株式会社稲川素子事務所代表取締役。 1934年、福岡県柳川市に生まれた。父は旧家出身で、若い頃にヨーロッパで何年も遊学できるほどの恵まれた環境で育ったという。実家は1万坪の敷地の中にテニスコートが2面あるほどの大きな屋敷で、別府にあった別荘にはグランドピアノが置かれていた。稲川はここで何不自由ない幼少期を過ごした。戦争が激しくなった頃この実家に疎開し、小学校6年生のときに終戦を迎えた。 戦後の農地改革で不在地主として土地を没収されると、家計が火の車に陥り、甚だしい食糧難と貧苦に見舞われた。
三迫 仁志(みさこ ひとし、男性、1934年1月10日 - … 三迫 仁志(みさこ ひとし、男性、1934年1月10日 - 2019年8月1日)は、日本の元プロボクサー、プロボクシング・プロモーター。現役時代は野口ボクシングジム所属で、引退後は三迫ボクシングジムを創設し会長、後に名誉会長を務めた。元日本プロボクシング協会会長、商学士。 愛媛県新居浜市で出生し、当時の新居浜市長と懇意だったライオン野口の知遇を得てボクシングを始め上京、西条高校から明治高校へ転校、高校時代にプロデビュー。高校時代の同級生には後の読売ジャイアンツ監督藤田元司、明治大学同級生に野口の長男でキックボクシング生みの親でもある野口修がいた。 明大在学中に日本フライ級王者となり、約2か月後にOBF東洋フライ級王者となった。
石原 まき子(いしはら まきこ、1933年7月23日 - )… 石原 まき子(いしはら まきこ、1933年7月23日 - )は、日本の芸能プロモーター、女優。石原裕次郎の未亡人で、石原プロモーションの代表取締役会長・石原裕次郎記念館元館長。 旧姓は荒井、愛称は「マコ」。結婚前は北原 三枝(きたはら みえ)の芸名で女優として活動したスターであった。 東京都目黒区出身。目黒区立第二中学校卒業後、NDT(日劇ダンシングチーム)に5期生として入団。1952年に退団後、松竹のニューフェイスに合格して入社。『カルメン純情す』で本格的なデビューを果たす。 1954年に、活動を再開した日活に引き抜かれる形で移籍。女優陣のエースとして活躍する。『狂った果実』(1956年)で後に結婚する一歳年下の石原裕次郎と初共演後、日活のドル箱コンビとして23作もの共演作が製作された。
中邨 秀雄(なかむら ひでお、1932年10月20日 - 2… 中邨 秀雄(なかむら ひでお、1932年10月20日 - 2015年7月3日)は、日本の財界人、フリープロデューサー、芸能プロモーター。吉本興業の代表取締役社長、会長、名誉会長を務めた。 現在の大阪市中央区出身。大阪府立生野高等学校卒。関西学院大学文学部卒業。大学時代はラグビー選手として活躍。 1955年5月、吉本興業に入社し、駆け出し時代は人気漫才師の花菱アチャコ、大村崑などのマネージャーを務めた。 うめだ花月劇場の開館、吉本新喜劇の立ち上げに尽力し、人気テレビ番組「ヤングおー!おー!」をプロデュース。所属タレントを積極的にテレビに出演させる戦略が実を結び、「お笑いの吉本」の地位を不動にした。
堀 威夫(ほり たけお、1932年(昭和7年)10月15日 … 堀 威夫(ほり たけお、1932年(昭和7年)10月15日 - )は、日本の芸能プロモーター、実業家。ホリプロ創業者。宇都宮ビジネス電子専門学校名誉顧問、宇都宮アート&スポーツ専門学校名誉顧問。社団法人日本音楽事業者協会理事長なども歴任した。 横浜市生まれ。浅野学園時代からサークルでバンド活動に勤しみ、1948年(昭和23年)にワイキキ・ハワイアンズを結成。明治大学商学部時代の52年には、小坂一也、井原高忠等とともに学生バンドのワゴン・マスターズにスカウトされ、ギタリストとして活躍した。 卒業後、文化放送でのアルバイトを経て、1957年(昭和32年)にスウィング・ウエストを結成しリーダーとなり、田辺昭知がドラムを叩いた。
田中 敏朗(たなか としろう、男性、1932年1月13日 -… 田中 敏朗(たなか としろう、男性、1932年1月13日 - )は、日本の元プロボクサー、現役のプロボクシング・プロモーター。熊本県出身。全日本パブリックボクシングジム会長。三池高校および明治大学出身の経済学士。 日本中央競馬会元騎手で調教師の田中剛は実子。フリーアナウンサーの田中歩は実孫(剛の娘)。 両親は教師、実兄は陸軍幼年学校を経た医師という家系に生まれる。自身も陸軍幼年学校を受験したが不合格、一年浪人し高校に進学しアマチュアボクシングを始め、インターハイ出場し、スポーツ推薦で明治大学に進学し全日本選手権でライトフライ級及びフライ級の二階級制覇、白井義男のスパーリングパートナーも務めた。 卒業した1955年に日興ジム所属でプロデビューし1967年まで現役で活躍し矢尾板貞雄と引き分けた実績も有したが、明大時代からの後輩米倉健志に世界挑戦のチャンスを譲りバンタム級に転向。
松下 治夫(まつした はるお、1931年(昭和6年)12月 … 松下 治夫(まつした はるお、1931年(昭和6年)12月 - 2014年(平成26年)10月)は、日本の実業家、芸能プロモーター。芸能事務所の草分け的存在である渡辺プロダクション(通称:ナベプロ)の創業者の一人。 京都府出身。京都府立洛北高等学校卒業。従来、芸能人の地方公演はそれぞれの土地の興行師が実権を握り、不明朗なことが少なくなかった、そこで、タレントを抱えるプロダクションが自らの手で興行を行い、利益と権利を確保しようという狙いのもとに、1955年、当時人気ベーシストであった渡辺晋とその妻美佐と組んで渡辺プロダクションを設立した。 それまでレコード会社の専属抱えだった歌手・作詞家・作曲家を渡辺プロの傘下に集結させ、芸能界初の月給制を導入。
石井 光三(いしい みつぞう、1931年〈昭和6年〉10月1… 石井 光三(いしい みつぞう、1931年〈昭和6年〉10月13日 - 2015年〈平成27年〉1月6日)は、東京府出身の俳優・タレント・芸能プロモーターである。 自分の名前を冠した芸能事務所・石井光三オフィスの社長・会長を務め、テレビ出演等では石井社長として親しまれた。 生まれは東京であるが、主に大阪で育ち、その為話す言葉は大阪弁である。大阪産業大学附属高等学校を卒業。1939年に子役としてJO京都撮影所(旧東宝京都)に入所。1946年、東横映画京都第1期ニューフェイスとなる。 1952年からは漫才作者の秋田實が主宰する宝塚新芸座に在籍していたが、1963年にタレント引退。松竹芸能社員として裏方に転身。
相澤 秀禎(あいざわ ひでよし、1930年1月20日 - 2… 相澤 秀禎(あいざわ ひでよし、1930年1月20日 - 2013年5月23日)は、日本の実業家、芸能プロモーター。サンミュージックプロダクションの創業者で初代社長。本名は相澤芳郎(與四郎とも記されている)。自伝によれば姓名判断で上記の通称に改めたという。
内野 二朗(うちの じろう、1927年6月27日 - 200… 内野 二朗(うちの じろう、1927年6月27日 - 2004年6月15日)は、日本のプロモーター、キョードー東京を中心とするキョードー・グループの創立者。 現在の埼玉県狭山市で、生まれ育った。「貧しい中で小学校を卒業し」、実家近くの陸軍航空士官学校付属飛行機工場に勤めながら、夜間の青年学校に学んで、中学校卒業資格を得る。海軍飛行予科練習生甲種に志願し、合格するも、既に飛行機の生産がままならない状況の中で、人間魚雷(回天)の乗員として山口県防府の海軍基地に配属された。しかし、直後に病気で入院を余儀なくされ、そのまま終戦を迎えた。 戦後は、陸軍航空士官学校を接収した米第5空軍のジョンソン基地(現在の航空自衛隊入間基地)で働きながら、英語を学ぶために明治学院大学の夜間英語学校に通い、後にはジョンソン基地の経理担当者となった。
渡辺 晋(わたなべ しん、正式な表記は渡邊 晋、1927年〈… 渡辺 晋(わたなべ しん、正式な表記は渡邊 晋、1927年〈昭和2年〉3月2日 - 1987年〈昭和62年〉1月31日)は、日本の実業家・芸能プロモーター・ベーシスト。日本の芸能事務所の草分け的存在にあたる渡辺プロダクション(通称:ナベプロ)の創業者。 妻は渡辺プロダクショングループ代表兼渡辺プロダクション名誉会長の渡邊美佐。ワタナベエンターテインメント代表取締役社長、渡辺プロダクション代表取締役会長の渡辺ミキは長女。トップコート代表取締役の渡邊万由美は次女。フジテレビプロデューサーだった吉田正樹ワタナベエンタ会長はミキの夫にあたる。 東京市滝野川区(現在の東京都北区)に生まれたが、媒体によっては福岡県生まれとされることもある。
永島 達司(ながしま たつじ, 1926年4月26日 - 1… 永島 達司(ながしま たつじ, 1926年4月26日 - 1999年5月2日)は、日本初のプロモーター。1953年に「新々プロダクション」を設立。1957年に社名を協同企画(現・キョードー東京)に変更。 戦後の海外アーチストの日本公演を手掛けた第一人者であり、ナット・キング・コール、ベンチャーズ、ルイ・アームストロング、ベニー・グッドマン、シュープリームズ、スティービー・ワンダー、レッド・ツェッペリン、アンディ・ウィリアムス、サイモンとガーファンクルをはじめ、ビートルズを日本に呼んだプロモーターとして知られる。海外ではタッツ・ナガシマの愛称で呼ばれた。 1926年4月26日、神奈川県保土ケ谷町(現・横浜市保土ケ谷区)に5人兄弟姉妹の次男として生まれる。
石井 好子(いしい よしこ、1922年8月4日 - 2010… 石井 好子(いしい よしこ、1922年8月4日 - 2010年7月17日)は、日本のシャンソン歌手、エッセイスト、実業家(芸能プロモーター)。日本シャンソン界の草分けであり、半世紀以上に亘り牽引し続けた業界の代表・中心人物として知られている。日本シャンソン協会初代会長。東京都出身。東京府立第六高等女学校(現・東京都立三田高等学校)卒業、東京音楽学校声楽専科卒業。 政治家・石井光次郎の次女として生まれ、母の勧めにより6歳からピアノを習う。ただ、歌は好きだがピアノは好きになれなかったという。ピアノを教えていた岡本たま(音楽家岡本敏明の妻)は、そんな好子にピアノを無理強いすることなく、ただ好きな歌を歌うよう勧めた。
丹波 哲郎(たんば てつろう、1922年7月17日 - 20… 丹波 哲郎(たんば てつろう、1922年7月17日 - 2006年9月24日)は、日本の俳優・芸能プロモーター・心霊研究家。東京府豊多摩郡大久保町(現:東京都新宿区)出身。身長175cm。血液型はO型。
神 彰(じん あきら、1922年6月27日‐1998年5月2… 神 彰(じん あきら、1922年6月27日‐1998年5月28日)は、北海道出身の興行師、事業家、国際芸能プロモーター。
富原 孝(とみはら たかし、1920年7月15日 - 200… 富原 孝(とみはら たかし、1920年7月15日 - 2006年3月8日)は、北海道出身の詩人、ジャーナリスト、国際芸能プロモーター。 若い頃からヴァレリーやリルケに傾倒。金子光晴に師事し、新聞記者のかたわら、河邨文一郎らと同人を結成し、詩を次々に発表。特に、アイヌ・コシャマインの戦いを題材にした長篇叙事詩『クオンタインとシクフ』は傑作とされる。「野性」「至上律」「ポエム」「核」同人。1957年に、「赤い呼び屋」と称された神彰のアート・フレンド・アソシエーション(AFA)に参画。制作部長として、木原啓允、工藤精一郎らとともに神彰を支え、数々の国際プロモーションを行う。 1920年、北海道七飯村(現七飯町)の農家に、父輝美、母志づの長男として生まれる。
松永喜久(まつなが・きく 1912年-1998年11月)はス… 松永喜久(まつなが・きく 1912年-1998年11月)はスポーツライター、ボクシングプロモーター。
林 弘高(はやし ひろたか、1907年(明治40年)2月1日… 林 弘高(はやし ひろたか、1907年(明治40年)2月1日 - 1971年(昭和46年)6月27日)は、興行師、芸能プロモーター。吉本興業社長、吉本株式会社(東京吉本))社長、太泉映画(東映の前身)社長。大阪府大阪市北区出身。 姉は吉本興業創業者の吉本吉兵衛(泰三)の妻の吉本せい。兄は旧吉本興業株式会社の社長を務めた林正之助。長男は吉本株式会社社長や吉本興業常務を務めた林英之。 米穀商を営んでいた林豊次郎の四男として兵庫県明石市に生まれる。出生名は林 勝(はやし まさる)といった。 1925年(大正14年)、関西甲種商業学校(現・関西大学第一高等学校)を卒業後、上京して中央大学法学部を卒業した後、社会民衆党の機関紙の編集に関わった。
松尾 國三(まつお くにぞう、明治32年(1899年)6月8… 松尾 國三(まつお くにぞう、明治32年(1899年)6月8日 - 昭和59年(1984年)1月1日)は、日本の歌舞伎役者・実業家・芸能プロモーター。旅役者から立身出世して興行界やレジャー産業で幅広く活躍、「昭和の興行師」や「芸能界の黒い太陽」の異名をもつ。佐賀県伊万里市出身。 松尾の没後、松尾一族が日本ドリーム観光から手を引くことになった事情については日本ドリーム観光の項を参照。現在は松尾の娘・昌出子(ひでこ)と孫・國之(くにゆき)が株式会社富士プロジェクト(富士興業の後身)・松尾育英会・松尾芸能振興財団の3事業を継承。富士プロジェクトは現在、賃貸不動産業をメインにサッカースクールの経営を行うクーバー・コーチング・ジャパンを子会社で行っており、松尾芸能振興財団は松尾芸能賞の主催および松尾の原点である子供歌舞伎・松尾塾の運営、松尾育英会は共同生活による大学修学支援事業を行っている。
太田 光代 は、日本の芸能プロモーター、タレント。芸能事務所… 太田 光代 は、日本の芸能プロモーター、タレント。芸能事務所・タイタン代表取締役社長。
松田 英夫(まつだ ひでお)は、日本の芸能プロモーター。株式… 松田 英夫(まつだ ひでお)は、日本の芸能プロモーター。株式会社ケイダッシュ代表取締役会長。株式会社ケイダッシュステージ代表取締役社長。株式会社ケイダッシュ前代表取締役社長。 堺正章の元マネージャーであり、当初は俳優やアーティストを中心としたタレントマネージメントを目的としてケイダッシュを設立したが、後にお笑いタレントの育成にも力を入れるようになった。オードリーのコンビ名の名付け親。 社名に「ステージ」を冠していることからもわかるように、舞台への愛着が強い。 独特の口調である事が、『オードリーのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)で度々ネタにされている。 2025年7月30日、ケイダッシュ創業者で同社代表取締役会長の川村龍夫が死去。