北脇 昇(きたわき のぼる、1901年6月4日 - 1951… 北脇 昇(きたわき のぼる、1901年6月4日 - 1951年12月18日)は、日本のシュルレアリスムの画家。 愛知県名古屋市出身。父が単身朝鮮半島に渡ったことから、1910年、母親と京都に住む叔父の広瀬満正(元貴族院議員、実業家)の元へ移る。爾来、北脇は死亡するまで京都をほとんど離れなかった。1915年、京都市立銅駝尋常小学校卒業。同年、同志社中学校に入学。1917年、同校を中途退学。 1919年2月、鹿子木孟郎の画塾に入る。1930年4月、津田青楓の画塾に入る。1932年、第19回二科展に初入選。同年9月、京都洋画協会の結成に参加。1933年10月、独立美術京都研究所が開設され、その委員となる。
富永 太郎(とみなが たろう、1901年(明治34年)5月4… 富永 太郎(とみなが たろう、1901年(明治34年)5月4日 - 1925年(大正14年)11月12日)は、日本の詩人、画家、翻訳家である。
川上 拙以(かわかみ せつい 1901年5月1日 - 197… 川上 拙以(かわかみ せつい 1901年5月1日 - 1976年12月3日)は、日本の日本画家。戦前は風景花鳥を得意としたが、戦後は人物画を多く描いた。 1901年(明治34年)愛媛県新居浜郡生まれ。京都市立絵画専門学校を卒業後、西山翠嶂に師事。1922年(大正11年)の第4回帝展から帝展に出品を続ける。1934年(昭和9年)第15回帝展に出品した「幽香煎茗」は特選に選ばれた。1936年(昭和11年)文展招待展には「清風聽声」を出品。京都市展、大阪市展などにもそれぞれ委員、無鑑査等により出品している。 第二次世界大戦後も、1950年(昭和25年)の第6回日展から出品を行っている。 1976年(昭和51年)12月3日、心筋梗塞により京都専売病院で死去。
三輪 晁勢(みわ ちょうせい、本名:三輪 信郎、1901年〈… 三輪 晁勢(みわ ちょうせい、本名:三輪 信郎、1901年〈明治34年〉4月30日 - 1983年〈昭和58年〉9月7日)は、日本画家。日本芸術院会員、京都府美術工芸功労者、京都市文化功労者、与板町名誉町民(現在は長岡市名誉市民)。堂本印象の義弟。 1901年(明治34年)新潟県三島郡与板町長丁(現長岡市)に生まれる。父は洋画家の三輪越龍(本名:三輪大次郎)。与板町立与板尋常小学校卒業後、画家修業の為に京都へ移住し1913年(大正2年)京都市立美術工芸学校入学。1924年(大正13年)京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)卒業。 堂本印象に師事し、当初は超世と号した。1927年(昭和2年)第8回帝展に「東山」が初入選。
沼田 征矢雄(ぬまた そやお、1901年3月8日 - 198… 沼田 征矢雄(ぬまた そやお、1901年3月8日 - 1982年4月)は、土木工学者、土木技術者、都市計画家。 大学卒業で即講師に任用されるなど頭脳明哲、豪放磊落、趣味も野球、ゴルフなどと多彩。昭和19年(1944年)蒙古聯合自治政府交通部次長として大同に赴任。その後同政府の技監、総務庁次長を経て昭和20年(1945年)には同政府総務庁長に就任、つまりこの時点で技術者出身で日本史上初の「一国の長」となっている。満州国や蒙古聯合自治政府の高官としてこれら地域の開発に尽力した功績は大きく、また面長な顔は当時「満洲三名馬」の一人に数えられた。 明治34年(1901年) 3月、文学博士沼田頼輔の次男に生まれる。
木本 大果(きもと たいか、1901年(明治34年)3月7日… 木本 大果(きもと たいか、1901年(明治34年)3月7日 - 2001年(平成13年)11月9日)は、大正から平成時代の日本画家。 16歳で松本楓湖に師事する。松本の没後は、荒木十畝の読画会に所属する。昭和4年に帝国美術院展覧会で入選し、昭和8年には「秋林」が特選を受賞する。荒木は昭和19年に没する。その後、伊東深水から鎌倉にあった自宅に招かれ、自身が顧問を務める日月社への入会を勧められるが、所属していた読画会を離れなかった。 東京都世田谷区に居住していた。
久保 一雄(くぼ かずお、1901年2月16日 - 1974… 久保 一雄(くぼ かずお、1901年2月16日 - 1974年1月26日)は、日本の映画美術監督、洋画家。 群馬県藤岡市生まれ。 日本映画美術監督協会の創立者の一人。独立美術協会会員。 川端画学校洋画部で学んだ後、日活撮影所に入所。 撮影所の労働運動に関わり、「三・一五事件」で検挙される。転向しないままに奈良刑務所を出所後、PCLに入社。『人情紙風船』(山中貞雄監督)では岩田専太郎の美術考証にもとづいて、装置を担当。戦中・戦後にかけて、成瀬巳喜男、木村荘十二、山本嘉次郎、マキノ雅弘、黒澤明ら有力な監督の下で美術を担当。フリーとなってからは、山本薩夫、今井正の独立プロの映画制作に協力した。 戦前戦後の映画関連の労働運動経験者としても、山本薩夫『私の映画人生』(新日本出版社、1984年)、井上雅雄『文化と闘争――東宝争議1946-1948』(新曜社、2007年)で言及されている。
川辺 外治(かわべ そとじ、明治34年〈1901年〉2月8日… 川辺 外治(かわべ そとじ、明治34年〈1901年〉2月8日 - 昭和58年〈1983年〉9月29日)は、富山県砺波市の洋画家。農家の次男に生まれて一時は画家を志すも、長兄の死により農業を継ぎ、その傍ら教師として多くの画家を育てた。 「人間疎外の美術、描くことそれ自体すら否定する美術、それで満足出来るならそれを実行するがよい。しかし大宇宙を信じ、その無限を見つめ片影を感受し、その表現に一生をささげる気概と意欲を燃やして生きることはなんと意義のあることであろうと夢想するものである。」と述べ、中央画壇に対しては批判的であった。 戦時中、近隣の町に疎開してきた版画家の棟方志功や織田一磨、伊藤四郎などの生活を支援するために発表会や研修会などを企画して開催し、彼らとの交流を深めた。
朝井 閑右衛門(あさい かんえもん/あさい かんうえもん、出… 朝井 閑右衛門(あさい かんえもん/あさい かんうえもん、出生名:浅井 實(みのる)、1901年1月24日 - 1983年4月23日)は、日本の洋画家。戦前は官展や光風会で活躍、戦後は新樹会や国際形象展を結成し、油彩の厚塗りで強烈な個性を発揮した。常に画壇の第一線で活躍しながら画集もなく、また本格的な個展も開催することがないなど、特異な生涯を貫いた。同じモチーフを繰り返し描くことが多く、「バラの画家」「ドン・キホーテに憑かれた画家」とも呼ばれる。 明治34年(1901年)1月24日、大阪府大阪市南区恵美須町(現在の浪速区恵美須西)の今宮戎神社の南門近くで、浅井繁熊(25歳)、ヒサ(27歳)の長男として生まれる。
村山 知義(むらやま ともよし、1901年(明治34年)1月… 村山 知義(むらやま ともよし、1901年(明治34年)1月18日 - 1977年(昭和52年)3月22日)は、日本の小説家、画家、デザイナー、劇作家、演出家、舞台装置家、ダンサー、建築家。日本演出者協会初代理事長。
小坂 勝人(こさか かつんど、1901年(明治34年) – … 小坂 勝人(こさか かつんど、1901年(明治34年) – 1953年(昭和28年))は大正時代から昭和時代前期にかけての日本画家。 富山県高岡市国吉に生まれる。富山県立工芸学校(現・富山県立高岡工芸高等学校)卒業後、東京美術学校日本画科、同校研究科で学ぶ。結城素明に師事。1926年第7回帝展「海景」で初入選、以後同展、新文展、日展に作品を発表する。戦禍を避けて城端町に疎開し、戦後は富山県日本画家連盟の設立等に尽力した。
中西 利雄(なかにし としお、1900年〈明治33年〉12月… 中西 利雄(なかにし としお、1900年〈明治33年〉12月19日 - 1948年〈昭和23年〉10月6日)は、日本の洋画家。透明水彩絵具に不透明水彩絵具を併用する新たな水彩技法を編み出した。 東京府京橋区(現・東京都中央区)に生まれる。日本中学校、1927年東京美術学校西洋画科卒業。1920年代、日本水彩展、光風会展、帝展などに参加し、1928年(昭和3年)にフランスへ渡る。翌年、大学同期の小磯良平とともにヨーロッパをめぐり、サロン・ドートンヌに多数作品を出品して入選した。1931年(昭和6年)11月に日本へ帰国。帰国後の1934年(昭和9年)、第15回帝展に「優駿出場」を出品して特選。1935年(昭和10年)には第二部会展で「婦人帽子店」特選。
谷口 成之(たにぐち しげゆき、1900年11月25日 - … 谷口 成之(たにぐち しげゆき、1900年11月25日 - 1984年)は、東海大学工学部教授などを歴任した日本の都市計画家。 愛知県尾張旭市生まれ。旧制明倫中学校から第八高等学校をへて1925年に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、都市計画地方委員会の愛知地方委員会に奉職。1931年には長崎地方委員会に転任。1939年北海道地方委員会に転任。1942年には東京地方委員会に転任するが、戦時中のため仕事は護国寺の大防空壕掘削だったという。そのまま東京都発足で職員となり、戦後は戦災復興都市計画の責任者である都建設局区画整理課長や、区画整理部長を歴任していく。1950年からは都市計画担当教員として中央大学で教鞭を執る。
杉田 勇次郎(すぎた ゆうじろう、1900年11月6日 - … 杉田 勇次郎(すぎた ゆうじろう、1900年11月6日 - 1984年8月31日)は、京都市出身の日本画家。号は遊子。おもに水彩画や油彩画を手がけ、洋画の技法を取り入れた作品が多い。 京都市下京区に生まれた杉田は、長じて京都市立絵画専門学校(京都市立美術大学の前身)に学び、在学中の1920年に「海近く」で国画創作協会展に初入選した。1922年に卒業した後も、入江波光に師事しながら。その後も国画創作協会展などに出品し、1926年には国画創作協会会員に推されたが、同会日本画部は1928年に解散してしまう。そこで、新樹社に参加するが、1931年には脱退する。 1934年に満州へ渡って美術教師となり、旅順高等公学校や大連の芙蓉高等学校で教鞭を執った。
宮田 重雄(みやた しげお、1900年10月31日 - 19… 宮田 重雄(みやた しげお、1900年10月31日 - 1971年4月28日)は、日本の画家、医師。 愛知県名古屋市出身。重陽の節句(9月9日)に生まれたので 重雄と名付けられた。愛知県立第一中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)に進学後、慶應義塾大学医学部入学。上京後は勉学と並行して学内に絵画部ジュヌ・パントル[仏語で若い画家の意]を創立、1923年には第1回春陽会に出品、見事入選を果たし、医師と画家、両立の道へと進んでいく。1925年同大学卒業。1928年 - 1930年パリ・パスツール研究所に留学し、医療に従事するかわたら洋画家梅原龍三郎に師事。春陽会、国画会に所属。1934年慶應義塾大学医学博士。
浅野 竹二(あさの たけじ、1900年(明治33年)10月2… 浅野 竹二(あさの たけじ、1900年(明治33年)10月24日-1998年(平成10年)2月10日)は、京都の日本画家、版画家。 土田麦僊の門人。1900年(明治33年)、父、浅野眞三郎、母、もとの子として京都市に生まれた。大正4年(1915年)から作画を始めており、1919年(大正8年)に京都市美術工芸学校絵画科(日本画)を卒業、1921年(大正10年)、京都市立絵画専門学校本科1年に入学して日本画を専攻したが、本科2年の頃から油絵を独学している。1923年(大正12年)に絵画専門学校を卒業し、1926年(昭和元年)頃、再び日本画に復帰、翌1927年(昭和2年)に麦僊の画塾「山南塾」に入り、第6回国画創作協会展に「風景」を出品、翌1928年(昭和3年)、第7回国画創作協会展に「白帆遥暎」を出品、ともに入選するなど日本画家として活躍した。
高森 龍夫(たかもり たつお、1900年〈明治33年〉9月1… 高森 龍夫(たかもり たつお、1900年〈明治33年〉9月14日 - 1958年〈昭和33年〉5月12日)は、日本の編集者・挿絵画家。雅号は「猟夫(れお)」「夜江」。漫画原作者の梶原一騎(本名・高森朝樹)は長男、同じく漫画原作者の真樹日佐夫(本名・高森真土)は次男。 熊本県立中学済々黌(現・熊本県立済々黌高等学校)で英語の教鞭を執っていた父・高森貞太郎(1866年 - 1946年)と、熊本藩主細川家に仕えた林氏の長女・寿(? - 1963年)の間の7人兄弟(6男1女)の長男として兵庫県に生まれる。 青山学院卒業後、山梨県都留郡の都留中学校の教員を経て、平凡社や中央公論社で校正の仕事などに従事し、太宰治の担当編集者となる。
牛島 憲之(うしじま のりゆき、1900年8月29日 - 1… 牛島 憲之(うしじま のりゆき、1900年8月29日 - 1997年9月16日)は、洋画家。熊本県熊本市二本木町生まれ。 世田谷区在住であったが、多摩川近郊、特に府中によくスケッチに出かけた縁から、東京都府中市の府中市美術館に遺族が寄贈した作品100点が収蔵されている。 風景画の作品が多く、柔らかな線と穏やかな色彩を特徴とする。牛島の描くモティーフの種類はある程度限定され、同じ風景が数多く繰り返し描かれる。 熊本の裕福な地主の息子に生まれ、東京芸大の講師になるまで勤め人になったことが無かったという。日展に入選後も絵を売らず、また華やかな場に参列することも少なく、画家とは名誉ではなく描き続けることであるという立場を貫いた。
阿部 金剛(あべ こんごう、1900年6月26日 - 196… 阿部 金剛(あべ こんごう、1900年6月26日 - 1968年11月20日)は、日本の洋画家。 岩手県盛岡市出身。父は内務省官僚で、東京府知事でもあった阿部浩。東京府立第一中学校を経て、慶應義塾大学文学部予科中退。在学中から岡田三郎助に師事し、1926年渡仏。1929年東郷青児と共に油絵展覧会を開催。同年二科会展に初入選した。以後もメキシコやアメリカにて創作活動に励む。二科会会員。 超現実主義(シュルレアリスム)的な作品で脚光を浴び、また萩原朔太郎の「詩人の運命」の装丁もした。 1930年三宅艶子との結婚も当時の新聞紙上を賑わした。娘はエッセイストの三宅菊子、息子は彫刻家の阿部鷲丸。1968年11月20日、心筋梗塞のため東京逓信病院で死去。
辻 利平(つじ りへい、1900年4月22日 - 1988年… 辻 利平(つじ りへい、1900年4月22日 - 1988年4月15日)は、日本の洋画家。 明治33年(1900年)、長崎県北松浦郡星鹿村(現・松浦市星鹿町)生まれ。大正11年(1922年)長崎師範学校卒業後に教師となる。その後、大正14年(1925年)に東京美術学校図画師範科に入学、昭和3年(1928年)卒業。大阪で大谷学園に勤務しながら斎藤与里に師事した。 昭和8年(1933年)に第1回東光会展でT氏奨励賞を受賞、第14回帝展で入選。昭和15年(1940年)に東光会会員となる。昭和41年(1966年)に第9回日展で菊華賞受賞、昭和45年(1970年)より日展会員。昭和41年(1966年)から夙川学院短期大学造形美術科主任教授、昭和48年(1973年)名誉教授。
山本 丘人(やまもと きゅうじん、1900年(明治33年)4… 山本 丘人(やまもと きゅうじん、1900年(明治33年)4月15日 - 1986年(昭和61年)2月10日)は、日本画家。文化勲章受章者。本名は山本 正義(やまもと まさよし)。 東京市麻布(現在の東京都港区)に生まれる。府立三中、府立工芸を経て、1924年(大正13年)東京美術学校卒業。その後松岡映丘に師事。 1936年(昭和11年)、文展に出品した『海の微風』が選奨(文部大臣賞に次ぐ賞)を受賞 1944年(昭和19年)東京芸術大学助教授、1947年(昭和22年)女子美術専門学校(現女子美術大学)教授に就任、多数の後進を育てる。1977年(昭和52年)文化勲章受章、文化功労者顕彰。 「到春」 1942年、彩色・絹本・軸(1面)58.0cm×72.5cm「冬岳」 1953年、絹本・彩色・額(1面)55.4cm×71.5cm
進藤 章(しんどう あきら、1900年(明治33年)4月12… 進藤 章(しんどう あきら、1900年(明治33年)4月12日 - 1976年(昭和51年)5月18日)は、日本の画家、油彩画、日本画などを描く。 1900年(明治33年)4月12日、父善次郎と母たいの7人兄弟の長男として山梨県北都留郡小淵沢村上久保(現・山梨県北杜市小淵沢町上久保)に生まれる。小淵沢小学校、大泉高等科3年を経て山梨師範学校(現・山梨大学)に学ぶ。 卒業後、日野春、小淵沢、甲府富士川小学校に訓導として勤め、当時文壇を風靡した武者小路実篤らの白樺運動の影響を受け、地方文化の活動、ことに画道に専心した。また山梨師範学校の先輩でもあった土屋義郎氏の紹介により岸田劉生の草土社に属し、木村荘八の指導を受けた。
堀内 唯生(ほりうち ただお、1900年4月11日 - 19… 堀内 唯生(ほりうち ただお、1900年4月11日 - 1981年12月25日)は、日本の洋画家である。
高野 三三男(こうの みさお、1900年3月30日 - 19… 高野 三三男(こうの みさお、1900年3月30日 - 1979年8月15日)は、東京府東京市深川区(現・江東区)出身のフランスと日本で活躍したアール・デコ様式の画家。
南城 一夫(なんじょう かずお、1900年〈明治33年〉3月… 南城 一夫(なんじょう かずお、1900年〈明治33年〉3月29日 - 1986年〈昭和61年〉2月25日)は、日本の画家。花や小動物などをモチーフとして、詩情豊かな作品を描いた。 1900年(明治33年)群馬県前橋市一毛町(現・城東町)に、南城要三郎・ふみの長男として生まれる。群馬師範学校附属小学校を経て、旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に学ぶ。前橋中学校の同級生に洋画家の横堀角次郎や詩人の萩原恭次郎がいる。 1918年(大正7年)に同校を卒業すると、先輩の俳優・河原侃二のすすめにより岡田三郎助主宰の本郷洋画研究所に入所し絵画を学んだ。ここで岡鹿之助、伊藤廉と知り合う。1920年(大正9年)に東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科に入学。
岩田準一(いわた じゅんいち、1900年〔明治33年〕3月1… 岩田準一(いわた じゅんいち、1900年〔明治33年〕3月19日 - 1945年〔昭和20年〕2月14日)は、日本の画家・風俗研究家。旧姓は宮瀬(みやせ)。 三重県志摩郡鳥羽町(現・鳥羽市)にて宮瀬家の次男として生まれる。三重県立第四中学校卒業後、親の意志により神宮皇學館へ進むも肌に合わずに中退し、中学時代から親交のあった竹久夢二が教鞭を執る東京の文化学院絵画科へ転校し、夢二に師事。夢二の代作を務め、また夢二本人から「日本一の夢二通」と称される。『明星』を通して与謝野鉄幹・晶子夫妻とも交流があり、夫妻が監修した『日本古典全集』の編纂に参加した。1920年(大正9年)12月に両親が離婚し、母方の姓である岩田を名乗るようになる。
田代 順七(たしろ じゅんしち)1900年(明治33年)3月… 田代 順七(たしろ じゅんしち)1900年(明治33年)3月13日 - 1985年(昭和60年)10月11日)は、昭和期の洋画家。現在の熊本県玉名市出身。 教員を務める傍ら熊本在住者として初めて帝展入選を果たし、以後1985年まで、文展(文部省美術展覧会、現在の日展)、日展に連続出品。具象絵画団体東光会支部としての銀光会を結成し、熊本の洋画史をリードしながら郷土熊本の自然の美をテーマに一貫して具象絵画の世界を追求、熊本における美術振興に寄与した。 その絵画精神は自然観照にもとづく美学の実践であり、力強く表現されている。 画業60余年、とりわけ1950年代中頃から展開する「球磨川」「天草」そして晩年の「阿蘇」シリーズの作品は、田代芸術の写実観を如実に物語っている。
ヘンリー・ユズル・スギモト(Henry Yuzuru Sug… ヘンリー・ユズル・スギモト(Henry Yuzuru Sugimoto 日本名:杉本謙、1900年3月12日 – 1990年5月8日)は日本出身の画家、絵画教師及び第二次世界大戦における日系人の強制収容の経験者である。1952年にアメリカの市民権を取得した。 和歌山県海草郡湊村(現・和歌山県和歌山市湊)に生まれる。スギモトの父親はスギモトが生まれてすぐに渡米し、母親も9年後に渡米したため、スギモトとその弟は母方の祖父母に養育された。母方の祖父は武家の出であり、絵画を多数所有しており、スギモトは幼いころからそれを模写し絵画に親しんでいた。 1919年、スギモトは和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)4年生修了後、ヘンリーに改名し、カリフォルニア州ハンフォードで両親とともに暮らすこととなった。
内田 巌(うちだ いわお、1900年〈明治33年〉2月15日… 内田 巌(うちだ いわお、1900年〈明治33年〉2月15日 - 1953年〈昭和28年〉7月17日)は、洋画家。内田魯庵の子。 東京出身。東京美術学校で藤島武二に師事。1926年卒業後、帝展に入選。1930年から1932年にかけてフランスに渡り、アカデミー・ランソンで学ぶ。1936年には挙国一致体勢の推進をはかる美術界の潮流に対抗して、猪熊弦一郎、小磯良平らと新制作派協会を結成。しかしながら、大戦中の1943年には、聖戦画報 戦ふ東條首相に揮毫している。 1946年日本美術会を結成し初代書記長に就任、1948年には日本共産党に入党し、戦後のプロレタリア画壇にあってはその牽引役として重きをなした。
伊丹 万作(いたみ まんさく、1900年(明治33年)1月2… 伊丹 万作(いたみ まんさく、1900年(明治33年)1月2日 - 1946年(昭和21年)9月21日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優、エッセイスト、挿絵画家。本名:池内 義豊(いけうち よしとよ)。 「日本のルネ・クレール」と呼ばれた知性派の監督で、挿絵画家として活躍後、同窓の伊藤大輔の勧めで映画界に入り、片岡千恵蔵プロダクションへ入社。作風は風刺と諧謔、人間味に富み、これまでの立ち回り主体の時代劇とは一線を画す現代的な時代劇 で稲垣浩とともに新生面を開いた。その後は闘病生活を余儀なくされるが、シナリオ執筆や映画論、社会批評など著述に専心した。主な監督作に『國士無双』『赤西蠣太』、シナリオに『無法松の一生』『手をつなぐ子等』など。
兼島 信栄(かねしま しんえい、1900年 - 没年不明)は… 兼島 信栄(かねしま しんえい、1900年 - 没年不明)は、日本の政治家、空手家、弁護士、画家。沖縄県那覇市首里寒川町出身。 東京都北区に疎開し、警察官として勤務した。 日本大学法学部を卒業して弁護士となる。 1947年9月10日、美里村で琉球社会党を結成し、10月20日には兼島信栄の第一次沖縄社会党に合併。沖縄社会党は沖縄民主同盟や沖縄人民党とともに知事・議会議員の公選を訴え、アメリカ合衆国による沖縄統治の下での琉球独立を模索した。 山城善光によれば、1949年5月1日以後、社会党・民主同盟・人民党の3党からなる「民族戦線演舌会」が開催されると、那覇市を皮切りに、糸満、石川、名護、本部、今帰仁、大宜味で盛況を収めたという。
片山牧羊(かたやま ぼくよう、1900年(明治33年) - … 片山牧羊(かたやま ぼくよう、1900年(明治33年) - 1937年(昭和12年)8月26日)は、大正、昭和初期の日本画家。庄田鶴友、蔦谷龍岬、荒木十畝に師事し、旧帝展特選1回入選3回に及んでいた。 1900年、尾道市長江町に生まれる。本名健三。父は漢学者の片山辰之助。1915年、大阪で南画を学ぶ。また、合川澄水に書道を学ぶ。1917年、京都で、庄田鶴友に師事し日本画を学ぶ。また、山本竟山に書道を学ぶ。この頃、短歌集『曼珠華沙』を作る。1921年上京し、蔦谷龍岬塾・鐸鈴社に入門、本格的に日本画を学びはじめる。1927年、第8回帝展に「おぼろ」(広島県立美術館所蔵)を出品、初入選で特選を受賞する。
小泉 清(こいずみ きよし、1899年〈明治32年〉12月2… 小泉 清(こいずみ きよし、1899年〈明治32年〉12月20日 - 1962年〈昭和37年〉2月21日)は、日本の洋画家。 1899年、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)とセツの三男として東京に生まれる。幼少からゴッホの画集を愛読するなど絵画に親しむ。 1912年、早稲田中学に進学。教師の會津八一(八雲の教え子でもある)に画才を見出され、安藤更生と友人になる。 1919年、東京美術学校西洋画科に進学。先輩の佐伯祐三・前田寛治・里見勝蔵から影響を受ける。1922年、肺病のため中退。ヴァイオリン弾きや、妻の経営するビリヤード場の手伝いで生計を立てる。1934年、母セツが亡くなると、遺産で東京にアトリエ兼新居を構える。
堀田 清治(ほった せいじ、1899年(明治32年)12月6… 堀田 清治(ほった せいじ、1899年(明治32年)12月6日 - 1984年(昭和59年)2月17日)は、日本の洋画家。福井県福井市出身。福井県立福井中学(現・福井県立藤島高等学校)卒業。日本の洋画壇を代表するフォーブ(野獣派)の巨匠。日展文部大臣賞ほか受賞歴多数。日洋展委員・動く美術館運営委員もつとめ、積極的な美術活動を展開し多くの俊秀を育てた。芸術院会員に推挙されながらも終始一貫して断り続ける信念の人でもあった。 福井市の紡績原料問屋の長男として生まれる。福井中学入学後油絵を描き始め、1920年(大正9年)に上京、太平洋美術研究所に入所し高間惣七に師事する。同研究所や高間らが結成した新光洋画会で最高賞を受賞後、帰郷した際に同郷の土岡秀太郎らとともに北荘画会を創立、福井の文化的地盤の形成に尽力する。
八巻 芳夫(やまき よしお、1899年11月10日 - 19… 八巻 芳夫(やまき よしお、1899年11月10日 - 1990年)は、日本の土木技術者、都市計画家。仙台市の戦災復興都市計画に従事・尽力。 青葉通り、定禅寺通りのケヤキ並木道の設計者。丸森町出身。 東北帝国大学附属工学専門部/旧制仙台高等工業学校土木工学科卒業後、朝鮮総督府に勤務。総督府で地方出先の土木課長などを歴任。朝鮮時代に乱伐された山林をみて緑のない地方道は次々に並木を整備していったという。 1946年に帰国し、仙台市に勤務。仙台市戦災復興局建設部公営課長から後に建設局復興部長、建設局長を歴任。1959年からは仙台市技監。1966年に退職。その後土地区画整理審議会全国連合会などに関わる。
山口 華楊(やまぐち かよう、1899年〈明治32年〉10月… 山口 華楊(やまぐち かよう、1899年〈明治32年〉10月3日 - 1984年〈昭和59年〉3月16日)は、山口華楊は日本画家。早くから動物画・花鳥画で知られ、戦後の京都画壇で中心人物の一人となった。 山口は1899年(明治32年)に京都市中京区で本名・米次郎として生まれた。父(安之助)は江戸時代からつづく友禅染めの彩色職人で、母親(なを)は京都市内で成功した絵具屋の娘だった。幼いころから絵を描くことを好み、5歳上の兄・松之助も後に玲熙(れいき)と号して菊池芳文に支持、帝展に入選を果たしている。 山口は1912年(明治45年)に京都市立格致尋常小学校を卒業すると、当時の日本画壇の大家だった西村五雲の画塾に入門する。
野口 弥太郎(のぐち やたろう、野口 彌太郎、1899年10… 野口 弥太郎(のぐち やたろう、野口 彌太郎、1899年10月1日 - 1976年3月23日)は、日本の洋画家、日本芸術院会員。 東京本郷区生まれ。その後朝鮮の仁川、東京、長崎県諫早市、神戸と移り住む。1920年、関西学院中学部卒後、川端画塾に学び、1922年、二科展で初入選。1926年、「一九三〇年協会」会員となる。1929年、フランスに渡り、サロン・ドートンヌに出品。1933年、帰国、独立美術協会会員となる。戦後、1949年から日本大学芸術学部教授。以後独立展に出品を続け、1962年、国際形象展同人。1964年、「セビラの行列」で毎日芸術賞受賞、1970年、日大を辞める。1972年、紺綬褒章受章。
奥田 雀草(おくだ じゃくそう、1899年7月29日 - 1… 奥田 雀草(おくだ じゃくそう、1899年7月29日 - 1988年12月13日)は、日本の俳人・俳画家。本名は奥田 哲良(おくだ てつろう)。 雀草の句碑は上の12基。この他、洲本市“文学の森” に蜷川虎三、夫人・奥田雅子の句にそれぞれ雀草が絵をつけた合同句碑2基がある。
玉置 豊次郎(たまき とよじろう、1899年7月13日 - … 玉置 豊次郎(たまき とよじろう、1899年7月13日 - 1984年10月9日)は、大阪市出身の日本の建築学者・都市計画家。工学博士(東京帝国大学)。大阪工業大学名誉教授。元内閣技官・帝都復興院復興局技師。元大阪府建築監督官・愛知県建築部長。勲四等瑞宝章受章。 専門は建築計画・建築史、都市計画。 1923年(大正12年)、東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、内務省から都市計画地方委員会事務取扱を委嘱される。同年、関東大震災が発生し、帝都復興院の設置により復興局技師に転じ、復興計画にあたる。1925年(大正14年)大阪府警察技師、1927年(昭和2年)地方技師・大阪府建築監督官を勤める。この後、約15年間は土地区画整理事業等の指導に当たる。
木村 太郎(きむら たろう、1899年4月29日 - 198… 木村 太郎(きむら たろう、1899年4月29日 - 1989年11月6日)は、日本のフランス文学者、翻訳家、画家、書家。南山大学名誉教授。 父・粂市は実業家、母・いつ(銉次)は永井家の出身で、永井荷風は従兄弟にあたる。叔父の大島久満次は台湾総督府民政長官、神奈川県知事、衆議院議員を歴任。 東京市中央区賽町(京橋)生まれ。1924年東京帝国大学文学部仏文科卒業。日本大学、法政大学、日仏学院などで教えた後、1947年南山外国語専門学校に赴任、南山大学創設に寄与。1971年まで南山大学仏文科教授、文学部長。 1950年、名古屋日仏文化協会を創設。敬虔なカトリック信者で、ジョルジュ・ベルナノス、ポール・ブールジェ(fr:Paul Bourget)などを多数翻訳した。
倉島 丹浪(くらしま たんろう、1899年(明治32年)4月… 倉島 丹浪(くらしま たんろう、1899年(明治32年)4月22日 - 1992年(平成4年)12月23日)は、日本画家。河童の絵を多く手掛けた。 長野県埴科郡倉科村(現・千曲市)生まれ。旧制長野中学に進む。1921年(大正10年)、上京し、本郷絵画研究所に学び、橋本静水に師事。1926年(大正15年)、横山大観に入門。1930年(昭和5年)、野木逸子と結婚。「八代宗彦」の名で漫画家として活躍。戦後、屋代町(現・千曲市屋代)の芸術家集団白炎社設立に参加。1969年(昭和44年)、創作画協会の設立に尽力、特別理事に就任。1974年(昭和49年)、紺綬褒章受章。1980年(昭和55年)、更埴市長表彰。
関根 正二(せきね しょうじ、本名読み:まさじ、1899年4… 関根 正二(せきね しょうじ、本名読み:まさじ、1899年4月3日 - 1919年6月16日)は、日本の洋画家。 1899年、福島県西白河郡大沼村(現白河市)に屋根葺き職人の父のもとに生まれた。1908年、前年に発った父を追い上京、深川区東町に移る。江東区立東川小学校の同級生に伊東深水がおり、伊東の紹介で1914年に東京印刷株式会社に就職。そこでオスカー・ワイルドの作品を読み、ワイルドの思想に触れた。 1913年頃から絵画の勉強をはじめ、数ヶ月だけ太平洋画研究所に通ったものの、ほぼ独学で絵画を習得する。1915年、会社を辞めた関根は長野県へ放浪し、洋画家の河野通勢と出会う。同年10月、「死を思ふ日」が第2回二科展に入選。
深沢 省三(ふかざわ しょうぞう、1899年(明治32年)3… 深沢 省三(ふかざわ しょうぞう、1899年(明治32年)3月24日 - 1992年(平成4年)3月24日)は、日本の洋画家、童画家。岩手県内の美術教育にも尽力した。
兼岩 伝一(かねいわ でんいち、1899年2月5日 - 19… 兼岩 伝一(かねいわ でんいち、1899年2月5日 - 1970年9月15日)は、日本の都市計画家、土木技術者、政治家。1935年に創刊された雑誌「区画整理」の表紙を飾った標語として知られる「土地区画整理は都市計画の母」の造語を生み出した。 1899年、愛知県丹羽郡布袋町(現・江南市)の中小製紙工場の家に生まれる。 岐阜市立岐阜商業、名古屋中学校、第八高等学校を経て、1925年東京帝国大学工学部土木工学科卒。内務省に入り復興局技師となる。その後、愛知県都市計画技師に転出。1936年、三重県に移り、都市計画課長となる。巨大コンビナートを生み出す四日市市などの都市計画を立案。 1942年には東京府道路課長に、1943年には埼玉県土木課長に就任する。
野坂 相如(のさか すけゆき、明治32年(1899年)1月1… 野坂 相如(のさか すけゆき、明治32年(1899年)1月19日 - 昭和53年(1978年))は、日本の土木技術者、都市計画家。内務官僚として都市計画事業に手腕を揮い、戦後には新潟県副知事を務めた。息子は直木賞作家の野坂昭如。孫は作家、エッセイストの野坂麻央、女優の愛耀子(共に元宝塚歌劇団娘役)、株式会社ジャパンダイニングリンク(英語表記:Japan Dining Link Co., ltd.)代表取締役の野坂龍。
井上 三綱(いのうえ さんこう、1899年1月15日 - 1… 井上 三綱(いのうえ さんこう、1899年1月15日 - 1981年5月19日)は、日本の画家。国画会会員。海外の展覧会にも多く作品を出品した。日本と西欧の要素が融合する神秘的な画風で知られる。 福岡県八女郡(現・筑後市)の宝満宮竈門神社の神官の家に生まれた。1916年(大正5年)、福岡県小倉師範学校に入学。在学中に画家を志し、卒業後、郷里で小学校の教諭をしながら制作を続ける。22歳の頃、恩師の勧めで上京。本郷絵画研究所に学んだのち、1923年(大正12年)から同郷の先輩の坂本繁二郎に師事した。 1926年(昭和元年)、酒匂尋常高等小学校(現・小田原市立酒匂小学校)に赴任。同年、第7回帝展(現・日本美術展覧会)に「牛」が初入選。
井出 岳水(いで がくすい、明治32年(1899年)- 昭和… 井出 岳水(いで がくすい、明治32年(1899年)- 昭和57年(1982年))は、大正時代から昭和時代にかけての版画家。 荒井寛方の門人。本名は井出泰三。岳水と号す。明治32年(1899年)、山梨県船津町(現・南都留郡富士河口湖町船津)に生まれた。日本大学芸術学部を卒業後、山内多門に師事、その後、荒井寛方に学んでいる。後に美術育英協会の理事を務めている。岳水は昭和4年(1929年)には中国へ引っ越して、上海で日本画塾を開き、第二次世界大戦後までそこで暮らしていた。17年間、同地に滞在した後、昭和21年(1946年)に日本に帰国した。昭和24年(1949年)、彼は渡辺版画店の渡辺庄三郎と協力して花鳥画を制作し始めた。
安倍 栄作(あべ えいさく、1899年 - 1983年6月2… 安倍 栄作(あべ えいさく、1899年 - 1983年6月27日)は、山形県出身の日本の洋画家。 東田川郡藤島村(現・鶴岡市)に生まれる。生家は高橋家で、鶴岡の安倍家の家督を継いだ。山形県立荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)に進学し、東京美術学校日本画科出身の美術教員・小貫博堂に指導を受けた。東京美術学校図画師範科に進学・卒業後、北海道庁立函館高等女学校(現・北海道函館西高等学校)教員となる。その後、郷里に近い山形県立鶴岡高等女学校(現・山形県立鶴岡北高等学校)の教員に転じた。 画家としては、太平洋美術会、槐樹社、地元鶴岡の美術団体である白甕社に所属。「バラの画家」の異名もあった。
蕗谷 虹児(ふきや こうじ、蕗谷 虹兒、1898年〈明治31… 蕗谷 虹児(ふきや こうじ、蕗谷 虹兒、1898年〈明治31年〉12月2日 - 1979年〈昭和54年〉5月6日)は、挿絵画家、詩人、アニメーション監督。 抒情画という言葉の考案者。童謡・抒情歌「花嫁人形」の作詞者。 1898年 (明治31年) 12月2日、新潟県北蒲原郡水原町 (現・阿賀野市) 生まれ。新潟県新発田町 (現・新発田市) 出身。本名は一男といった。 蕗谷の自伝小説「花嫁人形」「乙女妻」によれば、父親・傳松 (でんまつ) は新潟市 (現・新潟市中央区)、新潟島の信濃川河口付近にあった三傳小路に土蔵と屋敷を構えた北前船の廻船問屋「三傳 (さんでん)」当主の次男であったが、当主が廃業し、新発田町にて活版印刷所を開業。
木下 義謙(きのした よしのり、1898年10月19日 - … 木下 義謙(きのした よしのり、1898年10月19日 - 1996年7月16日)は、日本の洋画家。一水会創立会員、女子美術大学名誉教授。 東京市四谷区生まれ。同じく画家の木下孝則は実兄。父の友三郎は明治大学総長。母方の叔父の児島善久雄は西洋美術史家。 1915年、学習院中等科を卒業、同年東京高等工業学校(現東京工業大学)機械科に入学、1918年に卒業、1919年から同学校助教授となった。油彩画は独学ではじめたが、同学校を辞職した1921年の第8回二科展に「兄の肖像」が初入選した。その後は、二科展に出品をつづけ、1926年の第13回展では、「N氏の肖像」等7点を出品、二科賞を受賞した。 また、萬鉄五郎、小林徳三郎が中心となって結成された円鳥会に参加、1923年の第1回展から1925年の第4回展まで出品した。