吉松 忠敬(よしまつ ちゅうけい、1865年11月13日(慶… 吉松 忠敬(よしまつ ちゅうけい、1865年11月13日(慶応元年9月25日) - 1937年(昭和12年)8月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 日向国那珂郡、のちの宮崎県南那珂郡福島町(現串間市)で生まれた。日清戦争に参加し、陸軍砲兵一等軍曹となる。帰国後は林業を営み、南那珂郡福島村長、宮崎県議、同議長を務める。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において宮崎1区から政友本党公認で立候補して当選した。のち立憲政友会に移り、衆議院議員を1期務めた。1928年の第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1937年死去。子孫にはジャーナリストの田中耕がいる。
納所 弁次郎(のうしょ べんじろう、慶応元年9月24日(18… 納所 弁次郎(のうしょ べんじろう、慶応元年9月24日(1865年11月12日)- 昭和11年(1936年)5月11日)は、日本の作曲家、音楽教育家。「兎と亀」「おつきさま」「さるかに」「ももたろう」などの童謡や唱歌、日露戦争の事績を謳った軍歌などの作曲者として知られる。 幕臣納所重兵衛の四男、六人兄姉の末っ子として江戸の築地に生まれた。1880年(明治13年)頃、築地の東京一致英和学校(現在の明治学院大学)に入学。1883年(明治16年)2月に音楽取調掛に伝習生として入学。ピアノを鳥居忱、瓜生繁子、ギヨーム・ソーヴレーに、唱歌を上真行に学んだ。またこれ以前にヴィオラをフランツ・エッケルトから習っていたこともある。
橋本 圭三郎(はしもと けいざぶろう、1865年11月11日… 橋本 圭三郎(はしもと けいざぶろう、1865年11月11日(慶応元年9月23日) - 1959年(昭和34年)2月14日)は、日本の官僚・実業家。貴族院議員。新潟県長岡市千手町出身。 長岡藩士・橋本弥十郎の長男として生まれる。1884年(明治17年)に長岡学校を卒業、育英団体である長岡社の支援を受けて上京、大学予備門へ進学。1890年(明治23年)、東京帝国大学を卒業して法制局に入り、1893年に枢密院書記官となる。 その後、大蔵省へ移り、欧米出張を経て1905年(明治38年)に横浜税関長、1907年(明治40年)に主計局長、1911年(明治41年)には大蔵次官となる。さらに、1912年(明治42年)12月5日に貴族院議員に勅選され、1946年(昭和21年)まで努めた。
窪田 静太郎(くぼた せいたろう / しずたろう、1865年… 窪田 静太郎(くぼた せいたろう / しずたろう、1865年11月10日(慶応元年9月22日) - 1946年10月6日)は、日本の内務官僚、法学者、社会事業家。法学博士、行政裁判所長官、枢密顧問官。 岡山藩学師範教授・窪田善之の長男として生まれる。岡山中学、第一高等学校を経て、1891年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を首席で卒業した。内務省に入省し、後藤新平のもとで日本の保健衛生制度の確立に尽力。伝染病予防法、癩予防法などの制定を推進した。医者ではない事務官として初めて衛生局長に就任した。また後藤の影響から、狭義の衛生政策のみならず社会問題・社会政策全般に関心を抱き、社会政策学会が発足するとその会員となった。
四代目 橘家 圓喬(たちばなや えんきょう、1865年11月… 四代目 橘家 圓喬(たちばなや えんきょう、1865年11月9日(慶応元年9月21日) - 1912年(大正元年)11月22日)は、落語家。本名:柴田 清五郎。 1865年11月9日(慶応元年9月21日)、本所柳原(現在の東京都墨田区江東橋近辺)の生まれ、父は江戸幕府の御家人。元の名字は桑原で、養子になり柴田になったと思われる。近所に義理の姉婿であった四代目橘家圓太郎が住んでおり、叔父が三遊亭圓朝の贔屓客だった関係で幼いころから寄席の楽屋に出入りするようになった。 1872年に7歳で三遊亭圓朝門下に入門し三遊亭朝太を名乗る。1878年に二ツ目昇進し、二代目三遊亭圓好に改名。このころから四代目三遊亭圓橘の助言で素噺に転向するが、周囲の評判が悪く廃業。
関場 不二彦(せきば ふじひこ、1865年11月7日(慶應1… 関場 不二彦(せきば ふじひこ、1865年11月7日(慶應1年9月19日)- 1939年(昭和14年)8月25日)は、日本の外科医、医史学者である。スクリバ門下十哲の一人で、北海道医学界の中心的存在であった。北海道医師会、札幌医師会の初代会長。『卵巣腫瘍ノ臨床上知見及外科的療法ノ追加』で医学博士(東京帝大)。 戦国時代末期は蒲生家に仕え、江戸時代中期に会津松平家家臣となる。曽祖父は北方警備で利尻島に赴き現地で病没(28歳)。祖父は戊辰戦争時に敢死隊指図役として若松城下で討死にした(62歳)。父の忠武は朱雀隊士で、斗南藩権少属を経て、青森県に採用され県の東京出張所員として上京。のち内務省官吏となる。
松本 亦太郎(まつもと またたろう、1865年11月3日(慶… 松本 亦太郎(まつもと またたろう、1865年11月3日(慶応元年9月15日) - 1943年(昭和18年)12月24日)は、日本の心理学者。旧姓は飯野、1879年松本家の養子となる。
綾香 造酒太郎(あやか みきたろう、元治元年〈1864年〉1… 綾香 造酒太郎(あやか みきたろう、元治元年〈1864年〉11月24日 - 没年不詳)は、長崎県北松浦郡中野村の漁業家。明治25年(1892年)の暴風雨に際し、遭難した漁夫を断崖絶壁から救出した功績により、明治26年(1893年)に紅綬褒章を受章した 。 綾香造酒太郎は、長崎県北松浦郡中野村(現平戸市)で先代弁蔵の次男として生まれ、家業である漁業に従事した。幼少より漁業を学び、水泳にも優れ、14歳で一人前の漁師と認められた。剛毅で任侠心が厚く、同情心に富んだ人物として知られた。 明治25年11月23日、玄界灘が暴風雨に襲われた際、同村白江沖で広島県安芸郡瀬戸島村の漁夫らが乗る漁船が難破した。遭難者は約20尋(約36m)断崖の下の岩角にしがみついたが、満潮により命の危険にさらされた。
井出 繁三郎(いで しげさぶろう、1864年11月20日(元… 井出 繁三郎(いで しげさぶろう、1864年11月20日(元治元年10月21日)- 1932年(昭和7年)12月12日)は、日本の鉄道官僚、政治家。衆議院議員。 出羽国由利郡、後の本荘町(現由利本荘市)で井出章造の長男として生まれる。1891年、帝国大学法科大学法律学科を卒業。 司法省に入省し、司法官試補、東京地方裁判所検事を歴任。1896年、逓信省に転じ、鉄道事務官、逓信省書記官・通信局鉄道船舶課長、鉄道院参事、同理事、同北海道鉄道管理局長を務め、1915年に退官。1919年、鉄道院神戸鉄道管理局長として復帰し、東京鉄道管理局長に異動。1920年、鉄道省が発足すると監督局長に就任し1923年まで在任した。
菊池 寿人(きくち ひさと、元治元年10月20日(1864年… 菊池 寿人(きくち ひさと、元治元年10月20日(1864年11月19日) - 昭和17年(1942年)9月30日)は、日本の教育者。 岩手県紫波郡紫波町出身。1893年(明治26年)、東京帝国大学文科大学国文科を卒業し、さらに大学院で学んだ。1896年(明治29年)、陸軍教授となり、1898年(明治31年)に第一高等学校教授に転じた。1919年(大正8年)、第一高 等学校校長に就任し、1924年(大正13年)に退官した。 退官後は第一高等学校講師・東洋大学講師を務め、1931年(昭和6年)に第一高等学校名誉教授の称号を受けた。
菅 虎雄(すが とらお、1864年11月17日(元治元年10… 菅 虎雄(すが とらお、1864年11月17日(元治元年10月18日) - 1943年(昭和18年)11月13日)は、明治-昭和前期の日本のドイツ語学者・書家。号は無為、白雲、陵雲。夏目漱石の親友で、第一高等学校の名物教授としても知られた。芥川龍之介から尊敬され、芥川の処女刊行本『羅生門』の題字の揮毫をした挿話も有名である。 筑後国御井郡呉服町(現・福岡県久留米市城南町)の医師、菅京山の次男として生まれた。1880年(明治13年)、17歳の時上京し、1891年(明治24年)日本初のドイツ文学士として帝国大学文科大学独逸文学科を卒業する。卒業後、教師として、東京外国語学校、第五高等学校、第三高等学校教授等を歴任。
渡辺 勘十郎(わたなべ かんじゅうろう、元治元年10月17日… 渡辺 勘十郎(わたなべ かんじゅうろう、元治元年10月17日(1864年11月16日) - 大正15年(1926年)10月4日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。星亨の門下。 豊前国宇佐郡柳ヶ浦村(現在の大分県宇佐市)に今井紋平の四男として生まれ、渡辺久太郎の養子となった。星亨の書生を経て、1889年(明治22年)に英吉利法律学校(現在の中央大学)を卒業し、渡米。サンフランシスコで日本人愛国同盟を組織し、帰国後に殖民協会を設立し、移民事業に従事した。1900年(明治33年)に自由通信社を組織し、1902年(明治35年)には赤坂区会議員に選出された。1905年(明治38年)、東京市助役に就任した。
田中 隆三(たなか りゅうぞう、1864年11月14日〈元治… 田中 隆三(たなか りゅうぞう、1864年11月14日〈元治元年10月15日〉- 1940年〈昭和15年〉12月6日)は、明治から昭和初期の農商務官僚・政治家である。衆議院議員。文部大臣。族籍は秋田県士族。 出羽国楢山(のち秋田県秋田市)出身。田中隆世の長男。秋田中学校(現:秋田県立秋田高等学校)、大学予備門、1889年(明治22年)7月に帝国大学法科大学卒業。農商務省鉱山局長・農商務次官を経て、その後実業界に入り秋田鉱山専門学校(現:秋田大学工学資源学部)の設立に尽力した。ついで政界に転じ、1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙で当選した。濱口内閣・第2次若槻内閣で文部大臣を務め、議員を7期務めて1932年(昭和7年)に引退した。
成清 博愛(なりきよ ひろえ、1864年11月13日(元治元… 成清 博愛(なりきよ ひろえ、1864年11月13日(元治元年10月14日)- 1916年(大正5年)1月18日)は、明治から大正前期の実業家、政治家。衆議院議員、福岡県山門郡小川村長。号・的山(てきざん)。金山王と称された。 筑後国山門郡、のちの福岡県山門郡小川村 (瀬高町を経て現みやま市)で生まれた。柳川藩儒者・西田麗川に師事し漢学を修めた。1887年(明治20年)慶應義塾に入塾したが、1888年(明治21年)病のため中退して帰郷した。 1890年(明治23年)小川村会議員に選出され、九州改進党の結成に尽力した。政治活動資金を捻出するため炭坑、金山の経営に乗り出したが失敗し財産を失うが、小川村長、山門郡会議員、福岡県会議員、瀬高銀行取締役などを務めた。
浜田 政壮(濱田 政壯、はまだ まさたけ、1864年11月1… 浜田 政壮(濱田 政壯、はまだ まさたけ、1864年11月10日(元治元年10月11日)- 1937年(昭和12年)3月2日)は、明治から昭和初期の医師、政治家。衆議院議員、宮崎県会議長。旧姓は池田。 日向国諸県郡、のちの宮崎県東諸県郡倉岡村(現宮崎市)で、池田政順の二男として生れ、薩摩藩郷士・浜田戸太の養子となる。宮崎学校で中等教育を修め、高鍋の城竹窓に師事し漢学を修めた。1884年(明治17年)鹿児島県立医学校(のち県立鹿児島医科大学、現鹿児島大学)を卒業。上京して高木兼寛に医学を学び、1887年(明治20年)3月、医術開業免許を取得した。 その後、宮崎町(現宮崎市)で医院を開業。1896年(明治29年)伝染病研究所(現東京大学医科学研究所)講習科を卒業。
吉岡 順作(よしおか じゅんさく、元治元年10月11日(18… 吉岡 順作(よしおか じゅんさく、元治元年10月11日(1864年11月10日) - 昭和19年(1944年)9月3日)は、山梨県出身の医師。 甲斐国山梨郡徳条村(現・笛吹市春日居町)に、医家であった父・応治の長男として生まれる。明治12年(1879年)に山梨県立医学校に入学し、明治16年(1883年)3月に徽典館医学科(山梨県立医学校から改名)を卒業後、東京に出て田代基徳について医学を修め済生学舎に通学し、明治20年(1887年)4月に医師開業免状を受け東八代郡石和村に医院を開業。明治21年(1888年)3月には西山梨郡甲運村(現・甲府市)に移転、その後、明治23年(1990年)に東山梨郡岡部村、明治30年代に生春医院の名称で石和村、明治40年(1907年)に甲府市富士川町に移転している。
発智 庄平(ほっち しょうへい、1864年11月4日〈元治元… 発智 庄平(ほっち しょうへい、1864年11月4日〈元治元年10月5日〉- 1936年〈昭和11年〉2月28日)は、日本の教育者、実業家、社会事業家。埼玉・笠幡村の大地主・発智家の27代目当主で埼玉県多額納税者。黒須銀行頭取、霞ヶ関村村長、埼玉育児院院長のほか、武州銀行(黒須銀行後身)、武州貯蓄銀行、日米生糸の役員などを務め、霞ヶ関カンツリー倶楽部の創設者でもある。 埼玉の黒須村(現入間市)で代々名主役を務めた豪農商・繁田家の12代繁田武平(満義)の長男・亀太郎として生まれ、親戚の発智家の養嗣子となり、埼玉県師範学校高等師範科卒業後、黒須高等小学校を設立し校長となる。 日本弘道会の西村茂樹の講演に触発されて、弟の13代繁田武平(翠軒)と同会の支部と黒須信用組合を1894年に設立、1898年には霞が関村支部も設立して西村の唱える「道徳と経済」の調和と活性化を図り、弘道会の全国集会では「農民の道徳」と題した演説も行なった。
井上 広居(いのうえ ひろやす、元治元年10月4日(1864… 井上 広居(いのうえ ひろやす、元治元年10月4日(1864年11月3日) – 昭和31年(1956年)6月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会→憲政会)や秋田市長(第6代)を務めた。 久保田藩士小貫久之進の二男で、井上福治の養子となった (秋田市手形新町上丁住)。漢学を学んだ後、上京して東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学した。1886年(明治19年)に卒業した後は、秋田魁新報社に入社し、やがて主筆、さらに社長に就任した。 1892年(明治25年)、秋田市会議員に当選した。市参事会員、市会議長を歴任し、また県会議員、県参事会員、県会議長にも就任した。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
田中 秀治郎(たなか ひでじろう、1863年11月30日(文… 田中 秀治郎(たなか ひでじろう、1863年11月30日(文久3年10月20日)- 1922年(大正11年)8月30日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 筑前国怡土郡、後の長糸村(現福岡県糸島市)で、田中喜蔵の二男として生まれる。福岡の正木昌陽、豊前中津の大久保啓蔵から漢籍を学ぶ。1902年(明治35年)東京法学院を卒業した。 大阪で染色を学び福岡市東中洲で染色業を営んだ。その後帰郷して、長糸村役場に就職し兵事係となる。1892年(明治25年)長糸村会議員に選ばれ、さらに学務委員、福岡県会議員、糸島郡会議員、同参事会員、糸島銀行常務取締役などを務めた。1902年8月、第7回衆議院議員総選挙(福岡県郡部)で当選し、衆議院議員を1期務めた。
植村 俊平(うえむら しゅんぺい、1863年11月29日 (… 植村 俊平(うえむら しゅんぺい、1863年11月29日 (文久3年10月19日) - 1941年(昭和16年)11月19日)は、日本の政治家。大阪市長。 山口県士族・植村島之丞の二男として生まれる。成立学舎などを経て、大学予備門、1886年(明治19年)7月東京大学法学部首席卒業。翌年には助教授。イギリスに留学し、法廷弁護士の称号を得て帰国。1892年(明治25年)、代言人(弁護士)に。英吉利法律学校(のちの中央大学)などで講義する。その後、日本銀行文書局長時代には、日本銀行幹部ストライキ事件に連座して免職させられた。このストライキで中上川彦次郎も介入したため、中上川と対立して三井を辞めていた岩下清周(三井銀行大阪支店長、慶應・一橋中退、三菱商業学校出身)が、東大出身の日銀幹部らを住友本店に呼び寄せたとされ、植村もその斡旋で住友入りした。
江藤 新作(えとう しんさく、1863年11月27日(文久3… 江藤 新作(えとう しんさく、1863年11月27日(文久3年10月17日) - 1910年(明治43年)1月6日)は、明治時代の政治家、衆議院議員。幼名松次郎。号は節山。初代司法卿、江藤新平の次男。次男は江藤夏雄(衆議院議員)。 江藤新平の次男として佐賀に生まれる。1874年(明治7年)に父・新平が佐賀の乱に敗れ刑死すると、新平の弟の源作に引き取られた。新作の名は父と叔父から1字ずつ取ったものである。1878年(明治11年)に佐賀県参事や水戸裁判所長などを歴任した元佐賀藩士の家永恭種が開いた戊寅義学に入学。また1883年(明治16年)に4歳年上の兄・熊太郎が23歳で亡くなると江藤家の家督を継いでいる。
布施 甚七(ふせ じんしち、1863年11月27日(文久3年… 布施 甚七(ふせ じんしち、1863年11月27日(文久3年10月17日) - 1919年(大正8年)2月10日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 上総国山辺郡辺田方村(のち千葉県山武郡東金町、現・東金市)出身。生家は地主で、普通学を学ぶ。農業を営み、東金町会議員、連合町村会議員、郡所得税調査委員、東金町長、山武郡会議員、千葉県会議員となる。また、(株)東金銀行頭取、横芝銀行取締役等を務めた。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において千葉5区から自由党公認で立候補して初当選。同年8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政党公認で立候補して再選した。1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。
荒井 賢太郎(あらい けんたろう、1863年11月25日〈文… 荒井 賢太郎(あらい けんたろう、1863年11月25日〈文久3年10月15日〉- 1938年〈昭和13年〉1月29日)は、日本の官僚・政治家。新潟県士族。 農商務大臣、枢密院副議長などの要職を歴任した。 新潟県出身。高田藩士荒井直静の子。新潟師範学校(現在の新潟大学教育学部)を卒業し、一時小学校で教鞭を取った後、上京。帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)でフランス法を修める。同期には、若槻礼次郎(後の内閣総理大臣)、安達峰一郎らがおり首席を競う。 1892年(明治25年)に帝国大学を卒業した後、大蔵省に入省。大臣官房第二課に配属。主計局予算決算課長、主計局長などの要職を歴任した。大蔵省時代には、和仏法律学校(現在の法政大学)の講師も務めている。
北島 伝四郎(傳四郎、きたしま でんしろう、1863年11月… 北島 伝四郎(傳四郎、きたしま でんしろう、1863年11月22日(文久3年10月12日)- 1924年(大正13年)9月16日)は、明治から大正期の裁判官、弁護士、地主、政治家。衆議院議員。本姓・北嶋。 出羽国秋田郡浦大町村字里ケ久(秋田県秋田郡浦大町村、南秋田郡浦大町村、面潟村浦大町を経て現八郎潟町浦大町)で、地主、素封家・北島吉右衛門の二男として生まれた。宇野弥三郎、谷田部吉次に師事し和漢学、英語を修めた。1886年(明治19年)上京して英吉利法律学校(現中央大学)で学び、1889年(明治22年)9月に卒業。 1889年12月27日、判事試補に任官し弘前始審裁判所詰となる。以後、弘前区裁判所判事兼青森地方裁判所判事、秋田区裁判所監督、本荘区裁判所監督、大曲区裁判所監督、沼津区裁判所判事、横浜地方裁判所判事を歴任。
小室 縫之助(こむろ ぬいのすけ、1863年11月22日〈文… 小室 縫之助(こむろ ぬいのすけ、1863年11月22日〈文久3年10月12日〉 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家。日本工業常務取締役。旧姓・芦田。 京都府何鹿郡綾部町(現・綾部市)、芦田信治の次男。小室静三の養子となる。静三の長女べんと結婚する。後に本籍を宮津町字魚屋に移す。20歳の頃に京都日報に入り、編輯課に従事する。宮津町へ移転と同時に丹州汽船会社に入り支配人となり、1892年2月に辞職。 1887年3月、大阪控訴院で公証人登用試験に合格、また与謝郡郡会議員に当選、任期満了により退職する。1892年4月に司法省より公証人を命じられ、1904年4月に願いにより職を免ぜられる。 1904年、支那杭州で武林洋行を設立し、大阪店主任となる。
上郎 清助(こうろ / こうろう せいすけ、旧姓・吉田、18… 上郎 清助(こうろ / こうろう せいすけ、旧姓・吉田、1863年11月17日〈文久3年10月7日〉 - 1938年〈昭和13年〉2月18日)は、日本の実業家、政治家、資産家、神奈川県多額納税者。 貴族院議員、神奈川県会議長、横浜市会議員。横浜中央銀行、上信銀行各頭取。横浜信託社長。族籍は神奈川県平民。 武蔵国橘樹郡大豆戸村(現・横浜市港北区大豆戸町)出身。吉田三郎兵衛の弟で、磯野庸幸、上郎新二の兄。生家の吉田家は屋号を「堀上(ほりあげ)」といい、天保年間より醤油の醸造をしていた。1893年、上郎幸八の女婿となる。1905年、分家して一家を創立する。 東京大学予備門を経て、1890年、帝国大学法科大学政治学科を卒業した。
松尾 富功禄(まつお ほくろく、1863年11月16日(文久… 松尾 富功禄(まつお ほくろく、1863年11月16日(文久3年10月6日) - 1930年(昭和5年)3月10日)は、日本の政治家。高知市長。 土佐国香美郡山田野地村(のち山田町→土佐山田町、現在の香美市)に生まれる。寺子屋で学び、下等小学校を卒業。漢学塾で学ぶ。香美郡役所に入り、筆生となる。山田駅逓局四等郵便局取扱役、三等郵便局長、香美郡会議員、同議長となる。1893年(明治26年)山田野地村に就任し、1921年(大正10年)まで務めた。この間、山田野地村は1896年(明治29年)山田町となり、同町長となった。ほか、高知県会議員となり、のちに議長となった。 1921年高知市長に就任。在任中に高知市が都市計画法の適用を受け、都市計画地方委員会が結成された。
宮下 一清(みやした いっせい、文久3年10月4日〈1863… 宮下 一清(みやした いっせい、文久3年10月4日〈1863年11月14日〉 - 1945年〈昭和20年〉2月18日)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本の弁護士、政治家である。政界では長野県会議員・長野市会議員や衆議院議員(当選1回)を歴任し、他に実業界で長野新聞初代社長を務めた。 文久3年10月4日(新暦:1863年11月14日)、信濃国更級郡今里村(現在の長野県長野市)に生まれる。村の小学校を卒業したのち高井鴻山の高矣義塾で漢学を修める。1881年(明治14年)には長野県師範学校に入学するも年内に退学し、翌年より明治法律学校(明治大学の前身)法律学科に入学、1884年(明治17年)に卒業した。
山本 竟山(やまもと きょうざん、文久3年9月28日〈186… 山本 竟山(やまもと きょうざん、文久3年9月28日〈1863年11月9日〉 - 1934年〈昭和9年〉1月24日)は、近代日本の書家。名は由定。竟山、聾鳳と号した。美濃国厚見郡岐阜町(現在の岐阜県岐阜市)の出身。 書は日下部鳴鶴に師事した。明治35年(1902年)楊守敬を慕って清国(現在の中国)に渡り書法を学んだ。以後中国に遊学すること7回に及んだ。そこで楊守敬のほか呉昌碩、顧麟士らと交流して書学を研鑽し、多数の法帖碑版を日本へもたらした。明治時代の末には京都へ転居し多くの子弟を教育して関西の書壇に新風を吹き込んだ。学書の基本をいつも古典の臨書においていた人であり、個性を尊び、創造性と自主性のある書を書くことを心がけたという。
一力 健治郎(いちりき けんじろう、文久3年9月25日(18… 一力 健治郎(いちりき けんじろう、文久3年9月25日(1863年11月6日) - 昭和4年(1929年)11月5日)は、日本の実業家。河北新報社創業者(社主)。旧姓鈴木。宮城県平民。 河北新報元社長の一力次郎の父。元河北新報社社主の一力一夫の祖父。河北新報社社長の一力雅彦の曾祖父。囲碁棋士の一力遼の高祖父。 太町の唐物商の鈴木作兵衛の四男として生まれた。後に隣家の茶商である一力松治郎の養子となる。東華学校、第二高等中学校を卒業後、上京。国民英学会にて学ぶ。また、第二高等中学在学中には、くまじ夫人との間にすでに、一男一女をもうけていた。 仙台での書店経営で実業界入りし、植林会社(宮城植林株式会社)を興し創業。
飯島 保作(いいじま ほさく、文久3年9月21日(1863年… 飯島 保作(いいじま ほさく、文久3年9月21日(1863年11月2日) - 昭和6年(1931年)7月26日)は明治時代から昭和時代初期の日本の実業家。第十九国立銀行頭取。号は花月。 信濃国小県郡上田城下(現長野県上田市)の和泉家に生まれ、のち飯島家の養子となった。小学校を卒業して三等郵便局長となる。一時政治に関心を持ち、立憲改進党系の結社・己丑倶楽部に入って活躍。明治29年(1896年)小県郡上田町の収入役、明治32年(1899年)小県郡会議員となる。一方、諏訪倉庫や上田倉庫の取締役、上田商業会議所会頭などを歴任して経済界に腕を振るう。 大正8年(1919年)第十九国立銀行頭取に就任、昭和恐慌に際し、松代の第六十三国立銀行との合併による八十二銀行の創立に奔走したが、合併直前に腸チフスで急逝した。
大村忠二郎(おおむら ちゅうじろう、1862年11月27日 … 大村忠二郎(おおむら ちゅうじろう、1862年11月27日 – 1921年9月3日)は岡山県出身の教育者。大阪府第一高等女学校(現・大阪府立清水谷高等学校)初代校長で、大阪における女子教育の第一人者。
小杉 善助(こすぎ ぜんすけ、1862年11月23日〈文久2… 小杉 善助(こすぎ ぜんすけ、1862年11月23日〈文久2年10月2日〉 - 1929年〈昭和4年〉2月8日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。福島県福島市長。 先代善助の長男として、のちの福島市荒町に生まれる。1889年(明治22年)27歳で福島町会議員に当選。1894年(明治27年)福島蚕糸米穀取引所を設立し、翌年理事長。1903年(明治36年)福島県農工銀行監査役となり、1907年(明治40年)福島市会議長、1911年(明治44年)福島県会副議長を経て、1925年(大正14年)9月、福島市長に就任した。1929年(昭和4年)2月、在任中に死去した。
関口 松太郎(せきぐち まつたろう、1862年11月23日(… 関口 松太郎(せきぐち まつたろう、1862年11月23日(文久2年10月2日) - 1937年(昭和12年)12月29日)は日本の政治家。岩手県宮古町(現・宮古市)長、田老村(現・宮古市)長、岩手県会議員。 陸奥国閉伊郡花輪村(のち陸中国閉伊郡花輪村→岩手県東閉伊郡花輪村→下閉伊郡花輪村、現・宮古市)に生まれる。1883年東閉伊郡長沢村(のち花輪村)戸長役場書記となり、兵役を経て、東閉伊郡田鎖村外四ヶ村役場、東閉伊郡・北閉伊郡・中閉伊郡役所、下閉伊郡役所、重茂村長、下閉伊郡役所庶務兼財政課長などを経て、1908年宮古町長に当選する。その後、下閉伊郡会議員となり、1925年田老村長に就任する。1927年岩手県会議員に当選。
黒岩 涙香(くろいわ るいこう、文久2年9月29日〈1862… 黒岩 涙香(くろいわ るいこう、文久2年9月29日〈1862年11月20日〉- 大正9年〈1920年〉10月6日)は、日本の小説家、思想家、作家、翻訳家、ジャーナリスト。本名は黒岩 周六(くろいわ しゅうろく)。兄は黒岩四方之進。ペンネームの由来は、黒岩が愛読していた『紅涙香』に由来する。黒岩涙香のほか、香骨居士、涙香小史、冷眼士等、歯月生などの筆名を用いた。号は古概、民鉄、正調庵、黒岩大。執拗な取材を行うことから「マムシの周六」というあだ名がつけられた。翻訳家、作家、記者として活動し、『萬朝報』を創刊した。戒名は黒岩院周六涙香忠天居士。 土佐国安芸郡川北村大字前島(現在の高知県安芸市川北)で土佐藩郷士・黒岩市郎の子として生まれる。
荒川 義太郎(あらかわ よしたろう、1862年 11月19日… 荒川 義太郎(あらかわ よしたろう、1862年 11月19日(文久2年9月28日)- 1927年(昭和2年)4月1日)は、日本の内務官僚・政治家。官選県知事、横浜市長、貴族院議員、錦鶏間祗候。 荒川利貞の長男として武蔵国豊島郡に生まれる。1884年、東京大学法学部を卒業し、内務省に入り御用掛となる。 1886年8月、岡山県書記官に就任。以後、内務省参事官、富山県・群馬県・神奈川県の各書記官、兼臨時横浜築港局次長などを歴任。 1897年11月、35歳の若さで鳥取県知事に就任。産業振興、賀露港修築を推進した。1899年5月、三重県知事に転じた。1900年1月、香川県知事となり、同年10月には長崎県知事に転じた。
大竹 多氣(おおたけ たけ/おおたけ たき、文久2年10月7… 大竹 多氣(おおたけ たけ/おおたけ たき、文久2年10月7日(1862年11月16日) - 大正7年(1918年)7月19日)は、日本の工学者。 専門は繊維工学。日本の染色技術、毛織物工業の近代化に貢献。学位は、工学博士。千住製絨所長を経て、米沢高等工業・桐生高等染織学校の初代校長を歴任。位階勲等は従三位勲二等。ペンネームは大竹美鳥、みどり、雅号碧玉。 父は会津藩士松田俊蔵である。会津時代の松田家は御薬園付近にあったが、藩の蝦夷地支配に従って同地に赴き、大竹は現在の北斗市に生まれた。四男であった大竹は慶応3年(1867年)に同藩士大竹作右衛門元一の養子となる。長兄精介は鳥羽・伏見の戦いに参戦し、箱館戦争を戦った。
久芳 直介(くば なおすけ、1862年11月14日(文久2年… 久芳 直介(くば なおすけ、1862年11月14日(文久2年9月23日) - 没年不詳)は、明治時代の日本の官吏、官僚。台湾総督府税務官、台湾土地調査局事務官兼監督官、朝鮮総督府事務官・総務局人事課長、埼玉県司税官を務めた。 長門国厚狭郡二俣瀬村(現在の山口県宇部市)で生まれる。 大阪・英和学舎(現在の立教大学)を卒業した。 1886年、大蔵省御用掛に任命され、埼玉県収税属、埼玉県大蔵属を経て、1898年、埼玉県司税官に任命される。 1902年、台湾土地調査局事務官兼監督官に就任したのち、台湾総督府税務官を務める。 1904年、日韓協約が成立するとすぐに目賀田種太郎財政顧問補佐として韓国政府に招聘される。
森田 庄兵衛(もりた しょうべえ、1862年11月12日(文… 森田 庄兵衛(もりた しょうべえ、1862年11月12日(文久2年9月21日)- 1924年(大正13年)11月5日)は、明治から大正期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 紀伊国伊都郡丁ノ町村(和歌山県伊都郡妙寺村、妙寺町を経て現かつらぎ町)で、酒造業・森田正治の長男として生まれる。1879年(明治12年)に上京して慶應義塾で学び、1882(明治15年)に帰郷した。父の隠居に伴い1883年(明治16年)4月に家督を相続した。 その後、英語、数学、漢学、修身、習字を教授する伊都郡自助私学校を設立し、夜間部も設け、英語教師に英文学者河島敬蔵を招き、地域の子弟の育成に貢献したが、1887年(明治20年)に閉校した。
西田 千太郎(にしだ せんたろう、1862年11月9日(文久… 西田 千太郎(にしだ せんたろう、1862年11月9日(文久2年9月18日) - 1897年(明治30年)3月15日)は、島根県出身の日本の教育者。小泉八雲が最も信頼を寄せた人物として知られる。 文久2年(1862年)、現在の島根県松江市雑賀町の西田家で長男として生まれた。父西田平兵衛は松江藩士で、明治維新後は県庁で働いた。 1876年(明治9年)5月に雑賀南小学校を卒業、同年9月に教員伝習校変則中学科(旧制松江中学校)に入学した。同窓には岡本金太郎、本庄太一郎、志立鉄次郎、長谷川辰之助などがいた。成績は常に首席であったが、1880年(明治13年)9月に同校を中退しすぐに授業手伝となった。翌1881年(明治14年)1月には教諭試補に任ぜられた。
串本 康三(くしもと こうぞう、1862年11月5日(文久2… 串本 康三(くしもと こうぞう、1862年11月5日(文久2年9月14日) - 1919年(大正8年)1月21日)は、日本の政治家、衆議院議員(4期)。勲等は勲四等。 広島県安芸郡奥海田村(現・海田町)出身。奥海田村会議員、広島市会議員、広島県会議員となる。また、広島汽船、関西皮革各(株)取締役、広島電気軌道(株)監査役を務めた。 1898年(明治31年)の第6回衆議院議員総選挙において広島1区から憲政党公認で立候補して当選した。1902年(明治35年)の第7回衆議院議員総選挙で落選。1903年(明治36年)の第8回衆議院議員総選挙において立憲政友会公認で立候補して復帰した。1904年(明治37年)の第9回衆議院議員総選挙で落選。
嶺山 時善(みねやま ときよし、1862年11月4日(文久2… 嶺山 時善(みねやま ときよし、1862年11月4日(文久2年9月13日) - 1930年(昭和5年)10月28日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 鹿児島県出身。鹿児島師範学校卒(年代不明)。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において大島選挙区から無所属で立候補したが落選した。1903年の第8回衆議院議員総選挙で政友倶楽部公認で立候補して初当選した。1904年の第9回衆議院議員総選挙では無所属で立候補して再選した。衆議院議員を2期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙では大同倶楽部から立候補したが落選した。以後の立候補はなく、1930年に死去した。
釜屋 忠道(かまや ちゅうどう、1862年11月4日(文久2… 釜屋 忠道(かまや ちゅうどう、1862年11月4日(文久2年9月13日) - 1939年(昭和14年)1月19日)は、日本の海軍軍人。手旗信号の改良で功績があり、日清戦争では第一遊撃隊参謀、日露戦争では「龍田」「佐渡丸」の艦長として歴戦した海軍中将である。旧名は源五郎。 幕末の米沢に生まれる。海軍兵学校11期を26名中15番で卒業した。村上格一、川島令次郎らが同期生である。米沢では小森沢長政の影響があり、山下源太郎(10期)、上泉徳弥(12期)、黒井悌次郎(13期)、千坂智次郎(14期)、釜屋の弟である釜屋六郎(14期、のち中将)などの海兵進学が続き、のちに米沢の海軍と呼ばれることとなる。 釜屋は水雷練習所の教官や、水雷団長などを務めた水雷を専門とする士官であった。
河内 礼蔵(かわち れいぞう、1862年11月1日(文久2年… 河内 礼蔵(かわち れいぞう、1862年11月1日(文久2年9月10日) - 1927年2月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県種子島出身。西之表納曽生まれ。1885年(明治18年)6月、陸軍士官学校(旧7期)を卒業し歩兵少尉に任官。 日露戦争に出征。遼陽会戦前の1904年(明治37年)8月、前任の吉田貞中佐の戦死により歩兵第4連隊長に就任。1905年(明治38年)3月、戦傷を受け解任。1906年(明治39年)2月、歩兵第4連隊長に復帰し、1907年(明治40年)11月、歩兵大佐に昇進。1911年(明治44年)9月、陸軍少将に進級し歩兵第15旅団長に就任。 1915年(大正4年)2月、歩兵第35旅団長に転じた。
松本 金太郎(まつもと きんたろう、1861年11月27日(… 松本 金太郎(まつもと きんたろう、1861年11月27日(文久元年10月25日)- 1938年(昭和13年)12月11日)は、日本の農業関係者、政治家。衆議院議員、埼玉県秩父郡影森村長。 武蔵国秩父郡上影森村(のち埼玉県秩父郡影森村、現:秩父市)で生まれる。漢学を修めた。 影森村会議員、同助役、同収入役、同村長、秩父郡会議員、同参事会員、同議長、埼玉県会議員、同参事会員、小作調停委員などを歴任。 1924年5月に第15回衆議院議員総選挙で埼玉県第六区から選出された加藤政之助が、貴族院勅選議員に任じられたことに伴い、1927年6月の補欠選挙に出馬して当選し、立憲民政党に所属して衆議院議員を一期務めた。
辻 寛(つじ ゆたか、文久元年10月24日(1861年11月… 辻 寛(つじ ゆたか、文久元年10月24日(1861年11月26日) - 昭和4年(1929年)9月24日)は、衆議院議員(立憲政友会→立憲同志会→憲政会)、ジャーナリスト。 伊勢国三重郡水沢村(現在の三重県四日市市)に辻武平治の長男として生まれる。東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業後、三重県山田郡立中学校の教諭に任じられた。その後、三重新聞社の社長として経営にあたり、また雑誌「三重県人」の主幹となった。 三重県会議員を経て、1904年(明治37年)の第9回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第11回・第12回でも再選された。 その他、三重県農工銀行の監査役も務めた。
牧野 伸顕(まきの のぶあき、1861年11月24日〈文久元… 牧野 伸顕(まきの のぶあき、1861年11月24日〈文久元年10月22日〉- 1949年〈昭和24年〉1月25日)は、日本の官僚、政治家。位階は従一位。勲等は勲一等。爵位は伯爵。名は「シンケン」と音読みされることもある。幼名は伸熊(のぶくま)。以前の諱は是利(これとし)。 大久保利通は父、吉田茂は娘婿、寬仁親王妃信子と麻生太郎は曾孫にあたる。 1861年11月24日(文久元年10月22日)、薩摩国鹿児島城下加治屋町猫之薬師小路に薩摩藩士で維新の三傑の一人・大久保一蔵(のちの利通)と妻・満寿子の次男として生まれた。生後間もなく父・利通の義理の従兄弟にあたる牧野吉之丞の養子となるが、1868年(慶応4年)に吉之丞が戊辰戦争における北越戦争で戦死したため、名字が牧野のまま大久保家で育った[要出典]。
酒井 佐保(さかい すけやす、文久元年10月21日(1861… 酒井 佐保(さかい すけやす、文久元年10月21日(1861年11月23日) - 大正7年(1918年)12月28日)は、日本の教育者。位階および勲等は従三位・勲二等。 高知県出身。1883年(明治16年)、東京大学理学部物理科を卒業した。茨城県第一中学校校長、海軍教授、第三高等学校教授を歴任。1899年(明治32年)、第六高等学校校長に就任し、1910年(明治43年)に第三高等学校校長に転任した。
佐藤 富十郎(さとう とみじゅうろう、1861年11月21日… 佐藤 富十郎(さとう とみじゅうろう、1861年11月21日(文久元年10月19日)- 1943年(昭和18年)8月16日)は、明治から昭和前期の養蚕家、林業家、政治家。衆議院議員。 陸奥国伊達郡、のちの福島県伊達郡小手川村(月舘町を経て現伊達市)で、佐藤長十郎の長男として生まれ、1882年(明治15年)11月に家督を相続した。漢学を修め、のち早稲田大学校外生として政治経済学を学ぶ。 養蚕について研鑽し、養蚕実修学舎を設立して指導に当たり、また各県に養蚕教師として出張した。長年、森林業に従事し、東洋木材を設立して社長に就任した。 政界では相馬郡中村町会議員に在任。相馬地方の開発に貢献した。1924年(大正13年)5月、 第15回衆議院議員総選挙(福島県第10区、憲政会公認)では、前2回落選の同情票で有力候補松本孫右衛門を破って当選し、その後、立憲民政党に所属して衆議院議員に1期在任した。
池辺 義象(いけべ よしかた、1861年11月5日(文久元年… 池辺 義象(いけべ よしかた、1861年11月5日(文久元年10月3日) - 1923年(大正12年)3月6日)は、明治・大正時代の国文学者、歌人。号は「藤園」、「知旦」。 1861年、肥後国(現・熊本県)で熊本藩士・池辺軍次の次男として生まれた。1879年(明治12年)に19歳で伊勢の神宮教院(現・皇學館大学)に入学し、神道・国史・国学を学んだ。神宮教院時代からの同期には落合直文がいた。同教院が閉鎖となると上京し、1882年に東京帝国大学文科大学古典講習科に第一期生として入学。同級生には、落合直文や関根正直がいた。1886年に卒業。東京大学の恩師であった国文学者・小中村清矩の養子となり、小中村義象を名乗る。