寺島 龍一(てらしま りゅういち、1918年4月27日 - … 寺島 龍一(てらしま りゅういち、1918年4月27日 - 2001年10月26日)は、洋画家、日本芸術院会員。寺島竜一とも。 東京府出身。東京美術学校卒。寺内萬治郎らに師事。1979年まで筑波大学教授。1997年「アンダルシア讃」で恩賜賞・日本芸術院賞受賞。1998年芸術院会員。日展理事、顧問。光風会理事長。 人物画、特にエキゾチックな女性像で知られた。ほか児童書の挿絵・表紙画でも知られ、特にJ・R・R・トールキンの作品の挿画が名高い。また自身でも子供向けの著作を著した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
熊埜御堂 英二(くまのみどう えいじ、1918年4月26日 … 熊埜御堂 英二(くまのみどう えいじ、1918年4月26日 - 2011年4月4日)は、日本の経営者。三和酒類社長を務めた。大分県宇佐市出身。 1944年に早稲田大学理工学部電気工学科を卒業し、1947年に特別調達庁福岡支局に入庁。1949年に家業の酒造業を引き継ぎ、1958年に三和酒類を創立し、社長に就任。1978年に会長に就任し、1989年に名誉会長を経て、1999年には相談役に就任。 2011年4月4日心筋梗塞のために死去。92歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
八原 昌元(やはら まさもと、1918年(大正7年)4月25… 八原 昌元(やはら まさもと、1918年(大正7年)4月25日 - 2004年(平成16年)4月13日)は、日本の実業家。明星食品の創業者の一人で、社長や会長も務めた。 愛媛県松山市に藩士の家系で大日本帝国の軍人だった八原昌後とキクとの間に生まれる。1936年(昭和11年)に父からの推薦により、神宮皇學館大学に入学した。卒業後に東京府立第一商業高等学校で教鞭を執ったが、再度皇學館大学に入学する。卒業後は同大学の研究員として活動していたが、戦後に連合国軍最高司令官(GHQ)からの命令により、解雇せざるを得なかった。 これによって、1926年(昭和21年)に試験に合格し農山漁村文化協会の一員として農村文化活動を行うも、当初は経営不振に陥った。
津田 文吾(つだ ぶんご、1918年4月24日 - 2007… 津田 文吾(つだ ぶんご、1918年4月24日 - 2007年11月8日)は、日本の政治家。神奈川県知事(民選第6・7代)。テレビ神奈川(tvk)会長。富山県小杉町(現・射水市)出身。東京帝国大学卒業。 内山岩太郎神奈川県知事の下で財政課長、総務部長、副知事などを歴任した後、1967年内山知事の後継者として自民党の推薦と民社党の支持を受けて神奈川県知事選に出馬し初当選。 1975年まで2期8年務めた。保守県政では珍しく知事在任中は、こども医療センター、総合リハビリテーションセンターなどの整備と運営に努めるなど福祉政策に力を入れ、「福祉の津田」と呼ばれた他、全国に先駆けて自然の尊重と人間性の回復を基調にした新総合計画を策定し、大企業の乱開発の規制、公害防止などにも取り組んだ。
林 良一(はやし りょういち、1918年4月24日 - 19… 林 良一(はやし りょういち、1918年4月24日 - 1992年10月2日)は、日本の仏教美術史学者。筑波大学名誉教授。専攻は文様史、正倉院の研究。 東京市(現港区)生まれ。1952年東京大学文学部美学美術史学科卒業。57年同大学院特別研究生を修了し、多摩美術大学講師、1958年日本大学芸術学部講師。1960年東京教育大学講師、63年明治大学講師。1963年『シルクロード』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。1967年東京教育大学講師、助教授、筑波大学教授、同芸術専門学群長、82年定年退官・名誉教授、駒澤大学教授。
井上 宇市(いのうえ ういち、1918年4月23日 - 20… 井上 宇市(いのうえ ういち、1918年4月23日 - 2009年7月17日)は、日本の建築設備学者。日本建築学会名誉会員。早稲田大学名誉教授。 公益社団法人 空気調和・衛生工学会では井上宇市記念賞を設けている。 埼玉県秩父郡秩父町(現・秩父市)生まれ。旧制熊谷中学校を経て1940年、旧制新潟高等学校を卒業したが、肺結核で一年療養を経て、東京帝国大学第一工学部船舶工学科に入学。1944年に卒業し、同年10月に福生航空教導師団を経て陸軍技術中尉任官し第1航空技術研究所勤務。 戦後の1946年から大成建設株式会社に勤務を経て1953年より早稲田大学第一理工学部及び第二理工学部建築学科専任講師に転任。
大谷 四郎(おおたに しろう、1918年4月23日 - 19… 大谷 四郎(おおたに しろう、1918年4月23日 - 1990年11月9日)は、兵庫県神戸市出身のサッカー選手、サッカー指導者、サッカージャーナリスト。東洋紡元社長の大谷一二は実兄。また、俳優の大谷亮介は長男、高畑裕太は孫である。 1918年4月23日神戸市御影生まれ。内海紡績常務取締役を務めた大谷恭助の四男として生まれる。御影師範学校附属小学校時代からサッカーに親しみ、兵庫県立第一神戸中学校(現:兵庫県立神戸高等学校)でサッカー部に入部。1934年の全国招待大会、1935年の全国中等学校選手権(現・全国高等学校サッカー選手権大会)に優勝し、2年連続全国大会制覇を達成した。第一高等学校(文科乙類)在学時代にも得点力のあるFWとして活躍。
下出積与(しもで せきよ、戸籍上は「積與」。1918年4月2… 下出積与(しもで せきよ、戸籍上は「積與」。1918年4月20日 - 1998年5月16日)は、日本の歴史学者。研究分野は宗教史。明治大学名誉教授。 石川県出身。大聖寺中学校、1938年3月第四高等学校文科甲類卒業し、1941年、東京帝国大学文学部国史学科卒業。北國新聞社、旧制小松中学、大聖寺高校教諭、金沢高師教授を経て、1949年、金沢大学法文学部助教授、のち文学部教授。1968年、明治大学教授となり、1989年定年退任、名誉教授。 1975年に「日本古代の神祇と道教」により東京大学から文学博士の学位を取得。道教、神道などを研究した。
竹中 修一(たけなか しゅういち、1918年4月20日 - … 竹中 修一(たけなか しゅういち、1918年4月20日 - 1997年7月31日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(5期)。青森県出身。経世会所属であった。
武藤謙二郎(1918年4月20日 - 1973年4月20日)… 武藤謙二郎(1918年4月20日 - 1973年4月20日)は、日本の大蔵官僚。 横浜税関長、主計局次長(末席)、主計局次長(次席)、関税局長などを務めた。 茨城県出身。東京帝国大学法学部政治学科在学中に高等試験行政科を合格。1944年12月 東京帝大法学部政治学科を卒業。1942年1月 大蔵省入省。専売局長官官房兼主計局属。 1960年7月15日 大臣官房地方課長。1961年6月23日 主税局税関部企画課長。同年11月1日 関税局総務課長。1963年6月1日 横浜税関長。1965年6月18日 主計局次長(末席)。当時の主力産業であった農林業や公共事業などを担当した。1966年7月22日 主計局次長(次席)。
中谷 準志(なかたに じゅんじ、1918年4月19日 - 1… 中谷 準志(なかたに じゅんじ、1918年4月19日 - 1970年2月27日)は、和歌山県出身のプロ野球選手(三塁手)。
小林 文次(こばやし ぶんじ、1918年 <大正7年> 4月… 小林 文次(こばやし ぶんじ、1918年 <大正7年> 4月19日 - 1983年 <昭和58年> 8月28日)は、日本の建築史家、工学博士。福島県伊達郡桑折町生まれ。兄に歴史学者・文学博士の角田文衞がいる。門下には望月照彦、近江榮、山本理顕、椎名英三などがいる。福島県のさざえ堂の実測調査を手がけた。位階は従五位。 1941年、東京帝国大学工学部建築学科卒業。同大学院に進学するも1944年に退学。同年慶應義塾大学予科教授。大学院生時代は平等院の研究を手がける。1949年日本大学助教授、1952年フルブライト制度でアメリカ合衆国のオレゴン大学へ留学。現地ではアメリカ合衆国近代建築史を研究した。1960年「古代メソポタミヤ建築論」により、東京大学工学博士を取得。
神島 二郎(かみしま じろう、1918年4月18日 - 19… 神島 二郎(かみしま じろう、1918年4月18日 - 1998年4月5日)は、日本の政治学者。専門は日本政治思想史。立教大学名誉教授。 東京市四谷区四谷左門町(現・東京都新宿区左門町)生まれる。砧小学校、国士舘中学校を卒業。 1942年に第一高等学校文科乙類を卒業後、東京帝国大学法学部政治学科に入学するが、1943年4月から12月にかけて東部第六部隊に所属。1944年1月から8月まで仙台予備士官学校に配属され、1944年12月から1945年9月までフィリピン方面軍特別情報部。 1946年1月に復員。1947年に東京大学(旧制)法学部を卒業後、大学院特別研究生となる(1949年に修了)。 1950年に国立国会図書館嘱託、主事、調査員。
松澤 秀雄(まつざわ ひでお、1918年4月18日 - 19… 松澤 秀雄(まつざわ ひでお、1918年4月18日 - 1999年8月31日 )は、日本の経営者。サンテレビジョン社長を務めた。 神奈川県出身。1941年に東京帝国大学文学部を卒業し、同年に朝日新聞社に入社した。朝日新聞社で名古屋本社編集局長、大阪本社編集局長を歴任し、1981年6月には兵庫県教育委員会委員長に就任。1982年9月にサンテレビジョン社長に就任し、1987年6月に会長を経て、1990年6月には相談役に就任。 1999年8月31日、心不全のため死去。81歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
倉田 文作(くらた ぶんさく、1918年4月17日 - 19… 倉田 文作(くらた ぶんさく、1918年4月17日 - 1983年1月23日)は、日本の仏像学者。 千葉県安房郡生まれ。父は画家・倉田重吉。長野県立上田中学校を経て1940年青山学院文学部英文科卒業、1942年早稲田大学文学部文学科卒業、1944年東洋美術国際研究会嘱託。 1945年文部省社会教育局嘱託、1947年国立博物館に入り、調査課嘱託を経て、1948年文部技官、1950年文化財保護委員会事務局美術工芸課彫刻部勤務。1959年彫刻部主査、1964年文化財調査官、1966年事務局美術工芸課長、1969年東京国立博物館学芸部長に転じる。1972年文化庁文化財保護部文化財鑑査官、1975年奈良国立博物館長に就任、1981年博物館振興の功績により文部大臣より表彰を受け、1983年従四位に叙せられ勲二等瑞宝章を受章した。
大林 芳郎(おおばやし よしろう、1918年4月17日 – … 大林 芳郎(おおばやし よしろう、1918年4月17日 – 2003年7月19日)は、日本の経営者。総合建設会社・大林組の第3代社長。大林道路社長・会長。内外テクノス社長。大林不動産社長。大林組二代目社長で母方叔父の大林義雄の養子。全国建設業協会(全建)会長も務めた。 大阪府出身。大林組創業者大林芳五郎の長女ふさとその入り婿・賢四郎の二男。 1941年、東京帝国大学工学部建築学科を卒業し、大林組に入社。翌1942年に徴兵された。1943年11月、第2代社長の大林義雄(芳五郎の長男でふさの弟)の急死に伴い3代目社長に就任。以後45年余りにわたって社長職を務めた。1987年には会長職を兼任したが、1988年に4代目社長に津室隆夫を据え、会長職に専任。
木山 弘(きやま ひろし、1918年〈大正7年〉4月15日 … 木山 弘(きやま ひろし、1918年〈大正7年〉4月15日 - 2009年〈平成21年〉2月26日)は、日本の政治家。元奈良県奈良市長(1期) 。位階は正六位。 三重県出身。1941年〈昭和16年〉昭和高等商業学校(現大阪経済大学)卒。1946年〈昭和21年〉奈良市役所に入る。市民、財政の各課長、総務部長、市長公室長、収入役、助役を経て、1980年〈昭和55年〉奈良市長に当選。市長を1期務め、1984年〈昭和59年〉の市長選挙には不出馬、市長を退任した。2009年〈平成21年〉死去。死没日付をもって正六位に叙された。
利根 一郎(とね いちろう、1918年〈大正7年〉4月15日… 利根 一郎(とね いちろう、1918年〈大正7年〉4月15日 - 1991年〈平成3年〉12月16日)は昭和期の作曲家。本名:恩田 良武。 朝鮮で生まれた。本籍は群馬県邑楽郡明和町で、同地に本家と先祖の墓がある。 早稲田大学政経学部中退。 1942年(昭和17年)ポリドール・レコードに入社。その後キングレコードを経てビクターに所属。1947年(昭和22年)、「星の流れに」が大ヒット。作曲家人生49年で1200余曲を作曲する。1966年(昭和41年)、「霧氷」にて第8回日本レコード大賞を獲得。 日本作曲家協会理事を務めた。1990年(平成2年)、勲四等瑞宝章受章。 1991年(平成3年)12月16日死去。
神田 隆(かんだ たかし、1918年4月14日 - 1986… 神田 隆(かんだ たかし、1918年4月14日 - 1986年7月13日)は、日本の俳優・声優。東京府東京市赤坂区(現・東京都港区赤坂)出身。本名は神田 澄孝。かかしプロ、アマチプロゼ、北川事務所に所属していた。 東京帝国大学文学部仏文科を卒業。1942年に日本出版文化協会に入った。上司には南條範夫・杉浦明平、同僚に柴田錬三郎がいた。しかし、映画評論家の内田岐三雄に豪快なマスクと雄弁を注目されて、1943年(昭和18年)、松竹大船撮影所に入社した。映画『暖き風』でデビューし、戦後は『象を喰った連中』の細菌研究所員役で好評を得た。 新藤兼人脚本の『安城家の舞踏会』などで主要な役を演じたが、代表作には恵まれなかった。
立田野 邦清(たつたの くにきよ、1918年4月14日 - … 立田野 邦清(たつたの くにきよ、1918年4月14日 - 1971年7月23日)は、石川県石川郡(現白山市)出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は窪川 清(くぼかわ きよし)。身長173cm、体重115kg。最高位は西前頭7枚目(1945年6月場所)。 出身地の白山市松任から「マットウさん」のあだ名で呼ばれた。右肩から当たって右を差し、そのまま出ていく取り口で、時に投げ技や捻りも見せたが基本は勝ち味の遅い"相撲好き"タイプ。羽黒山の土俵入りでは太刀持ちを務めた。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
石川 潔(いしかわ きよし、1918年4月13日 - 199… 石川 潔(いしかわ きよし、1918年4月13日 - 1995年4月24日)は、日本の経営者。三菱石油社長を務めた。東京都出身。 1940年に東京帝国大学工学部応用学科を卒業し、日産液体燃料に就職。同年9月、海軍技術科短期現役補修学生となり、造機中尉に任官。1945年5月、技術少佐に昇進し、終戦を迎えた。 戦後、農業化学研究所に勤務。1953年3月に三菱石油に転じ、1973年5月に常務、1979年3月に東北石油社長を経て、1983年6月に三菱石油社長に就任し、1989年6月には会長に就任した。 1995年4月24日肺炎のために死去。77歳没。墓所は東京都世田谷区の乗満寺。
坂野 惇子(ばんの あつこ、1918年4月11日 - 200… 坂野 惇子(ばんの あつこ、1918年4月11日 - 2005年9月24日)は、日本の実業家。アパレルメーカーファミリア創業者として知られる人物である。 1918年4月11日、兵庫県神戸市出身で、父はレナウン創業者で昭和時代に貴族院議員を務めた佐々木八十八。 1931年に甲南高等女学校に入学、1936年に甲南高等女学校を卒業。東京市へ上京し、東京女学館高等科の聴講生として学んでいる。 1940年、惇子は坂野兼通(山口銀行総理事)の子息、坂野通夫と結婚し、1943年に長女を出産した。その際に外国人専門の乳幼児看護師から外国式の育児法を教示される。 第二次世界大戦の進行と共に夫が大日本帝国海軍の軍属としてインドネシアに赴任。
川合一郎(かわい いちろう、1918年4月11日 - 197… 川合一郎(かわい いちろう、1918年4月11日 - 1979年3月14日)は、日本の経済学者。専門は金融論(信用論)。マルクス経済学に基礎をおきながら、ケインズ経済学(体系)など幅広い視角から高度経済成長期のインフレーション問題などについて実証的・理論的な研究を行った。 1918(大正7)年、福岡県に生まれる。1936(昭和11)年3月、灘中学校卒業。同年4月大阪商科大学 (旧制)(大阪市立大学→現大阪公立大学)高等商業部入学。1939(昭和14)年、病気により同大学を中退。同年9月、大阪商科大学経済学研究所臨時雇い。その後、同所書記、同所研究員を経て、1949(昭和24)年大阪市立大学助教授、1957(昭和32)年同教授。
大嶋 正(おおしま ただし、1918年(大正7年)4月11日… 大嶋 正(おおしま ただし、1918年(大正7年)4月11日 - 1984年(昭和59年)3月3日)は、スペイン文学者、同志社大学商学部教授。専攻はスペイン古典文学。 福井県福井市出身。1940年、東京外国語学校スペイン語部文科を卒業する。日本郵船社員、都新聞記者などを経て、1962年に同志社大学商学部助教授となる。 1966年、給与所得者は過重な税負担を課せられているとして「サラリーマン税金訴訟」を起こした。一、二審で敗れ、1984年3月3日、最高裁上告中にS状結腸癌により死去。享年65歳。 1975年、『魔女セレスティナ』で第12回日本翻訳文化賞を受賞する。
大村 筆雄(おおむら ふでお、1918年4月10日 - 20… 大村 筆雄(おおむら ふでお、1918年4月10日 - 2008年9月29日)は、日本の大蔵官僚。 広島県福山市三之丸町生まれ。広島県立福山誠之館中学校から第六高等学校(文科乙類)に入学。六高時代は柔道部に入部。官僚の道を選ぶべく東京帝国大学法学部を目指し、1938年に入学。東京帝大法学部法律学科3年次の1940年10月に高等試験行政科及び司法科を合格。東京帝大法学部法律学科を卒業し、1941年 大蔵省に入省し、国民貯蓄奨励局に配属された。8か月の勤務の後、広島の部隊に陸軍二等兵として入隊。1944年3月 パラオ諸島の中心コロール島に着任した。米軍の攻略目標から外れた大村らの基幹部隊は、パラオ本島のジャングルの中で持久作戦に入る。
安井 鍵太郎(やすい けんたろう、1918年4月10日 - … 安井 鍵太郎(やすい けんたろう、1918年4月10日 - 2015年11月10日)は、愛知県名古屋市出身のプロ野球選手。
原 一朗(はら いちろう、1918年4月10日 - 戦死)は… 原 一朗(はら いちろう、1918年4月10日 - 戦死)は広島県出身のプロ野球選手。
高橋 重信(たかはし しげのぶ / じゅうしん、1918年〈… 高橋 重信(たかはし しげのぶ / じゅうしん、1918年〈大正7年〉4月9日 - 1980年〈昭和55年〉7月30日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員。 岐阜県岐阜市出身。1938年(昭和13年)岐阜県師範学校を卒業し、1944年(昭和19年)同研究科を卒業した。 小学校訓導、陸軍伍長、岐阜県下国民学校訓導、中学校教諭、岐阜市教育委員会副委員長、日本社会党岐阜県本部書記長などを務めた。1955年(昭和30年)の岐阜県議会議員選挙に岐阜市選挙区から左派社会党公認で立候補して当選した。1959年(昭和34年)、1963年(昭和38年)は社会党公認で当選している。衆議院議員補欠選挙に立候補するため、1964年(昭和39年)12月6日付で県議を辞職した。
池田 一郎(いけだ いちろう、1918年4月8日 - 199… 池田 一郎(いけだ いちろう、1918年4月8日 - 1997年1月6日 )は、日本の経営者。日本旅行社長を務めた。 岡山県出身。旧制矢掛中学(現:岡山県立矢掛高等学校)、旧制第六高等学校を経て、1941年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に高文行政科に合格。鉄道省、日本国有鉄道での勤務を経て、1966年9月に日本旅行専務に就任し、1977年1月には社長に昇格した。1984年5月に取締役相談役を経て、1988年4月から顧問を務めた。 1997年1月6日脳梗塞で死去。78歳没。
若尾 隆子(わかお たかこ、1918年4月4日 - 2014… 若尾 隆子(わかお たかこ、1918年4月4日 - 2014年10月19日)は、日本の女優。旧姓は鮫島。 埼玉県川越市出身。東京府立第八高等女学校を卒業し、東宝劇場照明係を経て、戦後は名古屋演劇集団創立と共に夫と演劇活動を続けた。
山口 恵照(やまぐち えしょう、1918年4月4日 - )は… 山口 恵照(やまぐち えしょう、1918年4月4日 - )は、日本の哲学者。大阪大学名誉教授。インド哲学専攻。愛知県出身。 愛知県葉栗郡木曽川町(現:一宮市)に生まれる。1941年京都帝国大学文学部哲学科卒業。立命館大学助教授、1955年大阪大学文学部インド哲学科助教授、教授、82年定年退官、名誉教授。62年「古典サーンキヤ哲学の研究」で京都大学文学博士。1991年勲三等旭日中綬章受勲。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
大西 尹明(おおにし ただあき、1918年4月3日 - 20… 大西 尹明(おおにし ただあき、1918年4月3日 - 2001年6月5日)は、日本の翻訳家。 東京出身。早稲田大学英文科卒業、戦後、明治大学政治経済学部教授を務めた。 1968年に川瀬広保らが創設した明治大学SF研究会の会長。レイ・ブラッドベリ『ウは宇宙船のウ』、H・P・ラブクラフトの作品などSF、怪奇小説の翻訳で知られる。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
岡本 歌子(おかもと うたこ、1918年(大正7年)4月1日… 岡本 歌子(おかもと うたこ、1918年(大正7年)4月1日 - 2016年(平成28年)4月21日)は、日本の医学者。止血剤:ε-アミノカプロン酸とトラネキサム酸の開発者の1人。
木村 威夫(きむら たけお、1918年4月1日 - 2010… 木村 威夫(きむら たけお、1918年4月1日 - 2010年3月21日)は、日本の美術監督、映画監督。 東京都恵比寿出身。日本映画・テレビ美術監督協会顧問、日本映像美術協議会JVA賞審査委員長、日活芸術学院学院長、映画美学校理事、東京工芸大学芸術学部客員教授、京都造形芸術大学映画学科准教授を務めた。 十代の頃より、舞台美術監督伊藤熹朔に師事。1941年、日活に入社。しかし、翌年に日活は新興キネマ、大都映画と合併して大映となる。『海の呼ぶ聲』(1945年 / 伊賀山正徳監督、封切は終戦後)で美術監督に昇進。1954年、映画製作を再開した日活へ移籍。 1963年、『悪太郎』をきっかけに鈴木清順監督作品の美術を担当、「清順美学」と呼ばれるその作風の創造に大きく貢献する。
一倉 定(いちくら さだむ、1918年4月- 1999年3月… 一倉 定(いちくら さだむ、1918年4月- 1999年3月)は日本の経営コンサルタント。 群馬県前橋市出身。旧制前橋中学校卒業後に、中島飛行機の生産技術係長、富士機械製造の資材課長や、日本能率協会のプロジェクトマネージャーをなど経て、経営コンサルタントとして独立。生産管理、管理会計の分野からはじめ、社長専門のコンサルタントとして伝説をつむいだ。5000社を超える企業を指導し、多くの赤字企業を立て直した。 社長専門の経営コンサルタントの第一人者とされ、苛烈なまでに経営者を叱り飛ばす姿から「社長の教祖」「炎のコンサルタント」との異名を持つ。 ”ダメな会社はTOPがすべて悪い、人のせいにするな、部下のせいにするな、環境のせいにするな”が基本方針。
矢橋宗一(やばし そういち、1918年4月 - 没年不詳)… 矢橋宗一(やばし そういち、1918年4月 - 没年不詳)は、日本の実業家。矢橋工業代表取締役社長。「先祖は嵯峨天皇の第12皇子で光源氏の実在モデルの有力候補とされる源融(みなもとのとおる)にまで遡る(アーカイブ)」矢橋家・本家の出身。 1918年4月、矢橋次郎と絹(旧姓・安居)の長男として生まれる。慶應義塾大学を卒業し、安田信託銀行入行。1958年矢橋工業入社。矢橋工業取締役を経て、1970年矢橋工業常務、1973年矢橋工業専務、1979年矢橋工業代表取締役社長に就任。 「矢橋家家系図」によれば、矢橋家(惣本家・本家・南矢橋・北矢橋)は、嵯峨天皇・源融(紫式部『源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの有力候補)まで遡る。
塩谷 正雄(しおたに まさお、1917年〈大正6年〉4月30… 塩谷 正雄(しおたに まさお、1917年〈大正6年〉4月30日 - 2005年〈平成17年〉9月15日)は、日本の運輸技官、気象学者。理学博士。元日本国有鉄道鉄道技術研究所防災研究室長、元日本大学生産工学部教授。日本風工学会名誉会員。 新潟県新潟市古町通12番町(現 新潟市中央区)出身。1934年(昭和9年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1937年(昭和12年)3月に新潟高等学校を卒業、1940年(昭和15年)3月に東京帝国大学理学部物理学科を卒業。 逓信省中央航空研究所技手に就任、1944年(昭和19年)に応召、1945年(昭和20年)に復員、12月に運輸省鉄道技術研究所技師に就任、交通気象研究室に勤務、1949年(昭和24年)から日本国有鉄道鉄道技術研究所防災研究室に勤務、1950年(昭和25年)5月に東北大学から理学博士の学位を取得、1954年(昭和29年)10月からアメリカのテキサス農工大学海洋学部で微気象について研究、1955年(昭和30年)11月からアメリカ各地の研究機関を視察、12月に帰国、1958年(昭和33年)5月に日本国有鉄道鉄道技術研究所防災研究室長に就任。
野見山 朱鳥(のみやま あすか、1917年(大正6年)4月3… 野見山 朱鳥(のみやま あすか、1917年(大正6年)4月30日 - 1970年(昭和45年)2月26日)は福岡県出身の俳人。高浜虚子に師事、「菜殻火」主宰。本名は正男(まさお)。
藤野 文三郎(ふじの ふみさぶろう、1917年4月29日 -… 藤野 文三郎(ふじの ふみさぶろう、1917年4月29日 - 没年不明)は、北海道出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
伊賀上 良平(いがうえ りょうへい、1917年4月29日 -… 伊賀上 良平(いがうえ りょうへい、1917年4月29日 - 2000年2月27日)は、プロ野球選手(内野手)。右投右打。1952年以降は「伊賀上 潤伍」(いがうえ じゅんご)と名乗った(「-良平」が本名)。
千秋 実(、1917年〈大正6年〉4月28日 - 1999年… 千秋 実(、1917年〈大正6年〉4月28日 - 1999年〈平成11年〉11月1日)は、日本の俳優。本名は佐々木勝治()。旧姓は森竹。 妻の女優佐々木踏絵とともに薔薇座を結成して舞台で活動後、映画俳優に転向し、黒澤明監督作品の常連俳優として活躍。テレビドラマでもホームドラマを中心に人気を得た。主な作品に『七人の侍』『隠し砦の三悪人』『花いちもんめ。』など。著書に妻との共著『わが青春の薔薇座』などがある。俳優の佐々木孝丸は岳父にあたる。俳優の佐々木勝彦は息子(次男)。女優の宮本信子の父親とは従兄弟同士であり、従兄弟の娘という関係性を説明するのが面倒との理由で宮本信子を姪と紹介していた。 1917年(大正6年)4月28日(土曜日)、北海道中川郡恩根内村(現在の美深町)に、呉服・洋品雑貨店を営む森竹家の3男として生まれる。
奈良 靖彦(なら やすひこ、1917年4月28日 - 201… 奈良 靖彦(なら やすひこ、1917年4月28日 - 2013年9月6日)は、日本の外交官。駐シンガポール特命全権大使や駐カナダ特命全権大使を務めた。位階は従三位。 大分県出身。旧制京北中学校を経て、1941年に旧制東京商科大学(一橋大学の前身)を卒業し、外務省入省。同期に西堀正弘(国連大使)、魚本藤吉郎(駐ソ連大使)、内田宏(駐仏大使)、吉野文六(駐独大使)、人見鉄三郎(駐コスタリカ大使)など。 1943年、外務省弘報部で勤務し、戦時体制下で、ジャパンタイムズの監督を行った。 1965年5月シカゴ総領事に就任。着任時に、総領事公邸が外交に使うにはあまりに貧弱なものだったため、筋向いの邸宅を購入しようと考え、東京銀行のシカゴ支店長と交渉し購入資金の融資を受け、また当時大蔵事務次官を務めていた石野信一も案内した末購入し、新しい公邸とした。
尾川 正二(おかわ まさつぐ、1917年(大正6年)4月28… 尾川 正二(おかわ まさつぐ、1917年(大正6年)4月28日 - 2009年(平成21年)3月5日)は、旧朝鮮生まれの国文学者である。
山口 健作(やまぐち けんさく、1917年4月28日 - 2… 山口 健作(やまぐち けんさく、1917年4月28日 - 2012年7月25日)は、昭和時代中期から平成時代日本の作曲家。長崎大学名誉教授。 長崎市出身。1938年(昭和13年)4月に東京音楽学校甲種師範科に入学。下総皖一、城多又兵衛、伊藤武雄、今井治郎らの師事を仰ぐ。1941年(昭和16年)3月に同校を卒業後、台湾に渡り台中師範学校に赴任。終戦後に帰郷し、長崎師範学校教諭に就く。 戦後は学制改革により長崎大学学芸学部助教授となり、1961年(昭和36年)制定の県民歌「南の風」を始め県内各地の校歌を作曲、教育学部名誉教授に至る。 2012年(平成24年)7月25日死去。享年96(満95歳没)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
後藤 憲一(ごとう けんいち、1917年4月27日 - 19… 後藤 憲一(ごとう けんいち、1917年4月27日 - 1993年7月30日)は、日本の物理学者。大阪大学名誉教授。理学博士。 島根県出身。1941年大阪帝国大学理学部物理学科卒、同助手、1954年大阪大学理学部助教授。1962年「磁場内プラズマの臨界安定性について」で理学博士。1966年教授、1981年定年退官、名誉教授、摂南大学工学部教授。88年退職。
宮入 庄太(みやいり しょうた、1917年 <大正6年> 4… 宮入 庄太(みやいり しょうた、1917年 <大正6年> 4月25日 - 1999年 <平成11年> 2月19日)は、日本の電気工学者。東京工業大学名誉教授。元東京電機大学総合研究所長。元電気学会会長。位階は正四位。 長野県埴科郡戸倉村(現千曲市)生まれ。旧制屋代中学(長野県屋代高等学校)を経て、1945年東京工業大学電気工学科卒業。1957年工学博士。信州大学助教授、東京工業大学助教授を経て、1960年東京工業大学教授。1966年電気学術振興賞著作賞受賞。1978年東京工業大学定年退官、東京工業大学名誉教授。1981年電気学会会長。1982年東京電機大学総合研究所長。1984年東京電機大学工学部長。
鬼頭 数雄(きとう かずお、1917年4月25日 - 194… 鬼頭 数雄(きとう かずお、1917年4月25日 - 1944年7月)は、愛知県出身のプロ野球選手。
岡田 福吉(おかだ ふくよし、1917年4月25日 - 19… 岡田 福吉(おかだ ふくよし、1917年4月25日 - 1944年12月21日)は、愛知県出身のプロ野球選手(二塁手、三塁手)。
今津 晃(いまづ あきら、1917年4月24日 - 2003… 今津 晃(いまづ あきら、1917年4月24日 - 2003年6月18日)は、日本の歴史学者である。日本におけるアメリカ合衆国史研究の開拓者。 静岡県浜名郡吉津村(鷲津町、湖西町を経て現湖西市)に生まれる。1938年第三高等学校卒業、1941年12月京都帝国大学文学部史学科卒業、1948年9月京都帝国大学大学院退学。1962年「アメリカ革命史序説」で文学博士(京都大学)の学位取得。1942-43年文学部部副手嘱託。1946年9月関西大学予科講師、1947年4月大谷大学学部及予科教授、1948年同志社大学専任講師、48年助教授、1950年9月大阪大学教養部助教授、1953年文学部助教授、1959年京都大学文学部助教授。
後藤 比奈夫(ごとう ひなお、1917年〈大正6年〉4月23… 後藤 比奈夫(ごとう ひなお、1917年〈大正6年〉4月23日 - 2020年〈令和2年〉6月5日)は、大阪府出身の俳人。本名は日奈夫(読み同じ)。「諷詠」名誉主宰。父は後藤夜半。 大阪府西成郡今宮村に生まれる。神戸一中、旧制一高を経て、1941年に大阪大学物理学科を卒業。戦時中は陸軍の技術研究所に勤務。1947年、大阪市にボン電気会社を設立。1951年、父・夜半について俳句の道に入り、夜半の主宰誌「花鳥集」に拠る。「ホトトギス」「玉藻」にも投句し高濱年尾、星野立子に師事。1954年、「花鳥集」が「諷詠」に改題され、その編集兼発行人となる。1955年、波電子工業所を創業、1960年に株式会社となり代表取締役に就任。