9代 佐藤 伝兵衛(傳兵衞、さとう でんべえ、1854年1月… 9代 佐藤 伝兵衛(傳兵衞、さとう でんべえ、1854年1月13日(嘉永6年12月15日)- 1938年(昭和13年)8月11日)は、明治から昭和前期の大地主、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・菅野。 陸奥国安達郡、後の福島県安達郡小浜村(小浜町、岩代町を経て現二本松市小浜)で菅野善右衛門の三男として生まれ、安積郡郡山村(郡山町を経て現郡山市)の商家、大地主・佐藤喜一郎の養子となる。 1884年(明治17年)7月、郡山村会議員に就任し、その後、郡山町会議員、所得税調査委員、安積郡会議員、郡山本町郵便局長、営業税調査委員などを務めた。 1918年(大正7年)9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられ、研究会に所属して活動し1925年(大正14年)9月28日まで在任した。
岡 次郎太郎(おか じろうたろう、1854年(安政元年2月)… 岡 次郎太郎(おか じろうたろう、1854年(安政元年2月) - 1929年(昭和4年)9月5日)は、明治から大正時代の政治家、実業家、銀行家。鉱山経営者。衆議院議員(1期)。 岡権内の第二子として熊本城下内坪井町(現熊本市中央区内坪井町)に生まれる。藩校に入ったのち岡松甕谷の門に入る。第百五十一国立銀行の創立に尽くし、観光社などの重役を務め、鉱山業を営んだ。1884年(明治17年)大蔵省御用掛となり、翌年、秋田県収税長を任ぜられ1889年(明治22年)10月まで務めた。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では熊本県第4区から出馬し当選。大成会に所属し衆議院議員を1期務めた。
市橋 藤蔵(藤藏、いちはし とうぞう、1854年(安政元年6… 市橋 藤蔵(藤藏、いちはし とうぞう、1854年(安政元年6月)- 1923年(大正12年)7月25日)は、明治から大正期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、新潟県加茂郡梅津村長、同県佐渡郡加茂村長。 佐渡国加茂郡梅津村(新潟県加茂郡梅津村、佐渡郡梅津村、加茂村、両津市梅津を経て現佐渡市梅津)で生まれた。圓山溟北に学んだ。農業を営む。佐渡三郡勧業殖産下掛を務めた。 1872年(明治5年)加茂歌代郷校読方補助に就任。以後、梅津戸長、地租改正下調役、第二十六区副大区長兼小六区長、佐渡三郡町村連合会議員、同議長、所得税調査委員、徴兵参事員などを務めた。1889年(明治22年)梅津村長に就任。1900年(明治33年)新潟県会議員に選出され、海底電線の敷設、中等学校の拡充などに尽力した。
手塚 猛昌(てづか たけまさ、1853年12月22日(嘉永6… 手塚 猛昌(てづか たけまさ、1853年12月22日(嘉永6年11月22日) - 1932年(昭和7年)3月1日)は、「時刻表の父」として知られる、明治期の実業家。日本最初の月刊時刻表とされる「汽車汽船旅行案内」の発行者。 現在の山口県萩市須佐出身。元の名は岡部緒三郎。 長州藩士の家柄だが家貧で四書五経を独学で修めた。長州藩永代家老の益田家が設けた郷校・育英館で学び、33歳の時に上京し慶應義塾(現・慶應義塾大学)に進んだ。 その後、庚寅新誌社を創立し政治経済雑誌を発行する一方『庚寅新誌』を発行し、政治活動を始める。1894年(明治27年)に恩師福沢諭吉の勧めで、英国の時刻表を手本に「汽車汽船旅行案内」を発行。
野田 卯太郎(のだ うたろう、嘉永6年旧暦11月21日(18… 野田 卯太郎(のだ うたろう、嘉永6年旧暦11月21日(1853年12月21日) - 昭和2年(1927年)2月23日)は日本の政治家、実業家。号は大塊。衆議院議員、逓信大臣、商工大臣などを務めた。福岡県平民。一平民から大臣にまで昇った立身出世を体現するような人物である。
上村 精之助(かみむら せいのすけ、1853年12月1日(嘉… 上村 精之助(かみむら せいのすけ、1853年12月1日(嘉永6年11月1日)- 1929年(昭和4年)2月1日)は、明治から大正期の農業経営者・政治家。衆議院議員、鹿児島県肝属郡花岡村長。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下(現鹿児島県鹿児島市)で生まれた。漢学を修めた。海軍兵学校、大阪英語学校で学んだ。 1881年(明治14年)犬童英輔らと博愛社を結成し、県下各地で演説会を催した。三州社が結成され博愛社はこれに合同した。九州改進党に加わらなかったが、鹿児島同志会が結成されると加入して委員となる。 その後、肝属郡花岡村(現鹿屋市花岡)に移り農業を営み、1887年(明治20年)8月、鹿児島県会議員に選出された。
12代 絲原 武太郎(いとはら ぶたろう、1853年11月1… 12代 絲原 武太郎(いとはら ぶたろう、1853年11月10日(嘉永6年10月10日)- 1911年(明治44年)3月10日)は日本の地主、実業家、政治家。鉄師絲原家12代、貴族院多額納税者議員。 出雲国仁多郡八川村大字大谷(現島根県仁多郡奥出雲町)で、鉄師糸原家11代・絲原権造の長男として生まれる。1895年(明治28年)父の死去に伴い家督を継承。1882年(明治15年)以降、島根県仁多郡横田村外三村戸長、仁多郡会議員、所得税調査委員、島根県農会評議員、八雲銀行頭取、松江銀行取締役などを務めた。1906年(明治39年)6月27日、島根県多額納税者として補欠選挙で互選されて貴族院多額納税者議員に任じられ、急性脳膜炎により死去するまで在任した。
八坂 甚八(やさか じんぱち、1853年11月10日(嘉永6… 八坂 甚八(やさか じんぱち、1853年11月10日(嘉永6年10月10日)- 1929年(昭和4年)3月29日)は、明治から昭和初期の大地主、篤農家、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、衆議院議員、佐賀県養父郡轟木村長。 肥前国養父郡、のちの佐賀県養父郡轟村(三養基郡轟木村、鳥栖町を経て現鳥栖市)で、素封家・八坂甚兵衛の長男として生まれる。漢学を修める。1868年(明治元年3月)家督を相続した。 養父郡真木村戸長、郡組合会議員、轟木村会議員、同村長、佐賀県会議員、同参事会員、鳥栖町会議員、三養基郡会議員、所得税調査委員などを務めた。 1897年(明治30年)佐賀県多額納税者として貴族院多額納税者議員に互選され、同年9月29日に就任し、1904年(明治37年)9月28日の任期満了まで1期在任した。
笹野 甚四郎(ささの じんしろう、1853年11月3日〈嘉永… 笹野 甚四郎(ささの じんしろう、1853年11月3日〈嘉永6年10月3日〉 - 1928年〈昭和3年〉12月6日)は、日本の資産家、実業家。藤相鉄道社長。共盛銀行頭取。族籍は静岡県平民。 静岡県志太郡藤枝町出身。藤枝宿下伝馬の郷宿「ならや」を営む八百次の長男。幼名は十三吉。恵まれた環境であったが5歳の時に実父を、12歳の時に祖父を、14歳の時に継父を亡くし笹野家は苦境に立たされる。 1868年、家督を相続。祖父の甚四郎の名を襲名し「ならや」の看板を捨て、料理屋を起こす。1869年、隣家からの火事で全焼し、それを機に駿河半紙を扱う紙屋に転身、同業者が増えると次に運送業を始める。 1891年、東京へ出る。
宮井 茂九郎(みやい もくろう、1853年10月9日(嘉永6… 宮井 茂九郎(みやい もくろう、1853年10月9日(嘉永6年9月7日)- 1906年(明治39年)11月17日)は、明治期の地主、農業経営家、実業家、政治家。衆議院議員、初代香川県鵜足郡坂本村長。 讃岐国鵜足郡川原村(香川県鵜足郡坂本村、綾歌郡坂本村、飯山町を経て現:丸亀市飯山町川原)で生まれる。漢学、数学を修めた。明治2年5月(1869年6-7月)鵜足郡川原真時両村庄屋役に、明治4年10月(1871年11-12月)鵜足郡大庄屋役に任じられた。 実業界では、寒川郡志度村製糖会社取締役、高松砂糖会社取締役、宇足津塩田会社取締役、讃岐紡績会社取締役、讃岐鉄道会社監査役、香川県農工銀行取締役などを務めた。
有田 源一郎(ありた げんいちろう、1853年10月7日(嘉… 有田 源一郎(ありた げんいちろう、1853年10月7日(嘉永6年9月5日)- 1914年(大正3年)12月15日)は、幕末の佐賀藩武雄領主・武雄鍋島家家臣、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。 肥前国杵島郡、後の朝日村(現佐賀県武雄市朝日町)で武雄鍋島家家臣・有田(河原)竜左エ門の子息として生まれる。立野元定、草場佩川に師事し漢学を修める。 明治維新を迎え、小学校教員となるが、1886年、同志四名が各々米二百俵を出資して貸金業・甘久共同会社を設立し、同社は後に佐賀銀行の前身の一つ佐賀興業銀行に発展した。 1886年、佐賀県会議員に選出され、県議を五期、また参事会員も務めた。1908年5月、第10回衆議院議員総選挙おいて佐賀県郡部から出馬して当選し、立憲政友会に所属して衆議院議員を一期務めた。
池田 孫一(いけだ まごいち、嘉永6年8月12日(1853年… 池田 孫一(いけだ まごいち、嘉永6年8月12日(1853年9月14日)- 大正11年(1922年)3月4日)は、日本の実業家。 出羽国仙北郡(仙北町を経て現在は大仙市)出身。1877年に仙北郡役所の吏員に採用されるが辞職し、1882年に秋田市に出て秋田織絹社に入社した。1886年に鉱山事業を始め雄勝郡の田子内鉱山を採掘した。1897年に東北鉱業会を組織した。 大館市の花岡鉱山の開発にも尽力した。黒川油田地帯の調査、天然アスファルトの活用研究なども行った。石州流の茶人としても知られた。 1922年に小坂町で死去した。
本山 彦一(もとやま ひこいち、嘉永6年8月10日(1853… 本山 彦一(もとやま ひこいち、嘉永6年8月10日(1853年9月12日) - 昭和7年(1932年)12月30日)は、日本の実業家、政治家。大阪毎日新聞社長、貴族院勅選議員。号は松蔭。 旧暦嘉永6年8月(1853年9月)、肥後国熊本城下(現・熊本市中央区)に熊本藩士本山四郎作の長男として生まれる。元治元年(1864年)、数え12歳で家督を相続。藩校時習館で漢籍を修めたのち、明治4年(1871年)に上京して箕作秋坪に学んだ。 新暦1874年(明治7年)に租税寮に出仕。1876年(明治9年)、慶應義塾予科に入塾し、在学中は尾崎行雄らと「協議社」を組織して演説会や新聞投稿を始める。 1878年(明治11年)より兵庫県属となり、神戸師範学校長等を歴任。
小坂 善之助(こさか ぜんのすけ、嘉永6年7月15日〈185… 小坂 善之助(こさか ぜんのすけ、嘉永6年7月15日〈1853年8月19日〉 - 大正2年〈1913年〉12月21日)は、日本の政治家、実業家。長野県会議員、衆議院議員を務めた。 明治23年(1890年)の帝国議会開設以来、4回衆議院議員に当選、中央政界に活躍するかたわら、信濃銀行(現みずほ銀行)を興し、山国長野県の豊富な水資源に着眼して長野電灯を創業、県下で最初の水力発電所をつくった。また信濃毎日新聞の基礎を固めた。 信濃国水内郡里村山村(1881年村山村に改称、現長野市)出身。父は3代目善之助(隠居名善三)。善之助の家は3代前に分家したもので、本家は代々名主を務めた豪家だった。 善之助は、少年時代から村の大将格で、村芝居ではつねに主役をつとめた。
草刈 武八郎(くさかり たけはちろう、1853年8月12日(… 草刈 武八郎(くさかり たけはちろう、1853年8月12日(嘉永6年7月8日)- 1942年(昭和17年)11月1日)は、明治から大正期の地主・実業家・政治家。衆議院議員。旧姓・川合。 肥前国松浦郡、のちの長崎県北松浦郡山口村(相浦町を経て現佐世保市)で川合小一右衛門の二男として生まれる。平戸藩校・維新館で学び、1869年(明治2年)から平戸藩砲兵塾で学んだ。1871年(明治4年6月)農業、回漕業・草刈太一左衛門の養子となり、1876年(明治9年)6月、家督を相続した。 実業界では、九十九銀行取締役、平戸貯蓄銀行取締役、長崎県農工銀行取締役、相浦銀行監査役などを務めた。 政界では、1879年(明治12年)山口村会議員に就任。
8代 木佐 徳三郎(きさ とくさぶろう、旧姓・勝部、雅号・平… 8代 木佐 徳三郎(きさ とくさぶろう、旧姓・勝部、雅号・平疇、1853年7月11日(嘉永6年6月6日)- 1941年(昭和16年)10月23日)は、日本の地主、実業家、政治家。衆議院議員。木佐家8代当主。平田銀行頭取。族籍は島根県平民。 出雲国出雲郡坂田村(島根県簸川郡斐川町を経て現出雲市)で、地主、7代・勝部本右衛門栄忠の六男として生まれ、楯縫郡平田村(現出雲市)の7代・木佐徳三郎の養子となり、後に家督を継承し徳三郎を襲名した。幕末には最後の楯縫郡下郡役(したごおりやく)を務めた。 明治維新後、楯縫郡仮郷校取締、島根県第五十三・五十四両区戸長、兼学区取締心得、平田町会議員などを務め、1892年2月の第2回衆議院議員総選挙で島根県第三区から出馬して当選し、弥生倶楽部に所属して衆議院議員を一期務めた。
飯村 丈三郎(いいむら じょうざぶろう、1853年6月30日… 飯村 丈三郎(いいむら じょうざぶろう、1853年6月30日(嘉永6年5月24日) - 1927年(昭和2年)8月13日)は、日本の政治家、実業家、教育者。幼名は縫三郎 1853年(嘉永6年)5月24日[要出典]、東海道常陸国の真壁郡上妻村黒駒(旧下妻藩内、現在の茨城県下妻市黒駒)の豪農の子供として誕生した。飯村家はこの地方の豪農として知られ、名主を努めていた。 幼い頃は病弱だったが、1864年(元治元年)に[要出典]天台宗東叡山千妙寺の亮天僧正に預けられる。亮天から「衆生の恩」という教えを受け、一時は僧侶を志すが、両親に連れ戻される。 1865年(慶応元年)大病を患い回復。幼名「縫三郎」を「丈三郎」に改名する。
関野 善次郎(せきの ぜんじろう、1853年6月20日(嘉永… 関野 善次郎(せきの ぜんじろう、1853年6月20日(嘉永6年5月14日)- 1935年(昭和10年)11月15日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、富山市長。旧姓は神野、幼名は太三郎、旧名は彦兵衛。族籍は富山県平民。 能登国鹿島郡八幡村(現石川県七尾市八幡町)で、豪農・神野太平次の六男として生まれる。元治元年(1864年)富山東堤町(現富山市)の呉服商・関野善右衛門の養子となり彦兵衛と改名。その後、家督を相続して善次郎と改名し、富山藩より長町人(おとなちょうにん)に任じられ、さらに呉服物御用方、藩金融通所手添役を務めた。 明治維新後は、戸長、富山連合町会議員、同議長を務め、1882年、越中改進党の結成に参画し、1884年、山野清平と『中越新聞』を発刊するなど、富山県の改進党系の指導者として活動した。
恒松 隆慶(つねまつ りゅうけい / たかよし、1853年6… 恒松 隆慶(つねまつ りゅうけい / たかよし、1853年6月17日(嘉永6年5月11日)- 1920年(大正9年)6月29日)は、日本の地主、政治家、実業家。衆議院議員。旧姓・楫野、幼名・鉄三郎。 石見国邇摩郡静間村(現島根県大田市)で、地主・楫野淳吉郎の三男として生まれ、慶応3年4月11日(1967年5月14日)に母の実家である安濃郡長久村の恒松家当主・六右衛門の養嗣子となる。泉全斎、恒松圭山(愛軒)から漢学を学んだ。 17歳で野井村年寄役に就任。1872年(明治5年)鳥井村外八ケ村戸長に就任し、以後、地租改正収穫検査顧問惣代、山野改租顧問人、邇摩郡・安濃郡書記などを務めた。1881年(明治14年)島根県会議員となる。
小川 蔵次郎(藏次郎、おがわ くらじろう、1853年6月17… 小川 蔵次郎(藏次郎、おがわ くらじろう、1853年6月17日(慶應元年8月5日)- 1936年(昭和11年)11月25日)は、明治後期から昭和初期の漁業指導者、実業家、政治家。衆議院議員、島根県島根郡野波村長。 出雲国島根郡、のちの島根県島根郡野波村(八束郡野波村、島根村、島根町を経て現松江市島根町野波)で、小川仙四郎の二男として生まれる。漢学を修めた。1896年(明治29年)7月、家督を相続した。 1889年(明治22年)野波村長に就任。また八束郡会議員、同議長を務めた。1906年(明治39年)島根県会議員に選出され2期在任し、参事会員も務めて1912年(明治45年)に退任した。 1912年5月、第11回衆議院議員総選挙(島根県郡部、立憲政友会)で初当選し、1917年(大正6年)4月の第13回総選挙(島根県郡部、立憲政友会)でも再選され、衆議院議員に通算2期在任した。
南条 吉左衛門(なんじょう きちざえもん、嘉永6年5月9日(… 南条 吉左衛門(なんじょう きちざえもん、嘉永6年5月9日(1853年6月15日) - 昭和11年(1936年)5月6日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 信濃国小県郡別所村(現長野県上田市)生まれ。幼名は豊太郎。横浜開港に伴う養蚕業の隆盛により、蚕種の国内需要が増大したのを受けて蚕種製造業を始める。明治31年(1898年)から小県蚕種同業組合長を務めた。 明治12年(1879年)村戸長となり、自由民権運動に共鳴して嚶鳴社に参加し、同14年(1881年)大隈重信の知遇を得て、千曲川沿いの一帯に立憲改進党の支部を組織した。[翌年(1882年)長野県会議員となり、同22年(1889年)上田に改進党系の結社「已丑倶楽部」を結成して会長となった。
荒谷 桂吉(あらや けいきち、1853年6月12日(嘉永6年… 荒谷 桂吉(あらや けいきち、1853年6月12日(嘉永6年5月6日)- 1934年(昭和9年)2月14日)は、幕末から明治期の実業家、政治家。衆議院議員、秋田県会議長、秋田県北秋田郡大葛村長。諱・富延、号・葛渓、檗堂。大葛鉱山支配人・荒谷家13代当主。 出羽国秋田郡大葛村(秋田県北秋田郡大葛村、比内町大葛を経て現大館市比内町大葛)で、大葛鉱山支配人の荒谷家12代当主・荒谷忠一郎の二男として生まれた。10歳で父を失い家督を相続して大葛鉱山支配人を継承したが、1870年(明治3年)大葛鉱山は久保田藩有となった。 その後、大館の儒者・中田錦江に師事し漢学を修めた。さらに上京して1875年(明治8年)慶應義塾を卒業した。
鳥取 治郎八(とっとり じろはち、1853年5月15日〈嘉永… 鳥取 治郎八(とっとり じろはち、1853年5月15日〈嘉永6年4月8日〉 - 1936年〈昭和11年〉3月22日)は、日本の実業家、資産家、篤農家、大地主、香川県多額納税者。合資会社信正社有限責任社員。讃岐農工銀行監査役。族籍は香川県平民。憲仁親王妃久子は曽孫。承子女王、千家典子、守谷絢子は玄孫。 讃岐国三野郡笠岡村(現・香川県三豊市)出身。鳥取為三郎の長男。1886年、家督を相続した。農業を営んだ。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。金持ちであるが驕らず勤倹力行を旨とし家業の発展を図った。公共慈善の事に接すると私財を投じて惜しむ所はなかった。住所は香川県三豊郡笠田村。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
永江 純一(ながえ じゅんいち、1853年3月18日(嘉永6… 永江 純一(ながえ じゅんいち、1853年3月18日(嘉永6年2月9日)- 1917年(大正6年)12月9日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 筑後国三池郡江浦村(現:福岡県みやま市)で、永江藤次郎の長男として生まれる。中野南強から漢学を学び、西田幹治郎の私塾を経て、平戸に遊学。明治維新後、長崎で英学を東京で法律を学んだ。弟の死去に伴い帰郷した。野田卯太郎らの同志と自由民権運動に尽力。また、同志と筑後白日会を結成し国権主義を主張した。 1878年、永治村戸長に就任。その後、江浦村戸長を兼務し、三池郡町村連合会議員、福岡県会議員を歴任。1892年2月の第2回衆議院議員総選挙の選挙運動中に政敵の迫害を受け、大牟田川畔で襲撃を受けて足を負傷し歩行が困難となった。
宮内 翁助(みやうち おうすけ、1853年3月13日(嘉永6… 宮内 翁助(みやうち おうすけ、1853年3月13日(嘉永6年2月4日)- 1912年(大正元年)12月6日)は、日本の農業経営者、教育者、政治家。衆議院議員。 武蔵国埼玉郡江面村(のちの埼玉県南埼玉郡江面村、現:久喜市)で、宮内烈之助、きよ夫妻の長男として生まれる。茅野金陵、中島撫山から漢学を学び、1885年、神田秀親から田宮流剣道の免許皆伝を受けた。農業を営む。 戸長、副区長、学務委員、埼玉県会議員、同参事会員、所得税調査委員などを務めた。1893年、中島端蔵(中島撫山の二男)とともに私費で私立専門学校・明倫館を開設し、のちに館長となり中等教育に尽力した。 1902年8月、第7回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から出馬して当選。
坂本 元明(さかもと げんめい、1853年3月5日(嘉永6年… 坂本 元明(さかもと げんめい、1853年3月5日(嘉永6年1月26日)- 1919年(大正8年)7月6日)は、明治から大正初期の農業経営者、政治家、衆議院議員(1期)。 大隅国大島郡、現在の鹿児島県大島郡和泊町で生まれた。1877年(明治10年)鹿児島師範学校卒。小学校訓導、和泊村会議員、同糖業議員、戸長、郵便局長心得となる。 1908年(明治41年)の第10回衆議院議員総選挙において大島選挙区から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1912年(明治45年)の第11回総選挙には出馬しなかった。その後、農業に専念し、1919年に死去した。
島田 糺(しまだ ただす、1853年2月22日(嘉永6年1月… 島田 糺(しまだ ただす、1853年2月22日(嘉永6年1月15日)- 1914年(大正3年)5月2日)は、幕末の土佐藩士、明治期の政治家・自由民権運動家・実業家。衆議院議員、高知県会議長。 土佐国吾川郡秋山村(高知県吾川郡秋山村、平和村、春野村、春野町を経て現高知市春野町秋山)で、土佐藩士・島田佐一、亀の長男として生まれる。藩校致道館で学んだ。 1868年(明治元年)致道館砲術取立役に就任し、次いで藩兵小隊司令となる。1875年(明治8年)区会議員となり、同議長、区長兼学区取締を歴任。1880年(明治13年)高知県会議員に選出され、同常置委員、同副議長、同議長を務めた。1887年(明治20年)三大事件建白運動で上京して保安条例違反として退去命令を受けた。
山口 半七(やまぐち はんしち、1853年2月14日(嘉永6… 山口 半七(やまぐち はんしち、1853年2月14日(嘉永6年1月7日)- 1932年(昭和7年)6月9日)は、明治期の実業家、政治家。初名は克己。 豊前国下毛郡中津(現大分県中津市)で、中津藩士・山口広江、デンの長男として生まれた。中津藩儒に学び、1869年(明治2年)慶應義塾に入る。 1873年(明治6年)朝吹英二らと慶應義塾出版局を設立。1874年(明治7年)出版局支店を山口県豊浦郡赤間関(現下関市)に設け、その他呉服店を経営した。1877年(明治10年)西南戦争勃発により戦火に巻き込まれることを恐れで帰郷した。同年、田舎新聞、鶴屋商会の経営に参画。1882年(明治15年)豊州立憲改進党の創立発起人となり、大分県会議員、同常置委員、県会議長を務めた。
田中 源太郎(たなか げんたろう、嘉永6年1月3日(1853… 田中 源太郎(たなか げんたろう、嘉永6年1月3日(1853年2月10日) - 大正11年(1922年)4月3日)は、京都府旧桑田郡亀山北町生まれの政治家、実業家。1869年亀岡陸運を創業、のちに京都株式取引所、京都商工銀行、亀岡銀行の各頭取などを務めた。衆議院議員当選3回(1、2、3回総選挙)、貴族院多額納税者議員。 丹波国桑田郡亀山北町(現在の京都府亀岡市)に、田中蔵一の次男として生まれたが、兄が早くに亡くなったため田中家の家督を継ぐべく英才教育を受けて育った。北村龍象の私塾学半堂や横井忠直、山本覚馬らにも師事し、儒学、政治経済など幅広い分野を成績優秀で修めたとされる。田中家は代々亀山藩の御用商人として取り立てられた商家として栄え、父・蔵一は櫓奉行格に取り立てられ、会計方として亀山藩に仕えていた人物であったため、源太郎も経済界で活躍することを期待されて育った。
鈴木 文三郎(すずき ぶんざぶろう、1853年1月30日(嘉… 鈴木 文三郎(すずき ぶんざぶろう、1853年1月30日(嘉永5年12月21日)- 1926年(大正15年)11月9日)は、明治から大正期の公吏、実業家、政治家。衆議院議員、岩手県東磐井郡生母村長。 陸奥国磐井郡赤生津村(岩手県岩井郡赤生津村、東磐井郡生母村大字赤生津、前沢町を経て現奥州市前沢生母)で肝入・鈴木兵之助の長男として生まれた。漢学を修めた。1886年(明治19年)3月、家督を相続した。 1873年(明治6年)水沢県地租改正掛勤務となる。1876年(明治9年)2月、磐井県15等出仕となり同年4月まで在任。同年8月、岩手県等外1等出仕となり、同県17等出仕、同10等警部を経て、1879年(明治12年)7月、新潟県9等属に転じ、1880年(明治13年)9月に退官した。
神崎 修三(こうざき しゅうぞう、1853年1月25日(嘉永… 神崎 修三(こうざき しゅうぞう、1853年1月25日(嘉永5年12月16日)– 1917年(大正6年)5月4日)は、明治・大正期の地主、政治家、実業家。衆議院議員。旧姓・堀内。 紀伊国名草郡神前村(和歌山県名草郡岡崎村、海草郡岡崎村を経て現和歌山市)で堀内伊兵衛の長男として生まれ、豪農・神前吉次郎の養子となる。漢学を修めた。 1888年(明治21年)1月、補欠選挙で和歌山県会議員に当選。1889年(明治22年)、1894年(明治27年)、1898年(明治31年)に再選され、1899年(明治32年)9月に退任。1901年(明治34年)5月に補欠選挙で当選し、1902年(明治35年)8月に衆議院議員に当選のため辞職した。
石田 平吉(いしだ へいきち、1853年1月24日(嘉永5年… 石田 平吉(いしだ へいきち、1853年1月24日(嘉永5年12月15日)- 1929年(昭和4年)11月18日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・元満。 筑前国福岡城下(現福岡市)で、福岡藩陪臣・元満元二の長男として生まれる。漢学を修めた。 維新後に商売を営むが成功せず、1874年(明治7年)博多に移転し回漕業を営む。郵便汽船三菱会社の岩崎弥太郎と面談して同社保有船の博多寄港の約束を取り付けた。1877年(明治10年)10月、先代石田平吉の養子となり家督を相続し旅人宿業を営む。西南戦争では陸軍物資の輸送に従事。1889年(明治22年)九州鉄道の敷設に際して建築資材の運搬を担った。
斎藤 卯八(齋藤、さいとう うはち、1853年1月17日(嘉… 斎藤 卯八(齋藤、さいとう うはち、1853年1月17日(嘉永5年12月8日)- 1912年(明治45年)2月9日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 甲斐国巨摩郡上今諏訪村(山梨県中巨摩郡今諏訪村、白根町を経て現南アルプス市上今諏訪)で、名主の家に生まれる。巨摩郡西野村の宮浦東谷から普通学を学び、徽典館で漢学を修め、さらに甲府育英舎で学んだ。農業を営む。 1873年(明治6年)10月、上今諏訪村副戸長に就任。以後、同戸長、巨摩郡第13区戸長、今諏訪村会議員、中巨摩郡豊村外三ケ村連合村会議員、同郡御影村外三十八ケ村組合村会議員、同郡在家塚村外二ケ村連合村会議員などを務めた。1890年(明治23年)末、立憲自由党に入党した。
牧口 義方(まきぐち よしかた、1853年1月13日(嘉永5… 牧口 義方(まきぐち よしかた、1853年1月13日(嘉永5年12月4日)- 1899年(明治32年)12月20日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・正太郎。 越後国刈羽郡荒浜村(新潟県刈羽郡荒浜村を経て現柏崎市荒浜)で、代々村の組頭役を務め、回船業を営む牧口家4代当主・庄三郎の息子として生まれた。同郡比角村の星野鏡里に師事し漢学を修め、さらに同郡南条村の藍沢朴斎につき、柏崎県立学校で学んだ。 海運業を営み、柏崎銀行頭取、直江津取引所理事長、新潟商業銀行取締役、新潟銀行監査役などを務めた。 1881年(明治14年)12月、新潟県第18中学区第18小学区学務委員に就任。以後、荒浜村戸長、所得税調査委員などを務めた。
植田 治作(うえだ じさく、1853年(嘉永6年) - 19… 植田 治作(うえだ じさく、1853年(嘉永6年) - 1925年(大正14年))は、日本の篤農家、政治家(山口県豊浦郡会議員、同郡彦島村会議員)、実業家。 長門国彦島西山(現・山口県下関市)出身。植田甚之丞の嫡子。1889年、町村制が実施されると推されて村会議員となり30余年間その公職にあって村政に参与し、その間には郡会議員となり信用組合・漁業組合の理事及び各種の名誉職に挙げられた。 1915年11月、彦島村長より、1919年10月、山口県知事より村治功労者として同年10月には彦島町長より1922年4月、豊浦郡長より自治功労者として表彰され、里人の手によって頌徳碑が建設された。 貧困な家を復興すると同時に全身熱血を注いで部落の青年を薫陶し、常に誠意をもって不言実行した。
江南 哲夫(えなみ てつお、嘉永6年〈1853年〉 - 19… 江南 哲夫(えなみ てつお、嘉永6年〈1853年〉 - 1916年〈大正5年〉11月21日)は、会津藩士、白虎隊士、実業家、書家。旧姓林、諱は哲夫、号は蝦農。勲六等瑞宝章。 文久元年(1861年)に会津藩の南学館友善社に入り漢学を修めると、大学試験に及第し藩校日新館に入る。会津戦争では、数え15歳で白虎隊士(寄合組一番隊)として越後口の防衛戦に出動、戦後は越後高田に謹慎となる。その間、南摩羽峯に学び、明治3年(1870年)に赦されて上京、増上寺徳水院の藩塾に入る。のち淀藩主稲葉正邦公の給費生として同藩校に入り、転じて同年大阪開成所に入り英学を修める。次いで、鹿児島兵学校、東奥義塾、共慣義塾等を転々とした。
佐藤 百太郎(さとう ももたろう、1853年(嘉永6年) -… 佐藤 百太郎(さとう ももたろう、1853年(嘉永6年) - 1910年(明治43年)12月24日)は、日本の実業家(貿易商)。日本における百貨店の創始者であり、日本領事をも務めた。明治4年(1871年)岩倉使節団一行の通訳としても活躍した。藍綬褒章受章。義兄に日米貿易の先駆者である8代目・大野伝兵衛(大野秀頴 1829年 - 1876年 7月29日)。 1853年(嘉永6年)、下総国佐倉(現在の千葉県佐倉市の本町)に順天堂2代目佐藤尚中の長男として生まれる。成徳館(現在の千葉県立佐倉高等学校の前身)を経て、元治元年には横浜のヘボン塾(現在の明治学院高校の前身)で米国長老派教会系医療伝道の宣教師、ヘボン夫人から英語を学ぶ。
阿部 周吉(あべ しゅうきち、1853年 - 1927年)は… 阿部 周吉(あべ しゅうきち、1853年 - 1927年)は幕末から明治・大正期の滋賀県の実業家。 1853年(嘉永5年)、近江国甲賀郡水口宿本陣の鵜飼家に生まれる。幼時巖谷一六・小波等の知遇を得、白峰と号して書・詩を嗜む。近江国能登川の近江商人の老舗阿部市郎兵衛家分家阿部利兵衛家の養子となり第2代利兵衛娘なをと結婚し家督を継ぐ。その後金巾製織(現在の東洋紡の前身のひとつ)、近江銀行、関西鉄道などを発起人のひとりとして創業。金巾製織専務、大和紡績(やまとぼうせき、現在のユニチカの前身のひとつ)社長、能登川村長などを歴任。1927年(昭和2年)2月18日74歳で死去。 長女はつは膳所藩筆頭家老戸田資慶長男元寿と結婚。
中村 克昌(なかむら かつまさ / こくしょう、1853年(… 中村 克昌(なかむら かつまさ / こくしょう、1853年(嘉永6年4月)- 1930年(昭和5年)5月31日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。 武蔵国多摩郡上石原宿(布田五宿)(神奈川県北多摩郡調布町、東京府北多摩郡調布町、東京都北多摩郡調布町を経て現調布市上石原)で、上石原宿名主・中村勘六の長男として生まれた。呉服雑貨商を営む。 1872年(明治5年)初代戸長に就任。1873年(明治6年)新治県に出仕し庶務課の業務に従事。1879年(明治12年)民権政社「融貫社」が設立されると加入して自由民権運動に加わる。1881年(明治14年)10月、自由党の創立に三多摩壮士の一人として参画した。
田江 弥三郎(彌三郎、たごう やさぶろう、1853年(嘉永6… 田江 弥三郎(彌三郎、たごう やさぶろう、1853年(嘉永6年4月)- 1895年(明治28年)5月8日)は、明治期の農業経営者・教育者・政治家。衆議院議員。 伯耆国久米郡弓原村(鳥取県久米郡下北条村、東伯郡下北条村弓原、北条町を経て現北栄町弓原)で、代々大庄屋を務めた田江家に生まれた。大庄屋を務め農業を営む。自邸内に家塾・択善学舎を設け子弟の教育を行った。 1873年(明治6年)10月、第64区戸長となり、同年12月、第16区第7小区長に就任。広正社を創立して社長となり地域の金融の便を図った。また、田江製糸の設立、ブドウ園の経営など、地域産業の振興に尽力した。 1884年(明治17年)3月、補欠選挙で鳥取県会議員に当選し、同年7月まで在任した。
柏原 左源太(かしわら / かしわばら さげんた、1852年… 柏原 左源太(かしわら / かしわばら さげんた、1852年11月17日(嘉永5年10月6日) - 1920年(大正9年)12月1日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 陸奥国磐城郡赤井村(現福島県いわき市平赤井)の旧家に生まれた。磐城平藩儒・大須賀筠軒に学び漢学を修めた。 自由民権運動に参加し興風社に加盟。赤井村長、福島県会議員を歴任。三島通庸県令への反対運動に加わるが福島事件での逮捕は避けられた。 その後、立憲政友会に加わり福島支部の発起人となる。1908年5月の第10回衆議院議員総選挙に福島県郡部区から出馬し当選。衆議院議員を一期務めた。その他、三星炭鉱 (株) 取締役、平銀行 (株) 取締役、赤井軌道 (株) 常務取締役などを務めた。
佐々木 鉄太郎(鐵太郎、ささき てつたろう、1852年11月… 佐々木 鉄太郎(鐵太郎、ささき てつたろう、1852年11月17日(万延元年8月26日) - 1919年(大正8年)11月15日)は、明治期の地主、実業家、政治家。衆議院議員。 陸奥国田村郡徳定村(福島県田村郡守山村、守山町、田村町を経て現郡山市田村町)で、地主、醤油類醸造家・佐々木一二の長男として生まれた。1890年(明治23年)3月、家督を相続した。 家業の醸造業、製糸業を営み、郡山真製合資会社取締役、須賀川銀行監査役、三星炭鉱監査役、勿来炭鉱取締役、本宮製糸合資会社代表社員、製糸販売組合東北社理事長などを務めた。 1882年(明治15年)田村郡徳定正直組合戸長に就任し、守山町会議員、田村郡会議員、福島県会議員、同参事会員、地方森林会議員などを務めた。
大久保 不二(おおくぼ ふじ、1852年11月14日(嘉永5… 大久保 不二(おおくぼ ふじ、1852年11月14日(嘉永5年10月3日)- 1924年(大正13年)10月9日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。号・瑟菅村。 常陸国筑波郡高道祖村(新治県筑波郡高道祖村、茨城県筑波郡高道祖村を経て現下妻市高道祖)で生まれた。鈴木竹湾に師事し漢学を修めた。のち上京して益盛舎を設立して、史学、地理検田、測地、製図の学科を設け教育に当たった。 戸長、区長、郡書記を歴任。1878年(明治11年)下妻に政治結社・絹水社(のち同舟社に改称)を設けて自由民権運動を推進した。1882年(明治15年)茨城県会議員に選出され1890年(明治23年)まで在任。1898年(明治31年)県会議員に再選され1903年(明治36年)まで務めた。
横山 勇喜(よこやま ゆうき、1852年11月13日(嘉永5… 横山 勇喜(よこやま ゆうき、1852年11月13日(嘉永5年10月2日)- 1897年(明治30年)11月7日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員、秋田県会議長。 出羽国秋田郡東大館町長倉(秋田県北秋田郡大館町を経て現大館市長倉)で、久保田藩士・横山運之助の長男として生まれた。藩校・明徳館で学んだ。 1874年(明治7年)10月、父の死去に伴い家督を相続。農業を営む。 1879年(明治12年)3月、秋田県会議員に選出された。通算6期在任し、1891年(明治24年)4月から4か月間、同議長を務めた。 1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(秋田県第2区、立憲革新党)で当選したが、同年9月の第4回総選挙で落選し、衆議院議員に1期在任した。
2代 辻 兵吉(にだい つじ ひょうきち、旧姓・山内、185… 2代 辻 兵吉(にだい つじ ひょうきち、旧姓・山内、1852年10月22日(嘉永5年9月10日) - 1926年(大正15年)4月26日)は、日本の実業家、秋田県多額納税者。秋田銀行、秋田貯蓄銀行各頭取。秋田農工銀行取締役。族籍は秋田県平民。 出羽国雄勝郡(現・秋田県湯沢市)出身。山内三郎兵衛の五男。本間金之助の弟。辻兵吉の養子となった。1880年、家督を相続し、先代の名を襲名した。商業を営んだ。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。1925年6月1日現在の直接国税総額金は「14648円65銭」である。住所は秋田市大町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
田 艇吉(でん ていきち、1852年10月18日〈嘉永5年9… 田 艇吉(でん ていきち、1852年10月18日〈嘉永5年9月6日〉- 1938年〈昭和13年〉11月17日)は、日本の政治家、実業家。号は楓軒、松鶴。 丹波国氷上郡柏原藩領の下小倉村(現在の兵庫県丹波市柏原町下小倉)にて、農家の田文平の長男として生まれる。8歳より村医だった長沢順方に師事して読み書きを学ぶ。12歳の時に小島省斎に入門。父親の病のため、13歳でその代理を務める。学問を修めた後、1870年(明治3年)には19歳で村総代となった。20歳で家督相続。 1879年(明治12年)、第一期兵庫県会議員に当選。氷上郡書記、氷上郡長などを歴任の後、1891年(明治24年)に衆議院議員に当選(以後衆議院議員として当選4回)。
鹿島 秀麿(かしま ひでまろ、1852年10月10日(嘉永5… 鹿島 秀麿(かしま ひでまろ、1852年10月10日(嘉永5年8月27日) - 1932年(昭和7年)3月27日)は、日本の武士(徳島藩士)、明治期の政治家、ジャーナリスト、実業家。勲四等旭日小綬章。 近江国甲賀郡水口(現滋賀県甲賀市)で水口藩医師大村純道の次男として生まれた。幕末には徳島藩侍医鹿島家の養子となり、徳島藩に仕えた。明治維新後稲田騒動 (徳島藩家老の稲田邦植が淡路島の分藩を求めたことに対し、徳島藩士が激発した事件)に巻き込まれて藩職を去ったのち、上京して慶應義塾に学ぶ。神戸新報を立ち上げる。 帰淡後、教育・新聞出版事業に携わるとともに、立憲改進党に参加して兵庫県の自由民権運動の中心的存在となっていった。
山田 才吉(やまだ さいきち、嘉永5年8月19日(1852年… 山田 才吉(やまだ さいきち、嘉永5年8月19日(1852年10月2日) - 1937年(昭和12年)1月31日)は、美濃国出身の実業家・政治家(愛知県会議員)。 嘉永5年(1852年)8月19日、美濃国厚見郡富茂登村(現在の岐阜県岐阜市大仏町)で料理屋を営業していた山田辰次郎の長男として生まれる。板前などを経て名古屋の熱田神戸町・大須門前町に店を構え、1881年(明治14年)には末広町3丁目(現在の栄)の若宮八幡社西隣に漬物屋「きた福(喜多福)」を開店。この頃に守口漬(守口大根味醂粕漬)を考案したとされ、これが評判を呼んだ。なお、才吉が創業したきた福は同店から暖簾分けした「松喜屋」に屋号など含めて生前に売却され、「喜多福総本家」として現在も守口漬の製造販売を続けている。
金井 清志(かない きよし、1852年9月12日〈嘉永5年7… 金井 清志(かない きよし、1852年9月12日〈嘉永5年7月29日〉 - 1933年〈昭和8年〉4月18日)は日本の政治家、実業家。位階は正七位。 信濃国安曇郡杏村(現長野県松本市)出身。金井磯衛の長男。1873年(明治6年)に梓村の副戸長に任命される。1880年(明治13年)4月、長野県会議員に南安曇郡選挙区の補欠として当選した。1882年(明治15年)12月から1884年(明治17年)1月まで第4代同県会副議長を務めた。その後、県内道路7路線を選定し開削工事を起工した。1883年(明治16年)下伊那郡長となり、翌1884年(明治17年)には激化事件の飯田事件が起きたが、暴発を未然に防いだ。
木村 吉兵衛( 嘉永5年7月29日(1852年9月12日) … 木村 吉兵衛( 嘉永5年7月29日(1852年9月12日) - 没年不明)は日本の実業家。呉服太物商。大地主。幼名惣太郎。伯耆国西伯郡米子町(現鳥取県米子市)出身。長子吉兵衛は鳥取県多額納税者で、呉服太物商を営んだ。娘の富野は元逓信省郵務局長久埜茂の妻。 明治35年(1902年)2月の『鳥取県伯耆国一円地価所得税詳覧』によって、米子町を含む西伯郡の地価一万円以上の大地主をみると以下のとおりである。彼等は当時の経済的実力者で、その多くは、質屋を営み銀行に投資し商業に従事し、あるいは各種会社の役員を兼ねるなど多面的な経済活動をしていた。 当時、商工業の有力者は同時に地主でもあった。この年度における米子町の地価1000円以上の地主名を挙げると次の通りである。