友近 晋(ともちか すすむ、1903年4月11日 - 196… 友近 晋(ともちか すすむ、1903年4月11日 - 1964年12月9日)は、日本の機械工学・物理学者。理学博士(東京帝国大学)。京都大学元理学部部長および大阪帝国大学理学部元教授。日本物理学会第14代会長。日本学術会議会員(1期)。国際理論応用力学連合日本代表。流体力学・航空物理学の第一人者の一人。 専門は、流体力学・流体機械、航空物理学。 愛媛県松山市生まれ。1926年東京帝国大学理学部物理学科卒業(指導教授は、理論物理学者の第一人者の一人で東京帝国大学航空研究所所長を務めた寺沢寛一)。同大学助手を経て、1929年同大学理学部助教授。1932年理学博士(東京帝国大学)。同大学航空研究所所員も務める。
大村 純毅(おおむら すみたけ、1903年(明治36年)4月… 大村 純毅(おおむら すみたけ、1903年(明治36年)4月11日 - 1974年(昭和49年)4月17日)は、日本の昭和時代の華族、陸軍軍人、政治家(第5代〜第8代大村市長)。大村家第33代当主。大村市名誉市民。 父大村純英が陸軍軍人として赴任中の静岡県静岡市で誕生、ほどなく東京へ移る。 学習院初等科で院長であった乃木希典の薫陶を受け、学習院中等科を経て陸軍中央幼年学校へ入り、1924年(大正13年)7月に陸軍士官学校本科卒業(第36期)。同年10月に砲兵少尉任官。以後、砲兵部隊中心に軍歴を重ねる。最終的には野戦重砲第八連隊付を経て中佐に昇進した。1933年(昭和8年)6月、父の死没に伴い伯爵を襲爵。
立汐 唯五郎(たてしお ただごろう、1903年4月11日 -… 立汐 唯五郎(たてしお ただごろう、1903年4月11日 - 1935年4月28日)は、青森県西津軽郡木造町(現在のつがる市)出身で振分部屋に所属した元大相撲力士。本名は藤本 唯五郎(旧姓長谷川)。最高位は西十両5枚目。兄は幕内力士の立汐祐治郎。 浪ノ音の振分部屋に入門。1918年5月場所で「鷹城山」の四股名で初土俵を踏む。1920年1月場所「鷹ヶ汐」に改名。1924年5月場所から兄の四股名の「立汐」を名乗った。1927年5月場所新十両。10月場所では幕下のままのため、東京場所と地方場所では番付の地位が異なるという珍現象を起こした。十両で勝ち越すことはなく、1930年3月場所限り廃業した。十両在位は4場所に終わり、兄に続く入幕は果たせなかった。
金子 みすゞ(かねこ みすず、本名:金子 テル〈かねこ テル… 金子 みすゞ(かねこ みすず、本名:金子 テル〈かねこ テル〉、1903年〈明治36年〉4月11日 - 1930年〈昭和5年〉3月10日)は、大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した日本の童謡詩人。約500編の詩を遺した。没後半世紀はほぼ忘却されていたが、1980年代以降に脚光を浴び、再評価が進んだ。 西條八十に激賞された幻の童謡詩人とされている。遺稿集が発掘され、出版(1984年)、深く優しい世界観が広く知られた。代表作に「私と小鳥と鈴と」「大漁」など。 山口県大津郡仙崎村(現:長門市仙崎)で、父・金子庄之助、母・ミチとの間に生まれる。郡立深川高等女学校(現:山口県立大津緑洋高等学校)卒業。
瓦林 潔(かわらばらし きよし、1903年4月10日 - 1… 瓦林 潔(かわらばらし きよし、1903年4月10日 - 1990年2月7日 )は、日本の経営者。 福岡県浮羽郡田主丸町出身。1927年に中央大学法学部を卒業し、同年に筑後電力に入社。1937年7月に九州水力電気を経て、1942年4月に九州配電(のちの九州電力)に転じる。1954年5月に取締役に就任し、常務、副社長を経て、1967年5月に社長に就任。1974年6月に会長に就任し、1983年7月から相談役を務めた。 1968年から1974年までに福岡放送社長も務め、福岡野球(太平洋クラブライオンズ→クラウンライターライオンズ)取締役、日本商工会議所副会頭、福岡商工会議所会頭、福岡大学理事長なども歴任。
堀江 実蔵(實藏、ほりえ じつぞう、1903年(明治36年)… 堀江 実蔵(實藏、ほりえ じつぞう、1903年(明治36年)4月10日 - 1986年(昭和61年)1月9日)は、昭和期の農民運動家、政治家。衆議院議員。 鳥取県東伯郡八橋町(のち東伯町、現・琴浦町)出身。農業を営む。 八橋町会議員、同町農地委員会長、同町農業会理事、鳥取県果実協会副会長、日本園芸農協連理事会長などを務めた。また、日本農民組合東伯郡協議会長、日本労働農民党鳥取県支部常任執行委員、日本労働党鳥取県支部常任執行委員、日本農民組合鳥取県支部連合会副会長、鳥取県農民総同盟常任執行委員中部協議会長なども務めた。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で鳥取県全県区から鳥取県農民総同盟公認で出馬して当選し、労働者農民党に所属して衆議院議員に1期在任した。
篠原 卯吉(しのはら うきち、1903年4月9日 - 199… 篠原 卯吉(しのはら うきち、1903年4月9日 - 1993年3月3日)は、日本の電気工学者。第5代名古屋大学総長。第58代電気学会会長。 名古屋市生まれ。愛知県第一中学校(現愛知県立旭丘高等学校)、第八高等学校を経て、1926年九州帝国大学工学部電気工学科卒業、九州帝国大学講師。1927年北海道帝国大学講師。同年北海道帝国大学助教授。1930年照明学会評議員。1935年九州帝国大学工学博士。1940年名古屋帝国大学理工学部教授。1953年名古屋大学工学部長。1958年郵政省電波技術審議会委員。1960年電気通信学会東海支部長。1961年電気学会浅野賞受賞。1963年名古屋大学教養学部長。同年名古屋大学総長、電気学会副会長、第6期日本学術会議会員、文部省大学設置審議会委員。
釜瀬 冨士雄(かませ ふじお、1903年4月9日 - 198… 釜瀬 冨士雄(かませ ふじお、1903年4月9日 - 1985年[要出典])は、日本の教育者。学校法人九州学園理事長。 九州学園創立者釜瀬新平の長男として福岡市に生まれる。1921年福岡県立中学修猷館を経て、1926年東京帝国大学文学部心理学科を卒業。 1928年6月旧制松本高等学校教授となり、1950年2月福岡県教育委員会に転じ、1955年4月久留米大学商学部教授に就任。 1960年6月九州学園理事長および九州女子高等学校(現・福岡大学附属若葉高等学校)校長に就任。1966年4月福岡女子短期大学を創設し学長を兼ねる。
奈良 治二(なら はるじ、1903年(明治36年)4月8日 … 奈良 治二(なら はるじ、1903年(明治36年)4月8日 - 1965年(昭和40年)7月19日)は、昭和期の農業協同組合指導者、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・成田。 青森県北津軽郡六郷村胡桃館(現鶴田町)で、成田治の二男として生まれる。1923年(大正12年)青森県立弘前中学校(現青森県立弘前高等学校)を卒業した。 中津軽郡新和村(現・弘前市)種市の奈良家の養子となる。新和村農業会長、(有) 北隆造船鉄工所取締役社長、北日本化学工業取締役社長、新和村農業協同組合長、同村農業共済組合長、青森県農業共済保険組合理事、同県利用農業協同組合連合会長などを務めた。 政界では1930年(昭和5年)新和村会議員に選出された。
河口 商次(かわぐち あきつぐ、1903年4月8日 - 19… 河口 商次(かわぐち あきつぐ、1903年4月8日 - 1984年7月30日)は、日本の数学者。北海道大学名誉教授。専門は微分幾何学、特にフィンスラー幾何学。日本の微分幾何のパイオニアの一人。師は窪田忠彦、弟子に桂田芳枝がいる。 1903年4月東京に生まれ、母河口愛子の独自の教育方針の下に高校検定試験に合格し、1922年 東北帝国大学数学科に入学、1925年 卒業後、同大学院に進む。1927年 東北帝国大学大学院在学中に1930年開講が決まった北海道帝国大学理学部数学科の教授候補に内定。準備期間中2年間の留学が定められていたため、文部省在外研究員となり1928年から1930年にかけて、ドイツ(ベルリン、ハンブルグ)に留学。
矢島 せい子(やじま せいこ、1903年4月6日 - 198… 矢島 せい子(やじま せいこ、1903年4月6日 - 1988年1月24日)は、日本の社会福祉運動家・民俗学者。障害者の生活と権利を守る全国連絡協議会初代会長、ヘレン・ケラー賞受賞者。 東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区浅草)に歌舞伎作者・竹芝伝蔵(本名・加藤伝太郎)の娘として生まれる。弟に俳優の四代目澤村國太郎、加東大介、妹に女優の沢村貞子がいる。幼くして叔母の石井家に養女に出され、弟妹たちとは異なる生活を送る。 旧制・佐藤高等女学校(現在の女子美術大学付属高等学校)を卒業し、日本女子大学家政科に入学する。1922年(大正11年)、同学を中退。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災に被災し、栃木県に疎開する。
栗山 久治(くりやま ひさじ、1903年4月6日 - 198… 栗山 久治(くりやま ひさじ、1903年4月6日 - 1985年9月17日)は、日本の経営者。兵庫県出身。 1927年に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、1928年に関東配電に入社。後に藤倉電線に転じ、1955年に取締役に就任し、1959年に常務、1964年に専務を経て、1965年に副社長に就任し、同年11月には社長に昇格。1973年11月に会長に就任し、1976年に相談役に就任。 1985年9月17日腎不全のために死去。82歳没。
八住 利雄(やすみ としお、1903年〈明治36年〉4月6日… 八住 利雄(やすみ としお、1903年〈明治36年〉4月6日 - 1991年〈平成3年〉5月22日)は、日本の脚本家。元日本シナリオ作家協会理事長(1965年 - 1968年、1982年 - 1991年)。脚本家の白坂依志夫は長男。 大阪市出身。早稲田大学露文学科卒業。卒業後、しばらくはロシア文学の翻訳家、築地小劇場などの新劇運動を経て。 1928年、春秋社から人生読本というタイトルでトルストイの翻訳書を出版、笹本寅が携わった。 1936年、PCL入社。脚本第一作は『武士道朗らかなりし頃』を発表、1939年(昭和14年)『樋口一葉』で注目され、その後シナリオライターに専念する。 。1947年(昭和22年)、ラジオドラマ『向う三軒両隣』の脚本を伊馬春部、北条誠、北村寿夫とともに交代で執筆。
赤岩 栄(あかいわ さかえ、1903年4月6日 - 1966… 赤岩 栄(あかいわ さかえ、1903年4月6日 - 1966年11月28日)は、日本基督教団の牧師。牧師をしながら共産党入党宣言をしたことが教団内の大きな問題になった。椎名麟三に洗礼を授けた牧師としても知られる。 愛媛県喜多郡肱川村の牧師の家に生まれた。広陵中学中退後、神戸神学校に入学する。その後、大阪神学院に転校したが、キリスト教に懐疑を抱き中退する。 さらに、東京神学社で学び校長高倉徳太郎の神学に傾倒し、回心を経験する。卒業後、日本基督教会佐渡伝道所に赴任する。 高倉の要請で『福音と現代』の編集のために上京する。1931年(昭和6年)中原伝道所を開き、翌1932年に上原教会(現:日本基督教団代々木上原教会)を設立する。
川﨑 千春(かわさき ちはる、1903年〈明治36年〉4月5… 川﨑 千春(かわさき ちはる、1903年〈明治36年〉4月5日 ‐ 1991年〈平成3年〉6月6日)は、日本の実業家。京成電鉄第5代代表取締役社長、京成百貨店代表取締役社長、オリエンタルランド初代代表取締役社長、北総開発鉄道代表取締役社長、成田空港交通代表取締役社長、日本民営鉄道協会会長を務めた。また、日本大学第一学園の第6代同窓会長も歴任した。茨城県出身。趣味はゴルフ、邦楽、古いヴァイオリンの修理。 日本にディズニーパークを誘致する構想を提案した人物であり、東京ディズニーランドの建設計画にも中心的に関わった。京成電鉄では21年間にわたり社長を務め、京成グループの発展に尽力した。 尾張徳川家に仕えた絵師の家系の出身で、従兄に川﨑小虎、小虎の長女・川﨑すみの夫に東山魁夷がいる。
片野 一郎(かたの いちろう、1903年4月4日 - 198… 片野 一郎(かたの いちろう、1903年4月4日 - 1983年6月2日)は会計学者。一橋大学名誉教授、商学博士。高瀬荘太郎門下で貨幣価値変動会計などを研究テーマとした。第7期日本学術会議会員等も務めた。 1903年、東京府東京市小石川区白山前町(現東京都文京区白山)生まれ。京華商業学校(現京華商業高等学校)、京北実業学校(後の京北学園白山高等学校)を経て、1928年東京商科大学(現一橋大学)附属商学専門部を卒業。1931年、同大学学部を卒業。在学中は高瀬荘太郎ゼミで学ぶ。 卒業後は、京北実業学校教諭を経て、1938年鹿児島高等商業学校(現鹿児島国際大学)教授。1940年善隣高等商業学校(のちの日本商科大学)教授。
古池 信三(こいけ しんぞう、1903年(明治36年)4月3… 古池 信三(こいけ しんぞう、1903年(明治36年)4月3日 – 1983年(昭和58年)10月7日)は、昭和期の日本の政治家、官僚。位階は正三位。郵政大臣、国際電信電話(KDD、現KDDI)会長及び社長。 岐阜県大野郡高山町(現高山市)に生まれた。広瀬末吉の二男。古池喜代次郎の養子となった。古池家は清和源氏村上氏流の庶流で、美濃国恵那郡を本拠としていた一族だといわれている。 旧制斐太中学校(現岐阜県立斐太高等学校)、第一高等学校を経て、1928年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、逓信省に入省する。京都中央電話局加入課長、簡易保険局弁済課長、名古屋逓信局庶務課長、広島逓信局規画課長、電気局検査課長、電力管理準備局評価課長、電気庁第一部監督課長、官房総務課長、総務局需品課長、運輸省官房会計秘書各課長、札幌逓信局長、商工省電力局長、名古屋商工局長などを歴任。
会田 由(あいだ ゆう、1903年4月3日 - 1971年2… 会田 由(あいだ ゆう、1903年4月3日 - 1971年2月27日)は、日本のスペイン文学者、翻訳家。『ドン・キホーテ』の日本初の完訳者であり、日本のスペイン文化研究の先駆者である。 1903年、熊本県生まれ。1927年、東京外国語学校スペイン語科を卒業。在学中は永田寛定の下で学ぶ。 戦後の1949年、東京外国語大学講師となり、のち教授を務めた。その間、東京大学教養学部でも非常勤講師として、スペイン語授業を担当、スペイン文化研究の先鞭をつけた。1965年より神奈川大学教授を務めた。 数多くのスペイン語文学を翻訳したが、特に『ドン・キホーテ』の和訳を1962年に完結させ、最初の完訳者となった。翻訳は師の永田寛定訳(岩波文庫版)が先行していたが、手間取っているうちに会田が先に完成させ、以後数社の「外国文学全集」に収録され、重刷された。
中村翠恒(なかむら・すいこう、1903年4月3日ー1985年… 中村翠恒(なかむら・すいこう、1903年4月3日ー1985年9月8日)は昭和期の九谷焼の陶芸家。日展参与。元石川県陶芸協会会長。石川県指定無形文化財九谷焼技術保存会初代会長。戦前から帝展、新文展で活躍する。 明治36年生まれ。石川県加賀市出身。名工初代 中村秋塘の次男。本名は恒。 大正13年石川県立工業学校卒業。京都国立陶磁研究所に進み、安達陶仙、二代伊東陶山、河村蜻山、板谷波山らに師事する。 三代 秋塘を襲名。のち甥に譲り以降翠恒を名乗る。昭和60年9月8日老衰により石川県立中央病院にて死去。享年82歳。 昭和3年に第9回帝展において「彩釉彫牡丹文壷」が初入選。戦前は「秋塘」の名で出品している。
浜崎 芳雄(はまさき よしお、1903年〈明治36年〉4月3… 浜崎 芳雄(はまさき よしお、1903年〈明治36年〉4月3日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。浜崎芳雄商店会長。鳥取生コン会長。鳥取振興開発社長。日本海テレビジョン放送監査役。鳥取市議会議長(31代)。 鳥取県鳥取市(旧青谷町)出身。1921年(大正10年)、銅鉄商・黒川明四郎商店に入社し、大阪市立実業学校商業簿記専修科を卒業する。1924年(大正13年)に神戸営業所支配人。 1931年(昭和6年)に退社し、銅鋼鉄商・浜崎芳雄商店を設立する。1964年(昭和39年)、株式に改組、社長となる。1960年(昭和35年)12月、鳥取市議会議長に就任する。 高額所得者である。宗教は浄土宗。趣味はスポーツ、旅行、ゴルフ。
印南 博吉(いんなみ ひろきち、1903年4月1日 - 19… 印南 博吉(いんなみ ひろきち、1903年4月1日 - 1990年5月9日)は、経済学・保険学者。明治大学名誉教授、創価大学名誉教授。明治大学商学部長、全国生活協同組合連合会の初代理事長等を歴任。 栃木県出身。栃木県立大田原中学校(現・栃木県立大田原高等学校)卒、東京商科大学(現一橋大学)卒業。田中外次初代住友金属鉱山社長は志田鉀太郎ゼミの同期。1955年「保険本質論の再吟味」で明治大学より商学博士の学位を取得。明治大学商学部助教授、教授、学部長、1971年名誉教授、創価大学教授、1982年名誉教授。1982年から87年まで全国生活協同組合連合会の初代理事長を務め、一般の人が低額で加入できる生命共済事業を全国的に広めた。
若林 忠一(わかばやし ちゅういち、1903年(明治36年)… 若林 忠一(わかばやし ちゅういち、1903年(明治36年)4月1日 - 1977年(昭和52年)5月28日)は、日本の農民運動家、政治家。長野県更埴市長。 長野県埴科郡屋代町(現千曲市)生まれ。旧制長野中学(現長野県長野高等学校)を中退し、独学で法政大学経済学部に進学し、在学中から社会主義運動に参加し、1924年(大正13年)中途退学して帰郷。 更級・埴科地方の自作・小作農民層の青年らを集めて「北信社会思想研究会」を立ち上げ、これに教員らが参加して、1925年(大正14年)政治研究会長野県評議会を組織し、幹事長となる。1926年(大正15年)労働農民党(労農党)に入党。1927年(昭和2年)屋代町に長野県小作組合連合会(日本農民組合長野県連合会)を組織し、その中心人物として県下の農民運動を主導した。
石原 幹市郎(いしはら かんいちろう、1903年4月1日 -… 石原 幹市郎(いしはら かんいちろう、1903年4月1日 - 1989年3月7日)は、日本の内務官僚。政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。 岡山県出身。参議院議員、初代自治大臣、福島県知事などの要職を歴任した。自由民主党所属。衆議院議員・参議院議員の石原健太郎は長男。福島県議会議員の石原信市郎、元衆議院議員の石原洋三郎は孫。栗本慎一郎の母方の親戚にあたる。 東京帝国大学卒業後、内務省に入省、警保局に配属され、静岡、北海道、神奈川、埼玉などで警察畑を歩む。 1936年に新潟県保険課長となり、1938年7月、内務省初代保険課長となる。国民健康保険法の法案作成に参画、施行とともに国保組合の設立を呼びかけ全国を回る。
ベルトラメリ 能子(ベルトラメリ よしこ、1903年4月1日… ベルトラメリ 能子(ベルトラメリ よしこ、1903年4月1日 - 1973年8月2日)は、日本の声楽家・ソプラノ歌手。旧姓は鐵(てつ)。 1903年(明治36年)4月1日に鉄信夫、こん夫妻の長女として生まれた。生家の鉄家は茨城県多賀郡大津町(現・北茨城市)で遠洋漁業と缶詰製造業を営む旧家であり、能子の祖父鉄伝七は茨城県議(2期)、第19代茨城県会議長を務めた。日露戦争後に鉄家は家業の水産業を東京の水産会社に譲渡し、一家で東京に移った。 8歳頃から東京で育つ。1917年(大正6年)4月に東京音楽学校(現東京芸術大学)乙種師範科に入学し、1918年(大正7年)3月に卒業。引き続き東京女子音楽園で学んだのち、高輪尋常小学校で教師をしながら矢野寿美子、山田耕筰、米国人女性バーカーに師事し、アドルフォ・サルコリにベルカント唱法を学んだ。
村山 リウ(むらやま りゅう、女性、1903年4月1日 - … 村山 リウ(むらやま りゅう、女性、1903年4月1日 - 1994年6月17日)は、日本の評論家。 香川県仲多度郡琴平町生まれ。1923年、日本女子大学校国文科卒、1930年、岡山医科大学副手の村山高と結婚、1936年頃から地域婦人活動を行う。新地に女子青年団が結成された際、団長に選ばれる。 その後、1943年から大阪に住み女子挺身隊関連の仕事で大阪府庁に勤める。 戦争で大阪の家を焼かれ、戦後、大阪市社会教育委員など各種婦人団体の役員をつとめ、新聞の身の上相談や社会時評などで、婦人問題評論家として活動。 『源氏物語』の研究を始めてその解き語りを、関西中心に始める。現代視点からのユニークな解説、講演から「村山源氏」として知られ、1959年にはテレビでその現代語訳の朗読を行った。
島田 末信(しまだ すえのぶ、1903年〈明治36年〉4月1… 島田 末信(しまだ すえのぶ、1903年〈明治36年〉4月1日 - 1958年〈昭和33年〉4月28日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 香川県出身。1926年法政大学専門部商科卒。讃岐公論社主筆、阿讃中央自動車、金剛産業(株)各代表取締役、坂出製氷、四国連鎖百貨各(株)取締役社長となる。香川県議会議員、香川県地方労働委員会委員を歴任する。1947年の第23回衆議院議員総選挙において香川2区から日本民主党公認で立候補して落選。1949年の第24回衆議院議員総選挙で当選した。国会では衆議院労働委員長を務めた。1952年の第25回衆議院議員総選挙では自由党から立候補したが落選した。1958年死去。
長谷川 晃一(はせがわ こういち、1903年(明治36年)4… 長谷川 晃一(はせがわ こういち、1903年(明治36年)4月1日 - 1967年(昭和42年)4月25日)は、早稲田大学政治経済学部教授、同学部教養諸学研究会評議員、早稲田大学世界連邦研究会会長、世界連邦建設同盟常任理事・国際部長。 1903年4月1日、長野県上田市に生まれる。 1920年5月、渡米しカリフォルニア州の商業高校に入学し、1923年6月に卒業する。同年9月、オハイオ州のマイアミ大学に入学する。1927年6月に卒業し、政治経済学でB.A.の学位を受ける。同年9月、シンシナティ大学大学院都市行政学科に入学する。1928年6月、修了しM.A.(修士)の学位を受ける。同年9月、コロンビア大学大学院の市政学科に入学する。
中津井 真(中津井 眞、なかつい まこと、1903年(明治3… 中津井 真(中津井 眞、なかつい まこと、1903年(明治36年)4月1日 - 1986年(昭和61年)9月29日)は、昭和期の政治家。参議院議員(2期)、広島県議会議長、大竹市名誉市民。 広島県比婆郡西城町(現庄原市)で生まれる。1920年(大正9年)広島教育養成所を中退した。 1947年(昭和22年)広島県議会議員に選出され5期在任し、この間、同議長も務めた。その他、自由民主党広島県連幹事長、広島県私立学校審議会会長などを歴任した。1964年(昭和39年)2月、大竹市文化会館建設費として10万円寄付により1966年(昭和41年)10月19日、紺綬褒章受章。 岩沢忠恭の死去に伴い、1966年(昭和41年)1月に実施された第6回参議院議員通常選挙広島県地方区補欠選挙に自民党公認で出馬して初当選し、1968年(昭和43年)7月の第8回通常選挙でも再選され、参議院議員に連続2期在任した。
横田 稔(よこた みのる、1903年(明治36年)4月1日 … 横田 稔(よこた みのる、1903年(明治36年)4月1日 - 1995年(平成7年)10月15日[要出典])は、日本の元海軍軍人で戦後、高校教師、宣教師になった人物。空母「サラトガ」、軽巡洋艦「ジュノー」を雷撃し、前者を3ヶ月間戦線離脱させ、後者を撃沈した「伊26」潜水艦長である。最終階級は海軍大佐。戦後は長谷川と改姓。高校教師として教鞭をとり、またキリスト教宣教師となった。 横田は岡山県出身で、海軍兵学校へ進み海兵51期として卒業した。席次は255名中60番。練習艦隊では「浅間」乗組みとなり、米村末喜艦長、安田義達指導官附らに実務訓練を受ける。「浅間」乗組み候補生には、戦後『海上護衛戦』を著す大井篤、最後の駐米武官補佐官実松譲などがいた。
浪ノ音 藤美(なみのおと ふじみ、1903年4月 - 193… 浪ノ音 藤美(なみのおと ふじみ、1903年4月 - 1934年)は、青森県南津軽郡平賀町(現平川市)出身で振分部屋に所属した元大相撲力士。本名は奈良岡 藤美。最高位は十両10枚目。 同郷の浪ノ音健蔵の振分部屋に入門し、師匠の四股名の「浪ノ音」の名で1920年5月序ノ口に就く。1928年5月十両昇進。この場所と翌場所2場所続けて負け越した。幕下に落ちた1929年3月に廃業。1934年死去。
吉田 正俊(よしだ まさとし、1902年4月30日 - 19… 吉田 正俊(よしだ まさとし、1902年4月30日 - 1993年6月23日)は、明治期から昭和期にかけての歌人、実業家。 福井県福井市出身。旧制福井中学校(現福井県立藤島高等学校)、東京帝国大学法学部卒業。石川島造船所自動車部門に入社し、のちにいすゞ自動車専務取締役や相談役を務めた。1974年、勲三等瑞宝章受章。東京都杉並区天沼に居を構えた。 歌人としては1925年「アララギ」に入会、土屋文明に師事し、のち選者、発行人。歌誌「柊」選者。高度経済成長期を背景に写実主義を貫いた。1965年『くさぐさの歌』で第11回日本歌人クラブ推薦歌集(現・日本歌人クラブ賞)、1976年『流るる雲』で第27回読売文学賞、1988年『朝の霧』で第23回迢空賞受賞。
竹中 恒夫(たけなか つねお、1902年4月30日 - 19… 竹中 恒夫(たけなか つねお、1902年4月30日 - 1971年2月4日)は、日本の政治家、参議院議員(1期)、歯科医師。日本歯科医政連盟会長、日本歯科医師会会長。 兵庫県洲本市出身。大阪歯科医学専門学校卒業、歯学博士。1956年7月、第4回参議院議員通常選挙に出馬し、初当選。1963年10月、参議院地方行政委員長に就任。1965年6月、第1次佐藤第1次改造内閣で大蔵政務次官に就任。 1971年2月4日死去、70歳。死没日をもって勲二等旭日重光章追贈、正四位に叙される。
武安 千春(たけやす ちはる、1902年 <明治35年> 4… 武安 千春(たけやす ちはる、1902年 <明治35年> 4月29日 - 1991年 <平成3年> 2月13日)は、日本の経営者。日本セメント社長、会長を務めた。山口県出身。位階は正四位。 1927年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年4月に浅野セメント(のちの日本セメント)に入社。1949年12月に取締役に就任し、1961年12月に常務、1964年12月に副社長を経て、1966年12月には社長に就任。1974年12月に会長に就任し、1982年7月には相談役に就任。 1972年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1991年2月13日呼吸不全のために死去。88歳没。死没日付をもって正八位から正四位に進階した。
入佐 俊家(いりさ としいえ、1902年(明治35年)4月2… 入佐 俊家(いりさ としいえ、1902年(明治35年)4月26日 - 1944年(昭和19年)6月19日)は、日本の海軍軍人(海兵52期卒)。戦死による二階級特進で最終階級は海軍少将。 鹿児島県出身。郵便局長・入佐俊祥の息子として生れる。鹿児島二中を経て、1924年(大正13年)7月、海軍兵学校(52期)を卒業。翌年12月、海軍少尉に任官。1928年(昭和3年)12月から翌年11月まで第19期飛行学生として学んだ。 日中戦争時から陸攻隊を率いて多大な戦果をあげ、その技量と用兵から陸攻の神様 海軍の至宝と言われた。常に指揮官先頭を実践し、部下からも上司からも絶大な信頼を寄せられた。 鹿屋空飛行長で太平洋戦争開戦を迎え、南方進攻作戦に活躍、その後、海軍兵学校教官として内地へ帰還するが、1944年(昭和19年)3月、再建された機動部隊(第一機動艦隊)の第六〇一海軍航空隊司令兼空母大鳳の飛行長として新鋭空母大鳳に乗り組むことになる。
正岡 旭(まさおか あきら、1902年〈明治35年〉4月25… 正岡 旭(まさおか あきら、1902年〈明治35年〉4月25日 - 没年不明)は、日本の医師(産婦人科医)。医学博士。広島市医師会会長。正岡病院院長。 広島県広島市吉島町、正岡政太郎の長男。広島一中、松山高校を経て1928年、岡山医大卒業。同大学安藤産婦人科教室に入り1933年6月まで勤続、研究。 1932年、医学博士の学位を受く。1933年、正岡産婦人科医院開設、院長就任。1955年、第21回広島県医師会代議員会会長をつとめた。 1972年、勲四等叙勲。宗教は真宗。趣味はスポーツ、粘土細工、陶器。住所は広島市猫屋町。
三好 十郎(みよし じゅうろう、1902年4月23日 - 1… 三好 十郎(みよし じゅうろう、1902年4月23日 - 1958年12月16日)は、昭和初期から終戦後の復興期にかけて活動した劇作家、詩人、小説家。 佐賀県佐賀市八戸町生まれ。戸籍上は父の兄の子で、旧姓は森。孤児として育つ。4歳で三好家の養子になり、12歳で両親と育ててくれた祖母を失う。旧制佐賀中学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校)を経て、早稲田大学英文科卒業。早稲田大学在学中の1924年(大正13年)に「早稲田文学」に詩「雨夜三曲」など五篇を発表してデビュー。サンジカリズムからマルクス主義に接近。壺井繁治らと左翼芸術同盟を結成し、ナップの下部組織プロット(日本プロレタリア劇場同盟)に属して、プロレタリア劇の作家として活動。
霞ヶ浦 忠男(かすみがうら ただお、1902年4月23日 -… 霞ヶ浦 忠男(かすみがうら ただお、1902年4月23日 - 1945年)は、茨城県行方郡牛堀町(現・潮来市)出身で、出羽海部屋に所属した元大相撲力士。本名は今泉 忠。最高位は十両5枚目。 出羽ノ海部屋に入門し、1919年1月「諏訪錦」の四股名で序ノ口に就く。1929年1月、十両に昇進する。この場所と翌場所も2場所続けて負け越したため幕下に落ちた。1930年1月、再び十両に昇進して四股名を「霞ヶ浦」と改めた。5月に幕下に落ち、1931年1月に十両に復帰する。1932年1月、春秋園事件が起こり、霞ヶ浦は天竜三郎に従い、相撲協会を脱退した。その後、新興力士団、関西角力協会に所属し、同協会が1937年に解散した後も相撲協会に復帰しなかった。
豊田 幸太郎(とよた こうたろう、1902年(明治35年)4… 豊田 幸太郎(とよた こうたろう、1902年(明治35年)4月21日 - 1979年(昭和54年)6月29日)は、昭和期の地方公務員、政治家。徳島市長。 徳島県三好郡三野町芝生(現在の三好市)に生まれ、京都帝国大学法学部を卒業。 1947年、徳島市助役、1951年、徳島県出納長に就任。1959年から1967年まで徳島市長を2期務めた。市長在任中は徳島刑務所の移転や徳島市立高等学校の創設などを手掛けた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
岡田 嘉子(おかだ よしこ、露: Окада Ёсико、1… 岡田 嘉子(おかだ よしこ、露: Окада Ёсико、1902年4月21日 - 1992年2月10日)は、広島県広島市出身の日本及びソビエト連邦(現在のロシアなど)で20世紀(1918年 - 1986年。日本では大正時代から昭和時代)に活動した女優、アナウンサー。1937年に理想の国と信じてソビエトに亡命したが、スパイ容疑で1947年までラーゲリ労働と監獄生活を送った。 1902年(明治35年)4月21日(月曜日)、父が新聞記者として広島県広島市の新聞社に在任中、同市細工町(現:広島市中区大手町)に誕生。細工町は後年原子爆弾投下地点となった町である。優秀な教育を受け育つ。母方の祖父がオランダ人のクォーター。
北村 隆(きたむら たかし、1902年(明治35年)4月19… 北村 隆(きたむら たかし、1902年(明治35年)4月19日 - 1982年(昭和57年)8月4日)は、日本の内務・防衛官僚。岡山県和気郡三石村字三石(現:備前市)に、父北村貫皐、母古美津の長男として誕生。本籍地は岡山県邑久郡太伯村乙子(現:瀬戸内市)。 戦前は内務省警保局の官僚として特高警察や、警保局経済保安課課長、兵庫県警察部長を務めた。戦後はいわゆる「逆コース」に乗って復帰し、保安庁保安研修所、内閣国防会議事務局長などを歴任、叙勲された。
赤星 直忠(あかほし なおただ、1902年4月17日 - 1… 赤星 直忠(あかほし なおただ、1902年4月17日 - 1991年3月11日)は、大正・昭和期の考古学者、歴史学者、民俗学者、郷土史研究者。教員等の職業に就き、研究機関等に所属することはなかったが、生涯で500本近い論文を発表して横須賀考古学会を設立するなど、主に神奈川県下で活躍し、三浦半島の考古学研究の基礎を築いた。研究内容は、縄文時代早期の関東地方の土器型式の分類、弥生時代から古墳時代の海蝕洞窟遺跡や横穴墓、古代・中世の寺院ややぐら、城郭など多岐に及んだ。 神奈川県三浦郡横須賀町(現・横須賀市)に生まれる。神奈川県立横須賀中学校(現・神奈川県立横須賀高等学校)の生徒であった時、学校の敷地内で古い時代の寺院の遺物が発見されたのを契機として、考古学に興味を持ち始めた。
上甲 米太郎(じょうこう よねたろう、1902年(明治35年… 上甲 米太郎(じょうこう よねたろう、1902年(明治35年)4月16日 - 1987年(昭和62年)3月21日)は、大正・昭和期の朝鮮における公立普通学校教員、社会活動家。 慶尚南道泗川郡昆明公立普通学校に勤務して朝鮮人の生活の苦しさをみるうち日本による朝鮮の植民地支配に疑問をもち朝鮮の独立を支持する考えになっていった。朝鮮人の苦しさを解消するための方法を考え、教え子と教育労働者組合の勉強会を自発的に行うなどしていたところ、1930年12月5日、教育労働者組合の結成を画策したとして治安維持法違反で逮捕された。 愛媛県西宇和郡千丈大村川之内(現在の愛媛県八幡浜市川之内)で、父・景吉(けいきち)、母・淑(きよ)の長男として誕生した。
田坂 具隆(たさか ともたか、明治35年(1902年)4月1… 田坂 具隆(たさか ともたか、明治35年(1902年)4月14日 - 昭和49年(1974年)10月17日)は、日本の映画監督。広島県出身。
八幡一郎(やわた いちろう、1902年4月14日 - 198… 八幡一郎(やわた いちろう、1902年4月14日 - 1987年10月26日)は日本の考古学者。 専攻は縄文時代、民具の研究。
薮田義雄(やぶた よしお、1902年4月13日‐1984年2… 薮田義雄(やぶた よしお、1902年4月13日‐1984年2月18日)は、日本の詩人。 神奈川県小田原市生まれ。旧制小田原中学三年の時、その地に住む北原白秋の門人となる。法政大学に学ぶ(卒業したかは不明)。詩のほか、白秋の初の本格的伝記などを書いた。 関連資料が小田原文学館に展示されている。
三好 竹勇(みよし ちくゆう、1902年(明治35年)4月1… 三好 竹勇(みよし ちくゆう、1902年(明治35年)4月13日 - 1987年(昭和62年)11月25日)は、昭和期の漁業経営者・政治家。衆議院議員。 石川県金沢市出身。1927年(昭和2年)金沢医科大学附属薬学専門部を卒業した。 北海道白老郡白老村(現白老町)に移住し、漁業、薬局、整骨院を営む。1933年(昭和8年)から1947年(昭和22年)まで白老村会議員に在任。所得税調査委員、白老商業協同組合理事長、苫小牧工業学校(現北海道苫小牧工業高等学校)嘱託教師、胆振漁業会会長などを務めた。1947年4月、第23回衆議院議員総選挙で北海道第4区から民主党所属で出馬して当選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙では落選し、衆議院議員を1期務めた。
大泉 孝(おおいずみ たかし、1902年(明治35年)4月1… 大泉 孝(おおいずみ たかし、1902年(明治35年)4月12日- 1978年(昭和53年)9月7日)は日本の昭和時代のイエズス会司祭、教育者。上智大学第5代学長。洗礼名はフランシスコ・ザビエル。 宮城県柴田郡大河原町のカトリックの家庭に生まれる。柴田農林学校、宮城農学校を経て1924年(大正13年)に上智大学哲学科に入学し、1929年(昭和4年)渡欧してイエズス会に入会する。オランダのファルケンブルク大学とイギリスのヒースロップ大学(英語版)で神学を修め、1937年(昭和12年)に司祭となる。 1939年(昭和14年)に帰国して上智大学教授、翌年理事となる。1945年(昭和20年)4月に副総長(のちに副学長と改称)、1951年(昭和26年)上智学院理事長、1953年(昭和28年)大学長となる。
藤田 三郎(ふじた さぶろう、1902年〈明治35年〉4月1… 藤田 三郎(ふじた さぶろう、1902年〈明治35年〉4月12日 ‐ 1990年〈平成2年〉1月2日)は、全国農業協同組合中央会会長。 高知県香美郡香我美町出身。1930年、明治大学専門部を卒業し、農林省に入省。満州国に赴任し、北安省開拓科長や錦州省盤山県副県長を歴任し、1946年に盤山県日本民留民会会長として引揚者を引率して帰国。1947年に高知県農地委員となり、その後高知県農協中央会、高知県信用農業協同組合連合会の会長を務め、1975年、全国農業協同組合中央会会長に就任し、2期6年務めた。 1966年藍綬褒章、1974年勲三等瑞宝章、1982年勲二等旭日重光章受章。
小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年(明治35年)4月1… 小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年(明治35年)4月11日 - 1983年(昭和58年)3月1日)は、日本の文芸評論家、編集者、作家。
東畑 謙三(とうはた けんぞう、1902年4月11日 - 1… 東畑 謙三(とうはた けんぞう、1902年4月11日 - 1998年4月29日)は、日本の建築家。 三重県一志郡豊地村(現:松阪市)の地主の家に生まれた。東畑吉之助の三男。 1923年に第三高等学校理科乙類、1926年に京都帝国大学工学部建築学科を卒業。1932年に東畑謙三建築事務所を設立。以後、武田五一の弟子として関西の建築業界を牽引した。日本建築家協会名誉会長。日本建築学会名誉会員。