皿井 立三郎(さらい たつさぶろう、明治3年10月11日(1… 皿井 立三郎(さらい たつさぶろう、明治3年10月11日(1870年11月4日) - 昭和20年(1945年)12月18日)は日本の医師、俳人。大阪府士族。元皿井耳鼻咽喉科医院長。 妻・清江は本田親雄男爵の三女。五男五郎の妻昭子は女優司葉子の姉。長女慶子は旧伯太藩主家の渡辺英綱子爵に嫁いだ。 岡山県士族・武市文太郎の二男。皿井安太郎の養子となる。明治20年(1887年)家督を相続する。 明治28年(1895年)、岡山医専卒業。同校講師。独逸に留学しロストック大学に学び帰朝、耳鼻咽喉科医師となる。 趣味は俳句。俳人としても活動。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
木村 清治(きむら せいじ、1870年9月10日(明治3年8… 木村 清治(きむら せいじ、1870年9月10日(明治3年8月15日)- 1961年(昭和36年)1月25日)は、明治から昭和前期の医師、政治家、実業家。衆議院議員。 陸奥国磐前郡、のちの福島県磐前郡大浦村(石城郡大浦村、四倉町を経て現いわき市四倉町)で、木村玄策の二男として生まれる。1890年(明治23年)済生学舎(現日本医科大学)を卒業。医術開業試験に合格し、1893年(明治26年)に帰郷して医院を開業した。 1911年(明治44年)福島県会議員に選出され3期在任し、同参事会員も務めた。大浦村会議員、石城郡会議員にも在任した。1928年(昭和3年)2月、第16回衆議院議員総選挙(福島県第3区、立憲政友会公認)で初当選し、1930年(昭和5年)2月の第17回総選挙(福島県第3区、立憲政友会公認)でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
蠣崎 千晴(かきざき ちはる、1870年6月11日(明治3年… 蠣崎 千晴(かきざき ちはる、1870年6月11日(明治3年5月13日) - 1950年9月29日)は、日本の獣医学者、家畜伝染病学者、医学博士である。 家畜伝染病学の第一人者であり、牛疫予防ワクチンを開発した。この牛疫予防ワクチンは、牛疫病牛の脾臓乳剤及びリンパ腺にグリセリンを作用させ、その発病性を失わせることで作られた。このワクチンは牛に対する注射反応が非常に少なく、免疫持続期間は約1年、製造後の有効期間も2年半から3年9か月と優秀なものであった。
松波 焸太郎(まつなみ えいたろう、1870年(明治3年)6… 松波 焸太郎(まつなみ えいたろう、1870年(明治3年)6月2日 - 1928年(昭和3年)9月26日)は、20世紀初めに大日本帝国で活動した医師、実業家である。ドクトル及び医学博士の学位を持ち、病院を経営した。
血脇 守之助(ちわき もりのすけ、1870年3月2日(明治3… 血脇 守之助(ちわき もりのすけ、1870年3月2日(明治3年2月1日) - 1947年(昭和22年)2月24日)は、日本の歯科医師。日本歯科医師会会長。東京歯科大学の創立者の一人。明治後期から昭和初期にかけて日本の近代歯科医療制度の確立に尽力した。また、野口英世のパトロンとして知られる。
松井 庄五郎(まつい しょうごろう、旧姓・亀井、1870年1… 松井 庄五郎(まつい しょうごろう、旧姓・亀井、1870年1月〈明治2年12月〉 - 1931年〈昭和6年〉11月29日)は、日本の獣医師、実業家、融和運動家。大和同志会会長。親族には陸軍少将の松井源之助がいる。 奈良市西之阪の精肉商を営む家に生まれる。哲学館に学ぶ。1902年(明治35年)、東京帝国大学農科大学卒業。獣医となる傍ら、車挽業などの経営でも蓄財し、士族籍を買得して改姓した。1931年(昭和6年)11月29日、死去。 1912年(大正元年)、大和同志会を結成し、松井は初代会長に選ばれる。機関誌『明治之光』を発刊し、部落差別事件の糾弾、融和運動を行う。 松井はこれを全国規模の運動に拡大しようと考え、最初、山口県の有志らと会合を開く。
伊藤 恭太郎(いとう きょうたろう、1870年 - 1929… 伊藤 恭太郎(いとう きょうたろう、1870年 - 1929年11月)は、日本の医師、政治家、開業医、西田川郡医師会2代会長、鶴岡市医師会初代会長、鶴岡市会議員。
三上 剛太郎(みかみ ごうたろう、明治2年11月15日(18… 三上 剛太郎(みかみ ごうたろう、明治2年11月15日(1869年12月17日) - 昭和39年(1964年10月27日))は、日本の医師・軍医・新聞記者。日露戦争に従軍した時のエピソード(後述)で後世に名を残した。最終階級は陸軍一等軍医。 1869年(明治2年)11月15日、陸奥国三戸県佐井村(現在の青森県下北郡佐井村)の代々医家である三上家の長男(8代目)として生まれた。1875年(明治8年)に佐井小学校(現在の佐井村立佐井小学校)に入学。1884年(明治17年)に上京して、三田英学校(現在の錦城学園高等学校)で学ぶ。そこで漢文学者の森田思軒の影響を受け、文学へ傾倒した。1888年(明治21年)に英学校を卒業後、読売新聞社社会部記者となり、新聞記者の世界へ足を踏み入れた。
木下 正中 (きのした せいちゅう、1869年9月24日(明… 木下 正中 (きのした せいちゅう、1869年9月24日(明治2年8月19日) - 1952年(昭和27年)1月1日)は、日本の産婦人科医師・医学者。医学博士、東京帝国大学教授。 1869年(明治2年)、木下凞(ひろむ。1844年 - 1914年)の長男として若狭国小浜に出生。木下家はもと小浜藩の藩医の家で、木下宗白が杉田玄白に師事して蘭方外科医になったのに始まり、凞が4代目にあたる。凞は明治維新によって官医となり、1869年(明治2年)から1873年(明治6年)にかけて横浜でヘボンとシモンズに就いて西洋医学の経験を積んだ。その後、京都に移って京都療病院(現在の京都府立医科大学)に勤務、のちに産婦人科医を開業した。
下島 勲(しもじま いさおし、通称いさお、1869年9月20… 下島 勲(しもじま いさおし、通称いさお、1869年9月20日(明治2年8月25日) - 1947年(昭和22年)5月30日)は、日本の医師、俳人。号は空谷(くうこく)。 長野県伊那郡原村(現・駒ヶ根市)出身。上京後苦学して商業学校、ついで東京慈恵医院医学校を卒業し軍医となる。日清戦争・日露戦争などに従軍して陸軍一等軍医となり、1907年軍隊を退く。同年、東京都田端348番地(現・東京都北区田端1丁目15番)に、楽天堂医院を開業。田端鉄道病院に嘱託医師としても勤めた。書画・俳句などを通じて芥川龍之介・室生犀星・久保田万太郎・菊池寛・板谷波山・萩原朔太郎ら多くの文士・彫刻家・画家などと親交を深め、「道閑会」という田端在住の文士・芸術家達の交流の会の主要メンバーを務めた。
三浦 万太郎(みうら まんたろう、三浦萬太郎、1869年〈明… 三浦 万太郎(みうら まんたろう、三浦萬太郎、1869年〈明治2年〉2月25日 - 1935年〈昭和10年〉7月)は、宝飯郡形原村(現・蒲郡市)出身の眼科医・実業家。妻は東三河地方初の女医である三浦こう。 1869年(明治2年)2月25日に宝飯郡形原村(現・愛知県蒲郡市)に生まれた。旧制宝飯中学校を卒業すると、1890年(明治23年)に医術開業試験に合格し、順天堂医院の佐藤泰然博士や須田博士に師事した。東京ではスワン石鹸会社を設立するなどしている。 やがて故郷の形原村に戻ると村岡こうと結婚し、1892年(明治25年)には形原村に三浦こうとともに愛明堂医院を開業した。三浦こうの義兄である小川平吉が鉄道大臣となると、奥飛騨温泉郷の平湯温泉の開発に尽力したが、平湯温泉への鉄道の敷設は実現しなかった。
佐藤 沢(さとう さわ / たく、明治元年12月13日(18… 佐藤 沢(さとう さわ / たく、明治元年12月13日(1869年1月25日) - 昭和23年(1948年)7月25日)は、日本の医師。福島市長。 宮城県亘理郡亘理町出身。1891年(明治24年)、第二高等中学校医学部卒業。1896年(明治29年)、福島市に病院を開設し、1927年(昭和2年)に東京に移転した。1901年(明治34年)、福島町会議員となり、福島市会議員、同副議長、同議長を歴任した。 1929年(昭和4年)に福島市長に選出され、1945年(昭和20年)まで16年間務めた。その後、公職追放となり、追放中の1948年(昭和23年)死去。
百瀬 興政(ももせ おきまさ、1868年10月27日〈明治元… 百瀬 興政(ももせ おきまさ、1868年10月27日〈明治元年9月12日〉- 1939年〈昭和14年〉4月21日)は、長野県出身の医師、政治家。松本市長。旧姓・柳野。 信濃国松本城下(現:長野県松本市)に松本藩士・柳野興一の次男として生まれ、百瀬元章の養子となる。1888年(明治21年)東京帝国大学医科大学別科を卒業。翌年、松本に医院を開業。医院を経営する傍ら、従兄弟の木下尚江らとともに普選運動や禁酒運動に参加する。1901年(明治34年)東筑摩郡看護婦会を組織する。1922年(大正11年)5月1日、松本信用組合(現:松本信用金庫)を設立し組合長に就任。 1898年(明治31年)松本町会議員に当選。
3代目 牧野 文斎(さんだいめ まきの ぶんさい、1868年… 3代目 牧野 文斎(さんだいめ まきの ぶんさい、1868年7月14日(慶応4年5月25日) - 1933年(昭和8年)6月25日)は、三河南設楽郡東郷村八束穂(現・愛知県新城市八束穂)出身の医師・実業家・郷土史家。「牧野文斎」は襲名制であり、本稿では3代目について記述する。 牧野家は三河吉田藩の藩医だったが、祖父の牧野竜庵(初代牧野文斎)は幕末にその職を辞した。宝飯郡一宮村江島(現・豊川市一宮町)から南設楽郡東郷村八束穂(現・新城市八束穂、やつかほ)に移り住み、信玄病院を開設して初代院長となった。当初は主屋の一部を診療所として使用していたが、やがて2階建の建物を当地に移築して病院とした。父の牧野謙作(2代目牧野文斎)もこの地で医業に励み、信玄病院の2代目院長となった。
西野 久右衛門(久右衞門、にしの きゅうえもん、1868年3… 西野 久右衛門(久右衞門、にしの きゅうえもん、1868年3月26日(慶応4年3月3日)- 1900年(明治33年)2月1日)は、明治期の医師、政治家。衆議院議員。 越前国今立郡北村(福井県今立郡北村、北新庄村、武生市を経て現越前市)で生まれた。済生学舎で医学を修めた。 1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(福井県第3区、山下倶楽部)で当選し、衆議院議員に1期在任。同年8月、第6回総選挙(福井県第3区、無所属)では次点で落選した。 その後、帝国党が結成されるとこれに参加し幹事を務めた。
河西 健次(かさい けんじ、明治元年2月24日〈1868年3… 河西 健次(かさい けんじ、明治元年2月24日〈1868年3月17日〉 - 昭和2年〈1927年〉5月14日)は日本の医師。陸軍軍医、満鉄大連医院院長、武蔵野病院創設者。 長野県小県郡和田村の医者の家系に長男として生まれる。1890年(明治23年)帝国大学医科大学在学中に陸軍医官候補生に採用され、日清戦争に出征した。1894年(明治27年)大学卒業後、京都帝国大学大学院を経て、伏見衛生病院、台北衛生病院付となり、日露戦争時には三等軍医正となる。1906年(明治39年)ドイツ駐在となり、1908年(明治41年)現役のまま南満洲鉄道衛生課長兼大連医院長に就任した。 1911年(明治44年)、奉天における国際ペスト会議に列席し、軍医正に進み、1912年(大正元年)南満医学堂の初代堂長を兼任した。
瀬戸山 清彦(せとやま きよひこ、1867年12月30日(慶… 瀬戸山 清彦(せとやま きよひこ、1867年12月30日(慶応3年12月5日)- 1944年(昭和19年)6月30日)は、日本の医師、政治家、衆議院議員(1期)。 日向国諸県郡、のちの宮崎県西諸県郡加久藤町(現えびの市)で生まれた。1890年(明治23年)第三高等中学校医学部(現:京都大学医学部)卒。陸軍一等軍医(大尉相当官)となり、日清、日露の両戦争に従軍する。その後は医業に従事し、日向銀行頭取を務めた。 1912年(明治45年)第11回衆議院議員総選挙において宮崎県から立憲政友会公認で立候補したが落選した。8月に塚本常弥の死去により繰り上げ当選となった。衆議院議員を1期務め、1915年(大正4年)第12回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。
籾木 卿太郎(もみき きょうたろう / けいたろう、1867… 籾木 卿太郎(もみき きょうたろう / けいたろう、1867年12月18日(慶応3年11月23日) - 1916年(大正5年)8月7日)は、日本の医師。政治家、衆議院議員(1期)。 日向国諸県郡高岡郷、のちの宮崎県北諸県郡高岡町(現宮崎市)で生まれた。1887年(明治20年)鹿児島県立医学校(現・鹿児島大学医学部)卒。医師となり、東諸県郡医会長、郡医、校医、日本赤十字社準備医員嘱託となる。 1904年(明治37年)第9回衆議院議員総選挙において宮崎県から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙は不出馬。1916年に死去した。
大石 誠之助(おおいし せいのすけ、1867年11月29日〈… 大石 誠之助(おおいし せいのすけ、1867年11月29日〈慶応3年11月4日〉 - 1911年〈明治44年〉1月24日)は、日本の社会主義者・キリスト者、医師。 幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人。雅号は「禄亭」(ろくてい)。 1867年11月29日(旧暦慶応3年11月4日)に紀伊国新宮仲之町(現:和歌山県新宮市仲之町)で生まれる。同志社英学校英語普通科を中退後、神田共立学校(現:開成中学校・高等学校)で英語を学ぶが中退する。1891年(明治24年)6月に渡米し、ワシントン州ワラワラ市のセントポーロ中学校へ入学したのち、1892年(明治25年)にオレゴン州立大学医科に入学する。1895年(明治28年)に卒業後はモントリオール大学で外科学を学んでから同年10月に帰国し、翌年に地元・新宮で医院を開業する。
吾妻 勝剛(あづま かつたけ、1867年11月1日〈慶応3年… 吾妻 勝剛(あづま かつたけ、1867年11月1日〈慶応3年10月6日〉- 1923年〈大正12年〉9月1日)は、明治から大正時代の産婦人科医。 生家は出羽久保田藩医。1875年(明治8年)上京し普通学を修めたのち、1880年(明治13年)より同人社および独逸学校などに学び、1884年(明治17年)9月、大学予備門に入り、1890年(明治23年)9月に帝国大学医科大学に入学し、1893年(明治26年)11月、卒業した。卒業後、医科大学産科婦人科学教室助手となり、1898年(明治31年)2月には文部省の命によりドイツに留学する。帰朝後の1899年(明治32年)12月、京都帝国大学医科大学助教授となり、再度の留学を経て、1901年(明治34年)6月に帰朝した。
三木 竹二(みき たけじ、慶応3年9月5日(1867年10月… 三木 竹二(みき たけじ、慶応3年9月5日(1867年10月2日) - 明治41年(1908年)1月10日)は、明治の劇評家で、医師。本名は森 篤次郎(もり とくじろう)。兄は小説家の森鷗外、妹は翻訳家・歌人・随筆家の小金井喜美子。 大政奉還の直前、石見国津和野に津和野藩医・森静泰(のちに静男と改名)と峰子の間に次男として生まれた。廃藩置県などによって5歳のときに上京する。子供の頃は、鷗外よりも才があったという[要出典]。 12歳の頃、男爵の河田佐久馬(旧鳥取藩士、元老院議官で1887年子爵に叙せられた)に大変気に入られて養子縁組が決まり、本人もその気になっていた。しかし、親戚から横槍が入った河田家が財産譲与額の変更を第三者を介して伝えてくると、金のことを問題にしたことと、それを人の口を介して告げてきた誠意のない態度に若い鷗外が激怒して破談となった。
佐藤 国蔵(さとう くにぞう、1867年9月5日(慶応3年8… 佐藤 国蔵(さとう くにぞう、1867年9月5日(慶応3年8月8日) - 1909年(明治42年)6月20日)は、日本の医師。日本で初めて点字楽譜を点訳したことで知られる。小説家の田澤稲舟は従姪。 1867年(慶応3年)、出羽国飽海郡遊佐郷六日町村(現在の山形県飽海郡遊佐町遊佐高砂)に生まれる。父・意泉も医師で、住民から「えしぇさま(意泉様)」と呼ばれ親しまれた。「えしぇさま」は佐藤家の営む病院の通称となっている。 山形県会議員(後に衆議院議員)の鳥海時雨郎に師事し勉学に励み、1884年(明治17年)に東京大学医学部別課医学課程に合格した。しかし、2年生の秋頃から視力に変調をきたし、1887年(明治20年)に卒業こそできたものの、医術開業試験を受けることはできなかった。
大林 森次郎(おおばやし もりじろう、慶応3年8月1日(18… 大林 森次郎(おおばやし もりじろう、慶応3年8月1日(1867年8月29日) – 昭和5年(1930年)1月4日)は、衆議院議員(立憲政友会)、医師。 讃岐国綾歌郡富熊村(現在の香川県丸亀市)の松井家に生まれ、大林三斎の養子となった。第三高等中学校医学部を卒業し、医師となった。香川県医師会副会長、香川県医師会会長、綾歌郡医師会会長を歴任した。 また郡会議員、郡参事会員、県会議員、県参事会員に選出された。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第14回衆議院議員総選挙でも再選された。
佃 安之丞(つくだ やすのじょう、慶応3年5月16日(186… 佃 安之丞(つくだ やすのじょう、慶応3年5月16日(1867年6月18日) - 大正10年(1921年)10月22日)は、日本の衆議院議員(新政会)、医師。 伊勢国飯野郡機殿村(現在の三重県松阪市)出身。東京帝国大学医科大学別科を卒業。飯南郡医、三重県臨時検疫部検疫官、三重県警察医を務め、飯南郡医師会長、三重県医師会長、大日本医師会理事を歴任した。また飯南郡会議員、同議長、三重県会議員、同副議長、同議長に選出された。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
中原 市五郎(なかはら いちごろう、1867年6月17日(慶… 中原 市五郎(なかはら いちごろう、1867年6月17日(慶応3年5月15日) - 1941年(昭和16年)3月22日)は、日本の歯科医師、政治家。日本歯科医学専門学校(現:日本歯科大学)の創始者。 1867年(慶応3年)、信濃国伊那郡下平村(現・長野県駒ヶ根市)に生まれる。11歳で旧松本藩御殿医であった戸田義方に入門し医学を学ぶ。16歳で上京し、鋳造工として働き、代用教員を務めた後、九段で開業している歯科医岡田三百三に弟子入りし歯科医学を学び、1889年に22歳で歯科医術開業試験合格、岡田三百三の診療所を購入して開業した。その後東京市麹町区議会議員に当選。1907年に共立歯科医学校を設立し、1909年(明治42年)には日本歯科医学専門学校と発展させた。
桂田 富士郎(かつらだ ふじろう、1867年6月7日(慶応3… 桂田 富士郎(かつらだ ふじろう、1867年6月7日(慶応3年5月5日) - 1946年(昭和21年)4月5日)は日本の医師、病理学者である。日本住血吸虫の発見で知られる。 1867年(慶応3年)、大聖寺藩士であった庄田豊哉の長男として加賀国江沼郡大聖寺町耳聞山町(現石川県加賀市)に生まれる。幼名は幸吉。幼少から勉学に優れ、1882年(明治15年)に錦城小学校の高等小学全科を首席で卒業している。 翌1883年(明治16年)5月に石川県立金沢医学校(現金沢大学医学部)に進学。 1887年(明治20年)に石川県立金沢医学校を首席で卒業後、帝国大学医科大学(現東京大学医学部)病理学教室に入り初代教授の三浦守治に師事した。
武生 房栄(たけふ ふさえ、1867年4月25日(慶応3年3… 武生 房栄(たけふ ふさえ、1867年4月25日(慶応3年3月1日) - 1945年9月7日)は、日本の女性医師。明治期からすくなくとも1920年(大正9年)まで、福井県内で活動していた女性医師は1名のみであり、この間、武生は県内ただ一人の女性医師であった。 近江国高島郡(現・滋賀県)に生まれる。済生学舎(後に東京医学専門学校済生学舎、日本医科大学の前身)に学び、1891年(明治24年)に24歳で医術開業試験に合格し、女性医師として日本で12番めに医籍登録した。 1893年(明治26年)福井県敦賀郡中郷村(現・敦賀市)堂の武生慶哲と結婚。同地で主に眼科を専門として開業し、西愛発・中愛発・東愛発などの近隣小学校の校医も務めた。
三宅 速(みやけ はやり、1867年4月22日(慶応3年3月… 三宅 速(みやけ はやり、1867年4月22日(慶応3年3月18日) - 1945年(昭和20年)6月29日)は、日本の外科医。 徳島県穴吹町舞中島(現・美馬市)出身。1891年(明治24年)に帝国大学医科大学卒業後、外科教授であったユリウス・スクリバの勧めで外科医となる。徳島市内の外科病院で5年ほど勤務したのち、ドイツへ留学してブレスラウ大学のミクリッチ(ミクリッツ、Jan Mikulicz-Radecki)に師事し、胆石症の研究を行った。 帰国後、35歳の時に大阪府立医学校(現在の大阪大学)の付属医院外科医長、続いて京都帝国大学、福岡医科大学(現在の九州大学医学部)に赴任した。その後再度ドイツへ留学し、1904年(明治37年)、38歳の時に福岡医科大学教授となった。
可児 悌二郎(かに ていじろう、1867年 – 1934年)… 可児 悌二郎(かに ていじろう、1867年 – 1934年)は、日本の獣医師、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は獣医中将。 福井県遠敷郡雲浜村(現・小浜市)に生まれる。1873年に上京し、旧小浜藩主の酒井家邸内に居住した。幼少期より馬を好み、厩で馬を見ていたという。 東京府立中学校で、高田早苗や坪内逍遥から教えを受ける。1892年に東京農林学校(現・東京大学農学部)獣医医学科を卒業する。牧畜への興味から入学後に獣医学科に移ったという。卒業後はそのまま研究生として残り同校の講師となる。 その後神奈川県庁・和歌山県庁に勤務して、牧畜に関する講演活動に従事した。1894年、同郷でもある和田維四郎の紹介で陸軍3等獣医となる。
浅羽 佐喜太郎(あさば さきたろう、1867年(慶応3年3月… 浅羽 佐喜太郎(あさば さきたろう、1867年(慶応3年3月) - 1910年(明治43年)9月25日)は、日本の医師,篤志家。ベトナムの東遊運動の指導者だったファン・ボイ・チャウを支援した事で有名である。 1867年(慶応3年3月)、遠江国山名郡梅山村(後の磐田郡東浅羽村梅山、現在の静岡県袋井市梅山)にて生まれた。佐喜太郎の父・義樹は神社の神職だったが、戊辰戦争で官軍に加わった事をきっかけに軍人に転向した人物だった。佐喜太郎は東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)卒業後、神奈川県小田原市国府津町と故郷の東浅羽村にて医院を開業した。 生来、困っている人を見ると助けずにはいられない性分で、貧しい患者から決して金銭を取ろうとせず、むしろ金銭を施した程であったと伝わっている。
小久保 恵作(こくぼ けいさく、1866年12月11日(慶応… 小久保 恵作(こくぼ けいさく、1866年12月11日(慶応2年11月5日)- 1929年(昭和4年))は、埼玉県出身の医師である。 武蔵国秩父郡高篠村定峰出身。貧しい百姓の家に生まれ苦労したが、辛酸奮励の中で医学を修め医者となる。1887年(明治20年)医学開業試験に合格した後、軍医として、日清戦争や日露戦争に参戦する。 明治34年(1901年)より3年間ドイツ・プロイセン国ゲッティンゲン大学医学部へ留学し、「脳の腫瘍に関する症候」についての論文を記して医学博士号(ドクトル・メディチーネ)を取得して帰国する。ゲッティンゲン大学では、当時医学部長であったヴィルヘルム・エップシュタイン教授や特任講師であったビッケル講師、ルートゥビッヒ・アショフ教授(1903年からマールブルク大学教授となり、心臓のペースメーカーの生みの親といわれる田原淳博士と共に過ごした時期もあった)に師事。
石原 久(いしはら ひさし、1866年11月18日(慶應2年… 石原 久(いしはら ひさし、1866年11月18日(慶應2年10月12日) - 1941年(昭和16年)6月19日)は明治〜昭和期の医学博士、口腔外科医・歯科医。東京帝国大学教授、医科大学における日本で最初の「歯科」教室の創始者。 石原久は1866年(慶應2年)に武蔵国川越藩典医筆頭の石原昌迪(いしはら まさみち)の次男として生まれた。東京帝国大学医学部歯科学講座教授、医術開業試験委員、日本口腔科学会の前身である日本歯科口腔科学会初代会長を歴任した。
三島 通良(みしま みちよし、1866年7月17日(慶応2年… 三島 通良(みしま みちよし、1866年7月17日(慶応2年6月6日) - 1925年(大正14年)3月9日)は、明治から大正期にかけての日本の衛生学者、医師。文部省からの委嘱により日本の児童の調査を行い、日本独自の学校衛生を提唱、推進した。また、母子衛生法の改良、三島式種痘法の発明などを行った。しばしば「日本の学校衛生の生みの親」と称される。号は静堂。 慶応2年(1866年)に武蔵国入間郡霞関村笠幡(現・埼玉県川越市笠幡)に生まれる。父の通郷(つうけい)は嘉永から安政年間に私塾を開いて地元の子弟に漢字や習字を教え、明治維新後に受け持っていた修験道場が廃止されると家財や田畑を売り払って上京して遊学し、神奈川県検事などの官職を務めた人物であった。
宍戸 俊治(ししど しゅんじ、1866年6月24日〈慶応2年… 宍戸 俊治(ししど しゅんじ、1866年6月24日〈慶応2年5月12日〉- 1925年〈大正14年〉5月19日)は、三河国碧海郡上重原村(現・愛知県知立市)出身の医師。 慶応2年5月12日、三河国碧海郡上重原村(現・愛知県知立市)の旧家である宇都宮家に生まれ、後に刈谷藩の藩医の家系である宍戸家の養子となった。1882年(明治15年)12月に東京大学予備門に入学し、1889年(明治22年)6月に第一高等中学校(予備門の改称後の名称)を卒業すると、1893年(明治26年)11月に東京帝国大学医学部を卒業した。 その後東京帝国大学の大学院で病理学を学び、恩師に病理学者の三浦守治などがいる。1895年(明治28年)7月に養父の宍戸隆一が死去したことで郷土に戻り、宍戸家を継いで宍戸療院を開業させた。
山谷 徳治郎(やまや とくじろう、1866年5月5日(慶応2… 山谷 徳治郎(やまや とくじろう、1866年5月5日(慶応2年3月21日) - 1940年(昭和15年)5月27日)は、日本の医師、政治家、衆議院議員(1期)、医学博士。兄は衆議院議員の山谷虎三。長男は俳人・日新書院取締役の山谷太郎で、その次男が脚本家・演出家の倉本聰である。 東京都出身。岡山県医学校を経て、東京帝国大学医学部で内科及び病理学を専攻する。1907年、ドイツに留学し、ギーセン大学とゲッチンゲン大学で学び、ドクトル・メジーネ(医学博士)を授けられる。帰国後は津山町(現・津山市)で病院を開業する。その後、大阪の病院の副院長、三共(資)理事、(株)日新医学社を創立、取締役社長となる。その他、医学雑誌や図書の出版に従事した。
長與 稱吉(新字体:長与 称吉、ながよ しょうきち、慶応2年… 長與 稱吉(新字体:長与 称吉、ながよ しょうきち、慶応2年1月7日〈1866年2月21日〉 - 明治43年〈1910年〉9月5日)は、明治時代の医師。男爵。長與專齋の子。岳父に後藤象二郎。 内務省衛生局長:長與專齋の長男として、肥前国大村(現・長崎県大村市)に生まれる。1884年に東京帝国大学医科(現在の東京大学医学部)を中退して、7年間ドイツのミュンヘン大学、ヴュルツブルク大学医学部に私費留学する。このころ、現地の女性に子供を産ませるも、手切れ金を渡して解決する(その面倒を見たのが、衛生局で專齋の部下であり、ドイツ留学中の後藤新平だった)。 帰国後、1893年に開業。東京日本橋や麹町に胃腸病院を設立。
佐瀬 熊鉄(佐瀨 熊鐵、さぜ / させ くまてつ、1866年… 佐瀬 熊鉄(佐瀨 熊鐵、さぜ / させ くまてつ、1866年1月31日(慶応元年12月15日)- 1929年(昭和4年)9月5日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員。旧姓・一瀬。 陸奥国会津郡若松城下(現福島県会津若松市)で、会津藩家老・一瀬要人の二男として生まれる。15歳で上京し山川浩の世話を受けて苦学し、1887年(明治20年)海軍医学校を卒業し海軍少軍医候補生となるが、2年ほどで退官した。その後帰郷して、河沼郡金上村の豪農・佐瀬家を継いだ。 1893年(明治26年)に再度上京し、同盟倶楽部の理事に就任し、また立憲革新党の運営に加わった。1894年(明治27年)大韓帝国に渡り、朴泳孝内務大臣の知遇を得て、同国の警務庁・監獄署医務、訓練隊衛生事務、裁判医事の顧問となった。
近藤 次繁(こんどう つぐしげ、1866年1月17日(慶応元… 近藤 次繁(こんどう つぐしげ、1866年1月17日(慶応元年12月1日) - 1944年(昭和19年)3月4日)は、日本の明治から昭和期における医学博士・外科医。東京帝国大学医学部教授・病院長。日本で最初に胃がんの手術を成功させた外科医である。。
間宮 八重(まみや やえ、1866年(慶応2年) - 195… 間宮 八重(まみや やえ、1866年(慶応2年) - 1958年(昭和33年)1月12日)は、日本の医師、農場経営者。 陸奥国石川郡(現在の福島県棚倉町)生まれ。東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)卒業後、済生学舎(日本医科大学)にて医学を学び、1887年(明治20年)医師前期試験に合格、1890年(明治23年)医術開業試験に合格。1891年(明治24年)内務省医籍登録。1892年(明治25年)本郷に医院を開業した。荻野吟子や吉岡彌生とならぶ明治時代初期の女性医師の一人である。 1899年(明治32年)、兄の北海道庁在職中の部下であった林田成一と結婚。1908年(明治41年)、夫が入植していた北海道十勝郡生剛村(現在の北海道十勝郡浦幌町字幾千世)へ移り、以後農場経営の一翼を担いながら、家屋の一部を診療所とし、無医村だった生剛村で病人の治療にあたった。
平井 毓太郎(ひらい いくたろう、1865年11月28日(慶… 平井 毓太郎(ひらい いくたろう、1865年11月28日(慶応元年10月11日) - 1945年(昭和20年)1月12日)は、日本の医学者、小児科医。京都帝国大学教授。旧姓木場。三重県出身。 娘・照子の婿・平井金三郎は岩村高俊の三男。
関場 不二彦(せきば ふじひこ、1865年11月7日(慶應1… 関場 不二彦(せきば ふじひこ、1865年11月7日(慶應1年9月19日)- 1939年(昭和14年)8月25日)は、日本の外科医、医史学者である。スクリバ門下十哲の一人で、北海道医学界の中心的存在であった。北海道医師会、札幌医師会の初代会長。『卵巣腫瘍ノ臨床上知見及外科的療法ノ追加』で医学博士(東京帝大)。 戦国時代末期は蒲生家に仕え、江戸時代中期に会津松平家家臣となる。曽祖父は北方警備で利尻島に赴き現地で病没(28歳)。祖父は戊辰戦争時に敢死隊指図役として若松城下で討死にした(62歳)。父の忠武は朱雀隊士で、斗南藩権少属を経て、青森県に採用され県の東京出張所員として上京。のち内務省官吏となる。
平井 政遒(ひらい まさかつ / まさる、1865年5月31… 平井 政遒(ひらい まさかつ / まさる、1865年5月31日(慶応元年5月7日) - 1950年(昭和25年)9月25日)は、明治期から昭和期にかけての内科医。日本陸軍軍医、最終階級は陸軍軍医総監(中将相当)。日本赤十字社病院院長、宮内省御用掛。若狭国小浜藩出身。 1865年5月31日((旧暦)慶応元年5月7日)、小浜藩典医平井三琢の長男として福井の雲浜村に誕生する。1876年に東京外国語学校入学。1889年(明治22年)度東京帝国大学医科大学を首席で卒業、同期には山極勝三郎・田代義徳・入沢達吉等がいる。卒業後陸軍軍医となり、日清戦争に従軍した後、1896年(明治29年)12月『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』編纂委員、陸軍薬局方(第二版)編纂委員、陸軍衛生会議委員等を歴任した。
岩崎 宗茂助(いわさき そもすけ、1865年5月6日(慶応元… 岩崎 宗茂助(いわさき そもすけ、1865年5月6日(慶応元年4月12日)- 1941年(昭和16年)2月23日)は、明治から昭和前期の医師・政治家・実業家。衆議院議員(1期)。 日向国諸県郡志布志郷野井倉村(現・鹿児島県志布志市有明町野井倉)で、岩崎宗之助、ケサヨの長男として生まれる。都城の坂本陽斉から漢方医学を学び、東京医学専門学校済生学舎で学ぶ。1885年(明治18年)第6師団に衛生兵として入隊。1891年(明治24年)に帰郷し志布志村で医師を開業する。日清戦争に衛生兵として出征し、日露戦争にも従軍し陸軍三等軍医となる。 囎唹郡医師会長、鹿児島県産業組合連合会理事、志布志漁業、志布志醸造各 (株) 社長、志布志無尽、志布志倉庫運送各 (株) 取締役を歴任する。
勝俣 英吉郎(かつまた えいきちろう、1865年4月13日〈… 勝俣 英吉郎(かつまた えいきちろう、1865年4月13日〈慶応元年3月18日〉 - 1930年〈昭和5年〉4月7日)は、明治から昭和時代前期の政治家、医師。長野県上田市長。俳号・かつ丸。 信濃国上田城下の上田藩医の家に生まれる。1879年(明治12年)東京外国語学校でドイツ語を学び、1883年(明治16年)東京大学医学部別課に入学し、1887年(明治20年)帝国大学医学大学を卒業し、1888年(明治21年)家業の医院を継ぐ。 1891年(明治24年)信陽医学会を創立し、同会長を務める。日清・日露戦争では日本赤十字社救護医として従軍。1909年(明治42年)長野県会議員に当選し、立憲民政党支部長に就任した。
呉 秀三(くれ しゅうぞう、元治2年2月17日〈1865年3… 呉 秀三(くれ しゅうぞう、元治2年2月17日〈1865年3月14日〉- 昭和7年〈1932年〉3月26日)は、日本の医学者、精神科医。東京帝国大学医科大学教授(精神病学講座)。師である榊俶の早世により役職を引き継ぎ、日本における近代的な精神病学を創立した。『日本の精神医学の父』とも呼ばれる。 クレペリン学派の新しい精神病学の普及を通じて、精神病患者の監護法を改めた。日本における最初の精神衛生団体である精神病者慈善救治会を組織(1902年)、三浦謹之助と共に日本神経学会を創立。日本の近代精神医学者のほとんどが、呉の影響を受けた人々といえる。 広島藩医呉黄石の三男として、江戸青山の広島藩邸(現東京都港区)に生まれた。
岩佐 新(いわさ あらた、1865年2月10日(慶応元年1月… 岩佐 新(いわさ あらた、1865年2月10日(慶応元年1月15日)– 1938年(昭和13年)10月24日)は、日本の華族、医師。貴族院男爵議員。 明治天皇の侍医を務めた男爵岩佐純の長男として福井に生まれる。大学予備門で学んだ後、1884年(明治17年)に大山巌欧州使節団、郷誠之助、松平康荘らとともに渡欧し、ウィーンを経て、1885年冬学期にミュンヘン大学に学籍登録し、1892年(明治25年)にフライブルク大学より医学博士の称号を得た。翌年からはミュンヘン大学で内科助手を務めた。ミュンヘン時代に画家の原田直次郎、陸軍軍医の森林太郎(森鷗外)と3人で映った写真が『新潮日本文学アルバム 森鴎外』(1985年刊)に収録されている。
入沢 達吉(いりさわ たつきち、1865年1月31日(元治2… 入沢 達吉(いりさわ たつきち、1865年1月31日(元治2年1月5日) - 1938年(昭和13年)11月8日)は、明治から昭和期にかけての内科医。学位は、医学博士。東京帝国大学教授、東京帝国大学附属医院長・同大学医学部長・宮内省侍医頭等を歴任、日本の内科学確立に貢献する。 入沢達吉は1865年1月31日(元治2年1月5日)に越後国新発田藩藩医入沢恭平の長男として、南蒲原郡今町(現新潟県見附市)に生まれた。1870年(明治3年)1月寺子屋にて手習いを覚え、1876年(明治9年)10月、叔父池田謙斎の勧めで上京し私塾に通う。1877年(明治10年)11月東京大学医学部予科に入学する。1883年(明治16年)東京大学医学部本科に進級、1889年(明治22年)1月31日東京帝国大学医科大学(学制変更により改名)を卒業し、ベルツ(Erwin von Bälz)に師事し内科無給助手となる。
富田 愿之助(とみた げんのすけ、1865年1月1日(元治元… 富田 愿之助(とみた げんのすけ、1865年1月1日(元治元年12月4日) - 1927年(昭和2年)3月8日)は、衆議院議員(政友本党)、医師。 肥前国彼杵郡広田村(現在の長崎県佐世保市)出身。1888年(明治21年)、東京帝国大学医科大学別科を卒業。佐世保で医院を開業し、村会議員となり、市制施行後は市会議員、さらに市会議長として1914年(大正3年)までその職にあった。その後、県会議員、県参事会員に選ばれた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、西部合同瓦斯株式会社・五島電灯株式会社・有川電灯株式会社取締役、壱岐電灯株式会社監査役を務めた。
浅川 範彦(あさかわ のりひこ、1865年 - 1907年1… 浅川 範彦(あさかわ のりひこ、1865年 - 1907年1月10日)は、明治時代の細菌学者、医学博士。北里柴三郎に師事し、ジフテリアや破傷風などの血清研究に功績を残した。生前は日本の免疫学の第一人者であり、丹念に追求していくその研究手法は「探偵的研究」とも呼ばれた。日本細菌学会賞の一つに、その功績を記念する浅川賞がある。 1865年(慶応元年)1月に、土佐国土佐郡秦村に生まれる。中江兆民の従兄弟。旧高知藩士。県立医学校で医学を学び、卒業後上京して、済生学舎で造詣を深めた。1889年に郷里に戻って開業、1890年に高知病院に招かれ、副院長となる。 1894年に再び上京して、北里柴三郎に師事。1896年に、浅川丹毒治療法と呼ばれる丹毒の治療法を開発。
川上 元治郎(かわかみ もとじろう、1864年12月24日(… 川上 元治郎(かわかみ もとじろう、1864年12月24日(元治元年11月26日) - 1915年(大正4年)7月2日)は、日本の医師。政治家、衆議院議員(1期)。 新潟県泉村(後に栃尾市、現在は長岡市栃尾)の名主で、新潟県議会の第3代副議長を務めた川上金十郎の二男として生まれる。1885年、東京帝国大学別課医学部卒。同大学医学部助手となり、眼科医を開業する。その傍ら、日本医事週報主筆となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において新潟県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1903年の第8回衆議院議員総選挙は不出馬。1915年に死去した。墓所は護国寺。