佐々木 広人(ささき ひろと、1971年 - )は、日本のジ… 佐々木 広人(ささき ひろと、1971年 - )は、日本のジャーナリスト、編集者。アサヒカメラ元編集長。「終活」の生みの親としても知られる。 秋田県秋田市出身。秋田市立外旭川中学校、秋田県立秋田高等学校、一橋大学社会学部卒業後、リクルート入社。大学ではバンドサークルに所属。メディア論専攻。 リクルートではエイビーロード編集部で海外のホテル、グルメなどの取材に従事。1999年朝日新聞社入社。2012年まで週刊朝日編集部に記者や編集者として勤務、2007年から3年間副編集長を務めたが、短い睡眠時間が続き体調不良により自宅療養となる。 復帰後、週刊朝日公式サイト(現AERA dot.)の立ち上げや、公式twitter開設、Ustreamでの週刊朝日UST劇場放送などにあたった。
柿﨑 明二(かきざき めいじ、1961年〈昭和36年〉8月2… 柿﨑 明二(かきざき めいじ、1961年〈昭和36年〉8月2日 - )は、日本のジャーナリスト、帝京大学法学部教授。 元内閣総理大臣補佐官(菅義偉内閣)、共同通信社論説副委員長、編集委員。 秋田県平鹿郡平鹿町(現・横手市)生まれ。秋田県立横手高等学校、早稲田大学第一文学部卒業。1984年、毎日新聞社に入社し、1988年に退社して共同通信社に入社。1993年から東京本社政治部に勤務し、2011年より編集局編集委員。2013年からは論説委員を兼任し、2018年に編集委員を外れる。2019年から編集局論説副委員長。この間、独立行政法人評価委員会臨時委員や法政大学法学部兼任講師も務めた。2020年9月16日付で総務局付に異動し、9月30日付で退社。
小笠原 直樹(おがさわら なおき、1951年7月18日 - … 小笠原 直樹(おがさわら なおき、1951年7月18日 - 2021年3月3日)は、日本のジャーナリスト、実業家。秋田県横手市出身。秋田魁新報社の社長などを務めた。 秋田県横手市に生まれる。秋田県立横手高等学校、中央大学を卒業。1975年(昭和50年)に秋田魁新報社(本社:秋田市)に入社し、社会部長、論説副委員長などを経て2003年に同社の取締役編集局長、2007年常務取締役編集局長に任じられた。2009年(平成21年)から2019年(平成31年)まで同社の代表取締役社長を務めた。2021年(令和3年)3月3日、外耳道がんのため秋田市内の病院で死去した。死去時点での役職は、同社の相談役であった。
石山 宏一(いしやま こういち、1947年 - )は、日本の… 石山 宏一(いしやま こういち、1947年 - )は、日本のジャーナリスト、辞書編纂者、評論家、英語学者、桐蔭横浜大学客員教授。 秋田県秋田市生まれ。秋田県立秋田高等学校卒業。「グル-基金」(米国大学留学制度)奨学生選抜試験合格、渡米。1969年ミドルベリー大学教養学部政治学科卒業。 1970年タフツ大学フレッチャ-法律外交大学院修士課程修了。 1971年サイマル・インターナショナル会議通訳者、1972年東京大学研究生、1973年AP通信(米国)記者、1980年ザ・タイムズ(ロンドン)記者、1983年ストレーツタイムズ(シンガポール)記者、1988年ビジネスタイムズ(シンガポール)記者 (金融担当)、1992年駒沢女子短期大学英文科助教授、1999年桐蔭横浜大学法学部助教授、2004年同教授、2010年客員教授となり、時事英語、ビジネス英語、ジャーナリズム入門等を教えている。
平川 英二(ひらかわ えいじ、1947年 - )は、日本のド… 平川 英二(ひらかわ えいじ、1947年 - )は、日本のドキュメンタリージャーナリスト。
高杉 晋吾(たかすぎ しんご、1933年3月18日 - )は… 高杉 晋吾(たかすぎ しんご、1933年3月18日 - )は日本の社会評論家、ジャーナリスト。本名、石川晋吾。 秋田県秋田市生まれ。1957年、早稲田大学第一文学部卒業。団体記者を経て、1962年、日本社会党機関紙「社会新報」記者となるが、1970年にフリーランスとなり、『朝日ジャーナル』『現代の眼』などにルポや論文を発表。 袴田事件を当初[いつ?]から冤罪であると考え、死刑判決後にルポを発表するなど20年にわたり支援活動に携わる。人体実験についての著作も複数ある。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
髙田 景次(たかだ けいじ、1916年〈大正5年』1月23日… 髙田 景次(たかだ けいじ、1916年〈大正5年』1月23日 - 2003年〈平成15年〉3月16日)は、日本のジャーナリスト、政治家。秋田魁新報社監査役や秋田市長(第15代)を務めた。秋田県大仙市(旧中仙町豊岡)出身。 豊岡村立豊岡尋常小学校、秋田県立角館中学校、山形高等学校を経て、1940年(昭和15年)東京帝国大学法学部法律学科を卒業。 戦後、1945年(昭和20年)秋田魁新報社に入り、政治経済部長、編集局長を経て、1959年(昭和34年)取締役となり、その後、監査役を務めた。 1973年(昭和48年)2月から1990年(平成2年)4月まで、連続5期秋田市長を務める。歴代市長の中で最長となる17年間の在任中、「公園都市秋田市をつくる条例」「秋田市文化振興条例」などの制定や市民の健康と体力づくり運動、秋田新都市の建設、広面や桜ニュータウンなどの東部、御野場・御所野の南部新拠点開発、仙台市道路愛称名にならった秋田市道路愛称名などの制定、都市景観賞など多方面にわたって功績を残すなど秋田市発展の基礎を築く。
むの たけじ(本名:武野 武治、1915年1月2日 - 20… むの たけじ(本名:武野 武治、1915年1月2日 - 2016年8月21日)は、日本のジャーナリスト。太平洋戦争従軍記者としての経験・反省から、戦後に反戦・平和を訴え続けた。 新聞『たいまつ』を創刊。農村・農業の進路、出稼ぎ問題、農民運動の在り方、地方文化やサークル活動について追求し、「自分の言葉に自分の全体重をかける」記事を書き続けた。 秋田県仙北郡六郷町(現:美郷町)の小作農民の家に生まれる。県立横手中学校(現:秋田県立横手高等学校)で教師を務めていた石坂洋次郎 に、国語・作文・修身を教わった。1932年に東京外国語学校(現:東京外国語大学)西語部文科(文学)に入学。親の仕送りで学生生活を続けることが難しくなったので、1学年を終わったところで外務省の書記生になろうとしたが「満18歳では若すぎる」との理由で願書は却下された。
中山善三郎(なかやま ぜんざぶろう、1904年(明治37年)… 中山善三郎(なかやま ぜんざぶろう、1904年(明治37年)6月21日 - 1974年(昭和49年)1月13日)は、日本のジャーナリスト、劇作家。劇作家としての筆名は塩谷国四郎。 1904年(明治37年)秋田市本町(現在の秋田市大町)に生まれる。日本大学卒。 1927年(昭和2年)、毎日新聞社入社。日米開戦前後には、海軍徴用報道班員として鹿屋海軍航空隊に随行し、戦況などを日本に伝えた。この折の体験を基に実録「真珠湾奇襲」「不沈戦艦北へ」を執筆している(いずれも『大東亜戦史 1 太平洋編』所収)。戦後、西部本社社会部長兼地方部長、横浜支局長、東京本社連絡部長、東京本社社会部長、サンデー毎日編集長を歴任した。
人見 誠治(ひとみ せいじ、1898年(明治31年)1月12… 人見 誠治(ひとみ せいじ、1898年(明治31年)1月12日 - 1978年(昭和53年)1月16日)は、日本のジャーナリスト、マスメディア経営者。 1898年(明治31年)秋田市中亀ノ丁に生まれる。1915年(大正4年)に秋田中学校を卒業し、小学校代用教員などを務める。 1927年(昭和2年)、秋田魁新報社に入社。運動部記者、政経部記者を経て、計画部長兼地方部長、計画部長兼社会部長、業務局次長兼計画部長などを歴任し、1943年(昭和18年)取締役に就任する。以後、常務取締役業務局長、専務取締役を務め、1946年(昭和21年)11月代表取締役社長に就任、同社の経営に当たった。1953年(昭和28年)、ラジオ東北株式会社を設立(代表取締役社長)。
里見 甫(さとみ はじめ、1896年1月22日 - 1965… 里見 甫(さとみ はじめ、1896年1月22日 - 1965年3月21日)は、ジャーナリスト、実業家。関東軍と結託しアヘン取引組織を作り、阿片王と呼ばれた。中国名李鳴。
池田 林儀(いけだ しげのり、1892年〈明治25年〉1月1… 池田 林儀(いけだ しげのり、1892年〈明治25年〉1月11日 - 1966年〈昭和41年〉7月15日)は大正・昭和時代のジャーナリスト。 秋田県由利郡仁賀保町出身。旧制本荘中、東京外国語学校(現東京外語大学)シャム語科卒。大日本雄弁会講談社社員を経て報知新聞社にうつる。大隈重信の番記者をへてベルリン特派員。『優生運動』(1926-1930)を刊行し、日本の優生学の普及を図った。ワンダーフォーゲル運動を日本に紹介し、足の会を優生運動の一環として行った。 1933年(昭和8年)京城日報に招聘され副社長に就任。昭和14年(1939年)報知新聞に復社し編集局長就任。戦後「秋田魁新報」に随筆「話の耳袋」を長期連載した。
下田 憲一郎(しもだ けんいちろう、1889年〈明治22年〉… 下田 憲一郎(しもだ けんいちろう、1889年〈明治22年〉12月11日- 1943年〈昭和18年〉9月12日)は、日本のジャーナリスト。 風刺漫画雑誌『東京パック』(第3次)の編集者で、第4次『東京パック』の創刊者・主宰者。漫画家や画家たちからは「パックのおやじ」と称された。 1889年(明治22年)、秋田県横手市に生まれる。1896年(明治29年)頃、父が死去し、その後家運が傾いて一家離散の憂き目にあった。1898年(明治31年)には家督を継いで横手の大沢鮮新堂という書店に丁稚奉公に入っている。1911年(明治44年)頃には横手に開店した東江堂書店の支配人となった。 1913年(大正2年)頃、東京に出て正則英語学校の夜間で学び、やがてジャーナリズムの道に入った。
青柳 有美(あおやぎ ゆうび、1873年(明治6年)9月27… 青柳 有美(あおやぎ ゆうび、1873年(明治6年)9月27日 - 1945年(昭和20年)7月10日)は、ジャーナリスト、随筆家、牧師。
中村 千代松(なかむら ちよまつ、1867年2月19日(慶応… 中村 千代松(なかむら ちよまつ、1867年2月19日(慶応3年1月15日) - 1941年(昭和16年)8月4日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党)、ジャーナリスト。号は木公 出羽国(秋田県)平鹿郡阿気村(大雄村を経て現横手市)の奥山家に生まれた。明治29年11月中村宗興の二女ノブに入夫婚姻。内藤湖南、畑山呂泣らと明治18年秋田県師範学校を卒業後、秋田市内で教鞭をとる。博文館編集部員、忠愛新報編集長、教育報知主筆、明治新聞主筆、報知新聞記者、秋田魁新報主筆を経て、1913年(大正2年)より秋田新聞社社長を務めた。 1915年、第12回衆議院議員総選挙に出馬して、当選を果たした。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
安藤 和風(あんどう はるかぜ、慶応2年1月12日(1866… 安藤 和風(あんどう はるかぜ、慶応2年1月12日(1866年2月26日) - 昭和11年(1936年)12月26日)は、日本のジャーナリスト、マスメディア経営者、俳人、郷土史研究家。通名および俳号は「和風」をそのまま音読みして「わふう」。秋田県の地方紙「秋田魁新報」の事業拡大に貢献し、秋田魁新報社三大柱石の一人と称された。「魁の安藤か、安藤の魁か」と言われるほど、新聞記者としての名声を全国にとどろかせた。 俳号・雅号として他に、柳外、夢蝶、時雨庵、大蕗軒、白松子、太平山人、城南陰士、自適庵、布々木園、蝶々、松陰舎、松庵など十数以上を用いていた。 秋田藩士安藤和亭(通名は和市)、イクの長男として生まれる。
町田 忠治(まちだ ちゅうじ、文久3年3月30日(1863年… 町田 忠治(まちだ ちゅうじ、文久3年3月30日(1863年5月17日) - 昭和21年(1946年)11月12日)は、明治から昭和期の政治家、実業家、ジャーナリスト。 衆議院議員(当選10回)。立憲民政党・日本進歩党総裁、農林大臣・商工大臣・大蔵大臣(兼任)などを歴任したが最晩年は公職追放された。正三位勲一等。号は幾堂。愛称はノンキナトウサン。 出羽国秋田郡久保田城下の秋田保戸野八丁新田上丁(現秋田県秋田市保戸野八丁)に秋田藩士・町田伝治の四男として誕生。父伝治は3歳の時に亡くなったため、祖父町田平治と母シン子によって育てられた。大正期の『中央公論』編集長・滝田樗陰は甥にあたる。 1875年(明治8年)に叔母町田直の養子となり、家督を継いだ。
狩野 旭峰(かのう きょくほう、1832年(天保3年) - … 狩野 旭峰(かのう きょくほう、1832年(天保3年) - 1925年(大正14年))は、日本の漢学者・漢詩人・ジャーナリスト。 出羽国秋田郡大館町に狩野与十郎長安の子として生まれた。本名は良貴、通称は徳蔵。狩野氏は、山形を本拠地とする最上氏が江戸幕府によって改易されたのち、久保田藩(本城は久保田城)の支城のあった大館の佐竹西家に仕えた。1849年(嘉永2年)、18歳で江戸に出て、塩谷宕陰に学び、以降5年のあいだ、古賀謹一郎、藤森弘庵、田口江村らに学んだ。のち、久保田藩江戸邸の学問所「日知館」の教授を務めた。 内務省に入った兄狩野良知の推挙で、明治7年(1874年)、遐邇新聞(現在の秋田魁新報)の創刊にかかわり、その編集長(のち主幹)となって明治初年の秋田言論界をリードした。