斎藤 努(さいとう つとむ、1942年6月26日 - )は、… 斎藤 努(さいとう つとむ、1942年6月26日 - )は、毎日放送の元アナウンサー・テレビプロデューサー、フリーアナウンサー。 羽衣国際大学名誉教授[要出典]。ブラザーナイト初期提唱者。「平松邦夫の公共政策ラボ」PPL-100人委員会呼びかけ人。 東京都出身。東京都立千歳高等学校から日本大学芸術学部へ進学。大学卒業後の1966年に、アナウンサーとして毎日放送へ入社した。同期のアナウンサーには、水谷勝海がいる。また、アナウンサー時代に、『アップダウンクイズ』(MBSテレビ)の出題役として知られた佐々木美絵(出演当時は毎日放送アナウンサー、現在はフリーアナウンサー・羽衣国際大学教授)と結婚している。
桂 邦彦(かつら くにひこ、1942年6月5日 - )は日… 桂 邦彦(かつら くにひこ、1942年6月5日 - )は日本のテレビプロデューサー、演出家。元TBSプロデューサー。神奈川県出身。東京都立新宿高等学校、日本大学芸術学部卒業。趣味は相撲、テニス。 1965年、TBSに入社。以来、多くの番組を制作。主にビートたけし出演のバラエティ番組を手がけた。代表作は1986年に放送を開始した『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』。この番組の大ヒットでプロデューサーから副部長に昇進を果たす。野外で出場者に豚汁を振舞うサービスを見せた。この他に審査員や出演者としても活躍した。たけしがオールナイトニッポン担当時、桂の名前を実名でよく出して、いじっていた。 ネットチェンジによりTBSでネット開始された『ヤングおー!おー!』(MBS制作)では、月1回行われていた東京収録でディレクターを担当。
佐藤 勝久(さとう かつひさ、1942年 (昭和17年) 5… 佐藤 勝久(さとう かつひさ、1942年 (昭和17年) 5月8日 - )は、日本のタウンプロデューサー。株式会社佐藤勝久事務所代表。 長野県諏訪市に生まれ、高校卒業まで過ごす。長野県諏訪清陵高等学校を経て、青山学院大学経済学部を卒業した。[要出典]1965年に森ビルに入社する。 1977年、森ビル観光株式会社(現・森トラスト・ホテルズ&リゾーツ)で、森章が事業化したラフォーレ修善寺の常務取締役兼総支配人に就任して、事業再建に従事した[要出典]。 1979年、ラフォーレ原宿館長に就任する。前年にオープンしたラフォーレ原宿は、佐藤の館長就任後に周辺のマンションの部屋で服を制作していた「マンションメーカー」と呼ばれる独立系ブランドを導入して地域のアパレル業界に「大きな変化」をもたらしたとされる。
福留 功男(ふくとめ のりお、1942年(昭和17年)1月2… 福留 功男(ふくとめ のりお、1942年(昭和17年)1月28日 - )は、日本の男性フリーアナウンサー、タレント、総合司会者、ニュースキャスター、エグゼクティブ・プロデューサー。元日本テレビ エグゼクティブアナウンサー。 高知県香美郡香北町(現:香美市)生まれ。大阪市育ち。愛称は「トメさん」。「トメじじい」と自称したこともある。 大阪市立五条小学校、大阪市立天王寺中学校卒業。中学生時代の部活は最初は演劇部だったが、後に自分で放送部を作って転部。また、同じ頃アイスホッケーにも力を入れていた。 追手門学院高等学校卒業後、医師を目指して大阪大学医学部など何度も医大受験をするも失敗し、2浪の末入った明治大学文学部演劇学科を卒業。
スコット津村(Scott Tsumura、1942年1月1日… スコット津村(Scott Tsumura、1942年1月1日 - )は、日本生まれのアメリカのゲームクリエイターで、Tozai, Inc. (Tozai Games) の共同創業者兼エグゼクティブ・プロデューサー。代表作にファミコン版『スペランカー』、アーケードゲーム版およびコンソール版『ロードランナー』、『ムーンパトロール(英語版)』『スパルタンX』『R-Type Dimensions』などがある。米国ワシントン州在住。
因田 宏紀(いんでん ひろき、1942年 - )は、日本のア… 因田 宏紀(いんでん ひろき、1942年 - )は、日本のアナウンサー、テレビプロデューサー、実業家。朝日放送(ABC)アナウンサー、ABCゴルフ倶楽部代表取締役社長・支配人。樺太出生、三重県育ち。 1942年、樺太に生まれ、第二次世界大戦の終戦さ中に北海道へ引き揚げ船で辿り着き、父親の故郷である三重県鈴鹿の麓に移る。四日市市の中学・三重県立四日市高等学校に進学し、テニスと出合う(黒松秀三郎や九鬼潤らと同世代)。高校では、陸上競技でインターハイ、スキーで国体に出場した。大学は新聞記者を目指して中央大学法学部に入学し、放送研究会に所属。 1965年、中央大学法学部を卒業後、朝日放送へ入社(同期に道上洋三や辻豊人らがいる)。
遠藤 雅也(えんどう まさなり、1941年10月28日 - … 遠藤 雅也(えんどう まさなり、1941年10月28日 - )は、日本の映画プロデューサー。東京都出身。千葉県我孫子市在住。日本大学芸術学部卒業。 この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
田中 文雄(、1941年9月22日 - 2009年4月12日… 田中 文雄(、1941年9月22日 - 2009年4月12日)は、日本の映画プロデューサー、小説家。東京府出身。小説の執筆では、滝原 満(たきはら みつる)、草薙 圭一郎()という名義も使用した。 1964年、早稲田大学政治経済学部卒業。在学中は、「ワセダミステリクラブ」に参加していた。在学中の1963年、『宝石』(1963年10号 臨時増刊 38年度新人中篇力作10人集)に短編「白い翼の郷」が掲載された。 大学を卒業し、同年、東宝撮影所に入社。文芸部に配属され、プロデューサー補佐を務めた後、1969年に文芸部が廃止され製作者室に所属。同年に映画『野獣の復活』でプロデューサーとしてデビューし、血を吸うシリーズなど、ホラー・SFを中心に活躍。
飯田 久彦(いいだ ひさひこ、1941年8月23日 - )は… 飯田 久彦(いいだ ひさひこ、1941年8月23日 - )は、日本の音楽プロデューサー・歌手。東京都出身。日本大学高等学校卒業。芝浦工業大学工学部電子工学科中退。歌手時代の愛称はチャコ。デビュー当時は第一プロダクション所属。ビクター音楽産業在籍時代に、『スター誕生!』に出場したピンク・レディーを発掘した。 サザンオールスターズの「チャコの海岸物語」の“チャコ”とは、彼のニックネームを桑田佳祐が歌詞にしたもの。幼少時、ヒサヒコが呼びにくいためヒチャヒコとなり、縮めて“チャコ”が愛称になった。歌手引退後のビクター音楽産業ディレクター時代も"チャコ"と呼ばれ、その頃桑田と知り合っている。
浜野 安宏(はまの やすひろ、 1941年7月22日 - )… 浜野 安宏(はまの やすひろ、 1941年7月22日 - )は、京都府京都市出身の日本のライフスタイルプロデューサー。 高校時代は美術を志し上京したが、すぐに美術より映画に興味を持ち、日本大学芸術学部映画演出科に進学。同時期にセツ・モードセミナーにも入学。 ファッション、新業態開発、建築プロデュース、等の幅広い分野で活躍しているが、釣り師(フライ・フィッシャーマン)としてもその名は知れ渡っている。川釣りを愛好している為、自然保護にも積極的に力をいれている。 70歳を迎え、映画監督の道へ! ※2019年9月29日 アメリカ.ハリウッドの映画祭 ファミリーフイルム大賞 最優秀監督賞を受賞。 23rd Family Film Awards Winner2019 Best Director
丸山 正雄(まるやま まさお、1941年6月19日 - )は… 丸山 正雄(まるやま まさお、1941年6月19日 - )は、日本のアニメーションプロデューサー。元・株式会社マッドハウス取締役社長、現・MAPPA取締役会長。 2002年に第7回アニメーション神戸特別賞、2003年に第23回藤本賞奨励賞をそれぞれ受賞した。 1941年、宮城県塩竈市に生まれる。 法政大学文学部を卒業後、やりたいことが見付からずに1年ほどフリーターのようなことをしていたが、知人の紹介で1965年に虫プロダクション(旧虫プロ)にアニメの会社とは知らずに入社する。 1972年、経営危機を迎えた虫プロから出崎統、りんたろう、川尻善昭ら、その後の日本のアニメ文化を牽引することになる作り手たちと共に独立して有限会社マッド・ハウス(現:株式会社マッドハウス)を設立、1980年には代表取締役社長に就任する。
皇 達也(すめらぎ たつや、1941年(昭和16年)5月4日… 皇 達也(すめらぎ たつや、1941年(昭和16年)5月4日 - 2021年(令和3年)3月20日)は、日本のテレビプロデューサー。ジャパン・コンテンツ・コンサルティング代表取締役社長。 テレビ朝日事業局長、取締役制作局長歴任後、テレビ朝日サービス代表取締役社長を務めた。テレ朝の天皇の異名で知られた。 父は元広島大学学長で教育学者の皇至道。叔父も東北大学名誉教授で、玉川大学文学部長を務めた教育学者の皇晃之。 広島県出身。広島大学附属中学校・高等学校、慶應義塾大学文学部卒業。慶應在学中からNETテレビ(日本教育テレビ。後のテレビ朝日)でアルバイトをしており、卒業後の1964年、社員に登用され正式に同局入社。
野崎 欣宏(のざき よしひろ、1941年4月19日 - 20… 野崎 欣宏(のざき よしひろ、1941年4月19日 - 2017年1月10日)は、日本のアニメプロデューサー。 1941年4月19日、埼玉県所沢市生まれ。戦後の幼少期から文芸作品など様々な芸術分野に関心を抱き、哲学を始めとする学問分野についても独学で学ぶ。漫画家手塚治虫の作品と出逢い、漫画文化や映像文化、そしてアニメーション文化に強い関心を覚える。その後、虫プロダクション入社試験を受け、1963年1月に入社。制作進行としての入社だったが、資料室へ配属される。資料室ではバンクシステムの管理を行った他、制作に必要な資料集めも行った。 虫プロダクションの倒産後は、西崎義展のオフィスアカデミーへ移籍し、1974年の『宇宙戦艦ヤマト』企画にも参加。
井上 堯之(いのうえ たかゆき、1941年3月15日 - 2… 井上 堯之(いのうえ たかゆき、1941年3月15日 - 2018年5月2日)は、日本のギタリスト・作曲家・歌手・音楽プロデューサー。本名は同じ。別名は井上 孝之。愛称はイノヤン。兵庫県神戸市出身。 兵庫県立星陵高等学校卒業後は、滝の茶屋駅前の「すしひろ」で板前だったが、TVのオーディション番組をきっかけに、歌の世界に入る。 ザ・スパイダース結成時代は、「スリージェット」という3人組のコーラス&ダンスグループの一員として活躍したが、リバプールサウンド編成に伴い、ギターを独学し、ボーカルと、リード・ギターを担当するまでになった。ザ・スパイダース時代は井上 孝之と名乗っていた。 1970年のザ・スパイダース解散後、1971年にPYGに参加し、「花・太陽・雨」「自由に歩いて愛して」などを作曲した。
井上堯之(いのうえ たかゆき、1941年3月15日 - )は… 井上堯之(いのうえ たかゆき、1941年3月15日 - )は、日本のミュージシャン・ギタリスト・作曲家・歌手・音楽プロデューサー。兵庫県神戸市出身。本名は同じ。別名は井上 孝之。愛称はイノヤン。
林 瑞峰(はやし ずいほう、1941年3月15日 - )は、… 林 瑞峰(はやし ずいほう、1941年3月15日 - )は、日本の実業家、映画プロデューサーである。 ヒューマックス副社長、ジョイパックフィルム(のちのヒューマックスピクチャーズ、現在のヒューマックスシネマ)代表取締役社長、ギャガ・コミュニケーションズ取締役、株式会社カミングスーン・ティービー取締役を歴任、現在、ヒューマックスシネマ代表取締役社長、ヒューマックスコミュニケーションズ代表取締役社長、外国映画輸入配給協会理事、東京都興行生活衛生同業組合副理事長。 1941年(昭和16年)3月15日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる。父はヒューマックスグループ創業者の林以文(1913年 - 1976年)、兄に現在の同グループ会長・林瑞祥(1935年 - )、ヒューマックス副社長・林瑞禎(1937年 - )、弟にジョイパックグループの林光男(1943年 - )がいる。
加瀬 邦彦(かせ くにひこ、1941年3月6日 - 2015… 加瀬 邦彦(かせ くにひこ、1941年3月6日 - 2015年4月20日)は、日本の作曲家、音楽プロデューサー。 東京府(現東京都)生まれ。一歳年上の姉がいる。幼稚舎から慶應義塾に通う。 1957年11月、慶應義塾高等学校1年生の時、東京都から神奈川県茅ヶ崎市に転居したが、これが縁で同年12月23日にアメフト部の先輩の紹介により俳優・上原謙のクリスマス・パーティーに誘われ、当時、慶應義塾大学2年生だった加山雄三に出会い、音楽面のみならず、プライベートでも親交を深めるようになる。 慶應義塾大学法学部政治学科在学中の1961年に、初めてのバンド「ザ・トップビーツ」を結成する。その後、ホリプロに所属し、清野太郎、かまやつひろしらとバンド「キャノンボール」を結成。
高井 英幸(たかい ひでゆき、1941年(昭和16年)2月2… 高井 英幸(たかい ひでゆき、1941年(昭和16年)2月24日 - )は、日本の映画プロデューサー、実業家。東宝社長、公益財団法人徳間記念アニメーション文化財団理事、ユニジャパン理事長などを務めた。東京都出身。
川添 象郎(かわぞえ しょうろう、1941年1月27日 - … 川添 象郎(かわぞえ しょうろう、1941年1月27日 - )は、日本の音楽プロデューサー。別名・川添象多郎。V3株式会社代表取締役。
能村 庸一(のむら よういち、1941年(昭和16年)1月6… 能村 庸一(のむら よういち、1941年(昭和16年)1月6日 - 2017年(平成29年)5月13日)は、日本のテレビプロデューサー。 フジテレビ入社後はアナウンサーを経て、同局の時代劇プロデューサーとして活動した。 東京都生まれ。東京都立北園高等学校、青山学院大学文学部を卒業。高校・大学時代は放送研究会に所属した。 1963年4月、2000人の応募者の中から、フジテレビにアナウンサーとして入社。同期のアナウンサーに岩佐徹、露木茂らがいる。 アナウンサーとして『名画座手帳』、舞台中継などを担当。1972年に編成企画部へ異動し、プロデューサーに転向。その後、開発調査部長、調査部長、編成局編成局専任局長(1994年)などを歴任し、『鬼平犯科帳』、『仕掛人・藤枝梅安』、『八丁堀捕物ばなし』、『阿部一族』、『御家人斬九郎』、『剣客商売』など、レギュラー番組は約20本、単発番組は約100本の時代劇企画制作を手がけたほか、能村太郎名義でナレーションも務めた。
別紙 壮一(べっし そういち、1941年 - )は、日本の元… 別紙 壮一(べっし そういち、1941年 - )は、日本の元アニメプロデューサー。香川県高松市出身。 香川県立坂出高等学校、中央大学商学部卒業。大学卒業後に日通液化ガス(在職中に日通商事へ社名変更。現:NX商事)へ入社し、主計課に配属される。その傍ら、妻の姉の友人である藤岡豊に経理業務の補佐を依頼され、非常勤のアルバイトとしてシンエイ動画の前身である有限会社エイプロダクション(Aプロ)に出入りするようになる。藤岡とはその後義兄弟の関係となる。 アニメ業界への関心が高まったことや、Aプロの社長である楠部大吉郎に乞われたこともあって転職を決意し、1966年11月に日通商事を退社して、総務経理の専従スタッフとしてAプロに入社。
山崎 敬之(やまざき けいし、1941年 - )は、日本のシ… 山崎 敬之(やまざき けいし、1941年 - )は、日本のシナリオライター、アニメプロデューサーである。主にテレビアニメのシナリオを手掛けてきた。 東京都出身。早稲田大学第一文学部仏文学科卒業後、神田の地図出版社に就職、『観光百科』の編集に携わっていたが、偶然、家庭教師のアルバイト先の隣家が東京ムービーの取締役企画部長宅であったことから、1968年11月同社に転勤し、テレビアニメ『怪物くん』のシナリオ制作に参加した。 その後、テレビアニメ作品『巨人の星』、『六法やぶれクン』、『新オバケのQ太郎』、『赤胴鈴之助』、『ど根性ガエル』、『柔道讃歌』、『はじめ人間ギャートルズ』、『元祖天才バカボン』、『家なき子』、『宝島』、『ベルサイユのばら』、『おはよう!スパンク』、『じゃりン子チエ』、『とんでモン・ペ』、『それいけ!アンパンマン』などに参加。
藤 ひさし(ふじ ひさし、1940年11月19日 - )は、… 藤 ひさし(ふじ ひさし、1940年11月19日 - )は、日本の映像作家、美術コンテンツ・プロデューサー。東京西麻布生まれ。本名は遠藤 欽久(えんどう よしひさ、一般社団法人日本美術アカデミー理事)。 中央大学フランス文学科を卒業後、会社員を経て映像制作会社を設立。ルーブル、プラド、エルミタージュ等、海外の有名美術館と直接交渉し、主要な所蔵作品をハイビジョン映像にて撮影。『世界の美術館』(ビデオ全18巻。後にレーザーディスク、DVD版も)として1991年に発売。以後、DVDやテレビ番組など美術関連の映像制作物の脚本・プロデュース、美術関連書籍の執筆など幅広く活躍。(参考資料:書籍の著者紹介、作品の制作資料)
神戸 文彦(かんべ ふみひこ、1940年9月7日 - )は、… 神戸 文彦(かんべ ふみひこ、1940年9月7日 - )は、日本のテレビプロデューサー・テレビディレクター。 日本テレビ放送網の制作局エクゼクティブディレクターで、長年に渡って日本テレビのバラエティ番組の演出を手掛けている。
岩崎 信子(いわさき のぶこ、1940年5月26日 - )は… 岩崎 信子(いわさき のぶこ、1940年5月26日 - )は、日本のディレクター、プロデューサー、俳人、元アナウンサー。 東京府生まれ。長野県茅野市育ち。1959年長野県諏訪清陵高等学校卒業。信越放送テレビアナウンサー第一期公募試験に合格し入社。アナウンサーとしてテレビ草創期のテレビ・ラジオ番組(「日曜教室」、「暮らしのターミナル」等)担当。1981年上田放送局に転勤し、ディレクター・プロデューサーとして「カクテルトークかるいさわいろ」、「ヒーリングラジオ木の子守唄」、「ぷらっとほーむ小海線」、「里枝子の窓」等の番組を手がける。1994年俳句結社「梟」入会、矢島渚男に師事。2000年信越放送定年退職。
立岡脩二(たつおか しゅうじ、1940年(昭和15年)3月2… 立岡脩二(たつおか しゅうじ、1940年(昭和15年)3月20日 - )は、岡山県邑久郡(現・瀬戸内市)出身の映画プロデューサー、地方政治家。元山陽映画プロデューサー、元岡山県瀬戸内市長。 災い転じて福となす。常にプラス思考。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
西沢 信孝(西澤、にしざわ のぶたか、1940年3月8日 -… 西沢 信孝(西澤、にしざわ のぶたか、1940年3月8日 - 2015年3月4日)は、日本のアニメーション監督、アニメプロデューサー。 代表作にテレビアニメ『銀河鉄道999』、『DRAGON QUEST -ダイの大冒険-』、『SLAM DUNK』など。 熊本県出身。日本大学芸術学部映画学科在学中は、東京放送(TBS)でラジオの仕事のアルバイトをし、卒業後は新聞社に入社、2430!名義で競馬の予想記者をする、もすぐに退社。1964年、東映動画(現東映アニメーション)の助監督の募集に応募して入社。同期は、白川大作に師事し、翌1965年『ハッスルパンチ』の4話で演出デビュー。1974年に『マジンガーZ対暗黒大将軍』で初の劇場作品の監督を手がける。
百瀬 博教(ももせ ひろみち、1940年〈昭和15年〉2月2… 百瀬 博教(ももせ ひろみち、1940年〈昭和15年〉2月20日 - 2008年〈平成20年〉1月27日)は、作家、詩人、格闘技プロデューサー。日本スノードーム協会事務局長。血液型AB型。総合格闘技イベントPRIDEとの関わりから、「PRIDEの怪人」の異名を持っていた。 東京市浅草区(現台東区)柳橋出身。侠客の百瀬梅太郎の次男として出生。学生時代は相撲取りを目指し、私立市川高等学校では相撲部を創設して、関東大会2位、国民体育大会に出場した。立教大学文学部史学科在籍中も相撲部に所属し、同大学の相撲部は、百瀬と交流のある周防正行が1992年(平成4年)に監督した映画『シコふんじゃった。』のモデルになっているという。
加賀 義二(かが よしじ、1940年2月 - )は、日本のテ… 加賀 義二(かが よしじ、1940年2月 - )は、日本のテレビプロデューサー。慶應義塾高等学校、慶應義塾大学経済学部卒業。 東京都世田谷区生まれ。父の加賀二郎は元週刊ダイヤモンド記者、のち松竹株式会社元常務、歌舞伎座専務・歌舞伎座映画プロデューサー。また、祖父は元衆議院議員の加賀卯之吉、伯父・加賀一郎は陸上競技選手でアントワープオリンピックの100メートル競走、200メートル競走の日本代表選手、叔父・加賀四郎は大映のプロデューサー。四郎の娘で女優の加賀まりこはいとこに当たるという芸能一家の出身。姉がいたが、1945年の太平洋戦争終戦直後に19歳で亡くなっている。 高校生になってからは、年に100本以上の映画を観るようになり、特に好みは『愛の泉』(ジーン・ネグレスコ監督作品)、『花嫁はどこにいる』(野村芳太郎監督作品)だった。
九里 一平(くり いっぺい、1940年1月1日 - 2023… 九里 一平(くり いっぺい、1940年1月1日 - 2023年7月1日)は、日本の漫画家、アニメ監督、アニメーションプロデューサー、キャラクターデザイナー。株式会社タツノコプロ第3代代表取締役。京都府京都市出身。本名:吉田豊治(よしだ とよはる)。 タツノコプロ創業経営者一族の「吉田三兄弟」の三男で、長兄は漫画家・アニメ原作者・タツノコプロ初代社長の吉田竜夫、次兄はアニメプロデューサー・タツノコプロ第2代社長・初代会長の吉田健二。 ペンネームの由来は「お前は目がクリクリしているから」と言われ「クリ=九里」とし、さらに「一平」をつけたことによる。 挿絵画家・漫画家として活躍していた竜夫の後を追い上京。
若松 宗雄(わかまつ むねお、1940年〈昭和15年〉 - … 若松 宗雄(わかまつ むねお、1940年〈昭和15年〉 - )は、日本の音楽プロデューサー。福島県いわき市生まれ。慶應義塾大学文学部英文科卒業。エスプロレコーズ代表。 1969年 - CBS・ソニーレコード株式会社(現・株式会社ソニー・ミュージックエンターテインメント)入社後、大阪営業所に着任する。セールスの実績を買われ、一年半後に広島営業所の所長となる。当初、広島営業所は全営業所中最下位だったが、若松の着任後一年足らずで売上、回収、キャンペーン等すべての面で全営業所中トップの成績にまで回復する。その実績を認められ、東京第一営業所長に抜擢される。更に制作管理(アーティスト契約なども当時はこのセクションで担当していた)、宣伝部門を経て企画制作部に移り、プロデューサーとして活躍するようになる。
河内 紀(かわち かなめ、1940年 - )は、音楽プロデュ… 河内 紀(かわち かなめ、1940年 - )は、音楽プロデューサー、映像ディレクター。劇作家・演出家の佐藤信は義弟。 東京生まれ。早稲田大学在学中、大和屋竺や田中陽造らと 「稲門シナリオ研究会」に属し、ドキュメンタリー映画を製作。 1962年、TBS入社。ラジオを中心に活躍し、1974年に退社。宍戸錠主演のラジオ番組「ヤング・パンチ」シリーズに、鈴木清順をはじめとする具流八郎グループを起用して話題となる。 その後、鈴木清順監督の映画『ツィゴイネルワイゼン』、『陽炎座』などの音楽監督、キース・ジャレットの全ビデオ作品の演出などを手掛ける。 1970年ラジオドキュメンタリー「ヤッホー」でイタリア賞グランプリ受賞。
高橋 五郎(たかはし ごろう、1940年 - 2017年)は… 高橋 五郎(たかはし ごろう、1940年 - 2017年)は、日本のドキュメンタリー映像プロデューサー、作家。静岡県焼津市生まれ。 日本初の求人専門の写真週刊誌を都内JRと地下鉄で発売、1960年代初頭、太陽電池(雲母体)と半導体(チップ)の現物をアメリカから日本へ初めて持ち込み、旧通産省において国内大手電機メーカーへ初公開。 スペイン政府と王室のための、歴史的文物類と王室所有の秘蔵品をスペイン史上初めて映像に収録。 1980年代には、再生医療の開発・研究のために、カリフォルニア大学バークレー校とバイオ・タイム社として、世界初の人工血液開発実験に成功、その全記録映像を世界へ配信。 主な映像企画作品に「零戦第4617号」(NHK-BS)、「アルタミラ原始洞窟絵画」(TBS)、「スペイン王室の記録」「幻の巨大地下壕」(以上、日本テレビ)、「広島原爆はナチス製だった!?」(テレビ朝日)など多数。
広渡 勲(ひろわたり いさお、1940年 - )は日本の演出… 広渡 勲(ひろわたり いさお、1940年 - )は日本の演出家、音楽プロデューサー。
井上 悟(いのうえ さとる、1939年〈昭和14年〉12月2… 井上 悟(いのうえ さとる、1939年〈昭和14年〉12月24日 - )は、元RKB毎日放送のアナウンサー・ラジオプロデューサー。 福岡県甘木市(現・朝倉市)生まれ。西南学院大学文学部卒業後、1963年にRKBに入社。1978年からはマイクネームを友人の勧めで井上里瑠に改名、プロデューサーや作家のときは井上サトルとして活動。現在はRKBの系列会社であるRKB興発株式会社の代表取締役社長を務めている。 「スマッシュ!!11」時代は鼻の下にヒゲを生やしていたことから、当時はライオンパパの愛称が付いていた。また、同番組から全国に進出していったミュージシャンたちから慕われるような存在であり、中でも井上陽水からは“おやじさん”と言われていたほどだった。
本城 和治(ほんじょう まさはる、1939年12月 - )は… 本城 和治(ほんじょう まさはる、1939年12月 - )は、日本の音楽プロデューサー。著作家。作曲家。 「日本にポピュラー音楽を根付かせたプロデューサー」「60年代から80年代にかけてのJ-POPシーンを作った制作者」「音楽プロデューサーは目利きであり耳利きでなければならない。そんな観点に立つと本城和治という音楽プロデューサーはすごいプロデューサー」との評価がある。 別名義は「藤まさはる」「乗輪寺モトオ」。 東京出身。父は銀行マン。慶應義塾大学経済学部卒業。在学中は慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団に所属。慶應ワグネルの先輩だった渡邊學而に誘われ、1962年日本ビクター(現ビクターエンタテインメント)に入社。
朝比奈 愛子(あさひな あいこ、1939年11月22日 - … 朝比奈 愛子(あさひな あいこ、1939年11月22日 - )は日本の歌手、女優、作家、芸能企画プロデューサー。 1939年11月22日、東京府東京市目黒区大岡山に商社員の朝比奈愛三とその妻千恵子の次女として生まれる。東京都立三田高等学校を中退。 1958年5月、姉の雪村いづみとのデュエット曲「シュガー・キャンデー」でデビュー。同年9月、「続々サラリーマン出世太閤記」で映画デビュー。 1988年、短編小説「赤土の庭」で中央公論社の第31回「女流新人賞」を受賞。 1993年、ミュージカル「クッキングガール」の原作を執筆。
筑波 久子(つくば ひさこ、1939年〈昭和14年〉11月6… 筑波 久子(つくば ひさこ、1939年〈昭和14年〉11月6日 - )は、日本の元女優で、アメリカ合衆国の映画プロデューサーである。筑波プロ、チャコフィルム代表。 アメリカ合衆国での別名はチャコ・ヴァン・リューウェン (Chako van Leeuwen)。 茨城県多賀郡大津町(現・北茨城市大津町)五浦出身。父・弥一郎、母・ハツの間に4人兄妹の末っ子として生まれる。 兄が2人、姉が1人いる。父は地元大手の旅館「五浦観光ホテル」と映画館を経営していた。旅館の女将であった母親に溺愛され、母を憧れにして育つ。小・中学校は地元の大津小学校、常北中学校に通った。中学時代は生徒会長を務め、トップ成績で慶應義塾女子高等学校に進学。
大野 克夫(おおの かつお、1939年〈昭和14年〉9月12… 大野 克夫(おおの かつお、1939年〈昭和14年〉9月12日 - )は、日本の作曲家、編曲家、キーボーディスト、音楽プロデューサー。京都府京都市出身。 1962年から1970年までザ・スパイダース、1971年から1972年までPYG、1971年から1980年まで井上堯之バンドのメンバーとして活動。1980年に大野克夫バンドを結成し、活動を続ける。愛称は克夫ちゃん。 後述するように、沢田研二をはじめ多数の歌手へ楽曲を提供している。1975年の「時の過ぎゆくままに」は約92万枚の売り上げを記録。1977年の「勝手にしやがれ」は89万枚の売り上げを記録。第19回日本レコード大賞の大賞、第8回日本歌謡大賞の大賞、第10回日本有線大賞の大賞を受賞し、主要な賞レースを独占した。
古川 清(ふるかわ きよし、1939年8月8日 - 2015… 古川 清(ふるかわ きよし、1939年8月8日 - 2015年4月20日)は、日本の演劇プロデューサー、演出家。北九州市ソレイユホール館長。 父は喜劇俳優の古川ロッパ、弟は俳優の古川ロック。 東京に生まれる。1962年、慶應義塾大学文学部美学美術史科卒業。 卒業と同時に、東宝演劇部へ。演出部を経て、1967年、現在の帝国劇場の開場よりプロデューサーを務める。東宝時代は『スカーレット』(1970年『風と共に去りぬ』のミュージカル化)、『シカゴ』(1985年、1986年)、『レ・ミゼラブル』(1987年日本初演)、『ミス・サイゴン』(1992年日本初演)などの製作を担当。師である菊田一夫の演出助手を主に務め、演出作品としてミュージカル『ピピン』、演出補として『屋根の上のヴァイオリン弾き』『佐渡島他吉の生涯』『マイ・フェア・レディ』など多数を手がけた。
高畠 久 (たかばたけ ひさし、1939年7月16日 - )… 高畠 久 (たかばたけ ひさし、1939年7月16日 - )は 日本の編集者、脚本家、映画プロデューサー。 樺太出身。洛星中学校・高等学校、早稲田大学文学部演劇科卒業。1962年東宝に入社。「権藤利英」のペンネームで松竹映画『夜の片鱗』の脚本を執筆。1967年東宝退社。1975年、企画制作プロを設立し、映画・テレビドラマ・テレビ番組・コンサートなどの企画・脚本・プロデュースに当たる。2012年に演劇プロデュースグループ「スタジオQ」を設立。
松尾 武(まつお たけし、1939年4月14日 - )は、元… 松尾 武(まつお たけし、1939年4月14日 - )は、元NHK所属のテレビドラマのディレクター・プロデューサー。 1962年NHKに入局、1997年に理事に就任、1999年に専務理事・放送総局長に就任する。2001年の退任後には日本放送出版協会の社長に就任する。第14、15期著作権審議会委員。日本映画テレビプロデューサー協会監事。
原田 力男(はらだ いさお、1939年3月1日 - 1995… 原田 力男(はらだ いさお、1939年3月1日 - 1995年3月22日)は日本の音楽プロデューサー、ピアノ調律師。 山口県防府市に生まれ、1943年、義父を結核で失う。1957年に山口県立防府高等学校を卒業し、浜松市の日本楽器KK(ヤマハ)本社工場で徒弟制度の下、ピアノ調律の修業を開始。1959年にヤマハ調律師養成システム(委嘱制度)を終え、防府市の実家に帰り、同市内の玉重楽器店に勤務。1961年8月に同店を辞職して上京。1962年、法政大学夜間部に入学。ヤマハピアノ杉並サービスセンターに勤務しつつ同大学に3年余り通学するも、ピアノ調律師としての本業が多忙となり中退。1968年10月、独立して「原田ピアノ調律工房」を設立。
鈴木 健介(すずき けんすけ、1939年2月11日 - )は… 鈴木 健介(すずき けんすけ、1939年2月11日 - )は、日本の映画監督(ドキュメンタリー)、プロデューサーである。同姓同名の俳優の鈴木健介とは無関係の別人である。 1939年(昭和14年)2月11日、東京市豊島区巣鴨(現在の東京都豊島区巣鴨)に生まれる。 1963年(昭和38年)日本大学芸術学部映画学科演出コースを卒業。在学中には当時同大学で教授をつとめていた牛原虚彦に師事して演出の基本を学ぶ。50分の劇映画『明るすぎて暗い』を卒業製作として脚本、監督した。卒業後はフリーランスとして映画やテレビの仕事につく。 1966年(昭和41年)から3年間、中川信夫の助監督をつとめて強い影響を受け、中川が1984年(昭和59年)に死去するまでの18年間にわたり人生の師と仰いで交流した。
佐々木 史朗(ささき しろう、1939年1月22日 - 20… 佐々木 史朗(ささき しろう、1939年1月22日 - 2022年4月18日)は、日本の映画プロデューサー。本名は佐々木正路(ささき まさみち)。日本アート・シアター・ギルド(ATG)二代目社長。 ATGにて、他の映画会社とは一線を画す非商業主義的な芸術作品を製作・配給し、数多くの若手映画監督の輩出に尽力した。 永年の映画界への貢献が称えられ、日本アカデミー賞協会特別賞や文化庁映画賞(映画功労部門)を受賞。東京国際映画祭の創設にも尽力。日本映画大学の理事長も長年務めた。黒沢清がカンヌ国際映画祭ある視点部門の監督賞を受賞した「岸辺の旅」の製作。 長年 新進気鋭の若手監督や錚々たる監督(大森一樹、
千葉 真一[注釈 1](ちば しんいち、JJ Sonny C… 千葉 真一[注釈 1](ちば しんいち、JJ Sonny Chiba [注釈 2], 1939年1月22日 - )は、日本の俳優・体操選手・空手家・歌手・芸能プロモーター・アクション監督・映画監督・映画プロデューサー・作詞家・作曲家・ナレーター・声優。
金子 満(かねこ みつる、1939年(昭和14年)1月 - … 金子 満(かねこ みつる、1939年(昭和14年)1月 - 2018年(平成30年)6月15日)は、日本のアニメーション・プロデューサー、ディレクター、シナリオライター。「日本のコンピュータグラフィックスの父」と称される。 東京都生まれ。東京工業大学大学院後期博士課程修了。学位は博士(学術)。 慶應義塾大学、東京工科大学教授を務めた。 父は映画配給会社・東宝の重役を務めた。 慶應義塾大学法学部を卒業後、フジテレビジョンに入社。編成部で『日清オリンピックショウ 地上最大のクイズ』や『第7の男』『ゼロファイター』などを手掛ける。1964年に担当した『ゼロファイター』では制作方針の混乱から、当時のスポンサーが完成作品を敬遠して1969年まで「お蔵入り」を招く失敗を経験した。
南條 道昌(なんじょう みちまさ、1939年 - 2010年… 南條 道昌(なんじょう みちまさ、1939年 - 2010年)は、都市計画家、都市プロデューサー。 1962年、東京大学工学部建築学科卒業。1964年、同大学院修士課程、1967年、博士課程修了。1967年、株式会社都市計画設計研究所設立。 筑波研究学園都市や日本万国博覧会の会場基本計画や一連の諸計画、日本万国博覧会記念公園、花と緑の博覧会政府苑や世界都市博覧会の基本計画・設計、沖縄国際海洋博覧会会場基本計画・基本設計・全体調整、千葉モノレール県庁前駅舎基本計画などのイベント及び都市計画・施設設計に携わる。浜名湖花博で会場計画プロデューサーとしてかかわり、Good Design Award受賞ほか。
上原 直彦(うえはら なおひこ、 (1938-10-23) … 上原 直彦(うえはら なおひこ、 (1938-10-23) 1938年10月23日(87歳)‐ )は、沖縄の放送人、フリープロデューサー。 沖縄県那覇市垣花出身。石川高等学校卒業後、琉球新報社入社。社会部勤務時代に1959年の宮森小学校米軍機墜落事故を森口豁とともに取材。同年琉球放送に移籍、当初3か月は報道部、その後はラジオ制作部。1961年から始まった「民謡で今日拝なびら」にプロデューサーとしてかかわり、のちにパーソナリティに。ラジオ局制作部専門職部長、ラジオ局次長を経て、役員待遇ラジオ局専任局長を最後に1998年退職後も現在に至るまでパーソナリティを続けている。元部下に宮城麻里子等がいる。民謡をはじめとする沖縄の芸能文化に造詣が深く、1960年代から70年代にかけて竹中労とともに嘉手苅林昌らの沖縄民謡を本土に紹介した。
中島 順三(なかじま じゅんぞう、1938年8月1日 - 2… 中島 順三(なかじま じゅんぞう、1938年8月1日 - 2022年8月14日)は、日本のアニメーションプロデューサー。東京都墨田区出身。公益財団法人徳間記念アニメーション文化財団評議員。日本大学芸術学部写真学科卒業。 日本アニメーションには設立から加わり、プロデューサーとして、世界名作劇場を始めとする日本アニメーション作品の製作を行なった。 大学在学中からスチルカメラマンとして新東宝が制作したテレビ映画の宣伝用スチル写真を撮影するアルバイトを行っていた。テレビ映画はフィルムで撮影されたテレビドラマで、映画会社系の制作プロダクションの作品をこう呼んだ。大学を卒業すると、東映の子会社の東映テレビ映画株式会社に契約社員として就職。