神津 専三郎(こうづ せんざぶろう、1852年4月23日(嘉… 神津 専三郎(こうづ せんざぶろう、1852年4月23日(嘉永5年3月5日) - 1897年(明治30年)8月18日)は、明治時代の日本の音楽教育者。名は仙三郎とも書かれる。 信濃国小県郡芝生田村(現・長野県小諸市)に生まれ、のちに神津家の養子となる。旧姓は小林。小諸藩儒の中山仙に学んだのち上京し、箕作秋坪の三叉学舎、中村正直の同人社で英語を学び、キリスト教に入信した。 1875年、伊沢修二、高嶺秀夫と共に文部省からアメリカ合衆国派遣を命ぜられ、ニューヨーク州オルバニーの州立師範学校に2年間留学。1878年に帰国すると東京女子師範学校訓導兼監事となり、次いで伊沢の元で音楽取調掛監事に就任し、西洋音楽史の講義や教材の日本語訳に努めた。
栗原 イネ(くりはら イネ、嘉永5年3月5日(1852年4月… 栗原 イネ(くりはら イネ、嘉永5年3月5日(1852年4月23日)- 1922年(大正11年)1月31日)は明治期の実業家。ダイドーリミテッド創業者。
久保 九兵衛(九兵衞、くぼ くへえ、1852年4月22日(嘉… 久保 九兵衛(九兵衞、くぼ くへえ、1852年4月22日(嘉永5年3月4日)- 1937年(昭和12年)1月23日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員。幼名・栄三郎。 越前国丹生郡風巻村(福井県丹生郡風巻村、天津村、清水町風巻を経て現福井市風巻町)で、斎藤(斉藤)清兵衛の三男として生まれ、1854年4月15日(安政元年3月18日)同郡三留村(三方村、清水町三留を経て現:福井市三留町)の大地主、庄屋、酒造業・先代久保九兵衛の養嗣子となり、1880年(明治13年)10月1日、家督を相続し九兵衛を襲名した。本保村(のち吉野村本保、現越前市)のたつみ(河野家屋号)塾などで漢学を修めた。
戸狩 権之助(とがり ごんのすけ、1852年4月21日(嘉永… 戸狩 権之助(とがり ごんのすけ、1852年4月21日(嘉永5年3月3日) - 1923年(大正12年)3月12日)は、日本の政治家。衆議院議員(7期)。 山形県出身。山形県議、同常置委員、同参事会員、米沢市議、同議長となる。また、山形運輸(株)社長、山形商業会議所会頭、山形米穀生糸株式取引所理事長を務めた。 米沢市の生まれ。父は米沢藩士の戸狩権之助(同名)で、父の名を襲名している。1879年に山形県会議員に当選し8期を務める。1890年の第1回衆議院議員総選挙に出馬するも落選。その後3回落選した。 1898年の第6回衆議院議員総選挙において山形1区から憲政党公認で立候補して初当選する。以来当選7回。
児玉 源太郎(こだま げんたろう、旧字体: 兒玉 源太郞、1… 児玉 源太郎(こだま げんたろう、旧字体: 兒玉 源太郞、1852年4月14日〈嘉永5年閏2月25日〉- 1906年〈明治39年〉7月23日)は、明治時代の日本の陸軍軍人、政治家。日露戦争において満洲軍総参謀長を務め、勝利に貢献した。階級は陸軍大将、栄典は正二位勲一等功一級子爵。 嘉永5年(1852年)閏2月25日、周防国都濃郡徳山の本丁で、長州藩の支藩・徳山藩の上士(馬廻役、100石。)児玉半九郎忠硯の長男として生まれる。当時、児玉家には長女の久子と次女の信子がいるのみで、児玉源太郎が初めての男子であったため、彼の誕生に家族一同は大いに喜んだ。児玉が生まれた時に父・半九郎は向かいの家に住む友人で漢学者の島田蕃根の家に赴き、四、五人で詩文に興じていたが、家人が慌ただしくやって来て男子誕生を告げたため、半九郎は歓喜して直ちに島田家から帰宅し、祝杯を挙げた。
有坂 成章(ありさか なりあきら、1852年4月5日〈嘉永5… 有坂 成章(ありさか なりあきら、1852年4月5日〈嘉永5年2月18日〉 - 1915年〈大正4年〉1月12日)は、日本の陸軍軍人、華族。最終階級は陸軍中将。爵位は男爵。別名に淳蔵。 大日本帝国陸軍の国産小銃である有坂銃の開発者であり、村田経芳に次いで銃砲開発の大家と謳われた人物である。 周防国岩国に生まれた、長州藩(岩国領)吉川家家臣の木部左門の二男、幼名を四郎という。文久2年(1862年)、11歳で同藩の砲術家有坂長良の養嗣子となった。岩国藩の洋式軍隊である日新隊の一員として、鳥羽・伏見の戦いに参加している。 明治維新後の明治2年(1869年)開成学校で学んだ後、明治3年(1870年)には陸軍兵学寮に入る。
佐藤 秀蔵(さとう ひでぞう/しゅうぞう、1851年4月29… 佐藤 秀蔵(さとう ひでぞう/しゅうぞう、1851年4月29日(嘉永4年3月28日)- 1934年(昭和9年)3月27日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。幼名は亀次郎。 陸奥国磐井郡摺沢村(岩手県東磐井郡摺沢村、摺沢町、大東町を経て現一関市)で、先代・佐藤秀蔵の長男として生まれる。1889年(明治22年)秀蔵を襲名した。1898年(明治31年)摺沢村会議員に当選。ついで東磐井郡会議員、所得税調査委員、八十八銀行取締役、横屋社長、陸中国東山製糸組合長などを歴任した。1909年(明治42年)岩手県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年6月3日から1911年(明治44年)9月28日まで在任した。
村上 桂策(むらかみ けいさく、1851年4月25日(嘉永4… 村上 桂策(むらかみ けいさく、1851年4月25日(嘉永4年3月24日)- 1925年(大正14年)4月18日)は、明治から大正期の地主、政治家。貴族院多額納税者議員。 伊予国新居郡郷村(愛媛県新居郡神郷村を経て現新居浜市)で、豪農・村上良三郎の長男として生まれる。漢学を修め、早くから政治に関心を持った。1875年(明治8年)7月に家督を相続した。 村会議員を務め、1881年(明治14年)5月、愛媛県会議員補欠選挙で当選し、1884年(明治17年)以降6期連続で務め、1890年(明治23年)8月まで在任した。この間、大同団結運動に加わり、工藤干城らと大同派東予倶楽部を結成して鈴木重遠らと連携した。
柏田 盛文(かしわだ もりぶみ / もりふみ、1851年4月… 柏田 盛文(かしわだ もりぶみ / もりふみ、1851年4月23日(嘉永4年3月22日) - 1910年(明治43年)6月20日)は明治時代の日本の政治家、教育者。号は天颷。 鹿児島県会(鹿児島県議会の前身)議長、第四高等中学校(金沢大学の前身の一つ)校長、衆議院議員、文部次官、千葉・茨城・新潟の各県知事を歴任した。 薩摩国薩摩郡平佐郷平佐村(現在の薩摩川内市平佐町)出身の武士であり、部屋には東郷平八郎から送られた日本刀が飾ってあった。 鹿児島時代は漢学を修め武芸に秀でていた。薩長土の御親兵を務め上京。小松原英太郎、美澤進、鎌田栄吉、神津国助らと同志で、1874年(明治7年)慶應義塾で同窓の薩摩藩士・奥田直之助と学び、在学中から曙新聞に政策論を発表し、そうした関係で国会期成同盟会員となる。
内田 正敏(うちだ まさとし、1851年4月16日(嘉永4年… 内田 正敏(うちだ まさとし、1851年4月16日(嘉永4年3月15日)- 1922年(大正11年)5月11日)は、明治・大正期の日本の海軍軍人、政治家、華族。最終階級は海軍中将。爵位は男爵。貴族院男爵議員。 1851年(嘉永4年)高知城下築屋敷(現在の高知市)で内田茂助の子に生まれた。若くして東京遊学。1868年(明治元年)[西暦年要検証]北村重頼の砲隊に属し東征軍に従う。1871年(明治4年)8月、海軍兵学寮入学。1876年(明治9年)9月、海軍少尉補任官。「雷電丸」「金剛」乗組を経て、1878年(明治11年)7月、海軍少尉に任官。1881年(明治14年)11月、海軍兵学校(3期)を卒業した。
首藤 陸三(すどう りくぞう、嘉永4年3月15日(1851年… 首藤 陸三(すどう りくぞう、嘉永4年3月15日(1851年4月16日) - 大正13年(1924年)5月31日)は、日本の衆議院議員(立憲改進党→進歩党→憲政党→憲政本党→立憲同志会)。 陸奥国登米郡登米町(現在の宮城県登米市)出身。1868年(明治元年)、東京に出て、尺振八の共立学舎で英学を学んだ。1872年(明治5年)、新潟県の英語教授となり、翌年から小倉県育徳学校教授に就任した。1875年(明治8年)、大蔵省翻訳課に出仕し、1877年(明治10年)には東京府書籍館に転じた。翌年より宮城県属になり、学務課長心得と仙台師範学校校長を兼ねた。1880年(明治13年)に官を辞した後は、宮城県会議員に当選し、副議長に選出された。
遠山 正和(とうやま まさかず、1851年4月16日(嘉永4… 遠山 正和(とうやま まさかず、1851年4月16日(嘉永4年3月15日)- 1907年(明治40年)11月8日)は、明治期の弁護士、実業家、政治家。衆議院議員、香川県会議長、丸亀市会議長。 讃岐国那珂郡、のちの香川県丸亀市で、里正の家に生まれる。経史を修めた。 1873年(明治6年)香川県六大区一小区副小区長兼学務取締に就任。自由民権運動に加わった。1879年(明治12年)愛媛県会議員に選出された。1882年(明治15年)代言人(弁護士)となる。同年、自由党大会で警官と衝突して投獄された。1888年(明治21年)香川県が再置され、その後、香川県会議員に選出され、同常置委員も務めた。1894年(明治27年)4月、香川県会議長に就任し1895年(明治28年)10月まで在任した。
畠山 雄三(はたけやま ゆうぞう、1851年4月13日(嘉永… 畠山 雄三(はたけやま ゆうぞう、1851年4月13日(嘉永4年3月12日)- 1932年(昭和7年)1月24日)は、明治から昭和初期の農業指導者、政治家。衆議院議員、秋田県会議長。旧姓・長岐。 出羽国秋田郡七日市村(秋田県北秋田郡七日市村、鷹巣町を経て現北秋田市七日市)で、素封家・長岐家の三男として生まれた。1869年(明治2年)山本郡仁鮒村(響村、二ツ井町を経て現能代市)の地主・畠山藤左衛門の婿養子となる。1873年1月(明治5年12月)養父の死去に伴い家督を相続した。 1870年(明治3年)久保田藩御山守となる。仁鮒村副戸長、同戸長、第三大区書記役、秋田県勧業諮問会議員などを歴任。また自由民権運動に加わる。
倉田 雲平(くらた うんぺい、嘉永4年4月〈1851年5月〉… 倉田 雲平(くらた うんぺい、嘉永4年4月〈1851年5月〉 - 大正6年〈1917年〉6月)は、日本の実業家、足袋職人。主として明治時代から大正時代にかけて活動した人物であり、ムーンスターの創業者である。足袋王、九州の足袋王あるいは久留米の足袋王と異名される。大正3年(1914年)に緑綬褒章を受章している。 倉田家の祖先は武士であり、江戸時代に久留米藩に出仕して御先手物頭を務めたこともあったとされる。やがて町人に転向してからは、両替商や呉服商、米穀商を営む豪商となったが、水難事故や火災などに相次いで遭遇したために、家の経済力は徐々に衰退していき、雲平が生まれる頃には煎餅屋を経営していた。 雲平は、嘉永4年4月(1851年5月)、筑後国御井郡(現在の福岡県久留米市)の米屋町に五男一女の末子として出生した。
久須美 秀三郎(くすみ ひでさぶろう、1850年4月26日(… 久須美 秀三郎(くすみ ひでさぶろう、1850年4月26日(嘉永3年3月15日)- 1928年(昭和3年)1月18日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。号・雲堂。 越後国三島郡小島谷村(新潟県三島郡小島谷村、島田村、和島村を経て現:長岡市)で、素封家の旗本知行所代官・久須美毅堂(左衛門)の長男として生まれる。 長岡藩需士、大瀬虎治・田中春回に漢籍を、1870年(明治3年)に上京して島田重礼に学んだ。 1875年(明治8年)柏崎県第二大区副大区長に就任。1876年、久須美家当主、叔父・三郎が死去したため家督を相続。1884年(明治17年)吉田村他14ヵ村戸長となる。三島郡参事会員、新潟県会議員、同副議長も務めた。
杉山 直矢(すぎやま なおや、嘉永3年3月14日(1850年… 杉山 直矢(すぎやま なおや、嘉永3年3月14日(1850年4月25日) - 明治29年(1896年)5月16日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。支那(清国)情勢研究の第一人者として知られ、参謀本部における対外情報研究の草分け的存在とされた。 杉山直矢は、嘉永3年(1850年)3月14日(15日とも)、周防国熊毛郡室積村東之庄(現・山口県光市)に、士族林家の次男として生まれ、幼名を文蔵といった。父は一膺、母は光子。少年期に藩儒・東宗一に師事し、特に陽明学に深く通じたとされる。豪胆で不敵な性格で知られ、慶応年間には干城隊に加わって第二次長州征伐に参加し上阪、活躍が認められて山縣有朋の知遇を受けた。
前田 正名(まえだ まさな、1850年4月23日(嘉永3年3… 前田 正名(まえだ まさな、1850年4月23日(嘉永3年3月12日) - 1921年(大正10年)8月11日)は、明治期日本の官僚。男爵。幼名・弘庵。明治政府の殖産興業政策の政策立案と実践した中心人物である。 薩摩国(鹿児島)揖宿郡山川郷の漢方医田善安の六男。山川郷もしくは、鹿児島城下の後の鹿児島市小川町に生まれる。兄・献吉より15歳年下である。9歳で緒方洪庵門下の蘭学医・八木称平(薩摩藩開成所教授)に師事して住み込み、蘭学や貿易実務を学ぶ。八木が行なっていた琉球密貿易も手伝った。1865年(慶応元年)の薩摩藩第一次英国留学生の選抜にもれるも、同年、長崎への藩費遊学を許可され、砲術家で科学者の薩摩藩外国掛・中原猶介の紹介で何礼之塾に入塾する。
志波 三九郎(しば さんくろう、1850年4月16日〈嘉永3… 志波 三九郎(しば さんくろう、1850年4月16日〈嘉永3年3月5日〉 - 1903年〈明治36年〉6月29日)は、日本の政治家。衆議院議員、県知事、長崎県会議長。心形刀流免許皆伝。 肥前国高来郡神代村(現:長崎県雲仙市)で神代鍋島家家臣・中島如幼の三男として生まれ、志波丈之助の養子となる。佐賀藩校・弘道館などで学び、また剣術の修行にも精進した。 1879年、長崎県会議員に選出され、後に県会議長となる。1894年3月、第3回衆議院議員総選挙に長崎県第三区で自由党から出馬し当選。1898年3月の第5回総選挙まで連続3回の当選を果した。 1898年6月、第1次大隈内閣が成立し、翌月、石川県知事に登用された。
林 董(はやし ただす、嘉永3年2月29日(1850年4月1… 林 董(はやし ただす、嘉永3年2月29日(1850年4月11日) - 大正2年(1913年)7月20日)は、江戸時代末期(幕末)の幕臣、明治時代の日本の外交官、政治家。伯爵。蘭方医佐藤泰然の5男で初代陸軍軍医総監・男爵の松本良順は実兄。幼名は信五郎、名は董三郎(とうさぶろう)とも。変名、佐藤 東三郎(さとう とうさぶろう)。
川村 景明(かわむら かげあき、1850年4月8日〈嘉永3年… 川村 景明(かわむら かげあき、1850年4月8日〈嘉永3年2月26日〉- 1926年〈大正15年〉4月28日)は、日本の陸軍軍人、華族。東京衛戍総督、鴨緑江軍司令官等を歴任した。官位は元帥陸軍大将従一位大勲位功一級子爵。 薩摩藩士・野崎吉兵衛の三男として薩摩に生まれ、後に川村新左衛門景尚の養子となり川村家を継ぎ、川村源十郎と名乗る。薩英戦争・戊辰戦争に従軍、1869年(明治2年)4月、薩摩藩歩兵第1大隊第1小隊小頭に就任。 1871年(明治4年)4月に上京し同7月から御親兵付・陸軍軍曹として明治新政府に仕える。1872年(明治5年)7月、陸軍少尉・近衛歩兵第2大隊付となり、翌年、陸軍中尉に進む。
井上 正一(いのうえ せいいち、1850年4月7日(嘉永3年… 井上 正一(いのうえ せいいち、1850年4月7日(嘉永3年2月25日) - 1936年(昭和11年)10月3日)は、日本の法学者、衆議院議員、大審院判事。 長門国大津郡伊上村(山口県大津郡菱海村、油谷町を経て現在の山口県長門市油谷伊上)生まれ。1866年の四境戦争に際して長州藩諸隊の一つ鐘秀隊に加わり、芸州口と石州口を転戦。その後許可を得て隊を離れ、萩明倫館と山口文学寮で学ぶ。維新後に単身上京して箕作麟祥の下でフランス学を修めた。1870年開成学校に入った後、長州藩の貢進生に選ばれ、大学南校を経て1875年に司法省法学校を卒業。同年秋にフランスに留学し、法学博士の学位を取得。1881年に帰国するとただちに司法省雇となり、開校間もない明治法律学校(のちの明治大学)にも講師として迎えられた。
浅原 才市(あさはら さいち、1850年4月2日(嘉永3年2… 浅原 才市(あさはら さいち、1850年4月2日(嘉永3年2月20日) - 1932年(昭和7年)1月17日)は、浄土真宗の妙好人のひとり。石見の才市と呼ばれる。「口あい(くちあい)」と称せられる信心を詠んだ多数の詩で知られ、「日本的霊性」として鈴木大拙によって世界的に紹介された。
伊藤 一郎(いとう いちろう、嘉永3年4月(1850年) -… 伊藤 一郎(いとう いちろう、嘉永3年4月(1850年) - 大正4年(1915年)4月24日)は、日本の政治家、教育者、哲学者である。讃岐国三豊郡財田村(現・香川県三豊市)出身。衆議院議員。 多度津藩の藩校・日新書院助教、同自明館支配などを務める。その後、大区会議員、同議長、愛媛県会議員、四国新道開鑿県相談役などを歴任。1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙に香川県第5区から立候補し当選し、衆議院議員を1期務めた。哲学に精通し、著書も多い。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
山田 理兵衛(やまだ りへえ、嘉永2年4月(1849年) -… 山田 理兵衛(やまだ りへえ、嘉永2年4月(1849年) - 明治33年(1900年)12月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(自由党)。 信濃国高井郡江部村(現長野県中野市)の旧家に生まれる。江部村会議員を経て、明治22年(1889年)の町村制施行にあたり、初代平野村長(現中野市)に就任。千曲川沿岸の築堤による水害防止、産業組合結成の準備、教育施設の充実などの施策にあたった。同31年(1898年)の第5回衆議院議員総選挙に出馬し当選した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
滝沢 喜平治(瀧澤、たきざわ きへいじ、1848年4月26日… 滝沢 喜平治(瀧澤、たきざわ きへいじ、1848年4月26日〈弘化3年2月13日〉 - 1916年〈大正5年〉7月16日)は、明治から大正時代前期の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。地主、肥料商。 滝沢武平の長男として、下野宇都宮藩領塩谷郡桜野村(栃木県塩谷郡氏家町を経て現さくら市氏家)に生まれる。父は穀物問屋を営んだ。1868年(明治元年)庄屋となり、以後戸長を経て、1879年(明治12年)栃木県会議員に当選する。ついで塩谷郡会議員、氏家町長を務めた。氏家きっての大地主で、明治新政府の殖産興業に呼応し、荒地の開墾や多くの会社、銀行に出資し経営に参画した。1872年(明治5年)氏家、上野原を開発・植林し、約600ヘクタールの山林を造成。
実吉 安純(さねよし やすずみ、1848年4月23日(嘉永元… 実吉 安純(さねよし やすずみ、1848年4月23日(嘉永元年3月20日) - 1932年(昭和7年)3月1日)は、日本の医学者、海軍軍人、政治家。最終階級は海軍軍医中将。正二位 勲一等 功二級 子爵 医学博士。海軍軍医学校校長、海軍省医務局長、大本営海軍医務部長、東京慈恵会医院専門学校(現、東京慈恵会医科大学)校長、貴族院議員などを歴任した。慈恵医大の創設者である高木兼寛と共に、海軍の脚気撲滅に尽力したことで知られている。 薩摩国阿多郡伊作郷(後の日置郡伊作村、伊作町、吹上町、日置市)生まれ。薩摩藩士・実吉安福の二男として生まれる。戊辰戦争に参戦の後、明治2年(1869年)6月、順天堂に入塾し、のち大学校に移る。
江角 柳四郎(えすみ りゅうしろう、1848年4月10日(嘉… 江角 柳四郎(えすみ りゅうしろう、1848年4月10日(嘉永元年3月7日)- 1906年(明治39年)3月22日)は日本の地主、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 出雲国出雲郡、のちの原鹿村(簸川郡久木村を経て現島根県出雲市斐川町原鹿)で、豪農の家に生まれる。機業を営み、簸川銀行取締役などを務めた。また、島根県元出雲郡連合村戸長、島根県会議員、久木村会議員、同村長などを歴任。1904年、貴族院多額納税者議員に選出され、同年9月29日に就任し、死去するまで在任した。 公益事業にも関心が高く、貧民救済、公共建築・道路修繕・衛生事業、居村児童への奨学金支給などに多額の寄付を行った。
沖原 光孚(おきはら こうふ、1848年4月6日〈嘉永元年3… 沖原 光孚(おきはら こうふ、1848年4月6日〈嘉永元年3月3日〉- 1931年〈昭和6年〉9月11日)は、明治から昭和初期の日本陸軍軍人、政治家、華族。最終階級は陸軍中将。男爵。 岩国藩士・松浦周蔵の四男として生まれ、沖原為蔵の養子となる。精義隊士として戊辰戦争に従軍。 1871年(明治4年)、陸軍中尉。御親兵第7番大隊付、第14番大隊付、東京鎮台第1大隊付などを経て、陸軍戸山学校に学ぶ。第8大隊付、歩兵第3連隊付、歩兵第2連隊中隊長などを歴任し、1877年(明治10年)3月から11月まで西南戦争に出征した。 別働第1旅団歩兵第1大隊長、歩兵第2連隊副官、歩兵第10連隊大隊長、近衛歩兵第1連隊大隊長、陸軍省人事局次長、総務局第4課長、人事課長、第2師団参謀長、陸軍教導団長などを歴任し、日清戦争には歩兵第13連隊長として出征した。
岡崎 平内(おかざき へいない、1848年4月3日(嘉永元年… 岡崎 平内(おかざき へいない、1848年4月3日(嘉永元年2月28日)- 1917年(大正6年)8月12日)は、日本の政治家。7代目平内。衆議院議員。初代鳥取県会議長。初代鳥取市長。 明治の鳥取士族、政治界の指導者として、明治の100年式典の時、県政功労者となった。幼名は兵太郎、長じて可観と改め、後1880年(明治13年)9月父の名を継ぎ平内と改める。 因幡国邑美郡馬場町(現在の鳥取県鳥取市馬場町)、鳥取藩御用係500石の藩士の家に生まれた。平内の嫡男。明治元年に若くして家督を継ぎ、また鳥取藩大砲隊長となった。 1874年(明治7年)「愛国社」に入り自由民権運動に参加したが、一転して1877年(明治10年)に陸軍省に入省。
清水 静十郎(しみず せいじゅうろう、1847年4月29日(… 清水 静十郎(しみず せいじゅうろう、1847年4月29日(弘化4年3月15日)‐ 1915年(大正4年)3月27日) は、明治から大正期の実業家・政治家。衆議院議員。 伊予国宇和郡日土村(愛媛県西宇和郡日土村を経て現八幡浜市日土町) で清水庄一の長男として生れ、同郡卯之町(東宇和郡宇和町を経て現西予市宇和町卯之町)の庄屋・清水谷男の養子となった。漢学を修めた。1913年(大正2年)2月に分家した。 戸長、副区長などを歴任。1877年(明治10年)6月の特設愛媛県会は、議員資格が戸主に限定されていたが、選挙人10分の8以上の推薦と区内戸長11名の連名申請によって特例で県会議員に選ばれた。以後、1886年(明治19年)3月から1889年(明治22年)1月までと1892年(明治25年)3月から1896年(明治29年)3月までの2期県会議員に在任し、この間、立憲改進党、進歩党に所属した。
松野 礀(まつの はざま / かん、英: Hazama Jo… 松野 礀(まつの はざま / かん、英: Hazama Johannes Matsuno、1847年4月21日〈弘化4年3月7日〉 - 1908年〈明治41年〉5月14日)は、日本の林学者、林学教育者。東京山林学校初代校長兼教授。旧長州藩臣。ドイツ留学を経て日本への山林科学・林学導入と人材養成の基礎作りに貢献した。配偶者はベルリン出身の松野クララ。 長門国美祢郡大田村(現・山口県美祢市美東町大田)にて,長州藩郷士大野徳右衞門の四男(第七子)として生まれる。幼名は常松。一時他家の養子となったが復籍、以後義兄の医師長松幹の家で育てられた。万延元年(1860年)まで、郷士羽仁藤左衛門より和漢学を習い、文久元年(1861年)より山口にて藩儒岡守節等に就いて漢学を修業する傍ら、義兄に倣って医業を志し、蘭方医坪井信友(二代信道)に就いて初めて蘭学を学んだ。
河島 醇(かわしま あつし / じゅん、弘化4年3月6日(1… 河島 醇(かわしま あつし / じゅん、弘化4年3月6日(1847年4月20日) - 明治44年(1911年)4月28日)は、幕末から明治時代に活躍した武士(薩摩藩士)、官僚、政治家。衆議院議員、貴族院議員。幼名・新之丞。 薩摩藩士・河島新五郎長寛の長男として鹿児島長田町に生まれる。藩校造士館で学ぶ。戊辰戦争に従軍。明治2年(1869年)、昌平学校に入り、さらに川田甕江塾で学び、明治3年12月(1871年1-2月)にドイツへ留学し、ローレンツ・フォン・シュタインに学ぶ。 明治7年(1874年)3月に帰国。同年8月、外務省に入り八等出仕となる。9月、一等書記生に発令され、ドイツ公使館在勤を命ぜられた。
初代 阿部 孫左衛門(孫左衞門、あべ まござえもん、1847… 初代 阿部 孫左衛門(孫左衞門、あべ まござえもん、1847年4月19日(弘化4年3月5日)- 1904年(明治37年)2月15日)は、日本の地主、政治家。衆議院議員、山形県東田川郡新堀村長。幼名・今吉。 出羽国田川郡新堀村(のち山形県東田川郡新堀村大字新堀、現酒田市)で、地主・阿部彦太郎の二男として生まれ、同村の本家・阿部孫右衛門の養子となる。 東田川郡新堀学校世話掛、飽海郡南山牛場看守人、余目勧業区連合村会議員、新堀学校通学村連合会議員、学務委員、山形県会議員、東田川郡勧業会員、新堀村長、東田川郡会議員、同郡参事会員などを務めた。 1894年3月、第3回衆議院議員総選挙に山形県第三区から出馬して当選。
納屋 才兵衛(なや さいべえ、1847年4月9日〈弘化4年2… 納屋 才兵衛(なや さいべえ、1847年4月9日〈弘化4年2月24日〉 - 1933年〈昭和8年〉6月10日)は、日本の写真家。正岡子規最後の肖像写真を撮影したことで知られる。本名は美算。 飯沼慾斎の義弟長矩の七男として、岐阜県大垣市に生まれる。6歳の時「納屋才」の屋号で魚市を営む中島家の養子となり、11歳で家業を継いだ。 三重県桑名市で最初の写真館「笛橋堂」を開業し、明治期東海写真界の発展に寄与した。上京した後は、根岸に名を「春光堂」と改めて写真館を開業した。
千葉 禎太郎(ちば ていたろう、1847年4月3日(弘化4年… 千葉 禎太郎(ちば ていたろう、1847年4月3日(弘化4年2月18日)- 1931年(昭和6年)4月21日)は、幕末・明治から昭和時代前期の大地主、政治家、実業家、銀行家。衆議院議員(7期)。 上総国市原郡今富村(千葉県海上村、三和町を経て現市原市)出身。千葉氏の末裔。漢学を修める。1868年(明治元年)里正に就任。1875年(明治8年)千葉県代議人となり、村会議員、郡会議員、郵便局長、小学校長を歴任する。この間、戸長も務めた。1879年(明治12年)県制発布とともに千葉県会議員に当選し、市原倶楽部を設立した。ほか、大日本農会、大日本水産会連合品評会各評議員および協賛会長、千葉県教育会評議員、神国生命保険社長、興業貯蓄銀行、成田鉄道各監査役、千葉県農工銀行頭取、東京米穀取引所理事および監査役などを歴任した。
荒木 徳三郎(あらき とくさぶろう、1846年4月18日〈弘… 荒木 徳三郎(あらき とくさぶろう、1846年4月18日〈弘化3年3月23日〉 - 没年不明)は、日本の商人(荒木屋、肥料・綿・米穀商)、海運業、醤油醸造業、鳥取県の大地主、荒木合名会社社員、実業家、政治家。鳥取県西伯郡境町会議員。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)の人で、生家は代々醤油醸造業を営む。 海運業を営み、主に地方の物産を蒐集し、これを北国中国等に輸送し帰港には肥料を積載して年数回往復航行する。危難や損失がなかったため収利は夥しく頓に資財を増殖し声望が大いに起り、地位は益々高まる。 1902年、境製糸社員の荒木久九郎、渡辺広太郎、里見五平は各々その出資額全部を共に社員の荒木徳三郎へ譲渡して退社し、荒木徳三郎はこれを譲り受けてその出資額を金3400円と変更する。
渡辺 兵四郎(渡邉、わたなべ ひょうしろう、1846年4月1… 渡辺 兵四郎(渡邉、わたなべ ひょうしろう、1846年4月16日(弘化3年3月21日) - 1932年(昭和7年)5月11日)は、日本の実業家、漁業家、政治家。衆議院議員、小樽区長。初名・佐助。 出羽国能代港(現秋田県能代市)で渡辺甚四郎の二男として生まれる。12歳まで能代の商家で奉公し、万延元年(1860年)家出して小樽に渡り、山田兵蔵家の店員として勤め、主人からの信頼を得てその一字をもらい受けて兵四郎と改名。1877年に独立し荒物商を営む。 また漁業経営にも乗り出し、ニシン漁網の改良を行い、漁業組合、水産組合を創設して、小樽郡漁業組合頭取、小樽外六郡漁業組合連合会長、小樽水産組合長など務め、北海道水産界の振興に貢献した。
佐藤 八郎右衛門(さとう はちろうえもん、1846年4月2日… 佐藤 八郎右衛門(さとう はちろうえもん、1846年4月2日(弘化3年3月7日)- 1909年(明治42年)5月23日)は、明治期の日本の政治家、蚕種業者。衆議院議員、初代長野市長。幼名は勝彦。号は柏堂、忠恕。 信濃国小県郡上塩尻村(長野県小県郡塩尻村を経て現上田市)で生まれた。和漢学を修めた。家業の蚕種業に従事し、1872年(明治5年)には上塩尻村の戸長となる。1875年(明治8年)蚕種製造業上田組を設立して頭取に就任し、東京蚕種会事務局議員兼幹事、東京蚕種取締所委員として蚕種の改良と輸出振興に尽力した。1886年(明治19年)には東京蚕種組合中央部長野県総代から長野県蚕糸業組合取締所副頭取となり、1896年(明治29年)信濃蚕種業組合長に就任するなど、一貫して蚕種業の発展に尽力した。
井上 甚太郎(いのうえ じんたろう、1845年4月26日(弘… 井上 甚太郎(いのうえ じんたろう、1845年4月26日(弘化2年3月20日)- 1905年(明治38年)8月22日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。 讃岐国鵜足郡上法軍寺村(香川県鵜足郡法勲寺村、綾歌郡法勲寺村、飯山町を経て現丸亀市飯山町上法軍寺)で生まれる。阿野郡西庄村(坂出町を経て現坂出市西庄町)で成長した。漢学を修めた。その後、高松城下に移り、幕末には高松藩御用掛として砂糖生産販売に従事した。 明治維新後、自由民権運動に加わる。純民社、高松立志社を創立。1875年(明治8年)以降、塩業界の結束と改善に尽力した。農商工高等会議議員、十州塩業組合東讃支部長、高松商法会議所副会長などを歴任した。
小野 光景(おの みつかげ、弘化2年3月15日〈1845年4… 小野 光景(おの みつかげ、弘化2年3月15日〈1845年4月21日〉 - 大正8年〈1919年〉9月18日)は近代日本の実業家、政治家。幼名、彦太郎。 信濃国伊那郡小野村(天領、現長野県上伊那郡辰野町)の名家、小野兵右衛門光賢の子として生まれ、高遠藩の藩校・進徳館で学ぶ。明治15年(1882年)、横浜商業高校の前身にあたる横浜商法学校を創立。翌16年(1883年)、絹糸輸出商社の小野商店を創業。その後横浜正金銀行(東京銀行の前身)頭取、横浜商工会議所会頭などを歴任。郷里の小野で小野駅の開設や、私財を投じての学校、図書館、病院等の建設に貢献した。 1910年(明治43年)神奈川県多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同年2月7日に就任し1918年(大正7年)9月28日まで在任した。
田中 功平(たなか こうへい、1845年4月1日〈弘化2年2… 田中 功平(たなか こうへい、1845年4月1日〈弘化2年2月25日〉 - 1916年〈大正5年〉10月4日)は、明治・大正時代における愛知県岡崎市の実業家。家業の旅館業を営む傍ら、有志とともに同地の電力会社岡崎電灯を起業し、同社を中心に各地の電気事業に関係した。 田中功平は、弘化2年2月25日(新暦:1845年4月1日)、現在の愛知県西尾市一色町開正(旧・幡豆郡開正村)に生まれた。長男であるが家を弟に譲り、自身は岡崎に出て籠田町の旅館「丸藤(まるとう)旅館」にて勤め、その後旅館経営を引き継いだ。また旅館業の傍ら雲母採掘業など新規事業にも取り組んだ。 1895年(明治28年)の夏頃、田中は旅館の常連客から当時国内では数少なかった電灯事業の話を聞かされた。
靑野 卯吉(あおの うきち、1844年4月30日〈旧暦弘化元… 靑野 卯吉(あおの うきち、1844年4月30日〈旧暦弘化元年3月13日〉 - 1907年〈明治40年〉4月18日)は、日本の銀行家、政治家。姓の「靑」は「青」の旧字体であるがJIS X 0208に収録されていないため、新字体で青野 卯吉(あおの うきち)とも表記される。 株式会社土方銀行頭取、静岡県小笠郡土方村長などを歴任した。 遠江国出身の銀行家である。土方銀行で頭取を務め、地域振興に努めた。また、土方村においては村長に選任されていた。村境にある風吹峠が交通の難所となっていたため、これを解消すべく風吹トンネルの開通に尽力した。 1844年4月30日(旧暦弘化元年3月13日)、遠江国城東郡入山瀬村にて生まれた。
近藤 坦平(こんどう たんぺい、弘化元年3月12日(1844… 近藤 坦平(こんどう たんぺい、弘化元年3月12日(1844年4月29日) - 昭和4年(1929年)1月27日)は、三河国碧海郡鷲塚村(現・愛知県碧南市)出身の医師。 西洋式診療所である洋々医館、東海地方初の西洋式医学校である蜜蜂義塾の創立者であり、三河地方における西洋医学の開祖とされる。 文化7年(1810年)9月5日、近藤賛斎の息子として近藤安中(こんどうあんちゅう)が生まれた。近藤家は京都から三河国に移った家であり、伯琴の字や鹿山の号を持っていた近藤賛斎から医師となった。文政13年(1830年)、安中は紀伊国那賀郡西野山村(現・和歌山県紀の川市)に赴き、華岡青洲の医塾である春林軒に入門した。
大村 和吉郎(おおむら わきちろう、1844年4月26日(弘… 大村 和吉郎(おおむら わきちろう、1844年4月26日(弘化元年3月9日) - 1915年(大正4年)12月11日)は、明治から大正時代の政治家。衆議院議員(3期)。 伊豆国君沢郡大場村(静岡県君沢郡中郷村、田方郡中郷村を経て現三島市)に生まれる。生家は代々清酒醸造を営んだ。名主役、区長、戸長、君沢・田方郡会議員、同参事会員を経て、静岡県会議員に当選し、同常置委員を務めた。ほか、静岡農工銀行取締役、海産株式会社監査役などを歴任した。 1894年(明治27年)3月の第3回衆議院議員総選挙では静岡県第7区から出馬し当選。第6回総選挙、第12回総選挙でも当選したが、3期目の在任中に死去した。
小柳津 要人(おやいづ かなめ、弘化元年2月15日(1844… 小柳津 要人(おやいづ かなめ、弘化元年2月15日(1844年4月2日) - 1922年(大正11年)6月21日)は、明治・大正期の実業家、武士(岡崎藩士)。丸善の専務取締役社長を務めた。 三河国岡崎にて岡崎藩士・小柳津宗和の長男として生まれる。幼少時は志賀重昂の父重職の下で学ぶ。岡崎藩主・本多忠民に仕え藩の要人となる。 1863年(文久3年)、西洋流大砲方の命を受けて江戸にのぼったが、英書を学ぶ必要を感じて大鳥圭介の塾縄武館に入る。また中浜万次郎に師事し、兵学・洋学の手ほどきを受けた。同年秋より開成所に転じ、英学得業士となる。 1868年(慶応4年)の戊辰戦争時には、志賀熊太に血判状を提出した後に脱藩して遊撃隊に加わる。
大道 長安(だいどう ちょうあん、おおみち ちょうあん、18… 大道 長安(だいどう ちょうあん、おおみち ちょうあん、1843年4月30日(天保14年4月1日)- 1908年(明治41年)6月15日)は、明治期の曹洞宗の僧。救世教の祖。初め機外禅透と号したが、のち大道長安。救世教を開いてからは救世仁者とも号した。越後国(新潟県)出身。 蒲原郡新発田(新発田市)の本田文八の次男として生まれる。幕末の1848年(嘉永元年)越後国長岡の曹洞宗長興寺で得度し、1854年(安政元年)長興寺の兄弟子である大雲寺・柏庭大樹に師事し、その養子となった。駒込吉祥寺旃檀林(今の駒澤大学)に学ぶ。 明治維新後の1873年(明治6年)大樹のあとを受けて岡山県津山・長安寺の住職となり「大道山長安寺」から大道長安に改名。
鈴木 信教(すずき しんきょう、1843年4月23日(天保1… 鈴木 信教(すずき しんきょう、1843年4月23日(天保14年3月24日) - 1892年(明治25年)10月2日)は幕末から明治初期の僧、社会事業家。孤児や貧しい子供たちの養育などで知られ、育てた子供の数は200人とも言われる。 1843年(天保14年)、出羽国村山郡(後の山形県東村山郡大郷村、現・山形市)生まれ。7歳で出家して陸奥国安達郡大玉村(現・福島県大玉村)の相応寺で修行、13歳からは京都の智積院で修行、その後は安達郡岩代町(現・二本松市)の東福寺、次いで息王寺の住職となり、1868年(明治元年)からは安積郡郡山町(現・福島県郡山市)の如宝寺の住職となる。 当時の郡山地域は戊辰戦争などで荒れ果てており、生まれたばかりの子供を育てられない家庭も多かったため、そうした子どもたちを引き取り、寺にて自費で育てて教育したり、「門前縞」という織物を教えたという。
有地 品之允(ありち しなのじょう、1843年4月14日〈天… 有地 品之允(ありち しなのじょう、1843年4月14日〈天保14年3月15日〉- 1919年〈大正8年〉1月17日)は、日本の陸軍軍人、海軍軍人、華族、政治家。貴族院議員、第2代連合艦隊司令長官。爵位は男爵。最終階級は海軍中将。別名は信政。 長州藩士で武術指南役を務め、禄高1千石の大身である有地信敏(通称は藤馬)の長男として生まれる。戊辰戦争では干城隊士として奥羽に出陣した。 明治2年(1869年)から同4年(1871年)まで欧州へ出張して普仏戦争を視察。帰国後に陸軍少佐、御親兵6番大隊長となり、同年から明治6年(1873年)まで侍従を務める。同年に海軍に転じ、海軍少佐となって提督府分課に勤務。
小野寺 順太(おのでら じゅんた、1843年4月12日(天保… 小野寺 順太(おのでら じゅんた、1843年4月12日(天保14年3月13日) - 1910年(明治43年)7月22日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。通称は友直。 大組頭小野寺惣三郎の長男として出羽鶴岡藩領飽海郡飛鳥村(山形県飽海郡南平田村、平田村、平田町を経て現酒田市)に生まれる。1868年(明治元年)家督を相続し肝煎、ついで戸長となり、1882年(明治15年)から1902年(明治35年)まで20年間に渡り山形県会議員を務めた。1902年(明治35年)8月の第7回衆議院議員総選挙では山形県郡部から憲政本党所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。 この間、区書記兼村長、学務委員、町村連合会議員、山形県参事会員、南平田村会議員、飽海郡会議員、同議長、郡教育会議員、地方森林会議員など多くの公職を歴任した。
竹添 進一郎(たけぞえ しんいちろう、1842年4月25日〈… 竹添 進一郎(たけぞえ しんいちろう、1842年4月25日〈天保13年3月15日〉- 1917年〈大正6年〉3月31日)は、日本の外交官、漢学者。名は漸、字は光鴻(こうこう、みつあき)、号は井井(せいせい)と称した。甲申政変時の朝鮮弁理公使であり、後に漢学者として活躍した。日本学士院賞受賞。熊本県近代文化功労者。 肥後国天草(現・熊本県上天草市大矢野町)生まれ。父である小田順左衛門(竹添筍園)は、肥前国島原出身の医者(熊本藩医)で、天草大矢野島に移り住み、上八幡宮の宮司二上出雲の娘である美加と結婚した。順左衛門は儒学者広瀬淡窓門下十八傑の一人でもあり、進一郎が幼い頃より儒学を教えた。 1855年(安政2年)15歳の時、天草より熊本に出て儒学者木下韡村の門下生となった。