石橋 為之助(いしばし ためのすけ、1871年7月19日〈明… 石橋 為之助(いしばし ためのすけ、1871年7月19日〈明治4年6月2日〉 - 1927年〈昭和2年〉4月28日)は、日本の政治家、実業家、新聞記者。第6代神戸市長。衆議院議員(大阪府大阪市選出、当選3回、公正会)。族籍は大阪府平民。大阪生まれ。 1871年7月19日(明治4年6月2日)、大阪府西成郡曾根崎村(現・大阪府大阪市)で石橋有三郎の二男として生まれた。1886年(明治19年)、15歳の時に小学校教員検定試験に合格し、20歳まで教員として働きながら英語を勉強し、1891年(明治24年)9月に京都同志社神学部選科に入学、学資が続かず中途退学し、以来独学自修する。米国に遊学。 朝日新聞社(大阪朝日新聞)に入社すると在職中に衆議院選挙に立候補・当選し、10年間国会議員も務めた。
沢田 撫松(さわだ ぶしょう、本名:沢田 忠次郎〈さわだ ち… 沢田 撫松(さわだ ぶしょう、本名:沢田 忠次郎〈さわだ ちゅうじろう/さわだ ただじろう〉、1871年6月18日〈明治4年5月1日〉 - 1927年〈昭和2年〉4月13日)は、明治から昭和にかけての小説家、新聞記者。 1871年6月18日(明治4年5月1日)、京都府に生まれた。二六新報、國民新聞、読売新聞などで約20年間、新聞記者を務めた。その中でも特に、司法記者として中央公論、婦人倶楽部、新小説などに犯罪事実をもとにした物語を執筆した。 1920年(大正9年)に『女の心・男の心』、1925年(大正14年)に『春宵島原巷譚』、1926年(大正15年)には『秋雨の宿』などの短編小説を執筆した。同年7月、週刊朝日にて『足にさはつた女』を執筆した。
井上 羽城(いのうえ うじょう、1871年3月29日〈明治4… 井上 羽城(いのうえ うじょう、1871年3月29日〈明治4年2月9日〉 - 1947年〈昭和22年〉9月30日)は、福井県出身の歌人、新聞記者。本名は井上 一(いのうえ はじめ)。号は羽城のほか、経足、風露郎、紅蓮などを用いた。 1871年(明治4年)2月9日、福井県福井市に井上一庵・起怒の長男として生まれる。家業であった医者を継ぐために金沢高等医学専門学校に入学したが、文学への道を志望し、1892年(明治25年)春に上京し、落合直文の門下に入る。大八洲学校に入学し、落合直文と久米幹文から国文を学ぶ。在学中に金子元臣や品田太吉を助け、雑誌『歌学』や『分海』の編集に当たる。1893年(明治26年)、浅香社の創立に加わる。
亀井 陸良(かめい ろくろう、明治4年2月6日(1871年3… 亀井 陸良(かめい ろくろう、明治4年2月6日(1871年3月26日) - 1923年(大正12年)3月11日)は戦前日本の新聞記者。 古河鉱業に勤務中、義和団事件におけるロシア帝国軍の満洲駐留に危機感を覚え、北京を拠点に時事新報、順天時報(中国語版)で対露主戦論、対中強硬論を唱えたが、晩年はパリ講和会議で聞いた国際連盟構想に影響を受け、一転して中国権益の放棄を主張した。 明治4年(1871年)2月6日大分県下毛郡万田村に医者亀井玄理の次男として生まれた。中津に出て山田小太郎の私塾に学んだ後、1888年(明治21年)上京し、1893年(明治26年)慶應義塾大学部法律科に進学した。在学中は中年寮舎監を務めて学資を稼ぎ、1895年(明治28年)12月大学部法律科を卒業した。
三上 剛太郎(みかみ ごうたろう、明治2年11月15日(18… 三上 剛太郎(みかみ ごうたろう、明治2年11月15日(1869年12月17日) - 昭和39年(1964年10月27日))は、日本の医師・軍医・新聞記者。日露戦争に従軍した時のエピソード(後述)で後世に名を残した。最終階級は陸軍一等軍医。 1869年(明治2年)11月15日、陸奥国三戸県佐井村(現在の青森県下北郡佐井村)の代々医家である三上家の長男(8代目)として生まれた。1875年(明治8年)に佐井小学校(現在の佐井村立佐井小学校)に入学。1884年(明治17年)に上京して、三田英学校(現在の錦城学園高等学校)で学ぶ。そこで漢文学者の森田思軒の影響を受け、文学へ傾倒した。1888年(明治21年)に英学校を卒業後、読売新聞社社会部記者となり、新聞記者の世界へ足を踏み入れた。
角田 浩々歌客(かくだ こうこうかきゃく、明治2年9月16日… 角田 浩々歌客(かくだ こうこうかきゃく、明治2年9月16日〈1869年10月20日〉 - 1916年〈大正5年〉3月16日)は、明治時代の詩人、北欧文学者、文芸評論家、新聞記者。本名:角田勤一郎。大阪の論壇・文壇で重きを成して世論形成に大きな力を持ち、東の坪内逍遥と並び称された。 新聞社ごとに号や筆名を使い分け、『國民新聞』では岳麓布衣、『大阪朝日新聞』では不二行者、出門一笑、『大阪毎日新聞』では迂鈍居士、鈍右衛門、『読売新聞』では剣南、伊吹郊人、豹子頭、『東京日日新聞』では浩々而歌閣主、他、剣南道士など。 駿河国富士郡大宮町(現・静岡県富士宮市)生まれで旧静岡藩士の家系。佐野天声の実兄である。
水田 南陽(みずた なんよう、1869年1月(明治2年) -… 水田 南陽(みずた なんよう、1869年1月(明治2年) - 1958年1月3日(昭和33年))は、日本の翻訳家、小説家、編集者、新聞記者、実業家。日本へシャーロック・ホームズを紹介した先駆者。別名は、南陽 外史(なんよう がいし)。本名は、水田 栄雄(みずた ひでお)。 1869年1月、淡路国薦江(兵庫県)生まれ。大阪・川口の英和学舎(立教大学の前身の一つ)を経て、1890年、立教大学卒業。 ミッション・スクール(現立教大学)在学中の1889年、東京能弁学会に加入し、機関誌『能弁』にシェイクスピア劇の翻訳を掲載。東京能弁学会の幹事である大岡育造に認められ、『能弁』の編集に参加した。 1890年頃、大岡育造が経営していた中央新聞に入社し、同紙にエミール・ガボリオの『オルシヴァルの犯罪』を『大探偵』と題して訳出したのを始め、『夢中の玉』『珊瑚の徽章』などを次々発表した。
坂本 紅蓮洞(さかもと ぐれんどう、1866年(慶応2年)9… 坂本 紅蓮洞(さかもと ぐれんどう、1866年(慶応2年)9月?日 - 1925年(大正14年)12月16日)は、明治・大正期の文芸評論家、新聞記者、放浪生活者。本名は易徳。肩書きは「奇人」。のらりくらりと放浪生活に身をやつし、酒に酔っては毒舌を弄し、窮乏のうちに死んだ「文壇名物男」であった。 武蔵国江戸生まれ。旧小田原藩士の家系に生まれる。 慶應義塾に学ぶ。同期に福澤桃介がいた。明治21年(1888年)、部理財科[要校閲]を優秀な成績で卒業、その後、明治23年(1890年)に大学部の創設を期に文学科に入るが、女義太夫の竹本綾之助に夢中になり、勉学を疎かにしたために落第。立教中学の代用教員を務めるなど、「数学の天才」ぶりを発揮し色々な学校で教えるが、その授業が苛烈だったため数々の学校を追われ、新聞記者に転向。
二宮 熊次郎(にのみや くまじろう、1865年6月3日(慶應… 二宮 熊次郎(にのみや くまじろう、1865年6月3日(慶應元年5月10日)- 1916年(大正5年)12月17日)は、明治時代から大正時代にかけて活動した日本の新聞記者である。「孤松」「震堂」「画美人楼主人」といった号を用いた。 現在の愛媛県宇和島市に生まれる。父は宇和島藩士だった。宇和島に設置された「南予変則中学校」に学んだ。 15歳の時、藩校明倫館の助教となる。1883年(明治16年)に朝野新聞に入社。 1888年(明治21年)から1892年(明治25年)までドイツへ留学する。帰国後に山縣有朋の支援で内務省嘱託となり、日清戦争時には戦地で山縣の秘書も務めた。 内藤鳴雪の勧めで俳諧に進み、「孤松」は俳号として使用したものである。
森田 勇次郎(もりた ゆうじろう、1865年4月25日〈慶応… 森田 勇次郎(もりた ゆうじろう、1865年4月25日〈慶応元年4月1日〉 - 1920年〈大正9年〉11月10日)は、日本の新聞記者、政治家。衆議院議員(静岡県郡部選出、当選2回)。族籍は静岡県平民。 肥後国天草郡志岐村(現・熊本県天草郡苓北町)に生まれた。森田市郞次の三男。1885年、東京専門学校(現・早稲田大学)邦語政治科を卒業。 1889年、静岡大務新聞社に聘せられた。1891年、静岡民友新聞を創立し主筆となった。静岡商業会議所書記長、同特別議員となった。進歩党静岡支部幹事として党務に尽瘁した。 1903年の第8回衆議院議員総選挙と1908年の第10回衆議院議員総選挙で当選。進歩党、憲政本党、立憲国民党に所属した。
石田 真二(いしだ しんじ、旧姓:椎野、1863年12月7日… 石田 真二(いしだ しんじ、旧姓:椎野、1863年12月7日(文久3年10月27日) - 1927年(昭和2年)9月10日)は、日本の政治家、新聞記者。徳島県徳島市出身。 椎野家の息子として名東郡上八万村(現在の徳島市上八万町)で生まれる。園坡漁夫、晴耕雨読楼主人、侃々子と号した。後に石田家を継いだ。 1881年(明治14年)、徳島県立徳島中学校(現在の徳島県立城南高等学校)卒業。卒業後、普通新聞社(現在の徳島新聞社)の客員となった。後に名東郡会議員を経て徳島県会議員に当選した。 1898年(明治31年)、第5回衆議院議員総選挙に出馬し当選したが、間もなく同年内に解散となり、第6回総選挙に再出馬したが落選した。
三木 愛花(みき あいか、1861年5月14日(文久元年4月… 三木 愛花(みき あいか、1861年5月14日(文久元年4月5日) - 1933年(昭和8年)2月6日)は、明治・大正期の新聞記者、ジャーナリスト。本名、三木貞一。 1861年(文久元年)、上総国大網町(現在の千葉県大網白里市)生まれ。田中従吾軒の門下で「朝野新聞」「東京公論」記者などを経て、1893年(明治26年)に萬朝報に入社、1923年(大正12年)まで活動した。相撲通として知られ相撲雑誌に記事を執筆するなど相撲記者の先駆けでもあった。 将棋通でもあり、初めて新聞に「将棋欄」を設けたことでも知られる。「萬朝報」1898年(明治31年)1月1日付に指し将棋の棋譜を初めて新聞に掲載した。また三木の発案により、おなじく「萬朝報」において棋戦が初めて企画され、1908年(明治41年)9月11日付から「高段名手勝継将棊」が掲載された。
赤羽 萬次郎(あかばね まんじろう、1861年 - 1898… 赤羽 萬次郎(あかばね まんじろう、1861年 - 1898年)は、日本の新聞記者・自由民権派ジャーナリスト。北國新聞社初代社長・主筆。雅号は「痩鶴(そうかく)」。 1861年、信濃国松本にて、商家の次男として誕生。 18歳の時に地元の自由民権運動の政治結社「奨匡社」の設立に加わり、新聞・雑誌に政論を発表する。 1881年に上京、日本最初の日刊新聞である「東京横浜毎日新聞」の記者となる。社主が主催する演説団体「嚶鳴社」同人として各地を遊説。大隈重信の立憲改進党にも参加した。 1886年、金沢の改進党系の新聞「北陸新報」に主筆として招かれるも、5年後に社長が自由党系に身売りしたことに反発し退社。 1893年8月5日に「北國新聞社」を興し自ら社長・主筆となる。
菊亭香水(きくてい こうすい、安政2年7月10日(1855年… 菊亭香水(きくてい こうすい、安政2年7月10日(1855年8月22日) - 昭和17年(1942年)2月12日)は、明治期、大正期の小説家、新聞記者。本名は佐藤蔵太郎。鶴谷外史の号もある。 豊後国国東郡佐伯(現・大分県佐伯市)にて出生。 1875年(明治8年)、大分県師範学校を卒業し、鶴谷女学校の教員をとなる。 1881年(明治14年)、上京して報知新聞社に入社。翌年『月氷寄縁 艶才春話』を刊行。 1884年(明治17年)、大阪毎朝新聞社に転じ、ついで神戸新報社に入る。 1900年(明治33年)、新聞記者を辞し、郷土史家として著述業に専念した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
箕浦 勝人(みのうら かつんど、1854年3月13日〈嘉永7… 箕浦 勝人(みのうら かつんど、1854年3月13日〈嘉永7年2月15日〉- 1929年〈昭和4年〉8月30日)は、日本の新聞記者、実業家、政治家。 豊後国臼杵で、臼杵藩の武道師範の実相寺常之丞の次男として生まれる。15歳で藩士箕浦又生の養子となる。慶應義塾出身で福澤諭吉の弟子。福澤諭吉の子孫の家庭教師を担当した。1880年(明治13年)、神戸新報(慶応義塾―交詢社系の新聞)を主筆(兵神交詢社会員、神戸商法講習所所長)として、社主安倍清誠五郎、代表三木善八(のち『郵便報知新聞』社主)、主幹鹿島 秀麿(のち兵庫県会議員をへて改進党系代議士)等と共に、創刊に関わった。郵便報知新聞社に入社し、新聞記者の後、社長となる。
東海 散士(とうかい さんし、本名:柴 四朗〈しば しろう〉… 東海 散士(とうかい さんし、本名:柴 四朗〈しば しろう〉、1853年1月11日〈嘉永5年12月2日〉 - 1922年〈大正11年)9月25日〉)は、旧会津藩臣(白虎隊士)で、明治から大正にかけての小説家・新聞記者・政治家。財務学士。陸軍大将柴五郎は実弟。代表作は政治小説『佳人之奇遇』。 会津藩士で御物頭格役黒紐(280石)であった柴佐多蔵繁吉(1812–1882)と妻フジの四男(第8子)として、上総国君津郡富津村の会津藩陣屋(弘化4年から嘉永7年まで会津藩が富津台場の警備を担当)に生まれる。幼名は茂四朗。幼少期より病弱であったが文才に恵まれていたという。 藩士子弟の通例に従い、数え10歳より藩校日新館にて小笠原午橋・南摩綱紀に就いて漢学を修め、大学部を経たのち上洛。
藤田 茂吉(ふじた もきち、嘉永5年6月25日(1852年8… 藤田 茂吉(ふじた もきち、嘉永5年6月25日(1852年8月10日) - 明治25年(1892年)8月19日)は、日本の新聞記者、政治家。旧姓は林、号は鶴谷山人・九皐外史・鳴鶴居士・聞天楼主人・翠嵐生。衆議院議員。 豊後国海部郡佐伯(現在の大分県佐伯市)の城下町で佐伯藩のお抱え水主の子として生まれた。慶應義塾(現在の慶應義塾大学)出身で福澤諭吉の弟子。郵便報知新聞社に入社し、新聞の主筆となる。立憲改進党に参加。1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙に東京府第4区から出馬し当選。その後、第2回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算二期務めた。 その他、日本橋区会議員、同議長、同衛生会長、東京府会議員、同区部会議長などを歴任。
金子 静枝(かねこ しずえ、男性、1851年5月31日(嘉永… 金子 静枝(かねこ しずえ、男性、1851年5月31日(嘉永4年5月1日) - 1909年(明治42年)2月18日)は、明治時代の新聞・雑誌記者で、主に日出新聞(現:京都新聞)の新聞記者、小説家として活躍した。また、美術品鑑定家でもあった。明治20年代からこの名前を名乗る。本名は錦二(きんじ)。 竹居明男『『日出新聞』記者金子静枝と明治の京都』による。 (同書に木下知威「金子静枝に向かって」が収録されている)
大久保 鉄作(おおくぼ てっさく、嘉永3年11月28日(18… 大久保 鉄作(おおくぼ てっさく、嘉永3年11月28日(1850年12月31日) – 大正10年(1921年)7月5日)は、日本の新聞記者、政治家。 秋田市長(第5代)、衆議院議員(立憲政友会)、秋田県会議長、秋田県会議員などを務めた。 久保田藩士大久保盛実の長男として中谷地町(現秋田市)に生まれる。藩校明徳館で漢学を学んだ後、東京に出て1875年(明治8年)より朝野新聞の記者となった。帰郷後の1881年(明治14年)に秋田日報を創刊し、1883年(明治16年)に秋田改進党を結成した。同年、秋田県会議員に選ばれ、後に議長に就任した。後藤象二郎が大同団結運動を唱えると、これに呼応して東北九州連合の必要性を説いて、精力的に活動した。
小泉 八雲(こいずみ やくも、1850年6月27日 - 19… 小泉 八雲(こいずみ やくも、1850年6月27日 - 1904年(明治37年)9月26日)は、ギリシャ生まれの新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、日本民俗学者。東洋と西洋の両方に生きたとも言われる。 出生名はパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)。ラフカディオが一般的にファーストネームとして知られているが、実際はミドルネームである。アイルランドの守護聖人・聖パトリックにちなんだファーストネームは、ハーン自身キリスト教の教義に懐疑的であったため、この名をあえて使用しなかったといわれる。 日本・東京府豊多摩郡大久保村西大久保
末広鉄腸(すえひろ てっちょう、旧字体: 末廣 鐵腸、184… 末広鉄腸(すえひろ てっちょう、旧字体: 末廣 鐵腸、1849年3月15日(嘉永2年2月21日) - 1896年(明治29年)2月5日)は、自由民権派の政論家・新聞記者・衆議院議員・政治小説家。幼名雄次郎、後に重恭(しげやす)、字は子倹、号に鉄腸、浩斎。 宇和島藩の勘定役『禎介』の次男として、城下の笹町(現、愛媛県宇和島市笹町)に生まれた。 1860年(万延元年)、四書五経の素読を終え、翌年、藩校の『明倫館』に入って朱子学を修め、1869年(明治2年)、母校の教授になった。王陽明の伝習録に傾倒した。 1870年(明治3年)、上京したものの師を得ず、京都の春日潜庵に陽明学を学んだ。1872年(明治5年)、帰郷して神山県に勤め、1874年(明治7年)、大蔵省に転じたが、折からの自由民権運動の高まりの中で言論に志し、1875年(明治8年)4月、東京曙新聞の編集長になった。
岸田 吟香(きしだ ぎんこう、天保4年4月28日〈1833年… 岸田 吟香(きしだ ぎんこう、天保4年4月28日〈1833年6月15日〉、一説に天保4年4月8日〈1833年5月26日〉 - 1905年〈明治38年〉6月7日)は、日本の新聞記者、実業家、教育家。美作国久米北条郡垪和村(現岡山県久米郡美咲町)出身。目薬「精錡水」を販売するなど、薬業界の大立者としても知られる。 幼名を辰大郎。名前は大郎、大郎左衛門、達蔵、称子麻呂、清原桜、作良(さくら)、さくら、まゝよ、銀次あるいは銀次郎などがある。また墨江岸国華、墨江桜、墨江岸桜、岸国華、岸吟香、岸大郎、岸桜、小林屋銀次、岸田銀治、岸田屋銀治、京屋銀治郎、桜井銀治郎などとも名乗った。号は吟香、東洋、桜草。筆名には吟道人がある。
仮名垣 魯文(かながき ろぶん、1829年2月9日(文政12… 仮名垣 魯文(かながき ろぶん、1829年2月9日(文政12年1月6日) - 1894年(明治27年)11月8日)は、江戸末期から明治初頭にかけての戯作者、新聞記者。江戸の京橋生まれ。本名は野崎文蔵、字は能連、幼名兼吉、また庫七、後に文蔵と改めた。別号に鈍亭、金屯道人、猫々道人、和堂開珍、英魯文、戯作書太郎、野狐庵。俳号は香雨亭応一、狂名は斜月窗諸兄。 京橋の鑓屋町に生まれる。魚屋を営む父野崎佐吉は、星窓梶葉という号を持ち俳句や狂歌を好み、文蔵も戯文や小説を好んで育った。大きな商家の丁稚となったが、人相見に小説家になれば出世すると言われ、18の年に花笠魯介文京の弟子となる。1849年(嘉永2年)19歳の時に名弘めの摺物「名聞面赤本(なをきいておもてあかほん)」を書き、それに先輩の文人や芝居作家に賛助の俳句や短歌を書いてもらったが、最後に当時82歳の滝沢馬琴に頼んで「味噌揚げて作り上手になりたくば世によく熟れし甘口ぞよし」という狂歌を贈られた。
阿部 百江(あべ ももえ)は、日本経済新聞記者。
村松 喬 は、毎日新聞記者、作家、教育評論家。
名雪雅夫(なゆき まさお、1949年(昭和24年)9月25日… 名雪雅夫(なゆき まさお、1949年(昭和24年)9月25日 - 2014年(平成26年)2月16日は、日本の新聞記者、ジャーナリスト、実業家。産業経済新聞社取締役副社長などを歴任した。東京都港区生まれ。 1989年12月、ワルシャワ支局長だった名雪はクーデターによって独裁体制の崩れたルーマニアに入り、銃撃に遭った。一発はこめかみをかすめ、もう一発は背中に命中した。幸い、ハンガリー側に脱出して町医者に背中から銃弾を摘出してもらい、事なきを得た。そして無事を編集局に伝えると、返ってきたのは住田良能外信部長(のち社長)の「おまえは毛がないから怪我(けが)なくてよかったな」という駄洒落だった。名雪は怒りのあまり、受話器をたたきつけそうになったという。
鳥居 素川(とりい そせん、1867年8月3日(慶応3年7月… 鳥居 素川(とりい そせん、1867年8月3日(慶応3年7月4日) – 1928年(昭和3年3月10日)は、明治・大正期の日本のジャーナリスト、新聞記者。本名は赫雄(てるお)。別号に素卿、玄兎。肥後国熊本の生れ。 旧熊本藩士の鳥居般蔵の三男として生まれる。母の由子は熊本市春竹町の医者・松岡家の出身。兄は西南戦争において池辺吉十郎が編成した熊本隊の小隊長として戦死している。佐々友房が創立した済々黌に入学、生徒長に安達謙蔵、一級上に狩野直喜、山田珠一らがおり、同級生には井手三郎、熊谷直亮がいた。 1884年(明治17年)に済々黌卒業後、独逸協会専門学校に入学するが中途退学して、1886年(明治19年)荒尾精に同行して支那に渡り、上海の日清貿易研究所へ入学する。
水沼 啓子(みずぬま けいこ)は、産経新聞記者、元ソウル特派… 水沼 啓子(みずぬま けいこ)は、産経新聞記者、元ソウル特派員。神奈川県横浜市生まれ。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
中山 由美(なかやま ゆみ)は、日本のジャーナリスト、新聞記… 中山 由美(なかやま ゆみ)は、日本のジャーナリスト、新聞記者。朝日新聞社報道局記者。日本の女性記者で初めて南極観測越冬隊に同行取材するなど極地記者として活動するほか、多くのスクープを報道し、数々の賞を受賞する。 千葉県生まれ。1990年、立教大学文学部ドイツ文学科卒業。1992年、東京外国語大学大学院修士課程修了。 1993年に朝日新聞社に入社し、青森支局、つくば支局を経て、外報部、科学部、社会部で勤務。 2002年には記者の一人として、9・11同時多発テロ実行犯の生涯を追った連載「テロリストの軌跡」を担当し、ドイツや中東を取材し、2002年度日本新聞協会賞を受賞した。 2003年11月から2005年3月には、女性記者で初めて南極観測隊(第45次)に同行して越冬。
中村 常三(なかむら つねぞう、生没年不詳)は、昭和期に活躍… 中村 常三(なかむら つねぞう、生没年不詳)は、昭和期に活躍した日本のジャーナリスト、新聞記者。読売新聞社論説委員、読売新聞社外報部員。 1930年(昭和5年)、立教大学文学部を卒業。その後、読売新聞社に入社。 1936年(昭和11年)、読売新聞社の外報部員として中国に派遣され、特派員として日中関係の記事や、「転機に立つ日支関係」などの評論を執筆。 仕事柄から中国関連の書籍も出版しており、読売新聞の東亜部長をはじめ、大阪毎日新聞上海支局長や東京日日新聞東亜課長を歴任した村田孜郎と共訳による書籍も出版している。 後に読売新聞社論説委員を務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。