櫻井 彰生(さくらい あきお、1948年9月21日 - )は… 櫻井 彰生(さくらい あきお、1948年9月21日 - )は、日本の映画監督。ドキュメンタリー映画の世界で活躍している。
職業が映画監督:1,573人
櫻井 彰生(さくらい あきお、1948年9月21日 - )は… 櫻井 彰生(さくらい あきお、1948年9月21日 - )は、日本の映画監督。ドキュメンタリー映画の世界で活躍している。
あがた 森魚(あがた もりお、1948年9月12日 - )は… あがた 森魚(あがた もりお、1948年9月12日 - )は、日本のフォークシンガー、シンガーソングライター、映画監督、俳優、エッセイスト。北海道留萌市出身。埼玉県川口市在住。本名は山縣 森雄(やまがた もりお)。函館ラ・サール高等学校卒業、明治大学中退。所属はDargelos。 父は運輸省海運局に勤務し、父の転勤で北海道留萌市で生まれ、生後間もなく小樽に移り、小学3年から青森で、中学からは函館で育った。 小樽の入船小学校に通っていたころ、担任だった教諭の佐藤敬子に薦められて観たディズニー映画『海底二万哩』(1955年日本公開)主人公のネモ船長が人生初のヒーローとなる。 1965年、函館ラ・サール高校2年の夏、ラジオで聴いたボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」に衝撃を受け、作詞作曲を始める。
村西 とおる(むらにし とおる、1948年〈昭和23年〉9月… 村西 とおる(むらにし とおる、1948年〈昭和23年〉9月9日 - )は、日本のAV監督、実業家。福島県いわき市出身。本名は草野 博美(くさの ひろみ)。 ポルノ雑誌の販売などを手がけたのち、アダルトビデオの制作プロダクションを設立。自らカメラを回しながら男優としても出演するスタイルで注目を浴び、草創期のアダルトビデオ業界で多数の作品を制作して大きな成功を収めた。 選挙の落選、数度の逮捕、事業の失敗などを繰り返して路頭に迷った後に、晩年において自らの人生を書籍化・ドラマ化して大ヒットを記録するなど、その波乱万丈の人生が話題となった。 福島県立勿来工業高等学校卒業後、1967年に上京し池袋のバーでボーイとして働き始める。
櫻井 顕(幼名は彰生、眞樹、1948年9月 - )は、日本の… 櫻井 顕(幼名は彰生、眞樹、1948年9月 - )は、日本の映画監督、シナリオライター、プロデューサー、小説家。群馬県前橋市出身。 当初は俳優を目指して早稲田大に学んだが、早稲田大学第二文学部演劇学科卒業後、映画監督大沼哲郎、杉山正美、小林米作等に師事。主に科学映画、記録映画製作に従事。その後日本テレビ放送網、電通映画社を経て1978年よりフリー映画作家としてインディペンダント映画作品の製作を目指す。 1979年「さよならの日々」で劇映画監督デビュー。同作品は1980年文化庁奨励賞を獲得。同作品の撮影は、村野鉄太郎監督の「月山」でカメラマンデビューした高間賢治の2作目。以来櫻井と高間は交流を続け、3本の自主映画作品を共に製作。
三好 邦夫(、1948年〈昭和23年〉8月23日 - )は、… 三好 邦夫(、1948年〈昭和23年〉8月23日 - )は、東宝所属の映画監督。兵庫県出身。 1973年に慶應義塾大学文学部西洋史学科を卒業後[要出典]、東宝に入社。当時は東宝内で分社化が進められていたため撮影現場への配属は叶わなかったが、副社長の藤本真澄の計らいにより同期の大河原孝夫とともに東宝撮影所へ出向する。映画『しあわせ』(1974年)から助監督を務め、多くの監督に師事した。その後、大河原の監督作品でチーフ助監督を務めたのち、1997年に映画『モスラ2 海底の大決戦』で監督デビューする。 特撮映画で長く助監督を務めた経験から、現場での仕掛けが時間を要する割に効果的ではないことが多かったことから、デジタル合成の過渡期であった『モスラ2』では合成表現の方が思った通りの画になることが多く、現場での手間も減ったと語っている。
猪崎 宣昭(いざき のぶあき、1948年8月5日 - )は、… 猪崎 宣昭(いざき のぶあき、1948年8月5日 - )は、日本の映画監督。愛媛県出身。 日本大学藝術学部卒業。三船プロダクションに入社し斎藤光正に師事する。テレビドラマにおいてあらゆるジャンルの膨大な数の作品を手がけている。 監督(太字はメイン監督) この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
市川 徹(いちかわ とおる、1948年7月28日 - 202… 市川 徹(いちかわ とおる、1948年7月28日 - 2023年8月30日)は、日本の映画監督、プロデューサーである。 浅野高等学校卒業後、日本大学に進学。1972年に卒業し、テレビ神奈川(tvk)に入社する。tvkでは、音楽・バラエティ番組などの制作や営業を担当する。87年に独立し、サム・エンタープライズの芸能部長になると共に音楽・映像の制作会社を設立し、KATSUMI、米倉利紀などを抱える。1993年、第一作となる『ファンキー・モンキー・ティーチャー3 康平の微笑』で映画監督デビューする。その後、十余年の間、監督として数多くの青春、コメディ映画やヤクザ映画のVシネマ作品を手がける。2006年から2007年の富山県や神奈川県を舞台にした伝記映画『九転十起』三部作の監督を機に、日本各地のご当地映画を撮り続けている。
池島 ゆたか(いけじま ゆたか、1948年3月30日 - )… 池島 ゆたか(いけじま ゆたか、1948年3月30日 - )は、日本の俳優、元AV男優、映画監督、映画プロデューサー。 東京都生まれ。早稲田大学文学部在学中に「天井桟敷 (劇団)」に参加し舞台俳優として活動。1981年(昭和56年)に映画デビュー。滝田洋二郎、稲尾実、細山智明、実相寺昭雄などの監督作品、主としてピンク映画を中心に活躍。その後AV男優を経て、1991年(平成3年)にピンク映画『ザ・ONANIEレズ』で監督デビュー。ロスアンゼルスで開催されたBOOBS & BLOOD INTERNATIONAL FILM FESTIVAL(「おっぱいと血の国際映画祭」)にて、クエンティン・タランティーノ、ロジャー・コーマン等と共に、International Lifetime Achievement Awards(国際特別功労賞)を受賞した。
浜野 佐知(はまの さち、1948年3月19日 - )は、日… 浜野 佐知(はまの さち、1948年3月19日 - )は、日本の映画監督である。株式会社旦々舎代表取締役。日本映画監督協会常務理事、同広報委員会・国際委員会委員兼任。 1948年(昭和23年)、徳島県生まれ。10歳で静岡市に移り、静岡大学附属中学校、静岡県立静岡城北高等学校卒業。本名は浜野佐知子だが、デビュー時に女流監督のクレジットは観客を引かせるので変名にしろと会社に要請され、一字削って妥協したとのこと。これまで延べ300本以上のピンク映画を撮り続けているベテランであり、女性監督としては日本一のピンク映画製作本数となっている。「女性の側から性を主体的に観る」を作品の一貫したテーマとしており、近年は「的場 ちせ」名義での活動もある。
横山 博人(よこやま ひろと、1948年3月16日 - )は… 横山 博人(よこやま ひろと、1948年3月16日 - )は日本の映画監督。福岡県飯塚市大字中出身。 父母ともに開業医。福岡県立嘉穂高校を1966年卒業後上京。大島渚を訪ねて映画界入りを狙ったが果たせず。1971年日本大学藝術学部入学。東映東京撮影所に通いつめ、伊藤俊也監督の口利きで契約助監督になる。大学は1973年に中退。伊藤俊也や石井輝男、深作欣二、中島貞夫、鈴木則文ら東映の監督たち10名につく。 1977年4月工藝舎(1982年、横山プロダクションに改名)を設立。1979年監督デビュー作『純』が第32回カンヌ国際映画祭、批評家週間でオープニング上映。1980年、『純』が国内初公開。自主制作映画としては異例の大ヒット。
伊藤 秀裕(いとう ひでひろ、1948年2月29日 - )は… 伊藤 秀裕(いとう ひでひろ、1948年2月29日 - )は、日本の映画監督、脚本家、プロデューサー、演出家である。映画制作会社 株式会社エクセレントフィルムズ代表取締役。CINEMA JACK映画塾 塾長。 1948年(昭和23年)2月29日、秋田県秋田市に生まれる。秋田県立秋田高等学校、東京教育大学を卒業後、電通東芝企画製作室を経て、1973年、日活入社。助監督として、神代辰巳、西村昭五郎らにつく。1979年、『団地妻 肉欲の陶酔』で監督昇進。1982年、フリーとなる。1984年、株式会社ビッグバンを設立し、プロデューサーとなる。平成3年には株式会社エクセレントフィルムズを設立し、三池崇史、渡辺武らの監督作品を発表している。
信藤 三雄(しんどう みつお、英語: Mitsuo Shin… 信藤 三雄(しんどう みつお、英語: Mitsuo Shindō、1948年1月26日 - 2023年2月10日)は、日本のアートディレクター、映像ディレクター、映画監督。東京都出身。 松任谷由実、Mr.Children、サザンオールスターズ、SMAP、MISIAなど、手がけたCD/レコードジャケットの数は2007年時点で約900枚にのぼる。1980年代後半から1990年代にかけて、ピチカート・ファイヴ、フリッパーズ・ギターといった「渋谷系」ミュージシャンのCD/レコード、宣伝材料一式のアートワークに携わり、渋谷系におけるデザインの方向性を決定づけたといわれる。 グラフィックデザイン以外にも、映像作家としてミュージック・ビデオや映画も手がける。
相米 慎二 (そうまい しんじ、1948年1月13日 - 2… 相米 慎二 (そうまい しんじ、1948年1月13日 - 2001年9月9日)は、日本の映画監督。 岩手県盛岡市生まれ、北海道育ち(本籍地は青森県)。北海道釧路江南高等学校卒業、中央大学文学部中退。 1948年1月13日、盛岡市で生まれた。父親の転勤で6歳の時に北海道標茶町に移り住んだ、1958年に父親を失う。その後も道内で転居が重なり、小学校5年の時に札幌市、中学3年の時に釧路市に移る。北海道釧路江南高等学校を卒業し、中央大学文学部に進学、大学時代は日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)に所属して三里塚闘争に参加していた。大学時代の友人によれば、相米は高校生時代からの正真正銘のトロツキストであった。
辻理(つじ まこと、1948年1月1日 - 没年不明)は、日… 辻理(つじ まこと、1948年1月1日 - 没年不明)は、日本の元映画監督、元テレビドラマ演出家、元ゲームクリエイター。長崎県長崎市出身。 1970年、日本大学藝術学部映画学科卒業。卒業後、東映テレビプロダクションに入社する。同期に藤井邦夫がいた。助監督を経て1980年、『特捜最前線』の一編(第178話「男たちのセプテンバーソング!」)で監督デビューを果たす。同番組での演出担当回数は天野利彦に次ぐ第2位。 1981年、東映を退社してフリーランスになる。1986年『時空戦士スピルバン』で初のパイロット監督を担当。以降東映の作品と同時に、主にアクション物を中心に石原プロ、国際放映など他社作品の現場でも活動した。
藤田 明二(ふじた めいじ、1948年 - )は、テレビ朝日… 藤田 明二(ふじた めいじ、1948年 - )は、テレビ朝日制作2部所属のテレビドラマ演出家、映画監督。 東京都出身。1971年に玉川大学文学部芸術学科を卒業後、テレパックに入社し、制作部に配属される。 1985年に共同テレビ制作部に移籍。数多くのドラマ演出を手掛けた後、2004年末頃にテレビ朝日へ移籍、特に社会派ドラマや恋愛ドラマの演出を手掛ける。2006年に『アジアンタムブルー』で初映画監督を務める。 プロデューサーでは中山和記、俳優では特に田村正和、陣内孝則、米倉涼子と組む仕事が多い。
坂田 雅子(さかた まさこ、1948年 - )は日本のドキュ… 坂田 雅子(さかた まさこ、1948年 - )は日本のドキュメンタリー映画監督。 BSスペシャル「枯葉剤の傷痕を見つめて〜ベトナム戦争終結50年〜」(2025年11月14日、NHK BS)
大和田 伸也(、1947年〈昭和22年〉10月25日 - )… 大和田 伸也(、1947年〈昭和22年〉10月25日 - )は、日本の俳優、声優、ナレーター、演出家、映画監督。 福井県敦賀市出身。ホリプロ・ブッキング・エージェンシー所属。早稲田大学第一文学部中退。 三男一女の次男として誕生。 1965年、大学中退後に鈴木忠志が立ち上げた自由舞台に所属。 1968年、劇団四季へ入団。 1972年、朝の連続テレビ小説『藍より青く』でのヒロインの夫役で広く知られる。 1977年、『犬神の悪霊』で映画初主演。 1978年2月に降板した横内正に代わって『水戸黄門』で二代目渥美格之進役に就任し、1982年10月19日の第13部の収録終了をもって降板。 蜷川幸雄演出の『王女メディア』では北大路欣也とダブル主演を務めた(3度再演し海外公演も果たした)。
飯塚 俊男(いいづか としお、1947年9月19日 - )は… 飯塚 俊男(いいづか としお、1947年9月19日 - )は、日本の映画監督。 1947年9月19日、群馬県前橋市に生まれる。前橋高校から東北大学法学部に進み、在学中の1969年より、小川紳介主宰の小川プロダクションに所属し、『三里塚』シリーズの製作に携わる。1991年、『映画の都 山形国際ドキュメンタリー映画祭'89』で映画監督デビューを果たす。その後、小川プロダクションから独立し、1993年に『小さな羽音 チョウセンアカシジミ蝶の舞う里』を監督する。同作は文化庁優秀映画作品賞を受賞した。1994年、製作会社のアムールを設立する。
井上 英之(、1947年〈昭和22年〉9月4日 - )は、日… 井上 英之(、1947年〈昭和22年〉9月4日 - )は、日本の映画監督、全映連・東宝支部執行委員長。東宝スタジオ所属。 宮城県仙台市出身。1969年に東宝へ入社。多くの監督の下で助監督を務めた。 『恋する女たち』(1986年)や『ゴジラvsビオランテ』(1989年)でついた大森一樹とはやりやすかった一方で、現場でカット割りを変えてしまうこともあり、井上から両方撮影しようと進言することもあったという。 『vsビオランテ』で撮影助手を務めた清久素延は、気さくな大森に対し、井上は鬼軍曹という雰囲気であったと述べている。 この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
近藤 明男(こんどう あきお、1947年8月3日 - )は、… 近藤 明男(こんどう あきお、1947年8月3日 - )は、日本の映画監督。 東京都世田谷区生まれ。 1966年、早稲田大学教育学部に入学。在学中から勅使河原宏監督『燃えつきた地図』、三隅研次監督『雪の喪章』の他、『ザ・ガードマン』などのTVドラマの助監督としてキャリアをスタートする。1970年、早稲田大学卒業後、大映に入社。増村保造らに師事。 大映倒産後、吉村公三郎監督『襤褸の旗』(1974年)をはじめ、中平康監督、須川栄三監督、中村登監督など、昭和の名匠のもとで助監督を務める。主な作品は、『大地の子守歌』(1976年)、『曽根崎心中』(1978年)、『ビルマの竪琴』(1985年・市川崑監督)など多数。
山谷 哲夫(やまたに てつお、1947年7月21日 - )は… 山谷 哲夫(やまたに てつお、1947年7月21日 - )は、記録映画監督。 富山県高岡市出身。1972年早稲田大学文学部卒。在学中に記録映画「生きる 沖縄・渡嘉敷島集団自決から25年」を作成、第二作「みやこ」が認められ1974年文化庁在外芸術家として、英国映画協会にてドキュメンタリー映画を学ぶ。79年「沖縄のハルモニ 証言・従軍慰安婦」が制作。1996年西オーストラリア大学客員研究員。1980-99年日本映画学校(現・日本映画大学)でドキュメンタリー映画を教える。無明舎代表。
津島 勝(つしま まさる、1947年7月20日 - 2011… 津島 勝(つしま まさる、1947年7月20日 - 2011年5月4日)は、日本のテレビディレクター・映画監督。 大阪府大阪市出身。奈良女子大附属高校(現:奈良女子大学附属中等教育学校)を経て、1970年京都大学文学部史学科卒業。 大学生になるまで、映画は観たことが無かったという。 京大在学中、俳優・遠藤太津朗宅に家庭教師として出入りしていたのがきっかけで、遠藤の紹介により、東映撮影所に見学に行き、これが映画界との初の接点となった。これが縁となって、卒業後に東映テレビプロダクションの契約助監督となる。以後は主に東映京都製作のテレビ時代劇に助監督として就き、杉良太郎の推薦により、『遠山の金さん(第2シリーズ)』(テレビ朝日)で監督に昇格。
奈良橋 陽子(ならはし ようこ、1947年6月17日 - )… 奈良橋 陽子(ならはし ようこ、1947年6月17日 - )は、日本のキャスティングディレクター、演出家、映画監督、劇作家、作詞家、英会話教育家である。アップスアカデミー(UPS)代表。モデル・ランゲージ・スタジオ(MLS)会長。 千葉県市川市出身。国際基督教大学言語学専攻卒業。長男は俳優の野村祐人、長女は女優・演出家の米倉リエナ。母方の祖父は関屋貞三郎。元夫はジョニー野村。 父親の奈良橋一郎は外交官で、カナダ・モントリオールにある国際連合の専門機関である国際民間航空機関(ICAO)日本政府代表部に勤務しており、奈良橋も5歳でカナダに渡る。1962年、日本に帰国し聖心インターナショナルスクールを卒業後、国際基督教大学言語学専攻を卒業した。
黒土 三男(くろつち みつお、1947年(昭和22年)3月3… 黒土 三男(くろつち みつお、1947年(昭和22年)3月3日 - 2023年(令和5年)3月25日)は、日本の脚本家・映画監督。熊本県熊本市出身。 熊本県立熊本高等学校、立教大学法学部を卒業後、木下惠介プロダクションの助監督となる。2年間の勤務を経てフリーの脚本家となる。 1978年(昭和53年)TBS系で放送された『コメットさん』でTV脚本家としてデビューした。 1988年「とんぼ」「うさぎの休日」などで第7回向田邦子賞受賞。 1989年(平成元年)『オルゴール』で映画監督デビュー。自身がメガホンを取った作品は全て自らが脚本を手がけている。 山田洋次監督作品映画『幸福の黄色いハンカチ』で脚本家の一人として参加し、以来、木下惠介とともに山田洋次を師として仰ぐ。
村石宏實(むらいし ひろちか、1947年3月1日 - 202… 村石宏實(むらいし ひろちか、1947年3月1日 - 2022年3月27日)は、日本の演出家・映画監督。別名は村名 宏美、村名 宏実、村石 ヒロチカ。 東京都出身。東京写真大学(現・東京工芸大学)卒。 1967年、円谷プロダクションに入社し光学撮影部に配属、光学撮影スタッフとして『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』に参加した。『怪奇大作戦』の終了後、番組制作が途切れた際に、特殊技術の大木淳吉から『快獣ブースカ』でチーフ助監督を務めていた大映テレビの松生秀二を紹介され、助監督に転向し『東京警備指令 ザ・ガードマン』へ参加。三船プロダクションや東映などで経験を積み、1973年に自主作品『OH!カオ』で監督デビューする。
荒井 晴彦(あらい はるひこ、1947年1月26日 - )は… 荒井 晴彦(あらい はるひこ、1947年1月26日 - )は、日本の脚本家・映画監督。日本映画大学教授。季刊誌『映画芸術』発行人、編集長。東京都生まれ。母方の祖父は日本画家の石井林響。若松プロダクション出身。 東京都立立川高等学校卒業。早稲田大学第一文学部除籍。脚本家の田中陽造に師事。若松孝二作品の脚本を出口出名義で、足立正生とともに執筆した。新宿乱れ街 いくまで待って(1977年)が初脚本作品となった。その後、脚本家としてピンク映画や日活ロマンポルノなどの脚本を多数執筆している。1997年、『身も心も』が初監督作品となった(脚本も執筆)。「シナリオはシナリオ作家の著作物である」とのスタンスから、監督やプロデューサーが自身に無断で自作シナリオを改変したとして、『時代屋の女房』『眠らない街 新宿鮫』『KT』の公開時に、『月刊シナリオ』や『映画芸術』誌上で強い不快感を表明している。
河合 義隆(かわい よしたか、1947年1月18日 - 19… 河合 義隆(かわい よしたか、1947年1月18日 - 1990年4月30日)は、日本の映画監督、演出家。映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』の監督。 1947年(昭和22年)生まれ。現在の新潟県上越市出身。 1965年(昭和40年)、錦城高等学校卒業。同年フジテレビに入社 。映画部、演出部を経てドラマ制作に携わる。その後、朝の子供番組「ママとあそぼう!ピンポンパン」を担当、1971年(昭和46年)にギャラクシー大賞を受賞する。若くしてディレクターに抜擢後はドラマ制作で活躍[要出典]。その後、1981年(昭和56年)にフジテレビを退社してフリーランスとなり 、制作会社「ティンダー・ボックス」を設立。
松原 信吾(まつばら しんご、1947年1月6日 - 202… 松原 信吾(まつばら しんご、1947年1月6日 - 2022年8月18日)は、日本の映画監督、演出家。 東京都世田谷区出身。早稲田大学第一法学部を卒業後、松竹大船撮影所に助監督として入社。『なんとなく、クリスタル』で監督デビューし、『青春かけおち篇』(1987年)を監督後、松竹を退社。木下プロダクションに移籍しテレビドラマに活動の場を移す。 石飛徳樹は松原が映画で『なんとなく、クリスタル』『青春かけおち篇』『築地魚河岸三代目』の3作しか監督をしていないのは自らの色を見つけられなかったからではないかと考えている。一方でテレビドラマではリアリティのある山田太一作品に参加したことで変わった表現欲求を出さず、裏方に徹して、映画では上手く個性を発揮できなかった松原が山田作品で個性を抑える個性が花開いたと評した。
港 健二郎(みなと けんじろう、1947年 - )は日本の映… 港 健二郎(みなと けんじろう、1947年 - )は日本の映画監督。 福岡県大牟田市生まれ。父は与論島出身の三池鉱山職員。小学生時代、三池炭坑で働く人々と身近に接し、三池争議の渦中で少年時代を過ごす[要出典]。三池高校を経て、早稲田大学第一文学部社会学科卒業。記録映画の製作会社・鹿島映画社(現・カジマビジョン)で助監督となる[要出典]。34歳で独立し、映像作家として少年院の内部に迫るドキュメンタリーなどを監督[要出典]。三井三池争議の労働歌を作曲した荒木栄を題材にした「荒木栄の歌が聞こえる」で第27回日本映画復興会議の奨励賞を受賞。 劇団DAC(埼玉県)の団員として舞台出演多数。 「父の遺言」「よだかの星」「アッコちゃん」「山月記」「あらためて 国定忠治」など 2006年 映画「穢れ多き、人に非ず」 2007年 映画「罠を飛び越える女」 2009年 京都市民ミュージカル「時間旅行はいかが?」 2016年 映画「卒業」
高坂 光幸(こうさか みつゆき、1946年〈昭和21年〉12… 高坂 光幸(こうさか みつゆき、1946年〈昭和21年〉12月22日 - )は秋田県北秋田郡鷹巣町出身の日本の映像監督、製作主任である。 立命館大学英米文学科を卒業後、映画製作会社の男プロに助監督として入社したが、すぐに男プロが倒産してフリーに、その後は京都映画撮影所の助監督として活動、『必殺シリーズ』では『必殺仕掛人』から助監督を務め、『必殺仕業人』の第27話で初めて監督を務めた。その後も必殺シリーズの監督を務めたが、『必殺仕事人』の第34話で監督を務めて以降は監督業からは遠ざかり、制作主任、制作者として活動している。 2022年に立東舎から発刊された高鳥都による著書『必殺シリーズ秘史 50年目の告白録』(ISBN 978-4-8456-3804-8) ではインタビューが掲載された。
中村幻児(なかむら げんじ、1946年11月21日 - )は… 中村幻児(なかむら げんじ、1946年11月21日 - )は、日本の映画監督・映画プロデューサーである。栃木県大田原市出身。 1968年、慶應義塾大学文学部中退。東京綜合写真専門学校在学中よりフリーの助監督として活動し、1972年「完全なる同性愛」で監督デビューした。以降多数のピンク映画を手がけ、その青春映画・ニューシネマ的作風によって高橋伴明、渡辺護らとともに、ピンク映画界を代表する監督となった。中村は、日活の下請けプロダクションであるプリマ企画などで約83本のピンク映画を撮影した。また1982年、筒井康隆原作の作品『ウィークエンド・シャッフル』にて一般映画にも進出した。 。その後テレビドラマ・Vシネマなども手がけている。
荒戸 源次郎(あらと げんじろう、1946年10月10日 -… 荒戸 源次郎(あらと げんじろう、1946年10月10日 - 2016年11月7日)は、日本の映画プロデューサー、映画監督、俳優である。劇団天象儀館主宰。本名は吉村敏夫(よしむら としお)。 1946年10月10日、長崎県に生まれる。船乗りだった父方の祖父は隠れキリシタンで、ポルトガル系ともいわれる外国人の血を引いていた。生後間もなく福岡市に転居し、九州大学入学時まで福岡に住む。高校時代はラグビー部に所属し、熊本のヤクザの家に寝泊りし、パチンコ屋で用心棒まがいの仕事をしていたこともある。 学生運動に身を投じ、九州大学建築科を数か月で中退して上京。唐十郎主宰の劇団状況劇場と出合い、演劇の道に進む。
和泉 聖治(いずみ せいじ、1946年9月25日 - )は、… 和泉 聖治(いずみ せいじ、1946年9月25日 - )は、日本の映画監督。本名は木俣 堯美(きまた あきよし)。ムービーブラザース代表取締役。プロダクション鷹常務取締役を歴任した。 1946年(昭和21年)9月25日、神奈川県横須賀市に生まれる。小学3年生の時に京都府京都市に移る。父は彫刻家・劇作家・舞台演出家、元俳優で映画監督の木俣堯喬、実の母は元女優の葉山瑛子、継母はプロダクション鷹専務取締役だった木俣和子、ピンク映画の元人気女優で映画監督の珠瑠美である。珠瑠美の実妹の谷身知子は義叔母にあたる。 京都西高等学校(現在の京都外大西高等学校)卒業後、船乗り、ダンプの運転手、バーテンなどをしながら、イラストレーターを志した。
石井 隆(いしい たかし、1946年7月11日 - 2022… 石井 隆(いしい たかし、1946年7月11日 - 2022年5月22日)は、日本の漫画家、脚本家、映画監督。本名・石井 秀紀。 宮城県仙台市出身。宮城県仙台第二高等学校を経て、早稲田大学商学部卒業。 早稲田大学ではシナリオ研究会に所属していたが、学生運動に巻き込まれることを嫌い、革マル派の影響が薄かった映画研究会へ転属。在学中から後に脚本家となった金子裕と組んで、雑誌のライターやカメラマンで生活していた。 卒業後の1970年、『事件劇画』誌で出木英杞のペンネームで劇画漫画家としてデビュー。1975年頃より主に「ヤングコミック」誌等で執筆する。自作『天使のはらわた』(1977年)が大ヒットし、1978年から日活ロマンポルノにてシリーズ映画化される。
松井 久子(まつい ひさこ、1946年5月21日 - )は、… 松井 久子(まつい ひさこ、1946年5月21日 - )は、日本の映画監督、映画プロデューサー。 岐阜県生まれ。東京・深川育ち。東京都立小松川高等学校を経て、[要出典]早稲田大学文学部演劇科を卒業。雑誌のフリーライターを経て、1985年、39歳でTV番組制作会社エッセン・コミュニケーションズを設立。TV番組の制作などを経て、1993年から映画のプロデュースにも進出。1993年の「She's Rain」を皮切りに、1996年には、「薔薇ホテル」、「菜の花配達便」を手がける。 1998年、吉目木晴彦の芥川賞受賞作(1993年)『寂寥郊野』を原作に、新藤兼人が脚本を担当した、戦争花嫁として国際結婚をしてアメリカ合衆国ルイジアナ州バトンルージュに在住、アルツハイマー症を発症した日本人女性を描いた「ユキエ」で監督デビューし、同年の新藤兼人賞を受賞した。
輿石 正(こしいし まさし、1946年3月6日 - )は日本… 輿石 正(こしいし まさし、1946年3月6日 - )は日本の実業家、映画監督。 じんぶん企画代表、名護高等予備校代表、エコネット・美設立同人。山梨県出身。東京大学卒。 予備校運営などのかたわら、沖縄県に駐留するアメリカ軍基地や東日本大震災に関するドキュメンタリー映画の製作・監督をしている。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
宇崎 竜童(うざき りゅうどう、1946年2月23日 - )… 宇崎 竜童(うざき りゅうどう、1946年2月23日 - )は、日本の歌手、作曲家、俳優、映画監督。京都府京都市伏見区生まれ。東京育ち。妻は作詞家の阿木燿子。 1970年代中期から1980年初頭にダウン・タウン・ブギウギ・バンド、1980年代中期から1990年代初頭に竜童組、1990年代中期から後期に宇崎竜童 & RUコネクション with 井上堯之を率い、バンドの活動の合間にソロとしても活動する。妻は作詞家の阿木燿子。「作詞・阿木、作曲・宇崎」のコンビで商業主義的な歌謡曲界においても、数多くの楽曲をヒットさせると共に山口百恵の全盛期を支えた。 母親の出身地で疎開先だった京都市伏見区に生まれる。
長谷川 和彦(はせがわ かずひこ、1946年1月5日 - 2… 長谷川 和彦(はせがわ かずひこ、1946年1月5日 - 2026年1月31日)は、日本の映画監督。愛称はゴジ。 広島県賀茂郡西高屋村(現:東広島市)に出生。父は農業協同組合勤務、母は教師で三人兄弟の末弟。1945年8月、母が原爆投下2日後に広島市に入り放射線を浴び、胎内5ヵ月のため胎内被曝した。4歳からABCC(現・放射線影響研究所)で定期検診を受けた。被曝2世の自分は早死にすると思い、人生を生き急ぐもとになったとインタビューで語る。 広島市翠町(現:南区翠)で育ち、広島市立皆実小学校から広島市立翠町中学校を経て広島大学教育学部附属高等学校へ進む。広大付属高の同級に鳥取県米子市長・野坂康夫ら。
山口 修(やまぐち しゅう、1946年 - )は日本の映画美… 山口 修(やまぐち しゅう、1946年 - )は日本の映画美術監督、デザイナー。
柳町 光男(やなぎまち みつお、1945年(昭和20年)11… 柳町 光男(やなぎまち みつお、1945年(昭和20年)11月2日 - )は、日本の映画監督。社会派映画、文芸映画の分野の作品が多い。1985年に芸術選奨文部大臣賞受賞。監督した劇映画6作品のうち、5作品を世界三大映画祭(カンヌ国際映画祭・ベルリン国際映画祭・ヴェネツィア国際映画祭)に出品している。東京国際映画祭では2回受賞(1992年、2005年)。 茨城県行方郡牛堀町(現在は潮来市)の出身。茨城県立水戸第一高等学校、早稲田大学法学部卒業。大学在学中から映画作家を志望しシナリオ研究所へ通う。卒業後に就職するも、1969年からフリーの助監督として映画撮影に携わる。東映教育映画部では大和屋竺に師事。
小栗 康平 (おぐり こうへい、1945年〈昭和20年〉10… 小栗 康平 (おぐり こうへい、1945年〈昭和20年〉10月29日 - )は、日本の映画監督。 1945年、群馬県前橋市朝日町に生まれる。群馬県立前橋高等学校を卒業後、早稲田大学第二文学部に進み1968年に卒業。まずはピンク映画の世界に飛び込んだが、ほどなく浦山桐郎の下に弟子入りする。その後、フリーの助監督として、山本迪夫、大林宣彦、篠田正浩らの助監督を務めた。この間、1973年に特撮テレビドラマ『流星人間ゾーン』で監督を務めている。 1981年1月に、宮本輝原作による処女作『泥の河』を発表。第55回キネマ旬報ベスト・テン第1位に選出され、第5回日本アカデミー賞で最優秀監督賞を受賞した。国外でもモスクワ国際映画祭で銀賞を受賞し、第54回アカデミー賞では外国語映画賞にノミネートされた。
青山 定司(あおやま ていじ、1945年6月30日 - 19… 青山 定司(あおやま ていじ、1945年6月30日 - 1980年5月20日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。第1回ヨコハマ映画祭で自主製作賞を受賞した『家獣』で知られる。 1945年(昭和20年)6月30日、関東州(現在の中華人民共和国東北部)大連市に生まれる。同年8月15日、第二次世界大戦が終結し、引き揚げ後、両親は東京都渋谷区の恵比寿で仏具店を開く。 1968年(昭和43年)3月、駒澤大学経済学部を卒業、青山デザイン専門学校(現在の東京デザイン専門学校)アニメ科に進学する。満23歳を迎える同年、初めての8mmフィルム作品『追憶』を発表する。1971年(昭和46年)には、同専門学校の学園紛争をテーマに監督・製作した『たろうトウキョウ』を発表する。
原 一男 (はら かずお、1945年6月8日 - )は日本の… 原 一男 (はら かずお、1945年6月8日 - )は日本の映画監督。疾走プロダクション所属。妻は疾走プロダクション代表の小林佐智子で、ほとんどの作品で共同作業を行っている。本名は小林一男。
黒沢 直輔(くろさわ なおすけ、1945年5月2日 - )は… 黒沢 直輔(くろさわ なおすけ、1945年5月2日 - )は、日本の映画監督。 東京都立新宿高等学校、関西学院大学法学部卒。1972年に日活に入社。70年代は日活で数多くのロマンポルノ作品の助監督・監督を務めた後、1980年代後半より一般映画、テレビドラマに進出。数多くの作品を現在までコンスタントに取り続ける。 代表作に『女が一番似合う職業』、『ベイシティ刑事』、『京都迷宮案内』、『朝食亭』など。
三枝 健起(さえぐさ けんき、1945年3月30日 - )は… 三枝 健起(さえぐさ けんき、1945年3月30日 - )は、日本のテレビドラマディレクター、映画監督。NHKエンタープライズエクゼクティブ・ディレクター。名古屋学芸大学メディア造形学部非常勤講師。 神奈川県出身。父は元NHK音楽部プロデューサーの三枝嘉雄(NHKのど自慢を参照)、兄は作曲家の三枝成彰。 1968年早稲田大学文学部演劇科卒業。1969年にNHKに入局、『新日本紀行』などドキュメンタリーや『ニュースセンター9時』を手がけ、1977年ドラマ部に転局。その後大阪放送局、東京番組制作局芸能番組センター・ドラマ部チーフディレクターを経て、現在はNHKエンタープライズエグゼクティブ・ディレクターとなる。
田中 未知(たなか みち、1945年〈昭和20年〉 - )は… 田中 未知(たなか みち、1945年〈昭和20年〉 - )は、日本の作曲家、楽器作家、映画監督、著作家。寺山修司を長年にわたり公私にわたって支えた人物、および1969年(昭和44年)のヒット曲『時には母のない子のように』の作曲家などとして知られる。東京都出身、東京都立千歳高等学校卒業。 昭和期の劇団「天井桟敷」の初期メンバーとして入団。初公演「青森県のせむし男」(1967年〈昭和42年〉)から劇団の一員として活動しており、制作と照明を担当していた。 天井桟敷の旗揚げ公演の資金作りのため、寺山を囲む会費制のサロンの会が開催され、そのコーナーの一環として、田中が寺山の詩に曲をつけ、ギターで披露した。
小泉 堯史(こいずみ たかし、1944年11月6日 - )は… 小泉 堯史(こいずみ たかし、1944年11月6日 - )は、日本の映画監督。茨城県水戸市出身。 茨城県立水戸第一高等学校、東京写真短期大学(現在の東京工芸大学)写真技術科、早稲田大学卒業。早大卒業後の1970年、黒澤明に師事し、28年間にわたって助手を務める。写真技師出身ということで、市川崑が監督したATG映画『股旅』ではスチル担当も務めたこともあり、平成期デビューの監督としては、この両者に直接仕えることのできた唯一の人物となった。 黒澤の死後、その遺作シナリオ『雨あがる』を映画化し(2000年公開)、監督デビューする。この作品でヴェネツィア国際映画祭の緑の獅子賞、日本アカデミー賞で作品賞をはじめとする8部門で受賞。
高田 拓土彦(たかだ たつひこ、1944年10月15日 - … 高田 拓土彦(たかだ たつひこ、1944年10月15日 - 2012年10月1日)は、日本の俳優、脚本家、映画監督、演出家。本名は高田 龍彦。旧芸名は高田 裕史、高田 守弘、高田 大嗣。ペンネームは土筆 勉。師は脚本家の石森史郎。弟子は俳優の三木崇史。 福井県出身。桐朋学園大学芸術学部演劇科卒業。 劇団「ぶどうの会」、劇団俳優座を経て、「アメリカン・プロダクションサービス」を設立後、ボクサー、フリーとして活動していた。俳優としてはグループ71 、一騎プロに所属 。 女優の浅茅陽子とは同棲していたが、浅茅の意志で入籍しなかった。 2012年10月1日、間質性肺炎と肺癌のため東京都文京区の病院で死去。
山下 賢章(、1944年〈昭和19年〉7月8日 - 2016… 山下 賢章(、1944年〈昭和19年〉7月8日 - 2016年〈平成28年〉8月16日)は、日本の映画監督。東宝所属。鹿児島県出身。長男は政治運動家の山下万葉。[要出典] 鹿児島県肝属郡串良町(2006年合併により鹿屋市)出身、早稲田大学第一文学部哲学科卒業。1969年に東宝に入社。岡本喜八を筆頭に師事。1975年、本多猪四郎が監督を務めた『メカゴジラの逆襲』でチーフ助監督に就任。同作品への参加には、岡本からの後押しもあったという。 1979年に映画『トラブルマン 笑うと殺すゾ』で監督デビュー。東宝映画では監督を3本務めたらフリー契約をするという暗黙のルールがあったため、監督作を3本は撮りたいと考えていたが、邦画斜陽の時代では実現が難しく、その後も東宝社員のまま助監督時代が長く続いた。
中田 新一(なかだ しんいち、1944年4月11日 - )は… 中田 新一(なかだ しんいち、1944年4月11日 - )は、日本の映画監督である。株式会社サクセスロード所属(1988年設立)。 石川県出身。早稲田大学第一文学部演劇学科卒業。フリーの助監督として深作欣二、山本薩夫、熊井啓、佐藤純彌らに師事。現在監督としては主に映画であるが、独立プロにて自身の企画映画をコンスタントに制作している。2010年に著書『奔れ! 助監督』を上梓、トラブルも少なくなかった長年の助監督、監督生活を回顧している。 最近は、九州地方の協力で九州を舞台とするものを多く制作している。車いすバスケットボールをテーマにした『ウイニング・パス』は北九州市功労賞受賞。これがきっかけで北九州市の特命文化大使に起用されるが、それ以外でも、主演の松山ケンイチは本作が映画初主演となった。