白瀬 矗(しらせ のぶ、1861年7月20日〈文久元年6月1… 白瀬 矗(しらせ のぶ、1861年7月20日〈文久元年6月13日〉- 1946年〈昭和21年〉9月4日)は、日本の陸軍軍人、南極探検家。最終階級は陸軍輜重兵中尉。幼名は知教(ちきょう)。 「白瀬中尉」と呼ばれることが多い。 文久元年(1861年)、出羽国由利郡金浦村(現在の秋田県にかほ市)出身。浄蓮寺の住職、白瀬知道・マキエの長男、知教(ちきょう)として生まれた。 南極探検以後になって出版した自伝によると、幼年時代は非常にわんぱくだったという。「金浦の浜辺に漁師が捨てた小魚を狙ってきた狐の尻尾をちぎった」「海に潜って300トンもある千石船の底を潜り抜けようとしたが、抜けられずに溺れて死にかけた」「本堂に引っかった凧を取ろうとして落っこちた」のほか、狼退治や150人と血闘を行ったなどと列挙している。
木村 清四郎(きむら せいしろう、1861年7月12日(文久… 木村 清四郎(きむら せいしろう、1861年7月12日(文久元年6月5日) - 1934年(昭和9年)9月24日)は、明治・大正期の政治家、実業家。日本銀行に30年間在職し、日本銀行副総裁、貴族院勅選議員。正五位勲二等。 備中国小田郡三谷村(現・岡山県小田郡矢掛町)生まれ。 大阪で化学・英学を学んだのち、1884年(明治17年)に慶應義塾(現・慶應義塾大学)へ入学。慶應義塾卒業後に、『商況社』に入社し、『中外商業新報』(現在の日本経済新聞社)主幹を経て、社長に就任。新聞を日刊化させるなど大きく飛躍させる。 時の日本銀行総裁・岩崎の勧めにより日本銀行に入行。1901年(明治34年)営業局長、1906年(明治39年)理事、1916年(大正5年)副総裁となる。
奥田 義人(おくだ よしと / よしんど / ぎじん、186… 奥田 義人(おくだ よしと / よしんど / ぎじん、1860年7月31日〈万延元年6月14日〉- 1917年〈大正6年〉8月21日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の官僚・政治家・法学者。学位は、法学博士。従二位勲一等。男爵。号は秋軒。 衆議院議員(当選2回)、貴族院議員(勅選)、第1次山本内閣で文部大臣兼司法大臣を歴任したほか、晩年には請われて東京市長も務めている。また中央大学の創設者の一人で、第2代学長。 因幡国邑美郡栗谷町(現在の鳥取市栗谷町)に生まれる。幼名は留三郎。父の奥田鉄蔵は禄高300石の鳥取藩士で、作事組頭、武術師範を務めた。 7歳のとき藩の儒者坂田順蔵の門弟となり、藩校・尚徳館に入学。
十代目綾部 利右衛門(あやべ りうえもん、1860年7月30… 十代目綾部 利右衛門(あやべ りうえもん、1860年7月30日(万延元年6月13日)- 1932年(昭和7年)1月2日)は、実業家、初代川越市長。幼名・峰太郎。 綾部家は元禄13年(1700年)以来、武蔵国川越(埼玉県川越市)喜多町で、屋号を「麻屋」と称し塩・油・肥料を業としてきた豪商である。川越藩御用達として活躍していた家系であり、代々が綾部利右衛門を踏襲してきた。宝暦14年(1764年)の綾部家の記録で、綾部家は新河岸川の川越五河岸に出店し、舟運で江戸との物資の交易にあたっていた巨商であったことが分かる。こうした経緯から歴代当主は江戸の文化を吸収し、全国の経済活動に通暁し膨大な文化的資産(蔵書)を所有していた。
大戸 復三郎(おおと ふくさぶろう、万延元年6月8日(186… 大戸 復三郎(おおと ふくさぶろう、万延元年6月8日(1860年7月25日) - 大正13年(1924年)1月12日)は、日本の衆議院議員(甲辰倶楽部→大同倶楽部)、弁護士、実業家。 備後国芦田郡府中市村(現在の広島県府中市)出身。1883年(明治16年)、司法省法学校を卒業し、司法省に出仕した。岡山始審裁判所判事となり、1890年(明治23年)に岡山区裁判所判事に転じた。1894年(明治27年)、退官。退官後は岡山市に弁護士事務所を開業した。 1904年(明治37年)、第9回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。同年、岡山市会議員にも当選し、議長に選出された。 実業方面では、共立絹糸紡績会社取締役、加島銀行理事、岡山製氷会社取締役、中外燐寸株式会社社長などを歴任し、1921年(大正10年)には岡山商業会議所会頭に選出された。
隈本 有尚(くまもと ありたか、1860年7月24日(万延元… 隈本 有尚(くまもと ありたか、1860年7月24日(万延元年6月7日) - 1943年(昭和18年)11月26日)は、日本の教育者、天文学者、数学者、心理学者、占星術師。福岡県立中学修猷館初代館長、長崎高等商業学校初代校長、朝鮮総督府中学校初代校長。 久留米藩士の子として後の久留米市螢川町に生まれる。幼名は井上木六郎。生後まもなく隈本家の養子となる。1872年(明治5年)11歳で久留米藩の藩校である好生館(洋学所、同年11月柳河藩の洋学校と合併し宮本中学校となる)に入学し、柘植善吾や英人宣教師ジョージ・オーウェンから、英語、幾何学、地理、博物学を学ぶ。 1875年(明治8年)官立東京英語学校、1876年(明治9年)官立東京開成学校予科(1877年(明治10年)に官立東京英語学校と統合して東京大学予備門となる)理科を経て、1878年(明治11年)9月東京大学理学部に第一期生として入学し、星学を専攻する。
梅 謙次郎(、1860年7月24日〈万延元年6月7日〉- 1… 梅 謙次郎(、1860年7月24日〈万延元年6月7日〉- 1910年〈明治43年〉8月25日)は、日本の法学者、教育者。学位は、法学博士。帝国大学法科大学(現東京大学法学部)教授、東京帝国大学法科大学長、内閣法制局長官、文部省総務長官等を歴任。法典調査会民法起草委員・商法起草委員。和仏法律学校(現・法政大学)学監・校長、法政大学初代総理。勲一等瑞宝章受章。富井政章、穂積陳重とともに民法を、田部芳、岡野敬次郎とともに商法を立案起草した。弟子に川名兼四郎など。 松江藩(現:島根県松江市)で藩医・梅薫の次男として生まれた。6歳にして大学 (書物)・中庸を暗唱し、「梅家の小坊さんは日朗様の再来だ」と称賛された。
横山 寅一郎(よこやま とらいちろう、万延元年6月7日(18… 横山 寅一郎(よこやま とらいちろう、万延元年6月7日(1860年7月24日) - 大正12年(1923年)5月22日)は、衆議院議員(立憲政友会)、長崎市長。 肥前国大村に、大村藩家老横山雄左衛門の二男として生まれる。藩校五教館に学んだ。長崎県警部を務めた後、私立大村中学校(現在の長崎県立大村高等学校)の創設に加わり、校長を務めた。 長崎県会議員・同副議長を経て、1895年(明治28年)に長崎市長に就任した。3期務め、港湾改良・水道増設・市区拡張の三大事業に取り組んだ。1904年(明治37年)、第9回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は5回を数えた。 その他、大村湾真珠株式会社社長、国光生命保険相互会社専務取締役などを務めた。
澤山 勇三郞(さわやま ゆうざぶろう、1860年7月17日(… 澤山 勇三郞(さわやま ゆうざぶろう、1860年7月17日(万延元年5月29日)- 1936年(昭和11年)10月23日)は日本の数学者、陸軍教授。澤山-テボーの定理やフォイエルバッハの定理について20通り以上の証明を与えたことで知られる。 1860年(万延元年)、酒造業の武安治平の五男として長州藩厚狭郡二俣瀬村(現・宇部市)に生まれる。家業を継ぐ予定であったが、本人の強い希望で16歳のとき山口県の鴻城学舎に入り、英語・数学を学ぶ。当時県内には優れた英語教育者が少なかったので、ハワイ帰りで地元の刑務所に服役していた者から英語を学んだというエピソードがある。24歳で萩中学校の準助教諭となり、29歳の時に数学の中等教員の免状を得た。
山田 一郎(やまだ いちろう、1860年7月16日(安政7年… 山田 一郎(やまだ いちろう、1860年7月16日(安政7年5月28日) - 1905年(明治38年)5月27日)は、明治時代の日本のジャーナリスト。号は愛川。 1860年(万延元年)、安芸国安芸郡府中村(現在の広島県府中町)に生まれる。藩校修道館(現・修道中学校・修道高等学校)、広島外国語学校で学ぶ。1876年(明治9年)に上京し、東京開成学校に入学。東京開成学校時代の同級生には、高田早苗・三宅雪嶺・有賀長雄・田中舘愛橘らがいる。1878年9月、東京大学文学部に入学。高田早苗・市島謙吉らとともに小野梓が主宰する鷗渡会に加わり、さらに立憲改進党の結党に参加。1882年7月、東京大学を卒業。同年10月、東京専門学校創立に参加し講師に就任、「政治学原論」の初代担当者を務める。
三宅 雪嶺(みやけ せつれい、1860年7月7日(万延元年5… 三宅 雪嶺(みやけ せつれい、1860年7月7日(万延元年5月19日) - 1945年(昭和20年)11月26日)は、日本の哲学者、評論家。加賀国金沢(現・石川県金沢市)生まれ。本名は雄二郎
星野 光多(ほしの みつた、万延元年5月18日〈1860年7… 星野 光多(ほしの みつた、万延元年5月18日〈1860年7月6日〉 - 1932年〈昭和7年〉7月7日)は、明治・大正時代に活動した牧師。フェリス女学院元教頭。 大蔵官僚、政治家、実業家の星野直樹は長男。参議院議員、ジャーナリストの星野芳樹は三男。津田塾大学名誉学長の星野あいは妹。 父・星野宗七は上野国沼田藩利根郡戸鹿野村の名主で、明治元年(1868年)に横浜の外国人居留地の近くの堺町に星野屋という店を構えて、蚕種紙生糸の商売を始めた。光多は宗七の次男として万延元年(1860年)に戸鹿野村(現・群馬県沼田市)で生まれた。 明治3年(1870年)に光多は家族とともに横浜に移住した。横浜で外国人と商売をするためには英語が必要だと考え、アメリカ・オランダ改革教会宣教師、J・H・バラのバラ塾に通うことになった。
田中 喜太郎(たなか きたろう、1859年7月29日(安政6… 田中 喜太郎(たなか きたろう、1859年7月29日(安政6年6月30日)- 1936年(昭和11年)5月31日)は、明治から昭和前期の日本の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、石川県石川郡一木村長、同粟崎村長、同松任町長。 加賀国石川郡宮丸村(石川県石川郡一木村字宮丸、松任町、松任市を経て現白山市宮丸町)の農家に生まれる。松本白華に師事した。その後、法律学、経済学を修めた。 1881年(明治14年)村井・宮丸連合村会議員、石川県町村連合会規則編纂委員に就任。自由民権運動に加わる。1887年(明治20年)石川県学事委員となり、1890年(明治23年)5月、石川郡旧義倉会議員、1895年(明治28年)石川県教育会員、石川県検疫委員に就任。
高橋 勝兵衛(たかはし かつべえ、1859年7月24日〈安政… 高橋 勝兵衛(たかはし かつべえ、1859年7月24日〈安政6年6月25日〉 - 1932年〈昭和7年〉10月31日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。山形県会議長。山形県山形市長(第9代)。幼名は源吉、のち謙。 先代勝兵衛の長男として、出羽新庄藩領村山郡大槇村(山形県北村山郡大槇村、戸沢村を経て、現村山市大槇)に生まれる。代々酒造業を営む旧家であった。漢学を修めたのち、米沢中学に遊学する。1876年(明治9年)大槇小学校設立とともに補助教師となり、のち白鳥稲長小学校兼務となる。学務委員を経て、連合町村会議員に当選。1886年(明治19年)2月には28歳で山形県会議員に当選し、その後死去するまで12回当選した。
小河 源一(おがわ げんいち、安政6年6月19日(1859年… 小河 源一(おがわ げんいち、安政6年6月19日(1859年7月18日) - 大正5年(1916年)12月27日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→甲辰倶楽部→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会)、弁護士。 豊前国宇佐郡長洲村(現在の大分県宇佐市)出身。法学を学び、1886年(明治19年)に代言人試験に合格し、山口県で開業した。1893年(明治26年)、弁護士法が施行され、代言人が弁護士と改められるとともに、山口弁護士会会長に選出された。1895年(明治28年)には李鴻章狙撃犯の小山豊太郎の弁護を担当した。 それより先、1887年(明治20年)に山口県内の革新派で防長同士会を組織し、幹事となった。
弘田 長(ひろた つかさ、1859年7月14日(安政6年6月… 弘田 長(ひろた つかさ、1859年7月14日(安政6年6月15日) - 1928年(昭和3年)11月27日)は、日本の医師。東京大学小児学教室の初代教授。幼少時の昭和天皇の侍医を務めた。国内で初めて小児科を作った人物であり、国産初のベビーパウダーとなるシッカロールを東京帝国大学薬学科の丹波敬三とともに作った人物でもある。また、日本で最初の小児科学の教科書『児科必携』を出版している。 1859年(安政6年)6月15日、土佐国幡多郡中村町にて、弘田親厚の長男として出生。1871年、13歳で土佐藩の貢進生に選ばれて上京。この貢進生の制度は終わったが、勉強を続け、1880年7月に東京大学医学部を卒業して医学士の学位を得、助手としてユリウス・スクリバ教授のもとで外科を修業した。
榊 順次郎(さかき じゅんじろう、1859年7月12日(安政… 榊 順次郎(さかき じゅんじろう、1859年7月12日(安政6年6月13日) - 1939年11月16日)は、日本の産婦人科医。 沼津藩蘭方医・榊令輔の次男。兄は榊俶、弟は榊保三郎。1883年東京大学(のち東京帝国大学)医学部別科卒業、ドイツに留学、産科婦人科を研究し、帰国後医学博士。榊産婦人科病院を設立、日本産婆看護学校を設立し校長となる。墓所は染井霊園(1イ-5-5)。妻は陸軍獣医監・桑島景連の娘みの子、息子に医師の榊邦彦、女婿・養子に榊忠三がいる。 1892年に、脚気の原因を白米中に含まれる毒素に求めた。 この項目は、医学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:医学/Portal:医学と医療)。
井上 篤太郎(いのうえ とくたろう、1859年7月12日〔安… 井上 篤太郎(いのうえ とくたろう、1859年7月12日〔安政6年6月13日〕 - 1948年〔昭和23年〕11月28日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。現在の京王電鉄の前身・京王電気軌道の事実上の創業者である。 明治法律学校(現在の明治大学の前身)を経て、愛甲郡役所の書記を務めた後、村会議員、神奈川県会議員を務めた。1912年(明治45年)5月、第11回衆議院議員総選挙(神奈川郡部、立憲政友会)で当選し、衆議院議員を1期務めた。 その後、富士瓦斯紡績(現・富士紡ホールディングス)に入社し、社長の和田豊治の知遇を得る。その縁で、玉川電気鉄道(現・東急電鉄世田谷線など)や王子電気軌道(現・都電荒川線)の取締役に招聘され、それぞれの経営の安定化に貢献。
狭布里 錦太夫(きょうのさと きんだゆう、1859年7月11… 狭布里 錦太夫(きょうのさと きんだゆう、1859年7月11日(安政6年6月12日) - 1926年6月28日)は、現在の茨城県筑西市(旧真壁郡)出身で伊勢ノ海部屋に所属した力士。本名は関 喜市(旧姓本橋)。170cm、81kg。最高位は東前頭3枚目。 1883年1月初土俵、1890年5月十両昇進。四股名の狭布里錦太夫とは、部屋の先輩である柏戸宗五郎 (1810年生)が若い時分に名乗っていたもの。1896年1月に入幕。翌5月にこの場所横綱に昇進した小錦を破り金星を獲得。幕内を連続17場所務め、44歳まで幕内に在位したが、1904年5月に十両に陥落。1905年1月に廃業した。 海老ノ海→狭布里錦太夫 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。
野出 鋿三郎(のいで しょうざぶろう、1859年7月10日(… 野出 鋿三郎(のいで しょうざぶろう、1859年7月10日(安政6年6月11日) - 1915年(大正4年)2月23日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(2期、立憲革新党)。 1859年(安政6年)、出羽国由利郡本荘町(現由利本荘市)に生まれる。東京法学校(現・法政大学)で学んだのち、代言人業に従事する。1892年(明治25年)に第2回衆議院議員総選挙に出馬し、当選する(連続2期当選)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
山田 東次(やまだ とうじ、安政5年6月21日(1858年7… 山田 東次(やまだ とうじ、安政5年6月21日(1858年7月31日) - 明治32年(1899年)12月18日)は明治期の政治家、法学者、教育者。衆議院議員、法典調査会委員、和仏法律学校(現法政大学)理事。 東京法学校卒業後、同校主幹の薩埵正邦の助手として法学教育に携わり、高崎法律学校(1886年(明治19年)開校)に薩埵と毎週交代で出講している。 また、中央法学会において法律雑誌を出版し、法学の啓蒙・教育活動に努めている。 その後、自由党系衆議院議員として活躍し、法典調査会委員に私立法律学校出身者として唯一人就任している。 民法典論争では断行派に立ち、宮城浩蔵・小笠原貞信らとともに「民法中一部延期ニ関スル法律案」を提出し、延期派に対して最後の抵抗を示している。
安井 小太郎(やすい こたろう、1858年7月29日〈安政5… 安井 小太郎(やすい こたろう、1858年7月29日〈安政5年6月19日〉 - 1938年〈昭和13年〉4月2日)は、日本の漢学者。名は朝康、号は朴堂(安井朴堂)。安井息軒の外孫。著作に『日本儒学史』など。 1858年、江戸出身。母親は安井息軒の長女の須磨子。父親は息軒の門人で攘夷志士の中村貞太郎(北有馬太郎)。 1862年、小太郎が幼少の頃、貞太郎が清河八郎をかくまった罪で逮捕され獄死する。貞太郎は逮捕前に家族に罪が及ぶのを避けて離婚したため、小太郎は息軒に引き取られて育つ。とくに9歳から14歳の間、息軒の故郷の日向国宮崎郡(現在の宮崎県)で暮らす。 1871年、宮崎から東京に出て息軒の三計塾に入る。
小山 健三(こやま けんぞう、1858年7月23日(安政5年… 小山 健三(こやま けんぞう、1858年7月23日(安政5年6月13日) - 1923年(大正12年)12月19日)は明治時代から大正時代にかけての日本の官僚、教育者、実業家。 前半生は教育者、近代日本教育の建設者として、とりわけ専門教育の礎を築くことに大きな功績を残し、高等商業学校(1902年に東京高等商業学校に改称、現・一橋大学)校長などを歴任。後半生は、三十四銀行(後の三和銀行、現三菱UFJ銀行)第2代頭取に就任して、事業を大きく発展させるとともに、日本の金融界の発展に尽くす。福澤諭吉の養子であり「日本の電力王」と呼ばれた福澤桃介に、「東に渋沢栄一、西に小山健三あり」と言わしめた。貴族院議員。
武石 敬治(たけいし けいじ、1858年7月23日〈安政5年… 武石 敬治(たけいし けいじ、1858年7月23日〈安政5年6月13日〉 - 1904年〈明治37年〉10月13日)は、衆議院議員(自由党→立憲革新党→進歩党→憲政本党→立憲政友会)。 出羽国雄勝郡山田村(現在の秋田県湯沢市)生まれ。里正を務め、1881年(明治14年)には秋田改進党を結成し、自由民権運動を推進した。1883年(明治16年)に秋田県会議員に雄勝郡の補欠として当選した。その後、1885年(明治18年)10月、1889年(明治22年)にも再選した。同年11月28日から1890年(明治23年)7月まで第10代同副議長を務めた。1889年(明治22年)に大同団結運動がおきると、たびたび東京・大阪を往来して実現に尽力した。
納富 教雄(安政5年6月11日(1858年7月21日)- 昭… 納富 教雄(安政5年6月11日(1858年7月21日)- 昭和9年(1934年)2月)は、日本の剣術家。流派は戸田流。称号は大日本武徳会剣道範士。 肥前国小城郡西川(現在の佐賀県小城市)に生まれる。納富家は小城藩の武術師範の家系で、代々五郎太夫を名乗った。教雄が明治30年(1897年)7月に建碑した石碑によれば、五郎太夫(父と祖父のどちらを指しているか不明)は「真之乱流組打・真之乱流棒縄術・戸田流剣術・真之乱流二刀・根岸流長刀」9代師範とある。納富家の道場での他流試合や道場での修行中に無念にも亡くなった人々を葬ったという「鬼塚」が現在も残る。 「鬼塚」は、納富道場へ来訪した諸国を廻る武者修行の剣士や道場破り、他流試合などの中で亡くなった人々のみを葬ったと言われているが、道場の稽古中に無念ながら亡くなった身寄りの無い門下生や、諸国巡礼中に病気や怪我により亡くなった方々を弔うための塚である。
飯島 信明(いいじま しんめい、1858年7月18日(安政5… 飯島 信明(いいじま しんめい、1858年7月18日(安政5年6月8日)- 1933年(昭和8年)12月21日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員、山梨県東山梨郡八幡村長。 甲斐国山梨郡、のちの八幡村(山梨県東山梨郡八幡村を経て現山梨市南)で、飯島兵右衛門の長男として生まれた。漢学を修め、1869年(明治2年3月)家督を相続した。 1890年(明治23年)6月に製糸業を創業し、飯島製糸工場主に就任。その他、甲州金鳳社長、峡製糸取締役、七里銀行取締役、丸十繭糸商会重役、甲信石炭商会社長なども務め、蚕糸業など経済界の発展に尽力した。 政界では、1889年(明治22年)八幡村会議員に当選し1910年(明治43年)7月まで在任。
9代 秋元 三左衛門(あきもと さんざえもん、1858年7月… 9代 秋元 三左衛門(あきもと さんざえもん、1858年7月7日(安政5年5月27日)- 1910年(明治43年)1月16日)は、明治期の醸造家、実業家、政治家。衆議院議員。通称・三左衛門桃渓。 下総国葛飾郡流山村(千葉県東葛飾郡流山町流山、江戸川町、流山町を経て現流山市流山)で、味醂(みりん)醸造業・8代秋元三左衛門の息子として生まれる。伊藤長有などから和漢学を学び、小学校普通小学科を卒業。1875年(明治8年)7月に上京し、亀田保、島田重礼などに漢学を学んで、1880年(明治13年)3月に帰郷した。家業の「天晴味醂」(あっぱれみりん)として知られた味醂醸造業を継承した。その他、八十四銀行頭取、宝酒造監査役などを務めた。
志摩 清直(しま きよなお、1858年7月7日(安政5年5月… 志摩 清直(しま きよなお、1858年7月7日(安政5年5月27日) - 1894年(明治27年)9月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大尉。 日向国都城(現在の宮崎県都城市)に生まれた。父・清雄は宮崎県士族。弟の山地通信は陸軍将校、志摩猛は戦艦「霧島」艦長等を務めた海軍少将である。志摩は9歳のときに小姓として出仕した経験がある。 海兵士官学校予科生徒在学中に同校は廃校となり、1877年(明治10年)9月、海軍兵学校へ転入。1880年(明治13年)9月「龍驤」乗組みとして実地訓練を受け、豪州へ回航。1881年9月少尉補となる。兵学校8期生であり、同期に八代六郎がいる。1885年(明治18年)6月海軍少尉任官。
望月 右内(もちづき うない、1858年7月2日(安政5年5… 望月 右内(もちづき うない、1858年7月2日(安政5年5月22日)– 1917年(大正6年)1月28日)は、明治・大正期の実業家、政治家。衆議院議員。 紀伊国伊都郡、のちの和歌山県伊都郡見好村(現かつらぎ町)で、豪農・望月嘉八郎の長男として生まれる。上田釆女の塾で学んだ。 1873年(明治6年)第四大区五小区役場書記に就任。その後、兄井村総代、兄井・三谷・寺尾・平沼田・皮張五カ村戸長、伊都郡書記を歴任。1883年(明治16年)6月、補欠選挙で和歌山県会議員に選出され、1884年(明治17年)寺尾村外十三カ村戸長に就任したため県会議員を退任。1886年(明治19年)補欠選挙で県会議員に再選され、その後1888年(明治21年)、1892年(明治25年)に再選され、1894年(明治27年)3月に辞任するまで在任。
富永 隼太(とみなが はやた、1857年7月23日(安政4年… 富永 隼太(とみなが はやた、1857年7月23日(安政4年6月3日)- 1926年(大正15年)10月25日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(5期)。 肥前大村藩領彼杵郡大村(長崎県東彼杵郡大村、大村町を経て現大村市)に生まれる。生家は農業を営んだ。幼くして漢学と英学を修めた。1882年(明治15年)から8年間に渡り長崎県会議員を務め、その間、常置委員、徴兵参事員、所得税調査委員、学務委員などを歴任した。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では長崎県第1区から出馬し当選。第3回、第4回、第5回、第6回総選挙でも当選し衆議院議員を通算5期務めた。
仙石 貢(せんごく みつぎ/せんごく みつぐ、1857年7月… 仙石 貢(せんごく みつぎ/せんごく みつぐ、1857年7月22日〈安政4年6月2日〉- 1931年〈昭和6年〉10月30日)は、日本の鉄道官僚、実業家、政治家。工学博士。 没後勲一等旭日大綬章追贈(昭和6年10月30日付)。 土佐国高知出身。1872年(明治5年)、高知藩病院附属吸江学校に入学し、英語を学ぶ。1878年(明治11年)7月、東京大学理学部土木工学科卒業。同年9月、東京府土木掛。1884年(明治17年)、工部省鉄道局勤務、日本鉄道、甲武鉄道工事を担当した。1891年(明治24年)8月、工学博士学位を取得している。 1896年(明治29年)10月、逓信省鉄道技監を最後に退官し、実業界に転じ筑豊鉄道社長となる。
波多野 喜右衛門(はたの きえもん、1857年7月21日(安… 波多野 喜右衛門(はたの きえもん、1857年7月21日(安政4年6月1日)- 1937年(昭和12年)3月1日)は、明治時代後期から大正時代の政治家。衆議院議員。 尾張国東春日井郡、のちの篠岡村、現在の小牧市篠岡に生まれる。神谷梅峰に儒学を学ぶ。戸長、大草村長、篠岡村長、愛知県会議員、同参事会員を経て、1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙で愛知県第5区から立憲政友会所属で出馬して当選し、1期務める。1921年(大正10年)12月15日、選挙法違反の判決により議員を辞した。
島津 啓次郎(しまづ けいじろう、安政4年閏5月25日〈18… 島津 啓次郎(しまづ けいじろう、安政4年閏5月25日〈1857年7月16日〉 - 明治10年〈1877年〉9月24日)は、幕末から明治時代初頭の士族。旧佐土原藩出身。旧藩主家出身でありながら西南戦争では薩軍側に加わり、戦死した。 安政4年(1857年)、佐土原にて誕生する。第11代佐土原藩主・島津忠寛の三男で、母は側室。3歳の時に家老家に当たる町田氏に養子に出される。10歳の時、鹿児島に遊学、翌年さらに東京に移り、勝海舟門下生となる。啓次郎の才能を見抜いた海舟により推薦され、明治3年(1870年)、薩摩藩藩費留学生として兄・大村純雄らと共に渡米、アナポリス、ニューヘイブン (コネチカット州)、グリンブルドなどで英語、フランス語、文学、数学等を学ぶ。
仁太坊(にたぼう、安政4年7月7日(1857年) - 昭和3… 仁太坊(にたぼう、安政4年7月7日(1857年) - 昭和3年1月2日(1928年))は青森県生まれの津軽三味線奏者。本名・秋元仁太郎。津軽三味線の始祖。 1857年(安政4年)に金木新田(かなぎしんでん)の神原村(現・青森県五所川原市金木町神原)に生まれる。本名は仁太郎(にたろう)。父・三太郎は岩木川の河原の舟小屋に住み、渡し守を務めていた。母は出産後しばらくして体を壊し、亡くなっている。 仁太郎は8歳で天然痘にかかり失明。当時の幕藩体制下では、目の不自由な男性が経済的に身を立てるため琵琶や三味線、そして按摩や鍼灸の技能を習得する職能ギルドのような組織として「当道座」があった。しかし、当道座は封建体制の中の身分制組織であり、「筋目悪しき者」とされていた渡し守の子である仁太郎は当道座に入ることが許されなかった。
平ノ戸 三之助(ひらのと さんのすけ、1857年7月(安政4… 平ノ戸 三之助(ひらのと さんのすけ、1857年7月(安政4年) - 没年不詳)は、肥前国松浦郡(現長崎県佐世保市)出身で湊部屋、中村部屋、雷部屋に所属した元力士。元世話人。本名は岡本 三之助。最高位は前頭2枚目。身長体重不明。 初めは大坂相撲に所属する力士であったが、25歳であった1883年1月に上京、湊部屋出身の梅ヶ谷藤太郎の門弟となり、東京相撲に加入し、二枚目格からの始まりとなった。1888年5月、30歳の時にようやく入幕を果たし、以後実力を発揮。1891年5月には、西ノ海嘉治郎から2度目の金星を上げ、翌1892年1月は自己最高位の西前頭2枚目に躍進した。なお、平ノ戸が獲得した3つの金星はすべて、西ノ海からのものである。
阪田 恒四郎(さかた つねしろう、安政4年(1857年)7月… 阪田 恒四郎(さかた つねしろう、安政4年(1857年)7月 - 昭和19年(1944年)3月5日)は、日本の実業家、サカタインクス創業者。俳人。大中寅二は女婿、阪田寛夫は孫、大浦みずきは曾孫にあたる。 阪田家は、代々紺屋の屋号で安芸国忠海(現在の広島県竹原市忠海)で海運業を営んでいた。恒四郎の父・林助は少年期に大坂へ出て幕府御用商の銅精錬所に奉公。恒四郎は大坂で生まれるが文久元年(1861年)、父の帰郷と共に4歳から広島忠海で育つ。23歳で広島県豊田郡役所に書記として採用される。恒四郎の次男・阪田素夫(阪田寛夫の父)他、のちに家業を継ぐ五男のうちの3人はいずれも忠海生まれ。明治28年(1895年)退職して広島市で銀行員となる。
亀井 忠一(かめい ただかず、安政3年6月30日(1856年… 亀井 忠一(かめい ただかず、安政3年6月30日(1856年7月31日) - 昭和11年(1936年)1月30日)は、三省堂書店、三省堂の創業者で三省堂編修所の代表者でもあった。明治時代の代表的出版人でもあり、日本における近代的辞書の礎を築いた人物のひとり。 江戸小石川で旗本・中川家の五男として生まれ、大政奉還後に家族で沼津に移り住み、困窮する父を助けて、落ち葉集めや卵・糠の行商で糊口をしのぐ。16歳で同じ元旗本・亀井家の婿養子となり、明治6年(1873年)に東京に戻る。はじめ麹町13丁目で下駄商を営むが明治14年(1881年)、四谷の大火により店が焼けた後、兄が営む神田の古本屋「石川桃林堂」に倣って神保町に三省堂を創業した。
浅野 長道(あさの ながみち、安政3年6月27日(1856年… 浅野 長道(あさの ながみち、安政3年6月27日(1856年7月28日) - 1912年(大正元年)8月4日)は、大正から昭和時代前期の政治家。愛媛県松山市長。幼名は房五郎。 松山城下八坂町にて浅野長英の長男として生まれる。1877年(明治10年)愛媛県師範学校(愛媛大学教育学部の前身のひとつ)を卒業後、派駐訓導を務める。 のち官界に入り、1878年(明治11年)下浮穴郡書記、伊予郡書記として学務係に任じ、1881年(明治14年)下浮穴・伊予郡書記、1886年(明治19年)三野・豊岡郡書記、1887年(明治20年)神奈川県属を経て、1899年(明治32年)温泉郡長に就任した。1902年(明治35年)2月7日、市会で推され、松山市長に就任。
浅井 忠(あさい ちゅう、1856年7月22日(安政3年6月… 浅井 忠(あさい ちゅう、1856年7月22日(安政3年6月21日) - 1907年(明治40年)12月16日)は、明治期の洋画家。教育者としても貢献した。
足立 長義(あだち ながよし、1856年7月16日〈安政3年… 足立 長義(あだち ながよし、1856年7月16日〈安政3年6月15日〉 - 1930年〈昭和5年〉6月10日)は、日本の実業家、篤農家、教育家、政治家。鳥取県西伯郡外江村長(第7代)。族籍は鳥取県平民。 現在の鳥取県境港市出身。製糸業を営む。1906年3月から1907年8月まで外江村長をつとめる。高等科設置、校地拡張、校舎増築等教育面で尽力する。また外江村会議員、外江村学務委員、小学校長をつとめる。 第4代外江村長足立長重の弟である。住所は鳥取県西伯郡外江村(現・境港市外江町)。 『西伯之資力 大正11年10月調』によれば、地価所有高は588円5銭である。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
柴田 榮吉(しばた えいきち、1856年7月16日〈安政3年… 柴田 榮吉(しばた えいきち、1856年7月16日〈安政3年6月15日〉- 1950年〈昭和25年〉)は、明治から昭和時代の政治家(6代・10代八王子町長、初代八王子市長、ほか)、実業家。柴田家に入婿して以降は生涯にわたって八王子を拠点とした。 武蔵国多摩郡芋窪村(旧・東京府北多摩郡大和村芋窪、現・東京都東大和市芋窪)で、農業・竹松善右衛門の四男として生を受ける。1875年(明治8年)八王子南新で笠屋を営む柴田家に入婿した。 1894年(明治27年)7月、八王子繭糸取引所常務理事に就任。1896年(明治29年)八王子撚糸製造組合を創設し頭取となり、1898年(明治31年)撚糸製造業組合を創設。 1901年(明治34年)第4代八王子町長・関谷源兵衛(在任期間:1901年3月7日-1902年3月5日)によって八王子町助役に任命される。
大熊 氏廣(おおくま うじひろ、1856年7月14日(安政3… 大熊 氏廣(おおくま うじひろ、1856年7月14日(安政3年6月13日) - 1934年(昭和9年)3月20日)は、日本の彫刻家。日本初の西洋式銅像とされる靖国神社の大村益次郎像で知られる。 鳩ヶ谷宿近くの武蔵国足立郡中居村八幡木(現埼玉県川口市八幡木)で農家の次男として生まれた。兄・徳太郎は後に篤農家として知られた人物である。 幼少時から絵が得意で、後に洋画を学んだ。1876年(明治9年)に開校した工部美術学校の彫刻科に入学し、イタリア人教師ラグーザのもとで学んだ。1882年に首席で卒業し、翌年、有栖川宮邸(J.コンドル設計)の建築彫刻を担当、1884年に工部省に入り、皇居(明治宮殿)造営などに関わった。
北川 貞彦(きたがわ さだひこ、1856年7月6日(安政3年… 北川 貞彦(きたがわ さだひこ、1856年7月6日(安政3年6月5日)- 1903年(明治36年)11月8日)は、代言人(弁護士)、自由民権運動家、民権結社「発陽社」社長。憲法草案『日本憲法見込案』の起草者。 安政3年6月5日(1856年7月6日)、土佐藩士(四人扶持切符15石)・北川貞詮(忠蔵)の次男として、高知城下に生まれる。幼名は「熊治」。 初め藩校・致道館、廃藩置県以降は共立学舎英学校に学ぶ。東京に遊学して、明治9年(1876年)、代言人(弁護士)の免許を取得した。 自由民権運動に身を投じ、明治10年(1877年)、「立志社」の下部組織として民権結社「発陽社」(跡地・高知県高知市天神町14)を興す。
大岡 育造(おおおか いくぞう、1856年7月4日〈安政3年… 大岡 育造(おおおか いくぞう、1856年7月4日〈安政3年6月3日〉- 1928年〈昭和3年〉1月26日)は、明治・大正期の弁護士・政治家。号は硯海。 医師大岡尚斎の長男として、長門国豊浦郡小串村(現:山口県下関市)に生まれた。1873年(明治6年)、長崎医学校(現:長崎大学医学部)に入ったが、翌年廃校となった為、上京して大井憲太郎らの講法学舎で法律を学んだ。司法省法学校に通ったとの記事は、裏付けを欠くとも言う。 1880年(明治13年)12月、代言人(現在の弁護士)の資格を取り、講法学舎の幹事になった。沼間守一に兄事して、1881年(明治14年)、板垣退助らの自由党に入党した。また、共立学校の幹事に転じ、1882年(明治15年)、校長になった。
松沢 求策(まつざわ きゅうさく、安政2年6月15日(185… 松沢 求策(まつざわ きゅうさく、安政2年6月15日(1855年7月28日) - 明治20年(1887年)6月25日)は、現在の長野県安曇野市出身の自由民権家。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
石黒 五十二(いしぐろ いそじ、1855年7月23日(安政2… 石黒 五十二(いしぐろ いそじ、1855年7月23日(安政2年6月10日) - 1922年(大正11年)1月14日)は、明治時代の官僚、土木技術者、政治家。 加賀藩士・石黒千尋の二男として加賀国石川郡金沢に生まれる。明治維新前は、藩校で修めた西洋砲術を教授していたという。 維新後は、加賀藩主の命を受けて大学南校(開成学校を経て、後に東京大学)に進み、1878年(明治11年)、土木工学科を卒業。同年、神奈川県土木課に出仕したが、翌1879年(明治12年)、文部省の選抜によりイギリスに留学した。留学中は、アレキサンドリア港の水道工事をはじめ多数の工事に携わったほか、ジョン・フレミングとともにインシュライトの発明を行うなどもした。
井阪 光暉(いさか みつあき、1855年7月20日(安政2年… 井阪 光暉(いさか みつあき、1855年7月20日(安政2年6月7日) - 1920年(大正9年)2月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 和泉国南郡、のちの大阪府泉南郡八木村(春木町を経て現岸和田市)出身。大阪府会議員、同常置委員となる。 1904年の第9回衆議院議員総選挙において大阪府郡部から無所属で立候補したが25票差で次点で落選した。1908年の第10回衆議院議員総選挙では立憲政友会公認で立候補して当選した。1912年の第11回衆議院議員総選挙でも再選。1915年の第12回衆議院議員総選挙は不出馬。1917年の第13回衆議院議員総選挙では次点で落選。しかし、7月に本出保太郎の死去により、繰上当選となった。
小林 有也(こばやし うなり、1855年7月14日(安政2年… 小林 有也(こばやし うなり、1855年7月14日(安政2年6月1日) - 1914年(大正3年)6月9日)は、大阪府士族で教育者。幼名は小林 卯之助(こばやし うのすけ)。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。
岡 五郎(おか ごろう、1855年7月12日(安政2年5月2… 岡 五郎(おか ごろう、1855年7月12日(安政2年5月29日) - 1928年(昭和3年)10月31日)は、日本の教育者・文部官僚。 越前藩出身。岡源太夫の五男。藩校で漢学を学ぶ。福井県師範学校変則生を経て、1877年(明治10年)に官立愛知師範学校を卒業。東京麹町清水小学校訓導、千葉県鶴舞小学校校長、茂原町中学校教諭を歴任した。1882年(明治15年)、東京師範学校(後の東京高等師範学校)を卒業。その後、徳島県師範学校一等教諭・学務課勤務、徳島県中学校一等教諭、高等師範学校助教諭・附属小学校主任、同教諭、女子師範学校教諭・同高等女学校主任、同教授・文部省普通学務局勤務、高等師範学校書記・教授、文部省普通学務局第一課長、宮城県尋常師範学校校長、東京府視学官・文部省視学官を歴任した。
川上 親晴(かわかみ ちかはる、1855年7月6日(安政2年… 川上 親晴(かわかみ ちかはる、1855年7月6日(安政2年5月23日) - 1944年(昭和19年)5月12日)は、日本の内務官僚、政治家。県知事、京都市長、警視総監、貴族院議員。 大隅国姶良郡、のちの鹿児島県姶良郡加治木村(加治木町を経て現姶良市)において、加治木島津家家臣で書役を務める川上正兵衛の長男として生まれる。 私学校に入学したが軍事教練一辺倒とその閉鎖性に嫌気がさし退学する。その際に生徒の自主性を理解しない西郷隆盛に罵倒され、故郷で村八分となった。 西南戦争時の1877年4月、警視庁警部補に任官した。沖縄県十等警部、大阪府十等警部を経て、1882年8月、石川県に転じ、警部補・高岡警察署詰となる。