菅原 傳(すがわら でん、文久3年8月25日(1863年10… 菅原 傳(すがわら でん、文久3年8月25日(1863年10月7日) - 昭和12年(1937年)5月9日)は、明治から昭和時代前期の政治家。名は「つたう」とも読む。星亨の配下。 文久3年(1863年)、陸奥国遠田郡(現在の宮城県遠田郡涌谷町)に菅原応輔の二男に生まれる。大学予備門を経て帝国大学に学び、明治19年(1886年)渡米、パシフィック大学に学ぶ。在米中自由党に加盟し、1887年にサンフランシスコで在米日本人愛国同盟会(Japanese Patriotic League)を結成、機関紙『第十九世紀』を発行。同会は、米国オークランドで政治活動を行っていた山口熊野らのグループと、菅原らサンフランシスコの日本人留学生が結びついてできたもので、やや遅れて日向輝武、井上平三郎、井上敬次郎らが参加した。
菅原 師竹(すがわら しちく、1863年(文久3年)8月 -… 菅原 師竹(すがわら しちく、1863年(文久3年)8月 - 1919年(大正8年)3月24日)は日本の俳人。本名は賢五郎。旧姓:伊藤。 陸奥国登米郡登米(現・宮城県登米市)に生まれる。幼少期に元藩儒の中沢敬哉に経史を学ぶ。菅原家に養子になり、農業をする。旧派俳諧に属したが、1904年に安斎桜磈子と知り、共に日本派の俳句入る。1905年から河東碧梧桐の俳句の指導を受ける。新傾向時代初期に活躍し「師竹・桜磈子時代」を画す。「続春夏秋冬」「日本俳句鈔」などに多く句を収め、安斎桜磈子編「師竹句集」がある。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
今泉 定助(いまいずみ さだすけ、文久3年2月9日〈1863… 今泉 定助(いまいずみ さだすけ、文久3年2月9日〈1863年3月27日〉 - 昭和19年〈1944年〉9月11日)は、日本の神道家、思想家、国文学者。宮城県白石市出身。 神宮奉斎会会長。日本大学皇道学院院長。東洋文化研究所講師。前名は定介(さだすけ)、号は竹の屋主人。 東京大学古典講習科入学以来、明治時代は純粋な国文学者としての道を歩む。初代司法大臣山田顕義にかわいがられ、将来を嘱望され、皇典講究所の講師を依頼された。大正の初期に川面凡児の実践的神道論に影響を受けてより、本居宣長以来の国文学的神道論に加え、実践に基づく信仰的な神道論を加えて「皇道」と呼び、それを国民の指針として普及する活動に尽力する。
鎌田 三之助(かまた さんのすけ、1863年3月2日(文久3… 鎌田 三之助(かまた さんのすけ、1863年3月2日(文久3年1月13日) - 1950年(昭和25年)5月3日)は、日本の公共事業家、政治家。衆議院議員、宮城県鹿島台村(現在の大崎市鹿島台地域)村長。品井沼干拓事業に打ち込み「わらじ村長」の名で知られた。 1863年(文久3年)陸奥国志田郡木間塚村竹谷(現在の宮城県大崎市古川、旧・古川市)に鎌田三治の次男として生まれる。生家の鎌田家は、仙台藩士の流れを汲む家で鳴瀬川に沿った大地主の家柄であり、祖父玄光、父三治とも地元の治水事業に生涯を傾けた。1878年(明治11年)政治家を志し上京し、漢学塾や明治法律学校で学ぶ。郷里に戻り農業に従事しながら木間塚に青年教育の場として大成館を設立し夜学で教える。
伊澤 平左衛門(いさわ / いざわ へいざえもん、1862年… 伊澤 平左衛門(いさわ / いざわ へいざえもん、1862年12月28日(文久2年11月8日) - 1934年(昭和9年)6月9日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(2期)。貴族院多額納税者議員。 仙台に醸造家伊澤平藏(3代目)の長男に生まれる。父の跡を継ぎ、1907年に仙台市会議員、その後、同参事会員などを務めた。1915年に宮城貯蓄銀行、1919年に塩釜銀行の各頭取に、1920年に仙台ガス社長に就任した。 同年の総選挙では立憲政友会から出馬を要請されたが、一族に反対された。しかし、政友会本部は岡崎邦輔を仙台に派遣し、伊澤を説き伏せ、正式に立候補となった。これにより、憲政会の村松亀一郎との争いになり、当選し、激しい選挙戦を制した。
荒井 泰治(あらい たいじ、1861年6月23日〈文久元年5… 荒井 泰治(あらい たいじ、1861年6月23日〈文久元年5月16日〉- 1927年〈昭和2年〉3月3日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員(1911年 - 1918年)。日本統治時代の台湾で事業を興し財を成した。 仙台に町奉行であった荒井加右衛門の分家に生まれる。宮城県士族荒井盛行の長男。明治維新後、東京に出て法律とフランス語を学びながら新聞記者となる。1885年(明治18年)には大阪新報社編集長。中江兆民の門下となる。 日本銀行総裁で同郷の富田鉄之助に見い出されて日本銀行に入り、富田の秘書となったが、富田が日本銀行を去ると荒井も去った。その後、鐘淵紡績に入り、1890年(明治23年)には鐘淵紡績支配人となる。
山田 義三郎(やまだ ぎさぶろう、1861年3月9日(文久元… 山田 義三郎(やまだ ぎさぶろう、1861年3月9日(文久元年1月28日) - 1924年(大正13年)3月21日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 陸奥仙台藩領登米郡、のちの登米町(現登米市)で、商家・山田東十郎の長男として生まれる。1893年(明治26年)11月、家督を相続した。1894年(明治27年)登米郡会議員に当選。1899年(明治32年)から宮城県会議員を4期務めた。ほか、登米町会議員、宮城県参事会員、登米汽船、登米製糸各社長、宮城貯蓄銀行取締役、宮城県繭糸同業組合長などを歴任した。仙北鉄道設立の発起人にも名を連ねた。 1909年(明治42年)宮城県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年10月9日から1911年(明治44年)9月28日まで在任した。
石母田 正輔(いしもだ しょうすけ/まさすけ、1861年3月… 石母田 正輔(いしもだ しょうすけ/まさすけ、1861年3月6日(文久元年1月25日) - 1941年(昭和16年)5月8日)は、宮城県石巻町長、初代石巻市長。二男に歴史学者・石母田正、五男に政治家・石母田達がいる。 石母田家は仙台藩の重臣で多くの勘定奉行を輩出し、3,000石の知行地を与えられていた。祖父石母田寛衆は筆頭勘定奉行を勤めており、その知行地である陸奥国宮城郡大沢村芋沢(現・宮城県仙台市青葉区)に生まれる。宮城師範学校を卒業し、卒業後は奥羽日日新聞に入り、記者となるが、低収入のため官界に入る。茨城県龍ヶ崎警察署長、茨城、島根両県の警察部勤務を経て、台湾台南県蕃薯藔弁務署長を務めた。その後、台湾時代に知り合った同郷の荒井泰治の誘いを受け、北海道に渡り、札幌の電灯会社の社長に就任した。
岩崎 総十郎(いわさき そうじゅうろう、安政7年2月5日(1… 岩崎 総十郎(いわさき そうじゅうろう、安政7年2月5日(1860年2月26日) - 大正9年(1920年)5月2日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 仙台市出身。岡鹿門が開いた私塾「麟経堂」で学んだ後、専修学校(現在の専修大学)で法学・経済学を学んだ。1881年(明治14年)に専修学校を卒業すると、明治法律学校(現在の明治大学)に進み、翌年に卒業した。その後判事補に任ぜられ、大阪地方裁判所に勤務したが、やがて官を辞し、弁護士を開業した。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第13回衆議院議員総選挙でも再選された。 その他に塩水港精糖拓殖株式会社、七十七銀行、仙台瓦斯株式会社、大崎水電株式会社の監査役を務めた。
高橋 芝山(たかはし しざん、万延元年(1860年) - 大… 高橋 芝山(たかはし しざん、万延元年(1860年) - 大正6年(1917年))は、明治時代の洋画家。本名は高橋勝蔵(たかはし かつぞう)。芝山と号した。 陸奥国亘理郡(現・宮城県亘理郡亘理町)出身。明治4年(1871年)、亘理伊達氏の開拓団と共に北海道に移住。明治8年(1875年)から明治10年(1877年)にかけて、電信技術修業のため上京。日本画家を志したが、その後、明治18年(1885年)に渡米し、アメリカのサンフランシスコ美術学校で西洋画を学び、明治24年(1891年)に首席で卒業。明治26年(1893年)にシカゴ万国博覧会で一等賞を獲得し、帰国。芝に芝山研究所を設立して徒に教えた。 明治30年(1897年)頃、小林清親に入門した。
片倉 景光(かたくら かげみつ、安政6年5月13日(1859… 片倉 景光(かたくら かげみつ、安政6年5月13日(1859年6月13日)-1911年(明治44年)9月3日)は、旧仙台藩家老・白石片倉家第14代当主。キリスト教徒(日本基督一致教会の信徒)。父は13代景範。妻は赤城信一の長女・タケ(竹子)。娘婿は青葉神社宮司である健吉。 安政6年(1859年)5月13日、陸奥国刈田郡白石城にて生まれる。1870年(明治3年)5月、胆振国幌別郡に移住する。1880年(明治13年)10月7日、片倉家の家督を相続する。同年10月27日、会津藩洋医師赤城信一の長女で、聖公会の信徒であるタケ(竹子)と結婚する。1886年(明治19年)、押川方義から洗礼を受け、日本基督一致教会の信徒となる。
中島 鋭治(なかじま えいじ、1858年11月17日〈安政5… 中島 鋭治(なかじま えいじ、1858年11月17日〈安政5年10月12日〉 - 1925年〈大正14年〉2月17日)は、日本の土木技術者。宮城県仙台市生まれ。東京帝国大学名誉教授。工学博士、日本の近代上水道の父・近代衛生工学の父などと呼ばれる人物。駒沢給水塔(東京都世田谷区弦巻2丁目41番16号)の設計者として知られる。明治31年以降、旧東京市技師長、内務省技師、中央衛生会委員、都市計画調査会委員をつとめる。 箱根宮ノ下御用邸への給水引き込みの設計協力を行い、また東宮御所の水道施設をはじめ日本や満州の多くの近代水道施設を手がける。 1858年(安政5年)10月12日 - 仙台城下支倉通り(現宮城県仙台市青葉区支倉町)に生まれる。
鐸木 三郎兵衛(すずき さぶろうべえ、1858年4月16日(… 鐸木 三郎兵衛(すずき さぶろうべえ、1858年4月16日(安政5年3月3日) - 1931年3月8日)は、明治時代の政治家。福島町(現福島市)町長、名誉市長、福島県会議員、衆議院議員(立憲政友会)などを歴任。私財を投じて水道敷設事業や明治14年の福島大火(約1800戸焼失)の復興、福島市の駅前開発などに尽力した。また、福島県庁を郡山市に移転させるという動きがあった際には、福島市の代表として上京し陳情、移転を阻止した。再三の衆議院議員立候補要請を断り続け、晩年は廃寺を買い取って隠居。馬巌(ばがん)という俳号を持ち、風流に興じる一面も持っていた。 鐸木三郎兵衛は安政5年3月3日(1858年4月16日)、宮城県刈田郡白石本郷桜小路(現白石市)の金谷武功の次男・金谷正足として生まれた。
星 松三郎(ほし まつさぶろう、1855年6月11日(安政2… 星 松三郎(ほし まつさぶろう、1855年6月11日(安政2年4月27日)- 1906年(明治39年)4月18日)は、明治期の実業家・政治家。衆議院議員。 宮城県登米郡、のちの佐沼町(迫町を経て現登米市迫町佐沼)で、商人・星松治郎の第七子(二男)として生まれた。村の儒者・中村竹徑に師事し、さらに英学を修めた。1875年(明治8年)から水害救民救恤係、勧業世話役、衛生委員、学校世話役などを務めた。 その後上京して商業を営むが不景気となり、1884年(明治17年)から1886年(明治19年)にかけて全国の民情視察を2回実施して、その報告書を作成して頒布した。1886年10月には欧米の政治経済の視察旅行を行った。
佐藤 運宜(さとう うんぎ、1855年2月17日(安政2年1… 佐藤 運宜(さとう うんぎ、1855年2月17日(安政2年1月1日)- 1904年(明治37年)10月25日)は、明治時代の政治家、弁護士。衆議院議員(1期)。幼名は大吉。 佐藤勇助の長男として陸奥仙台藩領桃生郡深谷前谷地村(宮城県桃生郡前谷地村、河南町を経て現石巻市)に生まれる。1863年(文久3年)8歳にして内馬場友之進の門に入り漢籍を修めたのち、1866年(慶応2年)内海真澄に学ぶ。ついで1869年(明治2年)前谷地村の真言宗龍石寺の住職早坂運穎の従弟となり、さらに1873年(明治6年)中教院に入り仏教を学んだ。その後、法律を志し、代言人遠藤温の門に入りこれを修め、1879年(明治12年)代言人となった。
遠藤 良吉(えんどう りょうきち、1855年1月29日(安政… 遠藤 良吉(えんどう りょうきち、1855年1月29日(安政元年12月12日)- 1931年(昭和6年)12月12日)は、明治から大正期の日本の警察官、政治家。衆議院議員(5期)、宮城県桃生郡広淵村長。旧姓は村上、号は李楊。 陸奥国桃生郡赤井村(宮城県桃生郡深谷村、赤井村、矢本町を経て現東松島市赤井)で、仙台藩陪臣・村上東八郎の二男として生まれた。警部補、陸軍少尉試補兼小警部、伊豆七島巡視を歴任。 桃生郡北村湖崎(現石巻市北村)の遠藤温の門下に入り、その婿養子となる。1893年(明治26年)遠田郡と桃生郡・牡鹿郡の農民間で水利紛争(遠桃事件)が起こり、遠藤は桃生・牡鹿側の首謀者として入獄した。その後、初代広淵村長に推されて就任し、その他、石巻村会議員、同副議長、深谷村会議員、広淵村会議員、桃生郡会議員、同参事会員を務めた。
永沢 清之助(ながさわ せいのすけ、1855年(安政2年4月… 永沢 清之助(ながさわ せいのすけ、1855年(安政2年4月)- 1906年(明治39年)6月28日)は、明治時代の政治家、実業家、銀行家、大地主。貴族院多額納税者議員。 陸奥仙台藩領志田郡古川村(古川町、古川市を経て現大崎市古川)に生まれる。1889年(明治22年)古川町会議員に当選したのを皮切りに、志田郡会議員、宮城県農工銀行、同商業銀行、古川馬車鉄道各取締役などを歴任した。 1904年(明治37年)高橋徳右衛門の後を受けて宮城県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から務めたが、在任中に死去した。
手代木 茂篤(てしろぎ しげあつ、1855年 - 1928年… 手代木 茂篤(てしろぎ しげあつ、1855年 - 1928年1月6日)は、日本の政治家。明治時代の北海道胆振地方で行政首長を務めた。 仙台藩領亘理支藩(現在の宮城県亘理郡亘理町)出身。亘理伊達家家臣の手代木順造の長男。幼名は虎一郎だった。亘理伊達家の北海道移住にともない、1871年(明治4年)に15歳で渡道する[出典無効]。開拓に従事しながら1885年(明治18年)7月に有珠郡各村戸長役場用係に雇用される。 茂篤は長く伊達地方に住み、一時苫小牧の戸長を務め厚真村分村などを手掛けた後、再び伊達に戻り虻田戸長、伊達村助役、同村長を経て苫小牧村長となり、王子製紙建設時代の膨れ上がる苫小牧の行財政を担当した。
斎藤 善右衛門(さいとう ぜんえもん、安政元年閏7月28日(… 斎藤 善右衛門(さいとう ぜんえもん、安政元年閏7月28日(1854年9月20日) - 1925年(大正14年)7月25日) は、戦前宮城県の資産家、政治家、実業家。石巻市黒沢斎藤家9代目。名は有成。前谷地村二等戸長、斎藤株式会社社長、財団法人斎藤報恩会理事長、仙台信託取締役社長。 安政元年閏7月28日(1854年9月)、黒沢斎藤家の8代斎藤善次右衛門の長男として陸奥国桃生郡前谷地村黒沢に生まれた。幼名は養之助。黒沢斎藤家は東北三大地主と称される大地主の近代資産家であった。 地元で増田小五郎に四書五経の句読を受け、慶応3年(1867年)仙台に出て叔母すゑの白幡嘉膳宅に住み、藩校養賢堂に通い、秋保太輔に経史、桜田景輔に剣道を学んだ。
村松 亀一郎(むらまつ かめいちろう、嘉永6年1月5日(18… 村松 亀一郎(むらまつ かめいちろう、嘉永6年1月5日(1853年2月12日) - 昭和3年(1928年)9月22日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→立憲同志会→憲政会→立憲民政党)、弁護士。従兄弟に村松山寿がいる。 陸奥国登米郡西郡村(現在の宮城県登米市)出身。漢学を学び、江戸に出ようとするも、明治維新の混乱で引き返し、仙台で藩医の大槻氏のもとで学んだ。その後、1872年(明治5年)に東京に出て、元田直の法律学舎で学んだ。1876年(明治9年)、代言人の試験に合格し、松本・上田で業務を行った。1878年(明治11年)、大井憲太郎が創設した明法学舎が第一分舎を仙台に置くことになると、その主幹に任命された。
十文字 信介(じゅうもんじ しんすけ、1853年1月8日(嘉… 十文字 信介(じゅうもんじ しんすけ、1853年1月8日(嘉永5年11月29日) - 1908年(明治41年)8月12日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。号に海山猟夫、尊農子。 涌谷伊達家家臣・十文字秀雄の長男として陸奥仙台藩領遠田郡涌谷(現涌谷町)に生まれる。家は代々亘理氏に仕え砲術を能くした。8歳にして小姓となり、のち砲術を習った。その後、1871年(明治4年)上京し箕作麟祥の塾に入り英学を修め、ついで海軍兵学寮(のちの海軍兵学校)に学んだ。津田仙の学農社編集長、広島県、宮城県各勧業課長、宮城郡長を歴任したのち、雑誌『農事新報』を発刊した。ほか仙台区長を務め、鉄砲販売業を営んだ。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では宮城県第3区から大成会所属で出馬し当選。
千葉 卓三郎(ちば たくさぶろう、嘉永5年6月17日(185… 千葉 卓三郎(ちば たくさぶろう、嘉永5年6月17日(1852年8月2日) - 明治16年(1883年)11月13日)は、日本の教育者、自由民権運動家。私擬憲法「日本帝国憲法」(通称:五日市憲法)の起草者として知られる。 1852年(嘉永5年6月17日)8月2日、仙台藩・陸奥国栗原郡刈敷村(現・宮城県栗原市志波姫、北緯38度46分35.1秒 東経141度5分55.7秒)に仙台藩の下級士族である千葉宅之丞と妾のちかの長男として生まれる。3歳のときに母親が千葉家を去り、義母に育てられる。11歳で仙台藩藩校・養賢堂(北緯38度16分6秒 東経140度52分16秒 / 北緯38.26833度 東経140.87111度 / 38.26833; 140.87111 (仙台藩藩校・明倫養賢堂(跡地は宮城県議会議事堂)))にて大槻磐渓に師事。
首藤 陸三(すどう りくぞう、嘉永4年3月15日(1851年… 首藤 陸三(すどう りくぞう、嘉永4年3月15日(1851年4月16日) - 大正13年(1924年)5月31日)は、日本の衆議院議員(立憲改進党→進歩党→憲政党→憲政本党→立憲同志会)。 陸奥国登米郡登米町(現在の宮城県登米市)出身。1868年(明治元年)、東京に出て、尺振八の共立学舎で英学を学んだ。1872年(明治5年)、新潟県の英語教授となり、翌年から小倉県育徳学校教授に就任した。1875年(明治8年)、大蔵省翻訳課に出仕し、1877年(明治10年)には東京府書籍館に転じた。翌年より宮城県属になり、学務課長心得と仙台師範学校校長を兼ねた。1880年(明治13年)に官を辞した後は、宮城県会議員に当選し、副議長に選出された。
木村 敏(きむら とし、1850年(嘉永3年)5月18日 -… 木村 敏(きむら とし、1850年(嘉永3年)5月18日 - 1908年(明治41年)3月2日。)は、明治時代の日本の教育者である。子訥、斉治と名乗り、北村と号した。小学校教員のかたわら仙台師範学校校長をつとめるなど、宮城県で初等教育の確立・充実に尽力した。 仙台藩士・木村景直の長男として、嘉永3年(1850年)5月18日に、木村家の領地である陸奥国桃生郡北村で生まれた。現在の宮城県石巻市北村である。弟が二人いて、木村剛は海軍の軍人、木村匡は台湾総督府の役人になった。妻にたびたび先立たれて4度結婚し、最初の妻との間に力という息子を儲けた。 慶応4年(1868年)、19歳のとき戊辰戦争に従軍し、白河口で戦った。
永久保 秀二郎(ながくぼ しゅうじろう、ながくぼ ひでじろう… 永久保 秀二郎(ながくぼ しゅうじろう、ながくぼ ひでじろう、1849年〈嘉永2年〉3月3日 - 1924年〈大正13年〉2月24日)は、日本の教育者。北海道の先住民族であるアイヌのために建立された釧路市の春採小学校において、開校間もない頃からアイヌの児童たちの教育の心血を注いだ。また、アイヌを差別や貧窮から救済するために、児童の教育、住民たちの生活環境の双方から改善を目指し、アイヌたちの生活向上を支援した。その献身的な精神により、春採のアイヌの人々からの尊敬と信頼を集めた。漢詩人でもあり、アイヌの儀式(イオマンテ)をもとに描いた『送熊行』は大きな反響を呼んだ。 磐城国刈田郡宮村(後の宮城県蔵王町)で誕生した。
熱海 孫十郎(あずみ / あたみ まごじゅうろう、1848年… 熱海 孫十郎(あずみ / あたみ まごじゅうろう、1848年2月13日(嘉永元年1月12日)- 1924年(大正13年)3月19日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。貴族院多額納税者議員。 陸奥国栗原郡文字村(栗駒町を経て現:栗原市)に千葉忠蔵の子として生まれる。のち、一迫の熱海多藏の養子になる。1879年宮城県会が発足するとその議員になる。その後、栗原、志田、玉造の各郡長となり、1890年の第1回衆議院議員総選挙に宮城県第4区(当時)から立候補して当選した。1892年の第2回衆議院議員総選挙で落選。1897年9月29日に貴族院議員に就任し、1900年8月29日まで在職した。 この他七十七銀行頭取や宮城県農会副会長なども歴任した。
飯淵 七三郎(飯渕、いいぶち しちさぶろう、1846年11月… 飯淵 七三郎(飯渕、いいぶち しちさぶろう、1846年11月8日(弘化3年9月20日)- 1926年(大正15年)4月20日)は、明治から大正時代の政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 素封家・飯淵藤七の長男として陸奥仙台藩領柴田郡船岡村(船岡町を経て現柴田町)に生まれる。1874年(明治7年)11月、家督を相続した。1879年(明治12年)船岡村会議員に当選。翌年、宮城県会議員となる。1893年(明治26年)久保寺豊太郎から仙台の日進学舎を買収し、同校の改革に努めた。ほか、柴田郡会議員、同議長代理などを歴任した。また、農家の指導啓発に尽力するとともに、船岡村農会を設立して肥料購入、資金融資の便宜を図った。
新井 奥邃(あらい おうすい、1846年5月29日(弘化3年… 新井 奥邃(あらい おうすい、1846年5月29日(弘化3年5月5日) - 1922年(大正11年)6月16日)は、元仙台藩士で、「有神無我」を唱え、自らを「クライストの志願奴隷」と定義した明治後期から大正時代の特異なキリスト教思想人。 戊辰戦争後に森有礼に認められ、1871年1月23日(明治3年12月3日)、米国に渡る。アメリカでキリスト教系新興宗教団体教祖トマス・レイク・ハリスの弟子となり、労働と冥想の日々を送る。 1899年(明治32年)、53歳のとき、英語の自著Inward Prayer and Fragments(『内観祈祷録』)一冊を携えて帰国する。 1904年(明治37年)、巣鴨に「謙和舎」を開き、奥邃独特の伝道生活に入る。
高橋 徳右衛門(たかはし とくえもん、1845年6月20日(… 高橋 徳右衛門(たかはし とくえもん、1845年6月20日(弘化2年5月16日) - 1915年(大正4年)4月28日)は、明治時代の政治家、実業家、銀行家、大地主。貴族院多額納税者議員。幼名・幸治郎。 陸奥仙台藩領栗原郡若柳村(宮城県若柳町を経て現栗原市)に生まれる。1884年(明治17年)若柳村会議員に当選。ついで宮城県会議員、栗原郡会議員、同参事会員のほか、栗原郡岩ヶ崎製糸会社社長、塩釜水産、第八十八銀行各取締役、第七十七銀行監査役などを歴任した。ほか、仙台米穀取引所の設立に関与した。 1900年(明治33年)宮城県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年11月29日から1904年(明治37年)9月28日まで在任した。
千葉 胤昌(ちば たねまさ、1843年1月11日(天保13年… 千葉 胤昌(ちば たねまさ、1843年1月11日(天保13年12月11日)- 1914年(大正3年)1月11日)は、明治期の公吏、農業経営者、政治家。衆議院議員。幼名・丹三郎。 陸奥国栗原郡文字村上葛峰(宮城県栗原郡文字村、栗駒町を経て現栗原市栗駒文字)で、素封家・千葉忠蔵の長男として生まれた。農業を営む。 1870年(明治3年)水沢県附属に就任し同年12月に辞職。1873年(明治6年)7月、水沢県第6大区学区取締掛に任じられ、1874年(明治7年)8月に廃職となる。 1877年(明治10年)県会の前身である共議会議員に就任。1879年(明治12年)1月、宮城県会議員に選出され1890年(明治23年)2月まで3期在任し、常置委員も3期務めた。
南条 文五郎(南條、なんじょう ぶんごろう、1842年11月… 南条 文五郎(南條、なんじょう ぶんごろう、1842年11月16日(天保13年10月14日)- 1905年(明治38年)4月4日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 陸奥国栗原郡太田村(宮城県栗原郡太沢村、玉沢村、築館町字太田を経て現栗原市築館太田)で、肝煎(庄屋)・南条彦作(親章)の二男として生まれた。普通学、武道を修めた。農業を営む。 1871年(明治4年)太田村副戸長に就任。1880年(明治13年)5月に宮城県会議員に選出され、1902年(明治35年)8月15日の辞職まで8期在任し、常置委員、参事会員、地方衛生会委員、徴兵参事員なども務めた。その他、太沢村会議員、玉沢村会議員、栗原郡会議員にも在任した。
泉 麟太郎(いずみ りんたろう、1842年〈天保13年4月2… 泉 麟太郎(いずみ りんたろう、1842年〈天保13年4月21日〉 - 1929年〈昭和4年〉1月7日)は、北海道栗山町の前身である角田村の開祖。 1842年(天保13年4月21日)、陸奥国伊具郡角田にて、陸奥石川氏に仕える添田保の子として生まれる。幼名は拙之助。 成教堂で経史を修めた拙之助は、生徒たちに書物の読み方を教える「句読役」を命じられ、さらに仙台への遊学を経てからは、成教堂目付兼武頭役に就いた。 1864年(元治元年)8月1日、角田藩重役の泉靖七郎の養子となり、10月6日には藩主・石川義光から「麟太郎」の名を賜る。 1868年(慶応4年)に戊辰戦争が勃発すると、仙台藩一門の筆頭格たる石川家は、はじめ仙台の警備にあたっていた。
大庭 長九郎(おおば ちょうくろう、1840年(天保11年6… 大庭 長九郎(おおば ちょうくろう、1840年(天保11年6月)- 1909年(明治42年)11月15日)は、明治期の政治家、実業家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。諱・実次。 陸奥国栗原郡堀口村(宮城県栗原郡姫郷村、志波姫村字藤木、志波姫町を経て現栗原市)の農家に生まれる。金融業により一代で富を築いた。養蚕、製糸を奨励し地域の振興に尽力した。宮城商業銀行監査役、築館税務署営業税調査係顧問、日本赤十字社特別社員なども務めた。 1889年(明治22年)志波姫村長に就任。栗原郡会議員にも選出され、1890年(明治23年)宮城県会議員に就任した。 1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙に宮城県第四区から出馬して当選し、その後、第5回総選挙でも再選され衆議院議員を通算2期務めた。
3代 伊澤 平藏(いさわ / いざわ へいぞう、1838年(… 3代 伊澤 平藏(いさわ / いざわ へいぞう、1838年(天保9年)12月 - 1911年(明治44年)3月19日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・板橋。幼名・哲右衛門。衆議院議員、貴族院議員伊澤平左衛門の父。 陸奥国宮城郡笠神村(現・宮城県多賀城市)に生まれる。仙台に出て、醸造業伊澤平藏(2代目)の元で働き、平藏の娘を娶り婿養子となる。1889年(明治22年)仙台市が施行されると市会議員となる。同参事会員、宮城県会議員、仙台市長代理などを歴任する。この間、仙台商業会議所の議員を発足時(1891年)から務め、同副会頭(1899年)、同会頭(1904年)に就任した。 1906年(明治39年)に宮城県多額納税者として貴族院議員補欠選挙で互選され、同年9月29日から1908年(明治41年)7月2日まで務めた。
石川 桜所(いしかわ おうしょ、文政8年(1825年) - … 石川 桜所(いしかわ おうしょ、文政8年(1825年) - 明治15年(1882年)2月20日)は、幕末の蘭方医。幕府奥医師。通称玄貞。実名良信。桜所は号。初名は千葉山庵。 文政8年(1825年)、陸奥国登米郡桜場村(現・宮城県登米市)に生まれる。安政5年(1858年)、大槻俊斎・伊東玄朴らと図り、お玉が池種痘所設立。文久2年(1862年)8月23日、陸奥国仙台藩医より幕府医師に登用され、奥医師となる。同年12月16日、法眼に叙せらる。慶応2年(1866年)12月18日、法印に昇叙、香雲院と号す。蟄居する徳川慶喜に従い水戸に下り、仙台に帰った。明治以降は松本良順に招かれ兵部省軍医寮の次官、陸軍軍医監などを勤めた。
遠藤 温(えんどう おん、1823年9月1日(文政6年7月2… 遠藤 温(えんどう おん、1823年9月1日(文政6年7月27日)- 1896年(明治29年)6月4日)は、明治時代の政治家、弁護士。衆議院議員(1期)。 陸奥仙台藩領桃生郡深谷北村(宮城県桃生郡深谷村、北村、河南町を経て現石巻市)出身。上京し昌平黌に入り経史を修める。帰郷後は家業の醸造業に従事する傍ら、子弟教育に尽くす。1868年(明治元年)、藩政改革で多大な功績を上げ、藩世子の侍読と大番隊士に抜擢され、戊辰戦争で活躍する。会津戦争では会津藩赦免の嘆願に関与した。1869年(明治2年)昌平黌教授試補兼副舎長となり、同年5月、教授兼舎長に進み、7月、大学中助教となる。 1870年(明治3年)5月、仙台藩少参事に任じ、1871年(明治4年)4月、権大参事に進み、1875年(明治8年)2月、宮城県参事となった。
秀ノ山 雷五郎(ひでのやま らいごろう、文化5年(1808年… 秀ノ山 雷五郎(ひでのやま らいごろう、文化5年(1808年) - 文久2年5月19日(1862年6月16日))は、陸奥国本吉郡(現・宮城県気仙沼市)出身で秀の山部屋に所属した大相撲力士。第9代横綱。本名は橋本(旧姓:菊田) 辰五郎(はしもと たつごろう)。 1808年に、陸奥国本吉郡(現・宮城県気仙沼市最知川原)で海運業と農業を営む家に五男として生まれる。当時家に出入りしていた荷揚げ人の中に元力士である籬嶋がいたが、籬嶋に辰五郎の二男である源太夫が相撲の指導を受け、土地相撲の大関として活躍していたことが刺激となり、辰五郎も力士を目指すようになった。その後は家の裏にあった榎を相手に毎日ぶつかった結果、榎を枯らしてしまったと伝わる。
丸山 権太左衛門(まるやま ごんだざえもん(ごんたざえもん)… 丸山 権太左衛門(まるやま ごんだざえもん(ごんたざえもん)、1713年(正徳3年)- 1749年12月23日(寛延2年11月14日))は、仙台藩・陸奥国領出身で七ツ森部屋に所属した大相撲力士。第3代横綱。本名は芳賀 銀太夫(はが ぎんだゆう)。 陸奥国遠田郡中津山村(現・宮城県登米市米山町中津山)出身。元文年間頃に初土俵を踏む。家老衆の家来になって江戸見物に出たが、体が重く歩くのが下手だったため、二足用意した草鞋をすぐ踏み潰しては徹夜で編み直すこととなり、馬に乗せれば足が地に着いてしまうほどだった。やっとの思いで江戸に到着したが、これでは故郷に帰るのもおぼつかないために入門したと伝わる。1737年(元文2年)4月大坂堀江で行われた興行に西大関として出場。
横山 亜紀子(よこやま あきこ、12月6日 - )は、日本の… 横山 亜紀子(よこやま あきこ、12月6日 - )は、日本のフリーアナウンサー。ライムライト所属。 宮城県仙台市出身。成蹊大学法学部政治学科卒業。 2007年4月から2010年3月までNHK仙台放送局の契約キャスターを務めた後、2010年4月からフリーアナウンサーとして活動している。 この項目は、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(アナウンサーPJ)。
安蒜 真里子(あんびる まりこ、11月8日 - )は、日本の… 安蒜 真里子(あんびる まりこ、11月8日 - )は、日本の女性J-POP歌手。宮城県仙台市生まれ、東京育ち。血液型A型。 以降、都内を中心としたライブ活動をマイペースに行っている。 玩具のピノチオ(株式会社アガツマ) アンパンマンシリーズ 匿名や別名義での録音も多数ある。(コンピレーション・アルバムやパチスロ機のサウンドトラックでのボーカル社歌など) この項目は、歌手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ芸能人)。
曽世 海司(そぜ かいじ、10月18日 - )は、宮城県出身… 曽世 海司(そぜ かいじ、10月18日 - )は、宮城県出身の日本の俳優。所属は劇団 Studio Life。
美星 帆那(みせい はんな、10月8日 - )は、宝塚歌劇団… 美星 帆那(みせい はんな、10月8日 - )は、宝塚歌劇団宙組に所属する娘役。 宮城県仙台市、仙台白百合学園中学校出身。身長158cm。愛称は「ちっち」、「あゆほ」。 2017年、宝塚音楽学校入学。 2019年、音楽学校卒業後、宝塚歌劇団に105期生として入団。入団時の成績は24番。宙組公演「オーシャンズ11」で初舞台。その後、宙組に配属。 2023年、真風涼帆・潤花トップコンビ退団公演となる「カジノ・ロワイヤル」で、新人公演初ヒロイン。
大沼 亮吉(おおぬま りょうきち、10月6日 - )は東京都… 大沼 亮吉(おおぬま りょうきち、10月6日 - )は東京都出身の日本の俳優。本名および芸名は「大沼亮吉」。 2004年の劇団オーディションにてスタジオライフに入団。 この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
鎌田 梢(かまだ こずえ、9月11日 - )は、日本の女性声… 鎌田 梢(かまだ こずえ、9月11日 - )は、日本の女性声優。青二プロダクション所属。宮城県出身。 宮城県宮城野高等学校、青二塾東京校2部3期生卒業。 方言は東北弁(仙台)。 声優としては、多数のアニメ、洋画、ゲームなどに出演している。 資格・免許は普通自動車免許、仏検5級。 イラストレーターのえいひは妹。 太字はメインキャラクター。
柴原 紅(しばはら べに、8月26日)は、フリーアナウンサー… 柴原 紅(しばはら べに、8月26日)は、フリーアナウンサー、取材リポーター。 宮城県大崎市古川(旧・古川市)出身。古川女子高等学校を経て東海大学教養学部卒業後、2004年4月から2011年3月までNHK盛岡放送局で、2011年4月から2012年3月までの1年間はNHK仙台放送局で契約キャスターを務めた。その後、2012年4月からラジオセンターにうつり『つながるラジオ』(NHKラジオ第1放送)のアンカーを番組終了となる2013年3月まで務めた。 東北地方で契約キャスターを務めていた時に東日本大震災に遭遇している。震災後は被災地関連の取材を行っているほか、災害FM放送の協力のボランティアを行っている。
阿部 夕起(あべ ゆき、8月26日 - )は、宮城県仙台市出… 阿部 夕起(あべ ゆき、8月26日 - )は、宮城県仙台市出身のローカルタレント。宮城県を中心に活動している。 現在は「阿部 侑生」という名前で活動している。A型。
佐々木 真奈美(ささき まなみ、8月22日 - )は、宮城県… 佐々木 真奈美(ささき まなみ、8月22日 - )は、宮城県本吉郡津山町(現:登米市)出身のローカルタレント、ラジオパーソナリティ、薬剤師。 宮城県佐沼高等学校を経て東北薬科大学(現:東北医科薬科大学)薬学部衛生薬学科卒業。過去に『佐々木 眞奈美』名義で活動していた。 とあるビルのDJスペースでDJをしていたところ、テレビ局のディレクターの目に留まって、ラジオパーソナリティ、タレントへとなった。初仕事はあるテレビ番組でのレポーターだったが、緊張のあまり寝坊して約2時間も遅刻してしまったという。タレントデビューした当時は、『オレンジジュース』というロックバンドのボーカリストもやっていた。またこの当時は一部で荻野目洋子似という評判もあった。
齋藤 彰俊(さいとう あきとし、8月8日 - )は、日本の元… 齋藤 彰俊(さいとう あきとし、8月8日 - )は、日本の元男性プロレスラー。宮城県仙台市出身。最終所属プロレスリング・ノア。血液型B型。 水泳(平泳ぎ)が得意でジュニアオリンピック優勝(学童新記録)、仙台市立五橋中学校生時代に全国大会で2位の実績を残し、中京高校進学。松永光弘は同級生であった。この頃には極真会館で空手の鍛錬も積んでいた。中京大学進学後も水泳を続け、インターハイ、インカレ、国体、日本選手権で優勝し、ユニバーシアード、パンパシフィックの日本代表、オリンピックの強化選手にもなった。当時から長州力のファンで、パワーホールで選手入場したこともあったという。ソウルオリンピックの代表選考会は5着となり五輪出場を果たせず競泳を引退し、名古屋市のスポーツ関連団体に就職した。
池山田 剛(いけやまだ ごう、5月25日 - )は、日本の漫… 池山田 剛(いけやまだ ごう、5月25日 - )は、日本の漫画家。女性。宮城県仙台市生まれ、神奈川県横浜市育ち。血液型はA型。 2002年、小学館の『少女コミック』本誌15号にて掲載された、「GET GOAL!!」でデビュー。 当初、この作品は読み切り掲載のみの予定だったが、読者からの反響が大きく人気が高かったため、その後に続編を数回同じく読み切りという形で掲載された。しかし、当時の編集長からの「まだ新人なのでデビュー作以外のキャラも描いたほうがいい」という判断から、この作品で初連載とはならなかった。 2003年、上記のことから『オオカミなんかコワくないっ!?』で短期初連載。 同年『オオカミなんかコワくないっ!?』連載終了後、「GET GOAL!!」を『GET LOVE!!〜フィールドの王子さま〜』として連載開始。
小野寺 ずる(おのでら ずる、5月17日 - )は、日本の俳… 小野寺 ずる(おのでら ずる、5月17日 - )は、日本の俳優、脚本演出家、漫画家。 宮城県気仙沼市出身。女子美術大学卒業[リンク切れ]。所属事務所はBLUE LABEL。 宮城県気仙沼市の沿岸部で18歳まで過ごし、幼少期には日本舞踊や作文朗読に親しみ、軽音楽部に所属し歌や楽器演奏をしていた。 美術大学に進学後、表現では食べていけないと始めた就職活動が難航する中で「舞台などをやってみたら」と父に勧められて、4年生になった直後の2011年4月にオーディションに合格して初舞台に立ち、舞台を中心に活動を開始する。 2019年3月に個人表現研究所「ZURULABO」を開設し、舞台制作、展覧会などを主催。