片山 春帆(かたやま しゅんぱん、1880年(明治13年) … 片山 春帆(かたやま しゅんぱん、1880年(明治13年) - 没年不詳)は、明治時代から大正時代の挿絵画家。 1880年、東京の築地に生まれる。俗称は片山春雄。武内桂舟、大出東皐、河合玉堂に師事した。明治期に『中外商業新報』において挿絵を描いていたといわれ、1897年(明治30年)には春陽堂から出版された村井弦斎の『日出島 曙の巻(上)』の口絵も描いている。また、博文館の社中にその名が見られ、『中学世界』、『文芸倶楽部』、『女学世界』などで専属の挿絵画家として活動した。1910年(明治43年)頃には東京市牛込区新小川町に在住しており、1926年(大正15年)発行の『大正震災画集』第5輯(日本版画社刊)には、春帆の関東大震災のスケッチを基とした木版画2作品も収められている。
菊池 契月(きくち けいげつ、1879年11月14日 - 1… 菊池 契月(きくち けいげつ、1879年11月14日 - 1955年9月9日)は、明治後期から昭和中期にかけての日本画家。本名菊池(旧姓細野)完爾。 1879年(明治12年)11月14日、長野県下高井郡中野町(現在の中野市)で素封家の細野勝太郎・はつ夫妻の次男として生まれる。少年時代から絵を描くことを好み、1892年(明治25年)、13歳で山ノ内町の渋温泉在住の南画家・児玉果亭に入門、「契月」の画号を与えられる。小学校高等科卒業後は呉服屋、製糸工場、町役場で勤務し、そのかたわら中野町に滞在中であった高島雪松に私淑。やがて画家として立つことへの思いが止み難いものとなり、1896年(明治29年)、妹の結婚式のどさくさに紛れて同郷の友人・町田曲江とともに 故郷を出奔、京都に出て南画家・内海吉堂に入門。
西山 翠嶂(にしやま すいしょう、1879年(明治12年)4… 西山 翠嶂(にしやま すいしょう、1879年(明治12年)4月2日 - 1958年(昭和33年)3月30日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本画家。本名は西山 夘三郞(にしやま うざぶろう、新字体:卯三郎)。 1879年(明治12年)に京都伏見に生まれる。1893年(明治26年)に 竹内栖鳳の門下に入り日本画を学ぶ。翌年から各展覧会や博覧会で入賞を重ね、若くして頭角を現して同門の西村五雲や橋本関雪とともに栖鳳門下として名を馳せた。後に翠嶂は栖鳳の女婿となっている。その後京都市美術工芸学校に入学し日本画の更なる研鑽に励んだ。 1907年(明治40年)の第1回文展に「広寒宮」を出品して三等を受賞したのを皮切りに、その後の文展にも出品を重ねて受賞や特選が相次いだ。
孫 潤宇(そん じゅんう、1879年 – 1960年)は、中… 孫 潤宇(そん じゅんう、1879年 – 1960年)は、中華民国の政治家・官僚・弁護士・画家・外交官。字は子涵。南京臨時政府で官歴を開始し、北京政府では国会議員や法制局長などを務めた。中華民国臨時政府や南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会でも各職を歴任している。 清末に天津北洋大学予科を卒業。日本に留学し、1906年(光緒32年・明治39年)6月に法政大学法政速成科第二班を卒業した。なお、同期には汪兆銘(汪精衛)や李文範、胡漢民、古応芬、張一鵬らがいる。 中華民国成立直後の1912年(民国元年)2月より、南京臨時政府内務部で警務局長と警務学校校長を歴任した。翌1913年(民国2年)江蘇省で衆議院議員に当選し、国民党や民憲党に所属した。
岡本 癖三酔(おかもと へきさんすい、明治11年〈1878年… 岡本 癖三酔(おかもと へきさんすい、明治11年〈1878年〉9月16日 - 昭和17年〈1942年〉1月12日)は、戦前日本の俳人、画家。有季自由律を代表する俳人で、俳画の先覚者としても非常に評価が高い。本名は簾太郎、別号に笛声、碧山水など。 父親は小田原藩士の岡本貞烋で、家庭は厳格を極めた。父の赴任先である群馬県高崎で生まれる。出生地は高崎とも前橋とも。幼稚舎から慶應義塾普通部に進み、慶應義塾大学を卒業。日本画を川端玉章に師事。 芸術としての俳句は正岡子規・河東碧梧桐に至って完成されたとの観点から、慶大在学中から正岡子規に師事。俳句、俳文、連句を学び、日本派、秋声会系の俳人として出発し、26歳の若さで第一期黄金時代の『ホトトギス』、『時事新報』の俳句選者を務め、松根東洋城、高浜虚子らと共に「俳諧散心(「日盛会」とも称した)」を唱える。
鏑木 清方(かぶらき きよかた、1878年(明治11年)8月… 鏑木 清方(かぶらき きよかた、1878年(明治11年)8月31日 - 1972年(昭和47年)3月2日)は、明治期から昭和期にかけての浮世絵師・日本画家・随筆家。なお、姓は「かぶらぎ」でなく「かぶらき」と読むのが正しい。 近代日本の美人画家として上村松園、彼の門下より出た伊東深水と並び称せられる。清方の作品は風景画などはまれで、ほとんどが人物画であり、単なる美人画というよりは明治時代の東京の風俗を写した風俗画というべき作品が多い。 清方は1878年、東京・神田佐久間町に生まれた。本名は健一。元は條野(条野)姓であったが、1895年に母方の家督を継ぎ鏑木姓となった。父は条野採菊といい、ジャーナリストでありながら山々亭有人と号した幕末の人情本作家であった。
荒井 寛方(あらい かんぽう、明治11年(1878年)8月1… 荒井 寛方(あらい かんぽう、明治11年(1878年)8月15日 - 昭和20年(1945年)4月16日)は、近代の日本画家。本名は寛十郎。栃木県塩谷郡氏家町(現在のさくら市)生まれ。院展同人。 紋所や提灯の上絵を描く家に生まれる。父・藤吉は素雲と号し、瀧和亭に師事して南画を学んでいた。明治32年(1899年)瀧和亭の勧めで水野年方に入門、歴史画・風俗画を学ぶ。翌年、年方から「寛方」の号を与えられ、同門の四天王の一人と称される。明治34年(1901年)第10回日本絵画協会共進会に風俗画「温和」を出品し、2等褒状を受け、以後同会で受賞を重ねる。翌35年(1902年)国華社へ入社、同社出版の古美術雑誌『国華』で掲載する木製複製図版用に、仏画模写の仕事を通じて画家として修練を積んだ。
中島 秋圃 (なかしま しゅうほ、明治11年(1878年)7… 中島 秋圃 (なかしま しゅうほ、明治11年(1878年)7月5日 - 昭和36年(1961年)11月30日)は、明治時代から昭和にかけて活躍した四条派の日本画家。 東京四谷で、旧佐賀藩士の司法省検事・中島盛有(藤次郎)の長男として生まれる。本名・次郎。明治35年(1902年)7月に東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)日本画科を卒業。秋圃は川端玉章に師事し円山派を学ぶ。納富介次郎の勧誘で、あるいは定塚武敏『富山の美と心』(桂書房、1990年)に録された次郎の長女・久栄の証言によれば、父と同じく佐賀出身の大隈重信より『三年のみ』と勧められ、同年7月に富山県高岡市の県立工芸高校(現・富山県立高岡工芸高等学校)に赴任する。
山内 多門(やまうち たもん、1878年(明治11年)4月2… 山内 多門(やまうち たもん、1878年(明治11年)4月29日 - 1932年(昭和7年)5月30日)は、日本の明治から昭和にかけて活動した日本画家。多門は本名で、字を子弘、初号を都洲、他に空容子、起雲閣、蜀江山房、自足園主人、書禅堂など。 宮崎県都城市倉之馬場通東に、都城島津家家臣の山内勝麿の子として生まれる。16歳で郷里で狩野派の中原南渓に学ぶ。1899年(明治32年)に上京、同郷の造船技師で経営者だった須田利信の家に寄寓しながら、川合玉堂に入門、雅号都洲を授かる。翌1900年(明治33年)橋本雅邦に師事し、前期日本美術院に参加、同年第8回日本美術協会第三回日本美術協会連合絵画共進会「三顧草盧」という歴史画で初入選。
谷井 翠山(やつい すいざん、1878年4月20日 - 没年… 谷井 翠山(やつい すいざん、1878年4月20日 - 没年不明)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本画家。本名は藤楠、旧姓は津本。資産家であり、公募展への出品は少ない。同じ雅号の三木翠山と混同される事がある。 1878年(明治11年)4月に和歌山県日高郡御坊村(現和歌山県御坊市)の蝋燭商の大黒屋の津本家に生まれた。16才から文人画家の筑紫翠雲に学び、20才で上京し、川端玉章の画塾に入った。 後に和歌山市雑賀村関戸(現和歌山市関戸)の大地主の谷井家に婿養子として入った。その頃の当主の谷井勘蔵は翠山の誕生翌年の明治12年には地租221円持、貴族院多額納税者議員互選人だった。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
田中 寅三(たなか とらぞう、1878年3月7日 - 196… 田中 寅三(たなか とらぞう、1878年3月7日 - 1961年7月4日)は、日本の洋画家、絵画教育者。 千葉高等園芸学校(現・千葉大学園芸学部)などで図画の教鞭をとりながら、学校の所在する千葉県松戸市に住み、同地の農村風景画から海や船舶のある風景画作品を多く残す。 油彩画の他に、日本画風の絵画も描いた。 愛媛県宇和島に、彦根藩士であった田中文二の次男として生まれる。父は井伊家のお抱え絵師だったとされるがはっきりしない。一家は明治維新後郵便局を営んでいたが、1985年に大阪に転居し、書店を開業している(現・合資会社田中青柳堂書店)。 絵画を寅三はまず1894年大阪で山内愚僊に学ぶ。当時の山内門下には山本森之助、赤松麟作らがいた。
菅 楯彦(すが たてひこ、明治11年(1878年)3月4日 … 菅 楯彦(すが たてひこ、明治11年(1878年)3月4日 - 昭和38年(1963年)9月4日)は、日本画家。鳥取県鳥取市出身。本名は藤太郎。号は、初め盛虎、のち静湖、静香。大阪美術会会員。大阪市名誉市民、倉吉市名誉市民。浪速の風俗を愛し「浪速御民(なにわみたみ)」と標榜、はんなりとした情趣ある浪速風俗画で「最も大阪らしい画家」と呼ばれた。 明治11年(1878年)、鳥取市で菅大治郎(画号・盛南)の長男として生まれる。本名は藤太郎。父は元倉吉藩士の日本画家であり、塩川文麟の門下で岸派を折衷したという。5歳頃まで、父母の郷里・倉吉で過ごす。陶器の絵付を指導する父と共に姫路、ついで赤穂へ転居。明治14年(1881年)、京都へ向かう途中大阪の身内に引き留められ、ここに住むことになる。
小場恒吉(おば つねきち、1878年〈明治11年〉1月25日… 小場恒吉(おば つねきち、1878年〈明治11年〉1月25日 - 1958年〈昭和33年〉5月29日)は、日本の紋様学者、美術史家、画家。東京美術学校および東京芸術大学で工芸史・紋様史を講じ、日本・中国・朝鮮の古美術に見られる紋様の比較研究と、高句麗古墳壁画や朝鮮古蹟の調査・模写に従事した。研究の一部をなす「日本紋様の研究」により、1950年(昭和25年)に恩賜賞を受賞した。 秋田藩主佐竹家の一族である小場家の分家にあたる小場新吾の長男として、秋田県秋田町亀ノ丁堀反町に生まれた。 13歳のとき、親戚の画人小室怡々斎(こむろ いいさい)に師事して狩野派の日本画を学んだ。上京後は、荒木寛畝に日本画を、岡本椿所に篆刻を学んだ。
赤松 麟作(あかまつ りんさく、1878年〈明治11年〉1月… 赤松 麟作(あかまつ りんさく、1878年〈明治11年〉1月20日または10月11日 - 1953年〈昭和28年〉11月24日)は、日本の洋画家、教育者。 赤松良子は3女である。 現在の岡山県津山市本町3丁目に、兄2人姉1人の4人兄弟の末っ子として生まれる。1883年に大阪へ転居。父は亜鉛製造、酸化亜鉛製造、ペンキ製造と職を変えるがいずれも成功せず、ペンキで絵を描く看板屋を始める。 小学校卒業後、父の仕事を手伝っていると、大阪最初期の洋画家で大阪朝日新聞で挿絵画家をしていた山内愚僊と知り合う。この時、愚僊はペンキで巧みに油画を描き、麟作は画が非常に好きになってしまったという。1893年数え16歳でその内弟子となり、愚僊の同僚だった西村天囚から『日本外史』などの漢学を習う。
野口 小蕙(のぐち しょうけい、1878年〈明治11年〉1月… 野口 小蕙(のぐち しょうけい、1878年〈明治11年〉1月11日 - 1945年〈昭和20年〉4月2日)は、明治後期から昭和前期にかけて活躍した南画家、日本画家。 野口小蕙は、明治11年(1878年)1月11日に滋賀県蒲生郡綺田村(後の桜川村、現東近江市綺田町)で造酒業を営む十一屋の跡取りである野口正章(1849年 - 1921年)の長女として生まれ、郁子と名付けられた。母は奥原晴湖と共に明治女流南画家の双璧といわれる野口小蘋(のぐち しょうひん、1847年 - 1917年)である。父正章と母小蘋(本名親子)は、正章の父野口正忠(柿村(しそん)と号す)が近江・京の多くの文人と親交厚く、富岡鉄斎は長く野口家に居候をしているような美術愛好家で漢詩家であったことから知り合い、明治10年(1879年)結婚した。
平福百穂(ひらふく ひゃくすい、1877年(明治10年)12… 平福百穂(ひらふく ひゃくすい、1877年(明治10年)12月28日 - 1933年(昭和8年)10月30日)は、日本画家、歌人。 画家平福穂庵(順蔵)の四男として、秋田県角館(仙北市)に生まれた。本名は貞蔵。 幼い時から秋田市の豪商である那波家のコレクションなどで、秋田蘭画を見て育ったが、1890年(明治23年)から父から絵を学びはじめる。同年末に父が急死すると、翌年から父の後援者の援助を受け、本格的に絵を学び始める。同じ年の秋に開かれた亡父の追悼画会で画才を認められ、「百年」の百と「穂庵」の穂を取って「百穂」と号す。 1894年(明治27年)に上京し、四条派の第一人者川端玉章の内弟子となる。
水上 泰生(みずかみ たいせい、1877年10月24日 - … 水上 泰生(みずかみ たいせい、1877年10月24日 - 1951年2月21日)は、日本の日本画家。
一條 成美(いちじょう せいび/なるみ、男性、1877年9月… 一條 成美(いちじょう せいび/なるみ、男性、1877年9月25日 - 1911年3月16日)は、明治時代の日本の画家。
桐谷 洗鱗(きりや せんりん、1877年9月1日 ‐ 193… 桐谷 洗鱗(きりや せんりん、1877年9月1日 ‐ 1932年7月19日)は、明治時代の口絵画家、大正時代から昭和時代にかけての日本画家、版画家。仏画の権威として活躍したが、急逝した。 富岡永洗及び橋本雅邦の門人。新潟県三島郡宮本町(現・長岡市)に生まれる。本名は長之助。深見和久太の四男であったが桐谷姓を継いだ。20歳の時に上京、永洗に師事している。永洗が没した時、その夭折を惜しむ記事を投稿している。 その後、雅邦に就いて東京美術学校日本画家選科を卒業し、1907年に文展に入選。翌年から京都、奈良の寺院をめぐり、1909年、「訪古画帖」を作る。仏教画の方に進み始めた。この間、京都の「日出新聞」に挿絵を描く。
川崎 巨泉(かわさき きょせん、1877年6月2日 - 19… 川崎 巨泉(かわさき きょせん、1877年6月2日 - 1942年9月15日)は明治時代の浮世絵師、郷土玩具画家。 本名は川崎末吉。明治10年(1877年)に堺県(現:大阪府堺市)に生まれる。他の雅号では人魚洞・芳斎・碧水居とも称した。子供のころから絵が得意で、明治25年(1892年)堺に住んでいた浮世絵師の中井芳滝に師事した。一時期は芳滝の元を離れて東京に絵を学びに行くが、数年で堺に戻って大阪に移住した芳滝に再び師事し浮世絵の手法を学んだ。その後芳滝の娘と結婚し養子となって芳滝の遺志であった新聞・雑誌の挿絵や連載物の他にシリーズで発刊されていた刷物風俗画作品(『大阪名所』)を引き継いだ。更に芳滝と親しかった大阪麦酒(現:アサヒグループホールディングス)との関係も引き継ぎ、明治36年(1903年)、大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会のパビリオンの1つ「冷蔵庫」内における陳列とビアホールの様子を描いた絵を残している(アサヒビール蔵)。
伊藤 小坡(いとう しょうは、本名:佐登(さと)、旧姓:宇治… 伊藤 小坡(いとう しょうは、本名:佐登(さと)、旧姓:宇治土公(うじとこ)、1877年(明治10年)4月24日 - 1968年(昭和43年)1月7日)は、三重県度会郡宇治浦田町(現伊勢市宇治浦田町)に生まれ、京都を中心に風俗画、美人画を描いた日本画家。 伊勢にある猿田彦神社の宮司の長女として生まれている。幼少の頃より古典文学、茶の湯、柔術を習い、1891年(明治24年)頃から新聞小説の挿絵を竹紙に模写し始める。明治28年頃には四条派の流れをくむ郷土の画家、磯部百鱗に師事し歴史人物を好んで描いた。 1898年(明治31年)には画家になることを決意し京都に出て、磯部百鱗の紹介により森川曽文に師事し「文耕」の雅号をもらうが、曽文が病に倒れたため歴史画を得意とする谷口香嶠に師事し、「小坡」の雅号を受けている。
村瀬 義徳(むらせ ぎとく/むらせ よしのり、明治10年(1… 村瀬 義徳(むらせ ぎとく/むらせ よしのり、明治10年(1877年)3月 - 昭和13年(1938年)8月15日)は、愛知県出身の日本画家である。村瀬宜得とも記される。はじめ黒田清輝に師事して西洋画を学び、後に日本画に転じて寺崎広業に師事した。現存する作品は大正と昭和のものが多い。通称は義徳であるが、宜得を号とした。 明治10年3月、愛知県丹羽郡布袋町 に生まれた。幼い頃から絵を得意とし、東京美術学校に入学。西洋画の黒田清輝教授のもとで学ぶ。明治31年(1898年)に退学。 また、このころ日本画の寺崎広業に師事。狩野派を研究する。文部省第十一回美術展覧会にて台湾旅行した際の写生から描き起こした南画的な屏風絵『緑蔭』が入選。
飛田 周山(ひだ しゅうざん / とびた しゅうざん、明治1… 飛田 周山(ひだ しゅうざん / とびた しゅうざん、明治10年(1877年)2月26日 - 昭和20年(1945年)11月22日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本画家。本名は飛田 正雄(とびた まさお)。別号に対月居。 文展・帝展審査員を務めたほか、岡倉天心を五浦に招いたことや、『小學国語読本』巻1の「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」の挿絵画家として知られる。 茨城県多賀郡大塚村(現在の北茨城市磯原町大塚)に、飛田正・きよ夫妻の長男として生まれる。父は農業を営み、村会議員や野口量平(野口雨情の父)が北中郷村の村長を勤めた4年間は、その助役に就いていた。明治26年(1893年)に上京し、叔父の海野美盛の書生となる。
小原 古邨(おはら こそん、1877年(明治10年)2月9日… 小原 古邨(おはら こそん、1877年(明治10年)2月9日-1945年(昭和20年)1月4日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本画家・木版画の下絵師。祥邨(しょうそん)、豊邨(ほうそん)の号も持つ。 古邨研究の最重要資料とされる『浮世絵師伝』での祥邨(後述)項を引用する。なお、旧字体は常用漢字に直した。振り仮名は略した。 祥邨【生】明治十年二月九日(略) 【画系】鈴木華邨 【作画期】明治-昭和小原氏、本名、又雄、加賀金沢に生れ上京して鈴木華邨に学ぶ。東京美術学校教授(初め東京帝国大学教師)及び帝室博物館の顧問たりし米国人のフエノロサ博士の指導を受けて、米国へ売る花鳥画を多数描く。古邨と云ふ画名にて、両国の大黒屋(松木平吉)より依頼の角判花鳥の版下を描き、大正元年より祥邨と改め、肉筆のみ揮毫せしも、昭和元年より渡辺版画店の需めに応じ、主として氏の得意とする花鳥版画の創作に努力し、大小取交ぜ数十版作画せり。
渡辺 公観(わたなべ こうかん、明治11年(1877年)1月… 渡辺 公観(わたなべ こうかん、明治11年(1877年)1月20日 - 昭和13年(1938年)7月20日)は、文展(現日展)を中心に活動し、後に(日本)自由画壇を同士と創設した日本画家。 渡辺公観は、明治11年(1877年)1月20日に滋賀県大津(現大津市)の円満院門跡の侍医渡辺宣と歌人で円満院の侍講を務める服部春樹の娘田鶴の子として生まれ、耕平と名付けられた。明治25年(1891年)大津尋常小学校を卒業後彦根中学校(現滋賀県立彦根東高等学校)に進み、明治27年(1893年)京都美術工芸学校(現京都市立銅駝美術工芸高等学校)に転校後、明治28年(1894年)学校を辞し森川曽文に入門した。 師である森川曽文は明治36年(1902年)に没し、公観は以降独自に画業を研鑽し、明治40年(1906年)第1回文展に「進言」で初入選し、以後大正3年から7年迄の間に4回入選したが、大正8年(1919年)帝展(現日展)が開設されると官展から離れ、井口華秋、池田桂仙、上田萬秋、林文塘中堅画家らと自由な日本画制作を目指し日本自由画壇を結成した。
直木 倫太郎(なおき りんたろう、1876年(明治9年)12… 直木 倫太郎(なおき りんたろう、1876年(明治9年)12月1日 - 1943年(昭和18年)2月11日)は、日本の土木技術者・土木工学者、都市計画家。元帝都復興院技監。大陸科学院初代院長。元大阪市都市計画部長。関西工学専修学校(現:大阪工業大学)の創設時協力者。元大林組取締役。 新聞に投稿して入選した俳句から燕洋と号した。技術者の地位向上分野の先駆をなした「日本工人倶楽部」の活動でも活躍した技術官僚。 1876年、兵庫県で真島顕蔵の長男として生まれ、17歳で実業家・直木政之介(日本燐寸製造創業者)の養子となる。 姫路中学校、第三高等学校、第二高等学校を経て、1899年7月、東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。
吉田 博(よしだ ひろし、1876年(明治9年)9月19日 … 吉田 博(よしだ ひろし、1876年(明治9年)9月19日 - 1950年(昭和25年)4月5日)は、日本の洋画家、版画家。自然と写実そして詩情を重視した作風で、明治、大正、昭和にかけて風景画家の第一人者として活躍した。
松林 桂月(まつばやし けいげつ、1876年8月18日 - … 松林 桂月(まつばやし けいげつ、1876年8月18日 - 1963年5月22日)は、日本画家。山口県萩市生まれ。元の姓は伊藤、本名は篤。字は子敬。別号に香外、玉江漁人。妻の松林雪貞(せってい)も日本画家。 「最後の文人画家」とも評され、渡辺崋山や椿椿山ら崋椿系の流れをくむ精緻で謹直な描写を基礎に、近代の写生画の流行を十分に取り込みながら、そこに漢籍、漢詩の素養に裏付けされた品格の高い作風を特色とする。 萩市中渡(現・山田)出身。尋常小学校卒業後、地元の素封家・瀧口吉良の援助を受けて上京。1894年野口幽谷に師事。南画の表現に新たな世界を開拓し、南画界の重鎮と言われる。官展の中心画家で、1906年日本南宗画会を結成。
北 蓮蔵 (きた れんぞう、明治9年(1876年)7月29日… 北 蓮蔵 (きた れんぞう、明治9年(1876年)7月29日 - 昭和24年(1949年)12月21日)は、明治から昭和にかけて活動した洋画家。 岐阜県厚見郡北一色村(現在の岐阜市北一色)の香厳寺に、北淳心と房衛の次男として生まれる。幼少期には両親が読経を教えようとしても覚えず、絵ばかり描いていたという。1889年(明治22年)東京で女学校の教員をしていた姉を頼って上京、同郷の山本芳翠と合田清らによって設立された生巧館画塾に入る。蓮蔵は芳翠の書生をしていたと後に回想しており、また時に「芳翠二世」を名乗り、蓮蔵と芳翠を「親戚」とする同時代資料もある(真偽不明)ことから、両者は単なる画塾の師弟にとどまらない深い関係にあったようだ。
北沢 楽天(きたざわ らくてん、1876年7月20日 - 1… 北沢 楽天(きたざわ らくてん、1876年7月20日 - 1955年8月25日)は明治から昭和にかけて活躍した日本の漫画家、日本画家である。本名は保次(やすじ)。楽天は『時事漫画』や『東京パック』等の新聞や雑誌を中心として、多数の政治風刺漫画や風俗漫画の執筆で活躍した。 楽天は日本初の職業漫画家とみなされる事もあり、その漫画の人気は、現代における「漫画」という用語が広く一般に普及するのに多大な影響を与えた(最初に、西洋の「カートゥーン」の訳語として「漫画」という用語を使用したのは今泉一瓢である。楽天は、「コミック」の訳語として「漫画」という用語を最初に使用した)。また、戦前に発行された『楽天全集』は、幼少期の手塚治虫に影響を与えた作品の一つとして特筆される。
小西 正太郎(こにし しょうたろう、1876年7月12日 -… 小西 正太郎(こにし しょうたろう、1876年7月12日 - 1956年4月26日)は、日本の洋画家。秋田県出身。 秋田県仙北郡六郷町(現美郷町)の素封家の家に生まれる。小西忠兵衛(5代。幼名は正治。号は交和)の長男。弟は六郷町郵便局長の宗吉。正太郎が生まれた当時の小西家の主な資産は、小作米500俵、町内に3,300平方メートルの敷地、山林5ヘクタールと記録され、六郷町下では第二の資産家であった。六郷小学校から秋田県立秋田中学校を経て1895年(明治28年)東京美術学校予科に進んだ。翌年日本画の本科に進んだが、このころ洋行を終えて帰国した黒田清輝が西洋画科の初代教授として美術学校に赴任するとたちまちその影響を受け、西洋画に転じて黒田に師事した。
木村 武山(きむら ぶざん、明治9年(1876年)7月3日 … 木村 武山(きむら ぶざん、明治9年(1876年)7月3日 - 昭和17年(1942年)11月29日)は、明治から昭和初期の日本画家。横山大観、下村観山、菱田春草らと共に、岡倉覚三(天心)のもとで日本画の近代化に努めた。 明治9年(1876年)7月、茨城県笠間市に木村信義の長男・信太郎として誕生。父は元笠間藩士で、廃藩後に笠間銀行(現・常陽銀行)を設立し頭取となり、明治45年(1912年)4月には笠間電気株式会社の設立と共に社長に就任している。2歳の頃から地元の南画家・桜井華陵に師事。12歳頃には「武山」の号を用いており、この号は笠間のシンボルとも言える佐白山・山上の別称「阿武山(おたけ)」に由来する命名される。
石橋 和訓(いしばし かずのり/わくん、1876年〈明治9年… 石橋 和訓(いしばし かずのり/わくん、1876年〈明治9年〉6月6日 - 1928年〈昭和3年〉5月3日)は日本の日本画家・洋画家。英国ロイヤル・アカデミー初の日本人学生。代表作に『美人読詩』や松方正義・渋沢栄一・大隈重信らの肖像画がある。 「和訓」の読みは「かずのり」だが「わくん」とも呼ばれる。「かずよし」とする文献もある。幼名は倉三郎。27歳のとき師の滝和亭の一字をもらい「和訓」に改名した。画号は耕雲、雅原、中雅。 1876年、島根県飯石郡西須佐村(現・出雲市佐田町反辺)の農家石橋熊三郎とマツの間に生まれる。幼少から画才に秀で、須佐建真(須佐神社祠官)と永瀬雲山から南画を学ぶ。1892年、松江に出て後藤魚洲(島根師範学校教員)と堀櫟山(小豆沢亮一門下)から南画・洋画を学ぶ。
片岡 安 (かたおか やすし、 1876年6月4日- 194… 片岡 安 (かたおか やすし、 1876年6月4日- 1946年5月26日) は、日本の建築家・都市計画家。工学博士(東京帝国大学)。関西工学専修学校(現:大阪工業大学)初代校長・理事長。日本建築協会初代理事長・会長。大阪商工会議所第13代会頭。大阪工業会第3代会長。金沢市長(1期)。 「日本近代建築の父」といわれる辰野金吾(日本銀行本店・東京駅等を設計)と共同で、辰野片岡建築事務所を大阪に開設し、大阪市庁舎・大阪市中央公会堂等多くの建築作品を残した。また日本における都市計画研究のパイオニア(わが国最初の都市計画大著「現代都市之研究」を公刊)であり、大阪を代表する御堂筋等のまちづくりに欠かせなかった建築法規(旧都市計画法、市街地建築物法)の整備にも尽力した。
井川 洗厓(いがわ せんがい、1876年5月1日‐1961年… 井川 洗厓(いがわ せんがい、1876年5月1日‐1961年10月13日)は明治時代の口絵画家、大正時代の版画家。本名:井川 常三郎。 稲野年恒及び富岡永洗の門人。本名は井川常三郎。1876年5月1日、資産家井川與兵衛の次男として岐阜県岐阜市上大久和町に生まれる。4歳の時に父と死別し母に育てられる。小学校卒業後漢学塾に通う傍ら家業である製紙原料商を手伝ったが、絵画に親しみ土佐派を槇田種麿に学ぶ。大阪に出て稲野年恒に師事した後、名古屋師団に入隊し威海衛守備隊に派遣される。ここでは風俗画を揮毫し侍従武官に献上したこともある。除隊後東京へ出て永洗に就き、師とともに『都新聞』に挿絵を描いているほか、多くの木版口絵を手がけている。
大森 敬堂(おおもり けいどう、明治9年(1876年)1月1… 大森 敬堂(おおもり けいどう、明治9年(1876年)1月16日 - 明治44年(1911年)6月14日)は明治時代の日本画家。 尾形月耕及び川端玉章の門人。明治9年(1876年)1月16日、東京府京橋に生まれる。本名は新之助。幼少から絵を好み、始め京橋桶町の尾形月耕に絵の手ほどきを受け、後に玉章に師事する。同門の結城素明とともに東京美術学校日本画科に入学、師玉章の指導する第三教室において俊秀の誉れがあった。明治24年(1891年)の日本青年絵画協会臨時研究会に「楓亀」を出品すると五等褒状、明治27年(1894年)の日本青年絵画協会第3回絵画共進会に「朧月白鷺」を出品すると三等褒状を受ける。その後、明治29年(1896年)の日本絵画協会第1回絵画共進会に「錦魚」、「空濶」を出品、前者により二等褒状、明治30年(1897年)春の同第2回絵画共進会に「月」を出品して一等褒状、同年秋の同第3回絵画共進会に「夏の海」、「妙音」を出品、後者で一等褒状を受賞、明治31年(1898年)春の同第4回絵画共進会には「海岸」を出品している。
大牟礼 南島(おおむれ なんとう、1876年 - 1935年… 大牟礼 南島(おおむれ なんとう、1876年 - 1935年)は、日本の洋画家。大牟礼 南塘とも表記される。本名・時艾(ときはる)。鹿児島洋画壇の祖といわれている。 種子島の現西之表市出身。中学造士館卒業後、大阪を経て上京し、東京美術学校西洋画科に入学。黒田清輝に師事し、1900年に卒業して鹿児島県に戻る。鹿児島市の西本願寺前にアトリエを開設。アトリエで公開制作をしたり、春田屋呉服店のショーウインドウに大きなロマン主義美人画を飾ったりと衆目を集め、また確認しうる鹿児島最古の洋画団体「青蛙会」を結成した。 1911年から1930年の約20年間にわたり鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)で美術教員を務め、多くの後進を育成した。
結城 素明(ゆうき そめい、1875年(明治8年)12月10… 結城 素明(ゆうき そめい、1875年(明治8年)12月10日 - 1957年(昭和32年)3月24日)は、日本の明治から昭和にかけて活躍した日本画家。日本芸術院会員。 東京本所荒井町に、「池田屋」という酒屋を営んでいた森田周助の次男として生まれる。本名の貞松は勝海舟の命名といい、奇しくも後に素明は、「江戸開城談判」(聖徳記念絵画館蔵)において海舟の姿を描いている。10歳の頃、親類の結城彦太郎の養嗣子となる。明治24年(1891年)7月岡倉覚三(天心)の紹介で、川端玉章の画塾天真堂(天真社)に入門する。玉章に学びながら明治25年(1892年)東京美術学校日本画科に入学。常に墨斗と手帖を携帯し、目にとまったものは何でも写生したという。
上島 鳳山(うえしま ほうざん、明治8年(1875年)10月… 上島 鳳山(うえしま ほうざん、明治8年(1875年)10月23日 - 大正9年(1920年)7月25日)は、日本の明治から大正にかけて活動した日本画家。同時代の北野恒富や菅楯彦、岡本大更らと共に、近代の大阪を代表する画家の一人である。 岡山県小田郡笠岡村字八軒屋(現在の笠岡市笠岡)に、辻嘉平の次男として生まれる。本名は寿治郎で、鳳山は画号で、画房を鳳鳴画室と称した。父嘉平は、初め刀鍛冶、後に理化学機械製造を仕事としていた。祖父・辻鳳山は円山派の絵師で、小寺清先編『備中名勝考』の挿絵を描いており、鳳山の号もこの祖父に由来していると考えられる。幼少から画家を志し、はじめ大阪出身で円山応立の弟子・木村貫山に学び、ついで西山完瑛・渡辺祥益に師事する。
武井 真澂(たけい しんちょう、1875年(明治8年)6月2… 武井 真澂(たけい しんちょう、1875年(明治8年)6月24日 - 1957年(昭和32年)6月3日)は、日本の山岳画家。本名は真澄。 長野県諏訪郡豊田村十川(現・諏訪市)に生まれる。1896年に東京美術学校本科を卒業。1900年(明治33年)から1914年(大正3年)まで旧制長野県立松本中学校で図画を教えた。退職後は東京に住みながら、長野県内を主体に山梨県・富山県・静岡県などの山に登り、山岳画を描いた。
中原 芳煙(なかはら ほうえん、1875年(明治8年)6月2… 中原 芳煙(なかはら ほうえん、1875年(明治8年)6月24日 - 1915年(大正4年)6月20日)は明治・大正時代の日本画家。 島根県邑智郡都賀行村大字潮村(現・美郷町)に、農業と鉄山経営をしていた旧家の当主・源吉郎の次男として生まれた。本名は佐次郎、画号を芳煙という。 幼い頃から絵を好み、那賀郡町村組合立石見学校(現・島根県立浜田高等学校)を卒業後、1896年(明治29年)9月、画家を志して東京美術学校(現・東京藝術大学)に進学、川端玉章に師事した。 日本画本科2学年の時に美術学校生徒成績品展覧会で「秋野鹿図」が一等褒状を受賞した。 師の玉章は芳煙の画風を推賞して惜しまなかったといわれる。
吉川 霊華(きっかわ れいか、明治8年(1875年)5月4日… 吉川 霊華(きっかわ れいか、明治8年(1875年)5月4日 - 昭和4年(1929年)3月25日)は、明治大正時代の日本画家。本名準(ひとし)、通称三郎。 大和絵を基本にしつつ広く東洋の古典芸術に学び、線描、特に流れるような美しい細線を生かした清雅な絵画表現で、「描く」から「塗る」へ重心が移っていく近代日本画壇に独自の存在感を示した。 東京府湯島に佐藤一斎晩年の門人で、昌平坂学問所の助教や、御書院番兼御納戸を勤めた儒者・吉川辰夫(忠苞、号・澹斎)の三男として生まれる。家は吉川元春の末流で、七代前に江戸幕府に召されて御家人になったとされ、霊華の祖父・大江忠尚は勘定組頭まで出世して旗本になっている。
上村 松園(うえむら しょうえん、1875年〈明治8年〉4月… 上村 松園(うえむら しょうえん、1875年〈明治8年〉4月23日 - 1949年〈昭和24年〉8月27日)は、日本画家。気品あふれる美人画を得意とした。1948年に女性として初めての文化勲章を受章。息子に日本画家の上村松篁。孫に上村淳之。 京都に生まれ育ち、本名は上村 津禰(うえむら つね)、常子(つねこ)と名乗っていたこともある。 1875年(明治8年)、京都府京都市下京区四条通御幸町の葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれる。父は上村太兵衛、母は仲子。松園の祖父・上村貞八は大塩平八郎の甥と言われる。父・太兵衛は松園が生まれる2ヶ月前に他界したが、仲子は再婚することなく女手一つで娘2人を育て上げた。
石川 寅治(いしかわ とらじ、明治8年(1875年)4月5日… 石川 寅治(いしかわ とらじ、明治8年(1875年)4月5日 - 昭和39年(1964年)8月1日)は、明治時代から昭和時代にかけての洋画家、版画家。 高知県高知市において石川義忠の長男として、明治8年4月5日生まれる。まず旧制中学時代に上村昌訓について洋画を教わった。明治24年(1891年)に上京し、小山正太郎の不同舎という私画塾に学び、明治26年(1893年)、第5回明治美術会展に「野鴨」を初出品した。明治33年(1900年)のパリ万博にも作品を出品した。翌明治34年(1901年)には明治美術会の組織改革により、新会務委員となって吉田博、満谷国四郎とともに太平洋画会を結成し、水彩画のほか、油絵、素描、木版画、彫刻などを制作し続けた。
高橋 廣湖(たかはし こうこ、明治8年(1875年)4月1日… 高橋 廣湖(たかはし こうこ、明治8年(1875年)4月1日 - 大正元年(1912年)6月2日)は、日本の明治時代に活動した日本画家。 熊本県鹿本郡山鹿町松坂(現在の熊本県山鹿市)に、浦田長次郎と登喜の長男として生まれる。本名は久馬記(くまき)。長次郎は熊本藩御用絵師の矢野良敬に師事、雪舟の流れをくむ雲谷派に学び、地元山鹿で画塾「観松堂」を開いていた。雪翁・雪長の号を持ち、今でも山鹿周辺の寺社には長次郎が描いた絵馬が多く残っている。初めは父に絵の手ほどきを受け、同じく次弟の一二(号は天鹿)、四男の四郎(号は湖月・廣香)も日本画家になっている。明治25年(1892年)17歳で熊本在住の南画家・犬塚松琴に弟子入りする。
阪田 貞明(坂田貞明、さかた さだあき、1875年 - 19… 阪田 貞明(坂田貞明、さかた さだあき、1875年 - 1923年9月5日)は、日本の都市計画家、官庁土木技術者。東京出身。1919年から、推されて横浜市市区改正局長に転任、1922年の職制改正により同市初代の都市計画局長就任。また水道課長、水道ガス局長まで兼務し、横浜市の都市計画事業に奉じる。1923年、関東大震災発生後復興の最中に病没。震災の際に都市計画の関連資料も焼失、成果は一部しか日の目をみていない。 京都帝国大学理工科大学土木工学科に第一期生として入学。大学在学時に建設中の八幡製鐵所で土木工事の嘱託。1900年卒業後、内務省入省。第一区(東京)土木監督署に配属、利根川改修工事に従事。1906年、本省土木局勤務。
和田 英作(わだ えいさく、1874年12月23日 - 19… 和田 英作(わだ えいさく、1874年12月23日 - 1959年1月3日)は、鹿児島県出身の洋画家・教育者。東京美術学校校長(1932年 - 1936年)。文化勲章受章者、文化功労者。父は和田秀豊、弟は和田秀穂。 1874年12月23日、鹿児島県肝属郡垂水村(現・垂水市)に生まれた。父親は牧師の和田秀豊、母親は川上トヨ。鹿児島生まれとするのが定説だが、1997年にフェルケール博物館で開催された「日本近代洋画の重鎮・和田英作展」では、東京生まれだとする新説が提示されている。和田秀豊はトヨの父親川上幸彦と親しかった。英作は三男四女の長男である。 3歳4か月だった1878年3月に家族で上京し、東京府麻布区の麻布仲ノ町に住んだ。
渡辺 香涯(わたなべ こうがい、1874年(明治7年)11月… 渡辺 香涯(わたなべ こうがい、1874年(明治7年)11月24日‐1961年(昭和36年)9月29日)は明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 1874年11月24日に東京府四谷区荒木町に生まれる。名は啓三。1892年(明治25年)に高橋玉淵に入門、また川端玉章にも師事した。1896年(明治29年)の日本絵画協会第1回絵画共進会、1897年(明治30年)春季の日本絵画協会第2回絵画共進会二作品を出品、同年7月に東京美術学校を卒業。同年秋季の日本絵画協会第3回絵画共進会に「木枯」を出品し、二等褒状を得る。1898年(明治31年)春季の日本絵画協会第4回絵画共進会に「秋致」を出品した後、2、3年山形県、群馬県の中学校教員を務めて1900年(明治33年)に帰京する。
満谷 国四郎(みつたに くにしろう、1874年(明治7年)1… 満谷 国四郎(みつたに くにしろう、1874年(明治7年)10月11日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の洋画家である。十五老とも称した。 1874年10月11日に満谷準一郎と世辞との間に三男として、岡山県賀陽郡門田村(もんでむら・現総社市門田)に生まれた。現在は「満谷国四郎先生 生誕之地」と刻まれた石碑が建てられている。叔父の堀和平は県下で洋画の草分けと言われた人で、幼い国四郎は堀家に行くたびに和平の画技を見て強い感銘を受けた。さらに、浅尾小学校では代用教員をしていた吉富朝次郎に愛され、岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)に進むと松原三五郎に画才を認められた。1891年(明治24年)、ついに中学を3年で退学。
池上 秀畝(いけがみ しゅうほ、1874年(明治7年)10月… 池上 秀畝(いけがみ しゅうほ、1874年(明治7年)10月11日 - 1944年(昭和19年)5月26日)は、明治時代から昭和にかけての日本画家。特に山水・花鳥画を得意とした。 長野県上伊那郡高遠町(現在の伊那市)に紙商兼小間物屋の次男として生れる。本名は國三郎。祖父池上休柳は、家業は番頭に任せて高遠藩・御用絵師に狩野派を学び、慶応2年(1866年)には自らの画論『松柳問答』を刊行、その翌年亡くなっている。父池上秀華も、岡本豊彦から四条派を学び、祖父と同様、俳句や短歌を詠み、茶道や華道に凝るといった趣味三昧の生活ぶりだったという。今でも高遠から上伊那各地の旧家には、彼らの作品が所蔵されている。