蝦名 賢造(えびな けんぞう、1918年(大正7年)1月22… 蝦名 賢造(えびな けんぞう、1918年(大正7年)1月22日 - 2009年(平成21年)1月3日)は、日本の海軍軍人、経済学者、伝記作家。専門は財政学。獨協大学名誉教授。 1918年、青森県東津軽郡小湊町(現平内町)で生まれた。旧制巣鴨中学校・浦和高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学経済学部に進学。1941年、繰り上げ卒業。海軍兵科予備学生(1期)として海軍に入隊。連合艦隊司令部附となり、海軍甲事件で負傷した宇垣纏の秘書を務め、『戦藻録』の一部を筆記した。最終階級は海軍大尉。 1945年、巣鴨経済専門学校教授に就いた。1947年、北海道大学法文学部予科専任講師に転じた。1950年、北海道総合開発委員会事務局次長に就任。
野村 三郎(のむら さぶろう、1911年1月1日 - 198… 野村 三郎(のむら さぶろう、1911年1月1日 - 1985年)は、日本の陸軍軍人。陸軍士官学校在籍時に五・一五事件に連座して服役し、釈放後は満州での軍務を経て、ルーマニアなど東ヨーロッパにおける諜報活動に従事したとされる。音楽プロデューサーとして知られるジョニー野村の父、プロデューサー兼俳優の野村祐人の祖父。 士族であった父・野村興市(ないし、興一)と、母みねの三男として、青森県弘前市に生まれた。 弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)二年修了後、東京陸軍幼年学校卒業。歩兵第31連隊に入隊し、陸軍士官学校へ派遣された(第44期)。1932年5月15日の五・一五事件において首相官邸襲撃隊に加わり、1933年に陸軍軍法会議において懲役4年の判決が下り、豊多摩刑務所で服役した。
対馬 勝雄(つしま かつお、1908年(明治41年)11月1… 対馬 勝雄(つしま かつお、1908年(明治41年)11月15日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍歩兵中尉。 二・二六事件の反乱部隊に参加した青年将校の一人で、事件当日に首相官邸襲撃を実行し、事件後に死刑判決を受け、銃殺刑に処せられた。 青森県南津軽郡田舎館村垂柳の貧農の生まれ。 1915年(大正4年)春から青森師範学校附属尋常小学校に通い始め、成績優秀で3年から終業式の度に運動が優等として壇上に呼ばれたり、全科目の成績は10段階評価でほとんどが10であった。勉強好きで本を好んでいたが家計のことを考えて買って欲しいと頼むことはなかった。卒業式では総代となり、褒章に国漢文辞書を貰った。
山田 幸五郎(やまだ こうごろう、1889年9月10日 - … 山田 幸五郎(やまだ こうごろう、1889年9月10日 - 1982年7月23日)は、日本光学界の先駆者、海軍軍人、理学博士。最終階級は海軍技術少将。主に幾何光学中心に、光学機械、光学兵器の開発に寄与した。 青森県青森市出身。旧制青森県第三中学校(現青森県立青森高等学校)・旧制第一高等学校・東京帝国大学卒業。大学院で長岡半太郎に師事して輻射学を研究、長岡の推薦で技術士官(造兵官)として海軍に入り、光学兵器の研究を推進させた。青木小三郎、丸山修治らを育て、日本の光学兵器の水準を世界水準にまで高めた。 敗戦後、公職追放処分を受け、一時期は進駐軍の通訳などをして不遇の時期を過ごしたこともあった。 ロチェスター大学の客員教授となって以降は公職に復帰し、企業の取締役や大学教授などを歴任した。
阿部 規秀(あべ のりひで、1887年(明治20年) 9月8… 阿部 規秀(あべ のりひで、1887年(明治20年) 9月8日 ‐ 1939年(昭和14年) 11月7日)は、日本陸軍の軍人。陸士19期。最終階級は中将。正四位勲一等功三級(追贈)。 日中戦争にて八路軍との交戦中に戦死し、中将としては帝国陸軍の創設以来初の戦死者となった。 青森県旧北津軽郡七和村羽野木沢(現五所川原市)出身。衆議院議員・阿部武智雄の次男。就学前から一つ上の兄について行って小学校に出入りしており、教師の計らいで二年生に中途入学扱いとなる。そのため、兄と同学年として青森県立第一中学(現:青森県立弘前高等学校)に進学した。弘前では中士士族の鎌田家に下宿し、城陽館で剣道に打ち込んだ。 1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校を卒業。
毛内 效(もうない いさお、1884年10月12日 - 19… 毛内 效(もうない いさお、1884年10月12日 - 1936年5月16日)は日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 青森県青森市出身。弘前藩士毛内嘉胤の三男として生まれる。兄は陸軍少将毛内靖胤。弘前中学(現・青森県立弘前高等学校)、海軍兵学校(33期)、海軍大学校を経て、海軍大学校教官を務めた。佐世保海軍艦船部長、武蔵特務艦長、天龍、那珂、陸奥、尻矢、大泊艦長などを歴任した。航海術の権威で昭和7年(1932年)侍命となった。退役後は太平洋漁業会社顧問として、北洋漁業に関わった。 1936年(昭和11年)5月16日死去。同月18日に行われた葬送の際には、勅使が邸宅に訪れ幣帛が下賜された。
毛内 靖胤(もうない のぶたね、1880年3月1日 - 19… 毛内 靖胤(もうない のぶたね、1880年3月1日 - 1936年1月16日)は日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 青森県青森市出身。弘前藩士毛内嘉胤の長男として生まれる。毛内氏の嫡流で、毛内有之助の又甥にあたる。弟は海軍少将毛内效。 弘前中学(現・青森県立弘前高等学校)、陸軍士官学校(12期)を経て、明治34年(1901年)少尉となった。日露戦争に従軍後、陸軍大学校(22期)に入学した。卒業後、大正10年(1921年)朝鮮軍司令部附から大正11年(1922年)歩兵第75連隊長となった。後に歩兵から航空兵科に転身した。その後、所沢陸軍飛行学校教育部長、航空本部第一課長、航空本部検査部長、明野陸軍飛行学校長、航空本部総務部長、東京湾要塞司令官などを務めた。
浅田 良逸(あさだ りょういつ、1879年(明治12年)5月… 浅田 良逸(あさだ りょういつ、1879年(明治12年)5月18日 - 1958年(昭和33年)4月8日)は、大日本帝国陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。貴族院男爵議員。旧姓・笹森。 青森県弘前で笹森要蔵の五男として生まれ、陸軍大将・男爵浅田信興の養子となり、1927年(昭和2年)6月1日に男爵を襲爵した。 1899年(明治32年)11月21日陸軍士官学校(11期)を卒業後、1900年(明治33年)6月22日に歩兵少尉に任官。日露戦争に従軍し、陸軍大学校(22期、1910年11月卒業)に学び、1929年(昭和4年)8月1日に陸軍中将に至った。その間、近衛歩兵第2旅団副官、近衛歩兵第3連隊中隊長、参謀本部部員、陸軍歩兵学校研究部部員、歩兵第57連隊大隊長、教育総監部部員、陸軍大学校教官、歩兵第7連隊長、第11師団参謀長、歩兵第33旅団長、近衛師団司令部附、東京湾要塞司令官などを歴任した。
一戸 兵衛(いちのへ ひょうえ、1855年8月2日〈安政2年… 一戸 兵衛(いちのへ ひょうえ、1855年8月2日〈安政2年6月20日〉- 1931年〈昭和6年〉9月2日)は、日本陸軍の軍人。官位は陸軍大将正二位勲一等功二級。 教育総監、軍事参議官、第1・第4・第17師団長を歴任し、軍を退いてからは学習院院長・明治神宮宮司・帝国在郷軍人会長等の公職に就く。 弘前藩士一戸範貞の長男として生まれ、東奥義塾を経て1874年(明治7年)10月には陸軍士官生徒として陸軍兵学寮に入り、1876年(明治9年)3月には陸軍少尉試補・歩兵第2連隊付を命ぜられる。1877年(明治10年)の西南戦争に出征し、負傷する。同年5月、少尉に進級する。1878年(明治11年)2月、歩兵第1連隊付に移り、1880年(明治13年)5月には中尉に進級し陸軍教導団小隊長を命ぜられる。
神 辰太郎(じん たつたろう、1844年10月23日〈弘化元… 神 辰太郎(じん たつたろう、1844年10月23日〈弘化元年9月12日〉- 1925年〈大正14年〉12月16日)は、幕末の弘前藩士、明治期の海軍軍人。のちに機関長を歴任した。最終階級は海軍機関少監(機関少佐相当官)。本名・手塚冝道(のりみち)、宜道の表記あり。 陸奥国津軽郡弘前城下瓦ケ町(現青森県弘前市)で弘前藩の手塚家の生まれ。幕末に活躍した同藩士・神東太郎がいるが関係は不詳。 神家を継いで、慶応元年(1865年)に江戸に出て鉄砲洲慶應義塾に入学。明治2年(1869年)に兵部省「飛龍丸」二等士官、明治4年(1871年)に海軍少尉に任官。以後20年以上を機関関係の海軍士官として活躍し、「龍驤艦」機関長、「天城艦」機関長などを経て、1888年(明治21年)海軍機関少監に進み「金剛」機関長となる。